秩父鉄道の車両たち その19 パレオエクスプレスの12系客車
SLパレオエクスプレスには4両の12系客車が連結されています。
号車番号は三峰口方から1号車となっており、
1号車 - スハフ12 102(元スハフ12 152)
2号車 - オハ12 112(元オハ12 32)
3号車 - オハ12 111(元オハ12 34)
4号車 - スハフ12 101(元スハフ12 149)
12系客車は1969年から1978年にかけ、603両製造されましたが、1959年にナハ11形が少数製造されて以来、10年ぶりに大量の座席客車が製造されるに至った理由について振り返ってみようと思います。
2010/4/25 三峰口
1957年度より開始された国鉄第一次5か年計画では動力車の無煙化と動力分散化による列車の速度向上が目標として掲げられたため、在来車の近代化改造はなされたものの、車両の平均年齢は上がる一方でした。そんな中、客車列車の特徴を生かすことも継続的に必要と当時は考えられていました。その理由として
1)蒸気機関車の減少で客車列車の無煙化割合が高くなってきたこと
2)貨物用機関車の速度性能が向上し、客車列車に間合い使用が可能となってきたこと
3)機関車経費、保守経費が技術の向上で下がり、動力集中が有利となる限界両数が低下してきたこと
4)波動用には製作単価の低い客車を充当するのが得策であり、電化・非電化区間を直通できる長距離列車には客車の特徴が生かせること
5)波動輸送用であっても、サービス上、車内設備や走行性能は電車・気動車に匹敵する客車が必要ではと考えられた。
さらに1970年3月から9月まで大阪で日本万国博覧会が開催されることとなり、その輸送のため臨時列車・団体列車等の大量の波動輸送の需要が差し迫っていたことが製造の理由となりました。
2021/5/15 御花畑~影森
車体は在来客車の設計概念を脱却し、急行型電車の設計を踏襲し、車体幅は従来の2803mmから2903mmに拡大、車長は19.5mから20.8mとしました。これにより座席間隔も1470mmから1580mmに広げられました。
台車は20系で実績のあるTR55の改良タイプで新開発のTR217空気バネ台車としました。
制動装置はCL形応荷重機構付き自動ブレーキ装置を採用、ブレーキシューはレジンシューになりました。自動ブレーキ機構は三圧式制御弁に変更され、最高速度は110km/hとなりました。
客用扉は国鉄客車として初めて自動扉が採用され、電車・気動車並みの安全性が確保されました。
側窓は二段式ユニット窓となりました。
普通車のみの製造とし、従来客車との混結も想定し、蒸気暖房の引き通し管と電気暖房の引き通し線を装備しました。
1968年度第4次債務負担でオハ12形1~20、スハフ12形1~8が試作的に製造されました。スハフからの給電は自車も含め5両の給電が可能でした。製造は新潟鐵工所と富士重工業が担当しました。1969年度民有車両予算で量産車の製造が開始され、スハフの給電方式は6両までとなり、電源エンジンは過給機付きで出力が20%アップされました。さらにスハフ12形から電源セットを外し、床下準備工事対応としたオハフ13形が加わり、オハ12形21~86、スハフ12形9~25、オハフ13形1~17が製造されました。1969年度本予算からは日本車輛製造も製造に加わりました。1969度第2次債務負担、1970年度第1次債務負担、1976年度本予算 、1977年度本予算、1977年度第1次債務負担 、1977年度第2次債務負担で最終的にオハ12形374両(1~374)、スハフ12形153両(1~90,101~163、101番への変更は1976年度本予算で製造された車両からディーゼル発電機の容量増大が行われたため)、オハフ13形76両(1~76)が製造されました。
最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。
最近のコメント