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2012年10月25日 (木)

1974年秋 九州一周 4 鹿児島から宮崎へ

10月1日 朝8時過ぎに、西鹿児島駅に行くと驚いたことに東京行きの寝台特急「富士」が既に入線して出発準備を整えていました。発車時刻を確認すると9:40とのことで、東京到着は翌日の10:10とのこと。まさに1974年でも日豊本線周りの特急は東京まで1日以上かかっていたのですね。

<<西鹿児島駅>>
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西鹿児島駅で出発準備する寝台特急「富士」8レ東京行き 

日豊本線は1974年3月に南宮崎まで電化されましたが、南宮崎~鹿児島間は依然非電化であったためDF50が宮崎~西鹿児島間を担当していました。

<<宮崎駅>>

Df50_534_741001_1西鹿児島から寝台特急「富士」を牽引して宮崎に到着したDF50534号機

宮崎駅で別府に向かう列車の出発を待つ間に西鹿児島からの「富士」が到着し、機関車をDF50からED76にかえて出発して行きました。4月のダイヤ改正で南宮崎までは電化されていましたが、南宮崎から鹿児島間は非電化で同区間が電化されるのは1979.9.25のことです。

<寝台特急「富士」の歴史>

1963年6月1日:寝台特急「みずほ」に20系客車を充当。同時に大分駅発着編成を連結する。 このとき20系客車を使用するにあたり初めての二階建て列車として運用された。このときに初めて付属編成分割後の電源供給にマヤ20が登場しました。マヤ20はこの旅行の鳥栖~長崎間の特急「はやぶさ」乗車の際にお世話になりました。

1964年10月1日:特急「みずほ」の大分駅発着編成の乗り入れを終了。代わりに東京駅 - 大分駅間を運行する寝台特急列車として「富士」の運行を新たに開始。「富士」には20系客車を使用する。 このとき「富士」の一部客車は下関駅で増解結を行い、大分駅乗り入れ編成は従前の「みずほ」と同じく8両であった。

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品川から牽引機EF65500にエスコートされて東京駅11番線を通過し,神田側に引き上げる20系客車
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神田側で機回しが行われ、13番線に進入してくるEF65530号機 この頃のHMは丸形
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13番線に据え付けられ発車を待つ20系客車

1965年10月1日:特急「富士」、運行区間を日豊本線経由で西鹿児島駅まで延長。 東京駅 - 西鹿児島駅間1,574.2kmを実に24時間以上かけて運行することから同じ区間を走る「高千穂」とならび、日本最長運転の定期旅客列車となった。なお、この日本記録は「高千穂」が1975年3月10日に廃止され、「富士」が1980年10月1日に運行区間を短縮して以降破られていない。

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一方、上り列車は東京到着後牽引機EF65540が11番を介して機回し

1968年10月1日
:「富士」は、下関駅発着の編成を大分駅発着に変更。

1975年3月10日:「富士」、使用車両を24系24形客車に変更。
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24系24形客車が「富士」「はやぶさ」「出雲」を担当したのは僅か1年半で、客車は青森に転属し、これら3列車は25形化されました。

1976年10月1日
:「富士」の使用車両を24系24形客車から24系25形客車に置き換え。「はやぶさ」「出雲」とともに東京発着の定期寝台特急初の2段B寝台車を投入。同時に新形の1人用個室A寝台、「オロネ25形車両」も連結される。
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二段ハネの銀帯客車で東京を目指す特急「富士」 保土ヶ谷
カニ24は2次車の9 - 25で、妻面裾部のマイクロスカートが省略されている。

1978年2月1日
:「あさかぜ」1・4号(いわゆる博多「あさかぜ」)の24系25形化に伴い食堂車の運用を捻出するため、食堂車は大分回転の付属編成となる。同様の措置は共通運用だった「はやぶさ」「出雲」でも行われた。
この年、東京駅 - 下関駅間の牽引機関車をEF65形の500番台(P形)から1000番台7次車に変更。
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牽引機の交替 EF65 1112号機

1979年9月25日
:日豊本線全線電化により宮崎駅 - 西鹿児島駅間の牽引機であるDF50形ディーゼル機関車による牽引を廃止。ED76による牽引は終点の西鹿児島駅まで延長された。

1980年10月1日:このときのダイヤ改正で、利用者の減少により運行区間を宮崎駅までに短縮。これにより、日本最長距離特急の座を「はやぶさ」に譲る。

1984年2月1日:廃止されていた九州内のヘッドマーク取り付けが復活。

10月19日:西明石駅を通過中の上り「富士」が脱線してホームに激突、32名が負傷するいわゆる西明石駅列車脱線事故が発生。

1985年3月14日:東京駅 - 下関駅間の牽引機をEF66形に変更。また、これを機に「富士」のヘッドマークを円形から戦前の「富士」同様の山型のものに変更した。

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EF66のブルトレ牽引はまさに鉄道ファンの夢でした。EF6642号機

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そして九州におけるHMの復活も極めて嬉しいニュースでした。ED7622

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大分における増結風景 1985/4 ED7616

1986年3月3日
:「富士」に4人用B個室寝台「カルテット」(オハネ24形700番台)を連結。
11月1日:「富士」の客車の受持ちを品川運転所から鹿児島運転所(基本編成)、熊本運転所(付属編成)へ変更。「はやぶさ」と共通編成となり、ロビーカーを連結開始。「カルテット」は「あさかぜ1・4号」へ変更。

1989年3月11日:「富士」に1人用B個室寝台「ソロ」(オハネ25形1000番台)を連結。

1990年3月10日:「富士」の運転区間を南宮崎駅まで1駅延長。

1991年3月16日:東日本旅客鉄道(JR東日本)東京車掌区が「成田エクスプレス」運行開始に伴う人員確保のため「富士」からの乗務を降り、JR九州大分車掌区(現在の大分鉄道事業部大分車掌センター)が全区間を担当することになる。

1993年3月18日:「富士」食堂車が営業を売店営業に差し替え。また、下り列車の東京 - 小倉間のダイヤが「はやぶさ」と差し替えられて「富士」の南宮崎駅到着が1時間9分繰り上がった。

1997年11月29日:「富士」運行区間を大分駅までに短縮。また、食堂車であったオシ24形の連結終了。 終点大分駅到着後編成を2分割にする作業を実施していた。これは、折返しの清掃等を行う大分運転所がフル編成で入区できないためであり、上りの東京行きでも大分駅でフル編成にする作業を実施していた。

1999年12月4日:寝台特急列車の系統整理により、東京駅よりJR九州管内を結ぶ寝台特急列車は「さくら」「はやぶさ」と「富士」の2往復のみとなった。また、「富士」の担当車掌区がJR西日本下関乗務員センターに変更。ただし、上りの広島 → 東京間のみ広島車掌区が担当した。

「さくら」は長崎鉄道事業部長崎運輸センター所属の14系客車の6両編成、「はやぶさ」は熊本鉄道事業部熊本運輸センター所属の24系客車9両となり、東京駅 - 鳥栖駅間で「はやぶさ」「さくら」として併結運転を行った。
従来「はやぶさ」「富士」は共通運用であったため、「富士」編成は「はやぶさ」編成の24系25形客車9両と「さくら」編成の14系客車6両を併結した15両編成となった。
また、編成単位での14系客車と24系客車の併結運転は史上初であり、サービス用電源はそれぞれ各編成の連結する電源車(カニ24形及びスハネフ14・15形)から供給された。なお、14系客車には非常時等に備え、併結運転対応工事が施された。
6両編成となった「さくら」には、従前「はやぶさ」及び「富士」に連結されていたオハネ25形1000番台(1人用B個室寝台車「ソロ」)を改造したオハネ15形2000番台が連結されたが、開放型A寝台車(オロネ14形)と食堂車(オシ14形)の連結は終了した。オロネ14形、オシ14形の運用離脱により、残る14系14形はスハネフ14形のみとなり、これ以降、24系25形からの編入改造車を含む14系15形が主体の編成となった。
「富士」・「はやぶさ」の24系編成には引き続き個室A寝台車「シングルデラックス」・「ロビーカー」が連結されたが、「ソロ」については前述の通り改造の上で14系編成に移された。また、オハネ25形2両をオハネ15形1100番台に追加改造し、14系編成に組み込んだ。

2005年3月1日:「はやぶさ」に併結していた「さくら」が廃止、同時に「富士」は「はやぶさ」との併結列車となり使用車両は全車14系客車となった。これに伴い「ロビーカー」と荷物車の連結が無くなり、小荷物輸送の「ブルートレイン便」の取扱いも終了した。

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14系にオロネ15 3000をつないだ編成で日豊本線に入って行くED7666牽引「富士」 2005/12/9
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15形が組み込まれた特急「はやぶさ・富士」編成 2007/2/24 川崎 
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EF66 46号機牽引の「はやぶさ・富士」が下関に到着 2007/12/17

2009年3月13日
:この日に始発駅を発車する列車をもって「富士」「はやぶさ」ともに廃止。これにより、関門トンネルを越えて運行する定期旅客優等列車自体が運行されなくなった。

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2007/12/18 門司駅での分離後の列車発車案内 編成両数の短さが時代を語っていました。

こちらは一足先に西鹿児島を出発する急行「青島」404D 8:33発で鹿児島を離れ、宮崎に向かいました。途中、青井岳などの峠越えがあり、また乗客数も結構多く、暑い車内だったのを記憶しています。宮崎には11:00着で、地図的には結構近いようで時間は2時間半もかかっていました。宮崎駅ではホームから機関区が見え、C5557号機やC11195号機が元気に煙を上げていました。

<寝台特急「富士」 西明石駅列車脱線事故>

1984年10月19日1時48分頃、西明石駅を通過中の宮崎発東京行寝台特急「富士」(EF65形機関車+24系25形客車14両)の先頭客車(13号車)が脱線してホームに激突し、車体側面下部が大きく削り取られて大破した。最後尾の電源車を除く他の12両の客車もすべて脱線した。負傷者32名。

当日は西明石駅構内で保守作業が計画されており、「富士」の通過ルートは通常の列車線(山側)ではなく電車線(海側)に変更されており、機関士及び機関助士にその旨点呼で伝達されていた。しかし、機関士はこの伝達事項を忘れており、機関助士も駅構内進入時に機関士に注意喚起することがなかった(当時、機関助士が機関士に注意を喚起すると「余計なことをするな」と恫喝されることがあり、この機関助士はそれを恐れて何もしなかったと証言している)。結果、構内姫路側にある電車線への分岐器の分岐側速度制限が60km/hであるところを通常の100km/hの速度のままで通過したため、遠心力により軽量の客車が大きく左傾して脱線し、そのままホームに激突した。事故が発生した時間帯は深夜で、ホームに衝突した部分はB寝台の通路側であったため就寝中の乗客への直撃は免れ、負傷者のみで済んだ。

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