1975/1 名古屋へ 2 名カキの東海道ローカル
東海道線で活躍していた大垣区のクハ86の三枚窓の基本タイプ、湘南形、全金製の300番台の写真と今では存在すら記憶から遠ざかってしまったクハ164形式などを紹介したく思います。
<80系電車>
国鉄80系電車は、国鉄が1949年に開発した長距離列車用電車形式群の総称です。
いわゆる「湘南電車」の初代車両であり、太平洋戦争後に東海道本線東京地区普通列車をラッシュ対策のために電気機関車牽引の客車列車からの置換えを目的に、当初から長大編成組成を前提として開発・設計されたものです。
それまでは客車列車を輸送の本流として扱い、電車は補助的なものと捉えていた国鉄が、電車による長距離大量輸送に耐えることを実証した車両で、走行性能で大きく凌駕し、居住面でも初めて肩を並べました。結果的に日本の鉄道(特に国鉄)を世界に例のない「電車王国」とするきっかけとなり基本構想は東海道新幹線の実現にまで影響を及ぼしました。
基本的なメカニズムは大正時代から引き継がれて来た国鉄電車の伝統的設計の延長上にありましたが、内容的には大幅な強化・刷新が図られ70系・72系全金属車体車とともに、あらゆる面から「国鉄における吊り掛け駆動方式旧形電車の集大成」と呼ばれる存在となりました。
1950年から1957年までの8年間にわたり、大小の改良を重ねつつ合計652両が製造され、普通列車・準急列車用として本州各地の直流電化区間で広く運用されましたが、1983年までに営業運転を終了し形式消滅しました。
<車体>
基本的共通事項として、乗降を円滑にするため幅1m(サロ85形は700mm)の片開き片側2ドア客用扉と車端部デッキを備え、を採用しました。
当初は台枠構造の簡略化で軽量化を図った程度で、初期の半鋼製車では窓の高さが客車や従来の電車よりも若干高い設計でした。しかし、引き続き改良も実施されており、通風器が初期車での大型砲金製風量調節機能付から、2次車では製造コスト低減のため皿形の簡素なものになるなどの変更点もあります。
なお、設計変更も含む大改良のため以下の番台区分も実施されました。
100番台(クハ86形・サハ87形)・200番台(モハ80形) 1956年の東北・高崎線用増備車。 耐寒設計の導入
座席間隔と座席幅を拡大
側窓枠を木製からアルミ合金製に変更
サロ85形は番台区分未実施だが1段下降窓に変更(85032 - 85035)
300番台 1957年・1958年製の最終増備車。 セミ・モノコック構造の全金属車体の採用
車体側面窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化
内装の完全全金属化と当初から蛍光灯照明を採用
サロ85形に専務車掌室・車内販売用控室の設置
<台車・主電動機・主制御器>
台車・主電動機・主制御器などは、1947年以降も戦時設計ながら戦後も大量増備されていた63系通勤形電車に試験搭載され改良を重ねて来た新技術が活かされています。
大出力主電動機搭載の長所を活かし、当初は編成内MT比2:3で起動加速度1.25km/h/sとする経済編成を基本とし、通常運転の最高速度は95km/h(後年は幹線区で100km/h)・設計最高速度は110km/hとしました。なお1955年には東海道本線での速度試験でMT比4:1の特別編成が、125km/hの最高速度を記録しています。
当時の国鉄電車用として最強であるMT40を搭載しました。
戦前からの標準型のMT30をベースに絶縁強化・冷却風洞装備などの改良を施したMT40は、端子電圧差を考慮すると実質的な性能はMT30とほぼ同等ですが、冷却機構の強化などで信頼性が向上していました。
歯車比は同じMT40を装架する通勤形電車である63系の2.87に対し高速性能を重視した2.56とし、1時間定格速度は全界磁時56.0km/h・60%弱界磁で70.0km/hとなりました。
1949年度製造の初期形では設計開発が間に合わず、戦前から長らく国鉄標準機種であったCS5A電空カム軸式制御装置を暫定的に搭載しました。
1951年度製造車からは、63系での試作開発結果を受けて開発されたCS10電動カム軸式制御装置に変更されました。
クハ86形(クハ86001- 86080・86082・86084・86100 - 86142・86300 - 86373・86375) トイレ付の3等制御車。定員は基本番台が79人、100番台と300番台が76人。
1949年末から製造されたクハ86001 - 86020は運転台正面が従来のモハユニ61形などのデザインを踏襲した非貫通3枚窓構成で落成しました。クハ86015は、1959年に衝突事故後復旧工事で正面左右の窓がパノラミックウインドウに施工された異端車です。<追記>同車は約10年後の1969年6月にはオリジナルスタイルに再改造され、1978年1月17日に廃車となっています。
1952年度製造のクハ86061- は正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓となったほか、80136 - 80140の偶数車はMGを搭載。また1957年以降の製造車では両渡り構造を採用しました。
クハ86 300番台車 全金属製
大垣電車区は田町区、宮原区の1950年に続いて1955年から80系が配置されており、1977年に80系の配置は終了しました。80系電車の廃車は1976年度の大垣区のクハ86 004 049 から開始されており、1975年時点では全車健在だったのですね。
<165系の異端車クハ164>
1965年の山陽準急増発で下関運転所(現・下関総合車両所)所属車は165系と153系を混用していましたが、165系編成の先頭車にクハ153形を組み込むと勾配抑速ブレーキが使えなくなるという問題があり、車種統一も兼ねて1966年にクハ153形0番台車8両を幡生工場で改造施工されました。
主幹制御器をMC37A形に、制御用ジャンパ連結器をKE57A形からKE64形に交換。
外観はクハ153形と変わらず種車が低運転台構造の初期車のため塗装も153系時代のまま正面に緑が回らない塗り分けの異端車となりました。
山陽新幹線岡山暫定開業後の転出入では以下の転出が行われた。
1・2→大垣電車区(現・大垣車両区)
3・4→岡山電車区→大垣電車区
1 - 4は1974年から1975年にかけて宮原へ再転出。本系列で唯一非冷房のまま1979年 - 1980年に廃車。
5 - 8→宮原電車区(現・網干総合車両所宮原支所)
1972年に5 - 7が吹田工場(現・吹田総合車両所)で、1976年に8が長野工場(現・長野総合車両センター)で冷房化改造を施工されたほか、5・7は前面強化と前照灯のシールドビーム化改造も施工。
宮原所属車は1973年に神領電車区に転出し、中央西線の「きそ」などで運用された後の1975年に大垣に再転出。「東海」「伊那」「富士川」などで運用されたが1983年に廃車されて形式消滅した。 クハ153-1・2・17 - 20・25・26→クハ164-1 - 8
(Wikipediaの記事を参考にしました)。
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