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2012年11月30日 (金)

1976/3 関西へ 3 阪和線2 新性能電車編

阪和線の続きで、今回は新性能電車で行きます。

阪和線の歴史によると阪和線から旧国が消えたのは1977年4月のことで、今回の76年3月の訪問は、ぎりぎり最後の瞬間に間に合ったという感じでした。

ネットサーチで偶然見つけた「国電写真館 4Doors」さんのサイトの情報によると、 ”阪和線では1968(昭和43)年から103系が使用されている。関西地区では103系の初投入線区であった。”とのことですので既に44年間に渡って103系は同線で働いているのですね。

今でもその姿が見られる車輌なので、あまり写真を載せても意味は無いかも知れませんが、非冷房、未更新の車輌などを中心に、

103_801213

非冷房編成 天王寺にて 1980/12/13
103_801213_2改造冷房編成 天王寺にて 1980/12/13
103_801213_3高運転台編成 1980/12/13 鳳

103_801213_4羽衣支線の103系 1980/12/13 鳳

いずれも1976年3月ではなく、1980年12月の撮影ですが、両年の間で劇的変化は無かったのではと思います。

続いて「新快速」の113系です。こちらは1972年3月15日の改正で天王寺~和歌山間に設定され、途中停車駅は鳳のみというかなり思い切った列車で、同じ改正で東海道・山陽に設定された新快速ブルーライナーと同じカラーリングでぶっ飛ばしていた電車です。
113_7603_6ちょっと色がブルーからグリーンに変色していますが熊取を通過する新快速
113_7603_3こちらは鳳を通過する新快速

これらは新造車ではなかったものの阪和線では初めての冷房車であったそうです。さらに鳳電車区には関西線用の通称「春日塗り」の新快速も配置されていたため、阪和線内で赤い新快速も見ることが出来ました。
113_7603_4
赤い塗色は春日大社の鳥居の赤ということで通称「春日塗り」の113系 和歌山

このHMは上に折り曲げると新快速のマークが出てきたようです。

113系のブルーライナー塗色は「阪和色」(半賄賂と変換されて笑ってしまいましたが)として定着して2012年4月の団臨運転まで残ったようですが、新快速は客足が伸びず、1977年には和泉砂川、熊取を停車駅に追加したものの効果があまり見られず、紀勢本線電化の1978年10月2日のダイヤ改正で快速に統合される形で廃止されてしまいました。

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2012年11月29日 (木)

1976/3 関西へ 2 阪和線1 旧形国電編

片町線の次は阪和線ですが、車種も豊富ですので、数回に分けて書きます。

今回は阪和線の歴史と旧形国電で行きます。

1929年7月18日:阪和電気鉄道により阪和天王寺駅 - 和泉府中駅間(20.92km)、支線 鳳駅 - 阪和浜寺駅間(1.61km)が開業。当初から全線複線電化。
1940年12月1日:阪和電気鉄道が南海鉄道に吸収合併され、同社の山手線となる。
1944年5月1日:国有化され阪和線になる。
1950年6月1日:南紀の海の幸を輸送する急行貨物列車「銀鱗号」が天王寺駅 - 串本駅間で運転開始 10月1日:流電ことモハ52形電車によって特急料金不要の特急電車が復活する(2往復、天王寺駅 - 東和歌山駅間の所要時間55分)。
1955年12月1日:70系が運用開始。
1965年3月1日:阪和線初の有料特急列車として、特急「くろしお」、特急「あすか」が運転開始。
1967年10月1日:特急「あすか」が廃止。
1972年3月15日:阪和線で新快速が運転開始。途中停車駅は鳳駅のみで、阪和間の所要時間が戦前の超特急と同じレベルの45分になる。
1977年3月27日:羽衣線の運用車両を旧型車両から103系に置き換え。4月14日:この日限りで旧形電車の運行を終了。最後まで残ったのは70系4両とモハ72の2両であった。
1978年10月2日:新快速が廃止され、天王寺駅 - 御坊駅・紀伊田辺駅間を直通する快速列車になる。紀勢本線(和歌山駅 - 新宮駅間)の電化に伴い特急「くろしお」が電車化(381系)。なお、鳳駅以南の架線を振り子対応とするが、この改正では所要時間短縮を余裕時分に向けたので、阪和間の所要時間は、戦前の超特急と同じである。
1985年3月13日:急行「きのくに」が廃止。
1987年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が杉本町駅 - 和歌山駅間の第二種鉄道事業者となる。
1989年7月22日:天王寺駅構内の阪和線から大和路線への渡り線が開通し、特急「くろしお」が環状線を介して新大阪駅・京都駅まで直通運転を開始。特急「スーパーくろしお」が運転開始。
1994年4月1日:223系電車が運転開始。9月4日:関西国際空港開港に伴い、特急「はるか」(281系)、関空快速が運転開始。
1996年3月16日:鳳駅以南の最高速度が120km/hに緩和され、最速列車は戦前に運転されていた超特急の所要時間を更新する39分で阪和間を走破する(表定速度94.3km/h)。7月31日:283系電車が特急「スーパーくろしお オーシャンアロー」として運転開始。
2003年4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(杉本町駅 - 和歌山駅間)が廃止。
2011年12月11日:113系4両編成が阪和線の運用を終了(2両編成1往復は引き続き運転)。
2012年3月17日:ダイヤ改正により次のように変更。 紀勢本線の特急「オーシャンアロー」「スーパーくろしお」「くろしお」がすべて「くろしお」に列車名統一。特急「くろしお」に287系電車が投入され運転開始。朝ラッシュ時の一部の区間快速をのぞき、すべての快速が223系・225系に統一。

例によってWikipediaの記事から抜粋しておりますが、昨日の片町線に較べると路線の成り立ちは極めてシンプルですが、優等列車の種類は豊富です。中でも2年7ヶ月で廃止された「あすか」の運転が印象的です。
60150_7603クモハ60 157

モハ41形の電動機を交換しクモハ60151~に編入したグループで、関西仕様の特徴である運転台の球形通風器の位置から157と推察されます。(旧形国電の記録さまのサイト
http://www.geocities.jp/h6feet/top.html の写真から)
60_7603クモハ60 和歌山 半流スタイル

当時の鳳区(天オト)のクモハ60の配置は
001 004 006 009 023 045 048 049 051 053 057 059 061 072 077 081 083 087 088 106 119 151 153 157 でした。55800_760300
クハ55 800番台 東岸和田

800番台と推定した根拠は3と4に分かれて配置されているベンチレーターです。旧形国電の記録さまのサイトの情報から。
55_760300_2クハ55  和歌山

クハ55の配置は
001 007 031 034 047 055 060 062 071 072 303 305 309 311 312 313 332 336 338 800 802 804 806 でした。

73_7603_2

クモハ73 東岸和田?

写真はぶれていますが、よく見ると正面布抑えのない異端車のようです。旧形国電の記録さまのサイトの情報から、619 621 623 のどれかではないかと思われます。

クモハ73の配置は 181 301 605 611 613  619 621 623 でした。

79_7603_2

クハ79 300番台 364もしくは382

形態からすると旧形国電さまのサイトの情報から
「昭和29年製以降からは正式に前面窓傾斜タイプとなり窓上下の帯も廃止されました。354~420の偶数番号に加えて301~387の奇数番号車が登場しています。」に該当します。

クハ79の配置は 142 306 364 382でした。

これらの写真から、当時のオレンジ色旧国は天王寺<クモハ+クハ>和歌山といった向きで運用されていたようですね。

76_7603_3クハ76 区間快速 和歌山
76_7603_2クハ76
 区間快速 和歌山

76
クハ76 鳳

運行窓の形態から全て300番台と推察されます。

クハ76の配置は 070 079 083 090 094 307 308 309 310 311 312 313 314 315 でした。

最後に1950年10月から走り出したモハ52の現在、保存されている姿を。
52001_101205クモハ52001 2010/12/5 吹田工場玄関前で写す

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2012年11月28日 (水)

1976/3 関西へ 1 片町線

これまでの関西での鉄道撮影として、1974年9月~10月の九州一周旅行の前後の京都駅、梅小路機関車館(まだ紹介していませんが)、大阪駅、天王寺駅(痛恨のカメラ裏蓋開け)での写真撮影と1975年3月の関門での撮影帰りに大阪駅での撮影を経験していました。当時の関西には東海道緩行線、片町線、阪和線にまだ旧形国電が走っており、しかも片町線や阪和線は独特のオレンジの塗装を纏っていました。さらに阪和線には紀勢本線直通の特急「くろしお」がキハ81形を含む80系気動車で運行され、名物電機EF52は1975年3月をもって引退していましたが、ED60,ED61,EF15,EF58による貨物列車も走っていました。そこで今回の関西撮影旅行では大阪駅より南のこれらの路線で活躍していた車輌撮影をメインの目的と致しました。

まず今回は片町線の旧国の写真を示しつつ、片町線~学研都市線の歴史について見てみたく思います。

 

1895年8月22日:浪速鉄道により片町駅 - 四条畷駅間(12.98km)が開業。全線単線。
1897年2月9日:浪速鉄道が関西鉄道に路線を譲渡。
1898年4月12日:四条畷駅 - 長尾駅間(13.34km)が延伸開業。6月4日:長尾 - 新木津間(18.17km)が延伸開業。9月16日:木津駅 - 新木津駅間(0.58km)が延伸開業し、現在の奈良線である奈良鉄道線に接続。起点を片町駅から木津駅に変更。11月8日:支線 放出駅 - 寝屋川聯絡所間(2.31km)が開業。11月18日:加茂駅 - 新木津駅間(6.12km)、寝屋川聯絡所 - 網島駅間(1.73km)が延伸開業。名古屋駅 - 新木津駅 - 網島駅間が本線となり、同区間で直通列車を運転 開始。支線となった放出駅 - 片町駅間の旅客営業廃止。
1900年6月6日:大阪鉄道の奈良駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間が本線に編入され、加茂駅 - 新木津駅 - 網島駅間は支線になる。
1901年1月18日:支線 新木津駅 - 木津駅間が休止。12月21日:網島駅 - 桜ノ宮駅間(1.15km)が開業。
1905年1月1日:放出駅 - 片町駅間の旅客営業再開。
1907年8月21日:加茂駅 - 新木津駅間(6.12km)休止。
1907年10月1日:関西鉄道が国有化。11月1日:加茂駅 - 新木津駅間(0.64km)が正式に廃止。
1909年10月12日:国有鉄道線路名称制定。木津駅 - 桜ノ宮駅間を桜ノ宮線、放出駅 - 片町駅間を片町線とする。
1913年11月15日:放出駅 - 桜ノ宮駅間(4.99km)が廃止。木津駅 - 片町駅間を片町線とする。
1927年12月10日:貨物支線 京橋駅 - 淀川駅間(1.93km)、放出駅 - 淀川駅間(4.83km)が開業し貨物駅として淀川駅が開業。
1929年3月15日:貨物支線 淀川駅 - 千里信号場 - 吹田駅間(9.98km)が開業。
1931年8月10日:貨物支線 放出駅 - 正覚寺信号場 - 平野駅間 (8.4km)、放出駅 - 吹田駅間 (10.7km) が開業。
1939年10月15日:貨物支線 放出駅 - 竜華操車場 - 八尾駅間 (10.4km) が開業。
1951年11月10日:奈良駅 - 長尾駅間で気動車運転開始。
1954年:津田駅 - 禁野火薬庫と星田駅 - 香里製造所の専用線(禁野側線・香里側線)が廃止。
1961年4月25日:貨物支線 京橋駅 - 淀川駅間 (1.8km) が廃止(ただし、大阪環状線列車の淀川電車区への入出区のために、線路自体は存続)。
1972年6月30日:祝園弾薬庫線(川西側線)が廃止。
1976年:101系電車が森ノ宮電車区から転入し、片町線で運用開始。
1977年3月:73系電車の運用終了
1979年:103系6両編成が新製投入される。また、101系5両編成を6両編成に増強
1982年11月15日:貨物支線 放出駅 - 淀川駅間 (4.8km)、淀川駅 - 吹田駅間 (10.0km) が廃止(放出駅 - 鴫野駅間、巽信号場 - 吹田駅間は現存区間と重複)。ただし、片町線電車の淀川電車区への出入区線として、線路は淀川電車区移転まで存続。淀川駅が廃止されて淀川信号場になる。
1983年3月21日:103系が明石電車区から転属(1984年9月30日に完了)。
1985年3月14日:片町線の車両基地である淀川電車区が、大阪市都島区中野町から東大阪市川俣(森ノ宮電車区放出派出所)に移転し、放出駅 - 淀川駅間、京橋駅 - 淀川駅間の淀川電車区への出入区線が廃止。
1987年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が継承。日本貨物鉄道が一部区間の第二種鉄道事業者になる。木津駅 - 徳庵駅間の貨物営業廃止。放出駅 - 八尾駅間、鴫野駅 - 吹田駅間が戸籍上旅客営業開始。
1988年3月13日:学研都市線の愛称使用開始。
1989年3月11日:木津駅 - 長尾駅間が電化。大住駅 - 長尾駅間が経路変更で0.1km短縮、同区間に松井山手駅が開業。松井山手駅 - 長尾駅間複線化。快速列車が増発。
6月頃:片町線での101系電車運用が終了(7両編成を6両編成化した上で森ノ宮電車区に転属し、桜島線や大阪環状線で1991年まで運用)。
1991年4月30日:207系電車が営業運転開始
1996年9月:103系電車の運用終了(使用されていた103系は1991年以降、森ノ宮電車区・奈良電車区・日根野電車区などに転属)。
1997年3月8日:JR東西線開業により、福知山線(JR宝塚線)・東海道本線(JR神戸線)との直通運転が開始。京橋駅 - 片町駅間 (0.5km) が廃止。片町駅が廃止。
2008年3月14日:321系の営業運転開始。3月15日:おおさか東線開業のため、貨物支線 放出駅 - 八尾駅間 (10.4km) が廃止。平野駅側の貨物支線は片町線のまま存続するため、正覚寺信号場 - 平野駅間は片町線の支線になる。

これらの内容はWikipediaの記事から抜粋していますが、新たに知ったことは片町線の始点は木津駅であって、大阪側ではないのですね。さらに放出から桜ノ宮に至る線がかつては存在しており、そちらが本線の時代もあったのですね。

私が初めて片町線を訪れた1976年3月は、73系をはじめとするオレンジ色の旧形国電が最後の活躍をしている頃で、同年に導入された101系の姿は当時はまだ見かけませんでした。

これら旧形国電にも朱色1号(オレンジバーミリオン)が塗られた訳は、鉄道ピクトリアル誌2002年11月号101系特集の記事によりますと、中央線快速でデビューした101系の朱色1号は新時代到来を告げるシンボルカラーとしてインパクトを与えるものであり、一方、大阪の私鉄はどんどんカラフルな車輌を登場させており、大阪鉄道管理局もこの新性能電車の配備を心待ちにしていたそうですが、なかなか回って来なかったので、しびれを切らして葡萄色2号の在来車の朱色1号を塗ってしまったそうです。最初は大阪環状線の前身の城東線や西成線の車輌に塗ったようですが、利用者の評判はいざ知らず、管理局側はえらく気に入ったようで片町線や天王寺管理局の阪和線車輌にまで波及していったようです。

この旅行では京橋駅と放出駅で写真を撮っています。

京橋駅の歴史をWikipediaの記事で見ると、

当駅がある地に鉄道が開通したのは、1895年8月に浪速鉄道が現在の片町線となる片町駅 - 四条畷駅間を開業してからであるが、開業当時は駅が設置されていなかった。当駅は、同年10月に大阪鉄道 (初代) が現在の大阪環状線となる天王寺駅 - 大阪駅(当時は梅田駅)間の鉄道を開業させた際に浪速鉄道との交差地点に設けられたのが始まりである。

両路線とも、関西鉄道を経て国有化された後、1912年、片町線片町駅に京橋口乗降場が設けられ、城東線(現在の大阪環状線)の京橋駅と連絡するようになる。これが翌1913年に当駅の片町線乗り場となった。

長らく片町線の終点で当駅の西隣にあった片町駅は、1997年のJR東西線の開業に伴い廃止され、以来当駅が片町線の終点駅・JR東西線の起点駅となった。

とのことで、片町線開業当初は京橋駅は無かったのですね。
32001_2
クモハ32001

元はモハ42007として2扉車でしたが、1944年に4扉に改造され、1953年の改番でクモハ32形になったそうです。

79054

クハ79054

1976年当時クハ79の最若番で元は2扉クロスシートのクハ58024、4扉改造でクハ85にさらに改番でクハ79030番台へ

79

クハ79 438 440 454 458 462 464 474 のどれか
旧形国電さまのサイトの情報では「昭和31年製389~467(奇数)と422~488(偶数)は前照灯が埋込み式です。」に分類されるタイプです。

続いて放出(はなてん)駅です。さすがにこの駅名、初めての人間には読めないと思います。

放出駅の歴史によると、

2002年春までの旧地上駅舎時代は駅北側にのみ改札口があり、旅客線2面3線とその南側に貨物線が数本あった。1番のりばが単式ホーム(改札口に直結)、2・3番のりばは島式ホームであり、3番のりばは主に当駅を始発・終着とする列車と貨物列車が使用していた。

2002年夏に南北自由通路を兼ねた橋上駅舎が完成してからは南側にも出口が設けられ、貨物線が廃止された上で旅客線の線路が4本に増やされ現在の2面4線となり、1番のりばを上り本線、2番のりばを上り副本線、3番のりばを下り本線、4番のりばを下り副本線とした駅となり、一部時間帯に快速列車と各駅停車の緩急接続が行われていたが、2006年3月18日のダイヤ改正を機に緩急接続がなくなり、住道駅で行うように変更された。また、おおさか東線の開業を控えて分岐器の交換が行われ、2007年4月23日から4番のりばが下り本線、3番のりばが下り副本線に入れ替えられた。これに伴い、徳庵駅から当駅へ向かう京橋方面行きの一部区間(森ノ宮電車区放出派出所付近)が高架線となった(なおこの間、2・3番のりばの列車は早朝の一部のみが停車していた)。

2008年3月15日におおさか東線の当駅 - 久宝寺駅が部分開業したことにより、現在は主に外側2線(1・4番のりば)を学研都市線の列車が、内側2線(2・3番のりば)をおおさか東線の列車が使用する形になっている。

55_7603_2

クハ55300

当時クハ55形は035と300が配置されていましたが、形態から300番台として1959年から制御車不足を補うためサハ57形に運転室取付け改造を施したタイプと推察されます。

73_7603
クモハ73 1番線から出発して行く四条畷方面行きですね。
79300ii_7603
クハ79
 2番ホームから写した四条畷方面行きですね。
こちらのクハ79は屋根の高さから300番台、307もしくは330?

79920

クハ79 920番台 

1番ホームに入線する四条畷方面行きですね。これらの写真から2002年までの駅の構造がよく分かります。

車輌の形態の鑑定は旧形国電の記録さまのサイト
http://www.geocities.jp/h6feet/top.html のお写真を参考にさせて戴きました。

写っている電車は全て当時、淀川電車区所属ですが、その配置の状況を以下に示します。

クモハ32 001
クモハ60  161 163
クモハ73  020 023 039 045 047 052 075 081 083 087 108 189 233 339
クハ55     035 300
クハ79    054 055 056 242 307 330 400 410 412 438 440 454 458 462 464 474 923 925
             927 929 948 955

その後、1979年や1984年にも関西を訪れた際に片町線でも写真を撮っており、まずは101系の写真を、

101_791223

京橋にて 1979年12月23日
101_841203_1

片町にて 1984年12月3日

さらに同じ日に103系の写真も撮っています。
103_791223

片町にて 1984年12月3日

片町駅は1997年3月で廃止されていますので、このショットも今となっては思い出のショットです。
103_841203京橋にて 1984年12月3日

最近ではおおさか東線の写真を撮りに放出を2008年12月に再訪しておりますが駅の歴史に書かれているようにホームの構成は大きく変化しています。

201_081212_4

ひがし大阪線 201系

首都圏ではお目にかかれなかったウグイス色の201系の写真も撮っています。

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2012年11月27日 (火)

1976/3 米原へ DD50 その他

磐田でEF18を撮影した後、浜松までは各停の旅を続けましたが、このまま旅をしているといつ関西に到着出来るのかと思い、「飛び道具を使ってしまえ」ということで浜松から米原までは新幹線を使うこととしました。

米原で降りたのは、以前から新幹線で同駅を通過するたびに車窓から見えたDD50が気になっていたことと、東海道本線と北陸本線の分岐点で、自治体的には確か「坂田郡米原町」で新幹線の停まる駅では唯一の”町”だったと思いますが、鉄道の要衝として名を馳せた同駅で是非写真を撮っておきたかったからです。

まずはDD50について、

1953年から製造された我が国初の幹線用電気式ディーゼル機関車です。

エンジンはスイスのズルツァー社との技術提携により製造された、縦形(直立シリンダー)直列8気筒、直噴式で1,050ps(1時間定格)の8LDA25です。DF50形でも、三菱重工業が製造を担当した0番台に採用されています。

運転台が片側にしかなく、常に2両を背中合わせに連結して重連運転することを前提として製造されました。ちなみに、重連で使用した際の性能は、D52形・C62形蒸気機関車並みとされています。

1953年に1次車3両が新三菱重工業三原製作所で製造されました。電気部分は三菱電機が製造しました。性能上は問題ないことが確認され、1954年に2次車3両が同じく新三菱三原で製造された。1次車と2次車では車体形状が若干異なっており、2次車では前面排障器が車体と別部品になっています。

量産を見据えた設計ではありましたが、2両重連使用のため製造費が高くなり、軸重が重く、蒸気暖房装置を搭載していないために冬期の旅客列車の牽引には別に暖房車が必要となるなどの問題点があり、これ以後の製造はなされませんでした。

6両とも当初は敦賀機関区(現・敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室)に配置され、北陸本線米原駅 - 敦賀駅間で使用されました。製造当初は「日本海」「北陸」などの急行列車にも用いられましたが、1957年にDF50形が製造されてからは主に貨物列車に使用されるようになりました。また、北陸トンネルが完成する前の杉津越えでは、DF50形ともども補機としても重用されました。その後、北陸本線の電化により富山機関区を経て米原機関区(現・米原列車区)に転属し、米原駅 - 田村駅間で直流電気機関車と交流電気機関車の中継に使用されましたが、1975年3月10日のダイヤ改正のころより休車が発生し、1977年12月26日付で全車廃車となりました。

なお、4号機は1957年ごろDF40形が改造工事を受けている間、四国に渡り、土讃本線(当時)で運用されていたことがあるそうです(以上、DD50に関するWikipediaの記事を参考にしました)。
Dd50_14休車状態で、米原駅構内に留置されていたDD50 1+4

Dd50_1DD50 1号機のアップ

Dd50_2

DD50 2号機他

米原機関区時代は日本初の交直接続区間である米原~田村間の中継に使用されていますが、この区間の歴史もかえりみると興味深いものがあります。

数週間前(11月初旬)にやぶおさまの掲示板(リンク http://www.geocities.jp/yabuubu/ から)で話題になっており、その時に私も中継の歴史を整理しておりますので、その時の記事をベースに書きます。

1957年 田村~敦賀 交流電化 
    ED70登場                            1975年までに全車廃車
    E10 米原機関区に転属                   1962年廃車 
    D51も活躍
1961年
    EF70 登場                  1987年のJR化前に全機除籍・廃車
1962年 
    ED74 登場                  1968年よんさんとう改正で 日豊本線に
    ED30  試作(EF55 3の主電動機と輪軸を使用)      1976年 廃車
    (ED30は殆ど使われなかった模様で1966年には国立の鉄道技術研究所に)
    E10に代わってD50が交直接続に 
    D51も引き続き担当
1962年 米原~田村 交流電化
1968年 
    D50からD51へ 「よんさんとう」が蒸機の終わり
    DD50も交直接続役に                     1977年全車廃車
    DE10も交直接続役に
1991年 坂田~田村交直セクション => 長浜~虎姫
2002年              => 敦賀~南今庄へ

といった具合に同所における登場車輌は変化していったようです。

さらに米原駅では、米原機関区の所属のEF58 78号機が小荷物列車の牽引に備えてかウオームアップを行っていたり、

 

Ef58_78_7603

ワイパーの根元の形態が特徴的だった78号機

当駅でスィッチバックする名古屋~北陸を結ぶ特急「しらさぎ」や1975.3の改正で大阪発の雷鳥などが湖西線経由になったため)新たに設定された米原~北陸間の特急「加越」(の姿を記録しました。

 

485_481300

米原駅でスィッチバックするクハ481-300番台先頭の特急「しらさぎ」

特急「しらさぎ」、同列車は当時6往復で、5往復が金サワの485系12連 5組 4本使用
TcM'MTsTsTdM'MTM'MTc で1往復が大ムコの581/3系12連 21組 17本使用
TncM'nMnTnTsTdM'nMnTnM'nMnTnc でした。

485_481300_7603
特急「加越」 同じくクハ481-300番台先頭

一方、特急「加越」は金サワ485系7連のミニ編成 TcM'MTsM'MTc 5組 3本使用で運用されていました。食堂車はさすがにありませんが、グリーン車はちゃんと付いた編成でした。

1975年3月のダイヤ改正以降、金サワには489系と485系の交直両用特急電車が配置されていましたが485系のクハはすべて300番台で、一度撮影したらokの金太郎飴状態でした。一方、「白山」「あさま」「雷鳥」に使用される489系はTcM'MTsTsTdM'MTM'MTcの12連が13本配置され10本使用の状態でしたが、クハは製造年代によってボンネット、貫通タイプ、非貫通タイプと形態が変化し、さらに上野方はEF63協調用にボンネットでは連結器が丸だし状態、600番台、700番台ではジャンパ栓が片渡りと非常にバラエティに富んだ構成でした。

471_7603

急行「くずりゅう3号」206M 米原に到着

くずりゅう」は加越の急行版のような列車で、TcM'Mcの3連を2編成連結したモノクラス6連でした。

運転開始は1966年12月のことで、新幹線との接続もよく、米原駅始発であることから着席が保障されるため利用客からの人気が高く、1968年10月には5往復(2往復は不定期列車)に倍増されました。1969年には米原駅 - 福井駅間の列車も設定されて6往復になり、1978年には全列車が定期列車になりました。1982年11月に「加越」の増発により1往復にまで減少し、1985年に廃止されました。(以上、Wikipediaの記事を参考に記述)。

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2012年11月26日 (月)

1976/3 磐田へ EF18について

今回は1976年3月、大学2年の春休みの撮影旅行について書いてみます。1975年3月に「高千穂・桜島」に乗車して東海道を旅したとき、これで昼の東海道をゆっくり旅するのもお終いかと感じたものでしたが、1976年の春は東海道を磐田まで各停で行き、当時まだ現役で活躍していた浜松区のEF18を撮影、その後、関西まで足を伸ばして、阪和線で貨物列車牽引に活躍していた竜華区のED60, ED61, EF15, EF58を写し、さらに関西地区の旧形国電を撮影するといった旅をしてしまいました。当時まだ青春18切符はなく、関西周遊券を利用した旅でした。ちなみに青春18切符の登場は1982年春からとのことです。

まずはEF18の簡単な歴史から、

1949年EF58の製造中にドッジラインの影響でその製造が中断された機関車5機がありました。32~34の3機と35,36の2機の計5機で、後の2機は35,36として無事EF58 となって世に出ましたが、32~34の3機は歯車比を20:83=1:4.15に改め(一般のEF58は28:75=1:2.68)、さらに死重15トンを搭載して貨物用機関車としてデビューしました。これがEF18です。EF58 35 36に関しては側窓が通常の機関車より2枚多い7枚窓の異形車体で活躍したことは有名です。本来なら貨物機の番号順ではEF17のはずで、さらにEF58の番号も欠番にはならないはずですが、欠番で残されたのは将来EF58に戻す予定であったのだろうと推察されています。

1951年3月に就役し、沼津~浜松間の貨物用機として沼津機関区に配属となりましたが、32、33は配属後すぐに福島第二機関区に転属となり、1952年3月までの2年弱の間EF16のピンチヒッターとして活躍しています。1953年11月に全機、浜松区に転属、1979年の廃車まで同区のヌシとして活躍しました。

形態的には1960年代半ばまでに33を除いて標識灯を埋込式に、先台車の担いバネを板バネ式からコイルバネへ、さらに33はよろい戸をビニロックフィルター式に変更しました。

以上の記事は「最盛期の国鉄車輌8 直流旧型電気機関車(下) (NEKO MOOK 1667)浅原 信彦 (著) 」のEF18の項の記事を参考に書いています。

私は「電気機関車 快走」でEF18が磐田~浜松周辺で貨物運用に就いていることを知り、是非この特異な経歴を持つ機関車を撮影しておかなくてはと思い、東海道各駅停車の旅でEF18撮影行を思いついた次第です。
80_86200_760300
東海道各停で活躍していた80系 クハ86200番台

当時の東海道は80系がまだ頑張っていました。磐田駅は結構、大きな貨物駅でEF18だけでなく、EF60の貨物列車も停車していました(ヨが2両の編成でしたが)。
Ef60_24_760300

EF60 24 貨物列車

そうかと思うとEF66牽引のコンテナ貨物が音もなく接近して通過していったり、
Ef66_12_760300EF66 12号機 牽引のコンテナ列車

先日のEH10の特集で紹介した写真の様にEH10 27号機がモーター音の唸り音を聞かせながら通過して行きました。

一方で、お目当てのEF18は32号機がいつ動き出すとも判らない静かな状態で入れ換え作業行っていました。それではオーバーですが、人生でただ一度の機会に遭遇できたEF18の写真を。Ef18_32_7603


Ef18_32_7603_2
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Ef18_32_7603_4

Ef18_32_7603_3_2

 

Ef18_32_7603_3

 

磐田で無事EF18を撮影した後は浜松まで各停の旅を続け、そこから新幹線で米原へ向かいました。本当は米原まで各停で行くつもりでした。今だったら、豊橋まで行けば名古屋地区の快速列車の充実で大垣まではスピィーディに行けますが当時はそれがなかったもので、先の時間を考えて安直に新幹線を利用してしまいました。

あの頃は浜松駅で何気なく撮った0系新幹線ですが、今となっては結構懐かしいので、写真を載せておきます。

0_7603
0_7603_3_3

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2012年11月25日 (日)

1975/10 真鶴~湯河原へ 10 113系について

今回は113系です。

113
SM分離前の東京駅で並ぶ湘南電車と横須賀線電車

当時、東海道線で活躍した113系大船電車区静岡運転所が担当受け持ち区でした。大船電車区(現 鎌倉車輌センター)の車輌は1980年の東海道線・横須賀線分離(SM分離)により国府津電車区に移管されました。

一方、静岡運転所には1962年111系登場時から配置されており、113系については後に関東地区の他、大鉄局から転属車を迎え、1976年には新製冷房車が投入、1979年には2000番台も投入され、80系を淘汰しました。

新製時から同区に配置された113系は、汚物処理装置、行先表示機(ともに準備工事)は、取り付けられていませんでした。またサハ111が配置されていなかったために上り方のクハ111が多く配置されていました(クハをサハの代用とした為)。

国鉄時代はグリーン車2両を含む11両編成のT編成、ローカル用6両編成のS編成、4両編成のL編成がそれぞれ活躍していました。冷房車(冷房改造車を含む)は、ほとんどがT編成に組み込まれたため、ローカル用は非冷房車が中心の組成でした。また、ローカル用6両編成と4両編成はそれぞれ併結の上グリーン車無しの10両編成や12両編成で1986年3月まで東京駅へ乗り入れていました。

T編成は老朽化したグリーン車が多数配置されていたこともあり、1981年にはサロ110形1200番台最終装備車が、1983年からはサロ110形改造車が多数配置されました。

113110351_860816
静シスの表記が見えるサロ110-351 東京 1986/8/16

113ts110501ts11035__2

サロ110-501と350

サロ110-501は165系の普通車サハ165-7を改造したもの。-350代はサロ481、489からの改造

113_110350

サロ110-356

サロ110-356はサロ489-10からの改造

やはり、このタイプのサロは言うなればお金がないための窮余の策といった感じで、編成美的には「ゲテモノ」でしたね。

1986年3月211系がデビューすると113系冷房車が当所へ転入し、ようやくローカル用車両の冷房化が進みました。ローカル用の非冷房車は房総地区との転配属が盛んに行われており、湘南色とスカ色の混色編成もよく見られました。1986年10月まで6両編成の下りのクハ111の前に飯田色のクモユニ147が連結され熱海ー浜松間で飯田色、湘南色、スカ色の3色で運用される事もありました。

1986年11月に11両のT編成全車が国府津電車区へ転出し、それと引き換えに田町電車区と国府津電車区から付属編成の4両編成が17編成が転属し新しくT編成となりました。

111系は末期は編成を短縮され専ら静岡局管内の普通列車用となり、1984年から廃車が開始され、民営化直前の1987年3月までに全車廃車されています。

(Wikipediaの記事から)

113_2
113_790519
113系 東京駅にて横須賀線と共存していた頃
113_000000

113系 品川
113_f57_750300
113系 横浜

113_751009
113_751009_2

なぜか、上り下り別の列車で撮影した写真ですがよく見ると中間にスカ色の車輌を挟んだ混色編成でした。

今ではE231系やE233系3000番台、1編成ずつ、編成番号で識別できるので全て写真に記録していますが、この頃は113系を1編成ずつ記録しようとは思いませんでした(笑)。

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1975/10 真鶴~湯河原へ 9 155系について

今回は155系です。

1975年当時の東海道線には153系をベースに開発された元祖修学旅行用155系も当時は湘南カラーの塗装に変更されて活躍していました。
155_751009153系に混じって活躍していた155系

155系は独特の低屋根構造のため正面から見ると肩のカーブが153系と異なっているのですぐ見分けられました。155_7801
155_7801_2雪の朝 品川を発車する155系

155系は153系をベースにしつつも、通風器はグローブタイプ(と思ってよく見るとこの車輌は例外です、11/2の名古屋で見た大垣の155系はグローブタイプですが)、排障器は省略、修学旅行シーズン以外の臨時列車投入時に、狭小建築限界トンネルが介在する中央東線に入線する可能性に備えての全低屋根構造、扉幅が狭いこと、戸袋による固定窓がないことなどがこの写真から判ります。

(追記:155系の3次車 クハ155-13~20は最前部の通風器が押込形に変更され、雨樋も乗務員室扉上まで延長されたそうです。一方、159系は最初から全ての通風器が大垣付近の雪の影響を考慮し、押込形で登場したそうです。ですからこの写真の編成は159系の可能性が高いです)。さらに2017年5月8日に105系F11様からのコメントによれば、田町区の車両で修学旅行電車時代から押し込み式通風機に改造された車両があったそうです。ですから155系の可能性は否定できませんね。

私の世代は中学校の修学旅行で「ひので」を使いました。私が撮ったのではなく同行した写真屋さんが撮られた写真ですが、当時の記念に載せます。

15519700517_2

中学校の修学旅行の際に品川駅から「ひので」に乗車 1970/5/17 
こちらは3次車の編成かと思います。

この年は大阪万博の年で京阪神には立ち入らず、彦根で下車、安土城などを見学して、奈良へ、さらに多武峰、室生寺などを見学して京都に戻り、帰路も「ひので」(夜行)で戻ったと記憶しています。

Wikipediaの記述によれば、

1959年に最初は82系という呼称で登場し、形式称号改正で155系に。電気的システムは153系と同様のCS12形電動カム軸多段制御器で2両分8個のMT46形主電動機(出力100kW)を制御する1C8M形MM'ユニット方式、ブレーキシステムにSELD形(電空併用電磁直通ブレーキ)を装備し、歯車比4.21・営業運転時最高速度110km/h・設計最高速度130km/hですが、台車は空気バネ式のDT24・TR59ではなく、コストダウンのため通勤形電車並みの金属バネ台車とされ、電動車はDT21A・付随車はディスクブレーキ装備のTR62としました。以後、1961年・1964年 - 1965年にわたって、48両が製造されました。

1959年4月20日から品川 - 京都間に「ひので」の愛称で運転を開始しました。また宮原配属車で関西地区からも東京方面への修学旅行用として品川 - 明石間「きぼう」が運転されました。修学旅行列車が運休となる夏期・冬期シーズンには、臨時準急列車として東京 - 大阪間の「すばる」や名古屋 - 大阪間の「びわこ」、上越線のスキー臨時快速として上野 - 石打間の「ひので銀嶺」や上野 - 小出間の「きぼう銀嶺」などで運用されました。

1971年4月より国鉄が修学旅行利用の新幹線特急料金の割引を開始したためこの取り決めに縛られない他府県の公立高校や私立高校では修学旅行も新幹線利用に移行するのが一般的となり、「ひので」・「きぼう」は同年10月の運転を最後に廃止となりました。

1980年から廃車が始まり1982年に全車廃車となりましたが、冷房装置は未搭載でした。

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1975/10 真鶴~湯河原へ 8 153系について

湯河原での撮影、当時の急行型電車の153系、155系や湘南電車について纏めておこうと思います。最初は153系です。

153系は1958年に設計・製造した準急形(後に急行形)電車で1962年までに計630両が製造されました。最初に使用された列車にちなみ、「東海形電車」の別名でも知られ、当初は91系電車と称しましたが、1959年の車両称号規定改正に伴い153系電車となりました。

モハ153形に搭載されたCS12A形電動カム軸多段制御器によりモハ153形+モハ152形2両分8基のMT46A形主電動機を制御する1C8M構成のMM'ユニット方式が採用されました。

駆動システムは中空軸平行カルダン駆動を採用され、歯車比は4.21とし、営業運転時最高速度110km/h、設計最高速度130km/hに対応しました。

台車はDT21系の枕バネをベローズ形空気バネに置換えたスウィングハンガー式車体支持装置を備え、ボルスタアンカーを付加したDT24・24A(電動車)・TR59・59A(付随車)を装着しました。これらは、151系特急電車用のDT23・TR58を基本としつつ急行電車での使用に適した形に修正したもので乗心地の改善に著しい効果を上げました。

クハ153は密着連結器の両側に制御用KE57A形ジャンパ連結器2基を備えており、奇数(東海道本線基準で東京側)・偶数(同じく神戸側)向の区別なく使用できる両渡り構造でしたが、冷房改造車は電源用110kVAMGを搭載し引き通しが片渡り構造となったため向きは固定されました。

153_760925_2153系低運転台(奇数向き) 大井町 

153

153系 急行 伊豆(偶数向き) 鶴見

153_751009
153_751009_2
クハ153 低運転台先頭車 1-80

1961年以降の製造車は踏切事故時に乗務員の安全性を高めるため運転台位置を300mm高くする設計変更が行われたことから500番台に区分されました。
153_2
東京駅12番線ホームにて 横須賀線113系と並ぶ

153_760925クハ153 高運転台車 501-557 大井町 1976/9/25
153_3
急行 伊豆 熱海

153_4急行 伊豆 三島 1974/11

1975年当時の田町電車区には157系、153系、155系、165系、167系、183系1000番台、クモヤ191、クモユニ74、クモニ83、クモヤ90、クモヤ93、クモエ21が配置されており、主力は153系で165系は3連が2本でした。153系の内訳を以下に示します。

モハ153+152     47ユニット
クハ153 低運26両 高運18両
サロ152            9両
サハ153 11両   

計 158両 

で田町以外では、幕張、大垣、宮原、下関に配置されていました。また、サロの113系へ改造編入、クハ153の抑速ブレーキ取り付けクハ164化、サハシの165系、169系化、教習者改造(クヤ165、クヤ153)も既に行われておりました。
165_760102急行「ごてんば1号」の165系3連を併結して保土ヶ谷付近を下る153系「東海1号」

153系の「東海」はTcM'MTsTsM'MTTM'MTcの12連で休日には165系「ごてんば」TcM'Mcの3連を東京側に連結した15連で走っていました。

田町所属車の置換えが決定した1981年には185系が田町区に配置されました。185系は3月より「伊豆」への運用を開始し、しばらくは153系と混用されていましたが、9月には置換え完了となりました。

さらに東京口普通列車運用も10月末で終了。一部車両が幕張区に転属した他は殆どが廃車となりました。 さらに快速運用に入っていた大垣所属車についても置換えが決定し、117系の落成を待って1981年12月より置換えを開始となり、1982年5月までに完了しましたが、「東海」・「比叡」・「大垣夜行」・「伊那」の東海道本線内併結で運用される車両は残存となりました。

185153_810523

153系と185系との併結シーン 東京

1982年11月15日のダイヤ改正において、幕張電車区(現・幕張車両センター)配置の車両も、房総地区急行が全て特急に格上げされた結果余剰となり、廃車されました。

大垣所属車は松本運転所(現・松本車両センター)・神領電車区から転属してきた165系と順次置換えられ、1983年3月を最後に運用を終了しました。1984年3月に最後の4両が廃車され、153系は廃系列となりました。

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2012年11月24日 (土)

1975/10 真鶴~湯河原へ 7 157系

今回は機関車牽引列車ではありませんが、当時の東海道線のスター157系について触れたく思います。

157系は1959年9月の東北本線黒磯、日光線電化完成によるダイヤ改正で東京と日光を結ぶ特別準急電車として登場したグループです。
157_3「あまぎ」として最後の活躍をする157系

東京と日光を結ぶ国鉄の優等列車は1956年より、キハ44800(後のキハ55形)4連の準急「日光」が2時間あまりで結んでいましたが、運転本数、客室設備サービス等で当時の東武1700系特急の後塵を拝していました。電化を機に東武特急をしのぎ、国際観光列車あるいは将来の急行用車輌の試作的意味合いもあったようです。

機構的には153系のシステムを流用しており、主電動機には出力100kWのMT46系を採用、歯車比は1:4.21=19:80とし、勾配の介在する日光線内の運転条件を考慮して抑速発電ブレーキを装備しました。短編成で電動車比率を上げるためMcM'方式を新性能電車として初めて採用し、冷房準備工事がなされていたことも特徴的でした。

153_810103_4157系のシステムのベースとなった153系 1981/1/3 保土ヶ谷

第一次車として1959年6月クモハ157-1~5、モハ156-1~5、サロ157-1,2、サハ157-1,2が製造され、McM'TTsM'Mcの6連が2本、予備のMcM'といった編成構成で登場しました。田町区に配属された編成は1959年9月22日から「準急日光」(東京~日光)「準急中禅寺」(新宿~日光)「準急なすの」(上野~黒磯)、日光~黒磯間快速列車各一往復に使用されました。「準急日光」以外は3月~11月の季節列車で冬季運休車輌を利用して東海道に臨時特急「ひびき」として運用されました。

従来の貴賓車クロ49形に代わる皇室の小旅行用並びに外国賓客用の貴賓車としてクロ157形(クロ157-1)1960年7月に川崎車輌で製造されました。

1960年12月には第二次車としてMcM'ユニット5組(6~10)、サロ、サハ各3両(3~5)が増備され、1960年6月改正で予定臨に格上げされた「ひびき」は1960年12月から1961年1月の間、McM'TTs+McM'TTsM'Mcの10連で運用されました。

1961年3月のダイヤ改正で157系30両は6連(McM'TTsM'Mc)5本に組成され、「準急日光」「準急中禅寺」「準急なすの」、多客期の日光~伊東間季節、「湘南日光」「臨時いでゆ」「第二伊豆」、上野~日光間「臨時日光」に運用されました。

1961年10月のダイヤ白紙改正では157系特急「ひびき」は不定期特急「第1ひびき」「第2ひびき」の2往復体制となりました。1962年の夏に運転された「ひびき」は冷房がないため料金が割り引かれたことから、本格的特急車両への転用のため、1963年1~3月に冷房設置工事と塗色の変更が行われました。一次車として登場したMc車の正面腰板部のクリーム色の部分の幅を広げる塗装変更もこの頃までに終わっていたようです。また春以降のダイヤ改正に備えてサロ157-6が増備されています。その結果、3月から運用開始された季節準急「中禅寺」「なすの」日光~黒磯間快速は165系にモノクラス6連に運用を置き換えられています。

1963年4月のダイヤ改正では下り「第1ひびき」上り「第2ひびき」が定期特急に格上げされて「ひびき」となり、他の一往復は不定期特急「第2ひびき」となりました。さらに「準急日光」はMcM'TTM'Mcのモノクラス6連1本、「ひびき」はMcM'TTsTsM'Mcの7連3本の運用となりました。

1964年4月24日の特急「第1富士」の踏切事故で151系が稼働できない状態となり、157系9両編成を使用した「第2こだま」の代行運転が5月7日から31日まで行われました。これ以後は161系編成が使用されたため、「とき」の編成に157系が組み込まれ、<新潟 157系McM'T+161系MM'TdM'sMsTc 上野>で運用されました。

1964年10月の東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正では11月から「ひびき」用編成は東京~伊豆急下田・修善寺間急行「伊豆」2往復に使用されることになり、下田編成(McM'TsTsTM'Mc)と修善寺編成(McM'TsTsM'Mc)の熱海での分割併合に備えて両栓構造に改造されました。

1968年7~9月の週末には東京~中軽井沢間に「そよかぜ」2往復が運転されました。碓氷峠におけるEF63推進運転対応のため横軽対策工事が施されました。

1969年4月25日、東海道新幹線三島駅開業で157系急行「伊豆」は特急「あまぎ」に格上げされ、定期2往復(McM'TsTsTM'McM'Mc)、季節、臨時各1往復(McM'TsTsTM'Mc)が設定され、157系による修善寺行きは廃止となりました。また同時に「日光」は165系に置き換えられ、10年8ヶ月で日光線での運用がなくなりました。

157_751009真鶴~湯河原間を行く特急「あまぎ2号」 3023M
157_2trim田町から東京駅に回送され11番線に入線する回送「あまぎ1号」

1971年3月7日
長野原線が大前まで延長され電化開業の上、吾妻線と改称されたのに伴い、4月24日から上野~長野原間に土休日運転の予定臨特急「白根」(McM'TsTsTM'Mc)が下り2本、上り1本設定されました.その後、万座鹿沢口まで延長され2往復体制となりました。
157上野駅高架5番ホームから出発する「白根」
157_2特急「白根」 大宮

下降窓方式のため車体の腐食が激しく、少数派という事情もあり1975年11月24日で「白根」としての運用を終了、1976年1月26日には「あまぎ」の運用も183系1000番台に置き換えられ17年の生涯を終えています。
157_4置き換え間近、東京駅出発する「あまぎ1号」 6021M

クロ157牽引用に残っていたクハ157-1,2のユニットも183系に置き換えられ1980年11月に廃車となっています。さらに183系も1985年3月に185系に置き換えられたため、引き通し線改造を受け、塗色も変更となっています。JR化後は特別扱いを嫌う今上天皇の意向もあり、1993年5月13日の運用を最後に運転実績がありません.後継車のE655 系が製造されており、今後の去就が注目される状態です。

E655_e654101_1006172007年に登場したJR東日本の交直流特急形電車E655系 和(なごみ)

以上、157系の歴史を「ガイドブック 最盛期の国鉄車輌 新性能直流電車(上)浅原信彦著NEKO MOOK948 」の157系の記事を参考に纏めてみました。

私自身、小さい頃、親に買い与えられたブリキのおもちゃに157系があり、日光形として慣れ親しんだ憶えがあります.乗車経験はありませんが、「あまぎ」や「白根」として活躍する晩年の姿は今でも記憶に残っています。確か、松本清張原作の「砂の器」の映画でも157系の走行シーンが出てきたのを憶えています。

一方で、157系の後継である185系も登場後、かなりの年月が経過していますが、2012年2月には往年の157系の姿を彷彿させる特別塗装車(OM-08編成)も登場しており、定期運用の他、各種のイベント列車、臨時列車に使用され良きカメラの被写体となっています。

185_om08_120310_2185系 OM-08編成と湘南色OM-03 編成の併結 20120310 大宮

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2012年11月23日 (金)

1975/10 真鶴~湯河原へ 6 EF58とEF65 500P形について

続いて今回は、旅客列車編です。

まずEF58牽引の客車列車では、3月の改正であさかぜ下り2号、上り3号の廃止で新たに登場した14系寝台特急「いなば・紀伊」と小荷物列車が走っていました。
Ef58_5_751009
前面が電柱に被るミスショットですが、
遅れてやってきたEF58 5(浜)牽引 上り「いなば・紀伊」 2004レ
Ef58_94_751009
EF58 94(宮)牽引 荷32レ この列車は旅客列車と言えるのかは?ですが。

EF58に関しては写真が多いので、「銀河」などの特集時に再度触れたく思います。

そして、EF65 500形P牽引のブルートレインが「出雲」「瀬戸」「あさかぜ1号」のラッシュ前到着組と「あさかぜ2号」「富士」「はやぶさ」「みずほ」「さくら」と走っておりました。

3月の改正で「出雲」「富士」「はやぶさ」は大ムコから転属した24系24形(★)客車になりました。「瀬戸」「あさかぜ1」号は20系編成共通運用、「あさかぜ2号」はナロネ22を編成内に組み込んだ特別編成でした。「さくら」「みずほ」は1972年秋以来の14系編成で、「さくら」は長崎・佐世保、「みずほ」は熊本・長崎と分割併合可能な14系の特性を生かした運用でした。今回の撮影では「あさかぜ2号」から「さくら」まで写すことが出来ました。

Ef65_531_751009
EF65 531号機牽引 あさかぜ上り2号 10レ
20_751009
カニ21をラストに東京を目指す上り「あさかぜ2号」 10レ
Ef65_512_751009
EF65 512号機牽引 上り「富士」 8レ
Ef65_536_751009
EF65 536号機牽引 上り「はやぶさ」4レ
Ef65_535_751009
EF65 535号機牽引 上り「みずほ」 6レ
Ef65_537_751009

EF65 537号機牽引 上り「さくら」 2レ なぜか隻眼

当Blogではこれまでに東京発寝台特急列車のうち、特急「さくら」、「はやぶさ」、「富士」については個別にそれぞれの列車の登場から廃止までの歴史に触れて参りましたが、ここで1956年11月の「あさかぜ」の誕生から2009年3月の「はやぶさ・富士」の廃止までの東京発着寝台特急列車の歴史をもう一度振り返って見たく思います。

1956年(昭和31年)11月 東海道本線の全線電化が完成。
東京駅 - 博多駅間に、1944年(昭和19年)4月に廃止された「富士」以来12年ぶりとなる特急列車「あさかぜ」が運転を開始。
1957年(昭和32年)7月 「あさかぜ」が好評であったことから、それの補助列車として「あさかぜ」に下りは30分先行、上りは30分後発する時刻で、東京駅 - 博多駅間に臨時特急「さちかぜ」が設定される。
1957年10月 「さちかぜ」は好評であったため定期列車に格上げされ、同時に長崎駅発着となる。
「さくら」が不定期特急となる。
1958年(昭和33年)10月
「あさかぜ」はそれまで寄せ集めの旧形客車で運行されていたが、この改正で国鉄初の固定客車編成でありその車体色から後に「ブルートレイン」と呼ばれるようになった20系客車に置き換えられ、装いを新たにした。
それによって余剰となった客車を使用して、東京駅 - 鹿児島駅間に特急「はやぶさ」が設定された。
「さちかぜ」の名前が「あさかぜ」と紛らわしく誤乗が絶えなかったため、「平和」と改称。
不定期特急「さくら」廃止。
1960年7月 6月に一等車が消滅したことから、それまでの二等車が一等車に、三等車が二等車になった。またこの時、「はやぶさ」が20系客車化され、運転区間も東京駅 - 西鹿児島駅間に変更される。
客車特急では、東京駅 - 熊本駅間に不定期ながら実質毎日運行の「みずほ」が新設。「みずほ」は既に登場していた「あさかぜ」・「さくら」・「はやぶさ」の補助的性格の強い列車で、客車も20系ではなく旧形の一般客車の寄せ集めであり、格差が目立った。
1962年6月 広島駅まで山陽本線の電化が完成。
「みずほ」が定期列車に昇格。
1963年6月 「みずほ」に20系客車が導入される。同時に大分駅まで乗り入れる編成を連結開始。
1965年(昭和40年)10月
「さくら」は運転区間を東京駅 - 長崎駅・佐世保駅間に変更
1968年(昭和43年)10月 「ヨン・サン・トオ」と後に年月をとって呼ばれることになる大改正がこの時行われた。
「あさかぜ」 東京駅 - 博多駅間に1往復増発されて2往復となる。
「はやぶさ」 運転区間を東京駅 - 西鹿児島駅、長崎駅間に変更。
1969年(昭和44年)5月 等級制度が廃止され、それまでの一等車はグリーン車、一等寝台車はA寝台車となり、二等車・二等寝台車はそれぞれ普通車・B寝台車となった。
1970年(昭和45年)10月
急行「安芸」が特急「あさかぜ」に格上げされて下関駅まで運行することとなり、「あさかぜ」は3往復となる。
1972年(昭和47年)3月 山陽新幹線が岡山駅まで開業したことにより、大規模なダイヤ改正が行われた。東海道の列車では、以下の様に変更した。
以下の急行列車が特別急行列車に格上げ。
「瀬戸」 東京駅 - 宇野駅間 ただし、1往復に統合。
「出雲」 東京駅 - 浜田駅間
1975年(昭和50年)3月 山陽新幹線が博多駅まで開業したことにより、大規模なダイヤ改正が行われる。
「あさかぜ」は東京駅 - 博多駅間の1往復が臨時列車に格下げ、これにより、「あさかぜ」定期列車としては2往復に減便。
「はやぶさ」は東京駅 - 西鹿児島駅間に、「みずほ」は東京駅 - 熊本駅、長崎駅間に運転区間を変更。
東京駅 - 米子駅間に新たに寝台特急「いなば」が新設。この時急行から特急に格上げられた「紀伊」と名古屋駅(運転停車)まで併結して運行されることとなった。
「あさかぜ」は東京駅 - 博多駅間の1往復が臨時列車に格下げ、これにより、「あさかぜ」定期列車としては2往復に減便。
「はやぶさ」は東京駅 - 西鹿児島駅間に、「みずほ」は東京駅 - 熊本駅、長崎駅間に運転区間を変更。
東京駅 - 米子駅間に新たに寝台特急「いなば」が新設。この時急行から特急に格上げられた「紀伊」と名古屋駅(運転停車)まで併結して運行されることとなった。
1978年(昭和53年)10月 このときのダイヤ改正で「いなば」は「出雲」に統合される。
1984年(昭和59年)2月 このときのダイヤ改正で「紀伊」・「比叡」廃止。
1991年(平成3年)6月 ブルートレイン「みずほ」の食堂車営業を終了。
1993年(平成5年)3月 ブルートレイン「あさかぜ」・「はやぶさ」・「富士」・「さくら」食堂車営業を終了。
1994年(平成6年)12月 「あさかぜ」の東京駅 - 博多駅間1往復と、「みずほ」廃止。
1998年(平成10年)7月 「瀬戸」と「出雲」のうち1往復が285系電車化され、同時に「出雲」は伯備線経由となって東京駅 - 岡山駅間で「瀬戸」と併結運転されることになり、それぞれ「サンライズ瀬戸」・「サンライズ出雲」となった。
1999年(平成11年)12月 「はやぶさ」と「さくら」が東京駅 - 鳥栖駅間で併結運転となる。
2005年(平成17年)3月 「あさかぜ」、「さくら」が廃止。「富士」と「はやぶさ」が門司駅まで併結運転となった。
2006年(平成18年)3月 東京駅 - 出雲市駅間の寝台特急「出雲」が廃止される。これで、東京駅発着で単独運転する寝台特急列車が消滅した。
2009年(平成21年)3月 寝台特急「はやぶさ」「富士」が廃止、東海道本線全区間を走行する客車寝台特急は消滅した。(Wikipedia 東海道本線優等列車沿革の記事を参考に記述しています)。

あさかぜの登場からおよそ20年弱の1975年3月の改正で東海道ブルートレインの歴史もそれまでの右肩上がりの路線から凋落路線に転換していることがよく分かります。1984年の「紀伊」廃止を嚆矢に1994年には「みずほ」が消え、2005年には「あさかぜ」が消えと歯が抜けるように列車が廃止されて行きました。その間に285系による「サンライズ出雲」や「サンライズ瀬戸」の登場もあり、彼らは現在も走っていますが、在来線における長距離列車の衰退傾向はまだまだ続くのではと思われる昨今です。

一方、牽引機に目を向けるとEF58に始まり、EF61が牽引した時代を経て、1963年12月、ブルートレインの編成増でEF58で瀬野八本松の勾配を越えるには補機が必要になることから、一般形と性能は変わらないが20系との電話回路やカニ22のパンタを緊急時に下げられる制御機能を付加した初めて専用機としてEF60500番台が登場しました。しかし速度は相変わらず95km/hであり、これを110km/hに上げるために後継機EF65500P形が開発され、1965年に任を譲りました。

<EF65 P形について>

一次車

昭和39年度第3次債務で501・502号機が製造されました。中央線電化・増発用を名目としています。なお、501号機は500番台では唯一、1966年から1967年にかけて0番台と同じ一般塗装だった時期があり、その塗装で寝台特急を牽引しています。
加えて、昭和39年度第5次債務で503 - 512号機が製造されました。東海道本線増発用を名目としています。
ただし、実際には寝台特急牽引用として投入されたため、全機が東京機関区に配置されました。
同時期製造の0番台2次車と同様、抵抗バーニア制御器はCS25Aです。

二次車

昭和40年度第2次民有で527 - 531号機が製造されました。山陽本線広島 - 幡生間貨物列車完全無煙化用を名目としていますが、一次車と同じく全機が東京機関区に配置されました。

抵抗バーニア制御器がCS25AからCS29に変更されています。

改造編入車両

1968年に寝台特急増発に伴う不足分を補うため、当時竣工したばかりの0番台3次車の内、昭和41年度第1次債務で製造された77 - 84号機が改造され、535 - 542号機として500番台P形に編入されました。

稲沢第二機関区に所属する7両が浜松工場で1968年6月から9月にかけて改造され、改番後に東京機関区に配置されました。

主な改造項目を以下に示す。いずれも改造時点での500番台P形車の標準装備である。
カニ22形電源車に搭載されているパンタグラフの昇降スイッチの取り付け
20系客車との通話用としてKE59ジャンパ連結器の取り付け
電磁ブレーキ指令用としてKE72ジャンパ連結器の取り付け
ブレーキ増圧装置の取り付け

EF65500P牽引の時代は長く続きましたが、連日の長距離高速運用で台枠に亀裂が見つかったことで、新製EF65 1000番台 PF形に交替したのが1978年7月-8月、さらに1985年4月のダイヤ改正で「はやぶさ」にロビーカー連結で牽引定数が大きくなり、高速性を維持するためにEF66が東京~下関間の牽引を担当するようになり、2009年の廃止まで続きました。

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2012年11月22日 (木)

1975/10 真鶴~湯河原へ 5 EH10について

湯河原で写した貨物用機関車の最後はEH10と行きたく思います。もちろん、EH10以外に当時の東海道・山陽区間の最強機関車のEF66も走っており、写真も撮っているのですが、EF66に関してはデジカメで撮りだした後も夭折した一部の機関車を除いて、全機にわたって撮影しているので、別の機会に集中的に取り上げてみたく思います。

EH10は1954年に登場し、1957年までに64両が製造された国鉄唯一の8動軸の機関車です。1200t貨物列車を牽引して当時、電化が進展しつつあった関ヶ原を越えるには当時の最新鋭機EF15では荷が重すぎたため、EF15と同程度の性能を有する主電動機を8個使用する大型機関車を投入してこの問題を解決しようとしたとのことです。

構造的特徴は、それまでの台車枠に先輪、動輪、車体は機器の覆いの役割の概念を排除して、電車同様の鋳鋼製2軸ボギー台車を装備し、牽引力は台車から車体台枠を経て連結器に伝えられるようになったことです。これまでの機関車と異なり、先輪がないため全軸駆動となり、重量の全てを粘着力に生かせるようになり、牽引力は向上しました。

試作機 1-4 
川崎、日立、東芝、三菱の4車輌メーカーがそれぞれ1両ずつ製作。パンタグラフが中央寄りに存在 これは引き通し線の重量を削減するためだったようです。

量産機 5-64 (15を除く) 
量産機は汽車会社を加えた5メーカー体制で製造されました。番号とメーカーの関係は、5-10, 28-30, 39, 40, 46-48, 58,59 (日立)、11-15, 31-33, 41, 42, 49, 50 60-62 (東芝)、16-20, 34, 35, 43, 51, 52, 63, 64 (川崎)、21-25, 36,37, 44, 53-55 (三菱)、26, 27, 38, 45, 56, 57 (汽車)。

高速度試験機 15 
動力集中方式による高速列車の開発を考えての試験機として1955年に東芝で落成した15号機が充てられた。実際には動力分散方式(電車)での高速列車方式が採用されたため、後年貨物用に改造されました。

Eh10_3_7510093号機 4両製造された試作機のうちの1両
Eh10_00_751009_2番号不明機 モニター屋根の構造がよく分かる 湯河原
Eh10_11_77092311号機 75年10月頃には既にPS22B パンタを搭載した改造機がいた 沼津
Eh10_27_76030027号機 磐田にて
Eh10_55_75100955号機 湯河原にて

当初は高速貨物用に使われましたが、1960年以降、EF60が登場するとコンテナ列車の高速化に対応できず一般貨物用に転用され、さらに瀬野八本松間での補機との出力均衡が困難あったため、岡山以西には入線せず、宇野線までの入線に留まりました。

1975年以降は老朽化の進行で数を急激に減らし、1982年までに全機が廃車されました。

東海道線を列車で走っていると必ず黒い物体と突如すれ違うことがあり、その走行音も記憶に残っていますが、最後は急激に数を減らし、消えて行ってしまったように記憶しています。(テキストに関してはNEKO MOOK 1737 鉄道車輌ガイド vol 7 EH10, 国鉄機関車EH10形 Wikipedia記事を参考に記述しました)。

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2012年11月20日 (火)

1975/10 真鶴~湯河原へ 4 EF65 500F形について

続いてEF65 500F形です。

東京発着のブルートレインを撮り始めた頃のことですが、鉄道雑誌を読んでいて、いわゆるP形と同じ塗装をしていながら、重連総括制御機能を持ち、重量高速貨物列車を牽引する500F形なる集団が存在し、日夜東海道、山陽路で貨物列車を牽引していると知ったときは驚きでした。そしてその機関車を初めて、今回のメインテーマである湯河原撮影旅行で見たときは驚き、またラッキーだったと感じました。何せ当時貨物列車の運行に関する情報は殆どなく、偶然1086レを牽く姿にであえたのでしたから。

EF65 500F形は1965年 - 1966年に高速貨物列車牽引用として17両 (513 - 526・532 - 534) が製造されました。

牽引定数1,000tの貨物列車を100km/hで牽引する必要から、P形を基本に、重連総括制御機能・空気管付き密着自動連結器・連結器の自動復心装置・編成増圧装置・電磁自動空気ブレーキへの指令機能などを追加した区分です。

外観上、3本の空気管コックと3種の電気連結器が前面下部に設けられてホースやジャンパケーブルが装着され、さらに連結器も上部に自動復心装置を付加した空気管付き密着自動連結器であるため、スマートなP形とは一変して複雑かつ物々しい印象となりました。


一次車

昭和39年度第5次債務で513 - 517号機が製造されました。東海道本線などの貨物列車増発用を名目としていています。全車が東京機関区に配置され、P形一次車とともに寝台特急牽引に当たりました。

0番台2次車と共通のCS25A抵抗バーニア制御器を搭載していますが、界磁制御器はCS26Aに改良されています。

この頃はPとFの17両が区別無く東京発のブルートレイン牽引を担当したようですが、私はこれまでFの牽く東京発着のブルートレインの写真は見た憶えがありません。さらにこの時期には一般形の60-64号機も予備機として東京区所属となっていたようですね。1966年3月25日ダイヤ改正に合わせてPの増備車として527-531号機が落成するとF形は吹田第二機関区に転出になりました。
Ef65_517_751009EF65 517号機牽引貨物列車 1086レ

二次車

昭和40年度第2次民有で518 - 526号機が製造された。山陽本線広島 - 幡生間貨物列車完全無煙化用を名目とし、吹田第二機関区に配置されました。

加えて昭和40年度第2次債務で532- 534号機が製造されました。同じく山陽本線広島 - 幡生間貨物列車完全無煙化用を名目としているが、東京機関区に配置されました。

518号機以降、抵抗バーニア制御器がCS25AからCS29に、532号機以降はブレーキ増圧回路が編成増圧仕様から単機増圧仕様に変更されています。後部標識灯が新形となり、誘導手摺が長くなりました。復心装置装置にカバーが付きました。

1966年10月からは、レサ10000系の特急貨物列車「とびうお」「ぎんりん」の牽引にF形(吹田第二機関区所属)が充当され、600 t 以下の牽引定数の列車は単機で、600t以上1000tまでの牽引定数の列車は重連運転で、それぞれ運用されました。ただし、これはあくまでもEF66形が落成するまでのつなぎ的な役割でありました。

1968年10月にEF66形量産車が登場・運用入りした後は新鶴見機関区に転属し、東北・上越方面の高速貨物列車牽引に充てられ、EF15形など旧型電機を淘汰しました。

積雪地区での使用に際し、一部の車両につらら切り、ホイッスルカバー、スノープラウといった簡単な耐雪耐寒装備が施され、顔つきが一段と厳めしく変貌しました。ただし、寒冷地運用では貫通扉が設けられていないため、冬季の多雪地域での重連運用の折り返し時に一旦車外に出なくてはならないことや、凍結防止用ヒーターなどの耐寒耐雪装備が不十分でトラブルが多発したこと、ジャンパ栓受がスカートに左右非対称の配置で搭載されているため、デルタ線の通過などで車両の向きが変わる運用に充当しづらいなどといった難点が存在したとのことです。

Ef65_520_000000__2

EF65 520 品川
Ef65_522_7603EF65 522 京都
Ef65_523_000000EF65 523 品川
Ef65_524_000000EF65 524 北府中

雑誌(直流電気機関車 EF65 イカロス出版)の記事によりますと、524と525号機のスカート各コックの上部にはコックの用途を示す「銘板」が取り付けられていたそうです。銘板には元ダメ管、ブレーキ管、ツリアイ管などと書かれていたそうです。
Ef65_532_930506_2EF65 532 鶴見

1978年7月のPF形の投入によって運用を置き換えられたP形・F形は貨物列車牽引運用に転用され、再び東海道・山陽本線に復帰し、一般貨物列車の牽引に充当されました。

国鉄分割民営化を目前にした1986年11月には、沼津機関区、稲沢第二機関区、高崎第二機関区に分散配置されていたF形が高崎第二機関区に集中配備されました。

国鉄分割民営化では17両すべてがJR貨物に継承され、高崎第二機関区に配置になりました。

2008年3月のダイヤ改正では、JR東日本管内でのATS-P保安装置使用開始によってJR貨物所有の500番台は全車運用を離脱し、廃車となりました。

湯河原での写真に絡めてEF65 500Fの歴史も振り返って見てみましたが、500F形が本来の目的で活躍できた期間は誕生後2年間くらいで、その後はEF66が誕生し、直流区間の重量級高速貨物牽引の歴史はEF66~EF200~EF210と引き継がれてきていますね。

500F形の誕生とそのたどった歴史はEF60の500形がブルートレイン専用機として一時は輝かしい任を与えられたにもかかわらず、高速性に欠けたことからEF65の誕生と共に短期間でその役を追われ、一般形と同じ後生を辿ったのと似ているように感じます。

幸いなことにEF65 500Fの中でも520号機が碓氷鉄道文化村で活躍していた頃の姿そのままに保存展示されているのは嬉しいことです。

Ef65_520_050816

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2012年11月19日 (月)

1975/10 真鶴~湯河原へ 3 EF65 一般型について

続いてEF65です。

EF60形に続く平坦線区向け国鉄直流電気機関車の標準形式として、1979年までに国鉄電気機関車史上最多となる308両が製造されました。

今回は一般形です。

車体EF60形四次車(84号機以降)(参考としたWikipediaでは"EF60形3次車"としていますが本稿では敢えて四次としました)をベースにしつつ、走行系は歯数比を16:71 (1:4.44) から18:69 (1:3.83) へ変更、さらに新設計のバーニア付き電動カム軸式制御器を搭載することで、高速走行性能と牽引力の両立を図っています。まず歯数比を変更するにあたり、起動時の抵抗器を増強する必要があり、制御機器・制御方式関係はEF64をベースにして簡略化を図ったようであります。

一次車

昭和39年度第1次債務で中央線電化・増発、山陽本線貨物列車電化・増発、東海道本線などの増発用を名目として1 - 47号機が製造されました。EF60形四次車との外観上の相違点は、屋上モニタ屋根の形状の変更等に留まり、大きく変更されていない。製造会社は1-18 (川崎車輌)、19-35(東芝電気)、36-47(汽車会社)。
Ef65_1_770923EF65 一般型トップナンバー 1977.9.23 富士
Ef65_5_751009EF65 5 牽引貨物列車

二次車

昭和39年度第3次債務で中央線電化・増発用の名目で48 - 57号機が製造された加えて、昭和40年度第1次民有で中央線電化および山陽本線貨物列車電化・増発用を名目に58 - 72号機が製造されました。

Ef65_59_050528
Ef65_59_050528_2
大宮工場に保管されている59号機 エンドで塗色が変わっている

抵抗バーニア制御器をCS25からCS25Aに変更しているほか、スカート上部にあった通風孔が尾灯上部に移動している。製造会社は48, 67-72(川崎車輌)、49-52, 58-62(東芝電気)、53-57, 63-66(汽車会社)。
Ef65_72_850418EF65 72号機 1985.4.18 京都

三次車

昭和40年度第2次債務で宇野線完全無煙化用、東北本線等の増強用を名目に73 - 76号機が製造されました。加えて、昭和41年度第1次債務で信越本線長岡地区無煙化および長野原線電化開業用を名目に77 - 84号機が製造されました。製造会社は73,74,77(東芝電気)、75,76(日本車輌)、78-80(汽車会社)、81-84(川崎車輌)。

尾灯まわりの形状が見直され、抵抗バーニア制御器をCS29に変更しています。このCS29制御器の搭載は0番台の73-76ではなく、500番台の518~531の方が早かった様です。また、入換時に背の高い誘導係に対応するため、手掛けが上方に20cmほど延長され、機関士側のスカート部分に足掛け用の切り欠きが設けられました。

Ef65_73_000000EF65 73号機 新鶴見
Ef65_75_000000EF65 75号機 新鶴見

 

三次車のうち77-84号機は製造後まもなく浜松工場で1968年6月から9月にかけて改造されP形に編入され535-542のなったため同機らの一般形としての写真は極めてレアではないでしょうか。

四次車

昭和43年度第4次債務で信越本線直江津 - 宮内間電化開業用(18両)、赤穂線電化開業用を名目に85 - 104号機が製造されました。製造会社は85-94(汽車会社)、95-104(川崎車輌)。

三次車以前と比べて、以下の大きな変化が見られます。
•主電動機を電機子絶縁の強化を図ったMT52Aに変更
•界磁制御器をCS26からCS26Bに変更
•抵抗バーニア制御器をCS29からCS29Aに変更
•避雷器をLA15AからLA15Bに変更
•貨物列車の高速化に伴い、非常ブレーキを使用した際に作動する単機増圧ブレーキの追加
•ATS電源未投入防止、警報継続装置の新設
•主電動機風道のスライド式化
•車体前面の補強◦1967年9月30日に発生した、踏切で立ち往生した8tトラックと寝台特急「あさかぜ」(EF65 502牽引)の衝突事故により運転士が死亡した事故を受けて施工。既存車両にも同様の工事がなされました
•乗務員室内の整備

Ef65_86_041211EF65 86号機 高崎機関区
Ef65_95_801212EF65 95号機 1980.12.12 京都

五次車

昭和43年度第5次債務で東海道・山陽本線貨物・荷物列車増発用、山陽本線瀬野 - 八本松間補機増強や東北・信越方面の貨物列車増発用を名目に105 - 120号機が製造されました。製造会社は105-110 (汽車会社)、111-113 (日本車輌)、114-120 (川崎車輌)。

四次車との大きな違いは見られません。

Ef65_113_000000

EF65 113号機 新鶴見機関区

Ef65_116_061118EF65 116号機 2006.11.18 甲南山手

Ef65_117_030426_2EF65 117号機 既にリタイア? 新鶴見

Ef65_120_751009EF65 120 牽引貨物列車

六次車

昭和44年度第3次債務で121 - 132号機が、同年第5次債務で133 - 135号機が製造されました。製造会社は121-127 (汽車会社)、128,129 (日本車輌)、130-135 (川崎車輌)。

運転台前面ガラスに熱線入りガラスを採用し、全面デフロスタに変更され、ワイパーも強力形のWP50とされた。また、一人乗務に備えてEB装置・TE装置の設置がなされました。

なおEF67の100番台はEF65のこのグループから改造されており、番号の対応は
EF67 101, 102, 103, 104, 105 <= EF65 134, 131, 133, 132, 135 になっているそうです。

Ef65_121_850418EF65 121号機 1985.4.18 京都
Ef65_122_000000EF65 122号機 品川

今回は原色で活躍するEF65一般形の写真を載せましたが、2001年からデジカメで本格的に鉄復帰してから、JR貨物更新塗装になって初めて撮った機関車も結構あります。それらは後日、別の機会に掲載できればと思います。一般形で残念だったのはトップナンバーが保存されることなく解体されてしまったことですね。(テキスト部分の記載は直流機関車EF65 イカロス出版 と 国鉄電気機関車EF65形 Wikipediaの記載をベースに記述しています)

先日、EF15の際にご紹介した「鉄路100万キロ走行記 宇田賢吉著」(グランプリ出版)にEF65に関する宇田氏の感想も書かれています。

EF65は貨物列車の速度向上時代に出現し、その適応性のために長期間に渡って製作、使用された。モーターは国鉄標準としてEF60からED75まで広く採用されたMT52なので出力はEF60とかわらない。EF65の持つ適応性は2つある。ひとつは速度特性であり、定格速度45~72km/hは最高速度が75km/hの貨物列車に合致しており、設計段階ではもう少し高速性能を重視する予定であったが、そうすれば貨物列車の主力が95km/h担っても十分活躍できたはずである。二つ目はノッチ進めを自動進段にしたことであり、機関士は電機常務で必須条件として諦めていた電流計注視から解放された。これで前方注視や信号確認に専念できることとなった。

CS25主制御器は初期故障が相次ぎ、研修陣を悩ませた。システムは電車で採用しているのと変わらないが、制御段数が増加して大形になったためか誤動作の回数が多かった。一般形73号機、F形518号機から2本のカム軸に専用のモーターを装備したCS29が搭載された。CS25搭載車輌も2基のカムモータータイプに改造された。空転検知装置はEF60の主回路電圧比較方式から、各軸の速度比較方式になって検知感度は上昇した。その代わり、空転時の守護神であった再粘着装置は省略され、ノッチ自動戻しを行うのみとなった。

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2012年11月18日 (日)

1975/10 真鶴~湯河原へ 2 EF60について

今回はEF60です。

EF60は1960年に開発された平坦路線向け直流用電気機関車であり、1960年から1964年にかけて、貨物用の0番台129両と寝台特急列車(ブルートレイン)牽引用の500番台14両の計143両が製造されました。登場当時は車体塗装は0番台がぶどう色2号(茶色)の一色で、500番台が前面上部・下部および側面を青15号(濃青色)、前面窓周り・中央部と側面帯をクリーム1号とした塗装でしたが、塗装規定の変更により1965年から側面全体と前面上半部・下部を青15号、前面中央部をクリーム1号とした配色に全機が変更されました。

<0番台、一般形>

1960年に2両の先行試作車が製造された後、1号機をベースにした量産機 3-141960年7月から9月にかけて姫路 - 岡山間電化開業用を名目として製造されました。駆動方式は試作車と同様のクイル駆動方式でしたが、異常振動等の問題があり、後年、リンク式駆動装置に改修されました、この駆動装置の問題により試作機を含めた14両は本形式他車と運用が分けられ、EF65形が投入された1970年代には8両がEF61形200番台に改造されました。
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EF60 9号機 このグループの唯一の写真です。

当時、このグループは岡山機関区に集中配置され、運用も糸崎、宇野、梅小路の範囲専用であったと思います。そのため、関東ではお目にかかることがなく、関西に旅行したときに列車の窓越しに撮った証拠写真のみに終わってしまいました。

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1985年4月の二度目の瀬野八訪問で、EF61 206に改造されたEF60 6の姿を写真に収めることができました。

二次グループは1962年5月から8月にかけて東海道・山陽本線増発用を名目として15 - 46号機が製造されました。駆動方式は吊り掛け駆動方式に設計変更され、主電動機は1時間定格出力425kWのMT52形に変更し、それに合わせて台車もDT115A形・DT116A形(軸距を2,800 mmまで延長)に変更されました。外観上の相違としては、前照灯まわりが一次グループの樽形ケーシングから台形のケーシングとなりました。

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EF60 18号機 大宮
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EF60 22号機

現在でもこのグループの一員の19号機が高崎車輌センターにて現役で活躍しているのは喜ばしい限りです。

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やすらぎ塗色で活躍していた頃
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最近は一般貨物機塗色になり、1エンド側ライトもオリジナルの単灯に改造済み

三次グループは1963年7月から1964年3月にかけて東海道・山陽本線増発用、岡山 - 広島間の貨物列車電化用を名目とし47-83号機が製造されました。

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EF60 47号機  保土ヶ谷
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47号機

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47号機カットモデル 大宮工場
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EF60 51号機 六甲道

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EF60 76号機

四次グループは1964年4月から7月にかけて山陽本線旅客電化用、甲府 - 上諏訪間電化開業用、上越・高崎・東北本線貨物列車増発を名目として84 - 99号機が製造されました。このロットから外観に大きな違いが現れました。前照灯が2灯シールドビームに変更され、側面は通気口の上に明かり取り窓を配した構造となりました。その後に製造されたEF65形も同一形状です。側窓も白Hゴム支持となり、運転室機器類の一部変更され、避雷針をLA15に変更されました。このグループから88号機がEF67 3に改造されました。
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EF60 97号機 1977.3.19 瀬野~八本松間 瀬野西トンネル西出口

五次グループは1964年7月から10月にかけて上越・高崎・東北本線貨物列車増発用、山手線貨物列車増発用を名目として100 - 129号機が製造されました。後年、104号機がEF67 1に、129号機がEF67 2号機に改造されました。

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EF60 100号機

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沼津で休む125号機

四次グループ以降のEF65との相違点はモニター屋根の端が斜めになっているのがEF60垂直なのがEF65

<500番台、寝台特急牽引用>

1963年から1964年20系客車寝台特急牽引用EF58形の置換え用して製造されたグループで501 - 514が該当し、車体は501 - 511が3次量産車に、512 - 514が四次量産車に準ずる形態をしている。

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EF60 506 1979.5.19 西国分寺

 

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EF60 507 八王子
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EF60 509 飯田町
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EF60 510 市ヶ谷

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510号機は特急塗装を纏って大宮工場に保管されており、2011年9月頃にはお色直しが行われたようで、大宮駅のホームから見える場所に顔を出していました。
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EF60 511 沼津

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EF60 513 一般形の4次量産車以降のスタイル号機が製造されました。

 

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特急塗装に復元されて碓氷峠鉄道文化村に展示されている501号機

製造当初は、基本番台が東海道・山陽本線の高速貨物列車に、500番台が東京 - 九州間寝台特急列車に投入されましたが、本来はEF15形・EH10形の後継となる貨物機で定格速度は低く、定期の旅客列車とりわけ特急列車の牽引には不向きな形式でした。

後継で標準機となったEF65が登場すると一般貨物を担当するようになり、1970年代後半からは旧型貨物用電気機関車の置き換えで首都圏の中央本線・高崎線・両毛線などにも投入されました。

1980年代に入ると、老朽化や貨物列車の減少などにより徐々に淘汰が進行し、最後に残ったのは高崎第二機関区(現・高崎機関区)に配置され首都圏発着で高崎線・両毛線を通る貨物列車で運用されていた車両と1986年3月から竜華機関区にも配属され阪和線・紀勢本線で運用された数両で、これら残存車は分割民営化直前の1986年11月のダイヤ改正で定期運用がなくなり、大部分はJRグループに承継されず廃車となりました (Wikipedia 国鉄EF60形電気機関車の記述を参考に書いています)。

先日、EF15の際にご紹介した「鉄路100万キロ走行記 宇田賢吉著」(グランプリ出版)にEF60に関する宇田氏の感想も書かれています。EF60はEF15に較べると全てに余裕を持って申し分のない機関車として登場した。初期の1~14号機はMT49モーターを装備して発車などの重負荷時には悲鳴のようなモーターの唸りだけでEF60であることが判った。15号機以降はMT52モーターに替わって、出力増大と定格速度変更があり、性能上では別形式であった。EF15との比較では出力の増大を主に牽引力増大に当てて、バランスの取れた形式であった。ノッチ手動進段という旧来の方式のまま新機軸を採用したため、運転操作からはEF15の改良形であった。空転再粘着装置やノッチ細分化のバーニア装置は使用する機会がなく宝の持ち腐れであった。

晩年は貨物列車の速度が向上したため、定格速度の低いEF60は機関士に敬遠された。
運転室の環境は大幅に改善され、マスコンをはじめ、あらゆる機器が新系列になって今までの常識が一新された。細かい点ではスペース縮小のため運転室への出入りが窮屈になった。隙間風は機械室のドア改善で少なくなったが、機械室の負圧による吸い込みはそのまま残された。
ワイパーは窓の上装備になったが、清掃範囲が凹形になるのは不自然であり、使用しないときに重力で中央部に垂れ下がるのは目障りだった。ワイパーを窓下に移せば解決できたが、計器盤のの点検の邪魔になるので敬遠されたようだ。

とのことです。

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2012年11月17日 (土)

1975/10 真鶴~湯河原へ 1 EF15について

1975.3の新幹線博多開業で山陽本線の昼行特急・急行の全廃や夜行列車の削減で、下関や広島のEF58に大量の余剰車輌が発生し、それらが東北本線直流区間を支えてきた宇都宮機関区に転属してきたため、EF56は全廃となり、EF57も状態の悪いものに廃車が出始めました。折しも、交友社から「電気機関車快走」といった機関車列車情報写真誌も発行され私も、東海道線の真鶴~湯河原のカーブで朝の上り寝台特急を始め、東海道貨物列車を撮ってみたいと感じました。

その夢を実現させたのが1975.10.9の撮影旅行でした。

朝一番の東海道線で真鶴まで行き、そこから山越えで大カーブにアプローチしました。後から思えば、湯河原から歩けばもっと楽だったことが分かったのですが。
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湯河原方面から真鶴方面を見た大カーブの様子

今回は貨物機関車についてまず形式別に記述し、続いて旅客機、ブルートレイン、電車といった順番にしようと思います。

第一回はEF65にその記録を破られるまで、電気機関車としての製造両数でトップを誇ったEF15についてその歴史を振り返りつつ記述し、湯河原で撮った写真や他の場所で写した写真を載せようと思います。

EF15は1947年から1958年にかけて製造された貨物用の直流電気機関車であり、EF58と電気部品、台車等の共通部分が多く、旧形直流電機の標準機といわれています。

1-202までの通し番号で製造されましたが、奥羽本線の板谷峠電化直後に12両 (福米型) がEF16に改造され、上越線(水上 - 石打)用としてさらに12両が改造されました。後年EF16 1-10(EF15 1-8, 20,21)はEF64の投入でEF15へ復帰、1976.3時点の配置表ではEF16として活躍中の16-19、22-28、31-33が欠となっており、全機188両が健在でありました。
Ef15ef16
EF15改造とEF16誕生、EF15復帰に伴う番号の関係

1947.7に一次形と呼ばれるグループ1-8、16-33が誕生しました。当時はまだ戦後の混乱の影響が残っており、当初はパンタグラフは電車用のPS13、屋根上モニターは省略、側面機械室部分の窓は4枚、つらら切りは未装着の状態での登場だったそうです。

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身延線で働くようになった4号機 身延 1977.9.23
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山手貨物線、新大久保付近を行く6号機
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新鶴見機関区で入れ換えする8号機

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8号機、EF65508号機を伴って品川に到着

二次形は1951年から9-15, 34-45が製造され、パンタグラフはPS14 、つらら切りは装着、側面窓は7枚となりました。後半ロットの12-15、37-39、43-45では標識灯が引掛け式から埋込式に改められました。後年、それまでの引掛け式標識灯はすべて埋込式に改造されたようです。
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国分寺駅中線で待避する13号機
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駒込のカーブを行く40号機
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湯河原カーブにさしかかるEF15 41牽引の伊東線の貨物列車
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折り返しの列車 熱海駅

1952年途中から第三次形に移行、46-129
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身延線で働く49号機
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新宿で一休みする54号機
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今はすっかり変わってしまった赤羽付近を行く67号機
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番号の識別は難しいですが72号機 拝島
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駒込のトンネルカーブをゆく106号機牽引の専用貨物列車

1957年から1958年に製造された130-161は四次形と呼ばれ、製造途中からナンバーが切り抜き文字に。
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Ef15_153_810228
品川に停車中の153号機

1958-1959年に最終グループの162-202が製造され、特徴は前面窓Hゴムで落成となりました。

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田端機関区の195号機

(データはイカロス出版機関車ハンドブック、EF15XEF58 昭和50年代の記録を参考にしました)。

EF15の運転する側からの感想が「鉄路100万キロ走行記 宇田賢吉著」(グランプリ出版)に書かれています。それによるとEF53に始まった国産機の改良・発展の頂点に達した機関車であった。運転室と機械室の構造・配置とも堅実で無理がなく、これという欠点がない。1200tを牽いて10%勾配を登るのが限度であった。上り10%勾配での引き出しは、機関車の停止位置、直線であるか、カーブ区間かによっても大きく変わり、動輪粘着力に不利にならないように停止位置を選択することと、停止直前に砂撒きを行って砂を噛ませることが必須。連続10%上り勾配で速度が45km/hくらいでバランスすると、電流計が定格の470Aを上回り、空転への余裕ゼロの状態で登って行く.線路の滑りやすい区間を予め察知して断続砂撒きを行う等の予防対処が必要。

前デッキの存在は運転室への昇降にとって楽であり、安全。隙間風対策はED71,ED62以降、ドアを外開きにすることで解決。運転室は狭いが座席が前窓に近いため有効視界が広く、速度感を得るのに優れていたが、見習乗務の時に教導教官のいる場所がない。計器盤が右上にあって使い勝手が悪い。前方注視中に視線を走らせる計器が右上部というのは人間の心理を無視しており、まして全力運転時に目が離せない電流計が最上段にあるのも解せない.運転中に最も負担が少なく注視出来る場所の正面窓下には何も計器がなかった。速度計は蒸機と同じ機械式でEF58は電気式に取り替えられたのにEF15は放置されていた。

前面窓のひさしの効果は大きかった。ガラス面に雨滴が流れ込むのを防いでくれた。モーター冷却用の送風機が空気を吸い込むため運転室は負圧となり、その分の空気を外気から取り込むため運転室は寒かった。惰行中はできるだけ送風機をオフにした。この問題はEF641000で機械室を3区分して運転室の負圧をなくすまで持ち越された。

全機188機が健在で、その多くが東京近郊で活躍していたEF15、当時は追っかけるということは絶対にしなかった機関車ですが、もし今の時代のような情報と機材(デジカメ)があれば恐らく全機制覇チャレンジしていたと思いますが(笑)。

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2012年11月16日 (金)

1974/3 能代、函館へ

私が大学を受験したのは1974年3月のことで、当時はまだ一期校、二期校の時代でした。

確か3月3日が一次試験、その発表が6日にあり、二次試験が8,9日だったと記憶しています。

一次試験の当日は、パリでトルコ航空機墜落事故がありました。そして発表は20日でした。正直、一次試験は時間が勝負のような試験で、終わった後、不安感がありました。二次試験は苦手だった古典の問題が授業で習った内容であったのと、化学で点数を稼げたのが幸いだったように思います。

<トルコ航空DC-10パリ墜落事故>パリのオルリー空港を離陸したトルコ航空981便ダグラスDC-10型機(TC-JAV (cn 46704/29))が貨物室ドアの鍵の不良で高度12000ft(3600m)に達した時に貨物室ドアが吹き飛び、乗客が機外に吸い出され、さらに与圧の関係で客室の床が抜け、尾翼をコントロールするケーブルが破断し、コントロール不能となってエルメノンビルの森に墜落した事故。
1985年の日航ジャンボ機事故以前の単独航空機事故としては最大数の犠牲者(364名)を出す事故。なお、TC-JAVという機体はダグラス社が全日空向けに製造した機体だったそうで、ロッキード事件で全日空はロッキードL-1011(トライスター)を購入することになったため、トルコ航空に破格の条件で販売されたものであったそうです(Wikipediaより)。

この事故の2年前1972年6月12日にデトロイト空港を離陸したアメリカン航空96便(DC-10-10 N103AA (cn 46503/5))がカナダ・オンタリオ州ウインザー上空で貨物室ドアが破損し、緊急着陸した事故"Windsor incident"の教訓:貨物ドアの欠陥にメーカーおよび行政が適切に対処しなかったことが原因とされています。

発表後、入学手続き等を済ませ、3月31日に開かれる健康診断までの間に、秋田県能代市に住む祖父のもとに行って「大学合格を報告してこい」ということになり、1972年夏の萩旅行同様に弟とふたりで行くことにしました。折角、能代まで行くのだから、連絡船で函館まで行ったらというプランも追加され、能代からの帰りに青森まで行き、連絡船で函館往復、夜青森から寝台電車特急「ゆうづる」で東京に戻るという旅程がくまれました。ただ、往路の特急「つばさ1号」は既に満席で、臨時の「つばさ51号」しか確保できず、復路の「ゆうづる5号」のB寝台券は完売されており、グリーン指定席しか残っていないとのことでした。

3月27日朝、定期の181系特急「つばさ1号」が上野駅地平17番線ホームから8:04に出発するのに対して、我々が乗車する臨時「つばさ51号」は同じホームから1時間後の9:04に出発します。

車輌はキハ181系ではなく、1972年~1974年にかけて製造された14系座席車です。牽引する機関車は宇都宮機関区のEF65 1049号機でした。


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EF65 1049(宇)が先頭に付き出発準備する臨時「つばさ51号」8001レ 秋田行き

カメラはハーフサイズのオリンパスPenで、当時よくやったミスがカメラのストラップを写し込んでしまうことでした。

臨時「つばさ51号」の停車駅と時刻を定期のつばさ1号と比較しながら当時の時刻表をもとに示します。

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定期と臨時では上野出発の際の時間差は1時間ですが、客車での運行のため、機関車交換(黒磯、福島、山形)での時間的ロスもあり、秋田到着時点では2時間23分の差に拡がっています。

鉄道ファンとしてはこの機関車交換が大きなイベントでした。


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宇都宮機関区で休むEF57, EF15, EF65PF

これまでにも東北本線の旅は数回経験していましたが、列車が宇都宮駅にさしかかったところで見える機関区の風景は「東北本線のヌシたちのたまり場」といった感じでワクワクしたものでした。つばさ51号の場合、宇都宮には停車せずに黒磯を目指しました。14_740327_3
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黒磯での機関車交換

黒磯での最初の機関車交換でEF65が切り離され、ED75 125号機が連結されました。

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福島での機関車交換

続いて福島では板谷峠用にEF71 7が連結されました。
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山形で切り離されるEF71 7


山形から先は非電化区間であったためにDD51牽引となりました。

14系客車の印象ですが、1972.7にデビューした183系電車と同じように簡易リクライニングシートが装備された客室でした。ただ、この簡易リクライニングシートは倒した状態でロックされず常に体重をかけていないといけないシステムでしたので、かなり疲れたのが正直な感想でした。


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かつての東能代機関区の様子とED75 702号機

東能代駅のヤードはかつての東能代機関区を偲ばせる広大なもので、その当時の様子は
http://d51791.com/index.html のサイトに写真付きで詳述されています。


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逆方向からみた当時の東能代駅


ED75の横のDCは五能線の列車、対向式ホーム部分が奥羽本線

1971年高校1年の夏に能代を訪問した際にはまだ電化されておらず、C61やD51,8620などが活躍する姿を見ていたのですが、写真には収めていませんでした。


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当時の奥羽本線の旅客列車 

まだ50系客車は投入されておらずED75 700番台の牽引する客車列車がメインでした。

能代では東能代まで五能線で出て、東能代から二ツ井まで奥羽本線の列車で行き、先祖代々の墓参りをしましたが、なにせ前回来たときの記憶がないのと、同じ姓の墓石ばっかりで後で聞いたら別の家の墓にお参りしていたとのことでした。


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藤琴川と奥羽本線橋梁 きみまち坂から

写真は1980.8に撮影したものですが、奥羽本線が単線の時代は左側の道路の橋梁が鉄道の橋で、電化・複線化の際に線路を移設して、橋を掛け替え、トンネルも新しく掘ったそうです。菩提寺はちょうど線路が左に曲がって行くカーブの内側にありましたが、1990年代の国道7号バイパス工事で、あらたな橋がこのふたつの橋の間に架かり、寺は正面右手の山の麓に移転しました。
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青森を出航して津軽海峡に出たあたりで甲板から写した津軽海峡の様子

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乗船した「大雪丸」の船内案内図

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当時の函館駅の駅舎

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函館駅の特徴的なカーブしたホーム

ホームに入っていた気動車は江差線のキハ24でしょうか。

<キハ24形について>
酷寒地向け1機関搭載の両運転台車で、1967年(昭和42年)4月に10両のみが日本車輌製造で製造された。新製当初は1 - 4、9、10が函館機関区(函ハコ)、5 - 8が郡山機関区(仙コリ)に配置され、会津若松機関区で使われたが、全車が2年以内に北海道へ移動し、5、6が旭川機関区(旭アサ)、7、8が釧路機関区(釧クシ)に転属した。函館では「松前」、「せたな」、「えさし」、釧路では「ノサップ」などの急行列車にも、キハ22形に伍して使用された。全車がJR北海道に承継され、1 - 4、9、10は函館を一度も離れず、10が1992年 (平成4年)、その他は1995年(平成7年)に、5 - 8は民営化後に苫小牧運転所(札トマ)へ転属となり、1994年に廃車となった。(Wikipediaより)
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函館市電の函館駅前停留所

人生で初めての渡道であり、しかも滞在時間僅か数時間でしたが、函館の観光名所を大急ぎで回った憶えがあります。

北海道とは大学入学後1年と2年の夏休みに教養学部化学部の実験旅行で2週間ほど滞在する機会があり、さらに同じ年の秋休みにも高校時代の友人と男3人の旅をしており、1974,1975年の2年間はなんと4回も渡道することになりました。

その頃は、函館本線山線のC62 2ニセコ号は終わっていましたが、室蘭本線でC57貴婦人の牽く旅客列車が最後の活躍をしている頃で、夏休みの実験旅行の後で登別や追分でC57,D51,9600などを撮る機会に恵まれました。また、道内発の特急電車としてデビューした485系1500番台「いしかり」の姿も捉えることができました。

能代との関係は1978年に祖母が他界し、開業医だった祖父が能代で医院を続けていたため、両親が1978年以降、正月、春休み、夏休みと最低年3回は能代に行くことになり、私も1978年には運転免許を取得した関係で往復のドライバーとして能代に行くことになりました。奥羽北線は寝台特急、昼行特急のルートでもあり、1978年から祖父が他界する1989年まで、この辺での列車撮影の機会に恵まれました。

因みに今回の函館渡道の後は、往きに較べてかなり荒れた津軽海峡を渡り、青森から583系のサロ581の旅を経験することになりました。当然のことながら、車輌断面が大きいため天井が高く感じ、走行していてもゆったりした感がありました。しかし、無理をするものではないもので、帰京した翌日、大学入学のための健康診断において、検査値に異常が出て、体育の授業が半年間、病人扱いになってしまいました(笑)。

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2012年11月15日 (木)

1975/3 関門・関西へ 13 関西編3

関西編、最後に急行列車を纏めておきたく思います。

まずは、名古屋と大阪を結んだ急行「比叡」です。

Wikipediaの記事を参考に急行「比叡」の歴史を纏めると以下のようになります。

1956.11 準急列車として 405・406 名古屋駅 - 大阪駅間 設定
1957.10 名古屋駅 - 大阪駅間運転の準急列車も3往復に増発されて80系電車使用列車となり、翌月には「比叡」と命名されました。
1958.10 「比叡」は2往復増発されて5往復になりました。「東海」・「比叡」はこの時から153系電車に使用車両を順次変更することになりました。
1961.10 8往復に増発
1965.10 4往復に削減
1966.3 運行距離100kmを越す準急列車は全て急行列車へ格上げすることになり、「東海」・「するが」・「日本平」・「比叡」は急行列車となりました。
1972.3 ビュッフェ車サハシ153は営業休止となり、2往復に削減されました。
1980.10 1往復に減便
1984.2 廃止

153_750306
153_750306_4

大垣区の153系ですが、比叡以外の列車にも使用される関係で、いろいろなHMに替えられるシステムだったようです。
153_500_750306_3上り方は高運転台の500番台です。

歴史にも書かれているように「比叡」の列車そのものは改正後も存続しましたが、HMの掲出はこの改正で終わったようです。

続いて急行「立山」です。

その歴史は

1956年11月 上野駅 - 長岡駅 - 大阪駅間で運転されていた急行「北陸」が上野駅 - 福井駅間に短縮される。その代替として運転開始。
1965年 電車化される。
1975年3月 「雷鳥」とともに湖西線経由となる。
1982年11月 「雷鳥」に編入される形で定期運行がなくなり、583系電車による夜行の臨時列車1往復のみとなる。
1985年3月 廃止

471_750306
471_750306_2
11番線から出発を待つ急行「立山1号」 501M

以上、大阪駅で最後に581/3系寝台特急「きりしま」を撮影して、新幹線で東京に戻りました。

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1975/3 関門・関西へ 12 関西編2

前回は客車列車の到着をアップしましたが、今回は電車・気動車編と参ります。
当然のことながら、前日、小倉で見た面々が再登場となりますが。
485_4810_750305大ムコ481/5系、0番台による西鹿児島行き特急「なは」

ロール式HM表示方式ですが、文字が結構内側にあるせいか写真写りもあまり芳しくありません。もっとも、最近のHM表示すら無い特急車両よりは良いと思いますが。「なは」という愛称は寝台電車特急に引き継がれました。

485_481300_750306既に「日向」の表示は無かったのか、昨日小倉で見た「なは」に使用の300番台クハ

昨年4月の改正で電車特急になったものの、この改正で11ヶ月の短い生涯を閉じる宮崎行き電車特急「日向」
82_750306_3「かもめ」としての活躍もあと僅か

1961.10のダイヤ改正以来、14年の長きに渡って関西と九州を山陽本線を介して結んできたキハ82DC特急もあと数日でその歴史を閉じることに。大阪駅でのDC特急の発着は37年経った今日も続いています。

485_481200_750306_2_2大分、宮崎特急としての「みどり」もあと数日。

みどり」という愛称は1976.7の長崎本線・佐世保線電化開業で佐世保線特急に復活します。

581_750306_1151系特急として登場して以来、岡山開業でも生き残り、本数を毎年増やして来た「しおじ」も今回ついに全廃に。

581/3系の間合い運用としては改正後も「しらさぎ」「有明」は残りますが、山陽本線昼行特急は消えゆく運命に
581_750306京都・新大阪~西鹿児島間を結んだ「きりしま」

名称は消えますが、列車は「なは」と名前を変え、さらにブルートレイン化されて存続
485_4810_740929_2クハ481 0番台赤スカートの「雷鳥」

「雷鳥」自身は改正で消える特急ではありませんでしたが、大ムコの481/5系のうち、481系や485系の初期車として増備された車輌がこの改正で鹿カコに転属となり、赤スカートクハの「雷鳥」も改正後は見られなくなりました。それを知らずに3月の旅行では撮影していなかったので1974.9.29に撮影した写真をここに載せます。

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2012年11月14日 (水)

1975/3 関門・関西へ 11 関西編1

下関、北九州地区でひととおり、撮影をした後は、下関発19:25発、急行「音戸2号」302レで、大阪に向かいました。

人生二度目の10系客車スハネ16による寝台客車の旅でした。最初は小学校2年頃に父親と二人で秋田に行った際に上野から上越線周りの急行「鳥海」の寝台車に乗ったときで秋田に茶色のDF50がいたのを見た憶えがあります。いくら小学生とは言え、52cm幅の寝台に親子ふたりはきつく、殆ど寝られなかったの憶えています。

今回は、前夜ほぼ徹夜の「高千穂・桜島」乗車に続いて、一日中、雨の中下関、門司、小倉で写真を撮り、下関駅のホームで駅弁を買って乗車してからは積もった疲れもあって、翌朝目覚めたら、大阪到着寸前でした。

昔から大きな駅でスポッティングする際には時刻表を作って、いつどのホームにどんな列車が入ってくるか見ればすぐに分かるようにしておきましたが、今回もそれを思い出しながら、大阪駅の到着時刻表を作ってみました。

7503
今回は、山陽本線、日本海縦貫線からの到着した客車列車の写真を挙げて行きます。
Ef58_77_750306
5:59 EF58 77号機に牽引されて「あかつき1号」26レが到着

Ef61_4_750306_2
EF61 4牽引の荷38レが6:11に到着、6:35の発車まで長時間の停車

Ef58_22_750306_2
6:14 EF58 22号機に牽引され「彗星1号」48レが到着

Ef61_14_750306
6:43には名古屋まで行く急行「阿蘇」214レがEF6114号機に牽引されて到着

Ef65_502_750306
6:59着「あかつき3号・彗星2号」32レは下関所属のEF65 502号機牽引

750306
7:28に到着した東京行き急行「高千穂・桜島」1102レが7:35に10番線を発車
殆どがスハ43系(スハ43形、スハフ42形)客車で組成されていたようだ

Ef58_115_750306
「あかつき4号」30レを牽引して大阪に到着したEF58 115号機

11番線に7:48発急行「立山1号」501Mが入線しているところから推察して、この列車は本来は「高千穂・桜島」より前の7:25に到着するはずの列車であるが、この日は遅れた模様である。
Ef65_522_750306
8:43着の「彗星4号」46レはなんとEF65 500F形 522号機の牽引

(2015/5/31 追記:EF65 522 Fタイプの「彗星」牽引、ずっと疑問に思っていたのですが、「国鉄時代 26」の記事で担当の経緯が分かりました。1975年3月改正直前で米原区のEF58が不足したために、同改正前に米原区に配置された522、523号機がピンチヒッターとして代行で運用されたようです。なお、F型のブルトレ牽引は1965年10月改正513~517号機が東京機関区に配置され,翌年に吹田二区に転出するまでP型と伍してブルトレ運用に就いたこと、1972年10月改正前に3月改正で増発された「あかつき」「彗星」と東京区のEF65 500Pから運用移管された「日本海」の運用に下関区のPFと一緒に運用されたことでした。10月改正ではEF58が関西ブルトレ牽引に復活しましたが、その準備が整うまでのピンチヒッターでした。) 成田冬紀氏の特急列車異聞の記事に書かれたエピソードのひとつです。

Ef58_12_750306_2}
10:25「彗星5号」42レを牽引して到着した大窓EF58 12号機

20_21_750306
ブルートレインのラストはこの改正で消える20系「あかつき7号」10:32着

Ef58_750306
一方、日本海縦貫線系ブルートレインでは「つるぎ」「日本海」がありましたが、「つるぎ」は5:52で間に合わず、8:25到着の日本海を写しました。

それにしても西から到着する列車だけでこれだけ過密スケジュールであり、今では信じられない状況です。牽引機はEF58がメインでしたが、なかにはEF65 500PやさらにはEF65 500Fに牽引された列車もあり、そういった牽引風景が撮影出来たことはラッキーでした。

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2012年11月13日 (火)

1975/3 関門・関西へ 10 北九州の交流機

山陽本線で関門トンネルを抜けると旅客列車の場合は門司駅到着寸前に交直のデッドセクションがあり、交流60Hz区間に入ります。貨物列車の場合は、門司駅を通り過ぎて、北九州ターミナルに向かって下り出す途中にデッドセクションがあります。

Ds_100829
門司駅の旅客線(手前)の交直デッドセクション(ビーム下が黄色の部分)

071218_4
貨物線のデッドセクション

現在、この地域で活躍する電気機関車は交流機ED76、交直両用機EF81,EH500の3種類になってしまいましたが、あの当時、交流機は水銀式整流器のED72、ED731000、北陸からやってきた初のシリコン整流方式のED74、赤ベコの60Hz バージョンED75300、そしてED76、交直両用機はEF30とEF81300と実に多くのタイプが活躍しておりました。前年秋の初の九州旅行でもこれらの機関車は写しましたが、今回も出来る限り、狙うことにしました。すでにEF30, EF81300に関してはその1で紹介してありますので、今回は交流機に限定します。

まずED72です。メカ的にはED71 の試作2号機で試用された乾式変圧器・風冷式イグナイトロン水銀整流器方式を採用し、2両の試作車が製造された後、20両量産されています。動輪4軸に加え、中間台車を持つ車体を持ち、1961年に製作された試作車はクイル式駆動を採用し、主電動機はMT103形を搭載して2,000kW級の出力規模となりましたが、1962年製造の量産車ではクイル式から吊り掛け式へ変更となり、前照灯や側面の形状が変わりました。

その試作2号機がなぜか門司駅のホームに停まっており、撮影することが出来ました。
Ed72_2_750305
Ed72_2_750305_3門司駅のホームで休む?試作2号機

水銀整流器は真空管(二極管)のようなもので保守運用の非効率と信頼性の低さという弱点があったため、1970年代にはシリコン整流器に置き換えられました。その結果、格子位相制御によるタップ間連続制御の喪失と、速度制御の高圧タップ切換依存とのこととなり、起動時の粘着性能低下や衝動の増加などの弊害を招きました。さらに列車暖房を必要とする客車列車の減少から、一部車両はSG・燃料タンク・水タンクを撤去する工事が施工されました。

Ed72_17ED72 17号機牽引の14系寝台特急「みずほ」 筑前新宮

次は姉妹機のED73です。貨物列車や寝台特急牽引用にED72からSGを外した機関車です。SG搭載の分、長かった胴体は短くなり、中間台車もなくなりました。試作車は製作されず、ED72の量産機のメカを取り入れた量産車が1962年に11両、1963年に11両製造されました。

1968年10月1日のダイヤ改正で20系客車により運転されていた寝台特急列車は、ASブレーキに中継弁 (Relay valve) ・電磁給排弁 (Electro-pneumatic valve) ・ブレーキ率速度制御機能を付与したAREB増圧装置付き電磁指令式自動空気ブレーキへの改造を施工し110km/hで、また10000系貨車による高速貨物列車は100km/hで運転されることになりました。九州地区では本形式が牽引に充当されることになり、対応する改造をまず1 - 12に施工し、翌年には全機1000番台化されました。ナンバーは黄色表示されていました。

Ed73_1022_750305ラストナンバー1022号機が牽引する貨物列車 小倉

Ed73_1020ED73 1020号機牽引のコンテナ貨物 筑前新宮

続いてはED74です。もともと北陸本線電化で最初に投入されたED70の増備として北陸トンネル以外の平坦区間用に1962年に投入された機関車でしたが、1961年に投入されたEF70で北陸本線は一本化されたため、6両の小グループ生産に留まりました。技術的にはD形機としては初のシリコン整流器方式の機関車となり、電圧制御は高圧タップ切り換え方式でした。1968.10のダイヤ改正で全機日豊本線に転属し、その際にED76と牽引定数を合わせるために死重搭載、元空気ダメ管の装備を行っています。

Ed74_2_750305小倉を通過する2号機牽引の日豊本線上り貨物列車

Ed74_4_750305_24号機牽引の日豊本線下り貨物列車が小倉で一時停止

軸重制限のため、走行線区は大分以北に限定され、寝台特急「富士」「彗星」牽引の輝かしい歴史も持っていますが、1978.10の改正で運用離脱・休車となり、1982年に全機廃車となったそうです。

続いてED75300番台です。60Hz用のED75 ということで、EF81300番台もあり、300番台は九州用バージョンの番台かというイメージがありましたが、金太郎(EH500)の300番台はありませんでした(笑)。ED73形の増備機として九州地区で使用するため、1965年に10両(301 - 310号機)1968年に1両(311号機)が製造されましたが、軸重の問題やSGなしで旅客列車の牽引が出来なかったことで運用効率は良くなく、増備はされずED76によって淘汰される形で1986年3月に全機が一斉廃車となりました。

Ed75_300_750305重連で鮮魚列車レサ編成を牽く
Ed75_301トップナンバーが牽くコンテナ貨物

Ed75_303_750305303号機が牽くコンテナ貨物

Ed75300_750305自動車輸送貨物(ク)を牽引

最後はED76です。現在も活躍する九州のヌシとなった機関車で、ED75にSGと中間台車を付けた仕様で1965年から製造され、0番台は94両、20系客車および10000系貨車の最高速度100km/h牽引に対応するため、電磁ブレーキ指令回路・元空気ダメ引き通し管・応速度編成増圧ブレーキ装置などを装備した1000番台が1970年から1979年にかけて23両が製造されました。
Ed76_17x_750305小倉で出発を待つED7617他重連の貨物

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2012年11月12日 (月)

1975/3 関門・関西へ 9 下関ローカル

当時、下関や小倉で観ることができた特急として、「まつかぜ」や「にちりん」がありますが、これらは1975.3の改正後も存続し、1977.3の中国地方、九州北部旅行で写すことが出来たので、その時の記事で紹介することとして、今回は当時下関で写すことができたローカル車輌を何点か紹介致します。

まずは、宇部線、小野田線の旧型国電です。葡萄色の車体に黄色の警戒色のスタイル、3枚扉でドア間の窓の数が6であることからクモハ51かと思いました。半流型の車体で里山工房さんのサイトにあるクモハ51のお写真
http://satoyama.in/auto/sharyo/auto595.htmlと見比べるとクモハ51先頭でクモハ51+クハ55の2連を繋げた4連かと思われます。奥の方のホーム(8番線)に上り「あさかぜ1号」14レ16:05発が入線しているので、午後4時前後か思われます。
41_2
因みに1975.3.31時点での宇部・小野田線関係の配置表では
クモハ12 027
クモハ40 023, 067
クモハ41 019, 022, 024, 026, 031, 042, 046, 050, 051, 052, 082, 083, 084, 126
クモハ42 001, 005, 006
クモハ51 031, 036, 040, 041
クハ55    009, 022, 036, 046, 052, 053, 073, 081, 090, 094, 111, 113,320, 324, 328, 340 
の計41両が配置されていました。

小野田線のクモハ42は本山支線のホーム長の関係で2003年3月14日まで残され、最後の旧国として話題になりました。

続いて、山陽本線関係では80系が活躍しており、1949年末から製造された初期車(クハ86001 - 86020)のうちの一両を先頭とした編成も頑張っていました。

86000_750305_2
さらに300番台、全金製のクハもいました。
80_86300_750305_2
また、前面はあの頃デビューした103系の高運転台車にそっくりで側面は種車のサロそのもののクハ85もいました。
85300_750305クハ85形先頭の山陽本線普通電車と並んだ421系電車

東京や大阪の大都市圏輸送に活躍した車輌が、運転台取り付け改造を経て、第二の人生を歩む姿は今も同じです。

因みに1975.3時点で初期型3枚窓のクハ86001-020は全て健在で
名カキ(004, 019)
岡オカ(003, 007, 008, 009, 014, 018)
広ヒロ(002, 005, 010, 011, 013, 015, 017)
広セキ(001, 006, 012, 016, 020) に配置されていたのですね。

今から思えば、なんどもっと旧国をきちんと撮っておかなかったのかと思いますが・・・

代わって、九州から乗り入れてきていた421/415系です。421/415系は北九州地区の中距離電車として活躍が始まる前から151系の九州乗り入りれのエスコート役としてED73からの電源を供給するサヤ420としての活躍が全国的に知れ渡っておりました。なんと今日に至るまで関門トンネルを潜って本州側に顔を出す九州のローカル電車は421系~415系系列に限られています。果たしてJR九州は後継の交直流車輌を作るのでしょうか?

このときは高運転台車しか撮っていませんが、後年の九州旅行でオリジナルの低運転台車も撮りました。

後年、門司発の山陰線直通DC列車というのを見たことがありますが、このときはDF50やDD51牽引の客車列車が走っておりました。
Df50_528_750305DF50 528に牽引されて下関を出発する山陰本線普通列車
Dd51_665_750305DD51665号機に牽引されて下関に到着した山陰本線普通列車

ここでDF50に関する豆知識(Wikipediaによる)

製造:1957年に先行試作車が製造され、以後1963年まで増備された。
国鉄のディーゼル機関車の中では初めて本格的に量産ベースに乗った形式
発電用のディーゼルエンジンと駆動用のモーターを搭載した電気式

番台区分:
0番台>三菱重工業がスイスのズルツァー社のエンジンをライセンス生産した直列8気筒直噴式の8LDA25A(1,060馬力)を搭載したもの、65両
500番台>川崎重工業と日立製作所がドイツのMAN社のエンジンをライセンス生産したV型12気筒予燃焼室式のV6V22/30MA(1200馬力)を搭載したもの、73両

【問題点】
電気式のため、全車軸を駆動軸にできることから粘着力は高く、勾配では空転を起こさずに登坂できたが、反面、元々の出力が低すぎ、著しい速度低下をきたした。このため、急勾配区間での貨物列車牽引では重連仕業を強いられた。また、平坦区間でも出力の余裕に乏しく、走行性能面は、従来使用されてきた亜幹線用の蒸気機関車と同程度に留まった。
駆動方式が電気式で搭載機器が多い上、国外メーカーライセンスのエンジン搭載という制約もあって製造コストが高すぎ、無煙化のために大量増備するのに適した機関車とは言えなかった。

【経緯】
1962年には1,000馬力級エンジン2基を搭載した強力な液体式機関車のDD51形が登場する。出力の割には製造コストを抑えられるDD51形がほどなく量産ベースに乗るに従って、重量級列車や高速列車の牽引が多い主要幹線にはDD51形が導入され、DF50形は順次、比較的軽負荷な運用の多い亜幹線に転用された。昭和50年代に入ると電化の進展もあって多くが廃車となった。

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2012年11月10日 (土)

1975/3 関門・関西へ 8 山陽 玄海

まずは山陽本線 岡山~下関の直流区間を結んでいた急行「山陽」から。

Wikipediaの山陽本線優等列車沿革から「山陽」という愛称のついた列車をピックアップすると
1960年5月 岡山駅 - 博多駅間にキハ55系による気動車急行「山陽」新設
1961年6月 「山陽」(岡山駅 - 博多駅)キハ58系
1965年3月 「有明」 岡山駅 - 熊本駅…「山陽」を区間延長し475系電車化。
「山陽」 広島駅 - 博多駅…準急「長門」を格上げして区間延長し475系電車化。
1968年10月 「山陽」(3往復) 岡山駅 - 広島駅・下関駅 153,165系電車 (「みずしま」・「とも(旧)」を統合) 新設「はやとも」 広島駅 - 博多駅 475系電車 (「山陽」を改称)
1970年10月 「吉備」1往復が山陽本線経由となり「山陽」に編入、「山陽」4往復となる。
1972年3月 「山陽」 岡山駅 - 広島駅、南岩国駅、下関駅間8往復に増発。また、下関駅 - 広島駅間に上りのみ1本運転。「ながと」岡山駅打ち切りとなり、「山陽」に編入。「やしろ」「山陽」に統合。
1974年4月 山陽」(下り7本、上り9本)岡山駅 - 広島駅、下関駅 広島駅 - 下関駅、さらに季節列車・臨時列車で(3往復) 岡山駅 - 広島駅、下関駅
1975年3月 全廃

山陽本線ではかつて急行「鷲羽」が1972年の改正までは定期・季節合わせて11本の設定があったのが、改正で一気に定期1本・季節1本の2往復にまで数を減らしたことがありましたが、今回はそれに勝るとも劣らない大きな変化でした。

それでは「山陽」の写真を

153_750305_2
153_750305_3クハ153の初期(低運転台)車を先頭とした急行「山陽」

153_750305上り特急「まつかぜ」2012Dと並んで発車待ちする急行「山陽6号」、当時の時刻表では同列車は小郡まで快速列車として運行。

つづいて、九州直通の急行の中から「玄海」を、

同じくWikipediaの山陽本線優等列車沿革から「げんかい」もしくは「玄海」の愛称を追ってみると、

1951年4月 大阪駅 - 博多駅間に、臨時急行3033・3034列車を運転開始。関西から九州へ向かう夜行急行列車が誕生した。
1952年9月 臨時急行3033・3034列車は定期急行に格上げられ、「げんかい」と命名された。
1955年7月 「げんかい」は、漢字書きの「玄海」となる。また同月、一等寝台車が利用率の悪かったことから廃止され、それまでの一等寝台は二等寝台A・B室、それまでの二等寝台は二等寝台C室となる。
1956年11月「玄海」は「あさかぜ」に輸送を譲り、京都駅 - 長崎駅間(大村線経由)に運行区間を変更。
1957年7月「玄海」は京都駅 - 鹿児島駅間運転となり「桜島」に改称。
1958年4月「桜島」は博多駅までに区間短縮されて「玄海」と再改称。
1961年6月 不定期で大阪駅 - 長崎駅間に「第2玄海」が新設。「玄海」は長崎駅発着に変更。
1968年10月「玄海」 名古屋駅 - 博多駅 475系電車 (「はやとも」を改称)「雲仙」 京都駅 - 長崎駅 客車寝台 (「玄海」を改称)
1972年3月 「玄海」 岡山駅 - 博多駅、熊本駅間に運行区間が短縮された代わりに、3往復となる。「つくし」 季節の昼行1往復を岡山駅打ち切りとし、「玄海」に編入。「しらぬい」「玄海」に統合。
1975年3月 全廃

 

急行「玄海」のHM付きの貴重なお写真はこちらこちらのサイトで見ることができます。なお、「玄海」という愛称の急行はなんと1991年から1995年にかけてJR西日本による20系臨時急行として品川~博多間で運行された様ですね。私はその頃は旅客機の時代で全く気付かずでした。

471_750305門司を発車する上り急行「玄海」208M

急行「玄海」の歴史を見ていて、思い出しましたが、東海道新幹線開通後(確か1966年の夏休み?)、初めて家族で新幹線に乗って萩に帰省したとき、本来は大阪から瀬戸内航路を使って、別府に行き、そこから萩に行く行程を計画していましたが、台風の襲来で船が欠航となり、急遽、山陽路を陸路でということになりました。その時、新大阪から乗車したのが「玄海」の前身の「はやとも」で当時は、新製間もないといった感じの471系電車で、60Hzを意味するボディ下の線も入っていました。広島まで乗車しましたが、広島直前で雨でしたが瀬野八を通過し、カーブと急坂の連続に驚いた憶えがあります。広島から153系急行「鷲羽」で下関へ。153系にはビュッフェが付いていて、ハムサラダを食べた憶えがあります。下関で山陰線の米子行きだったと記憶していますが、DF50の牽引する急行「島根」に乗り換え、萩に着いたのは午前2時過ぎだったのを憶えています。

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1975/3 関門・関西へ 7 かもめ

山陽、九州を結ぶ昼行特急の最後はキハ82を先頭とするキハ80系気動車特急の「かもめ」です。

「かもめ」の列車名が初めて登場したのは1937年の東京~神戸間を結んだ特急「」が最初で、この列車は1943年まで運行されています。同時期に走っていた「」より30分先行し、同区間を走っていた「」より所要時間が20分ほど長くかかり、同じ時間帯を走る「富士」「」の補助的列車であったそうです。

戦後は1953年に京都~博多間の特急(5レ、6レ)として運行が開始され、所謂スハニ35,スハ44,スハフ43の片方向固定シートの特急客車を連結して運用したため、終端駅での方向転換が必要な編成となっていました。この不便を解決するために1957年にナハ11,ナハフ11に車輌が置き換えられています。

1961.10の改正でキハ82系気動車特急(京都~宮崎・長崎)となりました。このとき、ハハハシロハといわれた基本編成を2本使用したため、食堂車が2両連結される構成となっていました。

担当は向日町運転所(大ムコ)で10月の改正に向けて6月から9月にかけてキハ80系気動車が78両新製配置されました。

その内訳は
キハ82 8,  9,18,19,20,21,22,23,26,27,28,29,30,31,32,33,34,35,36,37,38,39,40,41,42,43   26両
キハ80 15,16,22,23,24,27,32,33,36,37,38,39,40,41,4243,44,45,46,47,48,49,50,51,52,53 26両
キロ80 9,11,13,14,19,20,21,22,23,24,25,26,27  13両
キシ80 6, 7, 8, 9,13,14,15,16,17,18,19,20,21  13両 

で同じタイプの6両編成13本が5種類の特急で共通運用という形でスタートしました。

←長崎、宮崎、松江、青森
DcDsDdDDDc×13 所要10
白鳥(1)、かもめ(1×2)、みどり(1)、へいわ(1)、まつかぜ(1)
 大阪18002240広島
 広島7301210大阪13402235博多
 博多7251620大阪
 京都8002005長崎
 長崎9502200京都
 京都8002200宮崎
 宮崎8002200京都
 大阪8052350青森
 青森5202112大阪
 京都7301405松江15002135京都

「みどり」に関しては運転開始を12月頃として、12両を青森、秋田、長崎、宮崎に各3両ずつ組み替え用として仮配置し、初期トラブルに対処しました。また特急列車が故障した際の特発する計画として青森に3両、盛岡に2両、秋田に2両、竹下に6両、長崎に1両のキハ58系を配置しました。

1962.6.10の改正では山陽本線三原~広島間の電化完成で早くも特急「へいわ」が廃止となっています。特急「へいわ」のダイヤは151系東海道「つばめ」の広島延長に使用されました。

←長崎、宮崎、松江、青森
DcDsDdDDDc×12 所要9
白鳥(1)、かもめ(1×2)、みどり(1)、まつかぜ(1)
 大阪13402235博多
 博多7251620大阪
 京都8002005長崎
 長崎9502200京都
 京都8002200宮崎
 宮崎8002200京都
 大阪8152350青森
 青森5202107大阪
 京都7301405松江15002135京都

DcDsDdDDDc×1

1963.4.20の改正では尾久からの転入と函館への転出があり、特急「白鳥」の上野編成(信越白鳥)を大ムコが担当するようになりました。

←長崎、宮崎、松江、青森
DcDsDdDDDDc×3 所要2
白鳥(付属1)
 大阪8152035上野
 上野8502107大阪

DcDsDdDDDc×11 所要9
白鳥(1)、かもめ(1×2)、みどり(1)、まつかぜ(1)
 1962.6~と同じ

Dc×1 D×1

7月20日に向日町運転区から向日町運転所になりました。

1963.10.1の改正では編成の増強がなされると同時に、特急間で編成の差別化がなされました。

←長崎、宮崎、松江、青森
DcDsDdDDDDc×11 所要9
白鳥(1×2)、かもめ(1×2)、まつかぜ(1)
 大阪8152020上野
 上野9052107大阪
 大阪8152347青森
 青森5202107大阪
 京都8002008長崎
 長崎9502200京都
 京都8002201宮崎
 宮崎8002200京都
 京都7301405松江15002135京都

DcDsDdDDDc×3 所要2
みどり(1)
 大阪13402235博多
 博多7251620大阪

Dc×1 D×2

1964.3.20の改正に向けて車輌に新製配置が行われ、特急「まつかぜ」は特急「みどり」と共通運用化され、博多まで延長されました。

←長崎、宮崎、松江、青森
DcDsDdDDDDc×10 所要8
白鳥(1×2)、かもめ(1×2)
 大阪8152020上野
 上野9052107大阪
 大阪8152347青森
 青森5202107大阪
 京都8002008長崎
 長崎9502200京都
 京都8002201宮崎
 宮崎8002200京都

DcDsDdDDDc×5 所要4
みどり(1)、まつかぜ(1)
 大阪13402235博多
 博多7251620大阪
 京都7302055博多
 博多8202135京都

DDDc×2 所要1
まつかぜ(付属1)
 京都7301334米子15342135京都

Dc×1 D×1 Ds×1 Dd×1

1964.10.1の改正では山陽本線全線電化が完成し、初代特急「みどり」(大阪~博多)は電車化され、新たに特急「みどり」(新大阪~熊本・大分)が新設されました。特急「まつかぜ」編成のみ単独運用となりました。

←長崎、宮崎、青森
DcDsDdDDDDc×12 所要10
白鳥(1×2)、かもめ(1×2)、みどり(1)
 大阪8152020上野
 上野9052107大阪
 大阪8152347青森
 青森5202107大阪
 京都8002008長崎
 長崎9502200京都
 京都8002201宮崎
 宮崎8002200京都
 新大阪10302135熊本
 熊本8301935新大阪

DcDsDDDDc×2 所要2
みどり(付属1)
 新大阪10302110大分
 大分9101935新大阪

DcDsDdDDDc×3 所要2
まつかぜ(1)
 京都7302055博多
 博多8202140京都

DDDc×2 所要1
まつかぜ(付属1)
 京都7301333米子15342140京都

Dc×1 D×2 Ds×2 Dd×1

1965.10.1
の改正前には大量の新製配置が行われ、特急「かもめ」の宮崎発着の編成を鹿児島本線経由で西鹿児島発着に変更、食堂車も西鹿児島編成のみ連結とし、宮崎編成は「いそかぜ」に改称(これが後に「日向」に)。「いそかぜ」は大阪~宮崎・佐世保(筑豊本線経由)として運行。特急「みどり」の熊本編成は熊本電化で電車化され特急「つばめ」となり、新大阪~佐世保・大分となりました。「信越白鳥」が「はくたか」として独立し、金サワ受け持ちとなりました。

←長崎、宮崎、新潟
DcDsDdDDDDc×7 所要6
かもめ(1)、みどり(1)、いそかぜ(1)
 京都8002250西鹿児島
 西鹿児島7102209京都
 新大阪10302050大分
 大分9151940新大阪
 大阪7402125宮崎
 宮崎8552236大阪

DcDsDDDDc×7 所要6
かもめ(付属1)、みどり(付属1)、いそかぜ(付属1)
 京都8002015長崎
 長崎9402209京都
 新大阪10302151佐世保
 佐世保8151940新大阪
 大阪7401751大分
 大分12212236大阪

DcDsDsDdDDc×3 所要2
白鳥(1)
 大阪8002335青森
 青森4402040大阪

DcDsDdDDDc×2 所要2
まつかぜ(1)
 京都7302055博多
 博多8202150京都

DDDDc×6 所要5
まつかぜ(付属1)、白鳥(付属1×2)
 京都7301334米子15362150京都
 大阪8001640新潟
 新潟11452040大阪
 大阪8002335青森
 青森4402040大阪

Dc×3 D×5 Dd×1

1965.11.1 新たに特急「やくも」を担当することになりました。車輌の落成の関係から11月になりました。

←長崎、宮崎、新潟
DcDsDdDDDDc×9 所要8
かもめ(1)、みどり(1)、いそかぜ(1)、やくも(1)
 京都8002250西鹿児島
 西鹿児島7102209京都
 新大阪10302050大分
 大分9151940新大阪
 大阪7402125宮崎
 宮崎8552236大阪
 新大阪12002022浜田
 浜田8201632新大阪

DcDsDDDDc×7 所要6
かもめ(付属1)、みどり(付属1)、いそかぜ(付属1)
 1965.10~と同じ

DcDsDsDdDDc×3 所要2
白鳥(1)
 1965.10~と同じ

DcDsDdDDDc×3 所要2
まつかぜ(1)
 1965.10~と同じ

DDDDc×6 所要5
まつかぜ(付属1)、白鳥(付属1×2)
 1965.10~と同じ

Dc×2 D×4 Dd×1

1966.10.1の改正

DcDsDdDDDDc×9 所要8
かもめ(1)、みどり(1)、いそかぜ(1)、やくも(1)
 京都8002250西鹿児島
 西鹿児島7102209京都
 新大阪10302045大分
 大分9151940新大阪
 大阪7402125宮崎
 宮崎8552236大阪
 新大阪12002022浜田
 浜田8201632新大阪

DcDsDDDDc×7 所要6
かもめ(付属1)、みどり(付属1)、いそかぜ(付属1)
 京都8002010長崎
 長崎9402209京都
 新大阪10302151佐世保
 佐世保8151940新大阪
 大阪7401754大分
 大分12212236大阪

DcDsDsDdDDc×3 所要2
白鳥(1)
 大阪8002335青森
 青森4402040大阪

DcDsDdDDDc×3 所要2
まつかぜ(1)
 京都7302055博多
 博多8202151京都

DDDDc×6 所要5
まつかぜ(付属1)、白鳥(付属1×2)
 京都7301334米子15372151京都
 大阪8001641新潟
 新潟11452040大阪
 大阪8002335青森
 青森4402040大阪

Dc×2 D×4 Dd×1

1967.10.1の改正 この改正の前に和歌山、鹿児島に転出がありました。日豊本線新田原~幸崎電化で特急「みどり」(新大阪~大分)が電車化されました。

←長崎、宮崎、新潟
DcDsDdDDDDc×7 所要6
かもめ(1)、いそかぜ(1)、やくも(1)
 京都8002252西鹿児島
 西鹿児島7102210京都
 大阪7402123宮崎
 宮崎9052236大阪
 新大阪12002022浜田
 浜田8201632新大阪

DcDsDDDDc×5 所要4
かもめ(付属1)、いそかぜ(付属1)
 京都8002010長崎
 長崎9402210京都
 大阪7401855佐世保
 佐世保11152236大阪

DcDsDsDdDDc×3 所要2
白鳥(1)
 大阪8002335青森
 青森4402040大阪

DcDsDdDDDc×2 所要2
まつかぜ(1)
 京都7302055博多
 博多8202151京都

DDDDc×6 所要5
まつかぜ(付属1)、白鳥(付属1×2)
 京都7301334米子15372151京都
 大阪8001641新潟
 新潟11452040大阪
 大阪8002335青森
 青森4402040大阪

Dc×2 D×3 Dd×2

1968.10.1の改正で運転区間は京都~長崎・佐世保へ、西鹿児島編成は「なは」に、「いそかぜ」の佐世保編成が「かもめ」に。

←長崎、宮崎、新潟
DcDsDdDDDDc×7 所要6
かもめ(1)、なは(1)、やくも(1)(臨時+1)
 京都8001948長崎
 長崎10102226京都
 大阪7402120西鹿児島
 西鹿児島8552236大阪
 新大阪12002022浜田2100526新大阪
 浜田8201633新大阪2106538浜田

DcDsDDDDc×5 所要4
かもめ(付属1)、日向(1)
 京都8001938佐世保
 佐世保10302226京都
 大阪7402108宮崎
 宮崎9052236大阪

DcDsDsDdDDc×3 所要2
白鳥(1)
 大阪8302340青森
 青森4402003大阪

DcDsDdDDDc×2 所要2
まつかぜ(1)
 京都7252051博多
 博多8202152京都

DDDDc×6 所要5
まつかぜ(付属1)、白鳥(付属1×2)
 京都7251333米子15362152京都
 大阪8301643新潟
 新潟11352003大阪
 大阪8302340青森
 青森4402003大阪

Dc×2 D×3 Dd×2

1969.10.1 の改正 信越本線直江津~宮内間の電化完成、北陸本線糸魚川~直江津間の複線電化完成により、特急「はくたか」は上越線経由となり、485系電車となりました。

←長崎、宮崎、新潟
DcDsDdDDDDc×7 所要6
かもめ(1)、なは(1)、やくも(1)
 京都8001948長崎
 長崎10102223京都
 大阪7402120西鹿児島
 西鹿児島8552236大阪
 新大阪12002022浜田
 浜田8201633新大阪

DcDsDDDDc×5 所要4
かもめ(付属1)、日向(1)
 京都8001938佐世保
 佐世保10302223京都
 大阪7402108宮崎
 宮崎9052236大阪

DcDsDsDdDDc×3 所要2
白鳥(1)
 大阪8402340青森
 青森4552003大阪

DDDDc×5 所要4
白鳥(付属1×2)
 大阪8401643新潟
 新潟11472003大阪
 大阪8402340青森
 青森4552003大阪

DcDsDdDDDc×2 所要2
まつかぜ(1)
 京都7252050博多
 博多8202152京都

DDDc×3 所要2
まつかぜ(付属1×2)
 1968.12~と同じ

Dc×1 D×1 Dd×2

1970.3.1の改正 特急「つばさ」の181系化で捻出された80系により、「やくも」編成が増強されました。

←長崎、宮崎、新潟
DcDsDdDDDDc×5 所要4
かもめ(1)、なは(1)
 京都8001948長崎
 長崎10102223京都
 大阪7402120西鹿児島
 西鹿児島8552236大阪

DcDsDDDDc×5 所要4
かもめ(付属1)、日向(1)
 京都8001938佐世保
 佐世保10302223京都
 大阪7402108宮崎
 宮崎9052236大阪

DcDsDsDdDDDc×5 所要4
白鳥(1)、やくも(1)
 大阪8402340青森
 青森4552003大阪
 新大阪12002022浜田
 浜田8201633新大阪

DDDDc×3 所要2
白鳥(付属1)
 大阪8402340青森
 青森4552003大阪

DDc×4 所要4
白鳥(付属1)、やくも(付属1)
 大阪8402340青森
 青森4552003大阪
 新大阪12002022浜田
 浜田8201633新大阪

DcDsDdDDDc×2 所要2
まつかぜ(1)
 1969.10~と同じ

DDDc×3 所要2
まつかぜ(付属1×2)
 1968.12~と同じ

Dc×1 Ds×1 Dd×1

1970.10.1の改正 鹿児島本線全線電化完成で「有明」は583系に置き換えられました。

DcDsDdDDDDc×5 所要4
かもめ(1)、なは(1)
 京都8001948長崎
 長崎10102218京都
 大阪7402117西鹿児島
 西鹿児島9002236大阪

DcDsDDDDc×5 所要4
かもめ(付属1)、日向(1)
 京都8001938佐世保
 佐世保10302218京都
 大阪7402108宮崎
 宮崎9052236大阪

DcDsDsDdDDDc×5 所要4
白鳥(1)、やくも(1)
 大阪8402335青森
 青森4552003大阪
 新大阪12002022浜田
 浜田8201633新大阪

DDDDc×3 所要2
白鳥(付属1)
 大阪8402335青森
 青森4552003大阪

DDc×4 所要4
白鳥(付属1)、やくも(付属1)
 大阪8402335青森
 青森4552003大阪
 新大阪12002022浜田
 浜田8201633新大阪

DcDsDdDDDc×2 所要2
まつかぜ(1)
 京都7202050博多
 博多8202158京都

DDDc×3 所要2
まつかぜ(付属1×2)
 京都7201333米子15372158京都
 京都7201333米子15372158京都

Dc×1 Ds×1 Dd×1

1972.3.15の改正

←長崎、宮崎、新潟
DcDsDdDDDDc×7 所要6(臨時+1)
かもめ(1)、なは(1)、まつかぜ(1)、あさしお(臨時1)
 京都7301912長崎
 長崎10302225京都
 大阪7252109西鹿児島
 西鹿児島9052243大阪
 京都7202050博多
 博多8152150京都
 京都8261226鳥取15321934京都

DcDsDDDDc×7 所要7
かもめ(付属1)、日向(1)、まつかぜ(1,付属1)、はまかぜ(2)
 京都7301848佐世保
 佐世保10502225京都
 大阪7252042宮崎
 宮崎9302243大阪
 京都7201210鳥取12461704大阪18002217鳥取
 鳥取6301044大阪12101624鳥取16552150京都
 新大阪9251417倉吉14421940新大阪

DcDsDsDdDDDc×3 所要2
白鳥(1)
 大阪9102350青森
 青森4551930大阪

DDDDc×3 所要2
白鳥(付属1)
 大阪9102350青森
 青森4551930大阪

DcD×3 所要2
白鳥(付属1)
 大阪9102350青森
 青森4551930大阪

D×1 Ds×1 Dd×1

1972.10.2の改正 特急「あさしお」を担当することに

←長崎、宮崎、鳥取
DcDsDdDDDDc×10 所要9
かもめ(1)、なは(1)、まつかぜ(1)、あさしお(4)
 京都7301904長崎
 長崎10392225京都
 大阪7252109西鹿児島
 西鹿児島9052243大阪
 大阪8002050博多
 博多8152117新大阪
 京都8521225城崎12551545京都16352155米子
 米子7001221京都13091557城崎16271959京都
 京都9201352倉吉14151851京都

DcDsDDDDc×8 所要7
かもめ(付属1)、日向(1)、まつかぜ(1,付属1)、はまかぜ(2)
 京都7301848佐世保
 佐世保10502225京都
 大阪7252042宮崎
 宮崎9302243大阪
 大阪8001210鳥取12441705大阪18002219鳥取
 鳥取6301044大阪12101626鳥取16562117新大阪
 新大阪9251426倉吉14451944新大阪

DDDc×3 所要2
あさしお(付属3)
 京都8521225城崎12551545京都16352155米子
 米子7001221京都13091557城崎16271959京都

D×1 D×1 Ds×1 Dd×2

1973.10.1 特急「なは」が電車化

←長崎、宮崎、鳥取
DcDsDdDDDDc×10 所要9
かもめ(1)、日向(1)、まつかぜ(1)、あさしお(4)
 京都7301914長崎
 長崎10382224京都
 大阪7252035宮崎
 宮崎9302243大阪
 大阪8002050博多
 博多8152117新大阪
 京都8521226城崎12551546京都16332155米子
 米子7001222京都13081557城崎16271957京都
 京都9201352倉吉14151851京都

DcDsDDDDc×6 所要5
かもめ(付属1)、まつかぜ(1,付属1)、はまかぜ(2)
 京都7301850佐世保
 佐世保10502224京都
 大阪8001210鳥取12441705大阪18002220鳥取
 鳥取6301046大阪12101626鳥取16562117新大阪
 新大阪9251426倉吉14451945新大阪

DDDc×5 所要4
あさしお(付属3)、日向(付属1)
 京都8521226城崎12551546京都16332155米子
 米子7001222京都13081557城崎16271957京都
 大阪7252035宮崎
 宮崎9302243大阪

D×1 Ds×2 Dd×2

1974.4.25の改正 日豊本線南宮崎電化で特急「日向」が電車化

←長崎、宮崎、鳥取
DcDsDdDDDDc×8 所要7
かもめ(1)、まつかぜ(1)、あさしお(4)
 京都7301914長崎
 長崎10382224京都
 大阪8002050博多
 博多8152117新大阪
 京都8521226城崎12551546京都16332155米子
 米子7001222京都13081557城崎16271957京都
 京都9201352倉吉14151851京都

DcDsDDDDc×6 所要5
かもめ(付属1)、まつかぜ(1,付属1)、はまかぜ(2)
 京都7301848佐世保
 佐世保10502224京都
 大阪8001210鳥取12441705大阪18002220鳥取
 鳥取6301046大阪12101626鳥取16562117新大阪
 新大阪9251426倉吉14451945新大阪

DDDc×3 所要2
あさしお(付属3)
 京都8521226城崎12551546京都16332155米子
 米子7001222京都13081557城崎16271957京都

Dc×4 D×2 Ds×2 Dd×5

といったわけで、1975.3.10の改正で廃止されるまで「かもめ」は小倉駅で下り列車の分離、上り列車の結合を行っておりました。

82_750305_2d
13:51、長崎発の2Dかもめが8番線に到着
82_750305_4002d
13:54、佐世保発で筑豊本線経由の4002Dかもめが7番線ホーム中程に停車
82_750305
2Dの編成がドアを閉め、門司方面に出発し、折り返し、7番線に進入して、400D編成と合体

82_750305_2d_2
14:00に2Dとして出発

1975.3.10の改正 新幹線博多開業 山陽昼行特急全廃 特急「かもめ」の廃止

←博多、姫路
DcDsDdDDDDc×3 所要2
まつかぜ(1)
 大阪8002050博多
 博多8152117新大阪

DcDsDDDDc×11 所要10(臨時+1)
まつかぜ(1,付属1)、あさしお(4)、はまかぜ(2)(臨時+1)、おき(3)
 京都8521226城崎12551547京都16332159米子
 米子6001057小郡15092013米子
 米子7001222京都13081556城崎16272000京都
 京都9201352倉吉14141853京都
 大阪8001210鳥取12441707大阪18002222鳥取
 鳥取6201049大阪12101630鳥取17002117新大阪
 新大阪9251516米子16032109小郡
 小郡12181847鳥取
 鳥取7211402小郡
 小郡9051400米子14302024新大阪
 新大阪10051339城崎16372012新大阪

DDDc×4 所要3
あさしお(付属4)
 京都8521226城崎12551547京都16332159米子
 米子7001222京都13081556城崎16272000京都
 京都9201352倉吉14141853京都

Dc×3 Ds×2 Dd×10

以上、特急「かもめ」の歴史に関してはWikipediaの記事を、キハ80系の配置、編成、運用に関しては「キハ80系の動き 配置および編成・運用の移り変わり 向日町」のデータを参考に纏めました。<2013.3.1 車輌配置データを加えて大幅改訂しました>。

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2012年11月 9日 (金)

1975/3 関門・関西へ 6 みどり なは 日向

当ブログの2012年10月25日の九州一周旅行のパート6で特急「みどり」の歴史については触れており、特急「みどり」の写真は何枚か載せているので、今回は、小倉で撮影した当時まだ登場したての300番台クハの写真を載せます。
485_481300_2_750305
485_481300_2_750305_2_2
次に紹介するのは「なは」「日向」です。

 

これらの特急はもともとはキハ82形気動車の併結特急として走っており、同じく2012年10月25日の九州一周旅行のパート6の記事で紹介致しましたが、1968.10の改正で「なは」はもともと「かもめ」の西鹿児島編成の名前を改称、「日向」は「いそかぜ」の宮崎編成を改称して誕生しています。鹿児島本線全線電化開業の1973.3の改正で「なは」が電車特急として独立し、1974.4の日豊本線南宮崎電化で「日向」も電車化されました。

 

この改正で「なは」は「きりしま」の名前に代わって寝台電車特急となり、「日向」は廃止されました。「なは」はさらにブルートレインとなって最近まで存続したのは記憶に新しいところです。

まず13:42に上り「なは」2Mが小倉に到着します。

485_481300_2m_750305
485_481300_2m_750305_2_2
この日の2M「なは」は大ムコに配備された最新の300番台クハ先頭の編成でしたが、改正を見越してか、HM表示なしで運行されていました。

一方、下り1M「なは」は14:25に小倉に到着です。

485_4810_1m_750305
485_4810_1m_750305_2

こちらは0番台クハ先頭で、下り方白スカート、上り方赤スカートでした。

「日向」は上り、下りがちょうど小倉~下関あたりですれ違うダイヤとなっており、14:58に日豊本線下りホームに下り「日向」31Mが到着、出発して程なくして上りホームに「日向」32Mが到着、出発して行きました。

485_481200_31m_750305_2

485_481200_750306_3

485_481100_750305_2
こうやって大ムコ11連の481/5系がいろいろな列車に使用されるのを見て参りましたが、0番台(赤、白)、100番台、200番台、300番台とクハがあり、多くは両側先頭が同じタイプのクハでしたが、0番台と100番台のボンネット同志や、100番台と200番台の組み合わせなど、タイプの違うクハの組み合わせの編成も結構あることが分かりました。

今回の改正では、大ムコの485系の内、481系と初期の485系として製造された車輌が鹿カコに転属となり、200番台クハと同時期に増備された車輌の大半が門ミフ(一部青森)に転属になっています。その結果、改正後の大ムコの485系は100番台クハと唯一の200番台として-253、そして301,302,304の300番台クハという構成になりました。

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2012年11月 8日 (木)

1975/3 関門・関西へ 5 はと しおじ

今回は「はと」と「しおじ」の写真を掲出したく思います。

「つばめ」がその後JR九州の787系鹿児島本線特急や、九州新幹線800系の愛称として復活しているのに対して「はと」「しおじ」はこの改正で消えて以来、復活していないのは寂しい限りです。

「はと」は1972.7の萩旅行の際に181系特急として乗車しましたが、181系も72.10の改正で山陽路を去り、さらに581/3系の昼行特急の歴史でも取り上げたように、1968.10~1972.4までは581/3系で運用された時期もありました。時代的にも昭和30年代から50年代まで、「つばめ」と「はと」の東海道・山陽本線での活躍は、なにか巨人軍の王・長嶋の時代とあうものですから、できれば「つばめ」「はと」が並んで活躍する場面を再度みたい気も致します。

下関駅はその後何度か訪れていますが、下関折り返し、上り始発列車の風景はあの頃も今もかわりません。一旦、本線をアンダークロスして、下関運転所に入った列車は再び側線でホーム前を通過して幡生寄りに引き上げて、スィッチバックして本線に進入するのですね。

当時既にL特急となっていた「はと」は下関を

5:55 1号 3030M
6:55 2号 3028M
7:55 3号 3026M
8:55 4号 3024M と出発するダイヤでした。

もちろん、「はと」以外にも岡山、大阪方面の特急はあり、午前中の4本だけが「はと」という名前が付けられていたのも今となっては面白く思えます。

485_4810_2_750305まずは、夜も明け切れていない6:55に下関を出発する「はと2号」、先頭は赤スカートのクハです。
485_481100_3_750305_2
485_4810_3_750305続いて「はと3号」は上り先頭は0番台白スカート、下り先頭は100番台でした。

485_481200_4_750305_5
485_481200_4_750305_6_2「はと4号」は両方とも200番台貫通タイプ

「はと」の場合は3列車で、0番台赤、白、100番台、200番台と先頭クハパターンが300番台以外全部揃うケースとなりました。

続いて「しおじ」ですが、「しおじ」という名称の登場は東海道新幹線開業の1964.10の改正で新大阪~下関間の151系特急電車としての新設が始まりかと思います。翌年1965.3には2往復に増発、1968.10には「しおかぜ」を統合して3往復に、1969.10には4往復に、1970.3の万博輸送では5往復に、新幹線岡山開業では乗り換えを嫌う客のために3往復存置され、1974.4の改正では再び5往復体制となりました。車輌は新大阪~広島1往復(下り2号、3011M と上り4号3012M)が581/3系で運用され、あとはすべて481/5系でした。

485_481100_2_750305しおじ2号 100番台クハ

485_4810_3_750305_2しおじ3号 0番台白スカートクハ

どちらも朝早い出発のため、こんな写真しかありません。

485_4810_7409291974.9の九州旅行の際に大阪駅で、こんな写真も撮っていましたが
どうしようもないピンボケ写真です。
485_481100_740929別のホームから撮った100番台クハの写真

485_481200_740929天王寺駅のカメラ蓋開け事故で感光している200番台の写真

などを撮っていました。

581/3系の写真は3/6に大阪駅で撮ってますので後ほど掲載します。

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2012年11月 7日 (水)

1975/3 関門・関西へ 4 つばめ

1972年夏、1974年秋と西日本方面を旅行して、新幹線岡山開業後の山陽路の昼行特急はある程度、見慣れてはいましたが、それがあと数日で全廃されるとなると心穏やかではありません。それが今回の遠征のきっかけになったわけで、可能な限りたくさんの列車を写そうと思いました。

1975.3の改正直前の時点で山陽本線から九州にかけて走っていた昼行特急には481/5系もしくは581/3系による電車特急として「つばめ」「はと」「しおじ」「なは」「日向」「みどり」、キハ82を先頭とするDC特急として「かもめ」がありました。また山陰本線経由の「まつかぜ」も幡生以西では写すことが出来ました。

これらの特急の写真を示す前にます当時の特急車両の配置と運用について触れるべきかと思います。

こちらのサイト http://www5.big.or.jp/~hagi/index.html 萩原康志さんのサイト内の趣味>鉄道>国鉄特急車両 配置および運用の移り変わりのページの情報が大変参考になります。

当時の山陽本線、九州内の電車特急は大ムコ配置の481/5系と門ミフ配置の581/3系で運用されていました。485系による特急「つばめ」の運用は

1965.10.1のダイヤ改正から始まっており、大ムコに初めて481系が配置された翌年からでした。当時の編成と運用は

TcM'MTsTsTdM'MM'MTc×8 所要6
雷鳥(1)、しらさぎ(1)、つばめ(1)、はと(1)
 向日町‥新大阪13302215博多‥雑餉隈
 雑餉隈‥博多7551640新大阪‥向日町
 向日町‥大阪12401710富山18102235名古屋‥大垣
 大垣‥名古屋9152206熊本‥川尻
 川尻‥熊本8052052名古屋‥大垣
 大垣‥名古屋8001225富山13351820大阪‥向日町
 休

M'M×2 Tc×2 Ts×2 Td×1

といったもので、それまで151系がED73とサヤ420の助けを借りて、九州乗り入れをしていたものを481系で置き換えるものでした。

この481系の運用も1968.10.1の改正で581/3系の運用となり、

TncTnTsM'nMnTdM'nMnTnM'nMnTnc×11 所要10
月光(2)、明星(1)、金星(1)、つばめ(1)、はと(2)
 南福岡‥博多1850614名古屋‥神領
 神領‥名古屋9152136熊本‥川尻
 川尻‥熊本7401956名古屋22421005博多‥南福岡
 南福岡‥博多2015545新大阪‥向日町
 向日町‥新大阪10351901博多2355942新大阪‥向日町
 向日町‥新大阪13282156博多‥南福岡
 南福岡‥博多8151642新大阪2028725熊本‥川尻
 川尻‥熊本2140850新大阪‥向日町
 向日町‥新大阪1938535博多‥南福岡
 南福岡‥博多10151842新大阪2228751博多‥南福岡

M'nMn×2 Tnc×2 Ts×1 Td×1

1972.3.15の改正で再び485系にも運用が回ってきます。

481/5系 大ムコ

TcM'MTsTsTdM'MM'MTc×15 所要13(臨時+2)
雷鳥(5)(臨時+1)、しらさぎ(3)、はくたか(1)(臨時+1)、北越(1)、しおじ(1)(臨時+0.5)、みどり(1)、つばめ(1)、はと(臨時0.5)
 休
 向日町‥大阪7301140富山12251625名古屋18152210富山
 富山9551410大阪‥新大阪17252139広島
 広島7451201新大阪‥大阪15301940富山2225505上野
 富山8251240大阪14002127新潟
 新潟8051540大阪17302140富山
 富山555955名古屋13151710富山17452146名古屋‥神領
 神領‥名古屋8151210富山12551710大阪‥向日町
 向日町‥大阪10301353金沢15152139上野‥東大宮/2343636富山
 東大宮‥上野8301450金沢16101944大阪‥向日町
 向日町‥大阪8251753大分‥下郡
 下郡‥大分11202038新大阪‥向日町
 向日町‥大阪9001310富山13551808大阪‥向日町
 向日町‥岡山7351337博多16002201岡山‥向日町
 大阪11001510富山15552010大阪
 岡山8351330下関14542158大阪

TcM'MTsTsTdM'MTM'MTc×4 所要3 489系
雷鳥(2)、白山(1)
 向日町‥大阪18502310富山‥金沢
 金沢7001334上野14252053金沢
 金沢‥富山6551110大阪12301640富山17152130大阪‥向日町

581/3系 門ミフ

TncTnTsM'nMnTdM'nMnTnM'nMnTnc×22 所要20(臨時+1)
月光(2)、明星(4)、金星(1)、きりしま(1)、つばめ(4)(臨時+1)、しおじ(1)、有明(3)、しらさぎ(1)
 南福岡‥博多2013537新大阪‥向日町
 向日町‥新大阪9221339広島1445 1901新大阪2228928熊本‥川尻
 川尻‥熊本2130851新大阪‥向日町
 向日町‥新大阪1858615熊本‥川尻
 岡山8351609熊本/川尻‥熊本2200937京都‥野洲
 野洲‥京都19501033西鹿児島
 西鹿児島13401816博多‥南福岡
 南福岡‥博多8251425岡山16352234博多‥南福岡
 南福岡‥博多7301330岡山14402039博多2356651岡山
 岡山11151850熊本22501007新大阪‥向日町
 向日町‥新大阪1958657熊本‥川尻
 川尻‥熊本9551730岡山2213505博多‥南福岡
 南福岡‥博多10551534西鹿児島17202304門司港
 門司港7001242西鹿児島20551136京都‥野洲
 野洲‥京都2125726博多‥南福岡
 南福岡‥博多13101751西鹿児島2125851岡山
 岡山13352110熊本‥川尻
 川尻‥熊本7551530岡山2043801西鹿児島
 西鹿児島10551550博多1853612名古屋‥神領
 神領‥名古屋10151410富山14551855名古屋22501010博多‥南福岡
 熊本11552158大阪

M'nMn×1 Tnc×1

1972.10.2では

481/5系 大ムコ

TcM'MTsTsTdM'MM'MTc×21 所要19(臨時+1)
雷鳥(8)(臨時+1)、しらさぎ(3)、はくたか(1)、北越(1)、しおじ(1)、みどり(1)、つばめ(3)、はと(1)、にちりん(1)
 休
 向日町‥大阪7301140富山12251625名古屋18152210富山
 富山9551410大阪‥新大阪17252139広島
 広島7451201新大阪‥大阪15301940富山
 富山8251240大阪14002127新潟
 新潟8051540大阪17302140富山
 富山10551510大阪16302040富山
 富山548949名古屋13151710富山17452146名古屋‥神領
 神領‥名古屋8151210富山12551710大阪‥向日町
 向日町‥大阪10301353金沢15152139上野‥東大宮
 東大宮‥上野8301450金沢16101944大阪‥向日町
 向日町‥大阪8251753大分20382333博多‥南福岡
 南福岡‥博多9481550岡山17142210下関
 下関7551250岡山14402215熊本‥川尻
 川尻‥熊本6481425岡山15352134博多‥南福岡
 南福岡‥博多7531051大分11202038新大阪‥向日町
 向日町‥大阪8301245富山13551808大阪‥向日町
 向日町‥大阪11301540富山16252045大阪‥向日町
 向日町‥岡山7351337博多16002201岡山‥向日町
 向日町‥大阪9001225金沢16402010大阪‥向日町
 大阪13301743富山18452310大阪

TcM'MTsTsTdM'MTM'MTc×4 所要3 489系
雷鳥(2)、白山(1)
 向日町‥大阪18302245富山‥金沢
 金沢7001334上野14252053金沢
 金沢‥富山7151130大阪12301640富山17152130大阪‥向日町

M'M×4 Ts×2 Td×1

581/3系 門ミフ

TncTnTsM'nMnTdM'nMnTnM'nMnTnc×22 所要20(臨時+2)
月光(2)、明星(4)(臨時+1)、金星(1)、きりしま(1)、つばめ(4)、しおじ(1)、有明(3)、しらさぎ(1)
 南福岡‥博多2013537新大阪‥向日町
 向日町‥新大阪9221339広島1445 1901新大阪2228928熊本‥川尻
 川尻‥熊本2130851新大阪‥向日町
 向日町‥新大阪1858615熊本‥川尻
 川尻‥熊本2200937京都‥野洲
 野洲‥京都19501033西鹿児島
 西鹿児島13401816博多‥南福岡
 南福岡‥博多7301330岡山16352234博多‥南福岡
 南福岡‥博多6271230岡山14152019博多2356651岡山
 岡山11151850熊本22501007新大阪‥向日町
 向日町‥新大阪1958657熊本‥川尻
 川尻‥熊本9551730岡山2213505博多‥南福岡
 南福岡‥博多10551534西鹿児島17202304門司港
 門司港7001240西鹿児島20551136京都‥野洲
 野洲‥京都2125726博多‥南福岡
 南福岡‥博多13101751西鹿児島2125851岡山
 岡山13352110熊本‥川尻
 川尻‥熊本7551530岡山2043801西鹿児島
 西鹿児島10551550博多1853612名古屋‥神領
 神領‥名古屋10151410富山14551855名古屋22501010博多‥南福岡
 博多2035624大阪
 新大阪2132708博多

M'nMn×1 Tnc×1

1973.4.1の改正では

TcM'MTsTsTdM'MM'MTc×32 所要29
雷鳥(7)、しらさぎ(3)、はくたか(1)(臨時+1)、北越(3)、しおじ(2)、みどり(2)、つばめ(4)、はと(5)、にちりん(1)
 休
 向日町‥大阪7301459新潟18032214金沢
 金沢7451149新潟13552130大阪‥向日町
 向日町‥大阪13301743富山
 富山12251625名古屋18152210富山
 富山9551410大阪‥新大阪17252139広島
 広島7451201新大阪‥大阪15301940富山2225505上野
 富山8251240大阪14002127新潟
 新潟8051540大阪17302140富山
 富山10551510大阪16302040富山
 富山548949名古屋13151710富山17452146名古屋‥神領
 神領‥名古屋8151210富山12551710大阪‥向日町
 向日町‥大阪10301353金沢15152139上野‥東大宮/2343631富山
 東大宮‥上野8301450金沢16101944大阪‥向日町
 向日町‥大阪8251753大分20382333博多‥南福岡
 南福岡‥博多9481550岡山17142210下関
 下関8521350岡山16152111下関
 下関6541150岡山18152314下関
 下関6351130岡山12351950大分‥下郡
 下郡‥大分9101630岡山17352230下関
 下関5301238新大阪16302337下関
 下関7551250岡山14402215熊本‥川尻
 川尻‥熊本6481425岡山15352134博多‥南福岡
 南福岡‥博多7531051大分11202038新大阪‥向日町
 向日町‥大阪8301245富山13551808大阪‥向日町
 向日町‥大阪11301540富山16252045大阪‥向日町
 向日町‥岡山7351337博多16002201岡山
 岡山9151647熊本‥川尻
 川尻‥熊本11051850岡山
 岡山8151310下関15512056岡山‥向日町

TcM'MTsTsTdM'MTM'MTc×3 所要2 489系
雷鳥(2)
 向日町‥大阪18302240富山‥金沢
 金沢‥富山7151130大阪12301640富山18452310大阪‥向日町

日豊本線南宮崎電化開業に伴う1974.4.25のダイヤ改正(1975.3の改正の直前)の時点での大ムコには481/5系 407両は全て以下の編成に組成されて
11両編成
←宮崎、西鹿児島、大阪
TcM'MTsTsTdM'MM'MTc 計37本配置され、32本(+臨時1本)が運用されていました。

萩原さんのサイトの情報を基に下の表のような運用行路を作ってみました。

北陸特急の「雷鳥」「しらさぎ」「はくたか」、山陽内特急の「はと」「しおじ」九州内特急の「にちりん」、山陽・九州連絡特急の「つばめ」「なは」「日向」「みどり」として運用され、東は上野、南は「西鹿児島」「宮崎」までの超広域運用でした。一旦向日町を離れると2週間も基地に戻らない運用もあることがわかりました。

7404_485_2


先頭のクハは製造時期によって形態が変わり、所謂、ボンネットタイプとして481系として製造された0番台赤スカート(クハ481-1~18)、485系として製造された0番台白(クリーム)スカート(クハ481-31~40)、ボンネットタイプのマイナーチェンジ版の100番台(クハ481-105~126)、モデルチェンジ版として貫通型の200番台(クハ481-225, 226, 231~234,239~253)、さらに非貫通型の300番台(クハ481-301,302,304)とバラエティに富んだ構成でした。

これらがどの特急に入るか、上り向きと下り向きの先頭車の組み合わせや、HMとの組み合わせでどういった写真が撮れるかという楽しみもありました。一ヶ月くらい時間に余裕があって、じっくりと電車特急を写すことができたらもしかしたら、全ての組み合わせを写真にすることが出来たかも知れませんが、なにせこの旅行ではどの列車がどんな顔の先頭車でやってくるかが勝負でした。

今回は伝統の特急「つばめ」です。

1972.7の萩旅行では小郡から岡山まで581/3系の「つばめ」に乗車しましたが、481/5系の「つばめ」の姿は見たことがなかったので最優先で撮ることにしました。

朝方の上り3本が481/5系で1号が7:35、2号が8:34、3号が9:29とほぼ1時間おきに下関を出発して行きました。

485_4810_1_750305_2
485_481_0_750305_1最初にやってきた1号は白スカートのクハ、しかも驚いたことにHMは151系「つばめ」が装着していたグレーの帯入りタイプ。これは引退記念サービス?

485_481_0_750305_2反対側も白スカートクハでしたが、こちらは通常のHMタイプ

485_481200_750305
485_481200_2_750305_2_32号は貫通型200番台クハでした。
485_481_0_750305_1_2
485_481_0_750305_2_23号は赤スカート0番台クハ。改正を前にして用意が良いのか既につばめのHMは非表示、あまけに大ムコのロール式表示には×の印が、もしかして動作不良?反対側のクハは表示されていましたが、雨の日には些か写りがよろしくない!

485_481200_4_750305さらに門司で写した4号も貫通型200番台でした。

以前に581/3系昼行特急の歴史で触れたように「つばめ」の内、下り1~3号、上り6~8号の3往復は581/3系で運用されておりました。

581_1_750305
この写真は門司を通過する下り「つばめ1号」です。
長距離夜行旅行客が門司駅での長時間停車中に顔を洗うための洗面設備が写っており、当時を偲ばせる写真かと思い載せました。上り線の入れ換え用のDL(DD13?)も懐かしいです。

581_6_750305
581_6_750305_2こちらは小倉を後にする上り「つばめ6号」です。

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2012年11月 6日 (火)

1975/3 関門・関西へ 3 夜行列車到着編2

関西、岡山発の夜行列車が到着した後、名古屋発の581/3系寝台電車特急「金星」が東京発のブルートレインに挟まれてやってきます。なお「金星」は改正後も名古屋~熊本間の寝台電車特急として存続しました。

581_750305_1b
東京発のブルートレインは東京機関区に配属されたEF65 500番台P形(505 - 512・527 - 531,535-542)に牽引され、「出雲」と「瀬戸」を除く、7列車が下関までやってきておりました。1972年以降、EF65 501-504は下関に配置され、東京機関区所属機が下関で集中台車検査を行う際の代替機として活躍しました。

客車は1972年10月から「さくら」・「みずほ」・「あさかぜ(下り)2号・(上り)3号」に14系寝台車が投入されていましたが、それら以外の列車はすべて20系でした。

14系寝台客車は上記3列車で共通運用でしたが、「あさかぜ2号/3号」はこの改正で廃止となり、客車は新設の「いなば・紀伊」に転用されました。この時代の14系客車で本来の多層立て分割併合タイプの列車に使われたのは「さくら」(東京~長崎・佐世保)「あかつき5号・彗星3号」(大阪~佐世保・大分)と「あかつき7号」(新大阪~長崎・佐世保)の3列車のみで、あとは切り落としタイプの列車でした。

Ef65_542_750305_2EF65 542号機P形ラストナンバーに牽かれて「さくら」が到着

Ef65_512_750305反対側のホームに512号機に牽かれて「はやぶさ」が到着

Ef65_505_750305当時の東京機関区のトップナンバー505号機に牽引されて「みずほ」が到着。421系電車は宇部線直通?

Ef65_511_750305511号機に牽かれて「富士」が到着
20_20_750305「あさかぜ2号」に組み込まれて下関に到着したナロ20

20_20_2参考までにこちらは別の機会に東京駅に到着した博多発の「あさかぜ」で撮ったナロ20の写真

最初に登場した博多「あさかぜ」(下り1号、上り2号)はナロネ20(1人・2人用1等個室寝台車)、ナロネ22(1人用個室・開放式合造1等寝台車)、ナロ20を連結した専用編成で運行され、ナロネ20とナロ20はこの改正で運用から外れました。あさかぜ専用編成であったため、二段ハネの時代になってもオロネ25のA個室寝台車が登場するまで20系で運用され続けました。

「はやぶさ」用の20系客車は「あかつき1号/7号」と共通運用され、私も1974.9-10の九州旅行で乗車しましたが、長崎に入る付属編成は鳥栖~長崎間はマヤ20形簡易電源車の助けを借りていました。

「富士」用の20系編成は、その走行距離と運用時間の関係から基本編成3本、付属編成2本を必要とするグループでした。この改正では24系24形の第一次大移動(大ムコ>南シナ)により、「はやぶさ」「富士」「出雲」が24系24形化されました。

下関「あさかぜ」と「瀬戸」用の20系は25形二段ハネ化も博多「あさかぜ」より一足早く行われ、二段ハネ化された際にはA寝台無しのオールハネで登場しました。さらに全区間直流電化区間を走行することから最晩年にはSIV方式の架線集電電源車の付いた編成も用意されました。架線集電方式の電源車はカニ22以来となりました。

といったように同じ20系でも列車ごとに微妙にグループ化されていました。

さらに当時はEF58形などに牽引された小荷物列車が走っておりました。
Ef58_22_750305広島区の原型大窓のEF58 22号機に牽引されて下関に到着する荷2031レ

なお、22号機は同日夜「彗星」を牽引して、翌朝大阪駅に到着しました。

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2012年11月 5日 (月)

1975/3 関門・関西へ 2 夜行列車到着編

「高千穂・桜島」はまだ夜の明けきらない午前4:18に下関に到着しますが、あの当時のその時間帯は山陽路を下る夜行列車の帯のまっただ中の時間帯だったのですね。
7412
1974.12の時刻表による山陽本線(下り)夜行特急列車

下関に到着し列車を降りたものの、まだ夜は明けておらず、寒くて撮影どころではなかったように記憶しています。1時間くらい休憩して、5:25着の下り「月光2号」から写真を撮り始めました。
581_750305_1c
何とか撮ってはいますが、イマイチ説得力に欠ける寝台特急下り「月光2号」の写真 
581_750305

581_750305_2
夜も明け出す6:52、下関に到着した「明星3号」こちらも列車名の判別は難しい。
Ef58_115_750305_2
広島区のP型EF58115号機に牽引されて下関に到着した「彗星5号」大分行き

関西発の寝台特急牽引機の多くがHMなしで到着してくる中、きちんとHMを装着したP形EF58の姿は凛々しくもありました。同機はこの晩、「あかつき」を牽引して大阪に翌朝到着。彗星5号は1974,4に登場した二段ハネ24系25形による列車で、下関から門司まではEF30 4号機にエスコートされ、九州入りしました。

Ef30_4_5_750305
EF30 4
25_19750305

二段ハネとして登場した24系25形 オハネフ25 0番台 折妻スタイル

24系25形が登場してからは特急寝台車のトレンドは25形となってゆきましたが、その顔、すなわち緩急車側の顔と、電源車の顔は登場のたびに違うものとなって行きました。
2425_2
24系24形、25形の編成両端の顔の変化

一方、急行ではEF61 14に牽引された「阿蘇」が7:59に到着、「阿蘇」のEF61による牽引も本改正で消滅します。

Ef61_14_750305
Ef81_301_750305
EF81 301 ステンレス無塗装時代

Ef81_302_750305
EF81 302 同じくステンレス無塗装時代

一方、下関から関門トンネルをエスコートする交直流機もEF30,EF81 300番台の301,302がまだ銀色に輝く車体として活躍していました。彼女らはその後の1978年10月の異動で内郷機関区転属となり、常磐線走行の際の視認性の向上のためとピンクの厚化粧を施されてしまい、二度とシルバーボディに戻れない体となってしまいました。

1975.3の改正で特急列車の機関車にHMが掲出されるのは東京機関区のEF65牽引ブルートレインのみとなり、所謂HM暗黒時代に突入しました。それが開けて、関門のシェルパにもHMが復活したのは1985年3月のダイヤ改正でした。

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2012年11月 4日 (日)

安中貨物 同一地点 全機制覇




安中貨物列車は田端機関区のEF510-500番台15両が牽引を担当しています。

2010年12月の常磐線貨物列車に登場以来、同一地点での全機制覇を目指してきましたが、本日最後まで残っていた501号機を無事撮影出来て全機制覇になりました。

Ef510501_121104_2
EF510-501 2012/11/4

Ef510502_110218_2
EF510-502 2011/2/18

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EF510-503 2011/7/2

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EF510-504 2012/10/7

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EF510-505 2012/10/11

Ef510506_110206_2
EF510-506 2011/2/6

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EF510-507 2011/1/16

Ef510508_110118_2
EF510-508 2011/1/18

Ef510509_110207
EF510-509 2011/2/7

Ef510510_120909_2
EF510-510 2012/9/9

Ef510511_110113
EF510-511 2011/1/13

Ef510512_110220_2
EF510-512 2011/2/20

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EF510-513 2011/2/19

Ef510514_110612_2
EF510-514 2011/6/12

Ef510515_110628_2
EF510-515 2011/6/28

以上15機、機関車の方向はまちまち、貨車のタイプも日によって若干違いますが揃いました。

なお、15機、4種類(安中貨物、コンテナ貨物、カシオペア、北斗星)は今年5月に達成しています。

4

<2013/4/18追記> 2013年3月16日のダイヤ改正にて、JR東日本田端運転所のEF510-500番台による委託運用は終了となり、 3月16日の5781レより、仙台のEH500による安中貨物牽引がスタートしております。

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2012年11月 3日 (土)

1975/3 関門・関西へ 1 高千穂・桜島に乗って

新幹線開業に伴い、それまで在来線で活躍していた特急列車が大きく変更になったケースはこれまでにも何回かありました。最初が、1964.10の東海道新幹線開業による東海道特急の全廃、続いて1972.3の岡山延伸による「うずしお」の廃止と山陽路特急の岡山発着化、そして1975.3.10 の博多開業による山陽・九州昼行特急の全廃、さらに1982.11の東北新幹線開業による東北昼行特急の全廃などです。

私はこの新幹線博多開業の際に大学1年から2年になるタイミングでしたので、時間的にも余裕があり、全廃になる特急列車を出来る限り記録しておこうということで、東海道最後の昼行客車急行であり、やはりこの改正で廃止となる「高千穂・桜島」に乗車し、下関に行くこととしました。

急行「高千穂・桜島」は10:00に東京駅を出発し、門司で鹿児島本線経由の「桜島」と日豊本線経由の「高千穂」に分離され、「桜島」は翌日11:43に西鹿児島着、「高千穂」は14:20に同じく西鹿児島着となっていました。両者とも24時間以上走行し、廃止直前には『鉄道ジャーナル誌』に乗車レポートがあり、同名列車とどこですれ違うかといった興味深い記載があったのも憶えています。

750304
東京駅の出発表示案内
Ef58_155_750304

11番機回し線を通って牽引機EF58 155(浜)が先頭へ
Ef58_155_750304_3

SGの湯気を吹き上げながらEF58 155号機が先頭に連結




Half


「高千穂・桜島」編成表 当時の時刻表から ページもピンクのページを再現(笑)。

東京を出発後の門司までの停車駅と停車時刻は

横浜10:29、小田原11:15/11:16、熱海11:36/11:37、沼津11:56、富士12:12、清水12:35、静岡12:46/12:48、浜松13:48/13:51、豊橋14:19/14/20、名古屋15:14/15:19、尾張一宮15:36、岐阜15:49、大津17:17、京都17:28/17:29、大阪18:04/18:12、三ノ宮18:38、神戸18:42、姫路19:43/19:45、岡山21:00/21:05、倉敷21:27、金光21:40,福山22:04、尾道22:21、糸崎22:33、広島23:59/0:17、岩国0:54/0:55、柳井1:24/1:25、下松1:49、徳山1:58/2:00、防府2:26、小郡2:42/2:53、宇部3:20、小野田3:26,厚狭3:34/3:42、下関4:18/4:24、門司4:32

門司で桜島(鹿児島本線経由)と高千穂(日豊本線経由)に分かれ、桜島は4:40に門司を出発し、11:43に西鹿児島に、高千穂は4:51に門司を出発し、14:20に西鹿児島に到着するスケジュールとなっていました。

同列車に乗車した際に車窓から写した何枚かの写真を紹介します。

600px国府津機関区ランドハウス

御殿場線が東海道本線であった頃の姿を偲ばせる立派な機関庫でしたが、1978年に取り壊されました。D5272号機が一両だけ保管されていました。同機はその後湯沢平公園にて展示され、2010年11月より御殿場駅前で公開されているそうです。

http://c5557.kiteki.jp/html/D5272-2.htm に詳細が紹介されています。
52
飯田線クモハ52他 豊橋

当時の飯田線は旧国の宝庫で関西流電のクモハ52を先頭とする編成も活躍していました。
1651_750304
<クヤ165-1> 大垣電車区

1974年に名古屋鉄道管理局の165系電車教習用車両として、浜松工場でサハシ153-15から改造された事業用車です。。
客室を運転実習室とし、旧ビュフェ部分にはCS15形主制御器など電気関係の電車用床下機器(主電動機・MG・CPを除く)を架台に設置。 各機器の作動状況が一目で分かるようになっており、このほか回路のパネルなども設置しました。

前面は非貫通切妻形状ではあるものの急行形・近郊形電車に近い前面形状の高運転台を両端に新設し、運転室内レイアウトは165系に準じています。

パンタグラフはあらたに搭載され、 運用エリアに低断面トンネルの中央西線があることから、対策形のPS23形としました。

 

1987年2月3日付をもって廃車となり大垣電車区で保管され、その後佐久間レールパークに保存されていましたが、閉鎖に伴い2010年7月に解体されました。佐久間レールパーク時代の保存の様子はこちらに纏められています。

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2012年11月 2日 (金)

1975/1 名古屋へ 4 私鉄編

最後は私鉄編です。

 

折角、名古屋まで来たのだから国鉄だけでなく私鉄も記録しておかねば、ということでまずは地下鉄東山線に乗ってみました。

 

1018_750102東山線の100系

当時の名古屋の地下鉄は東山線(中村公園~藤が丘)、名城線(名古屋港~金山~市役所)が開通しており、東山線には開業当初からの黄色い100系電車が走っていました。

初詣も兼ねて名鉄にも乗ってみようとのことで神宮前まで往復した際に、名鉄の電車も撮影しました。

7000_750102_2_2なぜか小田急のロマンスカーNSE車とよく似た7000系
7700_750102_2_3デザインが国鉄気動車と似た7700系
3780_7501_2こちらもキハ58と似ている3780系
3800_750102_2そして高運転台に改造された3700系

などを写しておりました。

さらに、近鉄もということでホームに入場券で入場し、

 

10100_vista_car_750102_2
10207_vista_car_750102_2

元祖二階建て電車の二代目ビスタカー
10400_750102_2_5
二階建て車輌を連結しないエースカー10400系
12000_750102スナックカーと呼ばれた12000系

などを撮影しました。

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1975/1 名古屋へ 3 キハ181 特急「しなの」

1975年1月の名古屋で見た国鉄気動車特急、最後はキハ181系による特急「しなの」です。

181_750102

<キハ181系 気動車特急「しなの」のヒストリー>

キハ181系はそれまでのキハ80系のコンセプトを踏襲しつつ、キハ90系試作車における大出力エンジン開発の成果を踏まえ、国鉄量産気動車としては初の500PS級大出力エンジンを搭載した車輌で、中央西線、奥羽本線、伯備線、土讃線など勾配が連続する急峻な山岳線区の特急列車として投入されました。

車輌構成はキハ181形、キハ180形、キロ180形、キサシ180形の4形式です。当初は以下の14両が投入されました。

キハ181   1~4
キハ180   1~6
キロ180    1,2
キサシ180 1,2

1968年10月の改正で投入、特急「しなの」登場

DcDDcDDDTdDsDc×1 所要1
しなの(1)
 名古屋8401251長野15101924名古屋

Dc×1  D×2 Ds×1 Td×1

181_750102_2b

1971年4月大阪~長野間の急行「ちくま」の昼行列車が「しなの」に統合され3往復に

DcDDDTdDsDDc×3 所要3
しなの(3)
 名古屋8001158長野12451915大阪
 大阪9501610長野16552054名古屋
 長野8371236名古屋16552053長野

DcDD×2 所要2
しなの(付属2)
 名古屋8001158長野12451915大阪
 大阪9501610長野16552054名古屋

Dc×1 D×2 Ds×1 Td×1

181_750102_3
1973年5月の中央西線電化完成後もキハ181系による運用が2往復残っていた。1975年3月の改正で全列車381系電車に。

DcDDDTdDsDDc×2 所要2
しなの(3)
 名古屋8001159長野13552019大阪
 大阪8201458長野15551959名古屋

DcDD×2 所要2
しなの(付属2)
 名古屋8001159長野13552019大阪
 大阪8201458長野15551959名古屋

DcDDDTdDsDDc×1
Dc×1 D×2 Ds×1 Td×1

1973年10月エル特急化

DcDDDTdDsDDc×2 所要2
しなの(3)
 名古屋8001159長野13552022大阪
 大阪8201458長野15551959名古屋

DcDD×2 所要2
しなの(付属2)
 名古屋8001159長野13552022大阪
 大阪8201458長野15551959名古屋

D×2 Ds×1 Td×1

1975年3月の改正で全列車381系電車化

181_750102_4
それまで運用されていた車輌は米子、高松へ転出

(部分的にWikipedia関連記事の記述からの引用、さらに「国鉄特急車両 配置および運用の移り変わり」を参考に編成、運用の移り変わりのデータを纏めました。)

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1975/1 名古屋へ 3 キハ82 特急「ひだ」

特急「くろしお」に続いてキハ82形による特急「ひだ」について触れようと思います。

<キハ82系特急「ひだ」のヒストリー>

1932年10月8日:犬山線から省線高山本線へ直通する初の列車が、当時の犬山線のターミナルであった柳橋駅 - 下呂駅間に土曜・休日に運行を開始。直通列車にはモ750形(755・756号)を半室畳敷きに改造した車両を充当した。当時の所要時間は約2時間であった。

1941年8月12日:新名古屋駅(現在の名鉄名古屋駅)が開業し、直通列車の発着駅も同駅に変更され、利便性も向上した。

1945年ごろ:戦況の悪化により直通列車は自然消滅(正確な時期・直接の中止理由は不詳)。

1958年3月1日:名古屋駅 - 富山駅間を東海道本線・高山本線経由で運行する準急列車として「ひだ」の運転を開始。
9月20日:「ひだ」を1往復増発。増発列車は名古屋駅 - 高山駅間で運行される。また、従来運行されていた列車は高岡駅までの運行となる。

1968年10月1日:ヨンサントオのダイヤ改正に伴い「ひだ」を名古屋駅 - 金沢駅間を東海道本線・高山本線・北陸本線経由で運行する特急列車に昇格。この時点では1往復のみの運行となる。

(担当は金沢運転所)

DcDsDdDDDDc×2 所要2
はくたか(1)、雷鳥(臨時1)
 大阪8101202金沢13002030上野
 上野7401457金沢17102052大阪

DcDsDDDDc×1 所要1
ひだ(1)
 金沢6451157名古屋15102018金沢

Dc×2  D×2 Ds×1 Dd×1

1969年10月の北陸本線糸魚川電化による「はくたか」485系電車化により「ひだ」のみの運用となり、

DcDsDDDDc×1 所要1
ひだ(1)
 1968.10~と同じ

Dc×2 D×1  Ds×1

1972.3.15

DcDsDDDDc×1 所要1
ひだ(1)
 金沢6451155名古屋15152020金沢

Dc×2 D×1 Ds×1

1975年3月改正で名古屋機関区に移管・全車転出。

82_750102_1_2
3011D 特急「ひだ」

<名古屋機関区時代>
1975年3月ダイヤ改正で「ひだ」を金沢運転所から移管されて配置基地となった。当初は、使用6両編成1本と予備車4両の計10両という少数配置であったが、

DcDsDDDDc×1 所要1
ひだ(1)
 金沢6201130名古屋15152020金沢

Dc×2 D×1 Ds×1

82_9_7501_2_2

1976年10月のダイヤ改正で向日町所の余剰車を転入させ「ひだ」2往復を名古屋 - 高山間に増発。

DcDsDDDDDc×2 所要2
ひだ(3)
 名古屋7541052高山1118飛騨古川1129高山11481436名古屋15152021金沢
 金沢6201130名古屋12401536高山16291924名古屋

Dc×3 D×3 Ds×2

1978年10月2日のダイヤ改正では、「くろしお」の電車化による余剰車を投入して「ひだ」1往復増発の4往復とともに紀勢本線の特急「南紀」にも投入された。

DcDsDDDDDc×4 所要3
ひだ(4)
 名古屋8001058高山11501446名古屋15302049金沢
 金沢6181134名古屋12401539高山16531951名古屋
 名古屋10401338高山14321731名古屋

DcDsDDDDc×3 所要3
南紀(3)
 名古屋10001410紀伊勝浦
 紀伊勝浦10441454名古屋15402000紀伊勝浦
 紀伊勝浦6281040名古屋11151532紀伊勝浦16102023名古屋

Dc×5 D×1 Ds×2

82_801208
絵入りHMとなったキハ82形 特急「ひだ」 1980/12/8 名古屋

民営化直前の1986年から一部車両には特別保全工事を施工。普通車の座席を117系電車や185系電車と同様の転換クロスシートに交換し、民営化後も引き続き「ひだ」「南紀」で運用された。

DcDsDDDc×4 所要3
ひだ(4)
 名古屋9411231高山13261624名古屋19012206高山
 高山8311129名古屋13011622飛騨古川16471951名古屋
 名古屋10461346高山14371739名古屋

DcDsDDc×4 所要4
南紀(4)(臨時+1)
 名古屋8251238紀伊勝浦13191743名古屋18312224新宮2252紀伊勝浦
 紀伊勝浦611新宮6401045名古屋11251543紀伊勝浦16202050名古屋
 紀伊勝浦9141334名古屋14021817紀伊勝浦
 名古屋10021426紀伊勝浦15031932名古屋

Dc×2 D×12 Ds×2
1990年3月 キハ85系に置き換え。
(Wikipediaの記述から引用)

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1975/1 名古屋へ 3 キハ81組み込み特急「くろしお」

今回の名古屋訪問の大きな目的のひとつはキハ81の撮影でした。

<キハ81系 気動車特急のヒストリー>

1958年10月のダイヤ改正で客車特急「はつかり」が急行「みちのく」の格上げで登場。

1960年10月の第二回アジア鉄道会議(ARC)で気動車特急をアピールするプランが浮上

1960年9月に9両編成2本と予備8両の合計26両が製造され、尾久客車区に新製配置。
内訳はキハ81:1~6: 6両、キハ80:1~12: 12両、キロ80:1~5: 5両、キサシ80:1~3: 3両

1960年12月10日 特急「はつかり」に就役。

←上野
DcDsDsTdDDDDDc×2 9連 所要2
はつかり(1)
 上野12302358青森
 青森5001630上野

Dc×2 D×4 Ds×1 Td×1

1963.4.20 編成増強

DcDsDsTdDDDDDDc×2 10連 所要2
はつかり(1)
 上野13302355青森
 青森5051535上野

1968.9.9 キサシ80 1 函館に転出(同車のその後は2013/3/5の北斗の記事で記述しました)。
1968.9.10 キハ80-5, 6 向日町に転出
1968.9.17 キハ80-3, 4 向日町に転出

81_1_2

1968年10月 東北本線全線電化完成により、「はつかり」運用をはずれ奥羽本線特急「つばさ」2往復中の1往復(下り・上り2号)に充当された。キロは1両となり、キサシはキシに置き換えられ、編成は7両に短縮されました。

DcDsDdDDDDc×2 所要2
つばさ(1)
 上野12152030秋田
 秋田12352107東京

DcDsDdDDDDc×3 所要2
つばさ(1)
 東京7301551秋田
 秋田8201640上野

Dc×2 D×1 Ds×3 Dd×1 Td×2

1968.9~10 キハ81-1~6 キハ80-1,2,7,8,9,10,11,12 キロ80-3,4,5 キシ80-901,902 が秋田へ

1968.10.8 キロ80-2 => キロ80-901、向日町へ転出
1968.12. .9  キロ80-1 => キハ82-901  向日町へ転出
1968.12.. 9   キサシ80-2,3 => キシ80-901, 902

1969年10月 秋田機関区(現・秋田車両センター)に転属し、羽越本線経由の「いなほ」と間合い運用の常磐線特急「ひたち」に転用。

秋田運転所

DcDsDdDDDDc×2 7連 所要2
いなほ(1)、ひたち(1)
 秋田9251740上野18102112平
 平645945上野13502200秋田

Dc×2 D×2 Ds×1 Dd×1

1970.2.28 キロ80-5 => キハ82-902 鹿児島に転出

1972.3.6 キハ82-902 鹿児島より転入
1972.3.8 キハ82-901、キハ80-5, 902 向日町より転入

1972.3.15 編成増強

DcDDcDsDdDDDDc×2 9連 所要2
いなほ(1)、ひたち(1)
 秋田9351739上野18102053平
 平644934東京‥上野14302230秋田

Dc×2 Dc×1 D×2 Ds×1 Dd×1

1972.10.1 キハ80-1,2,5 函館へ転出
        キハ82-901, 902  キハ80-7,8,9,10 札幌へ転出
                キシ80-901,902 向日町へ転出

81_1_750102_2b_2

ブルドッグともいわれた特徴あるボンネット部分

1972年10月には「いなほ」「ひたち」の電車化により和歌山機関区(現・和歌山電車区)に転出し、紀勢本線特急「くろしお」に転用されました。

1972.10.1 キハ81 1,2,3,4,5,6 キハ80 11,12 キロ80  3,4  が和歌山へ

DcDsDsDdDDDc×3 所要2
くろしお(1)
 天王寺9101752名古屋
 名古屋9351810天王寺

DDDc×2 所要2
くろしお(付属1)
 天王寺9101752名古屋
 名古屋9351810天王寺

Dc×1 D×1 Dd×1

1973年10月からは基本編成のみが紀伊勝浦発着の臨時「くろしお」にも投入されました。

DcDsDsDdDDDc×3 所要2(臨時+1)
くろしお(1)(臨時+1)
 天王寺9101742名古屋
 名古屋9501812天王寺
 天王寺9221336紀伊勝浦14181836天王寺

DDDc×2 所要2
くろしお(付属1)
 天王寺9101742名古屋
 名古屋9501812天王寺

Dc×1 D×1 Dd×1

1975.3.10

DcDsDsDdDDDc×3 所要2(臨時+1)
くろしお(1)(臨時+1)
 天王寺9101742名古屋
 名古屋9501813天王寺
 天王寺9121336紀伊勝浦14181839天王寺

DDDc×2 所要2
くろしお(付属1)
 天王寺9101742名古屋
 名古屋9501813天王寺

Dc×1 D×1 Dd×1

1976年10月1日のダイヤ改正で1・2・4・6の4両が休車となり天理駅に留置ののち

DDDc×2 所要2 運用中は-3と-5
くろしお(付属1)
 1976.3~と同じ

Dc×4

81_750102_2

名古屋発天王寺行き「くろしお5号」1Dは9:50に名古屋を出発し、関西本線、伊勢線、紀勢本線、阪和線と経由して18:13に天王寺に到着する設定で、両端にキハ81を据えた10両編成で全区間運用されていました。上り2D は「くろしお2号」でした。当時、特急「くろしお」は6往復設定されていましたが、この5号/2号だけが名古屋まで来ていました。

1977年12月23日付で廃車。3・5は引き続き付属編成に組み込まれていましたが、1978年10月の紀勢本線新宮電化によって余剰となりさよなら運転の後休車。

1979年7月に5が、10月に3が廃車され形式消滅しました。

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1975/1 名古屋へ 2 北陸、九州へ向かう電車達

さらに名古屋で見たのは、特急「しらさぎ」、寝台特急「金星」さらに急行「兼六」などでした。

485_4810_750102_2


485_4811_750102_3

「しらさぎ1号」21M  8:15発 この日の編成はMM'481-1を組み込んだ編成

「しらさぎ」は「雷鳥」と並んで481系が投入された最初の特急です。後から思えば、「しらさぎ」編成に481系や0番台のクハ481の写真を撮ったのはこれが唯一の機会でした。1975.3の大改正で「しらさぎ」は存続しましたが、大ムコの481系や初期タイプの485系は鹿カコに転属になってしまったからです。

581_7501_10
「しらさぎ2号」23M 10:15発

581/3系を使用した「しらさぎ」も運行されていました。こちらは山陽路・九州長距離特急の間合い運用でしたが、雪の厳しい北陸地方を走るため耐寒耐雪装備のされた編成の限定運用だったようです。

581_7501
寝台特急電車「金星」 6:10着 幕の文字が写しにくいのが難点

さらに、名古屋~熊本を結ぶ寝台電車特急「金星」も運行されていました。

急行電車では、「しらさぎ」の補間版として、名古屋~金沢を結んでいた「兼六」も撮影しました。

471_750102_3

471_750102_2_4金沢から「兼六」1702M で名古屋に到着した471系

1966年10月にデビューし、当初はサロ、サハシも含まれる編成でした。「くずりゅう」と併結された列車も加わり、2往復の時代もありましたが、「しらさぎ」に格上げされて1968.10からは再び1往復に、1975.3の改正で廃止されてしまいました。

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1975/1 名古屋へ 2 名シン 中央本線のローカル 

現在は、211系5000、6000番台や313系が活躍している中央線名古屋口ですが、1975年当時はまだ103系も導入されていなく、神領区は70系や80系の旧形国電の天下でした。

「旧形国電の記録」様のサイトの情報によると、名古屋口では神領電車区に大量の旧型国電が配属されていましたが1977年4月に73系が103系に置き換えられたのを皮切りに、1978年12月に中津川まで運転されていた70系が、1980年3月には最後まで残った80系も姿を消しています。とのことで、名古屋に103系が登場したのはこの旅の2年後のことでした。

76_750102
中央西線のクハ76形 

79_750102_2
クハ79形 全金製の920番台

当時(1975.4.1)の神領電車区の配置を見ると、

新性能電車としては165系、113系、153系(サハ153のみ6両)が配置されており、旧形車は

クモハ40      800
モハ70       048  054  058  059  060  061  077  078  082  083  084  089  090  093
                         120  121  122  303  304  306  307  308  309  310
モハ72               532  534  547  558  570  616  618  635  653  659  661  671  676  683
                         695  696  697  700  713  900  927  929  930  931  933  945
モハ80               209  210  212  216  224  225  226  227  231  232  233 234  235  242 
                         243  800 801 802  803  804  805  806  807  810  811 
クハ76               013  023  024  026  027  030  031  032  033  086  089  095  101 300
                        301  302 303  305
クハ79               311  313  318  320  335  338  363  365  379  414  433  434  442 443
                        445  468  484  904  924  953
クハ85       028  032  033  034  302  303  304  305  306  307  308  309  310 311
クハ86       063  065  075  078  079  080  302  303  312  316  327  337
サハ75             104  105  107  108  109
サハ85             101  102  103

といったメンバーと
クモヤ90    804
クモエ21         008 が配置されていました。

(2013/8/21 コメントによる指摘に基づきクハ86318とあったものを316に修正、ありがとうございます。配置表から書き写す際に間違えたようです。)

Wikipediaの70系電車の記事から中央西線における70系電車の運用を見てみると、

1966年7月の名古屋 - 瑞浪間電化に伴い、横須賀線と京阪神緩行線から大垣電車区(現・大垣車両区)に転入してきたクハ68形を含む72両によって同区間における運用を開始しました。同年10月からは運行区間を東海道本線浜松 - 米原間まで拡大。客車列車の電車化に貢献した。

1968年には所属を新設の神領電車区(現・神領車両区)に移管。同年10月のダイヤ改正では中央西線では電化区間の延伸によって中津川まで拡大した。

中央西線では基本編成6両・付属編成4両で組成されラッシュ時には10両での運転も実施された。また基本編成の中間には格下げ車のサハ75形・サハ85形が組込まれており、これらの車両に等級帯がなく後に3扉化されたとはいえ横須賀線全盛期の雰囲気を漂わせていた。その後は東海道本線内の運用を80系に、中央西線ラッシュ時の運用の一部を72系にそれぞれ変更され規模を縮小。余剰車は新潟や長野に転出となった。この過程でクハ68形は全車転出。

1973年の中央西線・篠ノ井線全線電化では坂下まで、1975年には南木曽まで運用区間を延長した。1976年には新規開通した岡多線に付属編成2本が投入された。

とのことでした。

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1975/1 名古屋へ 2 名カキの東海道ローカル

東海道線で活躍していた大垣区のクハ86の三枚窓の基本タイプ、湘南形、全金製の300番台の写真と今では存在すら記憶から遠ざかってしまったクハ164形式などを紹介したく思います。

<80系電車>

国鉄80系電車は、国鉄が1949年に開発した長距離列車用電車形式群の総称です。
いわゆる「湘南電車」の初代車両であり、太平洋戦争後に東海道本線東京地区普通列車をラッシュ対策のために電気機関車牽引の客車列車からの置換えを目的に、当初から長大編成組成を前提として開発・設計されたものです。
それまでは客車列車を輸送の本流として扱い、電車は補助的なものと捉えていた国鉄が、電車による長距離大量輸送に耐えることを実証した車両で、走行性能で大きく凌駕し、居住面でも初めて肩を並べました。結果的に日本の鉄道(特に国鉄)を世界に例のない「電車王国」とするきっかけとなり基本構想は東海道新幹線の実現にまで影響を及ぼしました。

基本的なメカニズムは大正時代から引き継がれて来た国鉄電車の伝統的設計の延長上にありましたが、内容的には大幅な強化・刷新が図られ70系・72系全金属車体車とともに、あらゆる面から「国鉄における吊り掛け駆動方式旧形電車の集大成」と呼ばれる存在となりました。

1950年から1957年までの8年間にわたり、大小の改良を重ねつつ合計652両が製造され、普通列車・準急列車用として本州各地の直流電化区間で広く運用されましたが、1983年までに営業運転を終了し形式消滅しました。

<車体>

基本的共通事項として、乗降を円滑にするため幅1m(サロ85形は700mm)の片開き片側2ドア客用扉と車端部デッキを備え、を採用しました。

当初は台枠構造の簡略化で軽量化を図った程度で、初期の半鋼製車では窓の高さが客車や従来の電車よりも若干高い設計でした。しかし、引き続き改良も実施されており、通風器が初期車での大型砲金製風量調節機能付から、2次車では製造コスト低減のため皿形の簡素なものになるなどの変更点もあります。

なお、設計変更も含む大改良のため以下の番台区分も実施されました。

100番台(クハ86形・サハ87形)・200番台(モハ80形) 1956年の東北・高崎線用増備車。 耐寒設計の導入
座席間隔と座席幅を拡大
側窓枠を木製からアルミ合金製に変更
サロ85形は番台区分未実施だが1段下降窓に変更(85032 - 85035)
300番台 1957年・1958年製の最終増備車。 セミ・モノコック構造の全金属車体の採用
車体側面窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化
内装の完全全金属化と当初から蛍光灯照明を採用
サロ85形に専務車掌室・車内販売用控室の設置

<台車・主電動機・主制御器>

台車・主電動機・主制御器などは、1947年以降も戦時設計ながら戦後も大量増備されていた63系通勤形電車に試験搭載され改良を重ねて来た新技術が活かされています。
大出力主電動機搭載の長所を活かし、当初は編成内MT比2:3で起動加速度1.25km/h/sとする経済編成を基本とし、通常運転の最高速度は95km/h(後年は幹線区で100km/h)・設計最高速度は110km/hとしました。なお1955年には東海道本線での速度試験でMT比4:1の特別編成が、125km/hの最高速度を記録しています。

当時の国鉄電車用として最強であるMT40を搭載しました。
戦前からの標準型のMT30をベースに絶縁強化・冷却風洞装備などの改良を施したMT40は、端子電圧差を考慮すると実質的な性能はMT30とほぼ同等ですが、冷却機構の強化などで信頼性が向上していました。

歯車比は同じMT40を装架する通勤形電車である63系の2.87に対し高速性能を重視した2.56とし、1時間定格速度は全界磁時56.0km/h・60%弱界磁で70.0km/hとなりました。

1949年度製造の初期形では設計開発が間に合わず、戦前から長らく国鉄標準機種であったCS5A電空カム軸式制御装置を暫定的に搭載しました。

1951年度製造車からは、63系での試作開発結果を受けて開発されたCS10電動カム軸式制御装置に変更されました。

クハ86形(クハ86001- 86080・86082・86084・86100 - 86142・86300 - 86373・86375) トイレ付の3等制御車。定員は基本番台が79人、100番台と300番台が76人。

80_86000_750102

1949年末から製造されたクハ86001 - 86020は運転台正面が従来のモハユニ61形などのデザインを踏襲した非貫通3枚窓構成で落成しました。クハ86015は、1959年に衝突事故後復旧工事で正面左右の窓がパノラミックウインドウに施工された異端車です。<追記>同車は約10年後の1969年6月にはオリジナルスタイルに再改造され、1978年1月17日に廃車となっています。

86200_750102

1952年度製造のクハ86061- は正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓となったほか、80136 - 80140の偶数車はMGを搭載。また1957年以降の製造車では両渡り構造を採用しました。

86300750102
クハ86 300番台車 全金属製

大垣電車区は田町区、宮原区の1950年に続いて1955年から80系が配置されており、1977年に80系の配置は終了しました。80系電車の廃車は1976年度の大垣区のクハ86 004 049 から開始されており、1975年時点では全車健在だったのですね。

<165系の異端車クハ164>

1647_750102

1647_750102_2_5

1965年の山陽準急増発で下関運転所(現・下関総合車両所)所属車は165系と153系を混用していましたが、165系編成の先頭車にクハ153形を組み込むと勾配抑速ブレーキが使えなくなるという問題があり、車種統一も兼ねて1966年にクハ153形0番台車8両を幡生工場で改造施工されました。
主幹制御器をMC37A形に、制御用ジャンパ連結器をKE57A形からKE64形に交換。
外観はクハ153形と変わらず種車が低運転台構造の初期車のため塗装も153系時代のまま正面に緑が回らない塗り分けの異端車となりました。

山陽新幹線岡山暫定開業後の転出入では以下の転出が行われた。
1・2→大垣電車区(現・大垣車両区)
3・4→岡山電車区→大垣電車区
1 - 4は1974年から1975年にかけて宮原へ再転出。本系列で唯一非冷房のまま1979年 - 1980年に廃車。
5 - 8→宮原電車区(現・網干総合車両所宮原支所)
1972年に5 - 7が吹田工場(現・吹田総合車両所)で、1976年に8が長野工場(現・長野総合車両センター)で冷房化改造を施工されたほか、5・7は前面強化と前照灯のシールドビーム化改造も施工。
宮原所属車は1973年に神領電車区に転出し、中央西線の「きそ」などで運用された後の1975年に大垣に再転出。「東海」「伊那」「富士川」などで運用されたが1983年に廃車されて形式消滅した。      クハ153-1・2・17 - 20・25・26→クハ164-1 - 8

(Wikipediaの記事を参考にしました)。

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1975/1 名古屋へ 2 名カキの修学旅行用電車

159系は急行用新性能電車153系をベースにした修学旅行用電車の系列です。昭和23,24年生まれの第1次ベビーブーム世代が中学生として修学旅行に出る際の団体臨時用電車として開発されたものです。

159159119750102_4

東京や関西地区につづき、中京地区の学校関係者からも修学旅行用電車の運転を希望する声が高まり、愛知・岐阜・三重三県の利用債方式による修学旅行専用電車導入の要望が出されました。当初は1960年に登場する予定でしたが、伊勢湾台風により利用債の引き受けが1年延期となり車両の新製も延期され、翌1961年に中京地区修学旅行用として新造されました.基本的には1959年製造の155系に倣っていますが若干の設計変更が行われ、16両が製造されました。

1591591750102_2_3

中京地区は東京・関西地区ほど修学旅行列車としての利用度が高くなく、むしろ臨時列車に充当することが多いと判断されたため車内は153系などに近い構造とされました。
変更点は通風器を大垣 - 米原間の降雪地帯での運用を考慮して押込形に変更・両側2列座席(4名ずつのボックスシート)・壁際に連続して設置した通常の荷物棚・男子用トイレ廃止・扇風機の減少(10台→4台)・客室車端部に名古屋鉄道管理局名による「こまどり号電車について」という説明文の掲示。改良点は休養スペースを全車設置とし、腰掛布団を引き出して使用する方式に変更しました。

1961年に製造された12両により4月9日から修学旅行用として東京・品川 - 大垣間の「こまどり」に投入された。155系同様予備車なしで8両編成と12両編成で隔日運転し8両運転時に4両分の検修を行う方式が取られた。1962年にはTcMM'Tcの4両が増備され、毎日12両編成での運転が可能になった。また同年秋からは、中国地区 - 中京地区間不定期修学旅行列車「わかあゆ」にも投入されました。

155750102
こちらは湘南色に塗色変更され、153系などと共通運用されていた大垣区の155系

また、閑散期には臨時準急「ながら」や車両運用の都合上「東海」にも投入されました。1973年には、臨時快速「木曽路」で全線電化後の中央西線でも運用されました。1975年頃からは、急行「東海」・大垣夜行・中京地区快速列車などに153・155・165系と共通運用され、車体塗色が湘南色に改められたのも155系と同様です。冷房化や飲料水タンク撤去などの改造もされずに新製配置となった車両基地の大垣電車区で運用され続けましたが、1980年に廃車解体されました。

当時の155系、159系の配置表です。 1975.4..1 現在

田町電車区

モハ155+モハ154    2  3  7  9
クハ155                      3  4  9  10  13  14
サハ155                     1   2

大垣電車区

モハ155+モハ154       1  4  5  6  8  10  11  12
クハ155                     1  2  5  6  7  8  11  12  15  16  17  18  19  20
サハ155                    3  4

モハ159+モハ158       1  2  3  4
クハ159                    1  2  3  4  5  6
サハ159                   1  2    

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1975/1 名古屋へ 2 381系電車特急「しなの」

今回は国鉄電車として当時の名古屋駅で最も輝いていた振り子式特急電車381系です。

381_750102

当時は8往復設定された「しなの」のうち、6往復を担当していました。

381系電車は、国鉄が1973年から1982年の間に設計・製造した振子式の直流特急形車両です。1970年に振子式電車591系を試作し、その実績をもとに、営業列車用として1972年に本系列を開発し、翌1973年から中央本線特急「しなの」に投入しました。その後、1978年に阪和線・紀勢本線特急「くろしお」、1982年に伯備線特急「やくも」にも投入されました。

591系の試験結果から381系に導入されたもの}に関しては591系のWikipediaの記事を読むと分かりますが、
「本系列で良好な結果を得た4系統独立発電ブレーキ制御は、効果を十分に発揮するためには全電動車方式が要求され、変電所の増強などコスト面で過大となること、複巻電動機を使用した界磁チョッパ制御は回路が複雑であることから、いずれの方式も実用化は見送られ、最高運転速度130km/hでの営業運転も放棄された。パンタグラフの移動機構や、移動心皿方式台車の採用も見送られている。結局、本系列で試験された本体機構のうち、381系に反映されたのはコロ式の振子装置程度であったが、むしろ車内に少数設置された簡易リクライニングシートの方が、381系をはじめその後の国鉄特急形車両に多数導入される結果となった。」とのことです。

<車体>

振子車両に必要とされる軽量化と低重心化を図った車体構造となっており、車体は軽量化と振子作用を容易にするため、アルミニウム合金製構体を採用しました。先頭車前面は183系0番台車485系200番台車などと同様、「電気釜」と呼ばれる高運転台形状で貫通形と非貫通形があります。側面はグリーン車の窓や普通車の客用扉の数を除き183系に似ていますが、振子作用による車両限界への抵触を防ぐため183系に比べて車体下部の裾絞りが大きく、台枠上面幅は 2,600 mm となっています。

重心を下げるため重量物である冷房装置は床下搭載としており、屋根上はパンタグラフなどの必要最小限の設置物がある程度で非常にすっきりしています。客室床面高さは181系とほぼ同じ 1,105 mm で、屋根高さは 3,385 mm ですが、天井は冷房ダクトを通した平天井構造のため、床面からの高さは 2,050 mm で181系よりも低くなりました。

国鉄の電車では初めて全長を新基準の 21,300 mm としました。アルミ製車体ですが外観は183系など他の昼行特急形電車と同様にクリーム4号地に赤2号帯が塗装されています。

製造年度によって細部が異なり、1976年製造車からはクハ381形の貫通扉が廃止され100番台に区分されました。モハ381形・モハ380形・サロ381形には側面中央部付近の窓下に非常口を設置しましたが、1981年の「やくも」向け最終製造車では廃止されました。

<主要機器 電源・制御機器>

基本的にはMM'ユニット方式を採用し、M車(モハ381形)には主制御器と抵抗器 (MR123) といった主回路機器が、M'車(モハ380形)には電動空気圧縮機・集電装置といった補機類が搭載されましたが、電動発電機は床下機器設置スペースの都合と車両重量を平均化させるためクハ381形およびサロ381形に1基搭載しました。

主回路は抵抗制御を採用。主制御器は電動カム軸方式のCS43です。主制御器1基で2両8基分の主電動機を制御する1C8M方式で総括制御は90芯のKE91形ジャンパ連結器により行われます。

主電動機は591系で試験されたMT58X形(1時間定格出力110kW)を容量アップした1時間定格出力120kW(定格電圧375V、定格電流360A)の直流直巻電動機MT58形です。原設計は三菱電機が担当し、MT54形と同等の出力を確保しながら、200kg弱の軽量化を達成するため、定格回転数が2,130rpmまで上げられました。1974年12月落成車からは、リード線直出しから端子箱方式に見直されたMT58A形(重量:680kg)に変更されました。前述のように、回転数を上昇させたことにより定格トルクが57kg/mまで低下しました。

歯車比は、前述の定格トルク低下による起動加速度の確保を目的に急行形電車と同じ4.21に設定し、MT比2:1での編成を基本として山岳線区での使用に適応させました。この結果、定格速度は従来の特急形電車より若干上がって 77.0 km/h となり高速性能も軽量車体との相乗効果で向上しました。集電装置は菱形のPS16I形パンタグラフをモハ380形1両あたり2基搭載しています。サービス電源用の電動発電機(MG)は、最大4両までの給電が可能なMH128C-DM85C(容量110kVA)を採用しました。

台車は振子装置(車体傾斜用コロ装置)を組込むことから本系列専用の台車が新設計されており、形式は電動車用がDT42形、制御車・付随車用がTR224形となっています。

軸箱支持には板バネを、枕バネには空気バネをもちいたダイレクトマウント方式です。固定軸距は 2,300 mm 、車輪径は860 mmです。基礎ブレーキは、DT42が踏面ブレーキ、TR224が1軸2枚のディスクブレーキです。

中央西線電化開業に伴う1973年7月10日のダイヤ改正で、特急「しなの」8往復のうち6往復(名古屋 - 長野)で運転を開始しました。これに合わせて、長野運転所(現・長野総合車両センター)に47両(MM'x15, Tcx5, Tsx5)が配置されました。

TcM'MTsM'MM'MTc×5 所要4
しなの(6)
 長野7551115名古屋13001620長野16552016名古屋‥神領
 神領‥名古屋10001320長野14551816名古屋‥神領
 神領‥名古屋7001022長野10551415名古屋15001820長野18552215名古屋‥神領
 神領‥名古屋9001220長野12551619名古屋17002020長野

Tc×2

381_7750306
1975/3/10の改正を前に3/6の時点で特急「しなの」は381系特急電車での運行になっていました。 大阪駅

キハ181系気動車によって運転されていた2往復も、増備車(30両, MM' 16~25, Tc 13~18, Ts 6~9)の投入で1975年3月10日ダイヤ改正で381系化され、所要時間の短縮および本形式の大阪駅乗り入れが開始されました。

TcM'MTsM'MM'MTc×8 所要7(臨時+1)
しなの(8)(臨時+1)
 長野18552215名古屋‥神領
 神領‥名古屋10001320長野13551950大阪‥宮原
 宮原‥大阪8301420長野15551920名古屋‥神領
 神領‥名古屋8001120長野14551816名古屋‥神領
 神領‥名古屋9001222長野12551619名古屋17002020長野
 長野7551115名古屋13001620長野16552017名古屋‥神領
 神領‥名古屋7001022長野10551420名古屋15001820長野
 松本11151358名古屋16001853松本

M'M×1 Tc×2 Ts×1
381_801208
「くろしお」や「やくも」と同じように「しなの」にも登場した非貫通方式の先頭車 名古屋 1980/12/8

1978年10月2日
ダイヤ改正からは、1往復増発の計9往復となることから、11両(MM' 56~59, Tc 121, 122, Ts 20) が新製配置されました。このときに非貫通タイプのクハ381-121、122がしなのに投入されています。長野運転所への新製投入は計88両となりました。なお、導入後1年の時点で長野工場で検査をしたところ、振り子作用の影響による車輪の摩耗が予想以上に激しい事が判明し、予備車確保のため1974年5月から1975年5月までの間(多客期を除く)、MM'ユニット(3・4号車)を減車した7両編成で運転しました。

TcM'MTsM'MM'MTc×9 所要7(臨時+1)
しなの(9)(臨時+1)
 休
 長野8551218名古屋13001620長野17152043名古屋‥神領
 神領‥名古屋9001225長野14152007大阪‥宮原
 宮原‥大阪8301425長野16151945名古屋‥神領
 神領‥名古屋8001120長野12551623名古屋17002024長野
 長野7551115名古屋14001723長野18152137名古屋‥神領
 神領‥名古屋10001320長野15151841名古屋‥神領
 神領‥名古屋7001020野10551422名古屋15001824長野
 松本12201514名古屋15451824松本

M'M×2 Tc×2 Ts×1

381_840504
381_840504_2_3
大糸線乗り入れのため、このような名撮影ポイントでも写真が撮れるように 1984/5/4

1982年11月15日ダイヤ改正では、「しなの」1往復が運転区間延長により大糸線白馬駅まで乗り入れるようになりました。また、塩尻駅構内改良に関連して、編成の号車番号が逆転しました。さらに、上越新幹線開通によって余剰となった183系のうち84両を長野運転所に転属させるため、車両配置に余裕のある神領電車区(現・神領車両区)に88両全車が転属しました。

名シン

TcM'MTsM'MM'MTc×9 所要7(臨時+1)
しなの(10)(臨時+1)
 休
 神領‥名古屋7001016長野10501414名古屋15001825長野
 長野600925名古屋10001313長野14102000大阪‥宮原
 宮原‥大阪8301411長野15101834名古屋‥神領
 神領‥名古屋8001115長野13001625名古屋17002016長野
 長野7501117名古屋14001719長野18202137名古屋‥神領
 神領‥名古屋9001242白馬14301810名古屋19002226長野
 長野8501212名古屋13001616長野17152042名古屋‥神領
 名古屋8301215長野15501944名古屋

M'M×2 Tc×2 Ts×1

1985年3月14日ダイヤ改正では、閑散期にはMM'ユニット(5・6号車)を減車した7両編成で運用されることとなりました。

TcM'MTs[M'M]M'MTc×9 所要7(臨時+1)
しなの(10)(臨時+1)
 休
 神領‥名古屋7001012長野11031422名古屋15001819長野
 長野603927名古屋10001315長野14041944大阪‥宮原
 宮原‥大阪8301415長野15201840名古屋‥神領
 神領‥名古屋8001111長野1157妙高高原1222長野13071625名古屋17002016長野
 長野8031125名古屋14001711長野18192139名古屋‥神領
 神領‥名古屋9001232白馬1306南小谷1354白馬14251808名古屋19002219長野
 長野9031224名古屋13001615長野17162039名古屋‥神領
 名古屋10101345長野15561954名古屋

M'M×2 Tc×2 Ts×1
381_381_921021
特急「しなの」に登場したクロ381 1992/10/21 名古屋 サロ381形式を先頭車化改造した形式で国鉄最後の日に落成したグループとか

1988年3月13日ダイヤ改正では、「しなの」増発(9往復 → 13往復)が行われました。同時に編成の短縮化も行われ、1号車にクロ381形を連結した6両編成および4両編成としました。また、同年4月末までにパノラマグリーン車(クロ381形10番台)を連結した編成も用意され、3往復で運用されました。パノラマグリーン車を含む編成はP編成として限定運用となり、時刻表にもその旨が掲載されていました。その他はD編成としてクロ381形0番台とクロ381形50番台組み込み編成は共通で運用されました。同時期に普通車のアコモデーション改善も行われ、普通車全車がフリーストップ型のリクライニングシートに交換されました。

TcM'MM'MTsc×3(パノラマグリーン) 所要3
しなの(4)
 神領‥多治見808849名古屋9001202長野13041616名古屋17002010長野
 長野8051128名古屋12001502長野16111919名古屋19402014多治見‥神領
 神領‥名古屋8251154白馬‥南小谷13431806名古屋‥神領

TcM'MM'MTsc×9 所要8
しなの(12)
 休
 神領‥多治見703742名古屋8001108長野12121527名古屋16001903長野
 長野10031312名古屋14001702長野18122120名古屋21402250中津川‥神領
 神領‥名古屋9201151松本15221740名古屋18002104長野
 長野602919名古屋10251239松本14191643名古屋‥神領
 神領‥名古屋7001003長野11081427名古屋15001811長野19182225名古屋22352309多治見‥神領
 神領‥名古屋10001308長野14021936大阪‥宮原
 宮原‥大阪8421403長野15101833名古屋19002208長野
 長野9081220名古屋13001605長野17082025名古屋20402155中津川‥神領

TcM'M/M'MTsc×4 所要3
しなの(付属4)
 神領‥名古屋10001308長野14021936大阪‥宮原
 宮原‥大阪8421403長野15101833名古屋19002208長野
 長野9081220名古屋13001605長野17082025名古屋20402155中津川‥神領

TcM'MTsc×1 所要1
しなの(付属1)
 神領‥多治見703742名古屋8001108長野12121527名古屋‥神領

<追記:1993年編成表データから>

3811993
1992年の上の写真のクロ381には貫通幌が装備されていませんが、この表の編成表データではクロ381-1~7を繫いだD編成には貫通幌が付き、特に4連のD-10編成は他の6連の編成と併結して10連で運用されていたそうです。

1996年11月以降、老朽置き換え用として落成した383系(「ワイドビューしなの」)への置換えにより定期運用を失いました。クロ381形50番台組み込み編成を中心に余剰車の廃車が開始された。P編成は臨時「しなの」に優先的に使用し、廃車を逃れた車両は4両編成に組み変えられて飯田線の特急「伊那路」81号・82号(のちに「ふれあい伊那路」)として運転されたほか、373系の代走として定期「伊那路」や東海道本線の「ホームライナー」に充当されたこともあります。

1998年2月開催の長野オリンピックでの波動輸送の終了後から大規模な廃車が進み、2001年以降6両編成2本のみが残されました。

2006年に1本(P1編成)が廃車され、もう1本のP2編成も2008年5月をもって運用を終え、同年5月7日にJR東海浜松工場へ廃車回送され、5月9日から12日にかけて車籍が抹消されました。

オリジナルタイプの貫通形の先頭車は「しなの」用のみに存在しましたが2001年までに廃車されています。

以上、Wikipediaの関連記事、および「381系の動き 配置および編成・運用の移り変わり 一覧」によるデータを参考にまとめました。

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1975/1 名古屋へ 1 客車列車 その5 旧型客車 スハ44系 

今回の話題は名古屋駅で見た旧型客車です。

<スハ44系>

まず最初は、かつて特急「つばめ」などで活躍していたスハ44系客車の残党(スハフ43 17)が当時、亀山客車区に配置されていたようで、関西本線の列車で運用されているの目撃しました。

43_17_750102

今から思えば、なぜ車輌全体を写していなかったかと悔やまれるのですが・・・

1974年秋の九州一周旅行でも大分でスハフ43形に遭遇しましたが、当時の車両配置表でスハ44系(スハ44、スハフ43、スハニ35)の配置(1975.4.1のデータ)を見てみると、

宮原区 スハ44  25 28 33
      スハフ43  1  13

高松区 スハフ43 2  3  15  16  18   19  

の2カ所、11両のみの配置となっていました。

簡単にスハ44系の歴史を振り返ってみますと、

1951年に特急列車のサービス改善を目的として、戦前のスハ34形に相当する専用三等客車が設計されました。基本構造はスハ43形に準じましたが、デッキは特別二等車並みに片側のみとされ、車内は、2列配置の一方向き固定クロスシートがシートピッチ835mmで通路の左右に配置されるなど、当時の一般向け三等客車とは比較にならない、高水準なアコモデーションを備えていました。基幹形式であるスハ44形(スハ44 1 - スハ44 34)、緩急車として車掌室や手ブレーキ装置を持つスハフ43形(スハフ43 1 - スハフ43 3)、それに緩急車としての機能に加えて荷物室を持つスハニ35形(スハニ35 1 - スハニ35 12)の3形式49両が製造されました。

新造後は東海道本線特急「つばめ」・「はと」や東北本線特急「はつかり」などの特急列車を中心に使用されましたが、これらの特急が電車化、気動車化、ブルートレインに置き換えられたあとは冷房化されることもなく一般形車両に格下げ運用されました。この格下げに際して回転クロスシートに改修されましたが、シートピッチの関係で向かい合わせ使用は不可能でした。また、スハニ35形は後に近代化改造工事で回転シートになった3両を除き、特急時代の一方向固定式のままでした。

1960から1961年にかけてスハ44形14両(スハ44 9 - スハ44 22)が緩急車へ改造され、スハフ43形10番台(スハフ43 11 - スハフ43 24)となりました。また、1962年にはスハニ35形2両(スハニ35 2・スハニ35 3)がオシ16形改造の際、改造種車のTR23とTR47の振り替え対象となり、背摺りを木製で垂直のものに交換して、オハニ40形(同一番号)となりましたが、これらを含めてスハニ35形は全車、1965年以降荷物車であるマニ35形・マニ36形や教習車オヤ33形に改造され、1970年までに消滅しました。

スハ44系の近代化工事は時期により窓枠の構造が変更されたため、2種に大別されます。

スハ44 1 - スハ44 8・スハフ43 11 - スハフ43 24・スハニ35 4 - スハニ35 6 最初の近代化工事施工車。
1960年度に施工され、客室窓枠のアルミサッシへの変更、照明の蛍光灯化、座席の回転クロスシート化、内張りの木材からメラミン樹脂化粧板への張り替え、客用扉の交換などです。このため無塗装のアルミサッシ窓枠に10系客車に準じた客用扉を備え、塗装も青15号を基本に車体裾部にクリーム色の帯を巻いた当時の観光団体列車専用塗装に変更されたため、新造時とは見違えるような近代的な外観となりました。

スハ44 23 - スハ44 34・スハフ43 1 - スハフ43 3
改造コスト削減のため、窓枠のアルミサッシ化と内張りの変更が見送られ、客用ドアの交換も行っていません。但し、後にドアを交換した車両は幾つか存在します。
照明は、最初の近代化工事施工グループが直管の蛍光灯を使用しているのに対し、このグループは従来の灯具位置に設置可能な円環型の蛍光灯を使用しています。客室内張りは、コストダウンのため従来のベニヤ板を塗りつぶす形となりました。これも上記のグループが淡緑色系なのに対し、このグループは暖色系になっています。但し、1975年に四国総局に転属したスハフ43 2・スハフ43 3は1976年・1977年に多度津工場で体質改善工事を施工されています。このうち、スハフ43 3はトイレ、洗面所の窓がHゴム支持の固定窓となり、ウインドヘッダーも窓の上で切れています。

これらの近代化改造工事を施工されたグループは、当初は観光団体列車にオハネ17形などとともに運用されていましたが、1964年の東海道新幹線開業後は、幹線系統の急行列車の普通指定席車に充当されるようになり、「瀬戸」・「明星」・「銀河」・「日南」・「筑紫」・「さんべ」などの東海道・山陽線夜行急行を主体に使用されました。

1970年代以降格上げによる特急列車への種別変更と、1975年の山陽新幹線博多開業で急行列車が激減し、また車両そのものの老朽化も進行したことから、最後まで本系列を使用していた急行「銀河」へ20系客車への置き換えが決定され、1976年をもってスハ44形の全車廃車と本系列の急行運用消滅となった。

もっとも、老朽化していたとはいえ60系よりは格段に良好なコンディションであったためか、車掌台付きのスハフ43形についてはその大半が当時大量の60系客車を抱えていた四国総局へ転属の手配がとられ、体質改善工事などの大がかりな更新修繕工事を実施の上で、国鉄分割民営化直前まで使用され続けた。

その後、1986年に日本ナショナルトラストの活動によりスハフ43 2・スハフ43 3の2両が同団体に払い下げられ、現在も大井川鐵道で動態保存されています。

<10系客車>

さらに10系客車のナハフ10の1が活躍する姿もありました。

10_1_19750102

10系客車は小さい頃、家族旅行で萩へ行ったり、能代へ行ったりしたときによく乗車した客車でしたが、自分が写真を撮りだした1970年代には急行運用の激減もあり、殆ど目にすることがありませんでした。そんな中で、関西本線の客車列車運用でナハフ10の1号車に巡り会えたのは幸運でした。

ちなみに ナハフ10は三等緩急車 (製造年1956年) (1 - 48 すべて日本車輌製造) ナハ10形に対応する緩急車。定員80名、48両が製造されました。 

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2012年11月 1日 (木)

1975/1 名古屋へ 1 客車列車 その4 14系座席車 その2

名古屋駅で見た「金星51号」の話題から、14系ハ座の話題にと続いておりますが、今回は北の14系ハ座です。

14_12
まずは尾久客車区における14系と12系ハ座の並びです。

14_810113
続いて夜の上野駅偵察 大学院の頃、たまたま485系1500が本州復帰しているのを知って、わざわざ上野駅を経由して夜の列車風景を写していた頃ですが、14系ハ座も臨時急行かなにかで活躍していたようです。 1981/1/13
14_810121
上の写真と同じ列車の8日後です。 1981/1/21
14_810228
日暮里を通過する14系ハ座の急行、十和田か何かでしょうか 牽引機はEF80 1981/2/28

14_850323
急行「妙向」 1985/3/23 日暮里

14_1_800102
スハフ14 1を最後尾に繋げた臨時特急「つばさ51号」 郡山 1980/1/2
14_51
おなじく「つばさ51号」 福島

14_7508
14系ハ座を使用した臨時特急「はくつる51号」 1975/8 青森

060709_2_2
最初は「サロンエクスプレス東京」、そして「ゆとり」となったこの客車も元は14系ハ座でした。 2006/7/9 大宮

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