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2013年4月13日 (土)

1974,1975 北海道へ 8 急行型気動車 キハ56 キハ27

1974年、75年の大学化学部の北海道実験旅行は乗車券は北海道周遊券でしたから、急行列車乗り放題でした。したがって当時、北海道の各地を走り回っていたキハ56、キハ27形気動車には大変お世話になりました。

当時、あまりに当たり前すぎて写真をあまり撮っていないのが今となっては悔やまれるところですが、今回はその急行型をご紹介しようと思います。

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1975/10 札幌駅で出会ったキハ56形 急行「大雪」 先頭車は後述の200番台です。

この写真は2013年3月8日の1974,1975 北海道へ 2 北の大地のDC特急 4 「北海」 の記事でご紹介した急行「大雪」の写真ですが、よく見ると左端にはキハ80系、右端には札沼線の気動車でしょうかキハ12形?が写っています。

まずキハ56系についてですが、私もこのblogで気動車の形式について○○系といった記述をしていますが、電車で言う系列を意味する○○系とは意味がちがって、あくまでも同一の設計思想により製造された気動車を便宜的に総称したものであり、具体的にはキロ26形・キハ27形・キハ56形の3形式およびこれらの改造車を指して言っています。

これらの形式が設計、製作された経緯は、1950年代初頭、北海道の主要幹線に運転される急行列車は、すべて蒸気機関車が牽引する客車列車で、一般に速度が低く、また北海道向けの車両は、特殊な耐寒耐雪設備を要することもあって潤沢には製造されない傾向がありました。したがって道内の車両数は常に不足しており、特に幹線の輸送力は逼迫していました。

そういった状況において北海道で最初の気動車優等列車は、1957年6月に釧網本線の釧路 - 川湯(現・川湯温泉)間に臨時列車として運転開始した準急「摩周」が最初で、普通列車用のキハ12形を用いたものでした。以後1960年頃までに、札幌地区を中心とした気動車準急網が整備されましたが、使用された車両はいずれも普通列車用のキハ12形キハ21形・キハ22形のみでした。

1956年から製造された準急形気動車キハ55系は、日本全国に準急列車のネットワークを構築する成果を上げ一部は急行列車にも充当されました。北海道でも本州からの借り入れの形で準急「アカシヤ」に充当されましたが、キハ55系は元々暖地向けの設計であるため耐寒耐雪対策が施されておらず、冬季を前にして本来の所属基地に返却する措置が取られました。

この実績に基づいて、再び本州から借り入れたキハ55系を投入し、1960年7月1日から北海道初の気動車急行列車「すずらん」が、函館 - 札幌間に運転を開始しました。全車指定席のこの列車は、函館 - 札幌間を室蘭本線・千歳線経由で函館本線小樽経由の客車急行列車に比べて30分のスピードアップとなる5時間で走破しました。もっとも55系の耐寒問題自体は解決しておらず、55系はこのシーズンの冬期には再び本州に返却され、代わって普通列車用のキハ22形で長編成を組んで「すずらん」に充当しています。「すずらん」の成功は、道内でも長距離列車における気動車の有効性を強く認知させました。

キハ55系を主体に運行が広まった準急気動車列車は、1950年代後半、快適な居住性と高速性が高く評価され、全国各地で成功を収めたことから、急行列車についても気動車化を促進する気運が高まりました。しかし、キハ55系は元々準急用であり急行用としては設備グレードがやや低いことから、1ランク上の設備を備えた急行形気動車が計画されました。これがのちのキハ58系です。

この計画の中には北海道用の耐寒耐雪形も含まれており、特に輸送事情の逼迫した北海道向けに、暖地向けのキハ58系を差し置いていち早く開発が進められることになりました。こうして1961年初頭に登場したのがキハ56系です。

広幅車体や高運転台構造、接客設備等、多くのスペックは後から登場したキハ58系と同じですが、北海道の酷寒地で運用される条件から、先行して北海道用に開発されたキハ22形気動車に倣い、さまざまな耐寒耐雪装備が施されています。

外観上の特徴として、小型の客室窓が挙げられます。本州並みに大型の窓を採用すると保温性に難があるため、2等車の窓はキハ58系より上下寸法が100mm小さくなっています。それまでの北海道用車両と同様、二重窓ですが、内窓には初めてFRP製の窓枠を採用しています。1等車のキロ26形も連続窓ではなく、独立した小窓を用いているのは同様の理由です。

保温には二重窓以外にも配慮がなされ、暖房はキハ22形に倣ったエンジン冷却水利用の温水暖房としました。キハ58系でも採用された方式ですが、キハ58系では床下のラジエーターと客室の放熱器が直列につながれているのに対し、キハ22形や本系列の場合はラジエーターと客室放熱器を並列配管とし、より強力な暖房能力を確保しています。ラジエーターにはシャッターを備え、過冷を防いでいます。床板の表面材にはリノリウムや鋼板などを使わず、木張りとしました。より保温性に優れるほか、当時の冬期の北海道では雪靴・雪下駄に滑り止めの金具を付けて列車に乗る乗客が多く、木張り以外では耐久性に難があったという事情もあります。また、ドアレールや汽笛など、随所にエンジン冷却水を引き回す温水管や電熱ヒーターを装備し、凍結を防止しています。冬季用のエンジン防雪カバーも用意されています。

1961年3月に製造されたキハ56 1 - 5・キハ27 1 - 12・キロ26 1 - 5については、その後の量産車とは主に以下のような差異が見られます。

車体断面形状が異なり裾絞りが直線的
先頭車の前照灯・前面通風口をやや内側に設置
乗務員室扉と前位出入口の間に取り付けられている握り棒が長い
キハ56・キハ27の連結面に窓がない

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1975/8/5 登別にて 線区から想像するところ急行「すずらん」「ちとせ」もしくは「いぶり」でしょうか

キハ56形

本系列の基本形式である2エンジン装備の2等車。1961年から1968年までに合計121両製造されました。キハ58系におけるキハ58形に相当します。

国鉄気動車を製造するメーカーは多数存在したにもかかわらず、210 - 214のみ富士重工業が製造した以外は、すべて新潟鐵工所が製造を担当しました。

0番台(1 - 47)

1961年から1962年にかけて製造された初期形。

100番台(101 - 151)

1963年から1967年にかけて製造されたグループ。長大編成対応の改良がされており、キハ58形400番台に相当します。

200番台(201 - 214)

1968年に製造された最終増備グループ。キハ58形1100・1500番台に相当する番台区分で車体断面の変更を含む改良が行われました。AU13形分散式冷房装置7基をボルトオンで簡単に搭載できる構造の冷房準備工事が施工されており、客室屋根上のベンチレーターがなく屋根部の形状も従来よりフラットで高さも抑えめに外観の印象は大きく変化しています。また前面窓はパノラミックウインドウとなり、運転台下部にも排障器(スカート)を採用しました。しかし夏が短く猛暑日も少ない気候事情も考慮し、道内気動車急行の普通車への冷房搭載は見送られたことから冷房搭載改造はありません。

1986年に201・209・212が「アルファコンチネンタルエクスプレス」へ改造されました。
この改造とは別に後に213が、外板塗色の変更・冷房電源・制御回路のジャンパ連結器追加改造を施工され、「アルファコンチネンタルエクスプレス」の増結車となりました。しかし車内がボックス式クロスシートで非冷房のためにサービス格差問題が露呈。実際に増結車として使用される機会は少なく、後に従来の急行色に戻され冷房関係引き通しも撤去されました。

56_7508
前面に212とありますが、もしこれがキハ56形ならば、アルファーコンチネンタルエクスプレスに改造される前のキハ56-212だったのですね。 1975/8/5 登別

キハ27形

キハ56形と同型の1エンジン装備の2等車。キハ58系におけるキハ28形に相当します。1961年から1968年にかけ、合計102両製造されました。

0番台(1 - 56)

1961年から1962年にかけて製造。キハ28形0番台に相当します。

100番台(101 - 129)

1963年から1967年にかけて製造。キハ56形100番台同様の長大編成対応車でキハ28形300番台に相当します。

日本車輌製造製の125 - 129は手違いから、窓周りの赤11号の帯幅がキハ58と同寸(天地方向に太い)で落成しており、その後も全検時の再塗装でも修正されていませんでした。

1973年に3両がお座敷車キロ29形に改造されました。

200番台(201 - 217)

1968年に製造。キハ56形200番台同様の前面パノラミックウインドウの冷房準備仕様車でキハ28形500(2500)・1000(3000)番台に相当します。

キロ26形

本系列唯一の新製1等車で、1961年から1968年にかけて28両が製造されました。キハ58系におけるキロ28形に相当します。

本州以南用の急行形電車・気動車の一等車とは違い、2連窓ではなく、座席1列ごとに独立した一段上昇窓が1枚ずつ並んでいます。車内はキロ28形と同様のリクライニングシートで、定員もキロ28形と同じく52人です。

0番台(1 - 18)

1961年から1962年にかけて製造。キロ28形0番台に相当します。当初は非冷房でしたが、1964年から1968年にかけてAU13形分散式冷房装置6基と自車給電用の4DQ-11P冷房用発電装置を搭載して冷房化されました。

1985年3月14日のダイヤ改正で北海道内の気動車急行列車のグリーン車が全廃されたことで用途がなくなり、国鉄時代の1986年までに廃車されました。

100番台(101 - 107)

1963年から1966年にかけて製造。キロ28形100番台に相当します。101 - 103は1 - と同仕様で非冷房、104 - 107は強制通風装置付で冷房準備仕様。いずれも1968年までに冷房化されています。

0番台同様、道内の気動車急行のグリーン車廃止により用途がなくなり、国鉄時代の1987年までに廃車されました。

200番台(201 - 203)

1968年に製造。当初から冷房付。キロ28形300・500番台と同時期の製造ですが、キロ28形のような車体断面形状の変更やトイレ・洗面所位置の変更はされていません。

道内気動車急行のグリーン車廃止により203は民営化前に廃車されましたが、残存した2両は「アルファコンチネンタルエクスプレス」用改造種車となりJR北海道に承継された。
201:キハ29 1に改造。
202:増結車として整備改造が施工されたが1988年に廃車。

1980年代以降、赤字ローカル路線の廃止や急行列車廃止による余剰老朽化で廃車が進行し、2002年までに全車が運用を離脱、形式消滅となりました。2013年4月8日のDD51の記事でちらっと触れましたが、五稜郭車両所にキハ56形3両が長らく保管されていましたがそれも一部を残して解体されてしまいました。

<アルファーコンチネンタルエクスプレスについて>

国鉄末期の1985年から1986年にかけ、国鉄苗穂工場(当時)で改造されました。

1987年の国鉄分割民営化後から1990年代にかけて、バブル景気に伴う旅客需要増加という背景とともに日本各地で改造・新造取り混ぜて多数登場した気動車をベースとしたジョイフルトレインの先駆けといえる存在で、その前頭形状はデザインのみならず強度面などの構造的な完成度も高く、その後は苗穂工場が金沢鉄道管理局(現・西日本旅客鉄道(JR西日本)金沢支社)によるキハ65形ベースの「ゆぅトピア」「ゴールデンエクスプレスアストル・新潟鉄道管理局(現・東日本旅客鉄道(JR東日本)新潟支社)によるキハ58系改造車「サロンエクスプレスアルカディア」(現・「Kenji」)などの改造に協力している。

車両愛称の「アルファコンチネンタルエクスプレス」とは、改造に関わったホテルアルファトマム(アルファリゾート・トマム)と狩勝コンチネンタルホテル(サホロリゾート)の2つのホテル名から得たものです。

910820

1980年代、急行列車の衰退でキハ56系気動車は大量の余剰車を出しており、一方で石勝線沿線には当時のスキーブームを背景にトマム(勇払郡占冠村)・サホロ(上川郡新得町)に大型リゾートホテルが作られました。道路事情の不便さもあり、両リゾートへのアクセスは千歳空港からのスキー客輸送を石勝線に頼っていましたが、国鉄の運行する臨時列車は旧態化したキハ56系が主力で、「リゾート」の雰囲気とはほど遠くホテル・利用客の双方から不満がありました。

そこでホテル側が宿泊客向けに列車を借り切り、営業収入を保証するという、国鉄にとっては有利な条件を提示して、新たな特別車両の開発を申し入れました。これは国鉄にとっても前代未聞のケースで、従来の国鉄の体質では受け容れ難い企画提案でありましたが、民営化を前にした増収政策への方針転換もあり、国鉄とホテルの提携(タイアップ)によってリゾート列車用の特別車の開発が行われることになリました。

<改造に関して>

キハ59 1・2

運転台寄り1/4の車体を切断して、新たに本来の床面から最大600mm高められたハイデッカー構造の構体を新製し接合しました。運転台を低位置に配置し、前面展望を可能とした前頭部は大きく傾斜した前面窓を採用。前照灯は屋根上と窓下(尾灯と並列)に配置しました。また、この部分はハイデッカー部直後に置かれたAU76形集中式冷房装置で冷房化され、暖房も電気暖房としました。

落成時には非装着であった大型の連結器カバーは、「フラノエクスプレス」登場後に装着されました。

キハ29 1

元グリーン車のため冷房車であり、自車用冷房電源エンジンを搭載していましたが、「アルコン」では編成全体が冷房車であり隣接するキハ59形にも冷房電源を供給する必要が生じた。そのため、電源エンジンは自車専用の4DQ-11Pを取り外し3両に給電可能な4VK形冷房電源装置に換装しています。

キハ59 101

「アルコン」は運行開始後利用客が増えたため、緊急対策としてキロ26 202を塗装のみ「アルコン」塗装に変更して増結に用いました。しかし、車内は旧来の内装のままであり「リゾート列車」らしからぬ設備に乗客からは不評であり、同一サービスの提供という観点から正式な増備車が必要と判断されたため、1986年に苗穂工場でキハ56 212から改造されました。

旅客設備は従来の「アルコン」各車を踏襲し、運転台は撤去のうえ切妻に整形され完全な中間車となりました。また、編成出力確保の見地もあり2エンジン車のキハ56形からの改造となりましたが、以下の問題点が発生しました。
キハ29 1搭載の4VK電源装置は供給量が3両分で4両目となる当車までカバーできない。
2エンジン車は床下が走行用エンジンで埋まって冷房用電源装置を積むスペースが得られない。

このため苦肉の策として床上にエンジン室を設け、キロ26形廃車発生品の4DQ-11P冷房電源装置を搭載する自車給電方式を採用しました。また、既存の前後各車相互の冷暖房電源供給用に別途電源引き通し線を設置しています。

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アルファーコンチネンタルエクスプレスには1991/8/20に苗穂で偶然撮影していました。

「アルコン」が好評を持って受け入れられたことから、JR北海道では続けて特急形車両のキハ80系を改造、そしてのちにはキハ183系に属する完全新造車という形態で多数のリゾート気動車が製造されるに至りました。

人気列車であった「アルコン」ですが、後続の新型車が登場してくると以下の問題点が浮き彫りになってきました。
急行形気動車からの改造車であり、最高速度が95km/hに制限されたために高速化する特急主流のダイヤに適応しにくい。
種車の金属バネ台車を流用したため空気バネ台車が標準である特急形車両に比して乗り心地が劣る。
改造後は10年近く、新製からも30年近く経過していたために老朽化が進行した。

このため1995年に「引退イベント」を実施し廃車となりました。

しばしばお世話になっているこちらのサイトの情報では1974年夏のダイヤでは北海道全体で31種類の急行が走っていたようですが、それらも遠い昔の記憶になろうとしています。

今回もWikipediaの記事を参考に纏めました。

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