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2013年5月18日 (土)

1975年 新潟の旅 8 115系 基本番台 

115系も今年で登場して50年、登場当時の車輌は殆ど鬼籍に入っていますが、約半数の車輌がまだまだ現役で頑張っています。1975年の水上、長岡、柏崎の旅行では、一枚も写真を撮っていなかった115系で、これまでも113系、415系といった近郊型電車についてあまり触れなっかったのですが、やはりここら辺で写真を整理して、その歴史を振り返るのも良いかなと思い、今回は書くことに致しました。

115_tc1156_850418_21985/4/18 岡山 

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岡山地区で活躍する基本番台 クハ115-6を先頭にした4連 

その歴史を調べてみると基本番台登場の後、冷房装備の300番台、耐寒耐雪装備、シートピッチ拡大の1000番台、1000番台の耐寒装備を緩くした温暖地用2000番台、そして広島City電車用の3000番台とモデルチェンジをしながらの増備がなされ、四国を除く、日本全国の勾配区間が存在する直流区間で活躍する電車となりました。こういった新造番台以外に、編成の短縮化、他系列の取り込みなどで近年は複雑怪奇な番台が増えています。
今回はまず基本番台からその活躍を振り返ってみようと思います。

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1975/11 八王子  出発待ちをする115系普通電車

<115系電車>

国鉄115系電車は、国鉄が寒冷地区・急勾配路線での運用を目的に設計し、1963年から製造を開始した直流近郊形電車であり、1983年まで、改良を重ねながら1,921両製造されました。
車体は111系や113系と同じ設計の鋼製車体で、前面中央に貫通扉と側面は片側3か所に開口幅1,300mmの客用扉を設けました。客用扉は「半自動機能」を備えており手動での開扉も可能です。これは寒冷地区で扉の開放を極力抑えるためのもので、車掌スイッチによって容易に自動・半自動の切替ができる方式です。このため扉には取手を装備し、開扉時に取手部分は戸袋に収納されません。
側窓は戸袋部分を除いて上段上昇下段上昇式または上段下降下段上昇式です。開閉方向は製造時期によって異なります。
屋根上通風器は冬期に冷気や雪の遮断が可能な押込式を採用しました。

座席は他の一般的な国鉄近郊形電車と同様、扉間に対面式固定クロスシート(ボックスシート)を配し、扉周り戸袋部にロングシートを配したいわゆるセミクロスシートです。

台車は国鉄新性能電車の標準形式 DT21B形・TR62形で、ウィングバネ式の軸箱支持機構とスウィングリンク式の揺れ枕機構をもちます。枕バネ・軸バネはいずれもコイルバネです。また付随車用台車ではディスクブレーキを採用しました。

主電動機は定格出力120kWのMT54形直流直巻電動機を歯数比1:4.82 (17:82) で搭載しました。

主制御器は勾配区間での運用に対応するためノッチ戻し機構抑速ブレーキを装備したCS15形を搭載しました。

パンタグラフは国鉄標準型である菱形のPS16形をM'車のモハ114形に搭載しました。

とここまではWikipediaの記述を参考に115系の系列としての特徴を。

 

1150_000000
かつては新宿まで115系の普通電車が当たり前のように来ていたのですが、1993年のダイヤ改正でなくなってしまいました。

<基本番台の特徴と製造、増備>

基本番台ではクモハ115、モハ115、モハ114、クハ115、サハ115の5形式が製造されました。最初に東北本線黒磯までの直流区間用として昭和37年度民有車輌予算(1963年製)により、宇都宮運転所に電動車9ユニット、クハ16両が投入されました。これらは高崎・上越線系統とも共通運用されたようです。当初はTcMM'Tcの4連を基本編成として運用され、その後、1969年にTを加えた7連(TcMM'TMM'Tc)を基本編成とするようになりました。この辺は常磐線の415系とも似ていますね。昭和45年度第2次債務予算(1970年製)まで14次に渡り、増備が繰り返されました。
 クモハ115サハ115は中央線では富士急行線乗り入れの関係から3両単位とし、T車を挟んでMcM'TcTTMcM'Tc編成で使用するため昭和40年度第2次債務予算(1966年製)から増備されました。またモハ114についても中央線のトンネル通過の関係から低屋根車800番台が増備されました。低屋根の800番台は101系165系でもおなじみの枝番ですね。800番台のうち、801~817は三鷹区に配置され、クモハ115とユニットを組みましたが、818~831は広汎な地方に運用する波動輸送用として小山区に配置されモハ115とユニットを組み、横軽対策も施されました。

最終的に基本番台の車輌番号は

クモハ115 1~17 (奇数向き)
モハ115  1~135
モハ114  1~121 801~831    
クハ115  1~228
サハ115  1~37  となりました。

手元にある1976.3.31現在の配置表によるとこれら基本番台は新製配置区である(宇都宮、1967年度に小山に移管)、新前橋、三鷹に配置されていました。1977.3.31の配置表では岡山電車区(岡オカ)にTcMM'MM'Tcの8編成が転属となっています。

私は1983年につくば市(当時は新治郡桜村)に職を得て移り住むまでは東京北西部、北多摩郡東村山町~杉並区清水3丁目~練馬区南大泉に住んでおり、西武線や中央線線沿線での生活が長かったので、115系が活躍し始めた頃の東北本線や高崎線沿線とは全くといっていいほど縁が無く、115系とは三鷹電車区配置の頃からの付き合いとなりました。

休日などに三鷹電車区まで自転車で出かけたこともあり、その時に115系の基本番台、デカ目の写真を撮っておりました。

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1975/3の日曜日、三鷹電車区付近の跨線橋上から写した小山区の波動用115系と思われる編成で甲府行きと表示されています。モハ114は低屋根車です。

いろいろと文献を見てみると、クハ115の形態も製造初期と後期では変わっており、まずは雨樋が乗務員室扉上まで延長され、最前部の通風器が大型のものに替わったのは99以降、タイフォンの耐雪カバー設置は215以降とのことで、さらに小山区の波動用のクハは193-216だったそうですので、もしかするとこの編成は215,216をクハとする編成だった可能性が大きいです。

 

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1975/5/11 初めて東北本線大宮以北、蓮田まで撮影に出かけた際に撮影した115系 このときにはEF57 1号機牽引の小荷物列車が収穫でした。 

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1987/3/31 国鉄最後の日に上野駅地平ホームにHM付きで登場した115系はデカ目の0番台でした。 

次のモデルチェンジ車の300番台はシールドビーム前照灯で登場しているので、デカ目であれば間違いなく0番台ということになります。また、300番台以降は乗務員室が拡大され、運転席側のパノラミックウインドウと乗務員室扉の間に下降窓があり、基本番台ではそれがないのが識別ポイントです。

 

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2002/8/17 蓮田 Y58編成 2002年頃は小山区に0番台がまだ在籍して活躍していました。前照灯はシールドビーム化され、アンチクライマーも物々しいものが装着されていました。  

小山区の編成は7連と4連がありましたが、7連はTcMM'TMM'Tcのため、Yにそれぞれの側のモハユニットの番号を付して、上野側と黒磯側でひとつの編成に2種類の編成番号が付いていました。この頃になると、0番台は片方のクハだけであとは全部300番台といった混成の編成もありました。

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