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2013年5月22日 (水)

1975年 新潟の旅 8 115系 1000番台 

115系の話題、今回は1000番台です。

1000番台の特徴は耐寒耐雪構造とシートピッチの拡大ですね。1977年から1982年にかけて製造されました。尚、1000という番台区分は寒冷地用として好評を博していた485系1000番台 のイメージを踏襲することを狙ったそうです。

300番台をベースに設計がなされていますが、シートピッチに関しては1978年に設計・製造された417系と設計思想を統一したそうです。4人掛けボックスシートは狭いと評判が悪かったので座席の幅を930から1040mmに、間隔を1420から1490mmとして当時の急行形車輌並みに拡大されました。

因みにシート拡大は115系1000番台と明日記述予定の2000番台以外では、113系1500・2000番台415系100番台・キハ40系気動車でも採用され、「シートピッチ改善車」と呼ばれ以後の標準となりました。

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仙台地区で活躍した417系電車 写真はK-2編成 2006/7/11 東仙台

冷房に関しては長野、新潟地区投入車は国鉄の財政難で冷房準備工事車となりました。客室暖房容量向上が実施されたことから、冷房準備工事車も新造時から160kVA MGを搭載しました。後年、これらの準備工事車はすべて冷房化されました。

極寒冷地での夜間滞泊による水管割損を避けるため、485系1000番台で採用された自動給排水装置を搭載しました。

電動車では、浸雪対策として主電動機の冷却方式を変更。車体側妻部の取入口を廃止し、冷却風は1・4位側車端部に設置された「雪切室」に導く構造としました。 雪切室設置と同時に配電盤などを収めた扉も取付られたことから、車端部は従来のボックスシート+3人掛けロングシートから5人掛けのロングシートに変更となりました。 雪切室にはルーバーが設置されました。

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高崎センター所属のT1041編成 2009/9/5 高崎 昨日の記事で300番台の写真であった連結面側の戸袋窓の横の小窓がシートの変化に対応して無くなっているのが分かります。

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クモハ115 1000番台を含む3連 T1040編成 2006/8/26 伊勢崎 乗務員室扉後方に大型の空気取り入れ口とルーバーの存在がわかります。

クモハ、クハの運転台付き車輌の貫通扉には膨張性シールゴムを設けて運転室の気密性向上を図りました。小学生の頃から、先頭車両で前方展望を楽しんでいると必ず、ヒューという風の進入音がして、その後、貫通扉にガムテープを貼って、目張りをしているのも見かけましたが、その対策がこのゴムだったのですね。

クモハ115形1000番台+モハ114形1000番台ユニットは松本運転所(現・松本車両センター)・同北松本支所・長岡運転所(現・長岡車両センター)・新前橋電車区・三鷹電車区(1ユニットのみ)に限定新製配置されました。

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上越線水上までの列車に活躍する高崎所属の115系1000番台 T1044編成 2010/5/1 屋形原踏切 SLみなかみを撮りに行った際についでに写したものです。

クハ115形は偶数向(クハ115-1001 -・1201 - )奇数向(クハ115-1101 - )に番号区分され、トイレは偶数向きの1001 -にのみ設置とし、採光窓も小型化されました。 後に奇数向きもクハ115-1142以降(昭和54年度第2次債務車)ではトイレ設置に設計変更されました。

サハ115形のトイレ設置は廃止されました。

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信越線横川までの区間で活躍する高崎のT1091編成 2010/4/29 松井田~西松井田 SL碓氷号を撮りに行った際についでに写したものです。

1982年に製造された伯備線電化用はグループでは屋根布がポリウレタン樹脂の塗屋根に設計変更されました(昭和55年度第2次債務車)。また外板腰板部をステンレスとするなどさらなる腐食防止対策も施工されました(昭和56年度第1次債務車)。

1000番台は1982年までに651両が製造されました。
形式別の車輌番号は

クモハ115 1001-1084
モハ115  1001-1127
モハ114  1001-1211
クハ115  1001-1099、1201-1243 (偶数向き) 1101-1159 (奇数向き)
サハ115   1001-1028

1151000
吾妻線で活躍する115系1000番台

1979年の配置表をみると、1000番台は

長岡    6連 McM'TMM'T'c 14本
      4連 McM'TT'c       8本
      3連  McM'T'c     1本 
新前橋 7連 TcMM'TMM'T'c 4本(0番台、300番台混成)
      3連  McM'T'c         18本
小山   4連  TcMM'T'c    4本
            7連 TcMM'TMM'T'c  4本(0番台、300番台混成)
松本   5連 McM'MM'T'c   14本
      3連  McM'T'c         7本
岡山   6連  TcMM'MM'T'c 14本 +TcMM'T'c

といったように配置されていました。西トタの1000番台はまだ未配置でした。

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コメント

115系1000番台は115系じゃない車両だと思っていましたよ。300番台ベースとは言いますが、300番台に似たところなんかほとんどないに等しく見えて今日まで乗ってきました。また、0番台に比べると1000番台は新潟に来た当初とても綺麗で、70系電車を当時は軽蔑して”木張りの車内とか時代遅れすぎんじゃんw今の時代はリノリウムでしょ”って鼻で笑ってたせいで、鉄道ファンの友達からは1000番台と私含め嫌われていましたねw当時は新車に興味があった友人はおらず、カメラで写真撮る時も1000番台が来たらそっぽを向き軽蔑していたご様子でした。どんな時代も新型車が嫌いな人っているもんなんですねw

新潟県の人間さま,はじめまして。
コメントありがとうございます。
同じ115系でも1000番台ではそういった印象があったとは私も気が付きませんでした。そういった電車でも時間の経過とともに老朽化し、やがては廃車の運命をたどるという点では人間も車両も一緒ですね。
どんな車両でもその車両がある時代、その路線で活躍したという記録をきちんと残すことは大切だなと感じております。

115系と言っても、0番台から同じものを使用しているなんて車両は一両たりともないのでもはや自分でも115系をすべて覚えるとなると、無理な所がありますが1000番台は115系の中でも雪切室を設けていましたので、見た目だけで見たら115系に見えなかったというのがこれまで乗ってきて感じたことでした。今月の12日に新潟からは消えましたが、70系旧型国電よりも使用年数は長かったので技術的な意味では耐用年数は進化したという意味でも、1000番台の凄さは伊達じゃないと感じております。岡山の方にも1000番台はいて、新型車により置き換え対象から外されたようなので時間がある時岡山へ行き、もう一度1000番台の凄さについて考えてこようと思います。

新潟県の人間さま、おはようございます。

国鉄の系列についてよくよく調べてみると、枝番の中には本来の趣旨からかなり外れたものが存在することも確かですね。私も1月に415系を振り返ったとき、1500番台のJR東日本が作製した一群では50Hz専用になっていたことを知り、驚いた次第です。115系に関してもここは別系列にすべきだったというものがあるかと思います。
逆にそういった形で車両の世界もそれぞれの方向に適用しつつ進化をしているのかもしれません。

こっちで話していなかったので久しぶりに話します。1000番台は115系で初めて”置き換え専用モデル”になった番台区分でした。詳しい115系の本にも書いてありましたが、登場当初は70/80系大好きな撮り鉄たちから”親の敵”などと言われ、酷く嫌われていたそうです。どうやらどの時代も新型車両というものは、風景に合わない。面白くないなどという風にとらえられるのが入門みたいで、それは現代の車両と同じなのだと思いますね。その本には”115系第二世代のスタート”なるものが書かれており、どうやら新115系という旧115系とは違う車両という位置付けみたいですね。

新潟県の人間さま、おはようございます。

いつの時代にも新製投入される車両が鉄道ファン的視線から歓迎されない場合も多かったようです。例えばEF58形電機にしてもDD51形ディーゼル機関車にしてもそれまでSLが活躍していた路線に投入されたときには散々な言われようをしました。
しかし、時代が過ぎて、それらが引退するときには惜しまれるというパターンが多いようです。

はい。その通りです。70・80系電車はまだあの当時非常に若かったですが、115系に10年も経たずして転属・廃車された個体も少なくありませんでした。当時の国鉄は新性能電車に力を入れ、旧時代の車両は昭和40年代までに全て引退させるなどといった政策を少なからず行っており、それにより多くの鉄道ファンから新世代動力車は悪だ、国鉄は我々の思い出を潰し、外国から輸入されたような鉄道車両を多く広めて日本古来の鉄道車両を消している。許されざる行為だと言う人は少なからずいました。言えば今残ってる国鉄型車両は近郊型も通勤型も特急型も全て、米国のインターアーバンが基礎になり、そのインターアーバンが狭軌に導入されたに過ぎなかったのです。115系というのは、日本製の電車ではありますが、元々はアメリカの鉄道の血を少なからず受け取っていたものと思われます。今の時代カルダン駆動方式の電車が日本でこれだけ広がったのも、115系含めた新性能電車が全て行ったものですからね。今の70代では少なからず115系嫌いな方はいらっしゃられると思います。長文失礼しました。

新潟県の人間さま、おはようございます。

電気車の駆動方式における吊り掛け方式からカルダン駆動方式への発展の歴史の議論ですね。歴史的にみると最初はドイツの路面電車、パリの路面電車、アメリカのPCCカーときて、1941年にシカゴのエレクトロライナー型高速急行電車がインターアーバンになってゆくのですね。
日本では昭和25年ころから電気式気動車、東武5700系、営団地下鉄300形ときて国鉄の101系が登場するわけですね。
駆動方式に関しては101系世代の電車がリタイアした後、抵抗制御方式からVVVF方式が主流になった今日でも新しい方式が登場することなく続いていますね。電気機関車の方は相変わらず吊り掛け方式がメインのようですが。

私が今思うのは、ここ60年近くの日本の鉄道車両の多くはアメリカ由来の鉄道車両しかないと思っております。元々吊り掛け駆動というのはイギリス?の方が先に導入しており、それまでの日本の鉄道車両の多くは日本風で作られてきたものがほとんどでしたが、戦後の新性能電車はほぼアメリカ由来の車両しかいないように感じてなりません。

新潟県の人間さま、おはようございます。

確かに新性能電車、しかもカルダン駆動車という観点から見るとアメリカにおける技術開発というのはわかるのですが、その後のアメリカにおける鉄道の歴史などを考えるとあくまでもイメージとしてですが、今日の日本における電車の祖がアメリカに祖を持つというイメージはあまり感じないという気もしますが如何でしょうか。ヨーロッパ、イギリスやドイツに対してもても日本の鉄道における分散式動力車の発達は独自のものと感じますし、今回のご意見、多少違和感を感じつつ拝聴いたしました。
飛行機や自動車の世界がアメリカの技術、デザインの亜流というのはわかるのですが、鉄道に関してはどうもピンときませんでした。

なんというか、私自身も日本が独自に作っているものだと私自身も思っております。確かに言われると動力分散式というのはおそらく世界中探して見ても日本以外執着していないでしょう。しかし長距離の列車線まで電化し、動力分散式に統一している日本というのはなぜなのか、私自身疑問に思ったことがあったのでした。で、私の妄想なのですが、ここまで執着したのはおそらくインターアーバンが日本の都市部にアメリカから流れて来て、成功を博したと同時に国鉄・日本政府が”これは将来長距離にも使えるのではないか?”と考えいたりここまで広まったものと思ったからでした。インターアーバンや電車文化というものはアメリカから流れてくるものと私は捉え、115系などの近郊型電車は走ってるところは列車線であっても、動力分散式というものはアメリカのインターアーバンなどから来たと勝手な推測に過ぎませんでした。こればかりは私の妄想でしかないので、ご了承を。

新潟県の人間さま、おはようございます。

確かに動力分散式の我が国での発達、逆に言うと動力集中式から分散式への転換はほかの国では見られないような異常さがあるようにも感じます。ヨーロッパなどでは機関車の付け替えをしなくて済むように機関車が付いていない側の客車に運転台を設けた制御客車を連結し、機関車が推進する方式を採用しているのをよく見かけますが、あれは日本では連結器の構造上難しいのかと思います。
非電化区間に直通する長距離列車の場合、機関車を付け替えるだけで客車はそのまま行けるというメリットがあり、長距離夜行列車などでは動力集中式列車残ってもおかしくない筈ですが、それも高速道路の発達により夜行高速バスにシェアを奪われ、そのままの状態になってしまったように思いますね。

確か1977年長野地区に初めて新製配置された115系で、当時の国鉄としては異例だったそうですよ。ローカル線区というのは新性能電車を導入するにしても首都圏で使い古された非冷房車を転属するのが当たり前だったそうですが、1000番台は当時の長野鉄道管理局が旧国が雪に弱く、定時の運行が厳しいから早く何とかしてほしいと打診したところ、田舎線区でのサービス向上ということで1000番台を長野からスタートさせたという逸話があるそうです。この1000番台の登場によって、冬場の空転による大幅な遅延というのは、長野鉄道管理局の管轄線区では全くなくなったそうです。しなの鉄道でも1000番台車はいますが、彼らの中には1978年から一度も長野から出てない編成もいるとかいないとか。

西条さま、初めまして。
コメントありがとうございます。
仰る通り首都圏のお古が地方に流れるのが国鉄のやり方でいきなり地方に新車なんてありえないと当時は誰もが思っていました。
そういった悪しき伝統を崩したのが115系1000番台の投入ですね。耐寒耐雪の効果が発揮されそれが地域に貢献したのは良かったのではないでしょうか。

ただ残念なことが関東地域に導入されたほとんどの1000番台が非冷房車だったという事です。高崎線にも増備用で新製冷房車はいましたがそれだけで、新前橋・長野・新潟地区はもっぱら非冷房、夏場は特に暑く、165系の旧式新性能電車が当たった方が嬉しいとか言う謎現象が起こるほど。急行型は冷房が付いていて嬉しかったです。115系1000番台の冷房化はJR化後に行われ、平成5年辺りには全てが冷房化され165系のクーラーと比べても、新製AU75型の冷気は165系用に比べて涼しいものでした。冬場は160kVAの電動発電機を搭載していたため暖房機器の向上は目を見張るものがありますね。ぼく寒がりなんで、1000番台車の暖房は凄くよかったものと思います。また、列車の空転も大幅に減り滅多なことがなければ遅延はほとんどありませんでした。

西条さま、おはようございます。

あの当時、冷房機の搭載も予算の問題もあってか準備工事のままで投入される車両が多かったですね。それがJRになってから冷房装備になったり、あるいは準備工事すらされていない車両はAU712のような簡易装置を搭載したり。
いまでは新車と言えばドア上の情報ディスプレイは当たり前のように付いていますが、リタイア寸前の車両では全くそういったものがなかったり。人間の感覚というのは技術の進化に対して、今あるものが当たり前のように感じてしまうところが不思議ですね。

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