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2013年7月 3日 (水)

1975年 新潟の旅 14 上越新幹線 その1 200系

1975年新潟の旅シリーズ、これまでは1982年の上越新幹線開業で活躍の場を追われた183系1000番台1997年の長野(北陸)新幹線開業で追われた189系について触れてきましたが、今回から数回に渡って、上越、北陸(長野)新幹線について触れて行きたく思います。

自分自身の乗車体験として、上越新幹線は1983年頃、秋田からの帰りに新潟~東京間で一度、2005年に新潟出張の際に上野~越後湯沢間で一度乗ったのみで、長野新幹線に至っては乗ったことすらまだありません。在来線の碓氷峠越えの経験は結構あるのですが。

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2007年5月リバイバルカラーとして登場時の塗装に戻されて活躍した200系 K47編成 2011/10/8 大宮

<上越新幹線について>

上越新幹線は全国新幹線鉄道整備法に基づく新幹線鉄道として初めて『全国新幹線鉄道整備法第四条第一項の規定による建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』(1971年運輸省告示)に盛り込まれた3線のうちの一つです(残り2線は東北新幹線と成田新幹線でした)。

余談ですが、よく耳にした整備新幹線とは全国新幹線鉄道整備法(昭和45年法律第71号)第7条に基づき、日本政府が1973年11月13日に整備計画を決定した以下の5線の新幹線のことです。

北海道新幹線:青森市 - 札幌市 360km
東北新幹線:盛岡市 - 青森市 179km・開業済み
北陸新幹線:東京都 - 大阪市(長野市・富山市付近経由) 600km
九州新幹線 鹿児島ルート:福岡市 - 鹿児島市 257km・開業済み
        長崎ルート(西九州ルート):福岡市 - 長崎市 118km

1971年に基本計画の決定・整備計画の決定を経て着工。起点は元々の計画では新宿が起点でしたが、変更されました。当初は、5 - 6年ほどで全線開業の予定だったが、折からのオイルショックの影響で建設費が高騰するなど、計画は大きく乱れました。

1973年4月26日から、戸田市・さいたま市(当時は与野市・浦和市)などで非常に大規模な反対運動が発生しています。工事地内への居座り行動・デモ行進・国鉄説明会打ち切りなどが実施され、東北・上越新幹線の騒音対策や埼京線の快速停車駅数など地元の要望が実現化するきっかけとなりました。

1979年3月20日には建設工事中だった大清水トンネルの保登野沢工区で火災が起き、16名の死者を出しました。そして、中山トンネル工事中に2回の異常出水事故が発生しました。迂回のトンネルを掘るなど工事は難航し、東北新幹線開業よりも5か月遅れの1982年11月15日の開業となりました。

上野 - 大宮間 (27.7km)開業(1985年3月14日)、東京 - 上野間の開業(1991年6月20日)に伴い順次運転区間を延長しました。

線籍上は東京~大宮間は東北新幹線で、越後湯沢 - ガーラ湯沢間は、冬期間のみ営業する区間で、新幹線車両しか乗り入れませんが、線籍上は上越線の支線で在来線扱いとなっています。

最高速度は全線で240km/h、大半の区間が直線主体の線形であるため、最高速度での走行が可能です。ただし、高崎 - 上毛高原間の「中山トンネル」については建設時に異常湧水などに悩まされる難工事となり、結果的に当初計画から大きく迂回するルートに変更せざるを得なくなり、その関係で急曲線が介在する線形となったため、同トンネル付近では160km/hの速度制限を受けます。

路線データ

路線距離(実キロ):269.5km(営業キロは303.6km)
駅数:10(起終点駅含む、このうち上越新幹線単独駅は2駅)
電化区間:全線(交流25,000V・50Hz)
保安装置:ATC(DS-ATC)
運転指令所:JR東日本新幹線運行本部 総合指令室
列車運行管理システム:新幹線総合システム(COSMOS)
構造種別延長割合 路盤 1%、橋梁 11%、高架橋 49%、トンネル 39%

列車名の変遷

1982年の開業当初は東海道・山陽新幹線に倣って、「ひかり」に相当する速達タイプを「あさひ」、「こだま」に相当する各駅停車タイプを「とき」としていました。

1997年10月1日、JR東日本は、北陸新幹線(長野新幹線)の開業に合わせて東北・上越両新幹線の列車名を運行区間別とする愛称の再編を行いました。東京 - 新潟間の列車はすべて「あさひ」、東京 - 高崎・越後湯沢間の列車はすべて「たにがわ」とし、「とき」の愛称は東北新幹線の「あおば」と共に一旦消滅しました。

しかし、長野新幹線「あさま」と「あさひ」は一文字違いで紛らわしく、誤乗も発生したため「あさひ」の愛称は2002年12月1日のダイヤ改正で廃止され、「とき」の名称が5年ぶりに復活しました。新幹線の列車名が復活したのはこれまでのところ唯一のケースだそうです。

「とき」、「Maxとき」

現在のパターンでは東京 - 新潟間、越後湯沢・長岡 - 新潟間で運行される上越新幹線の主力列車です。最速達列車で、途中大宮のみ停車する列車もあれば、全区間各駅に停車するタイプも存在します(号数はすべて300号代)。「Maxとき」はE4系にて運転されます。

「たにがわ」「Maxたにがわ」

「たにがわ」・「Maxたにがわ」は、東京 - 高崎・越後湯沢間で運行される近距離列車で、各駅に停車します。使用車両は、「たにがわ」がE2系、「Maxたにがわ」がE4系で運転されます。

営業運転に使われた車輌、今回は200系です。

200系1982年の東北新幹線および上越新幹線の開業に合わせて、962形試験車を基本として量産化され1980年に発表されました。100系1985年登場)よりも発表が早いにもかかわらず系列・形式番号が200系と大きいのは、200系の登場当時の付番体系が、東北・上越新幹線系統の車両の百の位には偶数を、東海道・山陽新幹線系統の車両の百の位には奇数を与えるようなものだったためだそうです。

系列番号が定められた新幹線電車は200系が最初で、後に0系と呼ばれることとなる東海道新幹線の新幹線車両にはその当時は系列番号がつけられておらず、単に「新幹線電車」が正式名称でした。同系列は200系の登場により初めて「0系」と命名されました。

200系の総生産両数は700両でした。

落成時の営業最高速度に従って番台が区分されました。具体的には、1980年から製造された0番台は営業最高速度が210km/hであるのに対し、1983年以降に製造された1000・1500・2000番台では、いずれも240km/hとなっています。 なお、0番台の中にも240km/hおよび275km/hの走行対応が可能なように改造された車両が存在しました。

デザインは0系から派生したもので、0系との違いは、車体下部まで一体のボディーマウント構造とし、機器をボディー内に配置することで耐雪・耐寒性を向上させたことです。0系と同様に普通鋼製車体のままこの構造を採用すると重量が過大となることから、200系の車体はアルミ合金製となりました。200系は、951形を設計のベースとし、各種金属素材を組み合わせることで構体重量7.5t(0系比3tの軽量化)を実現しました。ただし後年登場した2階建て車両(248形・249形)は、製造コストや電動機非搭載の観点から普通鋼製となりました。

電動機を冷却する際に、外気とともに取り込んだ雪を分離するために、雪切り室が設けられました。先頭部のスカートはスノープラウと一体化した形状であり、豪雪地帯を走ることから、線路面上に積雪があっても支障なく走行出来るよう設計され、確認試験も行われました。

車体塗装は、クリーム色をベースに窓の部分に緑14号の帯を配しました。この色使いは寒冷地を走行するため雪解けの新芽のイメージから選んだとされています。登場時には「緑の疾風(みどりのはやて)」の愛称がありました。

<編成の種類>

E編成

12両編成、0系タイプの前面形状。東北・上越新幹線開業開始と同時に投入された編成です。210km/h走行対応。開業直後に仙台第一新幹線運転所と新潟新幹線第一運転所にそれぞれ18編成ずつの計36編成(E1 - E36編成)が配置されました。

1980年から製造された0番台のE1 - E36編成と、1983年に製造された1000番台のE37 - E39編成で構成されます。1000番台のE37 - E39編成はすぐにF1 - F3編成に改名されました。E37 - E39編成は落成時に既に後のF編成に準拠した性能を持っていました。

F編成登場後は240km/h対応ATC改造や特高圧引通しといった対応工事を施したうえで車両番号そのままにF編成化されたり、短編成化されてG編成を組成しました。1993年9月にF編成組み換え改造が完了したことに伴い消滅しました。

F編成

1983年11月にデビュー。12両編成、0系タイプの前面形状でしたが、一部(F5, F8, F40編成)はK編成用の先頭車両捻出のために100系タイプ(先頭車化改造の200番台)に置換されました。240km/h走行対応。6 - 10次車グループの1000番台・2000番台で構成されました。
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東海道新幹線の100系のような顔をもった1500番台先頭車のF5編成  2003/2/11 小山

1985年にはF4 - F21編成が増備されました。これは両先頭車の構造が改良され、1500番台を名乗りました。中間車は1000番台のまま変化はありませんでした。また、同時にE編成7本 (E30 - E36) に240km/h対応を施してF編成 (F51, F52, F61 - F65) に繰り入れられました。F61 - F65編成は当初ATC改造のみだったため、高圧引き通し工事終了後にF53 - F57編成に改番されました。このあともE編成からF編成への改造が進み、最終的にはF1 - F21, F30 - F43, F51 - F59編成までになりました。

100系タイプの2000番台先頭車がF52,F58編成に組み込まれ、F42編成にはピンストライプが入った100系タイプの200番台先頭車が組み込まれました。

主に東京駅 - 盛岡駅間の「やまびこ」で使われていましたが、H編成とともに2004年3月13日のダイヤ改正で定期運用を終了しました。

F80編成

12両編成、0系タイプの前面形状。240km/h走行対応。F17編成を改造して付番されたものです。車両番号に変化はありません。

1998年2月の長野オリンピックの臨時輸送用に、長野新幹線乗り入れのための発電ブレーキ容量増大・電源周波数50Hz/60Hz切り替え装置を搭載しました。また、市販の時刻表においては「200系車両で運転」の注釈がありました。電源周波数切り替え装置は臨時輸送終了後に撤去されています。

2004年6月18日付けで廃車となり、200系による長野新幹線乗り入れ可能車両は消滅しました。

F90番台編成

12両編成、0系タイプの前面形状。上越新幹線下り上毛高原駅 - 浦佐駅間で275km/h走行に対応するためにF54, F59, F14, F16編成を改造して付番されたものです。車両番号には変化はありません。

F90 - F93編成の4編成が在籍していました。
ATCの240信号を275に読み替えるトランスポンダ搭載
72%弱め界磁回路の追加 概ね、210km/h以上の速度で弱め界磁制御が行われました

275km/hからの7ノッチフルブレーキによる抵抗器の温度上昇を防ぐため、ブレーキカム軸進段停止装置の追加
ブレーキ距離確保のために、ブレーキパターンを変更
222形運転台の計器板をデジタル化、信号「240」の「245」読み替え 275km/h運転を実施するのは下り列車のみなので、その時の運転台となる222形のみ実施

6, 8号車のパンタグラフを撤去し、通常時では4, 10号車のパンタグラフのみで対応
パンタグラフ数の減少に伴い、集電容量向上のためにパンタグラフの導線を交換
騒音低減のためにパンタグラフと特高圧引き通し線部分にカバーを装着 
騒音低減のため、運転台側窓を平滑化
台車車輪検査の厳格化 車輪径は通常は910mmであり、磨耗などで850mmまで減少されると交換となりましたがF90番台編成は880mm以下での交換となりました。

発電ブレーキの容量増加
基礎ブレーキディスク圧力の向上とブレーキディスクとライニングの材質の変更(鋳鉄 → 鍛鉄)
空転・滑走検知装置の出力調整の変更

1997年3月22日500系が山陽新幹線で最高300km/hでの営業運転を開始するまで、日本の営業列車としては最高速の275km/hでの運転を行っていました。ATCの信号現示が200系F90番台編成の場合は「275」、300系の場合は「270」であることから1992年に営業運転を開始した300系より速かったと言われています。なお、この275km/h運転時には越後湯沢駅に停車することができませんでした。

275km/h運転は1999年12月4日まで続けられました。2002年にまず、F90, F92編成が廃車され、同年に東北新幹線開通20周年記念として「想い出のあおば号」がF93編成によって運行されました。その後、残ったF91, F93編成も2004年に廃車となり、200系での275km/h走行編成は消滅しました。

G編成

上越新幹線の「とき」(当時は各駅停車タイプ)や東北新幹線の各駅停車タイプの「あおば」(1997年に消滅)の利用率の状況から、E編成の一部を10両編成に減車した編成です、後に8両編成に短縮されました。全車0系タイプの前面形状。

H編成

1990年代の東北新幹線のフラッグシップ車両として、「スーパーやまびこ」の通称で親しまれた東京駅 - 盛岡駅間の速達「やまびこ」を中心に使用された編成です。

100系タイプのシャープな前面形状の先頭車両(H3, H4が2000番台、他は先頭車化改造の200番台)・100系に似た側面の緑のピンストライプ塗装・2階建て車両を2両組み込んだ16両の長編成が特徴で、F43, F57, F52, F58, F42, F55編成を元としたH1 - H6までの6編成が組成されていました。ただしMM'ユニットの構成上、2階建て車両が100系(8・9号車)とは異なり9・10号車となっていました。245km/h走行対応。

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200系 H1編成 2005/2/11 小山

東北新幹線の歴史上では現在まで唯一の貫通16両編成ですが、当時最長12両編成対応だった上越新幹線に入線することはできませんでした。2階建て車両にはグリーン席・普通個室およびカフェテリアが備えられていました。

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221-201を最後尾にした往年の東北新幹線フラッグシップ編成 H1 2005/2/11 小山

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         100系を模したピンストライプ塗装とトップナンバーの車体番号

K編成

10両編成。2013年まで唯一残存していた編成であり、すべての先頭車が0系タイプの前面形状。240km/h走行対応。400系およびE3系併結用連結器および自動解結装置搭載。秋田新幹線との連結運用は1999年12月4日まで、 山形新幹線についても2001年9月20日までK編成による連結運用が設定されていました。

<車体更新>

1990年代後半に入ると多くの車両が耐用年数とされる15年を迎えていましたが、経済情勢もあって全ての200系を短期間で置き換えるのは困難でした。そのため、1999年から2002年にかけて、E2系への置き換えと並行してK編成の一部(K21・K25・K26・K41 - K44・K46 - K49・K51編成)について10年程度の使用を考慮した延命工事が施工されました。

普通車座席をE4系と同等な回転可能なものに、グリーン車座席をE2系と同等なものに交換

天井パネル・照明グローブ・腰板・床敷物などの内装を大きく変更
客室妻部に情報案内装置を設置
窓ガラスのグリーンガラス化と窓キセがロールカーテン内蔵のFRP製に変更
便所が洋式・和式併設にされ、洗面所および便所手洗浄器をセンサー式に変更
運転台周りのガラスを滑らかな曲面形状のものに変更
骨組など力のかかる部分の補強
台車枠および枠ばりをすべて新品に交換
信頼性維持のためプリント基板など劣化した電子部品の交換
車体塗装はE2系に良く似た「飛雲ホワイト」と「紫苑ブルー」のツートーンを基調に、境界部に「200系を表す」緑色の帯が入るカラーリングに変更
行先表示板を発光ダイオード使用のものに変更

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リニューアル塗装の200系 K21編成 この編成は2012/1/26に廃車になりましたが、編成内には初期車が組み込まれており、リニューアルを受けつつ30年近く運用されていたそうです。

<新潟県中越地震による影響>

2004年10月23日17時56分頃に発生した新潟県中越地震では、新潟・群馬県内で7本の列車が被災し、うち2本は運転を再開しましたが4本は停電などで動けなくなりました。中でも東京発新潟行のとき325号(200系K25編成・10両編成。2005年3月25日廃車)は時速約200kmで走行中、長岡駅の手前約5km、滝谷トンネル先の地点で10両中8両が脱線しました。1964年10月1日の東海道新幹線開業以来、日本国内の新幹線史上初の営業運転中の脱線事故となりました。

地震発生当時、同列車は長岡駅への停車のため、約 200 km/h に減速して走行中でしたが、早期地震検知警報システム「ユレダス」による非常ブレーキが作動し、脱線地点から約 1.6 km 新潟寄り、長岡駅の東京寄り約 5 km の地点で停車しました。

7,6号車を除く8両が脱線したものの、軌道を大きく逸脱せず、逸脱した車両も上下線の間にある豪雪地帯特有の排雪溝にはまり込んだまま滑走したおかげで、横転や転覆、高架橋からの転落を免れました。温暖地などの排雪溝が無い普通のスラブ軌道や、東海道新幹線などのバラスト軌道でなかったことが幸いしたとも言えます。また、先頭の10号車の台車の部品と脱線した車輪がレールを挟み込む形になったため大きく逸脱しなかったこと、脱線地点がトンネルや高架橋の支柱などに被害が生じた区間ではなく、ほぼ直線であったこと、対向列車がなく二次事故が起きなかったことなどの幸運が重なり、乗客乗員155人に対し、死者・負傷者は1人も出ませんでした。さらに、新幹線200系電車がボディーマウント構造であることが、先頭車(10号車)の台車部品と脱線した車輪がレールを挟み込んだ形で停止することに貢献したという指摘もあります。

被害は最小限に食い止められましたが、脱線箇所が高架上であった上に、この事故の原因となった新潟県中越地震は余震が多発したため、脱線車両の撤去作業が難航し、11月18日になってようやく事故車両は撤去されました。脱線車両は損傷がひどく、2005年3月25日を以って全車廃車となりました。この事故によって、廃車予定だったK31編成が廃車されず、しばらく代走することになり、その後代替としてE2系J69編成が製造されました。

なお、事故車両は事故の歴史展示館に、事故の資料として保存されることになっているそうです。

この地震の影響で浦佐 - 長岡間の高架橋・トンネルなどの設備が損壊し、越後湯沢 - 新潟間が不通となりました。このため、10月31日から不通区間に代行バスを運行する一方、応急補強工事(トンネル5本の復旧作業、高架橋の耐震補強工事)が実施されました。長岡以北の区間については、EAST i を送り込めないため、京浜急行電鉄から借用した軌道検測車を陸送して軌道状態を点検した後に運行を再開しました。地盤が隆起した魚沼トンネルと妙見トンネルについては、いったん軌道を撤去したうえで岩盤を削るなど新線敷設と同様の工事が行われましたが、年末年始の帰省ラッシュに間に合わせる形で2004年12月28日に全線で運行を再開しました。

復旧後も当面は越後湯沢 - 燕三条間で70-110km/hの徐行運転を実施する区間があるため、通常ダイヤを基準に越後湯沢以北で15分前後の遅着(下り)・早発(上り)させる特別ダイヤが編成されました。なお、2005年1月22日には通常ダイヤとのずれが5分前後に緩和され、3月1日からは通常のダイヤに戻っています。また、その他の道路交通も寸断されたため、羽田空港と新潟空港を結ぶ航空便も臨時開設されました。

200系は東北新幹線E5系の増備で余剰となったE2系・E4系への置き換えにより、2013年3月15日をもって定期運用を終了しました。

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