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2013年7月16日 (火)

1975年 新潟の旅 17 碓氷峠を越えるために 169系

165系の話題に続いて、碓氷峠協調運転版として登場した169系について触れましょう。

1963年10月1日横川 - 軽井沢間の碓氷峠は粘着方式による複線運転となり、同時に長野までの電化が完成しました。それに伴い新前橋電車区の165系
上野 - 長野急行「信州」4往復(「丸池」を統合)
急行「信州いでゆ」(全車指定席列車)1往復
急行「とがくし」(夜行)1往復
上野 - 長野・長野電鉄 湯田中急行「志賀」2往復
上野 - 中軽井沢準急「軽井沢」2往復中1往復 に投入されました。

169_2
           急行「妙向」としてEF63重連と協調しながら碓氷峠を登る169系

さらに1965年10月1日の直江津電化で上野 - 直江津間の「妙高」2往復にも投入。一方、「軽井沢」は80系電車運転分が廃止され1往復になりました。
軽井沢」は翌1966年3月5日に急行列車に格上げされました。

特急「あさま」が181系で運転開始された1966年10月1日のダイヤ改正では「軽井沢」を除き運用を長野運転所に移管。新造車と新前橋からの転入車で運用に充当。「信州いでゆ」は「信州」に統合。不定期客車列車で運転されていた「高原」を165系化。

長野配置車は上述した新前橋区の「軽井沢」専用編成と共通の編成が組成されましたが、碓氷峠はEF63形による牽引・推進運転のため連結両数が8両に制限されました。このため慢性的な混雑が顕著になっており、一部列車は高崎以南で長野方に3両増結する対策が採られましたが、信越本線そのものの抜本的な輸送量増強に対応ができないため、1967年EF63形と協調運転を可能にし12両編成まで碓氷峠を通過できる165系900番台を試作することになりました。これが派生形式169系誕生のきっかけとなりました。

169系が165系と異なる点は以下の通りです。

①協調運転用の機器としてSRB8形界磁接触器を新たに設置したこと
②制御装置をCS15C形に協調運転対応装置を搭載したCS15D形に変更したこと
③抵抗器を容量増大したMR52C形に変更したこと
④協調運転時に下り軽井沢方先頭車となるクハ169形にEF63形との連絡装置・非常制動時に衝撃を抑える特殊構造の非常弁・主幹制御器への防護回路等を搭載したこと
⑤協調制御用にKE70形ジャンパ連結器を搭載したこと

の5点で、車体構造・車内設備・性能は165系と同一であり、EF63形との協調運転は不可能になるものの165・169系との混結運転は可能でした。

1967年に試作車である165系900番台を新前橋電車区に配置され、試験の結果翌1968年 - 1969年169系として量産車の製造が開始されました。

量産新製車はMcM'ユニット27組54両Tc27両の計81両で、3形式とも1968年製車は冷房準備車として落成しました。1969年製車は落成時からの冷房車となりました。

クモハ169形
モハ168形とユニットを組む2等制御電動車 (Mc) で主制御器・主抵抗器を搭載していました。定員76名。1 - 27の量産車27両と901 - 904の試作車4両、合計31両が製造されました。試作車の冷房装置は0番台のAU13E形5基とは異なりAU12S形を6基搭載しました(クハ169形も同じ)。

モハ168形
クモハ169形とユニットを組む2等中間電動車 (M') で定員84名。電動発電機(MG)・MH113A-C2000M形空気圧縮機(CP)・パンタグラフを搭載しました。0番台は通常屋根構造なのに対し、900番台は当初モハ164形800番台同様パンタグラフ部が低屋根構造とされ、AU12S形5基搭載の冷房準備車で製造されました。冷房化の際には0番台同様AU72形1基搭載ならびに通常屋根化工事も同時施工されました。

クハ169形
2等制御車 (Tc) で定員76名。冷房化時に110KVA冷房電源用MGを搭載しました。

その他はすべて他形式からの改造車で、長野運転所(現・長野総合車両センター)残留のサロ165形から改造されたサロ169形19両、サハシ153形から改造されたサハシ169形10両を加えた110両が長野運転所に配置されました。

サロ169形
1等付随車 (Ts) で定員48名。1968年サロ165形19両から長野工場で改造されました。改造工程低減のため169系投入前から長野運転所所属の信越急行で運用されていた横軽対策施工車が改造種車とされました。冷房装置は全車AU12S形6基を搭載しました。特急格上げやグリーン車利用率低下により1982年より廃車が始まり、1985年3月のダイヤ改正で運用を失い1985年に形式消滅しました。

サハシ169形
2等・ビュフェ合造付随車 (Tb) で客室部の定員は36名。1968年に宮原電車区所属で余剰車となっていたサハシ153形10両から改造されました。基本構造はサハシ165形50番台に準じますが、CPは碓氷峠通過時にパンクさせた空気バネへの圧縮空気再供給を迅速に行うため残されました。改造日程の都合上サハシ165-53 - 55と同様に2回にわけて編入改造が行われました。 第1次改造ジャンパ連結器の交換と横軽対策などの169系化を郡山工場(現・郡山総合車両センター)・松任工場(現・金沢総合車両所)で施工。第2次改造耐寒耐雪構造への変更とビュフェ部改造を長野工場で施工。ビュフェ部は元AU12形4基で冷房を装備し客室は非冷房でしたが、翌1969年に客室側をAU13E形2基で冷房化改造が施工されました。1978年10月のダイヤ改正で運用を失い同年中に廃車。唯一残った5は松本運転所に転出しましたが、1979年に廃車となり形式消滅しました。

試作車は1968年の量産化改造で169系900番台へ改番編入し、引き続き新前橋区配置で同区の165系と共通運用されましたが、1984年 - 1985年にかけてクモハ・クハ169形クハ455形に、モハ168形サハ165形100番台に改造され区分消滅しました。ただしクモハ169・モハ168・クハ169の3形式新造量産車は、アクシデントで廃車となったクモハ169-9・モハ168-5を除き余剰老朽による廃車が1996年から開始されました。

169
急行「妙向」 熊の平にて

<運用>

1967年165系900番台を新前橋電車区に配置し、横川 - 軽井沢間区間で試運転を行ったところ良好な結果を残したため翌1968年169系量産車として長野運転所に投入されることになり、1968年10月1日のダイヤ改正で
軽井沢」を除き、従来165系で運用されて急行を169系電車に置換え、
ビュフェ込みの9両もしくは12両編成で運転。
方面別愛称の整理統合。
長野・湯田中発着列車:「信州」7往復(「高原」「志賀」を統合)1往復は不定期。1往復は土休日のみ運転。2往復は季節列車扱いで長野 - 田口(現・妙高高原間延長運転を設定しました。
直江津発着列車:「妙高」定期2往復・不定期1往復・夜行客車列車1往復(「丸池」「とがくし」を統合)
軽井沢」を季節列車に格下げ。

1969年10月1日のダイヤ改正において「信州」2往復の延長運転区間を定期化。列車名も「妙高」に変更され、「信州」5往復(定期4往復・不定期1往復)・「妙高」6往復(定期4往復・不定期1往復・夜行客車列車1往復)となりました。
2往復設定されていた「信州」湯田中編成を「志賀」に改称。

1972年3月15日のダイヤ改正において「軽井沢」はサロ165形を1両減車の7両編成に変更。新前橋電車区165系基本編成に統一。
489系増備車の落成を待って、11月25日から「妙高」1往復を特急「白山」に格上げし発展的解消。「妙高」5往復(うち客車夜行1往復)に減便。
「信州」は季節列車の定期化ならびに1往復増発により6往復。うち1往復で長野 - 妙高高原間の季節延長運転を実施。

1975年3月10日のダイヤ改正において首都圏側の間合い運用で下り最終「あかぎ」と翌早朝の上り普通列車に充当。「信州」1往復で軽井沢 - 長野間が普通列車運転。長野 - 妙高高原間の季節延長が終了。

1978年10月のダイヤ改正において1976年11月末にビュフェの営業を休止していたサハシ169形を基本編成から外し11両編成化(改正前から編成変更を実施)。「信州」1往復減の5往復。「志賀」1往復を不定期列車化。

1982年11月15日の改正においてサロ169形1両減車の10両編成に短縮。「妙高」は客車夜行1往復のみとなり169系列車は全廃。「志賀」全廃により長野電鉄への乗り入れを中止。
「信州」4往復に減便。うち3往復は軽井沢 - 長野間で普通列車もしくは快速列車による運転。新特急格上げのため間合い運用の「あかぎ」充当が終了。
大量発生した余剰車は松本運転所に転出。
松本所への転出は、1978年の8両から開始。1988年にまでMcM'ユニットとTcは、廃車になったクモハ169-9・モハ168-5を除き一度は必ず松本への転入が実施されました。
その後は、長野に出戻った車両・松本で廃車になった車両・三鷹電車区に転属した車両などに分かれました。松本運転所転属のモハ168形は、中央東線狭小トンネル対策としてパンタグラフはPS23形に交換されました。

1985年3月14日改正において「信州」全廃。客車運転の夜行「妙高」を169系普通車のみの9両編成に置換え(長野 - 直江津間は普通列車)。

1986年11月1日ダイヤ改正で「妙高」は189系による運転に移行。信越本線急行での169系定期運用は終了しました。長野所属車は「かもしか」用に転用されたが、ローカル列車もしくは波動輸送用としての運用活動が主となりました。

169_840503_2
軽井沢を発車して碓氷峠を下る臨時列車 1984/5/3

JRからは2003年に系列消滅。しなの鉄道に3両編成x4本計12両が譲渡されましたが、2013年3月16日のダイヤ改定で定期運用を終了。週末を中心とした臨時列車運用も同年4月29日限りで運用を終了しました。

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コメント

クハ415-1901さん、165系169系アルバムを楽しく拝見しています。


アルプスの165系・・・すてきですね。
HMがついていないのは残念ですが、
グリーン車2両連結やサハシの姿が見え、
お写真を拝見すると窓割に変化が出て、写真が見栄えがすると思います。
サハシがついているだけでグレードが違うなあと思います。


房総系統の急行はコンパクトながらHMを律儀につけているところがほほえましいですね。


169系は4月で勇退してしまいましたね。
しなの鉄道の3連はいささか短いなあと思っていましたが、
当時から4両や3両のユニットで活躍していたのですね。

やぶおさん、こんばんは。

早速、コメントありがとうございます。

わたしも当時の急行列車の写真を如何に紹介すべきか、実はこのブログを始めてからかなり迷っていました。

というのも、今となってみると当時の特急列車と違って、一体何という列車を撮影したのか情報はなく、果たして紹介できるものかと思っていたのですが、ご指摘のように中央線の急行は編成を眺めることで当時の編成構成が理解でき、なんとなく分かった気分になりました。

165系と言うひとつの難関をなんとか越えられたので、近いうちに東北/常磐の455、457系も紹介できればと思っています。

 素晴らしいサイトを拝見させていただいております。どうもありがとうございます。
 1975年3月の改正に関連してですが、「鉄道ピクトリアル」1994年3月号(No.588)の63ページの1978年10月改正後の運用表を見ますと、「あかぎ」の169系は回送列車として上野に戻っているように見えます。
 上野からは季節列車の「信州」として運転されていたようですが、営業しない時も高崎・上野間を往復していたのでしょうか。

水戸の梅さま、おはようございます。
初めまして、コメントをありがとうございます。

そうですね、その辺、どういった運用になっていたのか、空車で回送なのか、資料をあたってみます。

これからも宜しくお願い致します。

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