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2013年8月25日 (日)

西ベルリンの思い出 1 プロローグ

これまでは「鉄道と旅客機の写真を」と言いつつも、主に鉄道の写真しか出してきませんでした。これからは旅客機の写真とその記事も定期的にupdateして行こうと思います。国内に留まらず、1988年から1年間の西ベルリン留学や海外出張の際に空港で撮影した機体の写真を載せて参ります。

わたしが旅客機の写真を撮りだしたのは、1987年頃です。初めて飛行機に乗ったのが1983年の夏で、札幌で開かれた学会に参加するために、就職後初めての出張で羽田空港~千歳空港間に往復搭乗しました。機材はJALのB747SR-46でした。国際線の初体験は、1986年6月の新婚旅行で、Air Franceのアンカレジ経由パリ往復便でB747-200B、欧州内でもパリ~ウィーンでAFのB727-200,フランクフルト~パリでLHのB737-200に搭乗しました。今ではヨーロッパ直行便といえばノンストップ・フライトが当たり前ですが、B747-200B、エンジン的にはP&W(プラット・アンド・ホイットニー) 製 JT-9D7Q, GE(ゼネラル・エレクトリック)製 CF6-50E2, RR(ロールス・ロイス)製 RB211-524D4の時代は航続距離の関係から、日本~欧州線はモスクワ経由かアンカレジ経由でした。アンカレジ経由便は成田から6時間飛んで、アラスカのアンカレジ空港に着陸、1時間の間に給油を行い、さらに10時間かけてヨーロッパの目的地まで飛行していました。アンカレジ空港にはトランジットで立ち寄る日本人のために、うどん屋がありましたが、今はどうなっているのでしょうね。それ以前、主流だった南回りルートの欧州便は当時はアテネまでとなっており、風前のともしび状態だったと思います。父がヨーロッパ出張していた頃は羽田発の南回りルートでした。

1987年当時は飛行機に乗ることが身近になったこと、鉄道の方は国鉄が民営化され、全国的展開から地域独自の展開となり、特急列車の編成は短くなり、私にとってはそれまでの国鉄の魅力がどんどん薄れて来ていました。またバブル経済の影響もあってかジョイフルトレインのような列車が増えてきて、追っかける気持ちが弱まったことが拍車をかけました。一方で国内の航空業界ではJALのDC-8やANAのB727-200が引退の時期を迎えようとしており、それまで日本の航空界を牽引してきた世代から第4世代といわれるB767などがどんどん主流となりつつある時期でした。

そんな頃、海外留学で1988年10月から西ドイツの西ベルリンに1年間滞在することになりました。当時はまだ東西冷戦下でドイツは東西に分裂しており、西ドイツの暫定首都はボン、東ドイツの首都は東ベルリンでした。

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西ベルリンの繁華街、通称「クーダムKurfuerstendamm」に建つヴィルヘルム皇帝記念教会 広島の原爆ドームと同じように戦争の悲惨さを忘れぬために爆撃を受けた状態を残しています。 1988/10/15 

西ベルリンは、ドイツマルク(DM, 1DM=\80くらいでした)が通貨として通用し、西ドイツ国籍の人間が暮らし、政党も西ドイツ本土と同じ政党が治める地域でした。正式には第二次世界大戦の戦勝国である米英仏の占領地で、西ドイツ本土とはいろいろな点で別のルールが適用されていました。

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同じくクーダムにあるヨーロッパセンター 1988/10/13

Wikipediaの記事を参考にその例を挙げると

・西ベルリンからは西ドイツの連邦議会の議員を人口に応じて選出していたが、首相任命権と予算審議権、連邦に関する議案の投票権がなかった。議会での発言権や委員会の投票権はあった。

・西ベルリン住民の身分証明書及び旅券は、西ドイツ住民のものとデザインは似ていたが、ドイツ連邦共和国の文字や国章がない点で異なっていただけでなく、発行はベルリン市であった。国籍は西ベルリン市民と書かれていた。

・西ベルリンはアメリカ・イギリス・フランスが共同で統治する地域であるとベルリン協定で決められていたため、西ドイツで施行されていた徴兵制が適用されず、西ベルリンも人口が減っていたため補助金を出したことにより、徴兵を嫌った西ドイツの若者の中には西ベルリンへ移住する者がいた。

・西ベルリンを出入りする航空機の乗り入れは、西ベルリンを占領していたアメリカ・イギリス・フランスの航空会社(もしくはN, G, Fの国籍記号で始まる機体)に限られ、西ドイツのルフトハンザドイツ航空は乗り入れていなかった。(航空趣味的にはこの点が一番関係深いです)

・ソ連は西ベルリンを統治してはいなかったものの、協定は1990年9月12日まで存在しており、シュパンダウ刑務所の警備を4か月に一度担当していただけでなく、ベルリンに一番乗りをしたソ連軍戦車が置いてあったソ連軍英雄記念碑の警備駐屯権を有していた。

などです。

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西ベルリンのメイン空港であるテーゲル空港の管制塔とメインビルディング 1989/9/17

ちなみに西ベルリンと西ドイツ本土を結ぶ交通に関しては、第二次世界大戦終了直後の1946年2月の取り決めで、ベルリン回廊(Luft Korridor)と呼ばれる3本の空路が設定されており、1948年のベルリン封鎖における「ベルリン大空輸」(Berlin Airlift)で大いに役立ちました。1988年当時もハンブルグ、ケルン・ボン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ミュンヒェンなどと西ベルリンを結ぶ路線はこの空路を利用しており、高度制限やテーゲルの滑走路に進入する際の風向きで東から着陸する場合は一旦東ベルリン上空まで達して大きく旋回して降りていたのを憶えています。一方、陸路の方は1972年の両ドイツ基本条約(お互いが国として相互に認め合った)で3本のアウトバーンの通行権が認められ、東ドイツ国鉄(Deutsche Reichsbahn)による西ベルリンへの鉄道が開通しました。

西ベルリンは戦前のドイツ帝国のベルリン市のうちの新興繁華街や郊外だった地域がメインで、旧中心部は先に進攻したソ連が占拠したため、東ベルリンになっていました。ベルリンに行く前は壁に囲まれた都市を想像していましたが、実際には森や湖が多く驚きました。

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有名なチェックポイントチャーリー(C検問所)の横の展望台から見た東ベルリン 12月のクリスマス休暇に当時アメリカに留学中だった義妹がベルリンを訪問し、市内観光した際の1枚 写真を撮っていなかったのが残念ですが、当時 壁の手前には必ず Achtung! Sie verlassen jetzt den (Amerikanischen) Sekor.(注意、貴殿は今、(アメリカ)管轄区域から離れようとしています。:西ベルリンは米英仏の管轄地域に分かれていたので、それぞれ地域によって国名は異なりました)。といった注意書き看板を目にしました。壁の西側の面はまさに落書きの餌食状態でした。

留学期間が終わる頃から、東ドイツの人々がハンガリーやチェコの西ドイツ大使館に駆け込んで旅行の自由を訴える事件が頻発するようになり、当時の西ドイツのテレビでも「万が一ドイツが統一されることになったら」といった当時としては希望は持ちつつもまずはあり得ないと思われていたことが、私が日本に帰って1ヶ月後に起こりました。それが東西冷戦の集結の象徴となった1989年11月9日ベルリンの壁崩壊です。当時の東ドイツ政府が旅行許可を出す事務手続きを誤ったのがきっかけでしたが、それ以後、1989年12月のマルタ会談で冷戦が終結、東欧各国で社会主義体制が崩壊し、東西ドイツの統一(1990年10月)、ソ連の崩壊(1991年末)、へと一気に進みました。

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テーゲル空港に掲揚されていた国旗類、左から西ベルリン市、米、仏、英、西独、EU

ちょうどこの西ベルリン留学中には、日本でも昭和天皇が崩御となり、元号が平成と代わりましたが、まだ現代のような電子メールなど無い時代で、まして極東の日本のことなどは西ドイツのテレビで放映されることは殆どありませんでした。1989年1月7日の朝のニュースも日本からの国際電話で初めて知らされ、現地は1月6日の深夜でしたが、ドイツの局ではどの局が最初にニュースで流すかテレビを見ていたらなんと東ドイツの放送局(DFF1)が先に報じていました。
"Kaiser Hirohiro Gestorben"という字幕と共に速報が出たのを今でも鮮明に覚えています。その後の日本のニュースと言えば、リクルート事件によるスキャンダル、竹下首相辞任、宇野政権も女性スキャンダルと参議院選挙敗北で超短命政権にといった政治関係のしかも当時言われていた日本は経済は一流、政治は三流を象徴するようなニュースばかりでした。この年1989年は大物有名人が亡くなった年でもあり、戦後W.フルトヴェングラーの後を継いで長らくベルリンフィルハーモニーの常任指揮者を務めた”帝王”H.v.カラヤンが亡くなったのもこの年の7月16日でした。

そんなわけで西ベルリン滞在時代にテーゲル(TXL)空港で撮影した機体、あるいは西ドイツ本土のフランクフルト(FRA)、ハンブルグ(HAM)、デュッセルドルフ(DUS)、ケルン・ボン(CGN)、ミュンヒェン(MUC)、さらにイギリスのヒースロー(LHR)、ガドヴィック(LGW)、マンチェスター(MAN)、ベルファスト(BFS)、さらにフランスのシャルルドゴール(CDG)、オルリー(ORY)、トゥールーズ(TUS)、スイスのチューリッヒ空港(ZRH)でもベルリン滞在中の旅行(遠征)で写真を撮っていますので載せて行きたく思います。

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コメント

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!

投資の勉強 さま、はじめまして。

早いもので今年はベルリンの壁崩壊から四半世紀になります。
ついこの前のことのように感じていましたが・・・

思えば
1989年というのは昭和が終わった年でもあり、大きな変革の年でした。

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