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2013年8月31日 (土)

西ベルリンの思い出 パンナムのB727 N4733

1988年10月から1989年10月までの1年間の留学中、西ベルリンの空の玄関であるテーゲル空港(Flughafen Tegel)にはよく出かけました。

理由は大きく2つあります。ひとつ目は今でもそうかと思いますが、ドイツは敬虔なキリスト教の国で日曜日が安息日ということが社会的によく守られているため、土曜日の午後から日曜日にかけてはデパートをはじめ多くの店が休業となります。そのため、日曜は朝から街は人影も少なく買い物などで街に出ても閉まっているケースが多く、空港はそういったときでも郵便局や売店などが開いている唯一の場所だったからです。

ふたつ目は西ベルリンの特殊性で周りを東ドイツに囲まれているため西ドイツ本土に出かける際も、フランス、イギリスなどの隣国に出かける際も空路がメインの交通手段でした。因みに西ベルリン滞在中の1年で、テーゲル空港以外から西ベルリンを離れたのは、クリスマスにウィーン・ザルツブルグに行った際に、西ベルリンからバスで壁を通過し、東ベルリンのシェーネフェルト空港発、プラハ経由のウィーン行き(オーストリア航空)に搭乗したときと、ハンブルクまでAutobahnを運転して往復したときの2回のみでした。壁崩壊後は1992年にベルリンを再訪したときはテンペルホーフ空港から、ベルギーのブリュッセルまで飛び、2009年にベルリンを訪問した際にはICEでハンブルク日帰り往復を敢行しました。

今回からちょくちょく行ったテーゲル空港で撮影した旅客機を取り上げて行こうと思います。最初はパンアメリカン航空B727です。1985年頃から登場したビルボード塗装です。

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N4733 Clipper Charger Boeing B727-235  (cn 19453/506) 1989/6/25 Tegel (TXL)

1988年から1989年にかけてテーゲル空港で撮影したPan NamのB727N4733, N4746, N4748, N4751, N4752, N4754の6機でした。これから1記事につき1機ずつ紹介して行き、同時にいろいろなエピソードを織り交ぜて行こうと思います。今回はN4733のB727-200で、B727としては1832のラインナンバーが付与されている中で、506という比較的初期の-200タイプの機体です。

日本人にとってパンナムほど、華やかなりし頃、高値の華だった頃の国際線を想記させる航空会社はないのではないかと思います。

まずはその歴史を見てみましょう。

民間航空が各国で盛んになってきた1927年に設立され、最初はカリブ海路線ならびに南アメリカを結ぶ国際線を運航し、その後1930年代には路線網をヨーロッパやアジア太平洋地域をはじめとした世界各国へ拡大しました。

経営者であるファン・トリップ会長の強力なリーダーシップとアメリカ政府の庇護の元、国際航空の黎明期である1930年代から、第二次世界大戦や冷戦期を挟み、海外旅行の大衆化、低価格化が進んだ1980年代にかけて名実ともにアメリカのフラッグ・キャリアとして世界中に広範な路線網を広げて行きました。

国内線をほとんど持たなかったものの、アメリカのみならず世界の航空業界内での影響力も大きく、アメリカ初のジェット旅客機であるボーイング707や、世界最初の超大型ジェット旅客機であるボーイング747といったボーイングを代表する機材の開発を後押しした他、世界一周路線の運航やビジネスクラスの導入、系列ホテルチェーン「インターコンチネンタルホテル」の世界的展開など、後に他の航空会社が後追いして取り入れたビジネスモデルを率先して取り入れました。

しかし、1960年代後半頃より世界的に海外旅行が大衆化し価格競争が激化する中、高コストの経営体質を改善できなかったことや、1970年代にジミー・カーター政権下で導入された航空自由化政策「ディレギュレーション」の施行、その後の国内航空会社の買収の悪影響により次第に経営が悪化し、1991年12月4日に会社破産し消滅しました。

1927年: 「Pan American Airways」設立。同年にフロリダ州キー・ウェスト〜キューバ共和国ハバナ便を開設。その後、アメリカ政府の補助金でアルゼンチンやブラジル行き飛行艇便を開設。

1935年: サンフランシスコ〜ホノルル〜マニラ〜香港の世界最初の太平洋横断航空便を開設。

1937年: 世界最初の大西洋横断航空便を開設。

1950年: 「Pan American World Airways」に社名変更。

1958年: アメリカ初のジェット旅客機・ボーイング707がニューヨーク〜パリ線に就航。

1963年: マンハッタン島のパンナムビル(現在のメットライフビル)竣工。

1970年: ボーイング747「ジャンボジェット」超大型ジェット旅客機をニューヨーク-ロンドン線に就航。

1976年: ボーイング747SPにより東京-ニューヨーク直行便を開始。

1977年: スペイン領カナリア諸島でKLM機とジャンボ機同士の正面衝突事故。当時史上最悪の死亡者を出した航空機事故となる。

1980年: ナショナル航空を吸収合併し国内線を強化。

1985年: 太平洋路線と機材、従業員などをユナイテッド航空へ売却。これにより日本線も撤退。

1988年: イギリス上空でパンナム機爆破事件が起きる。

1989年: 西ベルリンと西ドイツ国内を結ぶ路線をルフトハンザ航空に売却

1991年: 12月4日に破産し運航停止。その後ロンドンへの路線と中南米路線をユナイテッド航空へ譲渡。他のヨーロッパ路線はデルタ航空へ、マイアミ国際空港のターミナルをアメリカン航空へ譲渡。

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N4733 1989/6/25 Berlin Tegel (TXL)

その歴史が示すように全盛期のパンナムは世界一周路線も運航し、世界を代表する航空会社でした。西側連合国の占領地とはいえ、実質的には西ドイツ国内線の西ベルリン線(ハンブルグ、ケルン・ボン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ミュンヒェンと西ベルリン)を運航できたのもアメリカ政府との絶大なる関係があったからだと思います。

N47331968年に製造されたB727-200シリーズで、初飛行は1968年1月5日。-35のカスタマーコードが示すように最初はナショナル航空にデリバーされた機体です(同年1月19日)。ナショナル航空時代は"Alice"の愛称が与えられていました。1980年のナショナル航空買収でそのままパンナムの所属になり、ヨーロッパ域内運用に投入され、"Clipper Charger"の愛称が与えられました。19世紀に発達した大型帆船を意味する「クリッパー」の呼称は、パンアメリカン航空自身のコールサインやビジネスクラスの祖といわれる「クリッパー・クラス」にもその名を残すこととなりました。1990年代初頭に退役し、マイアミにストアされていましたが、1993年3月に解体されました。

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2013年8月30日 (金)

保存中の都電6000形 3 あらかわ遊園の6152号

都電シリーズ、今回はあらかわ遊園に保存されている6152号です。

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6152号の塗色は1950年代の緑を基調にした塗色 私はこの色の都電は見たことはありませんでした。32系統は荒川車庫前~早稲田ですね。 2013/8/17 あらかわ遊園

あらかわ遊園は東京23区内唯一の公営遊園地で、1922年開園だそうです。失火で操業停止した旧煉瓦工場跡地に工場経営者が開園したとのことです。1932年に経営難で王子電軌軌道に株式会社に売却されますが、1942年には陸軍の高射砲陣地となり、事実上閉園状態になり、1950年荒川区立の遊園地として再開し、1991年大改装して現在の状態になったそうです。

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反対側は27系統(三ノ輪橋~赤羽)

荒川線のワンマン化に伴い、6000形は大半が廃車となりましたが、唯一6152のみが応急車として残されました。この際、台車が初期型のD-10から廃車になった車両のD-16に振り返られたとされます。当初は車内には工具などが置かれており、営業運転は行っていませんでしたが、1986年にステップを改造、保安ブレーキと放送装置を新設して再度営業車として復帰しました。

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車両だけでなく停留場(安全地帯)、線路、敷石なども当時の雰囲気を再現しています。台車は確かにD-10ではなくD-16のようです。

その後、1988年には車体更新が行われました。この時の更新では、新たに補助電源装置である電動発電機(MG)を取り付け、室内灯を直管蛍光灯に変更。またドアエンジンを撤去し、車体塗装を1950年代当時の深緑とクリーム色に似せた「金太郎塗り」に塗り変えた上でイベント車両として運用されました。

1993年3月6日に臨時検査が行われることとなり、一時運転が休止されました。その頃の同車は所々で塗装が欠落し、黄色い下地が散見していました。同月20日、検査を終えた同車は再び営業運転に復帰しました。この時に車体の修理・再塗装が行われ、塗色を従来の濃緑から黄緑に近い淡い緑に変更、室内灯も直管蛍光灯からカバー付きの輪形蛍光灯に変えられました。

1994年頃から、車体側面の車体番号の前に東京都のシンボルマークである銀杏マークが入れられました。同年3月には電車無線が取り付けられ、扉脇に「93」という識別番号が記入(由来は「一球さん」の「きゅうさん」)されるなど、時代の流れに合わせて少しずつその状態を変えてゆきました。

前照灯が1ヶ所であることから「一球さん」と呼ばれ、長く親しまれて運用されていましたが、京福電気鉄道(現・えちぜん鉄道)の衝突事故後、ブレーキ系統が1系統しかないことが問題となりました。また、改修する場合、その費用に3,000万円を要するとの試算が発表されました。しかし、財政難の東京都にはその費用を負担できないため、2000年12月に休車となり、翌2001年12月に廃車となりました。

廃車後、保存を求める声が多数寄せられたため、解体処分は行われませんでした。しかし、同車を荒川車庫構内で静態保存する場合、改修費を含めて5,000万円を要するということが明らかになり、荒川車庫内での保存を断念し、その後、譲渡先をインターネットで公募し、複数の候補の中から選ばれたあらかわ遊園に静態保存されました。

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遊園地というよりは普通の区営の公園といったあらかわ遊園

その後荒廃が進んだため、2007年に大規模な整備が行われました。その際、車両番号の書体が若干異なるものに変わっています。

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2013年8月29日 (木)

2013 夏 新潟の旅 8 弥彦線

今回は弥彦線です。

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吉田駅で交換する弥彦線カラーの115系 この日はY1とY3が運用に入っていました。 2013/8/8

弥彦線は、越後線とともに私鉄の越後鉄道により建設された鉄道路線です。西吉田 - 弥彦間は、越後一の宮である彌彦神社への参詣鉄道として1916年に、西吉田 - 一ノ木戸(東三条)間は、現在の越後線と信越本線を連絡する目的で1922年から1925年にかけて開業し、さらに南方の越後長沢に延長されました。いずれは福島県まで路線を延ばす計画の下、建設が進められましたが、越後長沢駅まで開業した時点で国有化され計画は消滅しました(長沢から先、南蒲原郡森町村まで免許を取得していましたが1927年失効したそうです)。

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弥彦駅に停車中のY3編成 直接吊架式のシンプルな架線に注目です。 2013/8/8

このうち、通称「弥彦東線」と呼ばれていた東三条 - 越後長沢間は、沿線の人口密度が低かった上、終点の越後長沢駅も当時の長沢村(のちの下田村、現在は三条市域)の中心地から若干離れていたこともあり、太平洋戦争以前の段階から利用客数は低迷。太平洋戦争中は不要不急線となり、軌道が撤去され営業休止に追い込まれています。戦後に営業を再開するものの同区間は、通学客以外は乗客も少なく赤字続きであり、またこの区間に並行する県道(のちの国道289号)を経由する越後交通の路線バスが運行されていることもあって、1968年にいわゆる赤字83線に指定されました。弥彦線のうち弥彦駅から東三条駅までの区間(弥彦西線)は1984年に電化されたものの、東線は廃線が決まっていたことから電化されず、西線の電化後は毎日新潟から気動車を回送して運行が継続され、翌1985年に廃止されました。

弥彦東線は廃止後、廃線跡が国道289号のバイパス道路として整備され、現在越後交通は旧東線に並行する形で下記の路線バスを運行しています。

燕駅前 - 燕三条駅三条口 - 東三条駅前 - 大崎 - 大浦 - 長沢駅跡 - 八木ヶ鼻温泉 - 笠堀ダム(遅場)

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クモハ114-504の運転台 2013/5/25の記事で触れていますようにこの車両はもともと岡山・広島管内で使用されていた115系モハユニットに運転台ブロックを付ける形で2連化したものですが、現在まで当初懸念された走行中の運転台脱落事故は起きていないとのことです(笑)。 2013/8/8

この路線はJR東日本の路線として2つの特徴を有しています。ひとつは架線に低コストの直接吊架式が採用されていることで、そのために最高速度が85km/hに制限されていることです。これは1984年に電化された当時、国鉄が慢性的な赤字に陥っていたため越後線共々コストダウンを求められていたことに依るそうです。もう一つは2005年に自動化されるまで非自動閉塞方式(スタフ閉塞式)で運行していたことで、これはJRグループの電化路線としては最後まで残った非自動閉塞区間でした。

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運転室周辺の様子 ワンマン化のため運賃箱や料金表が装備されています。

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もともと非冷房だった車両に後付けでエアコンを設置しているのでJR東日本特有のAU712方式の冷房装置となっています。ドアは開けるのは手動のため、混雑時なども片方のドアのみが開いた状態で乗り降りが進むため結構渋滞していたりします。 東三条 2013/8/8

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AU712冷房装置、室内の様子 2本のダクトが通された天井の様子は、103系の最初の試作冷房車が登場したときの雰囲気を彷彿させます。

弥彦線で活躍する115系Y編成は、吉田で越後線に入り、越後線電車として新潟まで来て新潟車両センターに入出しているため、新潟駅で姿を見ることが出来ます。

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早朝の運用で弥彦線の仕業に向かうY3編成 2013/8/9 新潟

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越後一の宮である弥彦神社のメイン駅である弥彦駅の駅舎 外観も建物内部も神社の建物を模して造られておりました。生憎今回は改修工事でマスクされていましたが。 2013/8/8

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2013年8月28日 (水)

西ベルリンの思い出 Tegel空港のB707-458 D-ABOC

テーゲル空港にはルフトハンザ旧塗装のB707-420が保存されています。

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テーゲル空港の入口、駐車場に駐機され、内部も見学可能だったルフトハンザ旧塗装のBoeing B-707-420 1989/2/18

この機体は"Berlin"という愛称を与えられ、登録記号はD-ABOCです。

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塗装はルフトハンザ、レジは西ドイツのD-ABOCでした。 1989/2/18

B707はルフトハンザ航空にとってジェット機時代の創生期に活躍した機体です。私が見たときには空港の東側の駐車場敷地内に駐機されておりましたが、今は別の場所にあるそうで、空港の南側隅(消防署の側)に隠されるように残されているそうです。

冷戦下の西ベルリンでなぜD-レジの、しかもルフトハンザ塗装のB707があったのか、長いこと疑問でしたが、先日謎が解けました。

この機体は本来はルフトハンザとは全く関係ない機体で1986年までイスラエルのEl Al航空で働いていた機体(B707-458) cn 18071/216 でした。58というカスタマーコードが示すように元々El Al用に製造されたものでした。

1961年6月にEl Al航空に引き渡され4X-ATBというレジで活躍していました。1973年にはテルアビブからニューヨークに向けて飛行中にハイジャックにあい、ロンドン・ヒースロー空港に緊急着陸した事件にも遭遇している機体です。

退役後、状態の良いB707-420を探していたボーイング社が引き取り、同年200機目のボーイング機がルフトハンザ航空に引き渡された記念に1960年代の同社の塗装を纏いプレゼントされたそうです。その当時、ルフトハンザ航空でD-ABOCの登録記号を付けて活躍していたB707(Berlin)はリビアのトリポリで1980年代初頭にスクラップになっていました。

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Noseの部分にはベルリンの愛称を示す熊のマークが

冷戦下では西ベルリンに向けてD-レジの航空機を飛ばすことは不可能でしたから、アメリカ国籍のN130KRというレジに再登録し、1986年11月にテーゲル空港まで回航されたそうです。ルフトハンザは西ベルリンで同機を受領し、空港正面の駐車場に駐機し、公開するようにしたそうです。1998年に同機は駐機場所の移動がきまり、2000年代初頭に現在の場所に移動したとのことです。

<B707-420について>

航続距離が伸びて国際線仕様機として受注をのばした-320型(Intercontinental)をベースに、イギリス製のターボファンエンジン、ロールス・ロイス・コンウェイ「Mk.508」型を搭載したのが-420です。コメット4に代わる長距離用機材として開発されていたものの、開発が遅延していたイギリス製のビッカース VC-10コメットの代替機を欲していた英国海外航空(現在のブリティッシュ・エアウェイズ)の依頼によって開発され、主に英国海外航空やブリティッシュ・カレドニアン航空などイギリスとイギリス連邦諸国の航空会社で使用されました。

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-420型特有のRR製のエンジン

D-ABOCというレジの機体、現在はコンドル航空(ルフトハンザのチャーター部門でしたが、Wikipediaによると2009年よりトーマス・クック・グループへ移った模様とのこと)のB757-330 (cn 29015/818) が登録されています。

(AIRLINERS.NEThttp://www.airliners.net/による)

ドイツ統一後、首都はベルリンになりましたが、首都の玄関口の空港としてテンペルホーフ空港(2008年10月末に閉鎖)、ベルリン大空輸のために49日間で造成したと言われるテーゲル空港、東ベルリンのメイン空港だったシェーネフェルト空港のどれもが施設の狭さ、拡張性の無さ等の問題を抱え、新空港の建設、開港が叫ばれてきましたが、今年10月に数度の延期を経てベルリン・ブランデンブルク空港が開港することになった様です。

果たしてこの機体の運命は?

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テーゲル空港も閉鎖されるそうですが、果たしてD-ABOCのレジを付け、ルフトハンザ旧塗装を纏ったB707-420はどうなるのでしょうか。

なお、B707-458 D-ABOCに関するエピソードは
http://www.flickr.com/photos/smokeonit/3259606681/ に英語とドイツ語で記載されています。さらに同サイトに2007年6月に撮影された同機の写真も掲載されています。

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2013年8月27日 (火)

保存中の都電6000形 2 飛鳥山公園 6080号

都電、6000形保存車のシリーズ、今回は飛鳥山公園に保存されている6080号です。

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飛鳥山公園に保存されている6080号車 2013/8/3

飛鳥山公園は北区立の公園で徳川八代将軍吉宗治世の享保期に、「享保の改革」の一環として行楽地として整備され、1873年には上野公園などと共に日本最初の公園に指定されました。園内に残る渋沢栄一の旧邸は国の重要文化財に指定されています。

同公園には都電6080号とD51853号機が保存されています。D51853については後日、別の機会に触れます。

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6080号車の説明板 2013/8/3

現在も残る都電荒川線の王子周辺の区間は王子電気軌道に由来するものです。王子電気軌道は、電気事業(電灯電力事業)、軌道事業(路面電車)、路線バス事業の3つの事業を経営していた会社です。

鉄道(路面電車)関連の歴史をピックアップすると、

1911年8月20日 - 飛鳥山上(現飛鳥山) - 大塚で軌道事業開業。巣鴨車庫竣工。
1913年4月1日 - 三ノ輪(現三ノ輪橋) - 飛鳥山下(現梶原)開業。
1913年10月31日 - 飛鳥山下 - 栄町開業、新たに軌道車両を12両を導入。
1915年4月17日 - 王子 - 飛鳥山開業。
1922年1月 - 東京市電より軌道車輌10両購入。
1923年9月1日 - 関東大震災により山谷変電所と送電線の一部、軌道側柱、電車待合所が被災。3日後電車線は復旧した。
1925年11月12日 - 大塚駅前 - 鬼子母神前開業。
1925年11月12日 - 栄町 - 王子開業、三ノ輪 - 王子と王子 - 大塚駅前が直通開始。
1926年3月28日 - 王子柳田 - 神谷橋開業。
1927年12月15日 - 神谷橋 - 赤羽開業。
1928年12月25日 - 鬼子母神前 - 面影橋開業、王子 - 大塚駅前と大塚駅前 - 面影橋が直通開始。
1930年3月30日 - 面影橋 - (仮)早稲田開業。
1932年1月17日 - (仮)早稲田 - 早稲田開業。
1932年12月1日 - 王子駅前 - 王子柳田開業。
1942年2月1日 - 電力統制と交通統制により東京市に事業譲渡。王子電気軌道株式会社は清算。軌道事業は東京市電となる。
1943年7月1日 - 都制施行により東京都電車(都電)となる。
1972年11月12日 - 王子駅前 - 赤羽廃止。
1974年10月1日 - 都電荒川線へ呼称変更。

但し、赤羽は現在のJR東日本赤羽駅に隣接しておらず、北本通り上の東京メトロ南北線の赤羽岩淵駅の位置に相当する別個の駅でした。

上記のような歴史によって軌道事業として、東京北部の三ノ輪橋から王子駅前を経て早稲田および王子駅前駅から赤羽駅までの間を結ぶ路線を運行していました。1942年東京都(当時は東京市)に買収されその後の都電になりました。

1972年に廃止された区間

王子駅前 - 王子柳田(王子二丁目) - 榎町(王子三丁目) - 尾長橋(王子四丁目) - 西町(王子五丁目) - 神谷橋(神谷町) - 宮堀(神谷三丁目) - 北町 - 下村(志茂一丁目) - 七留(志茂二丁目) - 岩淵本宿(岩淵一丁目) - 赤羽

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6080号は車内も公開されておりますが、極めてシンプルな車内です。

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6080号の台車 D-10台車ですね。 2013/8/3

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6080号 サイドビュー 初期型の側窓10枚タイプです。

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残念ながら前照灯に関しては硝子、電球ともありませんでした。

飛鳥山公園と言えばもうひとつ忘れてはいけない乗り物があります。ちょうど都電荒川線の66‰の坂と並んで登るアスカルゴです。愛称は公募により施設名があすかパークレール、車両名はアスカルゴに決まったそうで、飛鳥山公園入口駅から飛鳥山山頂駅までの間に2億6千万円かけて設置された昇降設備で、2009年7月17日から運行しています。

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2013年8月26日 (月)

2013 夏 新潟の旅 7 越後線

これまでの新潟旅行では乗る機会がなかった越後線、弥彦線にこの夏の旅行では乗車してみることにしました。まず今回は越後線です。

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越後線としては最後に開通した白山~新潟間の信濃川橋梁を行く115系N編成3連x2 2013/8/10

信越本線が柏崎から内陸部に入り、長岡、三条を経由することとなったため、柏崎から日本海沿岸を経由して新潟に至る鉄道が計画されました。これが現在の越後線の前身である越後鉄道です。

1912年から翌年にかけて全通しましたが、資金不足のため信濃川に架橋することができず、新潟側のターミナルは信越本線新潟駅とは信濃川を隔てた対岸の白山に置かれました。経営難に苦しみ、政治工作によって度々国有化を要請しましたが容易に実現しませんでした。

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115系S編成とN編成による5連 S編成の冷房装置は簡易型AU712

1927年1月、水戸鉄道(のちの水郡線)・陸奥鉄道(のちの五能線)・苫小牧軽便鉄道・日高拓殖鉄道(のちの日高本線)の4私鉄に加えて越後鉄道の買収案が突如浮上、相前後して白山 - 新発田間の新線案(のちの白新線)も提示されました。紛糾の末に国会議決を経て5社の国有化が決定、越後鉄道は同年10月に国有化されました。五私鉄の国有化は当初から政治的意図が指摘されていましたが、特に越後鉄道については強い政治介入がささやかれており、のち1929年に「越後鉄道疑獄」として表面化、元文部大臣小橋一太が収賄容疑で起訴される事態となったそうです。

1943年に新潟(旧) - 関屋間の貨物線(信越本線支線)が敷設され、両線が信濃川を渡って接続されました。同線は1951年6月に旅客営業を開始し、同年12月にはこの貨物線上に白山駅を移転して関屋 - 白山(旧)間を廃止、同貨物支線を越後線に編入して、柏崎 - 新潟間が越後線となりました。1956年には、新潟駅が上沼垂 - 関屋間の貨物支線上(万代(貨)への分岐点)に移転し、それとともに越後線も終点を新潟駅に変更しました。1984年4月に弥彦線とともに全線電化されました。

弥彦線と接続する吉田駅を境に運転状況は大きく異なっています。新潟~吉田間はまさに通勤・通学路線といった感じで沿線の宅地開発が進むとともに、新潟大学をはじめ多くの公共施設、医療機関、高等学校などが移転しているため私が乗った電車も日中満員状態でした。特に越後線経由で新潟車両センターに出入りしている弥彦線用のY編成はエアコンがAU712であることも関係あるのか、満員の乗客、エアコン・フル稼働状態でも車内はかなり蒸し暑く感じました。

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新潟駅の越後線発車時刻表 内野までは日中も20分おきに設定されています。うちの地元の常磐線と同じ頻度です。

一方、吉田~柏崎間は閑散線区となっており、運行本数は1日9往復、出雲崎・寺泊 - 吉田間の区間運行を含めても合計11往復と少ない上、昼間には運行間隔が最大で4時間(吉田発では8:39~12:35)開くなど、専ら朝夕の通勤・通学需要に特化したダイヤが組まれています。今回、わたしも「魚のアメ横」と言われる寺泊や芭蕉が「荒海や 佐渡に横たう 天の川」を詠んだ出雲崎を訪問したかったのですが、電車のスケジュールと折り合いがつかず断念しました。

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柏崎で発車を待つ越後線吉田方面行き115系2連 S7編成   2010/7/17

信越本線、白新線から越後線に直通する列車も設定されており、東三条駅で待っていたときなど長岡発~新潟経由~吉田行きと敢えて放送していたときは思わず、弥彦線と新潟経由でどちらが先に吉田に着くのか調べてしまいました。

因みに東三条11:04発の435M、新潟から138M では吉田着12:55ですが、弥彦線では12:10発まで出発列車がないのですが、12:30に吉田着ですので、さすがに1時間以上後に出発しても、距離の短い弥彦線が先に吉田には到着します。

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115系L編成4連とN編成3連の越後線電車

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E127系V7編成他の越後線

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新潟駅で出発を待つV9編成を含む越後線電車 2013/8/7

E127系と言えばV3+V7+V9(正式な編成順序は不明ですが)編成で越後線を運用中の2008年12月8日に踏切事故に遭遇しました。その後、V7編成、V9編成は長野で修理を受けて正常に運用に就いていましたが、V3編成は側面に大きな焼痕を残したまま上沼垂の新潟車両センターの入口付近に留置されていました。

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2013年8月25日 (日)

西ベルリンの思い出 1 プロローグ

これまでは「鉄道と旅客機の写真を」と言いつつも、主に鉄道の写真しか出してきませんでした。これからは旅客機の写真とその記事も定期的にupdateして行こうと思います。国内に留まらず、1988年から1年間の西ベルリン留学や海外出張の際に空港で撮影した機体の写真を載せて参ります。

わたしが旅客機の写真を撮りだしたのは、1987年頃です。初めて飛行機に乗ったのが1983年の夏で、札幌で開かれた学会に参加するために、就職後初めての出張で羽田空港~千歳空港間に往復搭乗しました。機材はJALのB747SR-46でした。国際線の初体験は、1986年6月の新婚旅行で、Air Franceのアンカレジ経由パリ往復便でB747-200B、欧州内でもパリ~ウィーンでAFのB727-200,フランクフルト~パリでLHのB737-200に搭乗しました。今ではヨーロッパ直行便といえばノンストップ・フライトが当たり前ですが、B747-200B、エンジン的にはP&W(プラット・アンド・ホイットニー) 製 JT-9D7Q, GE(ゼネラル・エレクトリック)製 CF6-50E2, RR(ロールス・ロイス)製 RB211-524D4の時代は航続距離の関係から、日本~欧州線はモスクワ経由かアンカレジ経由でした。アンカレジ経由便は成田から6時間飛んで、アラスカのアンカレジ空港に着陸、1時間の間に給油を行い、さらに10時間かけてヨーロッパの目的地まで飛行していました。アンカレジ空港にはトランジットで立ち寄る日本人のために、うどん屋がありましたが、今はどうなっているのでしょうね。それ以前、主流だった南回りルートの欧州便は当時はアテネまでとなっており、風前のともしび状態だったと思います。父がヨーロッパ出張していた頃は羽田発の南回りルートでした。

1987年当時は飛行機に乗ることが身近になったこと、鉄道の方は国鉄が民営化され、全国的展開から地域独自の展開となり、特急列車の編成は短くなり、私にとってはそれまでの国鉄の魅力がどんどん薄れて来ていました。またバブル経済の影響もあってかジョイフルトレインのような列車が増えてきて、追っかける気持ちが弱まったことが拍車をかけました。一方で国内の航空業界ではJALのDC-8やANAのB727-200が引退の時期を迎えようとしており、それまで日本の航空界を牽引してきた世代から第4世代といわれるB767などがどんどん主流となりつつある時期でした。

そんな頃、海外留学で1988年10月から西ドイツの西ベルリンに1年間滞在することになりました。当時はまだ東西冷戦下でドイツは東西に分裂しており、西ドイツの暫定首都はボン、東ドイツの首都は東ベルリンでした。

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西ベルリンの繁華街、通称「クーダムKurfuerstendamm」に建つヴィルヘルム皇帝記念教会 広島の原爆ドームと同じように戦争の悲惨さを忘れぬために爆撃を受けた状態を残しています。 1988/10/15 

西ベルリンは、ドイツマルク(DM, 1DM=\80くらいでした)が通貨として通用し、西ドイツ国籍の人間が暮らし、政党も西ドイツ本土と同じ政党が治める地域でした。正式には第二次世界大戦の戦勝国である米英仏の占領地で、西ドイツ本土とはいろいろな点で別のルールが適用されていました。

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同じくクーダムにあるヨーロッパセンター 1988/10/13

Wikipediaの記事を参考にその例を挙げると

・西ベルリンからは西ドイツの連邦議会の議員を人口に応じて選出していたが、首相任命権と予算審議権、連邦に関する議案の投票権がなかった。議会での発言権や委員会の投票権はあった。

・西ベルリン住民の身分証明書及び旅券は、西ドイツ住民のものとデザインは似ていたが、ドイツ連邦共和国の文字や国章がない点で異なっていただけでなく、発行はベルリン市であった。国籍は西ベルリン市民と書かれていた。

・西ベルリンはアメリカ・イギリス・フランスが共同で統治する地域であるとベルリン協定で決められていたため、西ドイツで施行されていた徴兵制が適用されず、西ベルリンも人口が減っていたため補助金を出したことにより、徴兵を嫌った西ドイツの若者の中には西ベルリンへ移住する者がいた。

・西ベルリンを出入りする航空機の乗り入れは、西ベルリンを占領していたアメリカ・イギリス・フランスの航空会社(もしくはN, G, Fの国籍記号で始まる機体)に限られ、西ドイツのルフトハンザドイツ航空は乗り入れていなかった。(航空趣味的にはこの点が一番関係深いです)

・ソ連は西ベルリンを統治してはいなかったものの、協定は1990年9月12日まで存在しており、シュパンダウ刑務所の警備を4か月に一度担当していただけでなく、ベルリンに一番乗りをしたソ連軍戦車が置いてあったソ連軍英雄記念碑の警備駐屯権を有していた。

などです。

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西ベルリンのメイン空港であるテーゲル空港の管制塔とメインビルディング 1989/9/17

ちなみに西ベルリンと西ドイツ本土を結ぶ交通に関しては、第二次世界大戦終了直後の1946年2月の取り決めで、ベルリン回廊(Luft Korridor)と呼ばれる3本の空路が設定されており、1948年のベルリン封鎖における「ベルリン大空輸」(Berlin Airlift)で大いに役立ちました。1988年当時もハンブルグ、ケルン・ボン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ミュンヒェンなどと西ベルリンを結ぶ路線はこの空路を利用しており、高度制限やテーゲルの滑走路に進入する際の風向きで東から着陸する場合は一旦東ベルリン上空まで達して大きく旋回して降りていたのを憶えています。一方、陸路の方は1972年の両ドイツ基本条約(お互いが国として相互に認め合った)で3本のアウトバーンの通行権が認められ、東ドイツ国鉄(Deutsche Reichsbahn)による西ベルリンへの鉄道が開通しました。

西ベルリンは戦前のドイツ帝国のベルリン市のうちの新興繁華街や郊外だった地域がメインで、旧中心部は先に進攻したソ連が占拠したため、東ベルリンになっていました。ベルリンに行く前は壁に囲まれた都市を想像していましたが、実際には森や湖が多く驚きました。

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有名なチェックポイントチャーリー(C検問所)の横の展望台から見た東ベルリン 12月のクリスマス休暇に当時アメリカに留学中だった義妹がベルリンを訪問し、市内観光した際の1枚 写真を撮っていなかったのが残念ですが、当時 壁の手前には必ず Achtung! Sie verlassen jetzt den (Amerikanischen) Sekor.(注意、貴殿は今、(アメリカ)管轄区域から離れようとしています。:西ベルリンは米英仏の管轄地域に分かれていたので、それぞれ地域によって国名は異なりました)。といった注意書き看板を目にしました。壁の西側の面はまさに落書きの餌食状態でした。

留学期間が終わる頃から、東ドイツの人々がハンガリーやチェコの西ドイツ大使館に駆け込んで旅行の自由を訴える事件が頻発するようになり、当時の西ドイツのテレビでも「万が一ドイツが統一されることになったら」といった当時としては希望は持ちつつもまずはあり得ないと思われていたことが、私が日本に帰って1ヶ月後に起こりました。それが東西冷戦の集結の象徴となった1989年11月9日ベルリンの壁崩壊です。当時の東ドイツ政府が旅行許可を出す事務手続きを誤ったのがきっかけでしたが、それ以後、1989年12月のマルタ会談で冷戦が終結、東欧各国で社会主義体制が崩壊し、東西ドイツの統一(1990年10月)、ソ連の崩壊(1991年末)、へと一気に進みました。

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テーゲル空港に掲揚されていた国旗類、左から西ベルリン市、米、仏、英、西独、EU

ちょうどこの西ベルリン留学中には、日本でも昭和天皇が崩御となり、元号が平成と代わりましたが、まだ現代のような電子メールなど無い時代で、まして極東の日本のことなどは西ドイツのテレビで放映されることは殆どありませんでした。1989年1月7日の朝のニュースも日本からの国際電話で初めて知らされ、現地は1月6日の深夜でしたが、ドイツの局ではどの局が最初にニュースで流すかテレビを見ていたらなんと東ドイツの放送局(DFF1)が先に報じていました。
"Kaiser Hirohiro Gestorben"という字幕と共に速報が出たのを今でも鮮明に覚えています。その後の日本のニュースと言えば、リクルート事件によるスキャンダル、竹下首相辞任、宇野政権も女性スキャンダルと参議院選挙敗北で超短命政権にといった政治関係のしかも当時言われていた日本は経済は一流、政治は三流を象徴するようなニュースばかりでした。この年1989年は大物有名人が亡くなった年でもあり、戦後W.フルトヴェングラーの後を継いで長らくベルリンフィルハーモニーの常任指揮者を務めた”帝王”H.v.カラヤンが亡くなったのもこの年の7月16日でした。

そんなわけで西ベルリン滞在時代にテーゲル(TXL)空港で撮影した機体、あるいは西ドイツ本土のフランクフルト(FRA)、ハンブルグ(HAM)、デュッセルドルフ(DUS)、ケルン・ボン(CGN)、ミュンヒェン(MUC)、さらにイギリスのヒースロー(LHR)、ガドヴィック(LGW)、マンチェスター(MAN)、ベルファスト(BFS)、さらにフランスのシャルルドゴール(CDG)、オルリー(ORY)、トゥールーズ(TUS)、スイスのチューリッヒ空港(ZRH)でもベルリン滞在中の旅行(遠征)で写真を撮っていますので載せて行きたく思います。

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2013年8月24日 (土)

2013 夏 新潟の旅 6 元新津区の機関車 D51 512

2013年夏の新潟旅行では、新津機関区に縁の深い機関車ということで、新発田市の東公園に保存されてD51512号機も見てきました。地図はこちら Yahoo地図

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新発田駅から徒歩3分のところにある東公園に静態保存されているD51512号機 2013/8/7

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この説明板に書かれているように、昭和15年に大宮工場で製造されて昭和47年に廃車になるまで終生、新津機関区に機関区に配属され働いた機関車だそうです。

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外観から判断した感じでは色艶等も良く、保存状態は良好でした。

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きちんとした屋根の下で保存されておりました。

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重油併燃装置が装備されていたのか、炭水車には重油タンクと思われる物体が載ってました。

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残念ながらキャブのガラス窓はありませんでしたが、安全弁や汽笛なども美しく磨き出されておりました。

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機関車本体は公園の奥の方においてありましたが、この場所は線路からはさほど離れていないため、この場所に据え付けた際には、もしかしたら仮設の線路を敷設してここまで動いてきたのかなと思いました。

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この案内板の地図をよく見ると線路との近さが分かるのではと思います。

最近、全国でSLの運転が盛んに行われており、それまで公園等に保存されていた機関車がある日突然、復活するということが結構あります。一方で管理が悪く朽ち果てて行く機関車も多いと聞きます。

ということで、廃車されても解体されることなくこうやって公園等で保存展示されている機関車達を記録しておくことも重要であると思い、結構前から出かけた先では出来るだけ展示されている車両を見て、写真に記録するようにしています。今回の新潟旅行ではこのD51だけでしたが、C5719も鳥矢野交通公園から新潟鉄道資料館に移されて本格公開準備中とのことですので是非次に訪れた際に見ようと思っています。

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2013年8月23日 (金)

保存中の都電6000形 1 神明都電車庫跡公園 6063号と乙2号

都電シリーズ、7500形に続いて6000形に参ります。

6000形は、1947年から1952年までの6年間に290両が製造されました、800形と並ぶ、戦後初の新造車両です。

太平洋戦争末期の空襲により、都電の車両は当時の主力形式であった旧3000形を中心に、600両以上の車両を喪失しました。また、戦時中の資材不足により稼働ができなくなった車両や、辛うじて被災を免れたものの、大戦末期から終戦直後の酷使により老朽化した車両も多数存在していました。

このため、戦後は主に経年の浅い戦災車両の更生復旧が進められましたが、並行して新車両の製造も行われました。

また、6000形の量産と同時期に、3000形242両と4000形117両が6000形とほぼ同形の車体により更新されました。この形態の車両がいわば都電の標準車となり、1067mm軌間の都電杉並線を除くほとんどの路線に在籍しました。

290両が製造された大所帯だけあり、製造年度や製造メーカーによって様々な差異が見られました。

1947年度の初期生産車は、被災した3000形の復旧名義で製造され、台車は種車である旧3000形で使用されていた組立台車枠のD-10型台車が使用されました。その後、1948年度までに生産された6174号までは新造されたD-10型台車が使用されました。

また、初期生産車は当初集電装置にトロリーポールを使用していましたが、後年になってビューゲルに換装されています。この際、車両によってビューゲルの取付位置が異なっていました。

1950年度と1951年度に製造された6175 - 6241号からは、上記のD-10型を元に開発された鋳鋼台車枠のD-16型台車が新たに採用されました。

そして、1952年度に製造された最終増備車の6242 - 6290号からは、D-16型の改良型で、枕ばねを従来の板ばねから油圧ダンパー付きのコイルばねに変更したD-17型が採用されました。この最終増備車は外観的にも特徴があり、側窓が拡幅され、従来車が側窓10枚であったのに対し、9枚に変更されています。

これらの車両のうち、初期に生産されたものに関しては1960年代に更新工事が施工されました。その際、一部の車両は1500形と同様に前面方向幕の拡幅改造が施されています。また、順次ドアエンジンの搭載や各部窓枠のアルミサッシ化などの改造が行われていました。

その後、大半の車両が都電荒川線以外が全廃されるまでに廃車され、1972年11月以降は、わずかに残った13両 (6063, 6080, 6086, 6152, 6181, 6189, 6191, 6209 - 6213, 6219)が荒川車庫に集結しました。当初は朝夕のラッシュ時の増発として運用されることがほとんどでしたが、7000形が荒川線のワンマン運転化に伴う車体更新のために荒川車庫から搬出されたことにより、通常の営業運転にも使用されました。

以上、Wikipediaの記事を参考に6000形の歴史を纏めてみましたが、都内には多くの6000形の車輌が静態保存されています。そこで今回から、1台ずつその様子をご紹介しようと思います。

今回は本駒込の神明都電車庫跡公園乙2号とともに保存されている6063号です。

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神明町車庫跡の公園に乙2号とともに保存されている6063号車 2013/8/17

2013年8月17日の土曜日に訪問しました。先日ご紹介した池之端児童遊園の7506号を見た後、都営バス上58系統で、本駒込4丁目まで乗車し、停留場を降りたらすぐ側に、公園がありました。

神明町車庫はかつて都電40系統(神明町車庫前~銀座七丁目:昭和42年12月9日限りで廃止)や都電20系統(江戸川橋~大塚三丁目~千石一丁目~神明町車庫~千駄木二丁目~上野広小路~須田町:昭和46年3月17日限りで廃止)を担当していた車庫です。40系統は現在の都営バス上58系統の路線とほぼ重なります。

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6063号は由来の記述にもあるように昭和24年3月(1948年度)製で昭和24年9月から、荒川線に集結した昭和45年12月までの間、神明町車庫に所属し、20系統で働いていたのですね。当時、神明町車庫は正式には大塚電車営業所神明町分所といったそうです。

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6063号のサイドビュー 

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6063号の正面から

WEBサイトの情報によるとバンパー部分の突起中央部に木片が付いているのがこの年度製造車の特徴とのことです。

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6063号の台車 リベットで組み立ててあるようなのでD-10台車でしょうか。

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こちらは乙2号、電動貨車です。砕石の運搬等に用いられたそうです。

本来、屋根上に装着されるべきビューゲルがなぜか荷台の上にありましたが、安定性を考慮してのことなんでしょうか。

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説明板です。

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真夏ならではの光景かと思いますが、車体はすっかりひまわりに隠されていました。秋になると様子が大きく変わると思います。

なお現役当時の都電20系統や神明町車庫の様子はあちらこちら のサイトで見ることができます。

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2013年8月22日 (木)

2013 夏 新潟の旅 5 新津区の機関車 SLばんえつ物語号 客車

今回は、「SLばんえつ物語号」の客車編です。

12系から改造された専用客車7両編成で全車座席指定席制です。1999年4月29日から運転されています。

編成内容は以下のとおりで会津若松方が1号車です。

1号車:スハフ12 101(普通座席車)
2号車:オハ12 313(普通座席車)
3号車:オハ12 314(普通座席車)
4号車:オハ12 1701(展望車) スハフ12から改造、車体は新製
5号車:オハ12 316(イベント車)
6号車:オハ12 315(普通座席車)
7号車:スロフ12 102(グリーン座席車)

7号車に関しては、今年度から蒸気機関車牽引の客車列車としては初めてのグリーン車が連結されました。
2012年度までの運転ではスハフ12 102が連結されていました。

そして、2007年度の運転開始を前にリニューアルが実施され、外板塗装は、地色がチョコレート色、窓まわりがクリーム色でしたが、地色がオリエント急行を思わせる紺色に変更されました。また、室内では、座席の背ずりを約30cm高くし、クッションにも厚みを持たせ、従来のボックスシートに比べて居住性を改善したほか、表皮を縦縞模様から赤に変更し、大正ロマン風のレトロな見栄えとしました。

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登場時の塗色 2005/3/23 新津

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スハフ12-101のエンド 高崎の旧形客車とおなじように牽引する蒸気機関車の車軸温度などをモニターする装置が装備されているのでしょう。 2005/3/23 新津

展望車両(4号車)に配置されていた車内販売スペースを5号車に移し、フリースペースを拡大しました。この結果、1編成の定員は504人から468人に変更されました。新設された50インチディスプレイではC57 180の歴史などを映出しています。多目的室、SL宣伝コーナーも新設。車販コーナーでは新たに生ビールなどを取り扱い、各車両の通路ドアを改造し、自動ドアを導入しました。

このリニューアル改造工事は4月上旬に完了し、4月13日に新津駅ホームで報道関係者に公開され、4月14・15日にはDD53 2牽引によって羽越本線新津駅 - 酒田駅間をお披露目運転として走行しました。

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新塗色になった「SLばんえつ物語号」の編成は首都圏でもELプッシュプル牽引で走った「急行いず物語号」などでも見ることが出来ました。 2012/3/3 馬入川橋梁

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最後尾のEF64 1031の前にはもう見ることが出来なくなったスハフ12-102が連結されています。

そして今回の新潟旅行では新津でまず改造されたスロフ12-102を撮影しました。

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2013/8/8 新津

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そして、8月10日の運転では実際に運用されているところを撮影しました。

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2013年8月21日 (水)

保存中の都電7500形 2 板橋交通公園 7508号

保存されている元都電7500形のシリーズ、今回は板橋(交通)公園の7508です。

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板橋交通公園の7508号車 2013/8/17

板橋(交通)公園は東武東上線大山駅から徒歩で15分ほどのところにある区営の公園です。都営バスの車体と更新されなかった7508号の車体が展示・公開されています。

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公開時間は上記のように午前9時から15時45分までで、車内に入ることも可能です。

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板張りの床、シートのモケットなども比較的よく原型を保っており、車内は児童文庫のような使われ方をされているようです。現役時の面影をよく残しております。

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運転台はマスコン、ブレーキ(ハンドルはもちろんありませんが)は無傷でしたが、残念ながらメーター類は取り外されたり、破損していたりしました。

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7508号車の履歴です。2013/8/19の記事で触れたましたように、「車齢22年を迎えた1984年から1987年にかけて、7502・7504・7508の3両を除く本形式13両に対して都電初となる冷房装置の搭載を伴う車体更新が施工されました。」とのことで、1986年3月に廃車になっているのですね。

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住友金属工業FS80(交通局形式D-23)台車です。 2013/8/17

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同じ場所には写真のような都営バスの車体が展示・公開されていました。

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冒頭写真の逆側のエンドの写真です.一部塗装の剥げ落ちも見られますが、これからも永く保存して貰いたく思います。

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最後に公園の入口の写真です。

公園の場所、その他の情報は「板橋区内の公園案内」のサイトに書かれている情報が大変参考になると思います。なお、このサイトに出てくる7508号車の写真ではかつては屋根の下に保存されていたようです。

なお、7500形は小金井市の「江戸東京たてもの園」にも7514号車が保存されています。実は先日、小金井公園にC57186を見に行ったばっかりだったのですが、そのときは存在に気づきませんでした。次回行った際に撮影してupdate致します。

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2013年8月20日 (火)

2013 夏 新潟の旅 5 新津区の機関車 C57 180

今回からは新津運輸区に関係する機関車です。

現在、新津区に所属する機関車は「SLばんえつ物語号」の牽引に活躍するC57 180号機1両のみです。

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2013/8/10のSLばんえつ物語号の運転では花火模様のHMが装着されていました。

当機は1946年8月8日に三菱重工三原工場で製造(製造番号=513)され、新潟局の新潟機関区に配属となっています。北は羽越本線秋田、南は信越本線直江津、東は磐越西線会津若松までを行動範囲としていました。新製配置直後は戦後混乱期の工作不良がたたってトラブルが続出していましたが、1958年のボイラー交換後は安定した性能を発揮し、急行「日本海」や「佐渡」などの長距離優等列車牽引に重用されました。

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C57 180号機のボイラーには昭和33年1月、日立製作所の標示が 2013/8/10 新潟

1969年に無煙化の促進によって羽越本線での運用が大幅に削減され、磐越西線の旅客列車からの運用撤退によって新津機関区のC57形は大幅に減ることになりました。全般検査後1年だった同機は転属候補とされていましたが、鉄道の街・新津に蒸機を1両だけでも残したいとの声が新津機関区で上がり、それに新津市も賛同、保存機として同機が選ばれることとなりました。新津機関区生え抜きの他機を差し置いて同機が選ばれた理由は、番号の語呂が良く、D51 180C51 180も同区に長年在籍しており、180という数字に特別な思い入れがあったことや、癖や故障が少ないためだそうです。

同年9月30日に磐越西線での蒸機牽引による最終定期旅客列車を日出谷駅 - 新津駅間で牽引後、10月12日新津市立新津第一小学校の校庭の磐越西線側に静態保存されました。保存に際し、新津駅の引き上げ線を延長した仮設線路を校庭に敷設し保存場所まで自力で走行、市民や児童らの歓待を受け、同機自らによるくす玉割りや神事の後、惜別の長緩汽笛を何度も吹鳴したそうです。現役期間中の最終総走行距離は1,691,096.3kmでした。

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新山口(旧小郡)駅でも見かけましたが、こちら新津駅でも昔の字体の駅名標がSL列車をお出迎え 2013/8/8 新津

1990年4月、高崎支社のD51 498により「SLうるおいの新潟号」が運転されました。その後1996年から1998年までの3年間、磐越西線新津駅 - 津川駅にて同機やC58 363を使用した「SLえちご阿賀野号」が運転されました。これを機に新津市ではC57 180を動態復元しようという機運が高まることとなり、1997年新津市において「C57 180を走らせる会」が結成されました。復元に必要と見込まれた費用である2億円の半分を、市民らがオレンジカードを購入するなどして負担することとしました。

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新津駅1番線ホームの壁に掲示された「SLばんえつ物語号」の案内 2013/8/8 町全体がSLの復活運行に協力している姿が感じられます。

復元作業は1998年3月に開始、JR東日本大宮工場や大阪府のサッパボイラでの作業も1年後に完了、1999年3月に30年ぶりに車籍が復活しました。復元形態は運転終了時の状態をベースに、前照灯は前後とも大型で光量の大きなLP403形、運転台屋根は東北・信越地区に多く見られた延長型、砂箱前方には大型手摺と、静態保存時の部品の整備や交換がなされました。ランボードには、新津機関区伝統の白線が入れられています。新たに搭載された重油タンクや列車無線アンテナは、上方から見ない限り分からないように配慮されています。また、全車軸には温度センサーが取り付けられ、運転中は客車乗務員室から管理を行っています。炭水車には第一小学校の児童から贈られた記念のプレートが掲げられています。

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「SL春さきどり号」の出区風景 2009/2/15 木更津

私自身、C57 180は2009年2月に内房線の「春さきどり号」(本来D51 498牽引の予定でしたが、空焚き事故のためにC57180が急遽代走)や2009年8月に郡山駅で「SLばんえつ物語号」として撮影はしていましたが、本家本元の新潟駅での出発シーンは初めてでした。

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2009/8/23 SL郡山会津路号 郡山

なお、この日の「SLばんえつ物語号」編成の新潟駅までのエスコートはEF81141(長岡)が務めました。同機は双頭連結器装備機で配給列車によく使われます。
2013年2月5日上越線で秋田に入場するDE101698を牽引中(配8759レ)、DE10が燃料タンクの出火を起こす事故に見舞われ、その後3月からは秋田に入場していましたが、6月に出場し、長岡区に戻っていたようです。因みにEF81コレクションにおいて、同機はこれまで未撮影機でした。

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SLばんえつ物語号の出発後、白山よりの待避線で待避していたエスコート機のEF81141号機も新潟駅構内を通過して、長岡方向に戻って行きました。 2013/8/10

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出発直前のC57180号機 この後、煙はどんどん黒くなり、風向きから前方で撮影している人間の方にシンダが降り注ぐことに 汗まみれのYシャツは墨汁の飛び散ったような状態になりましたが、あの蒸気の臭いを残してC57180は出発して行きました。

SLばんえつ物語号」、客車に関しては次回の当シリーズ記事で触れます。

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2013年8月19日 (月)

保存中の都電7500形 1 都電おもいで広場 7504 池之端児童遊園 7506

今回は都電シリーズで7500形です。既に引退してはいますが、その車体はかなり保存されており、保存場所を訪問してその姿を撮影しておりますので、その写真と共にupdateしたく思います。本記事では荒川線荒川車庫に隣接して設置されている「都電おもいで広場」の7504号と旧池之端七軒町電停跡に設置された「池之端児童遊園」の7506号について触れます。

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「都電おもいで広場」に展示・公開されている7504号車 2013/8/17

まず7500形の登場の経緯、特徴、運用などから参りましょう。

1956年度から1957年度にかけて合計131両が製造された8000形の後、1959年に事業収支が赤字に転落、交通局と首都整備局の間で路線廃止に関する議論が続いていたこともあり、都電では新造車の投入が途絶えていました。

8000形は耐用年数を10 - 12年程度として構造を徹底的に簡素化・軽量化して設計されたためすぐに老朽化が始まり、その乗り心地についても簡略化した構造の台車が原因で発生するビビリ振動の大きさ故に不評でした。わたしも憶えていますが、ギシギシとした車輪の回転音は、玉電のペコちゃんこと、200形でも感じましたが、決して快適な乗り心地ではありませんでした。そういった状況と今後の残存区間における車両を考慮して、1962年度に都電として5年ぶりの新車投入が決定され、8000形とは異なる設計コンセプトに従い、以下の20両が製造されました。

7501 - 7510 日本車輛製造本店製

7511 - 7520 新潟鐵工所製

なお、7511 - 7520は都電としては最初で最後の新潟鐵工所への発注車です。

形式称号としては既に8000形が存在していたので、数字が逆戻りする形となりました。これは本形式が性能は7000形に、スタイルは8000形に準ずることから間をとって7500形と命名されたとされます。

1962年12月までに竣工し、20両全車が渋谷駅前をターミナルとする6・9・10系統を担当する青山営業所(青山車庫)へ集中配置されました。

1963年には都電唯一の狭軌線区であった杉並線の廃止が実施されて経年の浅い同線所属車の改軌・転属が実施され、さらに1967年以降は都の財政再建計画により路線網そのものの廃止が本格化したため、都電の車両新造は本形式20両のあと、1990年8500形8501まで実に28年に渡って途絶えることとなりました。

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おもいで広場で都電の線路に並行に配置されている7504号車 2013/8/17

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都電おもいで広場の案内 2013/8/17

<車体>

8000形と、その前世代にあたる7000形を折衷した構造の全金属製車体で構成されており、基本構造はバスの車体を参考に行き過ぎた工作の簡易化が目立った8000形や2500形ではなく、7000形や2000形に近いオーソドックスな構成とされ、車体の最大寸法は長さ12,500mm、高さ3,550mm、幅2,203mmで全長は8000形と同一ですが全幅は6000形以来の都電一般車の標準値(2,210mm)より若干狭くなりました。

側面の窓配置はD(1)4(1)D4(D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:窓数)の左右非対称配置で7000形より8000形に近いレイアウトです。ただし、車体中央付近の客用扉の戸袋窓と反対側に隣接する車掌台の窓幅が他のほとんどの側窓と同じ860mm幅となり、また最後尾の客用窓幅が900mmであるため、車掌台の窓幅を狭くして他の側窓幅を統一した8000形とは異なった印象を与えます。

側窓は横引きサッシを備える車掌台と、上下ともHゴム支持の固定窓とした戸袋窓を除く全てが、上段をHゴム支持の固定窓(バス窓)とし、下段を保護棒1本付きで上昇式のアルミサッシとしています。客用扉は運転台に隣接する車端部のものが825mm幅、車体中央のものが920mm幅の片引戸で、ここでも車端部に細長い戸袋窓を置いて連接扉としていた7000形の凝った構成ではなく8000形の簡潔な構成が踏襲されています。

また、妻面も8000形に準じた大型の方向幕を中央の幕板部に取り付け、中央を900mm幅の上段固定・下段上昇式窓、両端をそれぞれ380mm幅の固定窓とした3枚窓構成とされています。ただし、自動車用のシールドビームを用いた前照灯、および同じく自動車用部品を流用した尾灯を組み合わせた灯具を左右の腰板部に振り分けて装着した2灯構成とし、空いた腰板中央部に上方から系統板の抜き差しを可能とした行灯式の系統表示板を設置することで、7000形とも8000形とも異なる新しいデザインとしました。

定員は96名、座席定員は26名で、8000形2次車に準じました。座席は全てロングシートです。

天井には蛍光灯の他、扇風機が等間隔に4基設置されているが、暖房装置は設置されていません。

車体塗色は新造時点での都電標準色であった、カナリアイエローに窓下赤帯ですが、基本色の黄色味が従来よりも強くなっていました。このことは私も今でもはっきり憶えており、7500形はその濃い色が特徴でした。

<主電動機>

端子電圧600V時1時間定格出力60kWの日本車輛製造NE-60Aを各台車の内側軸に吊り掛け式で1基ずつ、合計2基装架しました。歯数比は59:14、定格速度は26.5km/hです。

<制御器>

路面電車としては大出力の主電動機を搭載することもあり、間接非自動制御式の日本車輛製造NC-533を搭載しました。

<台車>

7000形初期車に装着された交通局形式D-18と同系の鋳鋼製側枠を備える軸ばね式2軸ボギー台車です、住友金属工業FS80(交通局形式D-23)を装着しました。この台車は枕ばねをコイルばねに用い、設計当時の路面電車用としては標準的な構造のスイングハンガー式揺れ枕機構を備えました。軸距は1,400mm、車輪径は660mmです。

<ブレーキ>

従来通り、簡潔なSM-3直通ブレーキを搭載しました。

<集電装置>

集電装置として都電で標準のビューゲルを1基、屋根上中央に設置しました。

<運用>

1.新造から荒川線存続決定まで

新造当初、全車が青山車庫に配置され、同車庫が担当する6・9・10系統で使用されました。1968年9月29日の9・10系統廃止で青山車庫が閉鎖されると、経年が浅かった7501 - 7510は荒川区の27・32系統(後の荒川線)を担当する荒川車庫へ、7511 - 7520は江東区の柳島車庫へそれぞれ転属しました。その後、1972年11月11日に沿線住民の反対を押し切る形で江東地区の路線が全て廃止され、柳島車庫が閉鎖される際に7517・7519を除く8両が荒川車庫へ転属し、18両が荒川車庫に集結しました。本来は除外された2両も転属予定でしたが、両車両は車庫の閉鎖前に出庫線で追突事故を起こしたため、補修用部品取り車として1972年11月15日付で廃車されています。

2.ワンマン対応改造

荒川線の存続決定後、経営合理化のために同線でのワンマン運転実施が決定されました。ワンマン化は1977年10月1978年4月の2回に分けて段階的に実施されることとなり、この時点で荒川車庫に在籍していた7509と7514を除く16両と、7000形31両がワンマン運転対応に改造されることになりました。7500形は車齢16年で経年が浅かったことから既存車体の改造での対応となりました。

この改造工事対象外となった7509・7514については荒川線が完全ワンマン運転化された後の1978年4月27日付で除籍されました。7514はそのまま荒川車庫で保存され、7509は車体を解体の上で台車・機器が軌間が同じ都営地下鉄新宿線大島車両検修場の車両移動機に流用されました。

3.車体更新

車齢22年を迎えた1984年から1987年にかけて、7502・7504・7508の3両を除く本形式13両に対して都電初となる冷房装置の搭載を伴う車体更新が施工されました。

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池之端児童遊園に保存される7506号車 更新された車体の保存車 2013/8/17

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同所はかつて池之端七軒町という電停があり、私も親に連れられて上野動物園に来たときにモノレールから専用軌道を走る都電の姿を見ており、大学も近かったので暇なときに廃線跡を訪ねて歩いたのを憶えています。

新車体の設計製作はアルナ工機(現・アルナ車両)が担当し、窓配置はD(1)3(1)D3と若干窓幅を拡幅して側窓数を減らしました。

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おもいで広場の7504号とこの7506号のサイドビューを見較べることで更新による変化が分かります。

この新車体は7000形の新車体に類似しています。角ばったデザインとなりましたが、旧車体のイメージを踏襲して妻面が3面折妻かつ3枚窓構成となり、前照灯と尾灯も7000形新車体は横並びなのに対し、本形式は縦並びとされました。また、屋根は冷房ダクトを設置したため、旧車体より高くなりました。これに合わせて正面行先表示器が大型化され、外部塗装は都バスなどと共通のアイボリー地に黄緑の新色に変更されました。

更新直後も集電装置はビューゲルでしたが、これは旧車体のものではなく、屋根の高さが変わったのに併せて新調されたものでした。しかし、冷房装置との干渉や離線対策のために比較的早期にパンタグラフに変更されました。

更新されなかった3両のうち750275081986年3月31日付で廃車となりました。また、7504は朝ラッシュ時専用車両の「学園号」として運用されていましたが、1998年頃に運用から離脱し、2001年12月10日付で廃車されました。

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            おもいで広場に展示される7504号車「学園号」の説明板

更新された13両は、7000形と異なり、車体更新時に車両番号の整理が行われることはありませんでいた。そのため、欠番が生じたままでした。

4.営業運転の終了

車齢45年が経過し、かつ老朽化が進行していることから、2008年2月7506が、同年3月75078800形に置き換えられる形で廃車となりました。2009年度4月75156月75137月7503が、2010年3月7501・7516・7518の3両がそれぞれ廃車になりました。

2010年度11月7505と7510が運用を離脱し、12月には7520が休車になりました。最後まで残った7511・75122011年3月13日限りで運用を離脱。なお、両車とも2011年3月31日付けで除籍されており、この時点で形式消滅しました。

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池之端児童遊園の特徴は都電とスカイツリーのコラボが撮影可能なことです。バス通りの反対側から7506号を見ると背後にスカイツリーの姿が。 2013/8/17

以上、Wikipediaの記事を参考に、自らの経験も若干加えてテキストを作成致しました。

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2013年8月18日 (日)

2013 夏 新潟の旅 4 新津区の気動車 引退したキハ52

これまで、今回の新潟旅行で撮影した新津区の現役の気動車達を紹介してきました。

今回、ご紹介するのはこの旅行で撮影したものではなく、2005年3月の出張で撮影したものです。本来なら、前回の1975年のシリーズで紹介すべきでしたが、あのシリーズの時点では記事にするネタが少なすぎて記事に出来ませんでした。

今回、新津運輸区の話題は気動車から、機関車へ続きますが、気動車編の最後に今は引退してしまったキハ52の話題を付け加えておこうと思います。

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恐らく磐越西線の列車だと思いますが、キハ52 102を先頭にした4両編成で新潟に向かう気動車列車 2005/3/25 越後石山

新津運輸区のキハ52について、Wikipediaの新津運輸区の記事によると、

キハ52形気動車

2011年8月3日に当時配置されていた7両すべてが廃車となり配置がなくなった。3両は旧国鉄色(2006年12月より、それ以前は新潟色)、4両は新潟色であった。当区のキハ52形の廃車によりキハ52形は形式消滅し、JRのキハ20グループそのものが消滅となった。なお、同日中に甲種輸送にて当区を離れ、全車フィリピン国鉄に譲渡されて日本から去った。

とのことです。

因みに最後まで残った7両の番号は
102, 120, 121, 122, 123, 127, 137 です。

これらの車は解体されることなくフィリピン国鉄に譲渡されたそうですので、是非あちらで頑張って欲しいものです。

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同列車の後追いショットです。 キハ47 507が最後尾でした。 2005/3/25

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キハ52についてはもう一枚、キハ40との2連の列車の写真を撮っていました。 2005/3/23 新津 但し、こちらば番号不明です。

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2013年8月17日 (土)

都営まるごときっぷの旅 その8 都電の車輌 7000形

都電シリーズ、荒川線で活躍している現役車両、最後は7000形です。

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7002号車 飛鳥山 2013/8/3

以前、お話ししたように7000形は唯一の吊り掛けモーター式車両で、東京都内を走る唯一の吊り掛けモーター式の車両でもあります。

A 登場から荒川線成立前まで

最初に登場したのは1954年でした。

大きく3つのグループに分けられ、軌間の異なった杉並線を除く各線に配備されました。扉の下に見通し窓があり、前面が二枚窓と言う点は共通でした。

1次グループ(7001 - 7030)

1954年に製造されたグループで、新造車と車体更新車があり、正面窓は運転台側が一段で、反対側は二段窓の二枚窓です。ボディは細かく分けると以下の3タイプに分かれます。

7001 - 7019
新造車で、台車はD18形を採用しました。それまでの都電のイメージを刷新する塗色と外見で登場しましたが、走行メカニズムはそれ以前と同じ直接制御でした。
前面二枚窓で、左側に運転台が寄っており、前扉との関係で当時の都電の運転士から運転台が狭いとの指摘があり、あまり評判が良くなかったことから、1965年以降に全車中央窓の大きい3枚窓(2000形に酷似)に改造されています。
大塚車庫や早稲田車庫などを中心に配置され、路線縮小後も転属して活躍していました。トップナンバーの7001を始めとしたほとんどの車両が、墨田・江東両区の路線が全廃される1972年まで使用されました。

7020
直角カルダン駆動を採用した高性能試作車として製造されました。間接制御車で、台車は東芝の試作台車TT-101形でした。その他の特殊車と同様に三田車庫に在籍し、1967年の同所廃止と運命を共にしました。

7021 - 7030
1000形と1100形の下回りを流用して新造車体を乗せた車体更新車で、元車の台車のD10形およびD16形を流用しています。目黒車庫や神明町車庫、さらには荒川車庫にも在籍していましたが、都電第1次廃止の1967年に余剰車として全車廃車になっています。7020とこのグループは前面窓は最後まで二枚窓でした。

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かつては雑司ヶ谷といっていましたが、地下鉄の開通で都電雑司ヶ谷と名前を改めた電停です。 2013/8/3

2次グループ(7031 - 7050)
1955年に製造されました。台車はD20形です。このグループから間接制御車となり、
不評だった運転台の広さも拡張され、また正面窓は視界改善のためどちらも1枚(運転台側の窓がわずかに小さくなっています)となりました。また、車体の角がさらに丸みを帯びたデザインになっています。
1970年に7032 - 7034・7036 - 7042の10両が函館市交通局(函館市電)に譲渡されて1000形となりましたが、譲渡されなかった10両は錦糸堀車庫に集結して1972年まで活躍しました。

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サンシャイン60を背にした7000形 2013/8/3 学習院下

3次グループ(7051 - 7093)
2次グループの約半年後となる1955年末から翌1956年にかけて製造されました。台車はD20A形です。正面窓が2次グループより天地方向に拡大されているのが大きな特徴です。なお、原型はZパンタでしたが、後にビューゲルに改造されています。

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7000形にもかなりラッピング車がいますが、似合っているのとそうでないのとがいます。飛鳥山 2013/8/3

B 荒川線成立後

1974年、27・32系統を統合し荒川線に改称。更に、1978年のワンマン化に向け、1977年から31両全車をアルナ工機(現・アルナ車両)製の新造車体へ更新しました。
運転台マスコンなどの電装品、台車やブレーキなどの主要機器はすべて流用されました。 同時に車両番号は新たに付番され、7001 - 7031に揃えられました。よって現行の車両番号は2代目となります。なお、新番号は改造順ではなく旧番の若い順から付番されました。ホームの嵩上げによるステップ廃止と、車内への車椅子スペース設置といったバリアフリーへの対応が先進的と評価され、1978年鉄道友の会のローレル賞を受賞しました。

1985年から、7500形の車体更新に合わせた冷房化改造、及び塗装変更、LED式車内旅客案内表示器の新設、集電装置をビューゲルからパンタグラフに交換するなどの改造が行われました。

早めに老朽化した8両は、8500形への代替などで1999年までに廃車されました(6両は冷房改造前に廃車)。うち4両は1992年に非冷房車2両、2000年に冷房車2両が豊橋鉄道に譲渡され、モ3500形として使用されています。

2002年から、前面行先表示器の1枠化、車内旅客案内表示器と降車用ボタンの更新などを含めた再更新工事が施工されました。前面と側面の行先表示器は従来の幕式からLED式に交換されましたが、車両によって書体が異なっています。 また、7001、7019、7020、7022、7025の5両が集電装置をシングルアーム式パンタグラフへ交換されました。
しかし、2011年度8500形へのシングルアームパンタグラフ転用に伴い、追突事故により廃車となった7020を除く4両は再び菱形パンタグラフ(7500形の廃車による発生品)に戻されました。

2005年7022(旧7076)の塗装を車体更新時のものに復元。同時に除雪用ラッセルの取付対応工事も施されました。

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唯一更新時の塗装で活躍中の7022号車 飛鳥山 2013/8/3

C 現状

現在も19両が在籍し、今なお荒川線で最多の車両数を占めています。1955年12月の新製配置以来荒川電車営業所を離れたことがない車両は7001(旧7055)が唯一です。

しかしながら、既に台車等は新製から50年以上経過しており、更新車体も新製から30年以上経過することから、徐々にではあるが廃車が進行しつつあります。

70202006年6月13日に梶原 - 栄町間で発生した追突事故で破損し、修復されぬまま休車となりました。破損部にブルーシートをかけられ、シングルアーム式パンタグラフと冷房装置(1基)が撤去された状態で荒川車庫内に留置されていましたが、2008年3月31日付で廃車されました。

2011年3月31日7004が廃車となりました。これは2012年度に計画されていた、「東京都交通局次期経営計画 ステップアップ2010」における7000形1両の廃車・新型車両への置換えを前倒ししたもので、同年3月13日をもって営業運転を終了した7500形最後の2両(75117512)と共に廃車したものです。

同年9月、廃車理由は不明ながら、7027が廃車されました。同月の75117512、7004の解体工場への搬出の際に併せて搬出・解体された模様です。

2012年12月28日から7008の前面の銀杏マークが青く塗られ、マークの中に「おつかれさま」と記載されました。その2日後に同車は営業運転を終了。2012年の大晦日をもって除籍されました。

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2013年8月16日 (金)

2013 夏 新潟の旅 4 新津区の気動車 その3 キハE120形

新津運輸区の現役気動車、最後はE120形です。

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キハ110形2両と併結した3両編成の新潟発磐越西線列車 2013/8/7 新潟

2008年4月16日、JR東日本新潟支社の公式サイトにおいて米坂線・磐越西線(会津若松以西)・白新線(快速べにばなのみ)・羽越本線(酒田以南)向けに投入・運行されることが発表され、現時点で8両導入されている一般形気動車です。

2008年11月1日に営業運転を開始し、当初は羽越本線3本、磐越西線・信越本線4本、米坂線4本の計11本の普通列車に充当されました。その後、2009年3月14日改正でキハ110系と共に米坂線でのキハ40・47・48形・キハ52形・キハ58系の運用を置き換え、これによりキハ52形・キハ58系は定期運用から撤退しました。車内運賃表示には米坂線各駅・羽越本線新津駅 - 坂町駅間/鶴岡駅 - 酒田駅間・信越本線新潟駅 - 新津駅間・磐越西線新津駅 - 馬下駅間・白新線豊栄駅の表示がされています。

車体は3扉のキハE130系から中央部の客用扉を省略した構造です。また車体カラーリングはブナをイメージしているのが特徴です。

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比較のためにキハE132-2の写真を載せます。 水郡線で活躍しています。 2008/8/9 郡山

足回りはキハE130系と同一で、エンジンはコマツ製SA6D140HE-2(JRでの呼称はDMF15HZ、定格出力450ps/2000rpm)を搭載しています。変速機は日立ニコトランスミッション製のDW21系(変速1段・直結4段、自動式)で、最高速度は100km/hです。

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キハE120-7 新潟にて 2013/8/7

製造は全車新潟トランシスで、新津車両製作所の設立時から地元が強く要望してきた「地産地消」が別の形で実現することとなりました。同社は既に北越急行向けに製造・納入していましたが、JR東日本新潟近郊地区向けの車両納入はトランシス移行後初めてでした。

座席はキハ110形同様、ロングシートとクロスシートがあり、クロスシートは片持ち式で2人掛け+1人掛けです。構造はキハE130系などとほぼ同じです。またつり革もキハE130系などと同じで優先席付近は黄色で大型のものになっています。運転台仕切部に運賃表示器と車内案内表示器が設置されています。

トイレは車椅子対応の洋式で、出入口は自動ドアです。

運転台の主幹制御器はキハE130系と同一の左手ワンハンドルタイプが採用されました。

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側面には新潟地区の3線での活躍を示すワッペンが 2013/8/7 新潟

全車が新津運輸区に配置されており、同区のキハ110系と共通運用で羽越本線(新津 - 酒田)、米坂線、信越本線(新潟 - 新津)、磐越西線(新津 - 会津若松)の普通列車と快速「あがの」(新潟 - 会津若松)、快速「べにばな」(新潟 - 米沢)で運用されています。また、キハ110系と併結されて運用される場合もあります。

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キハE120形だけで組成された3連の会津若松行き 新津 2013/8/9

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2013年8月15日 (木)

都営まるごときっぷの旅 その7 都電の車輌 8500形

都電シリーズ、今回は8500形です。

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学習院下付近を走行する8501号車 2013/8/3

8500形は7000形・7500形の老朽化に伴い1990年より増備された形式です。当初は2形式全車を本形式で置き換える構想もありましたが、財政面での関係や余剰車を出さないように5両で打ち切られました。

車体は全鋼製軽量構造となり、7000形や7500形よりも車体の窓を大きくし、また、塗装もそれまでの都電と違って白をベースに車体下部に緑の帯を配しました。走行機器には、都電では1954年落成の6500形以来3車種目の採用となるカルダン駆動方式と、都電初のVVVFインバータ制御を採用しました。そして、運転台には1軸2ハンドル式マスコンを装備しました。

行先表示器は、正面が行灯(字幕)式、側面がLED式です。この形式から落成と同時にLED式車内案内表示器が1両につき4ヶ所設置され、それぞれ運転席裏側と降車口上部に2ヶ所ずつ設置されています。運転席裏側のものは乗車マナーなどを、降車口上部のものは駅名などを表示します。

荒川線の車両としては初めて、登場当初から自動案内放送を流しています。

スムーズな乗降を図り、乗車口を1,000mmの片開きドア、降車口を1,200mmの両開きドアとし、降車口を運転台のモニタで監視できるよう側面表示板の上部に収納式のカメラが設置されました。床面高が他形式より30mm高いため、駅によってはホームとの段差が生じることがあります。

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8502号車 飛鳥山 2013/8/3

1992年8502・85031993年8504・8505のそれぞれ2両ずつが増備されました。この増備車4両は前面の一部設計を変更し、新たに東京都のシンボルマークであるステンレス製の「いちょう」マークを装着したほか(8502・8503落成時に8501にも装着)、8503 - 8505には優先席以外の座席にもクロスシートが採用されました。車内中央部には折りたたみ式の補助椅子が設けられていましたが、後年撤去されました。8501で採用された1軸2ハンドルマスコンは、運転士が運転操作しにくいなどといった理由から、8502以降はマスコンとブレーキハンドルが別個の2ハンドル式が採用され、後に8501も同様に改造されました。また、後に集電装置をZ型パンタグラフからシングルアーム式パンタグラフに換装しています。

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線路は草ぼうぼうの学習院下付近を行く8504号車 2013/8/3

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同所はサンシャイン60を写し込める有名な撮影ポイントですね。 2013/8/3

以上、Wikipediaの記事を参考に纏めました。

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2013 夏 新潟の旅 4 新津区の気動車 その2 キハ110系

新津運輸区の気動車、今回はキハ100系・110系気動車のうち、キハ110、111、112形の車輌です。

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キハ110-202 新津 2013/8/8

これらの車輌は元来、老朽化したキハ20系・キハ45系などの取り替えとローカル線における輸送サービスの改善を目的に製造され、1990年3月10日に北上線でキハ100形、釜石線と山田線でキハ110形量産先行車がそれぞれ営業運転を開始しました。製造メーカーは富士重工業・新潟鐵工所です。

気動車ですが、車体と台車の軽量化を図り、高出力直噴式エンジンと効率の高い液体変速機との組み合わせにより電車並みの性能を有しています。ブレーキシステムも電車で実績のある応答性の高い電気指令式を使用しており、在来車とは連結器の形状が異なっているため、併結はできません。

急勾配の多い山岳路線ではこれらの車両の導入に伴い速度向上による時間短縮が実現されました。さらに冷房装置を搭載したことにより、夏期における旅客サービスの向上が図られています。

車内温度保持のために、客用ドアは半自動式であり、ドアの横に開閉スイッチが設置されています。また、ドアチャイムも搭載されています。

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キハ110-205 酒田 2013/8/9

<車輌形式>

片運転台車
キハ111形:20m級車体
キハ112形:20m級車体(トイレなし)

なお、キハ111形とキハ112形は1組で編成されています。ただし、幌アダプタなどを使用することで、1両単位で運用も可能です。

両運転台車
キハ100形:16-17m級車両
キハ101形:16m級(左沢線用)
キハ110形:20m級車体

新津運輸区に配置されている車輌はキハ110形・キハ111形・キハ112形の200番台です。

200番台は最も多く製造されたグループでキハ110形50両、キハ111・112形2両編成21本の計92両が製造されました。
そのうち、キハ110形14両とキハ111・112形2両編成3本の計20両は、秋田新幹線工事に伴い、田沢湖線が改軌などのため1996年3月30日から翌1997年3月21日までの約1年間全線運休になったため、同線を走る特急「たざわ」の代替手段として北上線経由で運転された特急「秋田リレー号」に使用された300番台の改造車です。ドアが引き戸式となりステップ高さも下げられました。

羽越本線、磐越西線、八高線、飯山線、陸羽東線、陸羽西線、米坂線に投入されました。2011年からは震災後に運行再開した仙石線陸前小野 - 石巻間でも、津波による電化設備損傷のため同線の205系に代わって運用されています。

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キハ110-215 佐々木 2013/8/7  キハE120との併結運用

<エンジン>

DMF14HZA(カミンズ製NTA-855-R4、連続定格出力420PS/2000rpm、連続定格時燃料消費率154g/PS/h、最大トルク168kgm/1250rpm)を1台搭載。排気量は14.032l、直列6気筒の直接噴射式で排気タービン過給器・吸気冷却器付きです。小型軽量のエンジンで、乾燥重量はキハ40系のDMF15HSAの2,720kgに対して1,365kgとなっています。

<トルクコンバータ>

DW14A-Bを1台搭載。変速1段、直結2段の多段式で、トルクコンバータは3段6要素であり、出足はよく、コンバータブレーキ機能も搭載しています。

<性能>

例えば50km/hでの動輪周引張力で比較すると、キハ110系は約1,300kgで、キハ20系の約600kgやキハ40系の約800kgと比較して大幅に向上しており、25‰で補機負荷100%・乗車100%でも60km/h以上の性能となっています。

<台車>

ボルスタレス式の空気バネ台車で、動台車は2軸駆動のDT58、従台車はTR242、基礎ブレーキはユニット式です。

<冷暖房>

冷房はコンプレッサを走行用機関で駆動する機関直結式のAU26J-A、暖房は機関の排熱を利用する温水・温風方式です。

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キハ111-201 新津 2005/3/24

<新津区投入の経緯>

1993年3月18日 キハ110系200番台を磐越西線・羽越本線・八高線に投入。
1993年12月1日 キハ110系200番台を磐越西線・羽越本線に投入。
                      これに伴い、磐越西線に投入された100番台6両が水郡線に転属し
                      水郡線全列車がキハ110系に統一。
1997年10月1日 秋田リレー用に使われたキハ110系300番台合計20両を200番台に改造し、磐越西線・羽越本線・飯山線に投入。

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キハ110-223 新発田 2013/8/7  この車両は300番台からの改造編入車です。

以上、Wikipediaの記事と「新潟県内を走る車両達」サイト様の情報を参考に纏めました。

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2013年8月14日 (水)

都営まるごときっぷの旅 その6 都電の車輌 8800形

都電シリーズ、今回は8800形です。

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8801号車 新庚申塚にて 2013/8/3

それまで使用されていた7500形は老朽化が進行しており、その置き換え用として、2008年1月9000形と別形式の「新型車両」として導入することが発表されました。

外観デザインについて、「荒川線の未来を開く、先進性と快適性」をコンセプトとした以下3つの案から公募投票が行われ、最多得票を獲得した1案のデザインが採用されました。

1.優しさと親しみやすさを表現した、丸みのあるデザイン。
2.スピード感とスマートさを表現した、曲面を使用したデザイン。
3.都会的イメージを表現した、直線基調のデザイン。

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8802号車 熊野前にて 2013/8/3

外観は、塗色が8500形までの緑・白基調のものと異なり、前面と側面上下縁辺にローズレッド・バイオレット・オレンジ・イエローのいずれかと、側面全体は白となり、前扉寄りに"Arakawa Line"のロゴが配置されています。客用扉は8500形・9000形と同様に、前扉が片開き・中扉が両開きの片側2扉となっており、扉上部には開閉時に赤く点滅する告知ランプが設けられています。客窓は荒川線では初めて横に長い大型窓が採用され、上部が引き違い式に開閉できるようになっています。

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8803号車 飛鳥山にて 2013/8/3 現在はラッピング電車に

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8804号車 同様にラッピング車として活躍中 2013/8/17 (2013/8/24追記)

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8805号、スカイツリーとのツーショット 2013/8/3

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短い区間ですが併用軌道から専用軌道へ、運転士さんは一番緊張する区間かもしれません ヴァイオレット塗装の8806号 2013/8/17 飛鳥山 (2013/8/24追記)

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なんとこの坂は66‰の勾配だと、「みんなの鉄道」では言ってました 2013/8/17 飛鳥山~王子駅前 (2013/8/24追記)

最初に落成した8801と8802の2両が2009年4月26日に運用を開始しました。2010年3月からは8803-8805が営業運転を開始、8806と8807は10月22日から、8808-8810は12月25日から営業入りして、予定の10両が揃いました。

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8808号車 大塚駅前での山手線E231系500番台とのコラボ 2013/8/3

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8809号車 飛鳥山 2013/8/3

車体のカラーリングに関しては京王井の頭線の3000系~1000系、JR東日本のE653系などと同じく編成単位で(都電の場合は車両単位ですが)カラーが異なり、

8801F~8805F ローズレッド
8806F~8807F バイオレット
8808F~8809F オレンジ
8810F  イエロー

となっています。

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「幸せの黄色い電車」都市伝説に基づき、東急世田谷線とも共同でキャンペーンが行われたそうですね。 荒川車庫 2013/8/3

残念ながら、8/3はバイオレット車は一度も遭遇出来ませんでしたが、今度見たら撮影して追記する予定です(8/24: 8/17に撮影した分を追加)。

以上、Wikipediaの記事を参考に纏めました。

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2013 夏 新潟の旅 4 新津区の気動車 その1 キハ40系

1975年新潟の旅では触れませんでしたが、今回の2013年夏の旅では、新潟を中心に各線の運用に活躍している新津運輸区(新ニツ)の気動車について触れようと思います。
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村上で上り特急「いなほ」と交換するキハ40+キハ47気動車 2013/8/7  奥の方には村上までの115系編成も見えます。

2012年の気動車・客車編成表によると、総数67両の配置があり、その内訳は

キハE120 8両 ワンマン 便所付 冷房
キハ110  16両  ワンマン 便所付 冷房
キハ111  3両  ワンマン 便所付 冷房
キハ112  3両   ワンマン 便所付 冷房

キハ40  10両 機関更新 リニューアル 冷房 500番台 4両
           機関更新 リニューアル 冷房 ロングシート 580番台 6両
キハ47  1両  便所付 
      12両  機関更新 リニューアル 冷房 便所付
       2両  便所なし 
      11両  機関更新 リニューアル 冷房 便所なし
キハ48  1両  機関更新 リニューアル 便所付

となっております。

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エンジン音などを聞いていると結構やばいのでは感じさせる老練なキハ47とキハ40の混成、混色編成で運用される羽越本線普通列車 2013/8/7 桑川

ワンマン対応グループのキハE120キハ110系は併結で運用され、ワンマン非対応のキハ40系グループは車掌乗務の列車に投入されています。運用線区はワンマン対応グループが信越本線、磐越西線(新潟~会津若松)、羽越本線(新津~酒田)、白新線、米坂線、ワンマン非対応グループが羽越本線(新津~酒田)、信越本線(新津~新潟)、磐越西線(新津~会津若松)となっています。

なかでも興味深いのが、羽越本線の交直接続のデッドセクションを跨ぐ新津~酒田間の運用はこれらの気動車がメインに投入されていることです。本来は全線電化区間ですから、電車が走って当たり前の線区ですが、交直両用車両として投入されているのは、特急「いなほ」の485系、寝台特急「あけぼの」「トワイライトエクスプレス」のEF81、JR貨物のEF81EF510、それと昨日ご紹介した「きらきらうえつ」の485系だけです。普通列車は115系、E127系が村上までは行ってますが、直流専用のため、50Hz交流区間の村上以北は入線できません。

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キハ40 502+キハ47 1518による編成 この編成が新潟を中心に北は酒田、磐越西線会津若松まで運用されています。 2013/8/8 新津

村上駅そばのデッドセクションは村上を出発してすぐの三面川の橋梁の手前にあるため、交流専用車両は村上駅に入線できません。もしも村上駅を東北本線の黒磯駅のような地上切り換え方式にして、直流専用ホームと交流専用ホームに分け、通過列車のためにデッドセクションも用意すれば、酒田まで来ている701系が村上まで来られることになりますが、費用対効果などを考慮するとなかなかそういった工事もされないのでしょうか。

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この赤メインの塗色は新新潟色というらしいですが、青森周辺で見られる赤塗色とは少し違います。 2013/8/9 余目

全国的に見ても肥薩オレンジ鉄道などが、第三セクター化後、この方式を採用していますが、高価な交直両用車両の投入は無理としても、駅の配線の改良で秋田の701系の運用範囲も拡大できると思うのですが。

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新潟駅8番線に入線した3色混成編成 2013/8/7

今回の記事ではこれらの気動車の中でも最も古いキハ40系の写真をアップしました。塗色は、3パターン存在し、青白赤の新潟色、赤白の新潟色、そして首都圏色<朱色5号>(通称タラコ色)です。

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そして日本全国でみられる首都圏塗色(タラコ色)のキハ40 2013/8/8 新津
1975年に大宮工場で相模線のキハ10系に試験採用したのが最初だったそうですね。

因みに、羽越本線の車掌乗務の列車の場合、村上~酒田間で車掌の仕事をみていると、下り列車の場合、まず村上を発車後、全乗客の乗車券をチェック、つづいて各駅に停車する毎に、乗ってきた客のところまで行って乗車券をチェックしておりました。もちろん停車駅毎に、ドアの開閉、安全確認を行いつつのことで、途中大半の駅が無人駅ですから、こうせざるを得ないのかと思いますが、結構大変な業務だなと感じました。

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2013年8月13日 (火)

都営まるごときっぷの旅 その5 都電の車輌 9000形

都電の話題、今回は9000形について触れようと思います。

昭和初期の東京市電をイメージしたレトロ車両として、2001年に運転を終了した6000形に代わる新イベント車両として、また7500形の老朽取り替えも考慮して、9001号の1両が新造され、2007年5月27日に運行を開始しました。
2009年1月31日にも9002号が営業運転を開始しています。

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都電唯一の併用軌道区間である飛鳥山~王子間 2013/8/3

全鋼鉄製の2軸ボギー電動客車で8500形と同様の車体寸法を持ち、入口が片開き、出口が両開きのドアの構造・位置も同様ですが、丸窓などレトロ車両(モチーフは明治から昭和初期の東京市電の車両)としての装飾が与えられているため、外見の印象は大幅に異なっています。

屋根は見かけ上二重構造とし、前照灯は丸形のものを窓下中央に1個、その他に補助灯として窓上部の端に2個配置しました。窓は前面窓は3枚窓、戸袋窓は丸窓で、その他の側窓も上部に丸みを持たせました。前面には7000形と同様にLED式の行先表示器を設置しているほか、右下にサボ受けが設置されています。塗色は上部がクリーム、下部がエンジ(9001号車)・ブルー(9002号車)のツートンカラーで、アクセントに金色の模様が施され、前面上部に東京都交通局の局紋が装飾されました。

9001号車は財団法人日本宝くじ協会からの公益事業への助成を受けて製造されたため、前面の右下には「宝くじ号」と表記されています。

集電装置はシングルアームパンタグラフを採用、空調装置は二重屋根になった部分に隠されている屋根上集中式、冷房能力は24.42kWで、7000形7500形と同一です。

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                  9001号車の台車は住友金属工業製のFS91-B

制御装置は8500形に引き続きVVVFインバータ制御が採用されていますが、素子方式は8500形のGTOサイリスタに代わってIGBTとされ、素子の冷却には床下機器のスペースが限定されるためファン使用の冷却方式を採用しました。

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祭りの提灯が季節を感じさせる大塚駅前を通過する9001号車 2013/8/3

ブレーキシステムは電気指令式電磁直通空気ブレーキ方式で、応荷重機能と回生ブレーキ・発電ブレーキ付きです。また、ブレーキ制御に回生ブレーキと発電ブレーキを併用する制御を採用し、回生負荷が足りない時に発電抵抗器によりエネルギーを消費することで、安定したブレーキ力を確保できるようにしました。保安ブレーキは平成13年関東運輸局通達に従い空気タンクと逆止弁などの二重化を図りました。2006年6月に発生した追突事故への対策として在来車に設置されたブレーキランプも設置されています。さらに速度40km/hを超過して加速することがないように速度リミッターを追加しました。

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尾久三丁目付近ですれ違った9001号車 2013/8/3

戸閉装置は空気式で、入口に片開き式で有効幅1000mmのY6形を、出口に両開き式の有効幅1300mmのY4形のものを採用しました。

主電動機の1時間定格出力は8500形と同じ60kWです。同形式と同じ自己通風方式のかご形三相誘導電動機を採用しています。駆動装置との結合は従来通りWN継手を採用、車両1両への搭載台数は2台です。

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飛鳥山電停に停車中の9002号 2013/8/13

車輪は丸リング付き防音一体圧延車輪であり、車輪径は新品時660mmです。台車はほぼ8500形式と同一の設計ですが、車両の床面高さを下げるため軸バネを少し固くしてバネの全長を短くすることで、8500形式と比較して4mmではありますが、床面高さを下げることができました。

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スカイツリーと都電のツーショットが可能なポイントとして有名な荒川市役所電停付近を行く9002号車 2013/8/3

以上、Wikipediaの記事を参考に纏めました。

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2013 夏 新潟の旅 3 E653系 K304編成

8月7日、笹川流れで有名な桑川駅で、上り普通列車の全く来ない3時間20分の間(11:23~14:43)に特急いなほが通過したり、貨物列車が3本通過、もしくは運転停車しましたが、一番驚いたのは、まだ常磐線「フレッシュひたち」仕様のままのE653系K304編成による臨時列車が上り下りと通過したことでした。

最初は上り列車で、桑川通過は12:33頃でした。

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桑川駅を通過するE653系K304編成 2013/8/7

恐らく9月から485系特急「いなほ」が順次E653系に置き換えられるのに備えて、勝田車両センターで運用に就いていないE653系が貸し出されて、乗務員の習熟訓練を行っているのでは思いますが、予期せぬものがいきなりやって来たのには驚かされました。私の勘違いで何か特別の臨時列車が設定されていたのであれば、お知らせ戴けると幸甚です。

その後、下り列車で今川駅に移動して撮影していたら、再び14:27頃のことでしたが、同じK304編成が下り列車として通過して行きました。

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今川駅を通過するE653系K304編成 2013/8/7

因みにすでにいなほ仕様に改装されているE653系1000番台U-101編成に関しては2013年6月29日に新潟車両センターに到着後、動きはあったかと思いますが、私が目撃した範囲では本線上での動きは今回の旅行中はなかったようでした。

新潟車両センターの様子は白新線の電車で新潟にアプローチする際に見ることが出来ますが、なんどか見た限りでは常にセンター内に停めてありました。

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特急「いなほ」485系からE653系になることを周知するポスターが沿線各駅に掲示されており、駅の電光掲示でもメッセージが流されていました。

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2013年8月12日 (月)

都営まるごときっぷの旅 その4 都電荒川線沿線探訪

8月3日の都営交通1日乗車券では、日暮里舎人ライナーを楽しんだあと、熊野駅で下車して都電荒川線に乗車することにしました。

都電の全盛期は41系統、総延長213kmの路線が存在しました。私の場合、小学校の頃で、親に連れられて乗った思い出や銀座通りなど走っている姿を見た憶えがあります。また比較的短期で消滅したトロリーバスも、どの区間だったかははっきり記憶していませんが乗った思い出があります。車体はバスですが、走行音はまさにモーターで動く電車で運転士さんがトローリー線から外れないように気にしながら運転していたのを良く憶えています。

1967年から1972年にかけて路線の廃止が進み、現在のように荒川線のみが残る体制になりましたが、これまでに東京以外のいろいろな都市で路面電車の乗車、撮影はしてきましたが東京都電はなぜか乗ったことがなく、撮影もせずに今日に至りました。

<都電の歴史:大方の路線廃止後から今日まで>

現在残っている都電荒川線は王子電気軌道によって敷設された路線を東京市が買収したものを端緒とし、都電27系統(三ノ輪橋 - 赤羽)ならびに32系統(荒川車庫前 - 早稲田)と称して2路線別箇に運行していました。

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地下鉄大江戸線都庁前駅で見かけた都営まるごと切符のポスター 2013/8/6

1960年代の交通渋滞解消政策ならびに赤字公共事業整理政策の推進にともなう都電廃止の流れの中、都電27系統ならびに32系統については、例外的に路線の大半が専用軌道であり、また当路線とほぼ並行している明治通りは渋滞が恒常的だったため、バス路線による運行代替では定時運行が困難であると判断されたため、沿線住民を中心とする利用客には当線の存続要望が強く存在していました。

当線に対する交通ニーズが高く黒字運営が見込めること、大半が専用軌道であるため交通渋滞を引き起こすことがまれで、路線の管理も比較的容易であることが勘案されて、1972年11月12日までに都電路線のほとんどが廃止された後も、当路線については北本通り上にあった27系統の一部(王子駅前 - 赤羽間)が廃止されたのみで、ほとんどが存続することとなりました。1974年、それまで別系統として運行されていた27系統と32系統を統合し、「荒川線」と改称しました。

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早稲田駅の荒川線路線案内 2013/8/3

1974年の「荒川線」改編直後の乗降客は1日平均約9万3千人でしたが、その後の沿線の事業所や教育機関の郊外移転にともなう交通総量の低下、当線沿線の交通ニーズの選択肢として対応する東京地下鉄千代田線・有楽町線・南北線・副都心線、日暮里・舎人ライナー開業による乗客分散により、乗客数は漸減し1日平均5万5,000 - 5万8,000人で推移、2006年度には5万3,000人台と1974年改編当初の約6割に、同じく2011年末の局公式統計では49,130人と5割2分にまで低下しています。ただ、当線沿線利用客がJR東日本各線に乗り換えることが多く、王子駅前と大塚駅前の両停留場においては時間を問わず乗降客が多数います。

<運行される車両>

現在、運行されているのは7000形、8500形、8800形、9000形の4形式で、7000形のみが荒川線が現在の形態になる前から使用されており、また都内で運用される唯一の吊り掛け式車両でもあります。

荒川線は総延長12.2km、停留所数30(起終点駅含む)の路線で、私の個人的な感想では、三ノ輪橋~熊野前、熊野前~王子駅前、王子駅前~大塚駅前、大塚駅前~早稲田の4区間に分けられるように感じます。乗客も上述のように日暮里舎人ライナーの接続駅熊野前、京浜東北線王子駅、山手線大塚駅での乗り換え客が多く、入れ替わる感じです。

今回の記事では停留所、車両、風景について触れて行こうと思います。まず第1回目は両終点の早稲田と三ノ輪橋です。

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新目白通りの真ん中に存在する早稲田終点 同じ終点でも土地柄でしょうか、早稲田の終点と三ノ輪橋の終点では雰囲気がだいぶ異なります。

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早稲田停留所のホーム、両終端とも出発ホームは単線に 2013/8/3

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こちらは三ノ輪橋の終点 なんともいえない下町的雰囲気が魅力 2013/8/3

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昭和の都電全盛期を彷彿させる板塀と停留所標識、さらに板塀には琺瑯製の看板が
2013/8/3

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昔はどこでもよく見かけた看板ですが、今では滅多に見かけなくなりました。

といったわけで、熊野前から早稲田まで通しで乗車した後、早稲田から、撮影ポイント毎に降りて撮影する旅を致しました。

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2013 夏 新潟の旅 2 きらきらうえつ

「1975年 新潟の旅」 シリーズでは一部の車両の改造の経緯については触れたものの、写真を撮っていなかったためにきちんと紹介が出来なかったのが、今回の記事で触れる「きらきらうえつ」です。

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笹川流れで有名な桑川駅に到着した「きらきらうえつ」 2013/8/7

2001年11月に土崎工場で改造された座席車のジョイフルトレインで、新潟支社が保有、新潟車両センターに所属しています。485系を改造した4両編成で、クハ485-701・モハ484-702・モハ485-702・クハ485-702で構成されています。

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桑川駅を発車する「きらきらうえつ」 なんとこの列車と同駅で交換する上り列車(824D)をやり過ごすと次の826Dまで約3時間20分、上り旅客列車は無し 2013/8/7

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酒田往復の帰り、余目駅で撮影した「きらきらうえつ」

 
酒田12:53発の826Dで戻る予定でしたが、「快速きらきらうえつ」の酒田到着時刻が12:51だったので、余裕を持って撮影するため、12:10発の鶴岡行き226Dで余目まで行き、撮影しました。羽越本線の場合、列車本数が少ないので時刻表を常にチェックしながら自分の移動と遭遇列車のことを考える必要があります。

<車両について>

座席車は1・3・4号車で全車普通車座席指定席。 シートピッチ970mm のリクライニングシートで、車いす対応座席や専用トイレも設置。2号車は和風ラウンジ・ミニビュッフェ・沿線情報や観光案内などの提供コーナーを設置しています。先頭車にはパイプベンチを備えた簡易展望スペースを設置。全車禁煙です。

クハ485-701・クハ484-702

種車の下回りを流用し、構体を新規に製造して載せ換えました。定員38名。トイレ・洗面所、パイプいすを備えた簡易展望スペースが設置されています。

クハ481-349→クハ485-701
サハ489-5→クハ481-753→クハ484-702

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                      車号表記 2013/8/9 余目

モハ485-701+モハ484-702

モハ485-702は3号車で定員40名、リクライニングシート装備の座席車で、業務用室・多目的室を設置しています。モハ484-702は4両編成の2号車の和風ラウンジカーでパンタグラフ部分低屋根化して狭小トンネル区間走行対応の1基搭載とした上で茶屋(ミニビュフェ)としたほか18名分のボックス席(フリースペース)と反対側車端部に映像ゾーンを持っています。

モハ485・484-1078→モハ485-701+モハ484-702

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「きらきらうえつ」の中間車 2013/8/9 余目

<運用について>

新潟駅 - 酒田駅・象潟駅間で土曜・休日を中心に運行される快速列車「きらきらうえつ」で運用されており、また時に団体臨時列車としても使用されることもあります。「乗ってうれしい・降りて楽しい」というキャッチフレーズが示す通り沿線観光が主眼に置かれ、停車各駅からの観光コースも設定されています。

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きらきらうえつの停車駅には独特の駅名標が設置されています。

快速「きらきらうえつ」の停車駅

新潟駅 - 豊栄駅 - 新発田駅 - 村上駅 - 桑川駅 - 勝木駅 - 府屋駅 - 鼠ヶ関駅 - あつみ温泉駅 - 鶴岡駅 - 余目駅 - 酒田駅( - 遊佐駅 - 吹浦駅 - 象潟駅《 - 金浦駅 - 仁賀保駅 - 西目駅 - 羽後本荘駅》)
括弧内は、7月より10月までの土日を中心に運転。二重括弧内は特定日に象潟駅より延長運転される区間。

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         停車駅の足元には停車位置案内の表示も

臨時運用

専用車両は「きらきらうえつ」以外に臨時列車や団体列車に使用されたこともあり、 団体列車では武蔵野線経由で京葉線東京や北陸本線・湖西線を経由してJR西日本京都に入線した実績もあります。

きらきら松之山(新潟 - まつだい間、北越急行ほくほく線に入線)
きらきらじょうえつ(上野 - 水上間)
きらきらあがつま(上野 - 長野原草津口間)
きらきらやまなし(新宿 - 甲府間)
塩山駅-甲府駅100周年記念(甲府 - 大月間)

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余目を発車する「きらきらうえつ」 次は終点酒田 2013/8/9

首都圏などへの入線経験も豊富なようですが、私はこれまで一度も遭遇しておりませんでした。

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2013年8月11日 (日)

2013 夏 新潟の旅 1 プロローグ

しばらく間が空きましたが、blogを再開します。

8月6日の夜、つくばを出発し、新宿より夜行バスで新潟へ、7日朝到着後、青春18切符を利用して初日は笹川流れの羽越本線桑川付近で列車撮影、2日目は越後線新潟~吉田間と、弥彦線、さらには新津へ、3日目は羽越本線を北上し、余目から陸羽西線を新庄まで、さらに戻って酒田まで行きました。4日目の午前中は新潟市内、信濃川の土手を歩き越後線の鉄橋で撮影、さらに新潟駅で「SLばんえつ物語号」の発車シーンを写した後、市内から東京に向かう高速バスで戻って来ました。

今回の旅では、置き換えの迫った485系、115系の各編成を冷房装置の違いなども考慮しながら撮影し、未乗だった越後線、弥彦線、陸羽西線の旅を楽しみ、1991年以来だった新庄では山形新幹線の終着駅の様子も撮影できました。

「1975年新潟の旅」シリーズで取り上げた形式を現在版としてフォロー出来ればと思い個別に記事にしてゆこうと思います。

一方、2013年7月27日の都電の旅の模様も忘れないうちに記事にしておこうと思いますので、こちらもアップします。

今まではキャノンEOS-40Dに70-200mmのレンズといった装備で出かけていましたが、これではスナップ撮影や広角撮影に難があったので、小さなデジカメとしてSONYのCyberShot DSC-WX170を購入し、サブ機として持って行くことにしました。

といったわけでまだ写真の整理も十分に出来ていないもので、まずは風景写真をアップしようと思います。

今回は新潟駅の現状をアップします。

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前回新潟を訪問したのは2005年3月のことでしたが、上の写真の様に万代口に関しては似た外観を保っておりましたが、ホームは大きな変化を遂げようとしていました。

万代口という名称は、信濃川にかかる萬代橋に由来しており、万代口正面の通りが萬代橋に通じております。現在の萬代橋は3代目で、初代は新潟市内の信濃川に架けられた初めての橋で1886年に竣工しましたが1908年の新潟大火で焼け落ちました。

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初代萬代橋の案内標識

二代目も1909年竣工の木造橋でしたが、交通量の増加に耐えるよう1929年に30m下流側に新たに竣工した3代目は鉄筋コンクリートアーチ橋となりました。

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現在の3代目萬代橋 2013/8/10

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萬代橋から見た新潟駅方向 8/9からの新潟祭りで警備の様子が見えます。

萬代橋の歴史によると1948年8月23日、現在の「新潟まつり」の前身にあたる「川開き」の2日目、信濃川では花火大会が開かれ、萬代橋周辺も大いに賑わったそうです。
午後8時55分頃、打ち上がり始めたスターマインを見ようと、観衆が一斉に下流側の欄干に殺到しました。欄干の空洞部には元々鉄柵が据え付けられていたが戦時下の金属供出によって撤去され、木柵に付け替えられていたため強度が低下しており、重みに耐えきれなくなった欄干は約40mに亘って落下、約100名の観衆が信濃川に転落して、死者11名、重軽傷者29名を出す大惨事となりました(万代橋事件)。

この事故以降、新潟まつりでの花火大会の際には、萬代橋など信濃川の橋梁上で立ち止まっての見物は禁止されており、この花火大会における橋梁歩道部の通行規制措置は新潟市全域で取られており、中には阿賀野川に架かるござれや阿賀橋と阿賀野川大橋のように、花火大会の開催中に歩道部を全面通行止とする例もあるとのことです。

1966年6月16日に発生した新潟地震においては昭和大橋の落橋した映像が象徴的に放映されるのをよく見ますが、萬代橋は耐震設計が功を奏して両岸部の地盤が約1.2m沈下し、取付部が破損したものの、橋梁部そのものは全体に約10cm沈降しただけで耐え抜いたそうです。

さて話を新潟駅に戻すと、現在、新潟駅は在来線部分の連続立体化工事の真っ最中です。

その一環として、在来線ホームのうち4号ホーム(6・7番線)は2012年11月3日新潟駅発の終電をもって廃止となり、11月4日未明から昼にかけて実施した仮設線切り替え工事の終了後、新たに1番線東側(新津・新発田方)を切り欠く形で設けられた頭端式の仮設ホームの供用を開始しました。この仮設ホームの番号は8・9番線で、最大7両編成の列車が発着可能です。

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8,9番線のある仮設ホームから工事中の旧6,7番ホームを見たところ

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1番線から新津方向に歩くと到達する仮設ホーム 旧6,7番線に続く8,9番線となっていますが、6,7番線の存在を知らないヒトには違和感のあるナンバリング

今回はここまでです。

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2013年8月 6日 (火)

都営まるごときっぷの旅 その3 北鹿浜公園のC50 75

見沼代親水公園に続いて、訪れたのは北鹿浜(交通)公園です。

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公園の案内図 尾久橋通りから歩いてくるとC50の姿が目に入り、すぐ公園だと気付きました。

西新井大師西駅で下車し、案内の情報によると駅から徒歩23分とのことでした。行き先を間違わないようにと駅周辺で地図を確認しましたが、見た限りの地図には公園の位置が示されていません。駅周辺の地図では圏外だったようです。このあたりは、東西に環状7号線、南北に尾久橋通りが走っているので、その座標軸を頭に入れて、西方向に向かえば間違いないと言うことで歩くことにしました。

(あとで気がついたのですが)公園を紹介するWEBサイトによれば、

・東武伊勢崎線西新井駅東口または日暮里・舎人ライナー西新井大師西駅よりコミュニティバスはるかぜ「鹿浜都市農業公園行」で「北鹿浜小南」下車徒歩2分
・東武伊勢崎線西新井駅西口より東武バス「鹿浜都市農業公園行」で「鹿浜中学校」下車徒歩3分

とのことでした、実際、歩いたら18分ほどで到着しました。

ここを訪れた最大の理由はC50 75号機に逢うためでした。

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<国鉄形蒸気機関車C50形について>

C50形は国鉄の前身の鉄道省が製造した旅客列車牽引用のテンダー式蒸気機関車で1929年 - 1933年にかけて、158両 製造されています。

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C50形のサイドビュー ランボードの段差や前縁との高低差を曲線で繫いでいるところや蒸気ドームと砂箱ドームが分かれているところに大正から昭和初期の蒸気機関車の形態的特徴が見えるように感じます。

車軸配置2-6-0 (1C) 型(モーガル)で、8620形をベースに、空気ブレーキと給水加熱器を標準装備して近代化を図りましたが、反面8620形で採用された島式心向キ台車(先輪と第1動輪を一体化して、第1動輪に横動を与える方式)は採用されず、エコノミー式となり曲線通過性能はその分低下しました。また、装備が増えた分、重量が増加し、牽引力は若干増しましたが、軸重が大きくなり、8620形ほどの汎用性は失われました。そのため68号機以降の2次形は、動輪軸重バランスの改善のため、動輪全体を200mm後退させる設計変更を行っています。制式のテンダー機関車としては最も小型で、C11形はC50形を基本にさらに小型タンク方式にしたそうです。

三菱造船所、汽車製造、川崎車輛、日本車輌製造、日立製作所の5社で製造され、鉄道省向けだけでなく、樺太庁鉄道向けにも4両(樺太庁鉄道8650形)が製造されており、1943年の南樺太の内地化にともなって鉄道省籍に編入され、C50155 - C50158となっています。

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C50 75号機のプレート 昭和四年 1929年、世界大恐慌で有名な年ですね。

製造年次ごとの番号と両数は次のとおりです。
1929年 : C50 1 - 66, 68 - 96(95両)
1930年 : C50 67, 97 - 142(47両)
1931年 : C50 143 - 145(3両)
1932年 : C50 146 - 152(7両)
1933年 : C50 153, 154(2両)

戦前は地方の旅客列車や小単位貨物列車など、軽量な列車の牽引に使用されましたが、牽引力が比較的ある反面、重量があるため取回しは8620形より悪く、テンダーに設置された給水加熱器も不調で、簡略化した先輪の構造からか脱線も多かったため、乗務員には評判が良くなかったそうです。そのため、C58形の増備とともに戦前の時点で第一線を退き、入換用となるものが多かったそうです。

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C50形に対する8620形とC58形の主に出力に関するデータを比較してみました。8620形に対してC50形は多少出力アップしたという感じですが、C58の登場で大きく進歩していることが分かります。

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以前は足立区中央本町公園にあったそうですが、現在も屋根付きの場所に保管されており、保存状態は外観から見る限りは良いようでした。

1933年6月時点におけるC50形の配置状況は、東京鉄道局28両(田端、大宮、小山、桐生)、名古屋鉄道局37両(静岡、浜松、米原)、大阪鉄道局25両(梅小路、明石、湊町、糸崎)、門司鉄道局35両(小郡、行橋、直方、鳥栖、早岐、浦上、熊本、鹿児島)、仙台鉄道局11両(盛岡、福島)、札幌鉄道局18両(小樽築港、岩見沢、札幌)で、四国を除く全国に散らばっていました。

1941年には、C501 - C505が軍の要請により供出され、海南島に送られることになりましたが、都合により台湾に降ろされ、台湾総督府鉄道で使用されました。太平洋戦争後にこれらを引き継いだ台湾鉄路管理局ではCT230型 (CT231 - CT235) となり、入換用として1960年代末まで使用されました。

本土に残ったC50形は2両が戦災により廃車され、1947年には147両が在籍していました。配置区は、苗穂、長町、小山、桐生、平、新鶴見、大宮、国府津、飯田町、静岡、浜松、稲沢、梅小路、吹田、亀山、姫路、岡山、広島、岩国、小郡、下関、行橋、鹿児島で、かなりの両数が入換用となっていました。

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入れ換え用に使われた際には、C56のように切り欠きタイプの方が視認性は良いのかも知れませんがC50の場合、テンダーは通常タイプでした。

営業用としては1968年の両毛線が最後で(ラッシュ時に間合いで旅客運用を持つものを除く)、最終廃車は1974年8月36号機でした。民間に払下げられたものはなく、また、C12形とともに梅小路蒸気機関車館の保存対象形式からも外されました。(以上、Wikipediaの文章を参考に纏めました)。

こういった経緯もあって、私にとって国鉄の蒸気機関車、8620、9600からC62,D62,E10までのなかでかなり印象の薄い機関車がC50でした。

今回、事前の情報収集で北鹿浜交通公園にC5075が保存してあると知って是非見ておきたいと感じた次第です。

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公園にあった説明板

なお、沖田祐作氏の機関車表による履歴データでは

川崎重工兵庫工場=1333 1929-12-07 S49.50t1CT(1067)
車歴;1929-12-07 製造→ 納入;国鉄;C5075→
配属;大阪局→1929-12-07 竣工[大鉄達乙2945]→
配置;大阪局(豊岡初配置か?)→1929-12-25 豊岡→1930-09-26 湊町→
1932-01-30 奈良→1933-01-11 湊町→1938-10-01 竜華→1941-09-20 亀山→1946-12-31 現在;亀山→1967-03-31 現在;亀山→1971-03-08
廃車;亀山→ 保存;東京都足立区「中央本町公園」;C5075

とのことで、大阪から関西地方で主に活躍したようです。

なお、C50形は全国に6両保存されており、

あとの5両は
C50 103 : 福島県南相馬市「野馬追の里歴史民俗資料館」
C50 123 : 栃木県小山市「駅東中央公園」
C50  96 : 静岡県焼津市「小石川公園」
C50 154 : 三重県亀山市「観音山公園」
C50 125 : 山口県柳井市「古開作児童公園」 にあるとのことです。

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公園の中にある交通広場入口の建物 交通広場への入場は無料、ミニ列車の乗車には切符の購入が必要で、この建物内部には鉄道模型のレイアウトなどもあったようです。

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交通広場を周回するミニ列車、牽引機はミニDE10でした。

北鹿浜交通公園はC50形が展示してある公園部分と交通広場があり、交通広場内には消防車の展示や、ミニ列車の周回軌道もありました。子供たちが交通ルールを学べるような施設となっていました。

なお、交通公園に関してはここに限らず多くの交通公園を訪問されて紹介されているサイトを偶然見つけました。

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さらに消防車の展示もありました。

といったわけで、日暮里・舎人ライナーに乗って足立区の二カ所の公園を楽しみました。次回は、熊野前で都電に乗り換え、久しぶりの都電荒川線の旅です。なお、明日から数日間旅に出ますので、updateはしばらく休みます。

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2013年8月 5日 (月)

都営まるごときっぷの旅 その2 見沼代親水公園

日暮里・舎人ライナーの乗車にあたって予め沿線のポイントを調べておきました。

情報は都交通局のサイト、日暮里・舎人ライナーのページの「歩こうあだちおでかけマップ」の情報を参考にしました。

まずは終点の見沼代親水公園駅で下車し、駅名と同じ「見沼代親水公園」を訪れました。

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場所は駅階段を下りたところに掲示されてあった足立区西部観光地図で確認することが出来ました。130803_10
公園入口は駅のすぐ横といった感じでした。

もともとは農業用水が流れていた場所だったそうですが、水を浄化して1.7kmに渡って流す公園にしたそうです。

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流れにそっていろいろな趣向を凝らした素晴らしい親水公園となっており、水辺で涼を楽しむ人々や、ザリガニ、ドジョウとりに興じる子供たちの姿がありました。

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2013年8月 4日 (日)

都営まるごときっぷの旅 その1 日暮里舎人ライナー

この週末は「都営まるごときっぷ」で未乗車だった日暮里・舎人ライナー乗車の旅と、久しぶりの都電乗車を楽しみました。

1都営1日乗車券は乗車する日に主要駅の自販機で購入可能で、私は日暮里・舎人ライナーの日暮里駅で購入しました。700円で、日暮里・舎人ライナー、都営地下鉄、都電、都営バスが乗り放題です。

まずは日暮里・舎人ライナーに乗ってみることに致しました。

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日暮里駅の券売機

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日暮里駅の改札口

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ホームはガラス張りでゆりかもめとよく似た感じですね。

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300形 車内の様子 最近のJRの通勤電車になれてしまうと車体幅が狭く感じます。座席はクロスシートとロングシートですが、クロスシートは向きが固定されていました。

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新交通システムらしく乗務員はなし、運転士もいない最前の座席から見ていると30m半径のカーブを曲がって03編成が到着しました。

案内軌条式鉄道(新交通システム)路線で、東京都荒川区の日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅を結んでいます。なお、都市計画事業としての名称は、東京都市計画道路特殊街路新交通専用道第2号日暮里・舎人線および東京都市計画都市高速鉄道日暮里・舎人線だそうで、2008年3月30日に開業しました。

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最初のうちはビルの合間を進むような雰囲気でした。 日暮里~西日暮里

東京都交通局では、従来から現在の日暮里・舎人ライナーと同じ区間(一部は足立流通センター付近を経由)で都営バスの里48系統(日暮里駅 - 見沼代親水公園駅)を運行していました。

このバスは、最寄りの東武伊勢崎線・大師線やJR京浜東北線、東京地下鉄南北線など既存鉄道の最寄り駅から離れている足立・荒川区の都市計画道路放射11号尾久橋通り(東京都道58号台東川口線)沿線の住民をJR線駅へ直結する通勤・通学の足として、大変な混雑を呈していた一方で、足立トラックターミナル(1977年開設)・北足立市場(1979年開設)・足立流通センターなどの輸送を担う尾久橋通りはトラックなど大型車の通行量が多く、慢性的な渋滞が発生してバスの定時運行が困難な状況がしばしば発生し、定時運行・大量輸送が行える何らかの鉄・軌道輸送が望まれていました。

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やがて周りのビルの数は少なくなり、足立区をひたすら北へ進むといった感じでした。

1985年7月の運輸政策審議会答申第7号「東京都における都市高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」においてほぼ都営バス里48系統の路線を中量輸送機関に置き換えるべく位置付けられたものです。当初は地下鉄7号線(現在の南北線)の一部として計画されていましたが、財政問題や採算性などから尾久橋通り上の新交通システムに変更されました。なお、財政状況などから、軌道事業特許は1995年、工事施行認可は1997年と大幅に遅れ、一方で事業主体の決定や荒川区側の用地買収に時間がかかったこともあり、開業は当初計画されていた1999年から2002年度、さらに2008年3月30日と、2度にわたって延期されました。

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日暮里から20分、13駅目の見沼代親水公園駅で終点となります。

支柱や桁といったインフラ部は都市計画道路事業として東京都建設局が、軌道や駅舎などの鉄道施設は都市計画都市高速鉄道事業として都営地下鉄大江戸線の環状部分の建設を担当した東京都地下鉄建設が建設する方式を採用しました。

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終点では高架橋が突然終わっており、実は下の尾久橋通りもあと300mくらいで東京都から埼玉県草加市に入り、道路の名称もかわるようです。

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              都県境から尾久橋通り

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これより先は埼玉県草加市

開業後の運営主体は東京都地下鉄建設が予定されていましたが、採算上の観点および都営交通ネットワークの充実を図る目的から、東京都交通局が軌道事業の特許を同社から譲り受ける方向で検討され、運営も同局が行うことが決定しました。

路線名については、東京都交通局および東京都地下鉄建設が2006年8月15日 - 31日に一般公募を行い、選考委員会の審議を経て日暮里・舎人ライナーと決定、同年11月13日に駅名とともに報道発表されました。

路線データ

区間:日暮里 - 見沼代親水公園 9.7km(建設キロ9.8km)
案内軌条:側方案内式
駅数:13駅(起終点駅含む)
複線区間:全線
電気方式:三相交流600V・50Hz
車両基地所在駅:舎人公園駅
最高速度:60km/h
所要時間:20分
表定速度:28km/h
最急勾配:50‰(扇大橋 - 足立小台間)※ただし入出庫線上に65‰の区間あり
最小曲線半径:30m(日暮里付近)

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途中の舎人公園ではなにやら中線のような線があり、恐らく検車区への連絡かと思われました。

車両

300形は、前面デザインが若干異なるが、ゆりかもめ7000系の6次車にも通じるデザインです。なお、当初はロングシートを主体に採用することが予定されましたが、後にクロスシート主体に変更されました。これは、ロングシートにすると定員以上の乗客が列車に乗り込んでしまうため、安全上の措置と発表されました。しかし、日を追うごとにラッシュ時の混雑が激しくなってきたため、2009年8月29日のダイヤ改正に併せてロングシートを一部採用した新型車両の導入が発表されました。既存の車両も新型車両の仕様に準じたロングシート化が行われ、2011年12月3日のダイヤ改正にて全編成へのロングシート改造を完了しました。

今回はここまでで、明日の記事では見沼代親水公園について触れる予定です。

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2013年8月 3日 (土)

1975年 新潟の旅 23 碓氷峠の補機 EF63 その4

EF63形電気機関車、今回は第三次車です。

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169系を推進して、熊の平を通過する24号機重連

番号    メーカー     予算           製造年   廃車

22, 23             昭和49年度第1次債務  1974年   

     川崎重工業                                                        1997年
     富士電機         

24, 25           昭和50年度第2次債務    1976年

1974年と1976年に増備されたグループです。

形態的にはナンバープレートがブロック式に、尾灯が外ハメ式に変更されました。これは同時期に製造された電気機関車、例えばEF65形1000番台ED76形EF81形でも見られた変化です。
水切り形状も再度変更されました。碓氷峠を通過する気動車運用は無くなったため、気動車用ジャンパ連結器は未装備となりました。
24・25は、1975年5・9が脱線大破事故で廃車となったため、補充代替として1976年に急遽製造された。22・23の主電動機送風機は20と同じ試作型送風機、24・25は21と同じ音域の低い送風機が装備されていました。

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尾灯の形がそれまでと異なる24号機 189系特急「あさま」のエスコート仕業に

<信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故>

上り線で、単行機関車列車(回送列車)列車番号単5462列車(4両編成、EF63 5, 9+EF62 12, 35)が下り勾配でブレーキが利かなくなり、スピードが超過したため、脱線転落した事故。乗務員3名が重軽傷を負いました。

事故がおきたのは、1975年10月28日の午前6時16分ごろです。信越線上り線第一トンネル内で暴走し、出口付近で脱線した後、転覆・転落しました。

この区間は、最大66.7‰R350の急勾配、右カーブのため、下り勾配を走行するEF63は、抑速ブレーキを作動させながら、列車が過速度で暴走しないように下りて来ます。最高速度は旅客列車40km/h, 貨物列車25km/hに制限されており、機関車の回送列車である当該列車は貨物列車と同じ扱いで25km/hの制限によって走ることになっていました。ところが何らかの原因でこの過速度検知装置 (OSR) が正常に作動しなかったものと見られ(機関士が誤って旅客列車側にスイッチを入れていたとの説もあります)、制限速度を大幅に超過して坂を下り、トンネル内壁に傷をつけるなど暴走した後に脱線・転覆しました。

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489系上り特急「白山1号」をエスコートして熊の平のトンネルから出てきた25号機他重連

この事故の際、機関士は最終手段である電機子短絡スイッチによるブレーキも使用していましたが、それでも下り坂で暴走する列車を止めることはできなかったとのことです。急勾配の恐ろしさを関係者に知らしめた事故でありました。
この事故により、EF63全車両に設置されている過速度検知装置 (OSR) をより強固なものに変更する検討がなされましたが、過密ダイヤをさばくには横川駅付近の緩勾配区間を速やかに通過することが求められました(この付近ではOSRを切って運転される)ため、強制的な速度制限機能の付加は見送られました。

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引退後も短距離走行ではあるものの動いている25号機 2005/8/16 碓氷峠鉄道文化村

ちょうど、私が1975年11月の水上、柏崎方面の旅行に出かける、一週間前の出来事でした。

1970年代から80年代にかけての碓氷峠での撮影は両親が遺した北軽井沢にある別荘への往復で立ち寄った際に撮影したものですが、両親の没後、行くことも殆どなくまた碓氷峠自身が廃線となった今日ではますます足が遠のいてしまいました。

碓氷峠鉄道文化村や地元自治体に碓氷峠の鉄道復活の動きがあるというニュースも聞いていますが、観光鉄道として復活できれば嬉しいものの、そこにいたる道のりは結構険しいのかなとも感じます。

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2013年8月 2日 (金)

1975年 新潟の旅 23 碓氷峠の補機 EF63 その3

EF63形、今回は第二次車です。

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麓側に14号機繫いだEF63重連

番号   メーカー      予算            製造初年     廃車

14 - 17 東芝       昭和40年度第2次民有       1966年    1986年(14・余剰廃車)
                                                                           1997年
     
      
18, 19 川崎車両
     川崎電機   昭和41年度第2次債務       1967年     1997年            

20, 21   川崎重工業  昭和43年度第4次債務       1967年    1997年
      富士電機

14号機から21号機までで、1966~67年に製造されたグループです。

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上記の重連がEF62が本務機を務めるサロンエクスプレス「そよかぜ」と3重連を構成して碓氷峠を下る

外観上の最大の変化は尾灯で先行試作車・1次形と異なり外周に赤色円板を装備しない形状へ変更されました。

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EF63 16+6の重連が189系特急「あさま」をエスコートして碓氷峠を下る 熊の平

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こちらは19号機他の重連にエスコートされた489系特急「白山」

運転台上の水切り形状、屋根上の避雷器の位置が中間に統一されました。車体塗色も当初から「青15号(青色)」と「クリーム1号(クリーム色)」の塗り分けになりましたが、14・15の落成時はクリーム色の塗装範囲が若干他機と異なっていたそうです。 16以降は非常用蓄電池搬入口上部に製造当初から水切りを追加、20・21では主電動機送風機が変更され低騒音化が図られました。

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20号機 熊の平

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21号機 軽井沢

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2013年8月 1日 (木)

1975年 新潟の旅 23 碓氷峠の補機 EF63 その2

碓氷峠専用の補機EF63形、今回は第一次車について、見てゆこうと思います。

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169系急行の姿も見えますが、2号機の重連 軽井沢

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         横川駅側に展示されている3号機の動輪

2号機から13号機が該当し、1963年に製造されたグループです。

番号       予算     メーカー    製造初年      廃車 

2 - 6    昭和37年度民有  東芝                  1975年(5・事故廃車)
                                       1997年
                           1963年

7 - 13   昭和37年度債務 新三菱重工業
                   三菱電機              1975年(9・事故廃車)
                                       1997年

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EF63 6 重連

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6号機を含む重連が189系特急「あさま」を従えて碓氷峠を下る 熊の平

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7号機の重連 連結器周辺の厳めしさがよく分かります。 軽井沢

形態的特徴は前面窓のワイパーの形状が変更されたことと、運転台窓上にツララ切りを追加装備し、スカート形状は四角形となりました。また先行試作車の運用実績に基づき速度検知用遊輪の設計と装備位置が変更となり(中間台車の内側に装備)、側面に設けられた非常用蓄電池搬入口の位置も変更され、大型化されました。本グループまでが「ぶどう色2号(茶色)」で落成しました。

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EF63台車に装備された速度検出用の遊輪 2005/8/16 横川

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8号機の重連 軽井沢

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廃車後も碓氷峠文化村で庫内に展示されている10号機 2005/8/16

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2005年頃は横川駅にEF63 11, 12 189系あさま色の編成(クハ189-505)などが停められていました。 2005/8/16

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このロット最終番号となった13号機の重連

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13号機はカットモデルとなって大宮車両センター内に展示されています。 2005/5/28

写真の撮影年代が不明で恐縮ですが、晩年装備されたアンテナがないことから、1970年代後半から、80年代初期であることは確かです。いずれ分かったら追記する予定です。

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