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2013年9月30日 (月)

休日おでかけ切符で高崎線沿線へ その1 深谷編

本来なら、新潟の旅シリーズEF510の順番ですが、2013年9月28日土曜日は高崎線沿線の保存蒸気機関車取材の一環で、深谷、熊谷、行田、鴻巣を旅しましたので、その記録を纏めようと思います。目的はなんであれ、初めて行く土地をぶらぶら散策し、いろいろなものを観ること、発表するためにいろいろと調べることは将来何か役に立つ気もします。

常磐線で上野まで出て、高崎線快速アーバンでまずは深谷に向かいました。快速アーバンは1989年3月11日のダイヤ改正で登場し、登場時の停車駅は上野駅 - 赤羽駅 - 浦和駅 - 大宮駅 - 上尾駅 - 桶川駅 - 鴻巣駅 - 熊谷駅 - 深谷駅 - 本庄駅 - 新町駅 - 高崎駅 - 新前橋駅 - 前橋駅でした。

高崎線はこれまでに何回も乗車していますが、熊谷以外、途中駅での下車経験は殆ど無く、深谷駅で降りるのも初めてでした。目的は駅の南約2km、ちょうと上越新幹線の高架のそばに位置する仙元山公園に静態保存されているD51 885号機を観ることです。

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深谷駅の上り線ホームの駅名標 2013/9/28

深谷といえば、「深谷ねぎ」が有名ですが、我々の年代だと「荒船清十郎の急行停車」を思い出します。1966年のことだったのですね。

さて深谷駅に降りて最初に驚いたのは駅舎です。

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秋晴れの青空に映える赤煉瓦風の深谷駅舎

ご覧のような東京駅赤煉瓦駅舎を少し小さくした駅舎が橋上駅構造の上に建てられています。「ミニ東京駅」と呼ばれているそうで、大正時代に竣工した東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷に所在する日本煉瓦製造で製造された煉瓦が70キロ以上離れた東京駅まで鉄道輸送されて使われたという史実に因んでのことなのだそうです。

ただし、この深谷駅舎自体はレンガ構造ではなく、コンクリート壁面の一面にレンガ風のタイルを貼った構造です。

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今回、駅の北側には行きませんでしたが、南側は唐沢川が流れ、川に沿って桜並木が存在します.桜が満開の頃はさぞ綺麗なのではと思います。来春にでも訪問したく思います。また架かっている橋も一つ一つ意匠が凝らしてあるように感じました。

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唐沢川にそって瀧宮神社があります。秩父山地に降った雨が荒川を流れ、櫛引台地に浸透した水が湧き水となって台地の北端であるこのあたりで地上に現れているそうです。大昔から人々が生活を営む場所だったそうで、住居跡や多くの土器が掘り出されているそうです。その湧き水を龍に因んで「瀧の宮」と称して神社を祀ったのが始まりだそうです(瀧宮神社のWEBサイトの記述から抜粋)。

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神社の前を通り、線路に直角に南下する道(県道62号線:深谷寄居線)を2km弱歩くと、仙元山公園の北西側の入り口に到着します。

ここは標高98mの「丘陵型ミニ森林公園・仙元山」の北西側の入口で山頂に続く長い階段があります。

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山頂には浅間神社があります。

創建年代は不詳ですが、南北朝時代にはすでに存在したようで、御祭神は、天孫「ニニギの尊」の妻で、海幸彦と山幸彦の母の「木花開耶姫命」であり、ほかに6柱の神が祀られています。
 古くから安産の神として、近在ばかりか相当遠くの人たちの厚い信仰を集めて、安産講の組織も存在したと言われ、また、養蚕守護の御利益もあったといわれています(深谷市総合体育館/深谷ビッグタートル案内のWEBサイトから抜粋)。

来た方向とは違う方向に,新幹線の高架線の方向に山を下ると、昌福寺の墓地があり、そこには曼珠沙華(彼岸花)の群生がありました。

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お彼岸からは一週間過ぎていますが,この季節に咲く曼珠沙華をみると何か独特の気分になります。

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仙元山公園の南の端にある昌福寺

創建は室町時代中期の深谷城主「上杉房憲公」で、江戸時代には寺領20石を拝領していた名刹です。ご本尊はお釈迦様で、永平寺・道元禅師と草持寺・蛍山禅師を宗祖に仰ぐ曹洞宗の禅寺であり、開山は御嶽永源寺3世・漱恕全芳禅師で、もともと上杉家父祖の冥福を祈るため創建され、「人見山」と号されています(深谷市総合体育館/深谷ビッグタートル案内のWEBサイトから抜粋)。

実はこの頃になるといつもなら見えるはずの黒い物体の姿が見えないのに若干の焦りさえ感じ始めていました。なにせ駅から2km以上歩き、標高98mとはいえ、山越えまでしてやって来てお目当ての黒い物体を観ないで帰るわけにはいけないと感じていたからです(笑)。

その黒い物体方は公園内に綺麗に整備されて展示されていました。そのことは公園保存蒸気シリーズで紹介するとして、無事観察を終えて,今度は東側の道を北上して駅まで戻りました。

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駅までの道すがら、宅地造成もかなり進んでいましたがまだ畑地として残っている場所もあり、そこにはご当地名産の「深谷ねぎ」が栽培されていました。

Wikipediaによると「深谷ねぎ」がはじまったのは明治以降の100年のことで、現在は深谷市のみならず妻沼、本庄、上里でも生産され「深谷ねぎ」として出荷されているそうです。特に利根川右岸に広がる妻沼低地は肥沃な沖積地で耕土が深く、加えて冬の日照期間が長いためにじっくり生長するなど、地質・地形・気候面でねぎ栽培に適しているとのことです。

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2013年9月29日 (日)

西武鉄道 赤電の時代 クモハ351形 多摩湖線

西武鉄道の赤電時代を懐かしむシリーズ、今回はクモハ351形の晩年、多摩湖線時代の活躍の様子です。

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国分寺~一橋学園間の本町信号所をゆく351形3連 1980/5/18

本町信号所は1966年に小平学園駅と一橋大学駅の統合により、国分寺~一橋学園間で朝夕のラッシュ時に一駅のみの区間列車設定されるようになり、列車交換場所が必要となって設置されました。しかし、2013年3月16日のダイヤ改正で一橋学園駅発着の区間列車が消滅したため、定期ダイヤでの交換は消滅しました。

1973年6月355編成サハ1415・1416が編成から外され、代わりにサハ1311形サハ1336を組み込んで3両編成化され、多摩湖線専用編成となりました。さらに1976年7月から8月にかけて、351・353編成も中間サハを編成から外してサハ1311形1313・1314を組み込んで3両編成化の上多摩湖線へ転用され、同線区で運用されていた311系・371系を淘汰しました。

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小平駅待避線で休む351形3連 1980/5/24

なお、本系列は1968年頃からの修繕工事によってCPおよびMGを撤去していたことから、編成替えに際してサハ1313・1314・1336の各車には新たにMG(日立製作所HG-534-Mrb, 出力12kVA)とCP(MH16B-AK3, 容量990l/min)2基が搭載されました。

しかし、他編成についてはこのような転用改造を施工されることなく、1976年クモハ358を皮切りに廃車が開始されました。淘汰の途上においては中間サハを廃車して固定編成を解消し、451系の編成替えに伴って余剰となったクハ1411形と新たに編成された車両も2編成(クモハ357-クハ1448・クハ1447-クモハ360)存在しましたが、最終的には前述351 - 355編成以外は1980年までに全車廃車となりました。

残存した351 - 355編成は、多摩湖線国分寺駅が構造上ホーム有効長の延長が不可能であり、17m車3両編成の入線が限界であったという特殊性から、他の20m級車体の吊り掛け駆動車各系列が大量に廃車となる中にあって、多摩湖線専用編成として運用を継続しました。1979年には低圧電源の交流化・床のロンリューム化・車内壁面のアルミデコラ化が施工されています。

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所沢付近にて 1981/3

また、1985年4月のダイヤ改正より、西武ライオンズ球場(現・西武ドーム)におけるプロ野球公式戦開催日には国分寺 - 西武遊園地間に臨時の準急列車が運行されました。同運用は主に本系列によって運行されたため、本系列のみならず吊り掛け駆動の「赤電」による久々の優等列車運用として注目を集めました。

因みにこの頃の西武ライオンズ1982年の広岡監督の最初のシーズンで前期優勝を果たし、後期優勝の日本ハムを,当時は江夏豊投手が抑えで活躍していましたが、大田卓司選手の活躍等で3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成、日本シリーズでも審判にボールが当たるといったラッキーなハプニングにも味方され、中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成しておりました。

1983年は序盤から首位を独走、86勝40敗4分の圧倒的な成績で2年連続リーグ優勝、日本シリーズも4勝3敗で勝利し、広岡監督の「これで漸く全国区になれました」の言葉も出て、2年連続日本一を達成しました。

1984年のシーズンはベテラン選手の衰えもあり、3位(優勝は阪急ブレーブス)に終わり、シーズン終了後、田淵幸一選手が引退しました。

1985年は後に楽天の初代監督となった田尾安志選手の中日からの加入、秋山幸二外野手、渡辺久信(現監督)、工藤公康投手などの活躍でリーグ優勝はしましたが、日本シリーズではバース、掛布、岡田の強力打線に圧倒され2勝4敗で阪神タイガースに敗れ、シーズン終了後、広岡監督が辞任、森昌彦ヘッドコーチが監督に就任しました。この後、森祇晶監督の1994年まで9シーズンは8度のリーグ優勝、6度の日本一と黄金時代が到来しました。

1983年4月からはつくばに移り住んでおり、それ以前は駅にライオンズの試合経過を示すスコアボードが表示され、勝ったときはいつまでも残っていましたが,負けた試合ではすぐに消されていたので大本営発表(実際に経験はしていませんが)みたいだなと思っていました。

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萩山駅に到着する351形3連 1980/8/12

野球の話に脱線しましたが、大型車入線の障壁となっていた多摩湖線国分寺駅の新ホーム完成に伴って20m車の4両編成が入線可能となると、必然的に351形3両編成の存在意義は失われました。1990年6月には全編成に引退記念のヘッドマークが装着され、新ホーム利用開始前日の6月23日に行われたさよなら運転を最後に運用を離脱し、30日付で全車廃車となって形式消滅しました。

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2013年9月28日 (土)

西ベルリンの思い出 パンナムのA300 N202PA その1

西ベルリンのテーゲル空港で撮影した旅客機を振り返るシリーズ、今回からはPAN AMのA300です。

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N202PA (cn 195) ''Clipper America'' Airbus A300B4-203 1989/6/25 TXL

撮影リストを調べたところ、N202PAの1機のみの撮影ですが、いつものようにA300とは、PAN AMのA300フリートは、などと話を展開する予定ですので、複数回に分けて行こうと思います。

まずAirbus A300型旅客機ですが、国際共同会社のエアバス・インダストリー社が1970年12月の会社設立後、最初に開発した旅客機で、300の数字は、座席数300席を意味しており、航続距離は3,000kmと設定され、1972年10月28日に初飛行しています。

コンセプト上の機体サイズは1966年アメリカン航空のFrank Kolkの構想にによるBoeing 727の置き換え用に250~300席ワイドボディの短中距離仕様のアメリカ大陸横断可能なもので、L-1011DC-10と実質的に同等であり、双発機としては後に登場するBoeing 777-200に近い大型機でした。しかし複合材製のファンブレードであるHyfilに起因する不具合によるロールス・ロイス製RB211の開発遅延の影響を受け、当初装着するエンジンとして想定していたRB207が開発実現の見込みが立たなくなったために、GE製 CF6-50エンジンの双発に改めることとなりました。それに伴って機体サイズを縮小することとなり、A300Bとして開発されました。

1972年10月28日に原型機のA300B1が初飛行を行いました。初の量産型のA300B2は、A300B1の胴体を2.65m延長したものであり、1973年6月28日に初飛行を行いました。

当初は10数機しか発注が無く、苦戦が続きました。当時はアメリカのマクドネル・ダグラスDC-10やロッキード L-1011 トライスター、ボーイング747が熾烈な販売競争を展開しており、新興のエアバスはそれらより販売開始が遅い上、初期導入のA300B2は航続距離が短く大西洋横断無着陸飛行が出来ないことなどから、ヨーロッパの航空会社でもエアバスを採用しようというところはほとんどありませんでした。

しかし、粘り強く売り込みを続け、当時のアメリカの4大航空会社の一つだったイースタン航空に無償で貸与すると、三発機のトライスターなどよりも燃費が良く効率的だとの判断が下り、採用に至ったため、アメリカでも売れ行きが伸びはじめ、アメリカン航空パンアメリカン航空などの他の大手航空会社も相次いで導入し、最終的に200機以上を売り上げることに成功しました。

また、ルフトハンザ航空イベリア航空スカンジナビア航空などのヨーロッパの航空会社や、東亜国内航空大韓航空、タイ国際航空などのアジアの航空会社にも導入され、国内線や近距離国際線を中心に運航されました。

1980年代に入り、派生形のA310のライバルとしてボーイングからセミワイドボディ双発機のBoeing 767が発売されたことや、より大型のBoeing 777の開発が開始されたことなどを受け、1990年代初頭に、A300の胴体を延長し、最新のテクノロジーを投入したA330が開発されました。その後販売の主力がA330に移ったことなどにより、2007年7月11日に最終号機がフェデックスに引き渡され、生産が終了しました。

技術的特徴

1960年代に計画が開始された超音速旅客機コンコルドから派生した、いくつかの最新の技術を使用しており、その注目点は、デ・ハビランド(後のBAEシステムズ)によって進歩した翼で卓越した経済的な性能の翼部分(リア・ローディング翼型、スーパークリティカル・ウィング)から構成されており、進歩した航空力学的に実効力のある飛行制御を組み合わせているそうです。構造は重量軽減のため、「金属鋼片」(メタル・ビレット)でできており、ウィンド・シアを「ウィンド・シア警報装置」により制御した最初の航空機でもあります。

真円形の胴体にBoeing 747用のLD3コンテナを並列に搭載可能な設計のため、他の機体と比較して、床下の貨物室が広く、旅客スペースは窓側と天井付近がやや狭くなりました。LD3コンテナの並列搭載が可能なことから、旅客型から貨物型へと改造された機体もかなりあります。

派生タイプ

A300B1
原型機。生産機数2機。最大離陸重量132,000kg及び220kNの推力を得られるゼネラル・エレクトリック製CF6-50A型エンジンを装備し旅客数259座席の設備でした。2機のうち1機(F-OCAZ)は航空会社に引き渡されず、エアバスの試験機として一生を過ごしました。

A300B2
初期量産型。227kN及び236kNの両方の推力を得られるゼネラル・エレクトリック製CF6型プラット・アンド・ホイットニー製JT9Dエンジンを使用。1974年5月にローンチカスタマーのエールフランス航空に引き渡されました。航続距離は1,850km(1,000NM)。日本では東亜国内航空1981年3月に初めて就航させました。同社が就航させた機体はすべて離着陸性能を向上させるため、主翼前縁下面のパネルが前方展開するクルーガーフラップを装備したA300B2Kでした。

B2 type内での細かな違い,最大離陸重量と着陸重量(燃料0の重量)でタイプが細分化されています。

A300B2-100: 137 Metric Ton MTOW
A300B2-200: 142 Metric Ton MTOW, with Krüger flaps.
A300B2-300: increased Maximum Landing Weight/Maximum Zero Fuel Weight

MTOW: Maximum Take Off Weight

A300B4
最大離陸重量を157トン(のちに165トン)へ増加した航続距離延長型。初期生産では主流はB2型からB4型へと移りました。B2/B4型の生産は総数248機となりました。航続距離4,070km(2,200NM)。

B4 type内での細かな違い

A300B4-100: 157.5 Metric Ton MTOW.
A300B4-200: 165 Metric Ton MTOW.

N202pa_cn_195_clipper_america_air_2
N202PA 1989/6/25 TXL

A300FFCC

最初の2名パイロット航空機。初めにガルーダ・インドネシア航空及びヴァリグ・ブラジル航空へ引き渡されました。

A300F4 貨物型(旅客型からの改造のみで新造はなし)

A300C4 貨客混載/転換型

A300 ZERO-G
各種改造によりパラポリック・トラジェクトリ(放物線飛行)を行い、マイクロ・グラビティー(微重力)状態を客室で再現できるようにした機体。(エアバス社の社有機であるA300の3号機を使用)

TYPE             エンジン                耐空証明取得
A300B2-1A        GE     CF6-50A             1974
A300B2-1C        GE     CF6-50C             1975
A300B2K-3C      GE     CF6-50CR           1976
A300B4-2C        GE     CF6-50C             1976
A300B4-103       GE     CF6-50C2           1979
A300B4-120       P&W JT9D-59A             1979
A300B2-203       GE     CF6-50C2            1980
A300B4-203       GE     CF6-50C2            1981
A300B4-220       P&W JT9D-59A              1981

A310のときと同様に、A300-600以降の派生型については別記事で触れる予定です。

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2013年9月27日 (金)

公園保存蒸気 D51 451 昭島市立昭和公園

公園に保存されている蒸気機関車を紹介するシリーズ、今回は昭島市立昭和公園に保存されているD51 451号機です。

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2013/8/13に訪問した際に撮影したものですが、前照灯の硝子はなく外板等もかなり錆が浮き出しています。

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機関車本体は柵に囲まれた中にあって普段は近づけないようになっています。
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D51451     汽車製造大阪工場=1870     1940-02-27 S77.60t1D1T(1067)

車歴;1940-02-27 製造→ 納入;国鉄;D51451→
配属;東京局→1940-02-27 使用開始→
配置[東鉄達165];東京局→1948-07-00 現在;白河→1949-12-16 宇都宮→1955-08-01 現在;白河→1958-10-02 宇都宮→1960-06-01 大宮→1963-06-00
現在;大宮→1966-05-18 予備灯装備→1967-02-04 新鶴見→1970-11-28
廃車;新鶴見→保存;東京都昭島市「昭和の森公園」;D51451(昭和公園説?)

沖田祐作氏の機関車表によると1940年に製造されて、1970年に廃車になるまで関東地方一筋に活躍したことがわかります。

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451号機は2013年4月1日の記事における臼井茂信氏の分類ではもっとも両数の多い量産型に属するタイプです。

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炭水車のライトは撤去されていました。

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写真の撮り方にも依るかとは思いますが、こうやって横から眺めるとD51は随分車長の長い機関車だと感じます。

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2013年9月26日 (木)

2013 夏 新潟の旅 13 EF510 基本番台 3号機

EF510 基本番台のこれまで撮った写真を紹介しているシリーズですが、今回は3号機です。

まずは履歴データです(機関車表より)。

EF510-3    川崎重工兵庫工場=/= 三菱電機  2003-12-00 E100.8tBBB(1067)
車歴;2003-12-03 公式試運転実施→ 納入;JR 貨物;EF510-3→
吹田機関区発富山機関区行回送→ 到着配置;富山機関区→2003-12-03 竣工→
2008-04-01 現在;富山機関区

甲種回送日 2003/12/3

Ef5103_050823
2005/8/23 京都駅

いつもの3095列車の京都通過シーンです。京都駅の上り通過線もかつては2本存在していましたが、今は一本になっています。

Ef5103_061118
2006/11/18 岸辺駅 

4058列車を大阪ターミナルまで牽引してきた機関車(A55)が5053列車を牽引してきたEF66(A29)と単機重連となって吹田まで回送されるシーンです。
Ef5103de10_081211
2008/12/11 島本 3092列車(A51)を牽引して吹田を目指します.今日はDE10が無動でついています。

2008年のダイヤではEF510の仕業はA51~A64とA71の15仕業となり、EF81の方はA31~A34とA741の35仕業となっています。この年からEF510は青森信号所に顔を見せるようになりました。

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2013年9月25日 (水)

西武鉄道 赤電の時代 クモハ351形 新宿線

西武鉄道の赤電シリーズ、今回はクモハ351形です。

 

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詳しい撮影時期は不明ですが、武蔵関を出発する351系4連 まだサボを使用中です。ベンチレーターはグローブ式に交換されています。

 

この車両は西武鉄道としては戦後初となる新造車両で、当初は501系501~519編成として1954~1956年にかけて製造されました。車体長は両端のモハが17m、サハが20mの4両編成でした。増備された521編成以降は20m車体で統一されたため、501~519編成についても20m級車体のモハが製造され、編成の統一が図られました。

置き換えに先立ち、501~520のモハは411~430と改番され、さらに411形2代目が製造される際に351~370に再度改番され落ち着きました。

改称・改番と前後して、主要機器をモハ501 - 520(2代)へ提供するため、主電動機はMT15系に、台車はTR14Aにそれぞれ換装されています。これらはモハ311形等から転用、もしくは自社ストック品を活用したものでした。その他の機器については変化はなく、制御器は国鉄制式の電空カム軸式CS5と界磁接触器CS9との組み合わせ、電動空気圧縮機 (CP)および電動発電機 (MG)といった補機類も自車に搭載し、電気的にはモハのみの単独走行も可能な仕様でした。なお、車体関連の仕様には手を加えられず、モハ501形当時と同一でした。

 

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クハ1411形との2両編成に701系4両編成を併結した新宿線の電車 武蔵関~東伏見間

改番直後は依然として従来からの編成相手であるサハ1501形と編成され、モハ411形(Mc)-サハ1501形(T)-サハ1501形(T)-モハ411形(Mc)の4両編成で運用されたものの、モハ501 - 520(2代)が落成すると順次それらにサハ1501形を提供し、編成相手をクハ1411形へ変更しました。

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こちらはクモハ351形2両がサハ1411形2両を挟んだ4両編成の新宿線電車 同区間

351形と2両編成になったクハ1411形は1411 - 1430の20両で、本系列と末尾を揃えて編成されました。そのうちクハ1411 - 1420・1425・1426の12両は本系列と編成されるに当たって運転台を撤去してサハ化され、411 - 419・425編成(いずれも初代)は501系当時と同様に4両編成になりました。1964年1月に制御電動車の形式記号がモハからクモハに変更になりました。

クモハ357 - 360の4両は1964年に主電動機を三菱電機MB-146Cに換装され、歯車比も2.32(=58:25)に変更されました。なお、同主電動機は故障が少なかったことから検修サイドから好評を博し、後年クモハ353 - 356に搭載されたほか、同一機種がE31形電気機関車の新製に際して絶縁強化・コイル巻き直しといった出力強化改造を施した上で流用されています。

その後、落成後15年前後を経過した頃から木部を中心に痛みが見られたことから、1968年からクハ(サハ)1411形ともども修繕工事が順次施工されました。改造内容は以下の通りです。

屋根板の修繕・表面仕上げをキャンバス張りからビニール張りに変更
ベンチレーターをガーランド形からグローブ形に交換
木製雨樋の金属化
乗務員扉の鋼製化
側窓枠のアルミサッシ化
重量均等化のため、CPおよびMGをクハ(サハ)へ移設

その他、車内送風機の扇風機化、先頭車前面窓内側に行先表示幕の新設、ATSの整備および列車無線の搭載等が実施されました。

17m級の小型車体であることから、101系の増備に伴って本線系統の運用から徐々に撤退し、多摩川線等支線区へ転用されました。

次回の記事では多摩湖線での活躍をご紹介します。

今回の記事ではWikipediaの該当記事を参考に致しました。

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2013年9月24日 (火)

西ベルリンの思い出 パンナムのA310 N802PA

西ベルリンのテーゲル空港で撮影したPAN AMのA310-200、今回はN802PAです。

N802pa_cn_333_clipper_frankfurtairb
A310-221 cn 333 Clipper Frankfurt 1988/10/23 TXL

西ベルリンと西ドイツ各都市を結ぶドイツ国内線のなかでも大陸間連絡便が就航していたフランクフルト・アム・マイン、ハンブルク,ミュンヒェンへの線にA310は就航していたのだと思います。

Fleet_list_of_pa_a310
表1 Fleet list of PA A310

表1にPAN AMのフリートリストを示しましたが、N801A~N807PAがP&W JT9D-7R4E1を装備した200型で、N811PAからN826PAまでが長距離タイプの-300型ですが、N825PA, N826PAの2機は実際は納入されなかったようです。

さらにClipper Nameに注目するとN801PA~N804PAには西ドイツの就航都市の名前が与えられているのに対し,それ以降の機体はそういった名前が見られません。恐らくこのことからN801PAからN804PAまでの4機がドイツ国内線で活躍していたのではと思われます。N805PA~N807PAはフランクフルトやストックホルムでも目撃されているので西ドイツ以外のヨーロッパ域内線に投入されていたのかもしれません。

ちなみにN801PAというレジはPAN AMのA310において少なくとも2代目の使用で以前には同じくPAN AM のDC-8-33 (cn 45254/6) "Clipper Queen of the Pacific"が使用していました。N801PA, N802PAはPAN AM倒産後はレジはそのままでデルタの塗装になってヨーロッパの空港で目撃されております。さらにN802PAはPresidential AviationのCanadair CL-600-2A12 Challenger 601 にも付されています。

N802pa_cn_333_clipper_frankfurtai_2
N802PA 1988/10/23 TXL

N801PA,~N804PAはDeltaで使用された後、貨物用にコンバートされ、Fedexに売却されN416FE,~N419FEで活躍しました。

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2013年9月23日 (月)

公園保存蒸気 D51 68 小岩井農場

日本全国の保存蒸気を訪ね歩くシリーズ、今回は岩手県雫石町にある小岩井農場内で保存されているD51 68号機です。

D51_68_870923
訪れたのは1987年9月23日で、今からほぼ36年前のことです。就職して5年目のことで、ベルリン自由大学の先生が日本を訪問された際に、案内役として東北旅行に同行したときのショットです。このときに1988年10月から西ベルリンに留学する際の留学先を紹介して戴いた私の人生にとっては転機になった旅行・出張でした。

小岩井農場は岩手県岩手郡雫石町にある日本最大の民間総合農場です。有名な話ですが1890年11月1日に日本鉄道が東北本線を盛岡駅まで延伸開業した翌年の1891年、日本鉄道会社副社長の小野義眞、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の三名が共同創始者となり3名の姓の頭文字を採り「小岩井」農場と名付けられました。

当時のこの地域一帯は、岩手山からの火山灰が堆積し冷たい吹き降ろしの西風が吹く不毛の原野で、極度に痩せた酸性土壌であったそうです。そのために、土壌改良や防風・防雪林の植林などの基盤整備に数十年を要しました。

1899年に三菱のオーナー一族・岩崎家の所有となり、戦前は育馬事業も行われており三冠馬・セントライトなど数々の名競走馬を輩出しましたが、GHQの勧告により1949年に競走馬の生産から撤退を余儀なくされました。この後、後述の種鶏事業が1962年より始められています。

1938年より小岩井農牧株式会社として事業活動を行っており、酪農・種鶏・たまご・山林・環境緑化・技術研究・観光・農場商品販売等の事業を行っています。

以上、Wikipediaの該当記事を参考に致しました。

1987年当時は営業しており、その後2008年11月3日まで、日本では最も長く営業を行ったのが今回、ご紹介しているSLホテルですが残念ながら現在はホテルとしての営業はしていないそうです。

D51 68号機の履歴です。

D5168   日立製作所笠戸工場=868            1937-09-22 S77.60t1D1T(1067)
車歴;1937-09-22 製造→ 納入;国鉄;D5168→ 配属;広島局→1937-09-22 使用開始→
                                          
配置[広鉄達988];広島局→1946-12-06 現在;岡山→1947-10-00
現在;岡山→1948-07-01 現在;岡山→ 小郡→1950-07-16
発;札鉄局→1955-08-01 現在;五稜郭→1960-10-00 滝川→1968-04-01
現在;滝川→ 追分→1976-03-19 廃車[工車1224];追分→
保存;岩手県雫石町「小岩井農場遊園地」;D5168(小岩井農場SL ホテル)

データはいつものように沖田祐作氏の機関車表からのものです。1937年に製造されて1950年頃までは西日本で活躍しましたが、その後北海道に渡り、1976年の国鉄蒸気機関車廃止の最後のときまで活躍しています。

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2013年9月22日 (日)

2013 夏 新潟の旅 13 EF510 基本番台 2号機

EF510の基本番台の1号機から,順に写真を紹介しつつ,撮った頃を懐かしむシリーズ、今回は2号機です。

まずは履歴データです(機関車表より)。

EF510-2    川崎重工兵庫工場=/= 三菱電機    2003-11-00 E100.8tBBB(1067)
車歴;2003-11-26 公式試運転実施→
納入;JR 貨物;EF510-2→2003-11-28 吹田機関区発富山機関区行回送→2003-11-29 到着配置;富山機関区→
2003-12-01 竣工→2008-04-01 現在;富山機関区

甲種回送日は2003/11/26

Ef5102_060618_2
2006/6/18 千里丘にて3095列車のスイッチバックのために入れ換えを行う2号機

前回の2013/9/18の記事で同じ場所、仕業に就く1号機の写真がありましたが、2枚の写真を較べると、ボディの下の白帯の太さの違い、RED THOUNDERマークの有無の違いがよく分かります。

Ef5102_060618
2006/6/18 茨木

上の写真と同じ日の写真ですが,3095列車を別の場所で撮ろうと思い、上り普通電車に乗ったものの、早くも茨木で追いつかれてしまい,走行中の電車から写したカットです。

Ef5102_100718
2010/7/18 直江津  この頃はA51~A72まで仕業数も増え、南は梅田から北は青森信号所までを担当にしていました。

Ef5102_120318
2012/3/18 桂川

東海道緩行線に新駅が作られ列車線の撮影が随分楽になりましたが、桂川(久世)駅は2008年10月18日に開業した駅で京都市西京区の西の端に位置します。

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2013年9月21日 (土)

西武鉄道 赤電の時代 クハ1411形 広幅窓タイプ 新宿線

西武鉄道の赤電時代を懐かしむシリーズ、今回は新宿線のクハ1411形広窓タイプです。

1411
1974年頃 おそらく最初にご紹介した狭窓タイプの写真と同じ日の撮影かと思います。 武蔵関~東伏見間

1411_3

同区間における写真 1974年頃

この写真の奥の方に武蔵関公園があり、同公園のWikipediaによると同公園にある富士見池は武蔵野台地の湧き水によって出来たとあります。地図を見ると流れ込む川があって上流を辿ると小平桜橋あたりで玉川上水から分岐しています。一方、写真に写っている富士見池から流れ出す川は石神井川となって豊島園を通り、王子駅の下を通って隅田川に合流します。

東京の地図を見ながら川に沿って、あるいはボートで川を下るというのも面白そうと感じました。

今回のクハ1411形は前回までに登場したものと違って,ガーランドタイプのベンチレーターを装備しています。

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2013年9月20日 (金)

西ベルリンの思い出 パンナムのA310 N801PA

1988年から1989年の西ベルリン滞在中にテーゲル空港で撮影した旅客機のシリーズ、PAN  AMBoeing 727の次はAirbus A310-200で行こうと思います。N801PAN802PAの2機を写しております。

N801pa_cn_288_clipper_berlin_airbus
N801PA cn 288 "Clipper Berlin" Airbus A310-221 1988/10/23 TXL

まずAirbus A310という旅客機ですが、エアバス・インダストリー社が、同社初の機種であるA300の次に開発する旅客機として、A300の2人乗務の短胴型を構想し、それに基づいて開発されたのがA310です。そのため当初の仮称はA300B10でした。

主翼内の燃料タンク容量の差異により、短距離型A310-100(航続距離1,800NM)と中距離型A310-200(航続距離2,600NM)の2機種の開発を行う構想でしたが、-100型の受注はなく開発も行われませんでした。(NM:Naurtical Mile)

中距離型A310-200は、ルフトハンザドイツ航空スイス航空がローンチカスタマーとなり、1978年7月から開発が開始されました。初飛行は1982年4月3日1983年より商業運航を開始しました。

250席クラスのワイドボディを持った中長距離機として、ライバルのBoeing767とともに欧米やアジアの航空会社のみならず、中南米やアフリカ、中東の航空会社からも多数のオーダーを受け、受注を伸ばしました。生産は1998年6月に終了し、事実上の後継機材はエアバスA330となっています。2013年8月の時点で255機のA310が納入され138機が運行中です。

A300の胴体をキャビン部分でフレーム11個分、垂直尾翼下方(胴体後部)で2フレーム分、合計6.96m短縮しました。垂直尾翼はA300と同じですが、主翼・水平尾翼は新規に設計されています。エンジンはターボファンエンジンのプラット・アンド・ホイットニーJT9Dを採用しました。

コクピットにはA300で成功したFFCCツーマンクルー・コクピットにCRTディスプレー を採用、飛行管理装置 (FMS) の導入をおこない、電子技術・自動化の分野で第4世代のジェット旅客機となりました。兄弟型のA300の-600シリーズではA310のコクピットを流用して2人乗務になりました。

Type       Engine          耐空証明取得

A310-203     GE CF6-80A3   1983/3/11
A310-203C   GE CF6-80A3   1984/11/27   貨客混載転換タイプ
A310-204     GE  CF6-80C2A2  1986/4/23
A310-221     P&W JT9D-7R4D1 1983/3/11
A310-222     P&W JT9D-7R4E1 1983/9/22

N801pa_cn_288_clipper_berlin_airb_2
N801PA 1988/12/4 TXL

エアバスのシリーズの中でもA310は我が国の航空会社は導入していませんが、我が国に乗り入れている航空会社では、アエロフロート航空(SU)、MIATモンゴル航空(OM)、ビーマン・バングラディッシュ航空(BG)、パキスタン航空(PK)、フェデックスエクスプレス(FX)などが導入しているのでおなじみの飛行機かと思われます。

今回の記事ではWikipediaの該当記事を参考に致しました。

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2013年9月19日 (木)

公園保存蒸気 19633 久岐の浜広場

公園保存蒸気機関車のシリーズ、今回は九州は若松駅そばの久岐の浜広場に保存されている9600形の19633号機です。

北九州市若松区久岐の浜地区は洞海湾に面し、官営八幡製鉄所の設立以来、筑豊の石炭を背景に日本最大の石炭積出港として発展してきました。

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駅横の久岐の浜広場に展示されている19633号機 2012/12/21

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かつては石炭の積み出しで賑わったことを今にも伝える若松駅駅舎

若松駅はかつての栄華を偲ばせる広大なスペースの中に駅舎が建っていますが,この場所はかつては操車場だったようです。

121221
操車場跡を示す碑も近くにありました。

拙blogにおいて9600形式が登場するのは今回が初めてかと思いますので、いつものようにその概要について触れておこうと思います。

国鉄9600形蒸気機関車は、国鉄の前身である鉄道院が1913年から製造した、日本で初めての本格的な国産貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車であり、「キューロク」、「クンロク」と愛称され、四国を除く日本全国で長く使用されました。国鉄において最後まで稼動した蒸気機関車ともなりました。

9600形という形式名は、1912年度に12両が試作された2-8-0 (1D) 型過熱式テンダー機関車に最初は使用 (9600 - 9611)されましたが、本形式に明け渡すこととなり、落成後わずか3か月で9580形 (9580 - 9591) に改められました。従って、本形式は9600形の2代目となります。本来、二代目9600形は9580形の欠点を改良すべく設計されたものです。

狭軌鉄道向け機関車としては従来不可能と信じられてきた巨大なボイラーを、台枠の上に火室を載せてしまうことにより可能にしました。そのため出力は上がりましたが、ボイラー中心高さは当時の狭軌用蒸気機関車最高の2,591mmとなり、重心位置が非常に高く、小輪径の動輪もあって常用最高速度は65km/hと制限されました。

19633_121221_3
19633号、野外展示のため、だいぶ老朽化が目立ちます。

設計当初は8850形のように圧延鋼板を切り抜いた棒台枠を採用する予定でしたが、国内では製造することができず、やむなく従来どおりの軟鋼板製の板台枠式となりました。初期の製造車では、ピストンバルブをシュミット社から輸入し、軸バネも川崎造船所が輸入した貯蔵品を使用したため、厳密にいうと標榜したような純国産とはゆきませんでしたが、9618号機以降は看板どおりの純国産となり、設計も変更されました。外観上、運転台下部のラインが、S字形屈曲から乙字形屈曲に変更されたのが目立っています。

9600形の特徴としては、左右動輪のクランクピンの位相が、通常の右先行型に対し、逆の左先行型となっていることがあげられます。これは単なる設計上のミスに起因するようです。

一般的な9600形のテンダー(炭水車)は、台車が3軸固定式の水タンク13m³、燃料6t積載のものですが、最初に製造された9600 - 9617の18両については、小型の水タンク9m³、燃料2.5tで2軸固定式台車でした。これは、東海道本線(当時)山北駅 - 御殿場駅間、沼津駅 - 御殿場駅間の箱根越え区間の推進(補助機関車)用として設計されたためです。しかし、予定どおり箱根越え用に配置されたのは9610 - 9617の8両のみで、9600 - 9609の10両は神戸鉄道局に配置されました。その後に製造された9600形は前述のように3軸テンダーとして石炭と水の積載量を増加したため、2軸の小型テンダーでは、別運用を組まねばならないなど、運用に不都合が生じるようになっていました。

19633_121221
19633号機の解説 大正生まれの名機です。

メーカーは大半が川崎造船所(686両)ですが、汽車製造会社(69両)、国鉄小倉工場(15両)で製造されたものもあります。1913年を製造初年とし、1926年までの間に770両(9600 - 79669)。が量産されました。このほかに三菱大夕張鉄道、夕張鉄道、美唄鉄道の自社発注や、樺太庁鉄道、台湾総督府鉄道向けなどに断続的に同形機が生産され、最終製造年は1941年でした。樺太庁鉄道に納入された同形機5両 (D501 - 5) は、1943年の南樺太の内地編入にともない鉄道省籍となり、79670 - 79674に、樺太鉄道向けに製造された細部の異なる準同形機80形9両 (80 - 88) も、樺太庁鉄道を経て79680 - 79688(79675 - 79679は欠番)となっています。

製造当初は東海道本線などの幹線でも用いられましたが、より牽引力の強いD50形1923年に、またD51形1936年に出現すると主要幹線を追われ全国各地の亜幹線や支線に分散しました。出力の割には軸重が軽く運用線区を選ばないのが特長で、このため1937年に日中戦争が始まると、陸軍の要請により、鉄道省の工場で標準軌に改軌のうえ中国に送られました。製造両数の1/3弱にあたる251両が供出されています。

戦後は北海道・九州の石炭輸送路線や、米坂線・宮津線など、貨物輸送量が多かったり急勾配を抱えていたりするにもかかわらず、路盤の弱い路線を中心に使用されました。使い勝手の良さ、レールへの粘着力、列車の牽引力において決定的な代替能力を有する機関車がなかなか開発されなかったため、古い形式でありながら蒸気機関車の運用末期まで残りました。

最後に残ったのは追分機関区の入換用に使用されていた39679、49648、79602の3両で、1976年3月2日に最終仕業となりました。そのうち79602は3月25日まで有火予備で残っていました。これを最後に国鉄の蒸気機関車は保存用を除いてそのすべてが姿を消しました。実働63年、最初期の標準型国産蒸気機関車として登場し、日本の蒸気機関車の終焉を見届けた最も長命な蒸気機関車でした。

19633号機の履歴です。

19633      川崎重工兵庫工場=323      1917-11-00 S59.80t1DT(1067)
車歴;1917-11-00 製造→ 納入;国鉄;
19633→1917-11-12 使用開始[中管達1260];中部局→
      1933-06-30 現在;中津川→1955-08-01 現在;若松→1972-12-26 休車→
      1973-02-22 小倉工場廃車上申[小工機902]→
      1973-03-04(3/14?)廃車[工車1664];若松→
      1973-08-14 貸与[工車575]保存;福岡県北九州市「若松駅前公園」;19633

沖田祐作氏の機関車表で履歴を調べるとこの機関車は製造後、1955年に若松に転勤するまでの38年間は中津川にいたようで、九州勤務はその後の18年間だったようです。

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若松駅には石炭運搬用のセム1000も展示されています。

121221_2_2
そしてそばには洞海湾と1962年に完成した当時、東洋一の吊り橋といわれた若戸大橋の勇姿が

同橋の下には若松と戸畑を結ぶ渡船も営業していました。2012年には若戸トンネルも開通し、同地区の渋滞緩和に貢献しているようです。

今回の記事ではWikipediaの該当記事を参考に致しました。

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2013年9月18日 (水)

2013 夏 新潟の旅 13 EF510 基本番台 1号機

2013年夏の新潟の旅、最後に日本海縦貫線のヌシの座をEF81から奪取したEF510について触れようと思います。

EF510形電気機関車は、JR貨物が2002年から製作している交流・直流両用電気機関車であり、EF81形の取替えを目的に開発されました。JR移行直後から後継機の開発が開始され、同区間用として1990年EF500形が試作されました。EF200形の交直両用版といえる定格出力 6,000 kW の同形式は輸送量に比べ過大な出力や技術上の問題などで量産に至らず、輸送量に適合した性能を有する新型機関車の開発が以後の課題とされました。

東海道・山陽本線を主とする直流電化区間用としては、運用コストを適正化した形式として同時期にEF210形が製作されました。同形式の設計を基にして交直両用機の開発が進められ、2002年2月に三菱電機・川崎重工業で先行量産車の1号機が完成しました。

本形式は2003年から量産が開始され、老朽化の進むEF81形を徐々に淘汰しつつあります。愛称は公募によって「ECO-POWER レッドサンダー」とされました。

<構造>

車体は高運転台式非貫通の前面形状を有し、正面窓上に短い庇を設けた意匠はEF500形に類似します。前照灯は運転台下部のほか、上部中央の屋根上にも設けました。外部塗色は、車体上部が朱赤色、車体裾部が灰色、塗り分けの境界部と前照灯の位置に白色の帯を配しました。

機械室内の機器配置はZ形通路形式とし、車体中央で通路配置が逆転する。これは機器室内の通路幅を確保し、整備性の向上に配慮したもので、このため側面の窓配置は向かって左側に採光窓が並び、向かって右側に通風孔を設ける配置となりました。

室内に設置する補助電源装置の冷却方式は夏季と冬季で異なり、夏季は外気を直接取り入れ換気を促し、冬季は内部で空気を循環させ、機器室を密閉する。これは冬季に雪の侵入を防止するための機構です。

屋根上の特別高圧機器類は寒冷な気候条件と塩害への対策として、パンタグラフと保護接地スイッチのみを屋根上に設置し、従来機では屋根上に設けていた断路器や遮断器などは室内に配置しました。パンタグラフは上昇動作時の鉤外し機構を空気式としたシングルアーム式の FPS5 形で、関節部を車体中心に向けて搭載しました。

制御装置は、EH500形から採用された高速トルク制御機能を有する三菱電機製のVVVFインバータシステムで、制御素子はIGBTを用いる。主電動機はEF210形と同一のかご形三相誘導電動機 FMT4 形を6基装備し、1台のインバータで1台の主電動機を個別に制御する 1C1M 方式です。定格出力はEF210形と同等の 3,390 kW(1時間)・3,540 kW(30分)で、12 ‰ の勾配上で 1,300 t の列車を1両で牽引することが可能です。

台車はEF210形と同様の軸梁式ボルスタレス台車 FD7N 形(両端)・FD8A 形(中間)で、ブレーキ装置は単機ブレーキが発電制動併用の電気指令式ブレーキ、編成ブレーキが電磁自動空気ブレーキです。基礎ブレーキ装置は耐雪ブレーキ機能を装備し、車輪と制輪子の間に雪を侵入させない構造としています。

運転室は気密性を高め、空調装置を配置しました。運転席周囲の機器配置は既存の新型機とほぼ共通の構成とされ、運転中の各種情報や、点検時の自己診断結果などを集中して表示するモニタ装置を設けました。

先行量産機(1号機)

2002年2月に製作されました。既に実用段階にあった直流電気機関車EF210形の基本設計を踏襲したことから試作機とはされず、量産を前提とした仕様の「先行量産機」とされています。新鶴見機関区に配置され、各種試験に供されました。

側面通風孔の配置が異なる他、車体裾の白線は幅が広い。車体側面にはJRFのロゴマークのみが描かれています。

沖田祐作氏の機関車表によるEF510の基本データです。

製 造 所  車 体= 川崎重工
       電装品= 三菱電機
製 造 年  2001 年12 月
軸   配  BBB
重   量  100.8t
定格出力時  3390Kw
電動機形式  FMT4=565Kw×6=3390Kw
歯 車 比  16:82=1:5.125
制御 方式  PWM 電圧型インバーター制御 FMPU16 1C1M×6
台車 形式  FD7N(FD1= 両端)  FD8A(FD2= 中間)
車 輪 径  1120㎜

量産機(2号機 - )

2003年から製作されました。先行量産機の運用成果を基に、各部に改良が見られます。

側面右側の通風孔は配置が横一列に揃えられ、車体裾の白線は幅が狭くなりました。車体側面にはJRFのロゴマークのほか、"RED THUNDER"のロゴマークが描かれています。

現在、EF510基本番台は23号機まで製造されています。最新の23号機は2013年7月末の出場ですが、すでに活躍を開始しています。またJR東日本が2009年に製造した500番台(501~515)2013年3月のダイヤ改正で田端運転所の貨物輸送受託が終了したため、余剰が発生し、501 - 508・511号機は運用から外されて保留車となりました。これらの車両は2013年7月26日からJR貨物高崎機関区に配給輸送され、その後JR貨物東新潟機関区、JR貨物富山機関区へと順次輸送されています。近いうちに基本番台とともに日本海縦貫線での活躍が始まるでしょう。

私自身はこれまでに関西出張などの機会にEF510形を撮影して来ましたが,この機会に1号機から(現時点では22号機までですが)1機ずつ撮影年代別にご紹介しようと思います。

まずは1号機、先行量産機からです。

EF510-1    川崎重工兵庫工場=/= 三菱電機     2001-12-12 E100.8tBBB(1067)
車歴;2001-12-12 製造→2001-12-19 性能試験開始→
納入;JR 貨物;EF510-1→2002-02-15 竣工→
配置;新鶴見→2002-05-13 借入;福島→2002-06-28 頃借入;
仙台→2002-06-03 借入;富山→2002-06-15 発借入;
青森→ 返却? →2002-10-07 富山機関区→2008-04-01 現在;富山機関区

これまでの履歴データ(機関車表から)

甲種回送は2002/2/15だそうです。

本格稼働の前に関係する機関区を回り、研修等が行われたようです。

Ef5101_050324
前川を通過する1号機牽引下り貨物列車 2005/3/24

撮影時刻15:13から判断して3097レだと思います。当時のEF510の仕業はA51からA57で運用区間は吹田操車場から新潟タまででした。

Ef5101_060619
山科駅を通過する1号機牽引の3095列車 2006/6/19
この3095列車はEF510の牽引する列車としてもっとも写しやすい時間帯の列車ではないでしょうか。

Ef5101_070308_3
大阪ターミナル発の3095レが吹田操車場でスイッチバックするのを千里丘駅で撮影 2007/3/8

Ef5101_080225
上のカットと同じですが3095レ山科駅を通過 2008/2/25

Ef5101_100708
梅田行き貨物列車を牽引して東淀川駅を通過 2010/7/8

EF510が梅田まで貨物を牽引するようになったのは2007年度のA52仕業による3057~4097列車ですが,撮影可能時間帯では2010年度のA56仕業による4092列車が初めてでした。

Ef5101_120913
3095レ 京都駅を通過 2012/9/13

今回の記事ではWikipediaの該当記事を参考に致しました。

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2013年9月17日 (火)

西武鉄道 赤電の時代 クハ1411形 広幅窓タイプ 池袋線

前回はクハ1411形の第2グループの前面中央窓が狭いタイプ、顔的にはそれまでの17m車、モハ311形やクハ1311形とおなじ顔のタイプを紹介致しました。

今回は、西武オリジナルと言える広幅窓のタイプの写真をご紹介致します。

1411
保谷~ひばりヶ丘間を行くサボ付き時代のクハ1411形鋼体化車(後期)グループ

西武線の撮影は主に新宿線から始めたのですが、池袋線も撮ってみようと言うことで自転車で保谷~ひばりヶ丘間の大カーブ付近で撮影を試みたのがこの一枚だったと思います。

池袋線の編成は常に新宿線の編成よりも規模が大きく、新宿線の各停が4+2で6連のとき池袋線は4+4の8連といった感じでした。また、クハ1411形の相手のクモハも新宿線がクモハ451形が多かったのに対して、池袋線はクモハ351形が多かったように思います。

1411_800713
石神井公園で急行の待避をするために中線で停車中のクハ1411形 1980/7/13

クハ1411形最末期の写真かと思いますが、大学院の博士課程1年目でしたが、保谷から乗車した各停が石神井公園で急行の接続待ちをするとのことで、乗り換えの際に撮影したものです。当時、西武線の駅で写真を撮っている人間は殆ど見かけず、かなり恥ずかしい思いをしながらシャッターを切った憶えがあります。

前回の記事で触れたように1/3方式の運転室と車内の様子が覗えます。クハ1411形は西武独自のクハ55スタイルですが、関東の他の大手私鉄が続々と新しいタイプの車両を登場させる中、こういった車両をかなり後まで新製していたのは「質より量」といわれた当時の西武の方針でした。

下りホームには西武で最初の通勤冷房車となった分散式冷房編成試作車(171~181F)の姿が見えます。パンタグラフのあるM1車にはCU-72形集中式冷房装置を1基、他の3両にはCU-16形集約分散式冷房装置を5基搭載したタイプでしたが、量産車は集中式となりました。

1411_2
クモハ351との2連、その後に551系を従えた豊島園行き 東長崎

クモハ351形,451形など白熱灯単灯スタイルの車両は後年、シールドビーム2灯(いわゆるブタ鼻ライト)化されましたが、クハ1411形はそういった改造はされずに廃車になって行きました。

また東長崎も昭和50年代と今とでは江古田と優等列車待避駅の役割を交換しました。当時は10連一本が停まれる電留線があり、ラッシュ時間が終わった後、10連が停まっていました。

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2013年9月16日 (月)

西ベルリンの思い出 パンナムのB727 N4754

PAN AMのBoeing 727フリートの構成を前回から見てきてますが、その構成は次のグループに分けられると思います。

A) PAN AM自身がBoeing社に発注した機体 (-21のカスタマーコードが付与)
B) 1980年に買収したNational 航空がBoeingに発注した機体 (-35のカスタマーコードが付与)
C) National 航空が買収前に他社から購入した機体
D) PAN AMが他社から購入した機体(C以外の)

の4つのグループです。

N4754_cn_19474_607_clipper_resolute
N4754 Boeing 727-235 19474/607 Clipper Resolute 1989/4/8 TXL

まずA)のグループについて見てみましょう。

Table_1_list_of_boeing_727_built_as
表1. PAN AMがBoeing社に直接発注した727のリスト
Start EndはPAN AM内での運航開始・終了年月を示します。
221(A)は200型Advanced typeです。

727のProduction listの情報や、アメリカの航空会社のFleet情報のサイトの情報から、PAN AMが直接発注した727のリストを作ってみたのが表1です。-21, -121, -221 全部で35機あります。-21と-121は基本的に同じかと思いますが、-200型が登場した後で発注された基本型は-121となっているようです。

1) PAN AM air.orgのサイトの情報では
Pan Am ordered 25 B727-121s on February 1, 1965 at $4,110,000 each which was quite an investment at the time but a valuable  purchase. The 727 replaced the DC-6B.

とのことで、私がProduction listからpick upした数、27とは少し違いますが、これらはいずれもN***PAタイプのレジが付与されています。なぜかN322PAはとばされています。

PAN AMは当時、長距離国際線を担当する航空会社でしたから中短距離タイプの727のデビューの1963年2月から2年経過しての購入となり、1号機(N314PA)のlnも206となっています。Clipper nameに西ドイツの都市名が付けられていることから判断してこれらの727は主としてベルリン・ハブのドイツ国内線用に導入されたのでは思います。

これらのうち、N317PAは初飛行後10ヶ月の1966年11月15日、貨物708便でフランクフルトからベルリンテーゲル空港に向けてRWY08ILSアプローチの最中に空港から10マイル西のソ連占領地域(Dallgow)内に墜落しました。この便は貨物便であったため乗員3名が犠牲になりました。当時、貨物便はTempelhof空港発着でしたが、11月13日から同空港の滑走路修復工事のためTegel空港発着となっていました。

N327PA1980年9月3日、マイアミからコスタリカのサンノゼ・ユアン・サンタマリア国際空港へ421便としてRWY07に着陸する際に着陸誘導灯に脚をぶつけて修復不能となりました。乗客67名乗員7名に死者はありませんでした。

あと1機、気になったのがN320PAで、PAN AMのフリーとを離れた後、N111JLというレジを与えられています。私はかつてJALN211JL、N212JLといったBoeing747-246FなどがいたことからJALBoeing727フリートメンバーかと思いましたが関係はなかったようでした。

2) -221として製造された8機に注目すると、面白いことにこちらのClipper Nameにはドイツの都市名は一切使われておりません。これらが納入された時期には既にNational Airlinesを買収していたので、そちら由来の-235を優先的にヨーロッパ域内に投入したのではと思われます。727の全製造機数が1832ですから、これらの8機はかなり製造末期に近い機体であることがわかります。

次はグループBです。

Table_2_list_of_boeing_727_built_as
表2 National航空が直接Boeing社に発注した727のリスト

-35が13機、-235が24機です。-235の1機、N4744は前回の記事でも触れたように1978年に事故で全損しており、PAN AMのフリートには加わりませんでした。また-35は老朽化もあってか買収後、3~4年でフリートを離れています。

またCipper nameですが、-21のときはドイツの都市名などを付与していましたが、-235の場合はそういった名称は与えていません。

続いてグループCです。

Table_3_boeing_727_purchased_by_n_2
表3 National AirlinesがPAN AMに買収される前に他社から購入していたBoeing 727のリスト

National航空がNorthwest 航空から購入した6機が該当し、いずれも基本型でした。National航空としては自社で導入した-35タイプの拡充を狙って比較的lnの近い機体を導入したのかも知れません。PAN AMへ買収後は、-35とほぼ同時期に売却されています。なお、National航空は自社が導入した727には女性の名前を付与していましたが、これら6機には名前は付けなかったようです。

最後はDグループです。

Table_4_boeing_727_purchased_from_o
表4 PAN AMが他の航空会社から購入した機体、あるいはキャンセルでBoeingから納入された機体

これらは全て-200タイプで、Northwest, Frontier, Pacific Southwest, Delta (Northeast), USair, Braniff, Lufthansa, Alitaria, Easternで使用された中古機とOzarkが発注し,製造もされたもののキャンセルとなってPAN AMが引き取った機体からなります。中古機が自社で発注した-221(N363PA~N370PA)に次ぐレジが与えられているところを見ると、引退し基本型の置き換えと-200型の増強に導入されたものかと思われます。

N361PA, N362PAはOzarkAirlines(-D4)が発注していたものの,キャンセルとなり、PAN AMに納入されたものです。Ozark Airllines1950年9月25日にミズーリ、セントルイス間で運航を開始した航空会社で1966年頃からDC-9も運航するようになり、さらにMD-82にまで発展しましたが1987年10月TWAに吸収合併されました。

N371PA、N372PAはBoeing727-200のキックオフカスタマーだったNortheast AirlinesがDeltaに吸収合併されたもののそのフリートの一部が売却されたものです。

N373PA~N376PAはパシフィックサウスウエスト航空(PSA)(-14)が1984年末頃まで運航していた727を購入したものです。

N876UM~N879UMの4機は元はルフトハンザ(-30)の機体でボストン~ニューヨーク~ワシントンのシャトル便をイースタン航空とPAN AMが担当していたときに増強用に購入したそうです。

1982年5月に運航停止したBraniff航空(-27)から購入した機体や1991年まで運航していたEastern航空の機体も大量にPAN AMのフリートに加わっています。

Braniff航空1928年に設立され、アメリカ中西部、南西部、メキシコ、中央アメリカ、南アメリカさらに1970年代にはアジア、ヨーロッパまで足を伸ばした航空会社でした。1964年には同社の発注によりBoeing2707 Supersonic transportの開発にも繋がる予定でした。1979年にはBAAFがワシントンDCに乗り入れるコンコルドをダラスフォートワースまで延長運航する形で共同運航をしましたが搭乗率が低く,短期間でこの試みは中止されました。1978年からのderegulationによる競争の激化と燃料費の高騰で経営状態が悪化し、1982年5月に破産に追い込まれました。

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2013年9月15日 (日)

公園保存蒸気 C57 186 小金井公園

今回は都立小金井公園に保存されているC57 186号機です。

 

C57186_130813_3
公園の西の方に柵で囲まれたスペースが確保され、スハフ32形客車を一両連結した姿で保存されています。 2013/8/13

 

C57186号機1946年に製造れた、第3次形に属します。戦後の旅客用機関車の不足を補うために製造されました。設計期間が無かったことから2次形からの大幅な改設計は見送られました。先輪がD52形用の流用であるディスク形となり、コンプレッサーからの空気放熱管がランボード下に収められるなどの相違点が見られます。また、砂箱キセ前面が1次形や2次形と比べ傾斜しています。

 

C57186_130813_6
前輪はディスクタイプになっています。

 

C57186     三菱重工業三原工場=519   1946-09-27 S67.50t2C1T(1067)
車歴;1946-09-27 製造→ 納入;国鉄;C57186→
配属[達533];新潟局→1946-09-27
使用開始→配置;新潟局→1955-08-01 現在;新津→1969-09-06
人吉→1973-09-25 宮崎→1974-06-07 旭川→1975-02-28 廃車;旭川→
保存;東京都小金井市「都立小金井公園」;C57186

 

(データは沖田祐作氏の機関車表より)

 

新潟で新製配置後23年、南九州で5年弱、最後は北海道で8ヶ月暮らしています。最後にわざわざ北海道まで転勤している点が印象的です。

 

C57186_130813_4
小金井公園は広大な緑地を有する公園で私も小学校の頃、何度か訪問したことがありましたが、C57の置かれているスペースは写真からも分かるように良い雰囲気を醸し出しています。

 

C57186_130813
駅名標などもしっかり準備されていました。

 

32_2146_130813_3
お供のスハフ32は2146号車でした。

 

この客車の過去を調べて見ると

 

1935年、梅鉢鐡工所製作のスハフ32146(旧スハフ 34447) に電気暖房工事を施工したもの。晩年は中央本線の夜行客車列車に使われ、登山客などを乗せて走ったそうです。最後の全般検査は 1972 年 6 月と書かれています。1974 年に廃車され、その翌年から 30 年以上も屋外で保存されています。所属表記は「西イイ」で飯田町客貨車区。

 

(鉄道探検隊のサイトより引用)

 

とのことで、晩年は中央本線の夜行列車に活躍していたそうですから、もしかしたら現役時代、EF13EF64に牽引される姿を見ていたかも知れません。

 

750300_2_2
怪しげな写真ですが、三鷹付近を行く中央線客車列車 1975/3

 

130813
小金井公園のC57は上記のように公開日が設定されています。前回、訪問した日は平日でしたので次回は公開日に訪問してみようと思います

 

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2013年9月14日 (土)

2013 夏 新潟の旅 12 EF81 726

2013年夏 新潟の旅ではEF81726号機とも遭遇しました。

Ef81_726_130807
桑川駅に進入する851列車 牽引機はEF81 726 2013/8/7

富山機関区のA11仕業、851列車を牽引10:35に新潟ターミナルを出発し、酒田に15:05に到着、折り返し酒田を20:11に出て、852列車で新潟に23:02に戻る運用でした。

現行のEF81の運用を調べると、新潟付近でまともに撮影できるEF81牽引の貨物列車は先日の記事で723号機が牽引していた3093列車(A6仕業:新潟ターミナル12:22着)とこのA11仕業の851列車しかありません。

改番前の126号機時代の写真を探すと、

Ef81_126_031212
2003/12/12 新大阪

4098列車を牽引して梅田貨物線を行く126号機で、当時のA39仕業でした。まだEF510は富山に配属されていなく、EF81の仕業はA45までありました。

Ef81_126_060620
EF66 28号機との単重で梅田から吹田に回送される126号機です。 2006/6/20 時刻は5:07ですが、夏至の頃ですので撮影が可能でした。

当時の運用表ではA15仕業で単652列車かと思われます。当時、既にEF510は活躍していましたがEF81がA1~A33に対してEF510はA51~A58でした。

Ef81_126_101207
桂川にて 2010/12/7

A16仕業、3099列車を牽引する126号機で全検出場直後だったのか,ピカピカの外観でした。2010年当時はEF81はA1~A22まで減少し、一方EF510はA51~A72まで拡大しました。

Ef81_726_130807_2
同じく桑川駅でのショット

当日、この駅ではEF510牽引の貨物列車4093列車と95列車が手前の中線に入線し,特急列車の待避を行うのを見ましたが区間貨物列車の851列車は通過して行きました。

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2013年9月13日 (金)

西武鉄道 赤電の時代 クハ1411形 狭幅窓タイプ

新たに幼少期からお世話になってきた西武鉄道の話題もシリーズに加えようと思います。

西武鉄道との関係は私が3歳のとき(1959年)から始まりました。父親の職場が東村山となり、西千葉から北多摩郡東村山町に引っ越したからです。当時は多摩湖線の八坂が最寄り駅でした。西武鉄道の前身である、武蔵野鉄道が1912年の設立、川越鉄道が1892年の設立ということで西武鉄道100年の記念出版誌も発行されましたが、私もその54年間に関わっていることになります。

幼稚園は萩山で、2年保育の年少組だった1960年4月から八坂~萩山間、晴れている日は線路に沿って水道道路を歩き,雨の日は電車に乗っていたように思います。当時の西武線はまだ赤電といわれる塗装になる前で、黄色と茶色の2色の塗装の2両編成でした。

小学校1年の1962年9月1日 上水線小川 - 萩山間の営業が開始され、上水線から新宿線へ直通運転開始されました。上水線の電化はそれ以前の1954年10月12日に小川 - 玉川上水間で開業しており、萩山で多摩湖線と上水線の電車の分割併合が行われていたのを見てました。当時はまだ行き先表示は鉄製の行き先を書いたサボを貫通扉下部に差し込む方式でしたから、萩山では分割併合の度にサボの交換が行われていました。

小学校2年の2学期(1963年)から,国立の小学校に通うようになり、小川駅まで歩き、国分寺線で国分寺へ、さらに中央線で国立まで通っていました。当時は国分寺から下河原線が出ており、武蔵野線は未開業で、まさに国分寺と立川の間だから国立と命名されたのが納得できる時代でした。国分寺駅では西武線との貨物のやりとり、あるいは中央線貨物の入れ換えにまだ蒸気機関車が活躍していたのを憶えています。そして国分寺線では川崎造船製造の151系が活躍していました。沿線には中央鉄道学園や鉄道技術研究所もありましたから、かなり珍しい車両も時々目にすることがありました。確か通い出してすぐだったと思いますが、それまでモハ-クハだったのがクモハ-クハに代わったのにある日気づいて驚きました。

1964年12月に父親の異動で杉並区清水町に引っ越すことになり、中央線荻窪が最寄り駅となり、一時西武線とは離れましたが、1973年に南大泉に住むようになってからは新宿線武蔵関、東伏見、あるいは池袋線保谷を使い分けるようになりましたので、1983年4月に社会人としてつくばに移り住むまでは高校の後半から大学、大学院の9年間、西武線との関係は続きました。

西武線を写真に記録しはじめたのは国鉄車輌を記録しはじめた1972年より、若干後ですが、赤電と101系に冷房車が登場してきて、さらに701系の冷房改造車が登場する少し前でした。1974年頃だと思います。

つくばの住人になってからも実家や家内の実家(一橋学園)に行く際には必ずと言っていいほど,西武線の写真は撮っておりますので、西武線の記録はコンスタントに続いているのでは思います。

今回、ご紹介するのは私の記録としてはもっとも古いと思われるクハ1411形です。

1411_1437468
武蔵関~東伏見間を行くクハ1411形(おそらく1437)先頭の西武新宿線6両編成 1974年頃

クハ1411形国鉄モハ40形・60形を出自とする20m級車体の戦災被災車6両とこれに準じて1954年より、国鉄より払い下げを受けた木造車の台枠を流用し、新製したグループで1959年までに設計変更を加えられつつ39両が新製され、延べ45両の陣容となりました。

形態は国鉄払い下げ車の6両(半流線形の3両と切り妻形の3両)、1954年5月と9月に落成した9両で切り妻スタイルの鋼体化車(初期)といわれるグループ、そして1955年9月以降に落成した前面貫通扉幅が800mmに拡幅され、連結面側の妻面が切妻構造に変更されたタイプで鋼体化車(後期)と言われるグループの3つに分けられました。

今回、写真を紹介したのは、鋼体化車(初期)グループの貫通扉幅が狭いタイプで、奇数番号(新宿線の西武新宿向き)で当時の新宿線在籍車からクハ1437と判断したのだと思います。既にサボ方式から行き先表示幕方式に代わっています。

クハ1411形の最大の特徴は1/3室程度の運転室で、残りの2/3のスペースは直径7cm程度の金属製の棒が横に渡してあり、客室と区別されていたことです。鉄棒の太さよりはかなり太めでしたが、子供にとっては逆上がりの練習にちょうどよい高さの横棒だったように思います。

上の写真ではクモハ451形との2連ですが、中央線の101系を意識してか両開き扉のクモハ451形と片開き扉、1/3室運転台のクハ1411形のコンビはかなり珍奇なスタイルでありました。

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2013年9月12日 (木)

西ベルリンの思い出 パンナムのB727 N4752

今回は1980年10月PAM AMに買収されたNational Airlinesの保有していたBoeing727について触れようと思います。

N4752_cn_19472_591_boeing_727235_89
Boeing 727-235  (19472/591)   N4752  Clipper Surprise 1989/4/8 TXL

表1に基本型(-35 or -135)のリストを載せます。

Table_1_list_of_boeing_72735_3
これらのデータによると cn 18811~18817, 18845~18847, 19165~19167, 19833~19835の16機が4回に分けて発注されているものと想像できます。18811から19167までの13機はN4610からN4622までの通し番号でレジが与えられており、19833から19835の3機はN1957からN1959 までの前のグループとは全く関連のないレジが与えられています。

N4600番台の機体にはNational Airlines時代は女性の名前が付けられており、PAN AM時代にはClipperの愛称が与えられています。初飛行は1964年10月から、1966年9月頃までで、日本では東京オリンピックが開催され、日本の空でもBoeing 727が主力として飛び始めた時期ですね。少なくともN4600番台のレジが与えられた13機に関しては1980年10月のPAN AMによる買収まで一機も事故などで消失することなくPAN AMのフリートに加わっていることが分かります。

N1957からN1959のレジの与えられた3機に関しては、Airliners.netなどで調べるとPanAM時代の写真はなく、American航空の塗装をした機体の写真が登録されています。Clipperの愛称も不明のことからPAN AMのフリートには加わらずAmerican航空に買収されたのかも知れません。

続いて、表2に-200型(-235)として製造された機体のリストを載せます。

Table_2_list_of_boeing_727235_3

こちらはcn 19450~19474までの25機で、発注も一度に25機の大量発注であったことが想像されます。レジもN4730からN4754まで一気に登録されています。例によってNational Airlines時代にはそれぞれに女性の名前が与えられ、中には改名しているものもあります。初飛行は1967年11月頃から1968年7月にかけてでデリバリーはその一週間後くらいになっています。ラインナンバー(ln)と初飛行の日付の関係をみるとほぼ一日一機のペースで完成していたことが覗えます。

N4752_cn_19472_591_boeing_727235__2
N4752 1989/4/8 TXL

ただこの25機の中には不幸な事故に遭遇した機体が2機あります。

最初はN4744のレジが与えられた機体で1978年5月8日、マイアミからフロリダのペンサコラに向かったナショナル航空193便においてペンサコラ空港RWY25にアプローチの際に高度を誤認してEscamba湾に墜落したものです。58名(乗客52名、乗員6名)の搭乗者のうち3名が死亡しました。1978年の事故であったので、PAN AMのフリートには加わっていません。

2機目はN4737のレジが与えられた機体で、1982年7月9日パンアメリカン航空795便マイアミ発、ラスベガス行きで、経由地のニューオリンズに寄航して、RWY10から離陸する際にウインドシェアによるマイクロバーストに遭遇し、墜落しました。乗客138名、乗員7名全員と地上で8名、計153名の尊い人命が犠牲となりました。この事故はBoeing727として38機目の全損事故、当時3番目のワースト事故、現在でも5番目のワースト事故で、全米では当時2番目のワースト航空機事故、現在でも8番目のワースト航空機事故とのことです。

これらのBoeing727のうちで比較的機齢の若い、もしくは状態の良かったものはPAN AMの倒産後、貨物仕様にコンバートされ、各国で使用された模様です。

今回の記事で表1、表2を作成するにあたり、Boeing社のProduction listのデータPanAmAir.orgのデータ (特にClipper name)、そしてAirliners.netの投稿写真に付加されている書き込みデータを参考に致しました。

昔は書籍のページを繰っての検索に時間を要していましたが、今はコンピューターで検索、コピーペーストでデータを集められるので、極めて効率的になりました。

次回の記事で、PAN AM仕様で発注されたBoeing727もしくは他の航空会社から購入したBoeing727について触れる予定ですが、National Airlinesの機体に関してはNレジもそのまま使用しているのに対して、Braniff, Northwest, Ozarkなどから購入した機体は新たなNレジを登録しています。

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2013年9月11日 (水)

公園保存蒸気 C58 407号機 大塚台公園

これまで都電の保存車両について、触れてきましたが、王子の飛鳥山公園や府中の郷土の森公園のように都電の車体だけでなく、蒸気機関車や電気機関車の静態保存がなされている場所もあります。そこで、このシリーズでは全国に保存されている蒸気機関車について触れて行こうと思います。

まずは、都電荒川線向原駅そばの大塚台公園に保存されているC58407号機です。

C58_407_130817_3
立派な屋根と柵に囲われて保存されているC58407号機。 2013/8/17 大塚台公園 地図はこちら Yahoo地図

大塚台公園の南側の入口は都電荒川線の大塚駅前~向原間の線路に面しており、C58407号機の姿も都電の車窓から見える場所にあります。

8809_130817_5
大塚台公園そばを行く8809号 2013/8/17

何とか上手く撮影すれば保存されている蒸気機関車と現役の都電のツーショットが撮れるのではと思いましたが、今回は断念しました。

C58_407_130817_2
説明板によると、汽車会社の製造で新規配属から廃車になるまで終生、北海道内で活躍したようです。

沖田祐作氏の機関車表のデータも載せておきます。

C58407     汽車製造大阪工場=2543   1946-12-29 S58.70t1C1T(1067)
車歴;1946-12-29
製造→ 納入;国鉄;C58407→ 配属[達21];札幌局→1946-12-29 竣工→
配置;苗穂→1949-03-01 現在;苗穂→1956-04-01 現在;苗穂→1956-01-00 函館→
      1964-04-01 現在;五稜郭→1973-08-12 苗穂→1974-03-20
廃車;苗穂→保存;東京都豊島区「大塚台公園」;C58407

C58_407_130817_14
デフレクターの前部分は当時の北海道スタイルで垂直に切り落とされていました。

C58_407_130817_5
また炭水車も通常のスタイルとはかなり違って容量が増量されているように思えました。

キャブのナンバー下にはちょっと恐ろしい形をしたタブレットキャッチャーの姿も見えます。車両自身は北海道のSLらしい特徴を残した貴重な鉄道遺産だと思います。

ただ全体を見た印象ではかなり各所に錆が出ており、塗装の剥げ落ちも目立ってきています。

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2013年9月10日 (火)

2013 夏 新潟の旅 12 EF81 723

今回の新潟の旅では逢う機会は少なかったのですが、EF81牽引の貨物列車も撮っていますので、触れることに致します。

今回は723号機です。富山機関区には現在、20両のEF81が配置されており,メンバーは

404 453 501 627 628 633 715 716 717 718 719 721 723 725 726 729 735 742 746 748

となっています。これらは大きく4つの出自の違うグループに分かれます。

404号機2013年1月18日に記事で触れましたように131号機の重連総括制御化改造機です。 
453号機1991年のダイヤ改正で本州 - 九州間貨物列車の増発に対応するため、400番台の増備としてJR貨物が新造した関門トンネル用特殊仕様車で、1992年までに5両 (451 - 455) が製作された中の一両です。
501号機は民営化後の貨物輸送量増加を受け、日本海縦貫線の輸送力を増強するためJR貨物が新造した一般仕様形式で、1989年に3両 (501 - 503) が製作された中のトップナンバーです。
そして、627~748号機の17両はもともと0番台として製造された機関車ですが、2012年春に国土交通省の鉄道に関する技術上の基準を定める省令によって、最高速度が100km/hを超える運転を行う際に、新たな保安装置(運転状況記録装置)の搭載が義務付けられました(同省令第86条の2)。これの有無による、JR旅客会社とJR貨物が所有するEF81の最高速度の相違を区別するために、2012年5月からJR貨物所有の0番台に対して車両番号が元番号に600を加算する措置が取られた結果、改番されたものです。

私も改番される前の現役のJR貨物所属のEF81は全て撮影済みでしたが、改番によりまた未撮影機が出来てしまいました。しかし、今回は全機捕獲と行ったモチベーションが上がらないのが正直なとことです(笑)。

というわけで123~723号機のこれまでの活躍ぶりを追っかけてみましょう。

まずは、車歴から、

三菱重工業三原工場=1995/1073= 三菱電機  1974-11-06 E100.8tBBB(1067)
車歴;1974-11-06 製造→ 納入;国鉄;EF81123→ 配属;関西支社→1974-11-07 配置;敦賀二→1984-02-01 富山二→1987-04-01JR 貨物;EF81123→配置;富山機関区→2008-04-01 現在;富山機関区

データは沖田祐作氏の機関車表によるものです。

これまでに2013年1月31日の記事(1981/11 北陸へ 7 鳩原(はつはら)ループでの撮影)で一度登場していますので,今回はそれ以外の写真を載せます。

Ef81_123
撮影日は不明ですが、HMの無い頃の寝台特急「日本海」を牽引して大阪に到着するシーンです。敦賀第二機関区時代で客車は24系24形だと思われます。

Ef81_123_861100
こちらは福井に到着する24系25形二段ハネの寝台特急「日本海」を牽引する姿です。1981/11 金沢の後、京都で用事があって移動する際に、福井で「日本海」に抜かれた際に撮影したもので、客車の最後尾の写真は2013年2月1日の記事「1981/11 北陸へ 8 客車列車」にアップしました。

以上が国鉄時代で、

Ef81_123_060621
山科にて 2006/6/21

JR貨物の機関車として更新機の白帯姿、さらに縦貫線の機関車に共通に見られる厳しい自然環境による塗装の痛みが痛々しい姿

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金沢にて 2008/9/5    触ると塗装が剥げ落ちるのではと感じさせる肌の荒れ

Ef81_123_101206
新大阪にて 2010/12/6 久しぶりの入場で塗装は一新され,久しぶりに美しい肌に

Ef81_123_110528_2
西高岡にて 2011/5/28 まだ塗装は1年前の状態を保っていました。

Ef81_723_130808_2
東三条にて 2013/8/8 今回の写真ですが、まだまだ塗装の状態は良い方でした。

2013年3月のダイヤ改正で富山機関区のEF81の仕業数は20で、通常運用の北限はA10仕業1657~1658列車での大館までとなってしまいました。南は百済まで入る運用がまだ残っていますが、JR東日本から購入したEF510-500番台が本格的に稼働すればEF81の淘汰が進むと思われます。ここ数年以内に、新潟付近を走る列車の車両が大きく変わることは確実です。

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2013年9月 9日 (月)

西ベルリンの思い出 パンナムのB727 N4751

西ベルリンのテーゲル空港で撮影した旅客機のシリーズ、今回はPAN AMの Boeing727のN4751です。

N4751_cn_19471_590_clipper_competit
N4751 cn19471/ln 590 Clipper "Competitor" 1989/6/25 TXL

今回もBoeing727のProduction Listを眺めながら727の発注の歴史を振り返って行こうと思います。

1.Boeing727-200型のローンチカスタマーとなったNortheast Airlines

後年デルタ航空に合併されて消滅したNortheast Airlines (-95)がcn19444から19449までの6機発注したことで、-200型の製造が開始されました。-200型のローンチカスタマーはNortheast Airlinesとなりました。

Northeast Airlinesはボストンをベースとした航空会社で1931年7月20日Boston-Maine AirwaysとしてPAN AM系の航空会社としてボストン~バンゴールをポートランド経由で結ぶ路線を受け持つ会社として創設されました。1940年11月19日にNortheast Airlinesに改名しています。第二次世界大戦中は米国陸軍の大西洋を越える大陸間兵員輸送を担当しましたが戦後は米国航空憲法により、大西洋横断輸送はPAN AMとTWAの担当に成ったため撤退を余儀なくされました。

コンベア240DC-3の時代はニューヨーク・ラガーディア空港より南、もしくは西への路線はありませんでしたが1956年にワシントン・ナショナル空港まで、さらに1957年に3機のDC-6Bをフリートに加え、ラガーディアからマイアミまでの路線を開設しました。同時期、ターボプロップ機のヴァイカウントを購入し数年は好調に推移しましたが1960年代初頭には財政危機に見舞われ返却することに、またジェット機は1959年にTWAからBoeing707を1機リース、さらに1960年に6機のコンベア880をリースしています。

1965年にはStorer Broadcastingに買収され、新しい機材とキャンペーンで復興を目指し、Boeing727の基本型(-95)を9機(cn19249~19252, 19595, 19596, 19836, 19837)導入しています。さらにDC-9FH-227も短距離路線用に導入しています。こういった新導入機にはその塗装からYellowbirdsの愛称が与えられました。その後、大手のEastern AirlinesNational Airlines との競争から再び財政危機に陥り、 1972年8月1日Delta Air Linesと合併することになりました。Northeast はDeltaのボストン地区担当ということになり、さらにそれまでDeltaが所有していなかったBoeing727が新たにフリートに加わりました。

2.National Airlinesについて

Northeastに続いてBoeing727-200を25機(cn 19450~19474)発注したのが、National Airlinesです。この航空会社の歴史は1929年にシカゴの実業家ジョージ・T・ベイカーがナショナル・エアラインズ・タクシー・システムという小さなチャーター機会社を買収したところから始まります。2機のライアン・モノプレーンを購入し、禁酒法が施行されていたこの時代に、カナダまで酒を飲みに行く客の輸送を行っていました。

1934年になると、他のアメリカの航空会社同様郵便航空輸送にも参入して路線を拡大。National Airlinesとなってからは、1944年に大手航空会社EasternAirlines抑えてジャクソンビル - ニューヨーク間の路線を開設。さらにフロリダ州に本拠地を移して、キューバへも路線を広げました。

しかし、1950年代に入るとDelta航空やNorthwest航空といった大手との競争で苦境に陥りました。このためマイアミのホテルと提携したパックツアーを企画したり、ニューヨーク - マイアミ間の夜行便を運航するなど積極的な対策を取りました。さらに1970年にはDC-8を使って長距離国際線であるマイアミ - ロンドン線を開設、さらにはワイドボディ機であるBoeing747DC-10を導入するなどの施策に出ました。

こうしてNational Airlinesはアメリカの中堅航空会社となりましたが、国内線・国際線とも大手航空会社に比べると市場での基盤は弱いままでした。

1978年から始まった航空業界の規制緩和を受けて、National Airlinesはフランクフルトやアムステルダムへも路線を開設。さらに買収によって規模を拡大しようと図りました。しかし買収は上手くいかず、逆にNorthwest航空やフランク・ロレンツォ率いるTexas AirなどがNational Airlines買収に向けて動き出しましたが、最終的には国際線大手のPAN AM(既にNational Airlinesの株式の25%を所有する大株主でした)に買収されました。国際線では世界中に路線を広げていたPAN AMでしたが国内線の路線網は殆ど無く、National Airlines買収で一気に国内線でも規模を広げようとしたのでした。こうして、1980年10月26日にNational AirlinesはPAN AMに吸収され、姿を消しました。

PAN AMはNational Airlinesを買収しましたが、National Airlinesの国内線はマイアミを中心に南北方向へ伸びる路線が多い一方で東西方向の路線が少なかったために、Pan AMの国際線との連携が得られませんでした。また、旧National Airlinesの社員の賃金をPAN AMの高い賃金に合わせてしまったために人件費コストが増加したことなどから、1970年代から悪化し始めていたPAN AMの経営はさらに悪化することになりました。結局、PAN AMにとってはNational Airlinesの買収は大失敗に終わり、National Airlines買収のわずか11年後の1991年には倒産に至りました。

今回はここまでにしますが、次回の記事ではNational Airlinesに導入されたBoeing727のその後の運命について触れようと思います。

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2013年9月 8日 (日)

保存中の都電5500形 荒川車庫おもいで広場の5501号

保存されている都電シリーズ、今回は荒川車庫おもいで広場の5501号です。

5501_130817
おもいで広場に保存されている5501号 2013/8/17

営業運転開始当初は「防振防音電車」と公式に呼ばれており、その他ベースになったアメリカの開発団体名から「PCCカー」とも呼ばれていました。PCCはElectric Railway Presidents’ Conference Committee(ERPCC)から由来しています。

1930年代後半頃、アメリカではモータリゼーションによる自動車の台頭に危機感を覚えた電鉄経営者たちによってPCCカーと呼ばれるさまざまな新技術を採用した高性能路面電車が開発され、1936年以降、全米各地の路面電車などに採用されていました。

都電5500形は日本の電車技術の水準向上を目指し、そのPCCカーの製造ライセンスを購入、当時のアメリカの最新技術を採り入れて製造した車両です。

5501と5502が最初に製造されていますが、まず5502がナニワ工機によって防音台車、無装架駆動方式で製造され、,続いてアメリカとのライセンス生産による純正PCCカー5501号が落成しました。これらは都電初、日本でも国鉄キハ44000形1952年:直角カルダン)、東武鉄道モハ5720形1953年3月:直角カルダン)、京阪電気鉄道1800型1953年7月:中空軸平行カルダンおよびWNドライブ)に次いで4形式目のカルダン駆動車でした。

5501 1954年5月29日竣工。ナニワ工機製
5502 1953年11月21日竣工。ナニワ工機製

5501はその先進的な機器が祟って故障が多く、また足踏みペダル操作など特殊な操作方法を求められたために乗務員からも不評を買ったそうです。そのため、増備車はPCCカーのライセンスを使用せず、5502を改良したものとすることとなり、以下の5両が製造されました。
5503・5504 1955年11月竣工。ナニワ工機製
5505 - 5507 1955年12月竣工。ナニワ工機製

これら7両は、同じく試作機器を搭載する6500形6501および7000形7020と共に機器の特殊性から芝浦にあった交通局車両工場に最も近い三田車庫に配置され、幅広の大型車体であったため運用可能路線が限られたことから、直線主体の経路で以前から車体幅の広い5000形が運用され、しかも都内有数の繁華街である銀座を経由する1系統(品川駅前 - 三田 - 銀座四丁目 - 日本橋 - 須田町 - 上野駅前)限定で運用されました。

正規のPCCカーである5501においては、高額の特許使用料がネックとなって艤装図面を購入しなかったことにより、制御器限流リレーの不確実動作が頻発したほか、主電動機・機器室への冷却風量不足などが問題となりました。台車も製造ミスによるビビリ振動が発生するなど、トラブルが当初頻発しました。これらのトラブルは日本国内の他社局に純正PCCカーの製造を断念させる一因となりました。

また、5501のペダル式マスコンによる力行・制動操作は、この方式を採用するのが同車のみであったために習熟する機会が少なかったことなどから乗務員に嫌われ、1960年に車両工場で通常の縦軸マスコンに改造されました。

本形式の集電装置は当初菱枠パンタグラフでしたが、5503は新造後間もない1956年3月にZパンタグラフへ換装、その後1958年6月以降5503を含む全車がビューゲルに換装されました。

本形式は製造後12年から14年の間、東京都電の看板電車として運用されましたが、1967年12月の第1次都電本格撤去に伴う1系統廃止の際、特殊な機器を備え運転も保守も共に難しく、また車体が大きく他車庫・他系統への転用が難しかったことから、車体寸法面で運用可能系統の制約はないものの、本形式と同様の事情で運転・保守に難のある6501・7020と共に廃車されました。

5501_130817_2
おもいで広場に展示されている5501号の説明

その後、トップナンバーである5501については1系統ゆかりの地である上野公園にて保存展示の措置がとられましたが、それ以外は全て三田車庫で解体処分されました。

こうして保存された5501でしたが、上野公園では野外で屋根を設けず展示され、しかも塗装の塗り替えなどのメンテナンスも満足に行われなかったため、時が経つにつれて荒廃が進みました。

そのため、1989年に荒川電車営業所に移送され、1991年に一度修復を行いました。しかし、それからも歳月が経過し、近年は倉庫代わりとなって吊り手などの部品を愛好者向けに売却、荒川車庫の片隅に雨ざらしで放置され、車体が相当に腐食していましたが、東京都交通局では再度修復の上、荒川車庫内に専用スペースを設けて静態保存することとなりました。

これに伴い荒川車庫から2007年3月中に搬送され、車体を修復の上、同年4月に荒川車庫隣の展示予定スペースに搬入され、5月26日より「都電おもいで広場」としてギャラリーを兼ねた形で7500形7504号とともに土・日曜日、祝日、振替休日のみ公開されています。

以上、Wikipediaの記事を参考に纏めました。

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2013年9月 7日 (土)

2013 夏 新潟の旅 11 485系 T編成

この夏の新潟の旅では、9月末から置き換えが始まる485系いなほ」も重点的に撮影しました。

新潟車両センターの485系T編成(いわゆる上沼垂色の編成)は2013年7月25日の記事でも取り上げましたが、正直「いなほ」で活躍する姿は殆ど撮っていませんでしたので,今回は羽越本線を北上する機会もありましたので,その際に撮影を試みました。

485_t11_130809
         余目駅に進入する「いなほ3号」 T11編成 2013/8/9
この写真の奥の方で線路が左右に分岐しているのが見えますが、左が陸羽西線、右が羽越本線です。開業の歴史からは2013年9月4日の記事で触れましたように陸羽西線の方が先に開業しているのですね。

これまで逢う機会がなかったT12 編成は「北越」で遭遇しました。

485_t12_130808_18
同編成の金沢よりの先頭車はクロハ481ですが、分散式エアコンに着目すると、ロ室のエアコンのタイプはAU13からAU112に換装されているという記事を鉄道ピクトリアル誌No879で目にしていたものですから、確認してきました。

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  グリーン室上の2個は一般室上のものとはタイプが異なっています。2013/8/8 新潟

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桑川駅中線に待避中のEF510牽引貨物列車を撮影しようと今川方面に向かって歩いていたらやって来たT13編成による「いなほ5号」 2013/8/8

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新発田を発車するT14編成による「いなほ2号」 2013/8/7

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新発田駅に到着するT15編成の「いなほ2号」 2013/8/8

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新津駅に到着するT16編成の快速「くびき野」 2013/8/8

485_t16_130808_4
T16編成クロハ481-1011のロ室のエアコンはAU13のままでした。

485_t17_130808
東三条駅に到着するT17編成による快速「くびき野」 2013/8/8

3日間の撮影でT編成に関しては全編成を撮影することができました。

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2013年9月 6日 (金)

西ベルリンの思い出 パンナムのB727 N4748

西ベルリンに留学した1年間に撮影した飛行機の話題を中心に展開しているシリーズ、今回はテーゲル空港で写したパンナムのBoeing 727-235 N4748です。

N4748_cn_19468_567_boeing_727235_89
N4748 (cn19468/567) 1989/4/8 TXL  機体尾部の引き込み式のタラップが降ろされています。レドームも外されてレーダーの調整が行われているようです。

今回はBoeing 727のProduction Listを見ながら、そこから読み取れることについて触れて行こう思います。

Boeing社の航空機には一機ずつconstruction number (cn)とline number (ln)が付けられており、construction numberは5桁で発注に対してアサインされたnumberです。発注後、キャンセルされた場合やオプションとしての発注で実際は製造されなかった場合もそのまま番号は残ります。一方、line numberは機種別に製造順に振られたナンバーです。

そこでBoeing 727のProduction Listをcn順やln順に見てゆくといろいろと面白いことが見えてきます。

まず、cn順から見ると最初の727はcn18252でイースタン航空(-25:この数字はBoeing社のカスタマーコード)の発注でした。言うなればBoeing社が727というモデルを提案してEastern 航空が経営戦略的に考えてこのタイプを導入すべきと判断して、Boeingが製造し始める、いわゆるローンチカスタマーの役割を務めたのですね。Eastern航空の歴史をみると727以外に、Boeing機では757、ロッキード機ではエレクトラ、トライスターL-1011のローンチカスタマーを務めています。これらはcn18291まで40機の発注でN8101NからN8140Nまでのレジがアサインされています。

続いてユナイテド航空(-22)がcn18293からcn18332まで40機発注しており、N7001UからN7040Uのレジがアサインされ、N7001Uがlnの1で、製造1号機となっています。

ルフトハンザ航空(-30)がそれに続いて12機発注しており、cn18360-cn18371がアサインされています。レジはD-ABIBから始まっており、D-ABIAはcn19011/ln 387の727-30Cにアサインされています。

その後、ノースウエスト航空(-51)が一機だけ、cn18420/ln 243 (N727US)を発注、続いてアメリカン航空(-23)がcn18426から18450までの25機を発注、再びユナイテド航空が1機発注し(cn18464)、これが製造2号機になっています。

その後トランスワールド航空などが発注していますが、日本の航空会社の発注はcn18821-18823の全日空JA8301~8303が最初となります。JA8302は1966年2月4日に札幌~羽田のNH060便で東京湾に墜落し、当時単独機としては133名の犠牲者をだす大惨事となりました。この事故の発生と事故調査の様子は柳田邦男氏の「マッハ恐怖」や実際に事故調査にあたられた山名正夫氏の「最後の30秒」に詳述されており、これらの本を読んだことが航空機に興味を持つきっかけでもありました。同事故後、日本で運航される全ての旅客機にフライトデータレコーダーやボイスレコーダー搭載が義務づけられました。

1965年から1969年にかけての727-100の発注の頃は運輸省が「国内線のジェット旅客機は同一機種で」という通達を出しており、日本航空(-46)も当時の日本国内航空(-89)も727を発注し、それぞれcn18874-18879がJALにcn19138,19139がJDAにデリバーされました。

N4748_cn_19468_567_boeing_727235__2

当時、国際線専門だったパンアメリカン航空(-21)が727を発注したのはcn18992が最初で19262まで数次に分けて25機の基本型(-100型)を導入しています。

-200型に関しては次回の記事で。

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2013年9月 5日 (木)

保存中の都電6000形 5 府中市郷土の森交通遊園の6191号

東京都内各所に保存されている都電6000形車輌を訪ね歩くシリーズ、今回は府中市郷土の森公園の中の交通遊園の6191号です。

6191_130813_2
東京都府中市郷土の森公園内に保存されている6191号車 2013/8/13

府中市郷土の森は府中市の南の端、多摩川のそばにあります。案内等には府中本町駅から徒歩で行けると書いてありましたが、炎天下歩くのは辛かったので往きは京王線府中駅から「ちゅうバス」(府中市のコミュニティバス)で芝間稲荷神社で下車し、5分ほど歩きました。帰りは分倍河原までバスに乗りました。

130813
ここには都電6191号だけでなく、D51296 号機EB10 1号機、京王バス、消防車が保存されています。D51とEB10に関しては後日、別の記事で紹介します。

6191_130813_15

6191号と京王バス、D51の位置関係

Ef66_27_130505_3
              京王バスはこういったタイプでした。

130813_2

 

                        交通遊園には定番の消防車も展示されています。

この6191号機に関してはWikipediaに書かれていますが、
かつては2011年まで同市内を走行していた京王6000系の旧塗装とほぼ同じカラーに塗られていたものの、荒廃が著しかったが、2004年頃から岸由一郎氏を中心にファンや地元住民のボランティアによって修復がなされ、現役当時さながらの外観を取り戻した。有志による修復作業は外観のみならず、内装、果ては機能面にも及び、今なお進行中である。2007年12月時点では警笛や自動ドアが復元されており、さらに修復作業中には再現したサボが取り付けられている。台車がD-16型ではなくD-10型になっているが、これは上記の6152と交換したという説が有力である。

とのことで、私は今回が初訪問でしたが、美しく修復されていると感じました。

6191_130813_6
正面から

6191_130813_5
サイドから

6191_130813_8
台車は確かに組み立て方式のD-10ですね。

6191_130813_14
近くの階段を上れば屋根上を見ることも可能です。

6191_130813
そして修復の過程がこのように写真付きで展示されていました。

これまでにも多くの保存車両が保存されたのは良かったものの、その後の管理が悪く朽ち果てて行き、終いには解体撤去となってしまったケースも多かったと思います。それをボランティアで美しい形に保つ努力は大変なことかと思います。ここまで美しく復元された方々の努力に敬意と感謝の気持ちをこの場で表明したく思います

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2013年9月 4日 (水)

2013 夏 新潟の旅 10 陸羽西線新庄 そして酒田へ

この夏の新潟の旅では、青春18切符を出来るだけ利用して、遠乗りをするということで、未乗であった陸羽西線にも乗ってみました。

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早朝の新潟駅1番線で出発準備をする村上行き快速電車 E127系6連V6編成他 手前のホームには弥彦線カラーの115系Y3編成 2013/8/9

新潟を朝4時56分に出発する村上行きの快速3921M に乗車し、終点村上へ。この列車、E127系3組の6連の運用ですが、特急「いなほ」並の停車駅の少なさで、豊栄、新発田、中条、坂町、村上しか停まらず、56分で村上に到着しました。因みに特急「いなほ」の場合は停車駅は同じですが、所要時間は46分から52分となっています。村上駅で5時56分発酒田行き821Dに接続しますが、なんと821Dが停車している同一ホーム2番線に入線します。村上に入線する際に通常よりもかなり速度を下げて入線するのは何でだろうと思っていましたが、到着して訳が分かりました。

130809
まだ夜の明けきらない村上に1時間弱で到着 2013/8/9

村上からはキハ40系3連で編成された「全て電化区間を走る気動車」で羽越本線を北上します。乗車したのは8月9日で秋田県から岩手県にかけて集中豪雨となり、土砂崩れ等で犠牲者も出た日で、北上するにつれて梅雨空のような空模様となりました。車窓を見ると村上を出て三瀬辺りまでの1時間15分は海岸まで岩山がせまり、海岸縁の狭い平地の上を線路が北上する感じで、特に桑川~今川辺りの笹川流れは絶景でした。新潟と山形の県境は鼠ヶ関の手前で越えますが、最近は平成の大合併で鼠ヶ関も鶴岡市の一部なんですね。鼠ヶ関は白河関、勿来関とともに奥羽三関と呼ばれ東北地方の玄関ですね。

三瀬を過ぎると線路は内陸に入り、穀倉地帯を通過し、鶴岡に到着します。鶴岡には親戚もいるのですが、今回は列車の時間の関係でパスして引き続き北上します。鶴岡は平成の大合併で東北地方で最大の面積の市となり、人口も山形県で2位となったそうですね。江戸時代は庄内藩酒井氏の城下町でした。3分停車した後、鶴岡を出発すると3つ目の駅が陸羽西線の分岐駅である余目です。ここで陸羽西線の新庄行き152Dに乗り換えです。この列車、酒田発の列車だったようですが、余目で下りの821Dと接続し、3分停車で発車しました。陸羽西線の気動車キハ110系には奥の細道ラインの愛称と独特の塗装がなされています。130809_3
余目駅の駅名標、ホーム毎に駅名標の標示方式が異なっていました。 2013/8/9

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酒田発の152D が余目駅の陸羽西線ホームで羽越本線の下り客を迎えて発車します。 2013/8/9

余目からの陸羽西線は最上川に沿って上ることになりますが、狩川辺りまでは平地を走りますが、清川、高屋、古口、津谷と最上川渓谷沿いを走り、こちらも絶景路線です。秋の紅葉の季節は素晴らしい色彩の展開が見られると思います。余目~新庄間では古口のみに交換設備があり、他の駅は行き違いの出来ない構造でした。途中、古口で列車交換のため3分間停車し、52分で新庄に到着しました。

130809_2
高屋付近のスノーシェッドを通過 2013/8/9

<陸羽西線>

1913年に新庄 - 古口間が酒田線として開業したのが始まりです。酒田を目指して小刻みに延長を繰り返し、翌1914年に全通しました。開業当時は、羽越本線が酒田まで伸びておらず、酒田線が、酒田で最初の鉄道路線でした。1917年には、陸羽東線の全通に伴って新庄 - 酒田間が陸羽西線に改称されました。

以降は、酒田から秋田方面へ、余目から分岐して村上方面へと路線が延長され、1923年には新庄 - 羽後岩谷間・余目 - 鼠ヶ関間及び酒田 - 最上川(現在の酒田港)間の貨物支線が陸羽西線を名乗りました。

1924年に秋田から羽越北線が羽後岩谷まで延伸されると、陸羽西線の羽後岩谷 - 鼠ヶ関間及び貨物支線が羽越北線に編入され、羽越線に改称され、陸羽西線は現在の区間となりました。

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酒田から152Dで新庄までやって来た編成がそのまま陸羽東線の列車となって小牛田へ 2013/8/9 新庄

新庄は訪れるのは1991年11月以来、22年ぶりですが、前回はクルマで来ているので鉄道駅として利用したのは初めてです。なんといってもユニークなのが”エ”の字の様な構成のプラットホームで、1999年12月4日の山形新幹線新庄延長で現在のような構造になりました。奥羽本線のレールが山形側(南)は標準軌、秋田側(北)は狭軌となるため、その境目にホームを渡してバリアフリーで乗り換え可能にしています。5番線だけは陸羽東線の接続の関係から狭軌線路が繋がっています。南からの山形線には山形新幹線のE3系1000、2000番台だけでなく、719系5000番台701系5000番台も活躍していました。一方、北側の奥羽本線には701系基本番台が活躍していました。

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山形線で各停などで活躍中の719系5000番台 2013/8/9 新庄

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719系が発車した後には、E3系2000番台が停車中でした。 2013/8/9 新庄

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標準軌の台車を装備した701系5000番台 2013/8/9 新庄

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秋田方面には狭軌の線路が敷かれたホームが 2013/8/9 新庄

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秋田方面から到着した701系N33編成 2013/8/9 新庄

かつては貨物も扱っていたようで駅北側には煉瓦造りの機関庫や転車台などもありました。新庄の駅前を散策した後、10時14分発の157Dで陸羽西線を戻り、酒田に向かうこととしました。

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秋田方向を眺めると煉瓦造りと思われる機関庫が 2013/8/9 新庄

酒田には11時18分に到着しましたが、多くの乗客はそのまま秋田方面に向かうようでした。新庄同様、酒田でも駅周辺を散策し、軽い昼食を摂って12時10分発の鶴岡行きで余目まで行くことにしました。これは時刻表を調べたところ、下りの「きらきらうえつ」の到着時刻がその後の村上行きの発車時刻とほぼ同じ時刻であることが分かったために、「きらきらうえつ」を撮影するのならば酒田より、余目の方が良いと判断したためでした。

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酒田以北の各停に使用されている701系100番台編成 2013/8/9 酒田

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酒田駅の秋田より電留線には首都圏で運用を外れた211系の疎開留置が見られました 2013.8/9

酒田を発車後、砂越を過ぎると最上川の橋梁を渡ります。ここで2005年12月25日夕刻、上り特急「いなほ14号」2014Mが突風に煽られて脱線し、3両が転覆し、先頭車両に乗っていた5名が死亡、32名が重軽傷を負うという「JR羽越本線脱線事故」が発生しました。列車からも見える線路脇の一角に慰霊の園が設置され、祭壇に花が生けられておりました。

余目で「きらきらうえつ」下り「いなほ3号」を撮影した後、13時11分発の826Dに乗車し、朝来た線路をひたすら南下します。カタンコトンと単調な音からいつの間にか眠りの世界に引き込まれ、気づいたら15時4分、村上に到着していました。村上からは3分の接続15時7分発の940Mで新潟へ戻りました。

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2013年9月 3日 (火)

西ベルリンの思い出 パンナムのB727 N4746

西ベルリンのテーゲル空港で撮影した旅客機、今回はBoeing 727-235のN4746です。

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僚機A310の後をタキシングするN4746 (cn19466/561) Boeing 727-235  1988/12/4 TXL

西ベルリンのテーゲル空港はヨーロッパにおけるパンナムのハブ空港としての機能が与えられており、当時のタイムテーブルをみると、バーゼル、ブレーメン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルク、ハノーファー、インスブルック、キール、ケルン・ボン、コペンハーゲン、ミュンヒェン、ニュルンベルク、オスロ、ストックホルムに直行便を運航していました。そして、機材はB727-200をメインに、搭乗客の多いフランクフルト線はAirbusA300, A310、比較的少ないインスブルック、キール線などはATR-42-300が投入されていました。フランクフルト、ハンブルクなどではニューヨーク行きの大西洋横断便に接続していました。

N4746_cn_19466_561_clipper_intrepid
Boeing 7271956年2月に、それまで使われていたダグラスDC-4コンベア440などの当時のプロペラ旅客機を代替し、ボーイング707より搭載力が小さい短・中距離用のジェット旅客機として開発が開始されました。

当初はボーイング707の短縮型(Boeing 720)や、先に就航していたフランス製のシュド・カラベル同様の2発エンジンも考慮されましたが、イースタン航空やユナイテッド航空、アメリカン航空などへのヒアリングを行った結果、エンジン故障時の安全性や、高地にある空港からの離着陸時の推力を高める点、更にカリブ海路線におけるETOPS対応などから、最終的にT字尾翼に機体後部3発エンジン搭載のレイアウトが採用され、1963年2月-100型が初飛行しました。

路線への就航は、1964年2月に当時アメリカ有数の大手航空会社であったイースタン航空より始められました。優秀な性能と小回りの効く機体サイズにより世界各国の航空会社からの発注が相次ぎ、短・中距離線のジェット化に貢献することとなりました。

なお、ライバル機としては同じくT字尾翼に3発エンジンのイギリス製のホーカー・シドレー トライデントやソビエト連邦のツポレフ Tu-154などがあった他、より小型のシュド・カラベルマクドネル・ダグラスDC-9、さらにターボプロップ機のロッキード L-188とも競合しました。また、ボーイング707の胴体を短縮し中距離用としたボーイング720の代替機ともなりました。

その後各社からの座席数増加の依頼に対応し、原型の-100シリーズに次いで胴体延長型の-200シリーズが生産された他、-200シリーズの機内装備をアップグレードし、「ワイドボディルック」と呼ばれた大型のオーバーヘッドストウェッジなどを装備した-200アドバンスモデルも生産されました。

1970年代後半には、更に各種機能をアップグレードし2人乗務化した-300シリーズも計画されたものの、後継機とされた双発で2人乗務機のボーイング757ボーイング767の受注を増やすために1984年に生産が中止されました。それまでに生産された機体は1,832機にのぼり、これは当時のジェット旅客機の最高記録でした。

その後双発で燃費効率がよい上に、2人乗務で運航コストが低いボーイング737NGエアバスA320がデビューしたことや、騒音規制が厳格化したことから、1990年代後半以降にアメリカン航空やユナイテッド航空、デルタ航空などの大規模なカスタマーからの引退が相次ぎ、2000年代に入ると先進諸国の定期旅客路線からほぼ姿を消しました。

現在はアメリカや中南米、アフリカなどで少数がチャーター便や定期旅客路線に就航している他、エンジンを換装し騒音規制に対応させた上で、貨物機やプライベートジェットとして使用されています。

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ネガがだいぶやられていますが、B707譲りのノーズの形がよく分かります。 中央の第二エンジンの空気取り入れ口の形が-200シリーズでは真円形、-100シリーズでは縦長の楕円形でした。 1988/12/4 TXL

構造的特徴としてはBoeing社唯一の3発ジェット(合併で傘下に入ったDC-10, MD-11は除いて)となったことと、離着陸性能向上のために、前縁一杯のスラットおよびトリプル・スロッテッド・フラップなど、それまでにない強力な高揚力装置を備えていることです。主翼の後退角は32度と深めで、3発エンジン・T字尾翼・強力な高揚力装置の組み合わせにより、上昇・下降などの運動性能は優秀でした。但し、プロペラ機よりもその下降率は大きなものとなり、登場後初期には、下降率の見積もりミスなどによるパイロットによる墜落事故が何件か発生しました。また、搭乗・降機時の利便性のために機体尾部に引き込み式のタラップ(エアステア)がついており、設備があまり整っていない中小の空港ではよく使用されています。私も降機の際に利用した経験があります。

-100型:初期生産型。-100型という呼び名は当初はなく、-200型の生産が開始された1967年以降に付きました。それ以前に生産された機体の型式名は727-81、727-21Cなどとなっています。

-100C型:貨客両用型。機体構造の強化および貨物ドアを追加。旅客型の内装も可能。

-100QC型:QCはQuick Changeを意味します。貨客急速転換型。客席パレットの設置により、貨物型と旅客型の転換を行うが所要時間は30分程度で済むものとなっています。

-100QF型:既存機のエンジン換装型。QFはQuiet Freighterを意味します。R&R テイ・エンジンに換装し、騒音を軽減させています。

-200型:-100型の胴体を主翼の前後で3mずつストレッチした型。中央エンジンのインテイクも改良された。1967年7月初飛行。

-200F型:貨物型

-200 アドバンス型:内装の改良および燃料タンクの増設。

このほか、低騒音・低燃料消費型の新エンジンに換装、双発機としウィングレット後付け等の改修を施された機体「スーパー27」が構想されたことがあります。ボーイング社の計画としては実現しませんでしたが、改造業者によって両舷エンジンをJT8D-217に換装しウィングレットを装着、フライトマネジメントシステムを装備した性能向上型が実際に運用されており、これをスーパー27と呼ぶことがあります。

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2013年9月 2日 (月)

保存中の都電6000形 4 南大塚公園の6162号

都電の保存車両を訪ね歩いているシリーズ、今回は豊島区立南大塚公園に保存されている6162号です。

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南大塚公園はJR山手線・都電荒川線大塚駅から歩いて行ける距離にありますが、私は神明町車庫跡公園を訪問した後に都営バス上58から千石3丁目で上60に乗り換え、巣鴨小学校で降りてアクセスしました。巣鴨小学校のバス停で降りたらば、すぐそばの坂道を登ったところに南大塚公園がありました。

130817
公園の南側の入口 2013/8/17

如何にも区立の公園と言った感じで遊具などが整備されている一角に立派な屋根付きの柵に囲われて6162号は保存されておりました。

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公園の北側の入口 

この柵が立派すぎて保存されている6000形の魅力が半減しているようにも感じました。あとは車両本体の塗装ですが、薄茶色のボディに空色の帯でしたが、この塗装は6000形としては実際になかった塗装だそうですね。折角の保存車体をこんな表現で紹介するのは残念ですが、屋根を残して、車体周りの網を撤去して、車体の塗装を本来の塗装にすればもっと魅力的な展示物になるのではと思います。

6162_130817_6
折角の保存車体なので・・・

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2013年9月 1日 (日)

2013 夏 新潟の旅 9 湘南カラーの115系

今回の新潟旅行の目的のひとつはE129系の投入が発表され、置き換えが現実のものとなっている115系の写真の充実でした。

今回の新潟旅行では4両編成のL編成(L6編成)と3両編成のN編成(N2編成)に湘南カラーがいることに気づきました。2005年までの新潟の旅ではJRカラーの115系は見ていましたが、国鉄オリジナルカラーに戻された115系は新潟地区では見ていなかったので新鮮でした。

まずはL6編成です。

115_l6_130808
新発田に到着した村上行き 923M 正面からでもAU712搭載車であることが分かります。 2013/8/8

この編成が湘南カラーに変更されたのは手元の編成表では2011年7月19日のことだそうで登場からほぼ2年が経過しているのですね。

メンバーは

←柏崎・新潟           東三条・村上・長岡・柏崎→
クハ115-1503+モハ115-133+モハ114-119+クハ115-2035

で、冷房装置はAU712タイプ、電源は各車にSIVを搭載、コンプレッサーはモハ114に装備されています。モハユニットは特別保全工事が実施されています。

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新発田を出発する923M 上り「いなほ1号」2002Mが接近してきています。 2013/8/8

続いてN2編成です。こちらも2011年7月21日に湘南カラーで出場しています。

115_n2_130807_2 

湘南カラーのN2編成 2013/8/7 新潟

メンバーは

←柏崎・新潟    東三条・村上・長岡・柏崎→
クモハ115-1043+モハ114-1059+クハ115-1043

冷房は集中式のAU75系、電源はモハ114にSIVを搭載しています。

115_n2_050323
同編成は青基調の塗装時代にも新潟駅で撮影していました。 2005/3/23

登場から2年、E129系による置き換えの時期を考慮すると、これらの編成はおそらくこの塗装のまま活躍を終えるように思います。

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