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2013年10月10日 (木)

西武鉄道 赤電の時代 501系 新宿線・国分寺線編

西武鉄道の赤電時代を懐かしむシリーズ、501系(第二代)の2回目は新宿線と国分寺線編です。
501
中線があった頃の東伏見駅に停車中の501系 サボから行き先表示器への移り変わりの時期でまだサボ入れの枠が残っています。パンタグラフもPS13です。

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新宿線武蔵関~東伏見間を行く501系4連 1974年頃

初期車グループに属するサハ1501 - 1510の屋根周りを中心とした木部の老朽化が著しくなったことから、1969年から修繕工事が施工されました。後に対象は全車におよび、工事内容は以下の通りです。

屋根部を中心に木部の修繕
屋根部ビニールの撤去・塗装仕上げ化
雨樋の鋼製化
側窓のアルミサッシ化(側窓枠下段のみ)
車内座席下蹴込み板のステンレス化
サハ1501形偶数車の飯能・西武新宿寄り車端部に両開き貫通扉を新設

その他、車内送風機の扇風機化、先頭車前面窓内側に行先表示幕の新設、ATSの整備および列車無線の搭載等が実施されたが、前照灯のシールドビーム化は本系列に対しては施工されませんでした。

501_3
国分寺駅に到着する空気バネ台車装備の501系4連 

JR側の国分寺駅は大きくかわりましたが、西武線の方は今でもこんな感じかと思います。

501_2_2
かつては国分寺が西武線と国鉄線の貨物やりとりのターミナルでしたので、E851を始め多くの西武電機がこうやって中線にいました。

国分寺線は、西武鉄道で最も歴史の古い路線であり、1894年に川越鉄道が敷設した路線です。当初は、国分寺駅 - 川越駅(現在の本川越駅)間が本線でした。川越鉄道は甲武鉄道の子会社であり、現在の中央本線と直通する飯田町駅 - 川越駅(国分寺駅経由)間運転の列車も設定されており、1927年に東村山駅 - 高田馬場駅間(現在の新宿線)が開業すると国分寺駅 - 東村山駅間は分離され支線となり、現在の形態となりました。

私も小学校第2学年の秋(1963年)から第4学年(1965年)の12月まで小川~国分寺間を毎日通学しており、国分寺線は慣れ親しんだ路線でした。当時の主力はモハ151形でした。

モハ151形はもともと村山線(現在の新宿線高田馬場駅 - 東村山駅間)開業に合わせ増備された車両で、制御電動車モハ550形と制御車クハ600形から成る2両編成でした。1927年川崎造船所でモハ550 - 559の10両、翌年にはモハ560・561、及びクハ600 - 607の2形式10両、合計20両が製造されました。

車体は17m級の全鋼製で、ウィンドシル・ヘッダー付でした。阪神急行電鉄に登場した600形を端緒として、同時期に目黒蒲田電鉄・長野電気鉄道・豊川鉄道などに導入された、深い屋根と前面・側扉上の雨樋、おわん形ベンチレーターが特徴のいわゆる「川造形」と呼ばれる車両で、三面折妻・非貫通の前面で、形態としては長野の形態に似ていました。登場当初、前照灯は窓下中央に取り付けられていました。側面の窓配置は1D6D6D1で客室の座席配置はロングシートでした。シート両脇の肘掛け部分のスタイルも独特の形態をしていました。

1940年5月モハ100形101 - 112・クハ1100形1101 - 1108に改番され、武蔵野鉄道・西武鉄道の合併による西武農業鉄道発足を経て、1948年6月の一斉改番でモハ151形151 - 162・クハ1151形1151 - 1158に改番されました。1955年3月に161・162が電装解除され、1159・1160に改番されています。また、淘汰が進行していた1964年に、156が電装解除され1156(2代)となっています。後継20m車の増備に伴い1964年から1966年にかけて順次廃車になりましたが、20両全車が地方私鉄へ譲渡されました。

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津軽鉄道を2010年10月に訪問した際に五所川原駅で見かけたキハ22 2207の写真に写り込んでいたナハフ1200形(1202,1203)のどちらか 2010/10/23

深い屋根、お椀型ベンチレーター、客用扉上の弓状の水切り等、西武鉄道時代の特徴をそのまま残していました。

朝日新聞社から発刊されていた年鑑の「世界の鉄道」1973年版(地方私鉄の特集)で各地で活躍する西武151形の姿を見て、懐かしく感じました。

話は脱線してしまいましたが、501系の晩年は主電動機の出力的余裕から西武秩父方面のハイキング急行などにもよく運用されました。しかし101系の大量増備に伴って従来車の代替が進行すると、比較的車齢の高い本系列も修繕工事施工から日が浅かったにも関わらず代替対象となりました。311系および371系の淘汰が完了した後、かつて同一形式であった351系(元モハ501 - 520初代)と同時進行で淘汰が開始されました。

伊豆箱根鉄道へ貸与されるため1975年2月529編成が運用離脱したことを皮切りに順次廃車が進行し、1980年3月限りで全車運用を離脱、形式消滅しました。

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コメント

B767-281さん、こんにちは!!(^^)東伏見駅…昔は中線があったんですか⁇今と全然違いますね。まさか、この頃、東伏見駅では…各停が中線に停車して、急行の通過待ちをしていたとか??んな訳ないですね。501系は、この頃は新宿線でも走っていたんですね。パンタグラフの形が違うのに驚きました。国分寺線でも501系が走っていたとは!!501系って…池袋線・新宿線の本線で走っているイメージしかなくて、国分寺線のような支線で走っているイメージはなかったです。

マスダっち さん、501系の記事にもコメントありがとうございます。

私の記憶では東伏見では下りの追い越しが行われていたように記憶しています。

私も高校時代1971年から74年ですが、この駅を利用していました。

501系は当初は池袋線がメインの働き場所でしたが、101系が増備されてくると言わば都落ちのような形で支線の運用を担当するようになったのだと思います。

B767-281さん、こんにちは(^^)501系で思い出した事があります。501系で…中間の車両2両が、画像のような窓配置と片開きドアが不揃い(失礼!!)のじゃなくて、先頭車両と中間の車両2両が、窓配置と片開きドアがほぼ同じの501系って、当時新宿線で走っていましたか⁇分かりにくい質問で…申し訳ございませぬm(_ _)m

マズダっちさま、こんばんは。

>先頭車両と中間の車両2両が、窓配置と片開きドアがほぼ同じの501系って、

ご質問、ありがとうございます。

さすがに、時間が経っているのと、501系自身を新宿線で見た記憶があまりないので、折角のご質問ですが、分からないとしか言えませんです。

すみません。

B767-281さん、こんばんは。そうなんですか。申し訳ございませんm(_ _)m分かりにくい質問をしちゃいまして(ー ー;)でも…501系が新宿線に移動したのは…101系の増備で都落ちのような形だったとは。この頃というと、西武新宿駅は…西武新宿PEPEが開業していなくて建設の真っ最中ですね。高田馬場のビッグボックスは多分開業しているでしょうね。西武新宿駅って…どんな感じだったのか気になりますな。

マスダっち さん、再びこんばんは。

そうですね。早速調べて見ました。

BIG BOX(ビッグボックス)は、1974年5月5日にオープンした西武鉄道が所有している商業ビル
1977年3月3日 - プリンスプロムナード・ペペ(現在の西武新宿ペペ)開業

ということですので、1974年5月から1977年3月の間ですね。

私は大学に入学してから3年終わる頃です。1,2年の頃は吉祥寺から井の頭線を使っており、西武線とは離れていましたから、記憶が薄いのかも知れません。3年から、1983年3月までは主に保谷から、池袋線でした。時々、新宿線で高田馬場~東西線というコースも取っていたように記憶しています。かれこれ40年近く前の話ですね。

B767-281さん、こんばんは(^^)よくよく見ると…国分寺駅の西武国分寺線ホームは昔はこんな感じだったんですね。501系は空気バネ台車装備だったんですね。1980年3月に西武で全廃になって、晩年は伊豆箱根鉄道・三岐鉄道・流鉄に譲渡されたんですよね??501系は。

マスダっち さん、こんばんは。

国分寺線のホーム、JRの方は随分変わりましたが、国分寺線や多摩湖線のホームは今でも同じような感じかと思います。

501系、流鉄で活躍する姿は見た記憶があるのですが、写真は撮りませんでした。

あれから33年ですか。

いつも楽しく拝見しております。もしご記憶でしたらお尋ねしたいのですが、多摩川線車両を国分寺線経由で回送していた時代、国分寺線内はどのようなけん引方法だったのでしょうか。私の明瞭な記憶は、国分寺駅1番線の東京方引き上げ線に自連をつけた311系が留置されていたことです。そのあとはっきりしないのが、数時間後に鷹の台駅を東村山方向に走り去る6連車で、後方2両がパンタを下げた17m車でした。子供の記憶は曖昧なので自信がありません。別の機会に、電機がけん引していた記憶もうっすらあります。国分寺駅で連結器の交換とか、アダプターをつけるとかといった危険作業はないと思うので、電機けん引が正解かなと思います。もし、ご記憶でしたらご紹介ください。よろしくお願いします。

たかのだい様、初めまして。
コメントありがとうございます。
私も記憶としては1962年ごろからはあるのですが、当時、国分寺線も多摩川線(是政線)も川崎造船製の151系が走っていました。ただ、車両交換が今のように定期的に行われていたのかどうかははっきりと記憶にありません。当時の北多磨駅(現、白糸台駅)に隣接する基地で定期的な検査、修理は行っていたのかもしれません。ただ、車両が入れ替わるときには国分寺、武蔵境を介しての交換が行われていたのかも知れません。国分寺駅での貨物、特に秩父でとれた石灰石の貨物の引継ぎはよく憶えています。国分寺線ホームと中央線上りホームの間の中線に貨物が停車して牽引機が交代する風景はよく見ていました。ただ、旅客車輛が交代するのは生憎記憶にありません。

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