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2013年10月31日 (木)

公園保存蒸気 D51 405 小金原 ユーカリ交通公園

全国の公園に静態保存されている蒸気機関車を訪ね歩くシリーズ

今回は、千葉県松戸市ユーカリ交通公園に保存されているD51 405号機です。

D51_405_130907_29
松戸市ユーカリ交通公園内に保存されているD51405号機 2013/9/7

最寄りの駅は常磐線各駅停車の北小金駅です。この駅は常磐線の撮影名所であり、ホームから写真を撮ったことはこれまでも何度かあるのですが、下車して歩いたのは今回の訪問時が初めてでした。

130907
常磐線北小金駅東口、目的地のユーカリ公園まではここから歩いて20分弱でした。

参考にさせて戴いたM.TADAさんのサイトによると、ユーカリ公園までは以下のようなアクセス法が

北小金駅から小金原団地行き循環バスで「交通公園」下車徒歩1分
馬橋駅から小金原団地行き循環バスで「久保下」下車徒歩6分
八柱駅から北小金駅行きバスで「交通公園」下車徒歩1分
八柱駅から小金原団地行きバスで「久保下」下車徒歩6分
常盤平駅から小金原団地行き循環バスで「行政センター」下車徒歩10分

130907_2
                 交通公園前のバス停

あるようですが、今回は初めての下車駅でもあり、歩くことに致しました。ただ、国道6号を渡ってからの道順を間違えると、周辺はあまり目的物の無い住宅地ですので、道に迷ってしまう可能性が高いと思われるので、バスを利用された方が良いかも知れません。

D51_405_130907_3
なんといってもこの機関車の最大の特徴は長工タイプのデフと集煙装置かと思います。私も1972年7月の萩旅行の帰りに小郡駅で僚機だったD51612号機を見ていますが、同じような集煙装置を付けていました。

D51405号機の履歴です。いつものように沖田祐作氏の機関車表からデータは引用致しております。

D51405     日本車輌名古屋工場=780           1940-03-31 S77.60t1D1T(1067)
   車歴;1940-03-31 製造→ 納入;国鉄;D51405→ 配属;新潟局→1940-03-31 竣工→
      1940-03-31 使用開始→1940-04-13 配属[新鉄達248];新津→1944-03-25 借入;秋田→
      1944-05-15 坂町→1944-08-28 長岡→1950-03-03(3/2?)長野→ 集煙装置取付→
      1958-07-00 頃;長野工場にて切取式除煙板N-1 型装備;長野→
      1956-08-00 頃;長野工場にて切取式除煙板N-1 型をN -2 型に改造;長野→
      1962-02-03 旋回窓取付→1966-11-14(11/5?)津和野→1969-03-01 借入;小郡→
      1969-03-15 返却→1969-07-28 借入;厚狭→1969-08-10 返却→
      1972-02-08 集煙装置取替(広島工場)→1973-11-30 廃車;山口線管理所→
      保存;千葉県松戸市「ユ- カリ交通公園」;D51405

1940年の製造後、新潟局に配属となり、新津、秋田など羽越本線で活躍、さらに1950年には長野に転属となり、デフレクターが長工式N-2に改造され、旋回窓も取り付けられました。その後、1966年には山口線などで働き、1972年には広島工場で集煙装置が取り付けられ、1973年11月末で廃車となっています。保存機にはそういった各地での改造の跡が残されています。

さらに、機関車のそばにはスノープラウも置かれてありました。

<追記> この機関車の構造的特徴としてWikipediaの記事にありますが、
台枠が圧延鋼板をくりぬいた棒台枠ではなく、D51 354 - 359・403 - 405など、鋳鋼製台枠を採用したものが存在する とのことです。動輪の隙間から台枠を見ても分からないかと思いますが、一応記述しておきます。

D51_405_130907_4
残念なことにキャブの窓ガラスは破損していました。

D51_405_130907_5
さらに炭水車の前灯はなく、標識灯も片方がえぐり取られていました。

D51_405_130907_6
機関車は公園の隅の一段高い場所に据えられており、手前のスペースはゴーカートなどの走行場となっていました。

D51_405_130907_2
引退直後からこちらに保存されており、もうじき40年になるのですね。地球を50周する距離を走った機関車でもあるそうです。

なお、同公園には交通公園らしく、パトロールカー、救急車、消防車も保存されていましたが、なかでも出色だったのは元海上自衛隊のヘリS-62が保存されていたことです。これに関しては公園保存飛行機のシリーズで触れようと思います。

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2013年10月30日 (水)

2013 夏 新潟の旅 13 EF510 基本番台 10号機

EF510基本番台のこれまで撮った写真を紹介しているシリーズですが、今回は10号機です。

10号機の甲種回送日は2006年12月8日とのことです。

Ef51010_100708
3095列車を牽引して高槻駅を通過する10号機 2010/7/8

Ef51010_100717
95列車を牽引して直江津に到着した10号機 2010/7/17

今回はこれまでにもこのシリーズで何度か登場している直江津駅について触れようと思います。

直江津駅は新潟県上越市東町にあるJR東日本・JR西日本の駅で、上越市の直江津地区(旧直江津市)の中心駅です。JR東日本と西日本の境界駅でもあります。厳密に言うと駅を管轄するのはJR東日本新潟支社で、構内施設の管理と駅業務はJR東日本が担当しており、北陸本線の下り場内信号機が両者の境界となっているそうです。

その歴史を見てみると

1886年8月15日 - 国鉄信越本線 関山駅 - 当駅間の開通と同時に開業。

1898年 - 現在地に移転。

1899年9月5日 - 北越鉄道が当駅に乗り入れ。

(北越鉄道は直江津から東の現在の信越本線に相当する区間を建設するために地元の有志が東京の渋沢栄一氏を発起人代表として1894年に設立した会社です。直江津側は1897年春日新田~鉢崎を皮切りに順次開業して行きましたが、新潟側の起点設定は沼垂にするか、萬代橋畔にするかかなり難航したそうです。)

1907年8月1日 - 北越鉄道が国有化。

1911年7月1日 - 北陸本線 名立 - 直江津間が開通。

1930年4月1日 - 信越本線貨物支線 直江津駅 - 直江津港駅間が開通。

1959年9月1日 - 信越本線貨物支線 直江津 - 直江津港間が廃止。

1985年3月5日 - 専用線発着車扱貨物の取扱を廃止。 黒井駅南にある三菱化学直江津事業所へ専用線が続き、貨物輸送を行っていました。専用線が分岐地点は関川東岸にありました。

1987年3月31日 - 貨物取扱を再開。ただし、将来施設を整備されることに備えたもので貨物列車の設定はありませんでした。

1987年4月1日 - 国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道・西日本旅客鉄道の境界駅および日本貨物鉄道の駅となる。旅客業務はJR東日本が継承。

1997年3月22日 - 北越急行開業に伴い、同線への直通列車が乗入れ開始。

2006年4月1日 - 臨時車扱貨物の取扱が廃止。結局貨物列車の設定は一度もされませんでした。

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2013年10月29日 (火)

485系特急 「ひたち」 その2 1985年3月改正から終焉まで

485系による特急「ひたち」の歴史を振り返るシリーズ、今回は1985年3月の改正以降、E653系の登場で485系の定期運用が消滅するまでの歴史です。

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当時の牛久~荒川沖間(いや、正確には万博中央間、当時の臨時駅の様子はこちらに)、現在圏央道がクロスするあたりを通過する485系、赤スカート髭無しクハ先頭の「ひたち」 1985/4/29

1985年3月の改正前に「ひたち」用の485系は勝田電車区に移動しました。このときが、同区にとっては初の485系配置でした。その陣容は

モハ483/482   12,13, 14, 15
モハ485/484   1~20, 34~43, 47~64, 67~69, 71, 77
                     207/309, 208/310, 224/603
クハ481        1~20, 22, 24~26, 31, 32, 34, 36, 38, 40
サロ481           97, 100, 101, 114, 124~126, 129, 1054, 1501~1506 でした。

なんと言ってもこのときの最大の特徴はクハはすべてボンネットタイプであり、当初60Hz専用の481系のクハとして製造された赤スカートのクハ481もが戦列に加わっていることでしょう(12,14,17に関しては鹿カコ時代にスカートはクリーム色になっていたそうです)。

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上野駅高架ホームで発車を待つ クハ481-17先頭の「ひたち」 1985/2/3の時点で運用に入っていた元赤スカート組の17番

既に何回か話題にしていますが、赤スカートのクハ481は1964年10月に「雷鳥」「しらさぎ」用に1~8が新製され、大ムコに配置されたのが始まりで、この8両はスカートは赤一色で後年付け加えられたヒゲもありませんでした。

1965年7,8月には山陽特急、特にED73に牽引されて博多まで乗り入れていた151系つばめ」「はと」の置き換え用に9~18まで増備されました。この増備からクリーム色の帯がスカートに加えられ、ヒゲも付け加えられました。

これら18両と485系増備の際に追加配置された31~40のいわゆる初期ボンネット車グループは1975年3月の改正で揃って鹿カコに転属しました。1980年9月に31,32が門ミフに転属、1982年11月にも7, 12, 14, 17が門ミフへ、1984年2月には仙センから門ミフに転属していた20を含め、7,12が鹿カコに戻り、1984年12月の13,40が仙センに転出を契機に、初期のクハは仙セン(1, 2, 3, 4, 6, 8, 9, 12, 15, 18, 36)、門ミフ(33, 35, 37, 39)、勝田(5, 7, 10, 11, 16, 20, 34, 38)へと転出し、鹿カコのクハ481の配置はなくなり先頭車はクモハ485とクロ480のみとなりました。

同時期、門ミフからも仙センに14, 17, 19, 22、勝田に24, 31, 32が転出していました。最終的に仙センに転属した1, 2, 3, 6, 8, 12, 13, 14, 15, 17, 18, 19, 22, 25, 26, 36, 40も1985年3月14日に勝田に転属し、0番台クハの配置は上記のように勝田区の30両と門ミフの33, 35, 37, 39、大ムコの21, 23, 27, 28, 29, 30となりました。

興味深いのは元々大ムコ配置だった481系編成(60Hz)用の先頭車が東日本に集められ、元々仙セン配置だった19~30の483系編成(50Hz)用の先頭車が多くが大ムコに配置となったことです。

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なんと言っても印象的だったのは勝田に転属してきた485系が門ミフ表記のまま運用されていたことです。 1985/2/3

<サロ481-1500番台>
北海道用の1500番台とは全く関係の無い番台で、485系への編入を予定して製造されたサロ181形1100番台181系としての運用が終了した1982 - 1983年に盛岡・土崎・郡山の3工場で改造編入したグループです。 改造落成後は青森運転所に配置されていましたが、1985年の「ひたち」増発時に勝田電車区に転属しました。1989年から老朽車取替のため1両を除きクハ481形1100番台に改造され、残った1両(1506)も1997年にジョイフルトレイン(クロ484-5:ニューなのはな)の改造種車となって区分消滅しました。
サロ181-1101 - 1106→サロ481-1501 - 1506

485_4810_850429_3
亀有を通過するタイフォンがボディに移設された仙台タイプのクハ481を最後尾にした「ひたち」 1985/4/29

1985年3月:急行「ときわ」が特急「ひたち」に統合されて定期列車の運転を終了、「ひたち」は下り24本、上り23本に増発し国鉄在来線特急列車での運行本数最多となりました。急行「十和田」を臨時列車に格下げ。

←上野
TcM'MM'MTsM'MM'MTc×15 所要12(臨時+1)
ひたち(23.5)(臨時+2)
 休
 勝田‥水戸456630平733945仙台10421524上野16002044仙台
 仙台7411226上野13001643原ノ町18162220上野‥尾久
 尾久‥上野700949平10391325上野14001639平17101954上野20302310平‥草野
 草野‥平604910上野9451119勝田14221555上野16301755水戸19002026上野‥尾久
 尾久‥上野9001252原ノ町13301718上野18002201相馬‥原ノ町
 原ノ町‥相馬512924上野10001202高萩1245平1335高萩14181620上野17001947平22002227勿来‥勝田
 勝田607728平8391122上野12001446平15331822上野19002141平‥草野
 草野‥平7331020上野11001542仙台16412123上野‥尾久
 尾久‥上野8001013高萩1057平1137高萩12171425上野15001657高萩1737平1810高萩18502054上野21302255水戸
 水戸830955上野10301206勝田16221755上野18301956水戸
 水戸9301056上野11301300水戸13301459上野15301655水戸17301856上野19302100水戸21302256上野‥尾久
 尾久‥上野7301113原ノ町1220仙台1420原ノ町15301920上野20002153日立‥勝田
 上野823957水戸15241712上野

1986年11月1日:特急「ひたち」が26.5往復に増発。編成は485系9両編成に統一。 この増発で、号数が下り53号、上り52号までに達しました。それまで50番台の号数は在来線列車の場合、臨時列車に与えるのが国鉄の慣例になっていましたが、定期列車で初めて号数が50番台に達したため、国鉄最後となったこの改正より、臨時列車には(ほかの列車名を含め全て)80番台の号数を与えるように改めることとなりました。

485_4810_870331
1987/3/31 国鉄最後の日に上野駅で発車を待つ「ひたち」 このクハはこの時点でもスカートにタイフォンが残っていることから、38か40あたりかと思われます。

車両についてはクハ481形300番台が再度配置され、臨時の「鳥海」と共通運用となったほか、普通車座席を従来の回転クロスシート・簡易リクライニングシートから、フリーストップ式リクライニングシートへの交換がこれ以降進捗しました。 

クハ481-300番台転入:311, 313, 315, 332, 333, 345 全て盛アオより
モハユニット転出: 3, 5, 7, 10 (福フチへ) 11, 12 (金サワへ)
サロ481転入: 1002, 1003, 1004, 1006, 1007, 1051, 1052, 1053 (秋アキより)
     転出: 97(大ムコへ)、100, 101(鹿カコへ)、114, 124, 125(新カヌへ)

←上野
TcM'MTsM'MM'MTc×18 所要14(臨時+3)
ひたち(26.5)(臨時+3.5)、鳥海(臨時1)
 休
 勝田‥水戸455629平733943仙台10411515上野16002036仙台
 仙台7411214上野13001642原ノ町18292218上野‥尾久
 尾久‥上野8301001水戸10301153上野15301652水戸17301853上野19302052水戸
 水戸552726平8421117上野12001435平15371817上野19002135平‥草野
 草野‥平606905上野9301058勝田14221553上野16301752水戸19002023上野21002336平‥草野
 草野‥平7381014上野11001542仙台16412114上野‥尾久
 尾久‥上野8001050平11391420上野15001651高萩1730平1810高萩18502051上野‥尾久
 尾久‥上野700946平10411321上野14001633平17101950上野‥尾久
 尾久‥上野7301108原ノ町1236仙台1413原ノ町15301914上野20002158高萩
 高萩749950上野10301158勝田15221653上野17301851水戸
 水戸747914上野10001157高萩1239平1339高萩14211615上野17001938平22002327勝田
 勝田9221053上野11301258勝田16221753上野18302000勝田21222253上野‥尾久
 尾久‥上野9001241原ノ町13371714上野18002153相馬‥原ノ町
 原ノ町‥相馬517924上野22002352日立‥勝田
 勝田13231454上野/上野12301358勝田/勝田11221254上野13301532高萩
 勝田12221354上野14301556勝田‥水戸17151845上野
 秋田6281505上野15332353秋田

485_481300_870331_2
同じく国鉄最後の日、上野駅にて1986年11月の改正で勝田区に300番台が転入し、「ひたち」にもこの顔が復活

1989年3月11日651系電車を投入。愛称を「スーパーひたち」として運転開始。 当初は1日7往復。なお、指定券発売時の区別等のため、485系の「ひたち」は号数が100番台に変更されました。.「ホームライナー土浦」が485系で運転開始。この改正に先立って、秋アキより、サハ481-108, 109が転入

←上野
TcM'MTsM'MM'MTc×8 所要6(臨時+2)
ひたち(9.5)(臨時+3)
 水戸14051534上野16031739勝田/上野18111944勝田20242147上野22302357勝田
 勝田‥水戸552723平732941仙台10491515上野16002019仙台
 仙台7511214上野17001929平‥草野
 草野‥平7461014上野11001519仙台16522116上野‥尾久
 尾久‥上野9001230原ノ町13451714上野21002327平‥草野
 草野‥平614905上野9301127高萩12551454上野15301652水戸17301853上野19302055勝田
 勝田11241254上野13301527高萩
 高萩16291840上野

TcM'MTsM'MM'MTc×8 所要6 →1989.5より順次TcM'MTM'MTc
ひたち(13.5)、さわやかひたち(0.5)
 勝田9241054上野11301325高萩14541653上野17301925高萩
 高萩707917上野13001629原ノ町18372219上野22452342土浦‥尾久
 尾久‥上野700936平10511321上野14001624平17191950上野20302219日立‥水戸
 水戸‥日立533735上野8301001水戸10301153上野12301353水戸14301553上野16301753水戸19002023上野‥尾久
 尾久‥上野7301057原ノ町1202仙台1430原ノ町15441914上野20002153高萩
 高萩751951上野10301153水戸12301354上野14301556勝田16241753上野18302000勝田

TcM'MTsM'MM'MTc×2
T×2

1990年3月10日:「ホームタウンひたち」、および「おはようライナー土浦」運転開始。 「おはようフレッシュひたち」等といった列車を運行する基礎となりました。また、651系の増備によりこの改正で「スーパーひたち」は15往復へ倍増、ほぼ1時間毎の運転となり、仙台駅まで運用区間を拡大しました。なお、この改正により北千住駅停車が終了しました。
その一方485系「ひたち」は平駅以北の運転がなくなり、同時にグリーン車の連結も中止されて7両編成に短縮されました。モノクラス化とボンネット型クハの老朽置き換えのため、サロ481形等を改造したサハ481形300番台(8両)及びクハ481形1100番台(8両)が編成に組み込まれました。

サロ481-126・129・1051・サロ183-1054・1051・サロ189-51 - 53
→サハ481-301 - 308

サロ481-1003・1004・1006・1501 - 1505
→クハ481-1101 - 1108

←上野
TcM'MTM'MTc×10 所要7(臨時+2)
ひたち(15)(臨時+4.5)、さわやかひたち(上1)、ホームタウンひたち(下1)
 勝田9341105上野11301253水戸13401505上野15301700勝田19342105上野22452342土浦
 土浦555704上野730928高萩11051304上野13301458勝田16341805上野18302031高萩
 高萩8011004上野10301300平14291705上野17301858勝田
 勝田10331205上野12301353水戸14401604上野16301758勝田20342205上野22302352水戸
 水戸552722平8001025上野21002328平‥草野
 草野‥平618906上野9301101勝田12341404上野14301627高萩18042005上野20302231高萩
 高萩522735上野8301036高萩1223原ノ町-1330仙台1407-原ノ町1513高萩17051905上野19302057勝田
 水戸9151044上野/勝田10141143上野13061440勝田‥水戸16181741上野18061944勝田
 上野630804勝田-836高萩‥勝田10141143上野13061440勝田‥水戸18171943上野

TcM'MTsM'MM'MTc×7
TcM'MTc×1
M'M×1 Tc×1 Ts×1

1992年3月:上野駅 - 会津若松駅間の特急「あいづ」の受け持ちが秋田から勝田に移管となったため、「あいづ」への送り込みの列車に限り、485系「ひたち」のグリーン車が復活。
この頃から「ひたち」用485系に新色(濃淡のグレーに薄緑の帯)の車両が登場。

1993年12月1日:「あいづ」廃止により再び485系「ひたち」のグリーン車の連結は廃止されました。

1994年12月3日:臨時急行「十和田」廃止。

1997年10月1日E653系電車による「フレッシュひたち」が運転開始。 「フレッシュひたち」には当初より、定義が曖昧になっていた「エル特急」の呼称は与えられませんでした。
また、この改正より号数の100番台使用を取りやめ、「スーパーひたち」「フレッシュひたち」「ひたち」をすべて合わせ、1号から順の付番に戻されました。

←上野
TcM'MTM'MTc×7 所要4
ひたち(5.5)(併結+1.5)、さわやかひたち(上1)(併結+0.5)、ホームタウンひたち(下2)
 勝田549728上野8301006勝田11331304上野13301457勝田16331804上野18302028高萩
 高萩515728上野8301006勝田12331404上野14301556勝田16331804上野18301957勝田20332204上野22302359勝田
 勝田9331104上野22452342土浦
 土浦557708上野730931高萩10031204上野22002330勝田

TscM'sMsTsM'sMsc×1(ゆう)
リゾート「ゆう」ひたち(臨時1)
 勝田‥上野16031842いわき‥勝田/勝田‥いわき13111548上野‥勝田

TcM'MTM'MTc×3
TcM'zMTc×1

1998年12月1日:485系電車の全車が、651系電車・E653系電車へ置き換えられたのに伴い、「ひたち」「さわやかひたち」「ホームタウンひたち」は名称上消滅。ホームライナー・おはようライナー土浦を「フレッシュひたち」へ格上げ。この結果、常磐線の特急列車は「スーパーひたち」「フレッシュひたち」の2系統となりました。

早いもので、常磐線特急「ひたち」から485系の運用が無くなって、15年の月日が過ぎようとしており、その後に登場したE653系も「フレッシュひたち」から去っています。今から思うと1992年から1994年の東京勤務時代、毎日のように見ていた485系「ひたち」の新塗装というかJR塗装も「いつか撮らなくては」と思っているうちに撮らずじまいで終わっており、きちんきちんとまめに記録することの大切さを身にしみて感じている今日この頃です。

2回にわたる485系「ひたち」の記事作成にあたり、「485系の動き 配置および編成・運用の移り変わり 一覧」のデータとWikipediaの記事を参考に致しました。

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2013年10月28日 (月)

西武鉄道 赤電の時代 551系 その1

西武鉄道の赤電時代を懐かしむシリーズ、今回は551系です。

551_0
まだサボを使っていた頃の551系 池袋線 保谷~ひばりヶ丘間 1973年頃

551系は451系の後継形式として、1961年9月から1962年4月にかけて、モハ551形(Mc)-サハ1551形(T)-サハ1551形(T)-モハ551形(Mc)からなる4両編成6本24両(モハ551形551 - 562・サハ1551形1551 - 1562)が新製されました。

次いで1962年9月から10月にかけてサハ1551形1563 - 1572(サハ1571は初代)が新製されましたが、以前501系の記事で記述しましたように同10両は501系(2代)の主電動機出力の余裕を活用し、都市部の高速鉄道としては異例の2M4T編成を組むに際して、同系列の増結用付随車(サハ)として新製されたものでした。後年同10両も本系列に統合され、さらに後年の改造によって571系として独立系列化されました。

551
こちらは行き先表示器方式になり、準急、急行が小さいプラスチック板の時代 練馬 1974年頃

<車体>

軽量構造の全金属製20m級車体であり、構体設計は451系を踏襲しているものの、前面形状は451系の切妻形状とは異なり、501系以来の湘南型デザインが採用されました。ただし、前面窓は極細の仕切りによって2分割された連続窓風の処理がなされ、埋込型となった標識灯とともに501系と比較して近代的な印象を与えるものとなりました。

側窓は451系と同様2連ユニット構造のアルミサッシが採用され、窓配置も先頭車がd1D2・2D2・2D2、中間車が2D2・2D2・2D2(d:乗務員扉, D:客用扉、戸袋窓の記載は省略)と451系と同一ですが、客用扉がアルミハニカム構造化され、扉窓固定支持も従来のHゴム固定から金属枠固定に変更された点が異なりました。連結面は貫通路が501系後期車以来の1,200mm幅の広幅貫通路となり、貫通扉は再び廃止されました。また、細部では側面戸閉表示灯が451系の横長形状のものから丸型に改められました。

ベンチレーターは従来車に採用されたガーランド型と比較してより換気効率の高いグローブ型に変更されました。1両あたりの個数は電動車(モハ)が6個・サハが8個です。

車内はロングシート仕様で、カラースキーム等は451系と同一ですが、車内換気装置として搭載されるファンデリアが1両あたり4基に倍増した点が異なります。

時流に応じた改良が加えられた車体周りと対照的に、主要機器は他系列同様に国鉄より払い下げを受けた、旧態依然とした制式機器で占められています。

主電動機はMT15系、制御器は電空カム軸式CS5と界磁接触器CS9の組み合わせ(直列5段・並列4段・弱め界磁1段)、制動装置は発電制動を持たないAM系電磁自動空気ブレーキ、台車はモハが鉄道省制式の釣り合い梁式TR14A・サハが同TR11Aと、昭和初期に新製された戦前型旧型国電と同一水準の機器を搭載するという、在籍する車両の機器統一を最重視した当時の西武の流儀は本形式においても貫かれていました。

目新しい点としては、西武初の装備として落成当初から電気連結器が採用された点が挙げられます。電気連結器の採用は連結・解放作業の迅速化に寄与することから、本系列以降に新製された西武の各系列における標準装備となりました。なお、本系列においては先頭部のみならず中間連結部分にも電気連結器が採用され、同時に先頭部ジャンパ栓が省略されたことから、電気連結器の装備がない従来車との併結は不可能となりました。

電動空気圧縮機 (CP)および電動発電機 (MG)といった補機類はサハに搭載されており、501系後期車より採用されたMTユニット方式を踏襲しています。

551_2
この編成は台車も空気バネ台車に履き替えられていない異端編成でした 東長崎

1964年1月に制御電動車(Mc)の形式記号がモハからクモハへ一斉変更されたことを受け、本系列の制御電動車もクモハ551 - 562と改称されました。

サハ1563 - 1572の新製および転用

前述のように、501系(2代)の2M4T編成化に際してサハ1551形1563 - 1572(サハ1571は初代)が新製されました。仕様はサハ1551 - 1562に概ね準じていますが、同10両は当初より501系(2代)との併結を前提に新製されたことから、貫通幌の仕様や補機類を搭載しない純然たる付随車であったことが異なっていました。その他、扉窓がHゴム固定の鋼製扉に戻ったほか、側面サッシが無塗装化され、車内送風機の扇風機化に伴ってベンチレーターは通常形状のグローブ型に統一され、側面戸閉表示灯が横長形状のものとされた点が主な相違点でした。

501系521 - 529編成に2両ずつ組み込まれて運用されたサハ1551形1563 - 1572ですが、2M4T編成の走行性能的な問題から1967年までに全車501系編成から外され、半数を電装・中間電動車化の上で551系551 - 559編成に順次組み込まれました。同改造に際しては、サハ1563 - 1571(奇)がクモハ551形と同一の機器で電装され中間電動車(M)モハ571形571 - 579(奇)へ、サハ1564 - 1572(偶)はサハ1551 - 1562同様に補機を追加した上でサハ1571形1571 - 1579(奇・サハ1571は2代)へそれぞれ改称・改番されました。

編成替えに際してモハ579のみ主電動機の入手遅れからサハ代用として運用せざるを得なかったため、1968年12月にモハ579-サハ1579を組み込む559編成のクモハ559・560の主電動機と台車をMT30およびTR22(DT11)に換装して対応しました。501系で消滅した2M4T編成が図らずも本系列で復活した形となりましたが、翌1969年9月にはモハ579もMT30主電動機とTR22台車を装備して正式に電動車となり、結果559編成は西武の吊り掛け駆動車のみで編成された6両編成時における最強力編成となりました。

551_3
夕刻の池袋線準急電車 保谷検車区横の跨線橋から

551系も私の当初のイメージでは池袋線で活躍する電車で、新宿線ではなかなかお目にかかれない電車でした。

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2013年10月27日 (日)

西ベルリンの思い出 TWA Boeing 727-31 N844TW

西ベルリンのテーゲル空港で撮影した旅客機のシリーズ、今回はTrans World Airlines (TWA)の2回目です。前回の記事で紹介したように、TWAはアメリカの老舗のエアラインとして様々なサービスを展開してきました。今回はそれらの中でも画期的だったもの、新しい機材の導入と関連するものを選んで紹介してみたく思います。

因みに10月25日は「民間航空の日」なんですね。そのいわれは~戦後最初の国内民間航空会社として設立された日本航空が、一番機の「もく星号」で東京~大阪~福岡間の運航を開始した。~のだそうですが情報のソースはこちら)。航空関係の番組、特に”メーデー航空機事故の真実と真相”などをよく見ているNational Geographic Channelで航空番組の特集をやっていてわかりました。

拙Blogを開始したのが2012年10月25日なんですが、1年たってそういう日であったと気づきました。

N844tw_cn_1875_587_boeing_72731_881
N844TW (cn 18755/87) Boeing 727-31 1988/10/23 TXL

1932年9月20日:TWAとダグラス社は全金属製の双発機Douglas Commercial Model (DC-1)の開発で協力することに調印

1933年12月:唯一製造されたDC-1がTWAに納入されました

1934年5月18日:DC-1の量産型であるDC-2とその発展型のDC-3がTWAのコロンバス~ピッツバーグ~ニューアーク線に投入されました

1935年12月6日:世界最初のキャビン・アテンダント(職業的には看護師)がair hostessesとしてTWA機に搭乗

1937年6月1日:機内サービスに寝台が登場

1940年:機内サービスに商業ラジオ放送を個々のレシーバーで聴くことができるオーディオサービスを導入

1940年6月8日:全天候型与圧キャビン機のBoeing 307Stratolinerを導入、東西海岸間のフライトを13時間40分で運航

<Boeing 307>

10機が製造された与圧キャビンの最初の旅客機。主翼、尾翼、降着装置はBoeing社が製造した爆撃機・B-17のものが流用されました。 初飛行は1938年12月31日で、1940年ごろまでアメリカと南米を結ぶ路線に就航していました。商業的には成功したとはいえませんが、第二次世界大戦にアメリカが参戦すると軍用に徴発され、5機がC-75輸送機として運用されました。

Table_1_boeing_307_production_listw
表1 Boeing 307型機のProduction List :   Boeing 社のProduction Listから抽出して作成 10機製造されたうち、5機がC-75になっているのがわかります。cn 2003の機体はPan Amで使用されていた機体で前回、ご紹介したスミソニアン航空宇宙博物館で展示公開されています。

1944年4月17日ロッキードL-049コンステレーション機により、カリフォルニアBurbank(ロッキード社の工場)とワシントンDCを6時間57分で飛行する。当時の最速記録を樹立

1946年2月5日ロッキードコンステレーション機により、大西洋横断路線 New York~Gander~Shanon~Paris線と運航

1946年5月1日:大西洋横断路線にリスボン、マドリード線も追加

1947年1月30日:大西洋横断便に全貨物便も投入

1948年10月1日:New York~Paris間のスーパーラグジャリーサービスとしてParis Sky Chief (Paris =>NY), New York Sky Chief (NY => Paris)を導入

1953年10月19日L-1049スーパーコンステレーション機により、東行きノンストップ便Los Angels発New York行き8時間運航を開始、西行きの便は向かい風のためシカゴで給油のため着陸

1957年1月3日:TWA機は世界ではじめて機内で入れたコーヒーを提供

1957年9月29日L-1649Aコンステレーション機(スターライナー)により、Los Angels~London間の北極通過便を設定

1959年3月20日Boeing 707-131機を使ったジェット便をSan Fancisco~New York間に運航(American航空のLos Angels~New Yorkに対抗するもの)同時にConvair 880機も導入

1961年6月30日:機内映画上映システムを導入、最初に上映された映画はLana Turner主演の"By Love Possessed"

1962年10月1日:ドップラーレーダーシステムの導入によるナビゲーターなしの完全自動化による大西洋横断フライトの実現

1964年6月1日Boeing 727機を導入

Table_2_twa_boeing_727100
表2 TWAがオーダーしたBoeing 727 -100typeのリスト 直接オーダーした物とBank Trustによるオーダー(-80)があります。

1965年10月4~5日
:ローマ法王パウロVI世のニューヨーク訪問の帰路にTWAのチャーター便が使用されました

1967年4月6日:最後のコンステレーション機が旅客便から引退して、TWAは最初の保有機がジェット機のみの航空会社に

1969年8月1日:太平洋横断ルートも運航し、世界一周便も開設

1970年2月25日:Los AngelsからNew York間ノンストップでBoeing 747を運航アメリカで最初のBoeing 747によるサービスを提供

1970年7月1日:最初の航空会社として禁煙セクションを設定

1972年6月25日ロッキードL-1011トライスターを導入。St. LouisからLos Angelesまでの最初のフライトでは離着陸をオートパイロットで実行

1982年12月3日:Los Angeles~Washington DC Dulles間にBoeing 767を導入

1985年:業界初のETOPS(extended- range twin-engine operations)による運航で大西洋横断便をBoeing 767機で設定

1986年10月26日Ozark航空を買収

<Ozark 航空>
1943年にミズーリ州スプリングフィールドで創設され、1945年1月からスプリングフィールドとセントルイス間をBeech 17 Staggerwingsで運航し始め、後年Cessna AT-17 Bobcatに置き換えられました。免許の失効により、新たにParks Air Linesを買収し、DC-3によりセントルイスを中心にインディアナポリス、ウイチタ、ナッシュビル等へ運航を開始しました。1960年には Fairchild F-27が、1964年にはMartin 4-0-4がフリートに加わりました。1966年からはDC-9-10によるジェット機時代となり、従来のDC-3やF-27はFairchild Hiller FH-227に置き換えられました。さらにDC-9-31/32DC-9-40で増強され、1984年にはMD-82が導入されました。

1980年代半ば、Ozark航空とTWAとは両者ともSt.Louisをhubとする航空会社の関係で統合の話し合いが持たれ、1986年9月12日に統合が承認されました。

1987年9月10~21日:ローマ法王ヨハネパウロII世はTWA Boeing 727, 747 L-1011機で訪米 (1995年10月の訪米でもBoeing 767-300機を使用)

1995年10月:新塗装導入を発表

1996年2月12日Boeing 757-200型機 20機の導入予定を発表

1996年7月16日MD-83 型機15機の発注をアナウンス

1998年2月20日Boeing 747型機のリタイア完了、これ以後はBoeing 767が大陸間横断用機に(これは記憶にも残っているアトランタオリンピック直前に発生したTWA800便Boein747型機の空中爆発事故での老朽ジャンボ機の早急なリタイア計画を反映したものかと思われます)

1998年4月22日MD-83型機 24機の発注をアナウンス

1999年11月3日TWE(Trans World Express) としてRJ機を運航しているインディアナポリスをベースとしたChautauqua Airlinesとの間で2000年夏シーズンから新たなサービスの展開を発表

1999年12月1日クウェート航空とのコードシェア(シカゴ~JFK~クェート)

N844tw_cn_1875_587_boeing_72731_8_2
N844TW 1988/12/4 TXL

1998年12月9日:航空会社史上最大となる125機のB717, A318とA320ファミリーの発注(とオプション125機)を発表

1999年12月21日:同社にとっては最後の双発機導入で1932年以来、67年間にわたるDouglas=>Boeing社とのパートナー関係に幕がおろされる

2000年2月:最初のBoein717-200を受領、同機を50機(オプションで50機)発注していました

アメリカの航空会社の中でも歴史が長く、かつ航空家で大富豪であったハワード・ヒューズが経営に参加していたため、積極的に旅客機の開発にも関わっていた点がこの航空会社の大きな特徴であったと思います。

次回はこの航空会社が関係した事故について触れようと思います。

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2013年10月26日 (土)

公園保存蒸気 D51 296 府中市郷土の森公園

全国の公園に静態保存されている蒸気機関車を訪ね歩くシリーズ、今回は都電のときにも出てきましたが、府中市郷土の森公園に保存されているD51 296号機です。

D51_296_130813_4
2013年8月13日に訪問しました、後方にはEB10 1号機も保存されています。

D51_296_130813_3
前照灯は補助灯付きでライトの中心の高さが合わせてありました。

D51_296_130813_6
キャブ前方の窓は旋回窓となっており、ナンバープレートは赤プレートでした。

この機関車の履歴は機関車表(沖田祐作氏による)によりますと

D51296     川崎重工兵庫工場=2204   1939-10-18(10/13?) S77.60t1D1T(1067)
車歴;1939-10-18(10/13?)製造→ 納入;国鉄;D51296→
配属;新潟局→1939-10-28 配置[新鉄達889];
秋田→1939-11-15 使用開始→1943-10-10 坂町→1945-07-01 借入;
上田→1945-10-19 返却→1946-02-01
直江津→1953-11-14 重油併燃装置取付(長野工場)→1961-12-10
旋回窓取付→1967-11-19 長岡運転所→1969-08-16
新鶴見→1970-10-18(10/19?)青森→
1972-03-27 廃車;青森→
保存;東京都府中市「府中市民健康センタ- 交通遊園」;D51296

1939年製造で、豪雪地帯で勤務した際に旋回窓が装備され、一時期新鶴見配置もありましたが、最後は青森で1972年に廃車になっています。

D51_296_130813_7
炭水車のライトもこの機関車でも撤去されていました。重油併燃装置付きだったようですが、展示状態では重油タンクは見えませんでした。

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キャブ内も立ち入り可能で、逆転機などのハンドルも残されています。

D51_296_130813_12
焚き口の扉は自動で開く仕掛けがなされています。

D51_296_130813
D51 296号の説明板 総走行距離は242万kmとのことです。

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2013年10月25日 (金)

2013 夏 新潟の旅 13 EF510 基本番台 9号機

これまで撮ったEF510基本番台の写真を一機ごとに振り返っていますが、今回は9号機です。

甲種回送の日付は2006/11/22だそうです。

Ef5109_080905

越前花堂駅を通過する 3095列車です。 2008/9/5

Ef5109_100717_2
朝日の眩しい直江津駅側線に進入する4085列車 2010/7/17

Ef5109_101024
青森の第一大野踏切を通過する4092列車、青森信号場と奥羽本線の連絡線(奥羽貨物支線)です。 2010/10/24

<青森信号場>

青森信号場は青森県青森市大字浦町にあるJR東日本・青い森鉄道の信号場で青い森鉄道線東青森駅 - 青森駅間にあり、ここから青森駅を経由せず、直接奥羽本線・津軽線につながる貨物支線(通称、奥羽貨物支線)が通じています。

青森操車場はかつて「東北三大操車場」と呼ばれ、東西約900m、南北30 - 250m、面積は約21.5ヘクタールでした。貨車の取扱数は1970年では一日当たり約300両でした。

歴史を見てみると

1926年10月25日 青森操車場の使用が開始されました。同時に青森駅と浦町駅との間にそれぞれ小運転線が開通しており、これをもって青森駅 - 浦町駅間の複線化とする資料もあそうです。奥羽貨物支線もこの時開通しました。

1945年8月10日 アメリカ軍によってターゲット997とナンバリングされ爆撃されました。

1966年8月1日 青森操車場 - 青森駅間の小運転列車と本線列車を立体化することを常務会で決定。本線の高架化工事が行われる。本線はこれにより複線化した後も実質単線扱いとなりました。

1968年7月21日 東北本線のルートが変更され、東北本線が完全に並行する形となりました。

1984年2月1日 操車場機能廃止。西側が信号場として使用が続けられることになりました。

1986年11月1日 信号場に降格、青森信号場に変更となりました。

1988年3月13日 「北斗星」3・4号の運転士・車掌交替が行われるようになる。後に青森駅に変更。

2006年3月18日 「北斗星」1 - 4号、「トワイライトエクスプレス」が青森駅経由から奥羽貨物支線経由に変更され、運転士交代および機関車交換を行うことになる。

2010年12月4日 東北本線が青い森鉄道に移管され、青い森鉄道の信号所となる。

現行ダイヤでは「北斗星」「カシオペア」「トワイライトエクスプレス」は青森駅に運転停車しています。

一見、単なる信号場の歴史のように見えますが、深夜、東北本線から津軽海峡線に入る、あるいはその逆の列車が、青森駅に入るのか、あるいは青森信号場で機関車交換を行うのかによって客車の向きが変わるので、結構気になる問題でした。

<東青森駅>

東青森駅は、青森県青森市大字古館にある、青い森鉄道・JR貨物の駅で旅客駅としては通常、無人駅で朝ラッシュ時間帯のみ八戸臨海鉄道への委託で改札業務が行われています。

JR貨物の駅は旅客駅の北側にあり、2面4線のコンテナホームがあります。営業窓口のJR貨物青森営業支店が置かれています。なお、駅の業務や構内の入換作業は八戸臨海鉄道が受託し行っています。

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2013年10月24日 (木)

485系特急 「ひたち」 その1 ~1985年3月改正前まで

これまでにも何回か申しておりますが、私が、上野駅に列車撮影デビューをしたのは1972年10月のことで、ちょうどこの時は常磐線特急「ひたち」が485系電車で定期化された時でもありました。

今回はその485系時代の「ひたち」について触れようと思います。

485_481_0_7210_2
上野駅20番線ホームに入線した485系「ひたち」 1972/10 仙センの9連で仙台側のクハは0番台、クリーム色のスカートですね。 タイフォンは既にボンネットに移設されています。

まずは、常磐線の昼行優等列車の歴史を振り返って見ましょう。

1947年6月:上野駅 - 青森駅間を、常磐線・東北本線経由で走る急行207・208列車が運転開始されました。1944年12月に戦前の急行列車が全廃になって以来、2年半ぶりの優等列車の登場でした。

1950年11月:上野駅 - 青森駅間を常磐線・東北本線経由で運行していた急行201・202列車が「みちのく」と命名されました。同線初の「列車愛称」となりました。

1954年10月:上野駅 - 青森駅間を常磐線経由で運転していた、元連合軍専用列車であり、1952年から「特殊列車」と称する一部のみ日本人にも開放されていた列車が、完全に日本人に開放され、急行列車となり、「十和田」と命名。

1955年:上野駅 - 水戸駅間を運行する快速列車、「ときわ」・「つくばね」が運転開始。

1958年6月:「つくばね」は名称を「ときわ」に統合し、「ときわ」は準急列車に昇格。同時に平駅(現在のいわき駅)まで運転区間を延長。

 10月:上野駅 - 青森駅間を常磐線・東北本線経由で運行する特急列車「はつかり」が運転開始されました。登場時はスハ44系を主とした客車編成でした。

1959年9月:上野駅 - 仙台駅間を常磐線経由で運行する気動車急行「みやぎの」が運転開始。

1960年6月:水戸駅 - 仙台駅間を運行する準急「そうま」が運行開始。

 12月:特急「はつかり」はキハ80系気動車を使用し、初の気動車による特急列車となりました。

1963年10月:上野駅 - 平駅間を運行する全席座席指定制の電車準急列車として、「ひたち」が運転開始(この時点から今年10月は「ひたち」登場50周年となるのですね)。

1965年10月:「みちのく」が東北各地への多層立て気動車急行として1往復増発され2往復となりました。

1966年3月:「ときわ」「ひたち」「そうま」が急行列車に昇格。

1967年10月:「ひたち」が「ときわ」に統合。また「ときわ」の一部列車を東京駅乗り入れ開始(「ひたち」の名称は一旦ここで消えているのでしょうか)。

1968年10月:「そうま」の上り列車が上野駅まで乗り入れるようになり、「ときわ」の1往復を仙台発着の「そうま」に組み入れました。また特急「はつかり」は電車化され、東北本線経由(黒磯駅経由)に変更されました。「みちのく」の1往復(客車列車)を、急行「十和田」に統合、「みちのく」は気動車急行のみとなりました。

この頃、確か1966年の夏休み、家族で能代旅行した際に東北本線の急行列車は満員で、常磐線経由で仙台まで行くこととなり、上野を定期の「みちのく」より、1時間早い時間に出発する、臨時「みちのく」に乗車したのを憶えています。常磐線の非電化区間でC62(?)牽引の定期「みちのく」に道を譲ったのを憶えています。Netサーチで見つけたRail-ArtさまのBlogに、臨時みちのくの記事があり、大変懐かしく拝見しました。1965年夏の設定では臨時は定期に野辺地で抜かれるようですが、私が記憶している限りでは、1966年の場合、仙台の手前で抜かれていたようです。

1969年10月:上野駅 - 平駅間を運行する季節特急列車として、「ひたち」運転開始(列車番号:6001D・6002D)。秋田運転所に配置されたキハ81を先頭車とする7両編成、2編成を使用したもので、特急「いなほ」との共通運用でした。

←上野
DcDsDdDDDDc×2 所要2
いなほ(1)、ひたち(1)
 秋田9251740上野18102112平
 平645945上野13502200秋田

Dc×2 D×2 Ds×1 Dd×1

1970年 7月:特急「ひたち」に、上野発着の特急として初めて自由席2両を設置。 登場時は全席指定でしたが、短距離の利用者が多い点を考慮したため。

 10月:特急「ひたち」定期列車化。急行「みちのく」廃止。

1971年4月:「ひたち」の上り列車のみ東京駅に乗り入れ。

1972年3月:「そうま」の2往復を盛岡駅まで延長し、「もりおか」と名称を変更。急行「十和田」昼行1往復の格上げで上野駅 - 青森駅間に、特急「みちのく」が1往復運転開始。 なお、この格上げした「十和田(下り)・(上り)1号」は1968年10月まで客車急行「みちのく」を名乗っていた列車です。

 7月:夏「ひたち」51・52号が485系電車を使用して運転。

485_481_790929
0番台クロ481を上野寄りに連結した485系9連「ひたち」 1979/9/29 かつて仙台には0番台、50番台(サロから改造)、100番台のクロがいましたが、1975年5月から6月にかけて、1,2, 51~57番台が門ミフに転出したため、このころは3,4,5, 101~104が仙センで活躍していました。1979年はすでに絵幕の時代でしたが、ボンネット車のHMはまだ字幕のままでした。

仙台運転所配置の483/5系、9両編成、上野方にクロを組み込んだ編成4本を使用して運転で、「ひばり」、「あいづ」との共通運用でした。

←上野
TscM'MM'MTdM'MTM'MTc×12 所要11(臨時+1)
やまびこ(3)(臨時+2)、ひばり(6)、やまばと(3)(臨時+1)
 仙台6111011東京‥上野11001456仙台17052104上野‥尾久/2233600盛岡
 尾久‥上野10051432山形15402009上野‥尾久/2335534山形
 尾久‥上野7001304盛岡14002004上野‥東大宮
 東大宮‥上野6301024仙台12051604上野‥尾久
 尾久‥上野12001557仙台18052204上野‥東大宮
 東大宮‥上野8001157仙台13051704上野18302225仙台
 仙台8101204上野13001904盛岡2230600上野
 盛岡8001411東京16002210盛岡
 盛岡9001504上野17052133山形2220424上野
 山形7401209上野13051730山形
 山形10401509上野17002056仙台
 上野6301230盛岡15502204上野
 休

TscM'MM'MTdM'MTc×4 所要2(臨時+1)
ひばり(1)、あいづ(1)(臨時+1)、ひたち(臨時2)
 仙台7101104上野14051740会津若松19252258上野
 上野6251001会津若松10361409上野15001857仙台
 上野7171002平10221305上野13271610平17322213上野

T×2

<サハ481について> この頃、大ムコの485系は6M5Tの11連でサハは組み込まれておらず、サハが組み込まれていたのは仙センの12両編成のみでした。予備車2両も含めて-1~14が配置されていましたが、下記のように1972年10月に-1,2が大ムコに転出し、クハ489-51,52に改造されています。3-11は1975年6月に門ミフに転出し、「にちりん」で活躍しました。12-15は1984年から1985年にかけてクハ480に改造されて「くろしお」で活躍しました。

 10月:「ひたち」に485系電車を使用開始。電車特急となる。また、「ひたち」5往復に増発し、運転区間を東京駅・上野駅 - 平駅・原ノ町駅・仙台駅間に拡大。なお、平駅・原ノ町駅発着各2往復、仙台発着1往復。同時にエル特急に指定。この改正を前に、仙センからモハ485ユニット(59,60,61)、サシ481-29が盛アオへ、サハ481-1,2が大ムコへ転出しています(サハ489-51, 52に改造のため)。また12両編成グループが10本となり、9両編成グループが5本に増強されています。「ひたち」はすべて9両編成グループで運用されました。

←上野
TscM'MM'MTdM'MTM'MTc×10 所要9(臨時+1)
やまびこ(2)(臨時+2)、ひばり(6)、やまばと(3)(臨時+1)
 仙台6111011東京‥上野11001456仙台18052204上野‥尾久
 尾久‥上野10051432山形15402009上野‥尾久/2335534山形
 尾久‥上野7001304盛岡14002004上野‥東大宮
 東大宮‥上野6301024仙台12051604上野17052133山形2220424上野
 山形7401209上野13051730山形
 山形10401509上野‥東京16002210盛岡2250600上野
 盛岡8001411東京‥上野15001857仙台
 仙台7101104上野12001557仙台17052104上野‥東大宮/2233554盛岡
 東大宮‥上野8001157仙台13051704上野18302225仙台
 上野5551200盛岡15052114上野
 休

TscM'MM'MTdM'MTc×5 所要4
ひたち(5)、あいづ(1)(臨時+1)
 仙台6401125上野12001434平14571733上野18002146原ノ町
 原ノ町540934東京‥上野10001343原ノ町15401924上野20032246平
 平10471325上野14051740会津若松19252258上野
 上野6251001会津若松10361409上野16002041仙台

M'M×2 Tc×1 Tsc×1 T×2

1973年4月:「ひたち」の上り1号のみ実施されていた、東京駅乗り入れを中止。

 10月:「ひたち」を6往復に増発。このとき、これまで9両編成のみだった「ひたち」に12両編成組の運用が加わりました。

←上野
TscM'MM'MTdTM'MM'MTc×8 所要7
ひばり(4)、やまばと(3)(臨時+1)、ひたち(1)
 仙台9201319上野14001758仙台
 仙台11201518上野19002136平
 平7461020上野11001458仙台16202019上野‥尾久
 尾久‥上野10041432山形15432016上野‥東大宮/2348545山形
 東大宮‥上野7001058仙台12201621上野17042132山形2212442上野
 山形7431214上野13041741山形
 山形10431514上野16042003仙台
 休

TscTsM'MM'MTdTM'MM'MTc×2 所要2
ひばり(3)
 仙台7201119上野12001558仙台17202119上野‥東大宮
 東大宮‥上野8001158仙台13201719上野18002158仙台

TscM'MM'MTdM'MTc×5 所要4
ひたち(5)、あいづ(1)(臨時+1)
 仙台6401120上野12001431平15021733上野18002142原ノ町
 原ノ町540920上野10001338原ノ町15401920上野20032242平
 平10471323上野14041739会津若松18402215上野
 上野604937会津若松10361414上野16002041仙台

M'M×2 Tc×1 T×2 Ts×1 Tsc×1 Td×1

1975年3月:「ひたち」を8往復に増発。12両編成が5往復、9両編成が3往復となりました。

←上野
TscM'MM'MTdM'MTM'MTc×10 所要9 →1975.5より順次TcTsM'MM'MTdM'MM'MTc
ひばり(5)、やまばと(2)、ひたち(5)
 仙台11201518上野19002248原ノ町
 原ノ町540920上野10001338原ノ町15401920上野20032242平
 平7301006上野11001458仙台16202019上野‥尾久
 上野700936平10461324上野14001758仙台
 仙台10201418上野15001858仙台
 仙台9201319上野14001635平17101947上野‥東大宮
 東大宮‥上野7001058仙台12201621上野17042132山形
 山形7431214上野13041741山形
 山形10431514上野16042003仙台
 休

TscTsM'MM'MTdTM'MM'MTc×3 所要2
ひばり(3)
 1973.10~と同じ

TscM'MM'MTdM'MTc×3 所要3
ひたち(3)、あいづ(1)
 仙台6401120上野12001431平15011732上野18002143原ノ町
 原ノ町8381220上野14041739会津若松
 会津若松10361414上野16002041仙台

M'M×2 Tc×4 Ts×2 Td×1

この改正の後、仙台名物であった、クロ481-1, 2, 51, 52, 53, 54, 55, 56, 57とサハ481-3, 4, 5 , 6, 7, 8, 9, 10, 11 は門ミフ転出となり、代わりにクハ481-243, 244、サロ481-92, 93, 94, 95, 96. 97が門ミフより転入し、クハ481-316, 317, 328, 329, 330, 331, 338, 340およびサロ481-124, 125, 126が新製配置されました。こういった動きにより、クロを上野方につないだ12連の編成が、クハ+サロ編成に置き換えられました。

このころ、僅か2両、200番台クハが転入しているため、200番台用と300番台用の愛称字幕が用意されたのではないかと思われます。なかには、200番台用字幕を装着したと思われる300番台クハもあり、文字列が真ん中に寄ったパターンだったのが目撃されています。

1976年5月30日には200番台クハ481-243, -244が門ミフに戻っています。さらにサハ481-12,13,14,15が大ムコに転出しており、入れ替わりに大ムコから101, 102, 103が転入しています。さらに金サワから大ムコに16,17,18,19が転属しており、それを受けて大ムコから仙センに104, 105, 106, 107が転入しています。今回の仙センへのサハ481-100番台の集結は座席数の増強とのことで、以前特急「あいづ」の記事において記述しました。一方、大ムコへの0番台サハの集結は結果的にこのときに集結した車両が485系「くろしお」で誕生したクハ480の種車になりました。

1978年10月:「ひたち」を11往復に増発。また急行「そうま」は「ときわ」に編入され、愛称消滅。サロの位置が6号車に変わった12両編成、6往復と、9両編成5往復の体制となりました。

←上野
TcM'MM'MTsTdM'MM'MTc×15 所要12
ひばり(11)、ひたち(6)
 仙台‥岩切
 岩切‥仙台5581013上野11001335平14441722上野18002145原ノ町
 原ノ町535920上野10001343原ノ町15341921上野20302310平
 平7431020上野11001515仙台16582113上野‥東大宮
 東大宮‥上野7001115仙台12581713上野18002215仙台
 仙台9581413上野15001915仙台‥利府
 利府‥仙台13281743上野18302245仙台‥利府
 利府‥仙台11581613上野17002115仙台
 仙台6581113上野12001615仙台17582213上野‥東大宮
 東大宮‥上野700937平10441322上野14001635平17121950上野‥東大宮
 東大宮‥上野8001215仙台13581813上野19002315仙台
 仙台8581316上野14001815仙台‥利府
 利府‥仙台10581513上野16002015仙台

TscM'MTM'MM'MTc×6 所要4(臨時+1)
ひたち(5)、あいづ(1)、ひばり(臨時1.5)
 休
 仙台6351120上野12001435平15441820上野19002244原ノ町
 原ノ町8351218上野13031655会津若松
 会津若松10201410上野15001735平18142050上野‥東大宮
 東大宮‥上野9411215平12451519上野16002045仙台
 上野6001015仙台14251843上野/仙台18522310上野

Tc×2 T×1 Tsc×1 Td×2

485_481300_790505
上野を出発する絵幕の12連の「ひたち」 1979/5/5

1982年11月:東北新幹線本格開業により、仙台駅以北を結ぶ特急「みちのく」急行「もりおか」などの昼行特急列車・急行列車を全廃。急行「十和田」は夜行のみ存続。これにより、常磐線を運行する列車名は特急「ひたち」、急行「ときわ」の2種類のみとなりました。また、「みちのく」「もりおか」廃止を補完する形で、仙台発着の「ひたち」1往復、「ときわ」2往復を増発。「ひたち」はすべて12両編成となりました。

←上野
TcM'MM'MTsTM'MM'MTc×10 所要7(臨時+1)
ひたち(12)、ひばり(臨時1)
 休
 仙台6311120上野12001438平15401821上野19002244原ノ町
 原ノ町8311220上野13001757仙台
 仙台9251420上野15001735平18132050上野21102136大宮‥東大宮
 東大宮‥上野700941平10431320上野14001638平17101950上野‥東大宮
 東大宮‥上野9351215平12451520上野16002045仙台
 仙台‥相馬514920上野10001343原ノ町15341920上野20302310平
 平7401020上野11001335平14431721上野18002203相馬‥仙台
 仙台10201440上野14531914仙台/上野15432008仙台

M'M×28 Tc×5 Ts×3 Tsc×4 Td×15

この間に仙センから、「ひたち」用編成は勝田区に移管となり、1965年10月以来、約20年間続いた485系の仙センの配置は無くなりました。

1985年3月:急行「ときわ」が特急「ひたち」に統合されて定期列車の運転を終了、「ひたち」は下り24本、上り23本に増発し国鉄在来線特急列車での運行本数最多となりました。急行「十和田」を臨時列車に格下げ。

1985年3月は筑波研究学園都市で開催されたエキスポつくばの開幕も相まって常磐線関係は大きな変化がありました。まず、万博開催期間中の臨時駅として、現在、ひたち野うしく駅がある場所に「万博中央駅」が設置され、常磐線の415系はそれまでの小豆色の交直両用色からブルーとクリームに模様替えをしました。また特急「ひたち」も1975年3月の改正で大ムコから鹿カコに転属していたクハ481形の初期型ボンネット車が大挙して勝田電車区に転属して参りました。ダイヤ改正直後の週末、そういったことを知らずに常磐線に乗車して、絶対地元ではみられないと思っていた赤スカートの「ひたち」が走っているのを見た時はびっくりしました。

次回のこのシリーズは1985年の改正で大きく様変わりした特急「ひたち」について触れます。

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2013年10月23日 (水)

西武鉄道 赤電の時代 451系 その3 6連の登場

西武の赤電を懐かしむシリーズ、今回も451系のさらなる発展です。

4516
池袋線練馬駅を通過する451系6連+2連の準急

1970年代に入ると沿線の宅地開発も進み、混雑に対応するために長大編成での運行が常態化してきました。西武電車の歴史ではよく見られることですが、4両編成2本のうち、片方の中間車を抜き取って、6連化する編成替えが行われました。これで登場するのが前回の記事で写真をご紹介した451系6連です。6連化にあたって、2M4Tでは出力不足なので、中間サハの奇数側を電装化して、490番台として、挿入される編成の末尾の数字と合わせる改番を行っています。

一方、クモハ482(登場時はクモハ488)は新宿線南大塚駅付近で発生した踏切事故で被災し、現場で解体処分となり、1969年3月に除籍されており、この編成の残り3両は今回の編成替えまで休車状態でした。

今回の編成替えで、中間サハを抜かれた7両のクモハ(455, 456, 471, 472, 481, 483, 484)のうち、472, 483, 455は電装解除され、クハ1472, 1485, 1471となりそれぞれ、471, 456, 472(456改番)とペアを組むことになりました。481(455に改番)のみは廃車予定であったクハ1411形の1434とペアを組みました。

以上の過程を図3に纏めました。

Fig_3
1471_2
701系4連に併結されたクモハ451形+クハ1471形2連

クモハのベンチレーターがガーランド型であり、クハのベンチレーターがグローブ型であることから、クハは1962年12月から1963年2月にかけて製造された1487か、1489と思われます。

1471_472_800601
801系4連と併結した拝島・多摩湖行き6両編成 こちらはクハもガーランド型のベンチレーターであることから、モハ451として製造され、後に電装解除されたクハ1471+クモハ472(元456)であると思われます。なお、残念ながら写真はありませんが、クモハ451形でグローブ型ベンチレーターを装備していたのはクハ1451形として製造され、電装化されたクモハ456(元484)のみでした。

最終的に
クモハ451形は451~480
モハ491形は493~499(奇数のみ)
クハ1471形は1471, 1472, 1485, 1487-1490
サハ1471形は1473,~1480
サハ1491形1493~1499(奇数のみ)に落ち着くことになりますが、実に複雑な改番の経緯を辿っています。

なお、6連の451系に関しては後年491+1491ユニットを偶数寄りに集約する編成替えが行われ、クモハ451-サハ1471-サハ1471-モハ491-サハ1491-クモハ451といった形態になりました。

451形の尾灯、登場時は501形のような引っ掛け式でしたが、急カーブを曲がる際に接触による破損が発生したため、比較的早期に全車埋込式に改造されたそうです。私の記憶では全て埋込式でした。

1960年代半頃より、「赤電」塗装化・ATSの整備および列車無線の搭載・連結器部分への電気連結器の新設・パンタグラフの工進精工所製KP-62系への換装・車内送風機の扇風機化などが全車を対象に順次施工されています。また、前面運転台窓ワイパーの自動化(空気圧動作化)も施工され、施工された車両は前面窓下ワイパー取り付け部分がガラス側へ凸形に出っ張っていることが後に登場するクモハ411形に対するクモハ451形の形態的特徴となりました(クモハ475のみ例外)。

MG換装による低圧電源の交流化も施工されました。これは101系ならびに701系・801系の冷房改造によって発生した低出力MG(日立製作所製HG-534-Mrb、出力12kVA)ならびに天井板・交流蛍光灯・扇風機を転用して1973年より実施されたものでしたが、施工対象は本系列のみで編成された車両ならびにクハ1651形と編成された車両に限定され、クハ1411形と編成されていた車両については対象外でした。また、流用したHG-534-Mrbは4両分の給電能力を有していたことから、6両編成ではサハ1471形偶数車サハ1491形にのみMGを搭載し、サハ1471形奇数車はMGを撤去しました。また、低圧電源の交流化と並行して先頭車前面窓内側に行先表示幕を新設する工事がこちらは全車を対象に実施されました。

なお、晩年には前照灯のシールドビーム2灯化も施工されていますが、同工事は本系列の淘汰時期と重なっていたことから、原形の白熱灯1灯仕様のまま廃車となった車両も多く存在したそうです。

池袋線・新宿線両系統の本線・支線運用問わず幅広く運用されましたが、2000系新101系・301系といった新性能車の相次ぐ増備に伴って、1979年より廃車が開始されました。廃車はクハ1411形と編成され、低圧電源が直流のままであった車両から優先的に進められ、次いで支線区で運用するには不適当な6両固定編成の順に淘汰が進められました。

最晩年には2両固定編成が多摩川線に数編成残存するのみとなりましたが、こちらも本線系で余剰となった551系・571系によって玉突きの形で代替され、最後まで残存したクモハ461-クハ1662が1984年8月に除籍されたことをもって、形式消滅となりました。

以上、文章の作成にあたってはWikipediaの記述を参考に纏めました。

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2013年10月22日 (火)

西ベルリンの思い出 TWA Boeing 727-31 N839TW

西ベルリンのテーゲル空港で撮影した旅客機のシリーズ、今回からはTrans World Airlines (TWA)です。

TWAはPan Amと同様、アメリカ合衆国では老舗のキャリアであったことと、後述のように、ルフトハンザ航空の復興にも協力的であったことから西ベルリンへの就航権利を持っていたのかと思います。実際に撮影できた機材はすべてBoeing727-100型でレジはN839TW, N844TW, N848TWの3機でした。今回はN839TWの写真を紹介します。

N839tw_7839_cn_18904_152boeing_7273
N839TW  7839 (cn 18904/ln 152) Boeing 727-31 1989/4/8 TXL

TWAは返還前の沖縄には就航していたそうですが、羽田や成田には就航実績が無かったために我が国での知名度はPan Amほど高くないのではと思われます。

まずは会社として設立からの歴史を追ってみましょう。Wikipediaの記述を参考にして記述しています。

1925年ウエスタン・エアー・エキスプレスとして設立されたあと、1930年7月16日に、1928年創設の大手航空会社のトランスコンチネンタル・エアー・トランスポート(T-A-T)(世界初の大西洋横断飛行を成し遂げた著名な飛行家のチャールズ・リンドバーグが技術顧問を務めていた)と合併し、トランスコンチネンタル・アンド・ウエスタン・エアー(T&WA)と社名を変更しました。

110905
この秋にはアメリカ議会の予算承認の混乱で一時、閉館にまで追い込まれたスミソニアン航空宇宙博物館ですが、私も2011年9月に訪問する機会がありました。

Northrop_alpha2_110905_smithsam

スミソニアン航空宇宙博物館に展示されているNorthrop Alpha 2 NC11Y

1930年ノースロップ社製のAlpha 2 (S/N 3; ATC# 381)で、420馬力のPratt & Whitney Wasp C エンジン (S/N 3162)を搭載しており、最初はアメリカ商務省の所有機(NS-1)でした。続いてフォード自動車が所有し、すぐにNational Air Transportの所有となり、レジNC11Yが与えられました。その後、側面にTWAと表示されているようにこの機体はTranscontinental & Western Air, Inc.1931年11月27日に売却され、1931年から1935年にかけて同社が担当した航空郵便ルートで活躍したそうです(情報はここから)。

1932年には全金属製の最新鋭機であるダグラスDC-1を導入した他、その後も同機の生産型であるダグラスDC-2DC-3などの新鋭機を次々に導入し、コロンバス~ピッツバーグ~ニューアーク線やアメリカ大陸横断路線に参入するなど、その路線網を全米に拡大し続けました。現在、アメリカを代表する飛行機メーカーであるBoeingは当時、ユナイテド航空と独占契約を行っており、Boeing 247は同社以外の航空会社には販売できない条件が付加されており、このためT&WAはダグラス機を購入したそうです。

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この写真の機体はEastern航空のものですが、同じくスミソニアン航空宇宙博物館に展示されているダグラスDC-3型機

1934年には一旦、経営危機が訪れ、リーマンブラザーズ(2008年9月15日に経営破綻したあのリーマンブラザーズです)とJohn D. Hertz(レンタカーで有名な)が会社の経営権を得ます。この頃、DC-2が運航に投入され、さらに1937年1月には最初のキャビン与圧機のBoeing 307(Stratoliner)を導入する契約が成立し、1940年5月に納入され、同年7月に路線投入されました。

1939年には、当時の社長のジャック・フライの友人の大富豪で、飛行家としても知られるハワード・ヒューズに買収されました。以降、ヒューズにより莫大な資金が投下され安定した資本のもと、与圧客室を持ち高高度運航が可能なボーイング3071940年に導入した他、オーナーのヒューズ自らがアメリカ大陸無着陸横断が可能な大型旅客機、ロッキード コンステレーション開発の音頭を取るなど、本格的な国際航路の開設を含むさらなる事業規模の拡大を目指しました。

1939年9月の第二次世界大戦の勃発と、1941年12月のアメリカの第二次世界大戦への参戦により、国内外路線の拡大は一時的に中断されることとなり、パンアメリカン航空ユナイテッド航空ノースウェスト航空などの競合他社と同じく、1945年8月の終戦までの間、所有機とそのパイロットの多くがアメリカ軍に徴用されてしまいました。

第二次世界大戦終結後の1946年には、コンステレーションを他社に先駆け導入しました。また、サウジアラビア航空エチオピア航空の設立に協力した他、敗戦国である西ドイツのフラッグ・キャリアであるルフトハンザドイツ航空の復活にも協力を行いました。

1950年には、国際線を独占しようとするライバルのパンアメリカン航空と、それを支持するオーウェン・ブリュスター上院議員が提出した「コミュニティー・エアライン法案(国際線就航を特定の企業に制限する法案)」の論争に勝利し、国際線への本格的参入が可能になると、それに合わせて社名を「トランス・ワールド航空」に変更しました。

その後、ロッキード コンステレーションの最新機種である、L-1049「スーパー・コンステレーション」L-1649「スターライナー」などの最新機材を次々に導入した他、1958年から1959年にかけて、当時の最新鋭ジェット旅客機 ボーイング707や、再びヒューズが開発に関わったコンベア880を相次ぎ導入するなど、パンアメリカン航空と並び、華やかな空の黄金時代を代表する航空会社として世界の空に君臨しました。

国際線はフランスやイタリア、ギリシアをはじめとする大西洋横断路線、およびヨーロッパ路線がメインでしたが、その後徐々に路線網を拡張し、最盛期には世界一周路線を運航するまでになりました。一時はPan Amに次ぐ、第二の非公式なアメリカ合衆国のFlag carrierと言われたそうです。

なお、日本路線はパンアメリカン航空とノースウェスト航空が長年独占し続けていたこともあり、アメリカ占領当時の沖縄に乗り入れていたのみでしたが、アメリカ軍チャーター等で横田基地や板付基地などにたびたび飛来していました。

その後、経営方針をめぐりヒューズと役員会が対立したことを受けて、ヒューズは1966年に保有する株の多くを手放し、経営から手を引くこととなりました。

最大のスポンサーでもあったヒューズが去ったことで経営方針が変わり、1967年には、世界最大級のホテルチェーンであるヒルトン・インターナショナルを買収するなど、順調な業績を元に事業の多角化を進めました。同年、TWAは Lockheed L-749A Constellation L-1649 Starliner 貨物機を手放すことでアメリカで最初の保有機がすべてJet機の航空会社となりました。

さらに1970年代には、最新鋭のロッキード L1011 トライスター型機イースタン航空デルタ航空などの他の大手航空会社とともに導入し、国内幹線や短中距離国際線に投入したほか、ボーイング747型機や同型機の超長距離型であるボーイング747SPの導入などを通じて積極的な国際線網の展開を進めました。

TWAはもともと国内線路線を充実させており、ハブ空港としてLambert-St. Louis International AirportとJohn F. Kennedy International Airportを持ち、準ハブ空港としてKansas Cityや Los Angelesさらにプエルト・リコのSan Juanなどを持ってました。1980年代にはアトランタもハブ化しましたが、1990年代には縮小しています。さらにヨーロッパでもフランクフルト、西ベルリンに拠点を設けて、ヨーロッパ内(Berlin, Frankfurt, London, Zurich, Hamburg, Stuttgart, Vienna, Amsterdam, Istanbul.)をBoeing727-100でカバーしていました。

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Boeing 727-100型機の場合、サイドから見れば胴体の長さで-200型と区別がつきますが、このように正面から見ても中央の第2エンジンの空気取り入れ口の形が楕円形であることから-100型と判断できます。

しかし、1970年代後半になると外国航空会社との競合激化などにより次第に業績が悪化し、経営が苦しくなったところで規制緩和の大波を受けることになりました。

1978年に、ジミー・カーター政権によってもたらされたアメリカ国内航空業界の規制緩和(ディレギュレーション)後、国内外での厳しい価格競争により、既に業績が悪化しつつあったTWAは大打撃を受けました。加えて1985年には、テロの標的ともなり、トランスワールド航空847便テロ事件が発生しました。

1980年代中盤にかけては、何度かカール・アイカーンなどの投資家による企業買収によって経営者が代わるなどの異変はあったものの、空の黄金時代をともに謳歌したパンアメリカン航空ブラニフ航空イースタン航空などの大手航空会社が、厳しい競争に敗れ次々に破産や吸収合併により消えていく中、TWAはヨーロッパや中東への国際線をはじめとする主要路線の売却や、拠点空港をミズーリ州セントルイスへ移転するなどして何とか生き残っていました。

1990年代に入ると湾岸戦争による燃料費の高騰や格安航空会社の台頭などから慢性的な経営不振に陥り、1992年1995年には相次いで破産申請を行うものの運航は継続していました。なおこの頃には新しい塗装を導入したほか、ボーイング777型機の導入やセントルイス-東京線の就航を計画するなど、積極的な経営拡大を画策していました。

しかし、1996年にニューヨーク州のロングアイランド沖でパリ行きの800便のボーイング747型機が、燃料タンクの構造的欠陥がもとで爆発、空中分解して墜落し、230人の乗員・乗客全員が死亡する事故(トランスワールド航空800便墜落事故)が起きるなど不運が重なり、ついには2001年にライバルの一つであるアメリカン航空に吸収合併されてしまいました。

吸収合併後もしばらくの間、多くの元トランス・ワールド航空の機材はそのままの塗装にアメリカン航空のロゴを入れたり、逆にアメリカン航空の銀色のペイントに「Trans World」のブランドロゴが入ったままで運航していたが、まもなくその様な機材も姿を消し、トランス・ワールド航空は完全に終焉を迎えました。

私も30代の頃、旅客機のプラモデル造りに嵌ったことがあり、TWAのコンステレーションやトライスターはハセガワなどのキットで作製した思い出があります。

実際の機体を見たのは1988年の西ベルリン・テーゲル空港が初めてでしたが、その後LAXなどでも撮影する機会がありました。

また2001年にアメリカ出張した際に偶然購入したAIRLINERS 7/8月号がTWAの特集号で、今回の記事作成にも役立ちました。ロッキードコンステレーションの写っている表紙を載せます。

Airliners_no_70_2001_julyaug
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2013年10月21日 (月)

公園保存蒸気 C12 241 南阿蘇鉄道高森駅前と南阿蘇鉄道

全国の公園保存蒸気を訪ね歩くシリーズ、今回は九州熊本、阿蘇山系の高森に保存されているC12 241号機です。今回は、保存蒸気のみならず、南阿蘇鉄道についても触れてみようと思います。

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2010/3/18 南阿蘇鉄道 高森駅前

この機関車の履歴は、いつものように沖田祐作氏の機関車表によりますと

C12241     日立製作所笠戸工場=1268       1940-07-22 S50.00t1C1t(1067)
車歴;1940-07-22 製造→ 納入;国鉄;C12241→
配属[達615];仙台局→1940-07-22
竣工→配置;新潟局→1955-08-01 現在;鹿児島→1969-03-31
現在;鹿児島→1970-07-20 全検→1973-03-28 熊本→1974-07-00
休車→1974-07-26 廃車上申→1974-08-18 廃車[工車594];
熊本→1974-00-00 頃;
保存時鹿児島車両所切取式除煙板K-5 型改(C5765 から譲受)装備
→保存;熊本県阿蘇郡「高森駅前」;C12241

1940年に製造され、当初は仙台、新潟で働きましたが、1969年から鹿児島、熊本などの九州の地で勤務し、1974年夏に廃車になっています。デフレクターはオリジナルのものではなくC5765号機のものを保存時に流用しているのですね。

高森線における蒸気機関車の記録としてはC12252の素晴らしい写真がこちらでみることが出来ます。また白川鉄橋を渡るシーンはこちらで見ることができます。

<C12形蒸気機関車について>

C12形蒸気機関車は国鉄の前身の鉄道省が製造した過熱式タンク機関車で、軸重制限のある簡易線規格路線用の小型軽量機関車と設計され、テンダータイプのC56形はこの形式から派生した形式です。

鉄道省向けとしては1932年から1940年まで、および1947年に282両が製造されています。

製造メーカーは川崎車輛、汽車製造会社、日立製作所、日本車輌製造、三菱重工業の5社です。火室は深く設計され焚火しやすく、38号機以降は、アーチ管を増設して伝熱面積を増加し蒸発量を増やす改良が行なわれています。

このほか鉄道省以外に納入され、戦時買収などにより鉄道省に引き継がれ、C12形に編入された同形車が11両 (C12 265 - 275) あるため、ラストナンバーはC12 293となっています。

なお、基本的にはデフレクターは無しがデフォルトでしたが、C11形と同型のデフレクターを装備した車両も少数ですが存在しました。

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終点の高森駅構内の様子 国鉄高森線のころからの風景が多く残っているように感じます。

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高森駅の駅舎 なかなかユニークなスタイルの駅舎が迎えてくれます。

<南阿蘇鉄道高森線>

国鉄高森線として
1928年2月12日 立野 - 高森間が宮地線として開業、長陽・阿蘇下田・中松・阿蘇白川・高森の各駅を新設
 12月2日 豊肥本線の全通により立野 - 高森間を高森線に分離
1981年9月1日 第1次特定地方交通線として廃止承認

1984年2月1日 全線の貨物営業を廃止
 11月17日 第三セクター鉄道への転換を決定

旧国鉄特定地方交通線であった高森線を第三セクターに転換して開業した路線です。立野を出て北の阿蘇五岳(中央火口丘)、南の外輪山に挟まれた南郷谷を白川に沿って東に進み終点の高森に至ります。高森駅を除いた全駅が南阿蘇村に属しています。起点の立野駅は阿蘇カルデラを囲む外輪山の切れ目にあり、JR九州豊肥本線と接続しています。

かつては高千穂線とつながり九州中部を横断する予定だったそうですが、高千穂~高森間27.0kmの建設は1975年2月のトンネル掘削工事中の異常出水事故により、1980年に中断、凍結され、さらに高千穂線の第三セクター化(1989年)、2005年の台風14号による全線運行休止、同年12月の復旧断念、2008年末の同線廃止により、残念ながら完全に断念されたそうです。

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南阿蘇鉄道で活躍する2000形気動車 2003A 2010/3/18 立野

1986年4月1日の開業にあわせて導入された新潟鐡工所製造の車両で、NDC(ローカル線用軽快気動車シリーズ)の第一世代にあたります。16m級の鋼製車体でAはATS設置を意味するそうです。エンジンは新潟鐵工所製6H13AS(DMF13HS)で出力250PS/1900rpm、直列6気筒横形ディーゼルエンジンです。台車は動台車1軸駆動方式のコイルバネ台車NP119D・NP119T(国鉄DT22形台車と同形)です。

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この路線には日本一長い駅名の「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」があるほか、もうひとつ「阿蘇下田城ふれあい温泉駅」という長い駅名を持つ駅があります。

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<日本一長い駅名に関するエピソード>

南阿蘇水の生まれる里白水高原駅という駅名は読み仮名が22文字あり「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅」(鹿島臨海鉄道大洗鹿島線)と並んで日本一長い駅名です。

正式表記では14文字あり、開設当初は読み仮名、正式表記ともに日本一長い駅名でした。2001年、一畑電車北松江線の古江駅が「ルイス・C・ティファニー庭園美術館前駅」に改名され、駅名の長さで同駅を抜いて日本一となりましたが、駅名の由来となった美術館が2007年3月31日で閉館したため、同駅は同年5月21日に松江イングリッシュガーデン前駅に改名されました。これによって、再び読み仮名で日本一長い駅名に返り咲きました。

あまりの駅名の長さのため、案内やきっぷなどでは「白水高原駅」と省略されて表記されています。

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2013年10月20日 (日)

2013 夏 新潟の旅 13 EF510 基本番台 8号機

これまで撮影したEF510基本番台の写真を紹介するシリーズ、今回は8号機です。

EF510-8号機の甲種回送は2006/11/8とのことですので

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3095レのエンド交換 2006/11/18 千里丘

まだ運用に投入されて間もない頃のピカピカ感がある8号機です。

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北陸本線、福井駅の隣駅である越前花堂駅を通過する1053レ 2008/9/5

この駅は元々は越美北線が勝原駅まで開業した際(1960年12月15日)に単独旅客駅として設置されました。1968年10月1日、国民体育大会福井秋季大会にあわせ、北陸本線にもホームが設置されました。1984年4月1日には無人駅化され、1987年4月1日、国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となり、越美北線の起点駅となりました。

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北陸本線ホームからみた越美北線「九頭竜線」ホーム 2008/9/5

北陸本線のホームは越美北線の部分開業後に開設されたため、国鉄分割民営化までは隣接する貨物駅の南福井駅が同線の起点となっていました。現在も実際の線路分岐部分は南福井駅構内に含まれているため、運転取り扱い上では南福井駅を北陸本線と越美北線の境界と扱っています。

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前回、その歴史について触れた島本駅を通過する3092列車 2010/7/8

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2013年10月19日 (土)

1985年3月の改正 485系 「くろしお」の1年半 

ここ数ヶ月はEF510の紹介、公園蒸気、西ベルリンの思い出、西武の赤電の4本のシリーズで回してきましたが、今回からさらに一本、国鉄末期の485系をシリーズに加えようと思います。

\2012年11月1日の記事で、381系くろしお」の特集をしました。その際にはきちんと触れませんでしたが、1985年3月14日のダイヤ改正で、急行「きのくに」が廃止となり、特急「くろしお」が4往復増発されました。その4往復分は、日根野電車区に配置されていた381系では対応できなかったため、東北新幹線開業等で余剰気味だった東北地区の485系モハユニットと南福岡区の貫通型200番台クハ、この改正で新たに登場したクハ480の種車として向日町に配置されていたサハ481や金沢のサハ489が集められ、投入されることとなりました。

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鳳を通過する485系「くろしお」 1985/4/21

しかし、交直両用車両である485系による直流区間のみの特急運用には多くの批判が寄せられ、また特急化されたにもかかわらず381系で運転される「くろしお」とは約90分の所要時間差があり、気動車急行時代と変わらないのではといった苦情も寄せられ、運転開始から僅か1年半後の1986年11月1日の国鉄として最後のダイヤ改正で、見直されることとなりました。

特急「やくも」の編成短縮により捻出した381系のコンバートで、「くろしお」は381系に統一されることとなり、485系は九州の「みどり」、福知山の「北近畿」などに転用されることとなりました。

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4両編成の485系を併結した形態で運用され、天王寺側のクハは当時はかなりサプライズに見えたクハ480形となりました。 1985/4/21 鳳

まず、「くろしお」4往復のために、4両編成の485系(Tc-M'M-T'c)11本が準備されることとなりました。

このときの車両の動きですが、

モハユニット(モハ485+モハ484)
仙台から
225-604, 226-605, 227-606, 228-607, 249-608, 250-609,   
青森から
251-610, 252-611, 253-612, 254-613, 255-614

<モハ484-600番台>後期タイプの200番台に車掌室と業務用室を設置したタイプで定員64名、編成中央部に車掌室付きのモハ484が必要になったため、製造されたもので、これら以外に134-601, 145-602, 224-603といったユニットで製造されたため、485系のユニット間の数字のズレがややこしくなりました。601、602を含むユニットは1982年に盛アオから鹿カコに転出、603を含むユニットは1984年に仙センから水カツに転出しています。

クハ481
南福岡から 201, 203, 204, 205, 207, 208, 209, 210, 211, 212, 217
(アンダーラインは拙blogでも何度も触れてきた試作の自動解結装置搭載のクハですが、1976年頃、既に取り外し済み)

今回、天王寺向きクハとしてクハ480が改造で登場し、その種車は
サハ481-12   => クハ480-1 向日町
サハ481-13   =>  クハ480-2 向日町
サハ481-14   =>  クハ480-3 向日町
サハ481-15   =>  クハ480-4 向日町
サハ481-16   =>  クハ480-5 向日町   
サハ481-17   =>  クハ480-6 向日町   
サハ481-18  =>  クハ480-7  向日町
サハ481-19   =>  クハ480-8  向日町
*サハ489-201 =>  クハ480-9  金沢
*サハ489-204 =>  クハ480-10 金沢
*サハ489-252 =>  クハ480-11 金沢  
  

*サハ489-201は1973/5/8 サハ489-1から改造(CP取り付け)、 
*サハ489-204は1973/5/31 サハ489-4から改造(CP取り付け)、
*サハ489-252は1973/4/1  サハ489-52から改造(CP取り付け)、1972/11/9 サハ481-2に横軽協調装置取り付け

種車のエアコンのタイプがそのまま流用されているため、クハ480-4~8はAU13Eタイプなのに対して、1~3, 9~11はキノコ型AU12タイプとなりました。

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紀伊田辺で休む485系 4連併結編成 1986/8/18 よく見ると手前のクハ480はAU13型、奥のクハ480はAU12型のエアコンであることが分かります。

改造により登場したクハは4両編成と短編成用となったため、MG、CPの搭載は見送られ、クハ480となりました。

当時の「くろしお」の運用です。データはいつもの通り、「485系の動き 配置および編成・運用の移り変わり」の情報を参考に致しました。

←新宮
TcM'MTc1×11 所要8(臨時+3) Tc1:Tc480
くろしお(4)(併結+3,臨時+3)
 日根野‥天王寺20002222白浜‥紀伊田辺
 紀伊田辺653739周参見744826紀伊田辺‥白浜10501320天王寺14001836新宮20122122串本
 串本631740新宮751817紀伊勝浦‥新宮12141643天王寺18002130串本2231新宮
 新宮550串本6511027天王寺‥日根野
 日根野‥天王寺10301253白浜14201643天王寺18002026白浜‥紀伊田辺
 紀伊田辺‥白浜10501320天王寺14001621白浜‥紀伊田辺21262206周参見
 周参見620712紀伊田辺‥白浜7571027天王寺‥日根野
 日根野‥天王寺10301517新宮16262050天王寺21212158日根野
 天王寺7201145新宮13551822天王寺
 天王寺11301351白浜15381805天王寺
 天王寺9031129白浜14001622天王寺

閑散期は4連、多客期は8連で運用されるため、貫通扉一枚の貫通式となり、この運用で初めて200番台クハの貫通機構が本格的に使用されました。

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天王寺駅高架ホームに入線した485系「くろしお」 クハ480の特急シンボルマークは当初は立体的なものを付けていたようですが、貫通路使用時に通行に支障をきたすため、短期間で平面的なものに交換されたとのことです。

1986年11月改正では、
モハユニットはすべて福知山に転出
クハ481-201, 204, 205, 209, 211, 212 は福知山に -203, 207, 208, 217は南福岡に
クハ480-6, 8,はそのまま福知山へ(-8、-6はMG(210kVA、CPを搭載してクハ481-801, 802へ)、
クハ480-5は160kVAのMGを搭載してクハ481-851に改造後、福知山へ、(MGの容量の違いで50番台の区別をするのはクハ183-150などでもありました。)
クハ480-1, 2, 3, 4, 7, 9, 11は南福岡に転出しました。

「くろしお」の運用は順次381系に置き換えられました。
日根野電車区における485系の配置はこの期間だけとなりました。福知山に転属した485系はその後、仲間を増やして、1990年代に入ると七尾線交流電化で113系の交直両用化(415系800番台)をするため、交流機器を渡したり、使用停止したりして183系となりました。

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1972年にクハ481-200番台が登場して13年目にして初めての貫通システムの本格的使用となりました。

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2013年10月18日 (金)

西武鉄道 赤電の時代 451系 その2 4連の登場

西武鉄道の赤電を懐かしむシリーズ、今回は451系の発展のストーリーです。

4516
新宿線の「準急」本川越行きで活躍するクモハ451形6連 所沢 1974年頃 ベンチレーターは全てガーランドタイプです。

前回お話ししましたように、最初は単独で登場し、クハ1411形とペアを組んでいたモハ451形でしたが、1960年からは中間車サハ1471形1471~1474が新製され、同時に落成したモハ471~474とともに4両編成を構成しました。この4連スタイルは1961年も続き、さらに番号は480、1480番台に飛んで増備されました。中間車が2編成分多めに増備されたため、電動車はモハ371形、後にモハ301形となり、片開きドア車に、両開きドアの4連と言った珍スタイルの編成も出現しました。その辺の動きを図1に纏めました。

Fig_1
480番台に飛んでナンバーリングされていた車両は番号を詰める改番が1962年になされています。

4516_2
池袋線小手指を発車する451形6連

1962年になるとモハ451形と同形の制御車クハ1451形が6両新製され、モハ451形とペアを組むようになりました。クハ1451形新製の頃は既に551系や601系が製造されており、その新仕様が導入されました。

1964年には制御電動車の形式記号がモハからクモハになりモハ451形クモハ451形と呼ばれるようになりました。さらにクモハ301形の廃車に伴い、その代替として、クモハ455、456がサハ1485、1486と編成を組み、さらに455、456の編成相手だったクハ1456、1455を電装化してクモハ484, 483にすることになりました。このときの電装化で登場したクモハ483、484はグローブ型ベンチ-レータを装備しています。

これらの過程を図2に纏めました。

Fig_2
さらに電装化されずに残ったクハ1451形はクハ1487~1490に改番されました。

クモハ451形の6連登場は次回になりますが、ここまででもかなり複雑な変遷を経ています。

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2013年10月17日 (木)

西ベルリンの思い出 パンナムエクスプレス ATR-42 N4205G N4206G

西ベルリン、テーゲル空港で撮影した旅客機のシリーズ、今回もPan Am ExpressATR-42の写真を紹介致しますが、そもそもPan Am Expressの設立の経緯からその後の歴史について触れておこうと思います。

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N4205G (cn 077) ATR ATR-42-300 1989/4/8 TXL

1978年、カーター政権による航空規制緩和政策(Airline Deregulation Act)により、それまでPan American World Airwaysは国際線や国内幹線専門に運航するという制限がなくなり、どの会社も国際線、国内線の区別無く運航できるようになりました。そのため国内路線網強化のため、1980年に東海岸を中心とした国内路線網を持っていたナショナル航空を買収しました。そうなるとさらにネットワークの充実のため、いわゆるfeeder networkも必要となり、地方小空港路線の支線部を運航する航空会社とコードシェア的な契約が結ばれることとなりました。そうやって契約が結ばれたアメリカ東海岸地域の航空会社が

Air Atlanta (from 1984 to 1987)
Emerald Air (from 1981 until 1985)
Empire Airlines (until 1985)
Presidential Airways (only 1987)
Republic Airlines (until 1986) です。

これらは東海岸のハブ空港であったNew YorkのJohn F. Kennedy International Airportに集中する路線をカバーしました。

Table_1
                    表1 Pan Am ExpressとしてFeeder networkを運航した航空会社とその機材

さらに1987年6月、Pan Amは1967年に設立し、フィラデルフィアを拠点に運航していたRansome Airlinesを買収し、Pan Am Expressと改名しました。それまではde Havilland Canada Dash 7をメインに運航していましたが、買収後フリートにATR-42が加わりました。1987年11月、最初に導入された2機のATR-42が西ベルリンテーゲル空港にフェリーされ、1986年から設立されていた英国の航空会社、Berlin European UKと激しい競争が展開されるようになりました。このことについては、後日、別の記事で詳しく触れようと思います。

Table_2
表2 Pan Am Expressのヨーロッパ内の目的地、国名、乗り入れ空港と運航期間

1990年のドイツ統一まで、Pan Am Expressは西ベルリンテーゲル空港をハブ空港として、ここに乗り入れを許されている英国、フランスの航空会社を激しい競争を展開しました。テーゲル空港からは12のヨーロッパ域内都市と結び、ニューヨーク(JFKとLaGuardia空港)からは北東アメリカとカナダの14空港を結び、さらにマイアミ国際空港を中心としたfeeder networkやLos Angeles国際空港、さらには本来の拠点空港の北東フィラデルフィア空港も維持しました。

1991年12月、Pan Amの倒産により、870名の従業員はTrans World Airways(TWA)傘下となり、Trans World Express (TWE)と改名しました。ヨーロッパとマイアミを中心としたネットワークは廃止され、JFKだけが唯一のhubとして残りました。1993年まで20の路線が維持され、Dash7は売却され、ATR-42のみのフリート構成となりました。

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N4206G (cn 081) ATR ATR-42-300 1989/2/18 TXL

1995年11月、営業成績の悪化から、TWAはTWEの経営を切り離すこととし、路線は1982年にミズーリ州Bridgetonを拠点とするTrans States AirlinesにATR-42はハワイの島々の間を結ぶMahalo Airに売却されました。

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2013年10月16日 (水)

公園保存蒸気 D51 609 成田市栗山近隣公園

各地の公園に静態保存されている蒸気機関車を見て歩くシリーズ、今回は成田市栗山近隣公園に保存されているD51 609号機です。

JR成田駅から歩いて数分、京成線の高架下に広がるのが今回、ご紹介する栗山近隣公園です。広大な土地におおきな黒い蒸気機関車が屋根付きで保管されています。

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美しい外観を保っているD51 609号機 2013/9/7 栗山近隣公園

WEBサイトによると公園の面積は1.6ha、保存されているD51 609号機の他、ミニSL用線路、遊具等が充実しています。ミニSLの運行は3月から11月末までの第4日曜日のようです。

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609号機は一部錆の浮き出しも見られますが、美しく整備されています。
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残念ながら炭水車のライトはありませんでした。

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D51609号機の履歴(いつものように機関車表から)です。

D51609     日立製作所笠戸工場=1440    1941-03-17 S77.60t1D1T(1067)
車歴;1941-03-17 製造→ 納入;
国鉄;D51609→ 配属;? → 配置;? →1946-12-31 現在;姫路一→
1947-10-00 現在;姫路一→1948-07-00 現在;姫路一→ 重油併焼装置取付→
1955-08-01 現在;長岡一→1968-04-00 現在;坂町→ 新津→
1972-12-09 廃車;新津→ 保存;千葉県成田市「栗山児童公園」;D51609(栗山公園説?)

1941年の製造後、姫路で働き、7年後に新津機関区に移動となり、24年間さらに新津機関区に配属となっています。

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機関車本体はJRから市への貸し出しになっているようです。
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D51609号機のそばには台車のないワム70000も一両保存されていました。

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2013年10月15日 (火)

2013 夏 新潟の旅 13 EF510 基本番台 7号機

EF510の基本番台のシリーズ、今回は7号機です。

甲種回送日 2005/11/9

Ef5107_081211
2008/12/11 島本駅を通過する3095列車です。

島本駅は東海道本線、山崎駅と高槻駅間に2008年3月15日に開業した駅です。この区間は7.5kmの駅間があり、1876年の開業以来、新駅の構想はあったそうですが、財政上の問題等で見送られて来たそうです。1997年にJR西日本から島本町に対して、新駅設置希望の有無について打診があり、島本町内で本格的な検討が開始されました。当初は合宿施設と大阪府立青年の家付近としていましたが、同施設が2001年3月に閉鎖されたことで現在の場所に決定されたそうです。最近作られた桂川駅、甲南山手駅などと同じく、内側線にしかホームの無い駅ですが、それが我々鉄道写真を写す側には上り下りとも写真の写しやすい駅となっています。

Ef5107_100710
2010/7/10 東淀川駅を通過する4092列車(A56)

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この夏の新潟の旅で撮影した7号機 2013/8/8 新発田駅

東三条駅は三条市の中心駅です。旧市街地へは南隣の三条駅、現在の中心市街地へは弥彦線西隣の北三条駅が近いですが、弥彦線開通以後は、三条市は当駅を中心に発展したため、駅の規模としてもこちらが大きくなっており、路線バスも当駅を中心に発着しています。特急「北越」をはじめ、寝台特急列車を除くほぼ全ての列車が停車します。また、上越新幹線の燕三条駅の営業キロは当駅が基準となっています。

1897年11月20日に北越鉄道の一ノ木戸駅として、沼垂 - 当駅間の開通時に開業しました。
1907年8月1日には北越鉄道が国有化され、国鉄の駅となりました。
1925年4月10日、 越後鉄道線(現・弥彦線)燕 - 当駅間が開通し、当駅に乗り入れました。1926年8月15日、 東三条駅に改称されました。
1927年7月31日、 越後鉄道線が越後長沢駅まで開通
1927年10月1日、越後鉄道が国有化され、国鉄弥彦線となりました。
1944年10月16日、 弥彦線 当駅 - 越後長沢間が不要不急線として休止されました。
1946年10月1日、 弥彦線 当駅 - 越後長沢間が営業再開となりました。
1985年4月1日、 弥彦線 当駅 - 越後長沢間が廃止。
1996年9月15日 、 弥彦線 燕三条 - 当駅間高架化により、東三条駅付近のルートが変更され、 信越本線をアンダーパスして駅東側4・5番線に入る形態を廃止、直接駅西側のホームに入る形式に変更されました。そのため急カーブも解消されました。
1998年4月1日、貨物列車の発着が廃止され、自動車代行輸送を開始。
2006年4月1日、東三条オフレールステーション発足。

東三条オフレールステーション(略称、東三条ORS)は、旅客駅の東側にあり、JR貨物東三条駅に属するコンテナ集配基地です。12フィートのコンテナ貨物を取扱っており、貨物列車代替のトラック便が南長岡駅との間で1日3往復・新潟貨物ターミナル駅との間で1日6往復の運行されています。

東三条駅は弥彦線の乗り入れ、部分的廃止など結構、これまでにいろいろな変化のあった駅です。

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2013年10月14日 (月)

西武鉄道 赤電の時代 451系 その1 2連編

西武鉄道の赤電時代を懐かしむシリーズ、今回からはクモハ451形です。

4511411
クハ1411形との2連、その後には501系か551系を従えた451形新宿線各停電車 1974年頃 武蔵関~東伏見

幼少の頃の西武線で一番印象に残っている電車といえばクモハ451形です。というのは最初に西武線と関わり合いをもったのが、萩山、八坂、小川あたりで、新宿線系統であり、当時池袋線はクモハ351形501系の正面二枚窓組が多く、新宿線系統はクモハ451形、クハ1411形が主流だったからかと思います。

451形は501系の後継形式として、西武初の両開き扉とアルミユニットサッシを採用し1959年より新製されました。また、上半分黄色・下半分茶色の旧塗装で登場した最後の系列でもありました(といっても私は黄色の塗装を見てはいるはずですが、はっきりとした記憶は持っていません)。

当初は制御電動車モハ451形のみが新製され、連結対応工事を施工されたクハ1411形と編成して運用されました。後に付随車サハ1471形が新製されて本系列のみの固定編成が現れ、さらに制御車・中間電動車も誕生し、その過程において非常に複雑な編成替えならびに改番が行われています。

構造的には軽量形鋼を多用し、構体設計に改良が加えられ、制御電動車同士の比較において、モハ451形はモハ501形後期車よりも2.5t軽量化が図られました。

前面形状は501系の湘南型デザインから一変し、同時期に新製された国鉄101系電車に類似した切妻形状とされました。前面窓部分は国鉄101系同様に極細の仕切りによって3分割された連続窓風の処理がされているものの、本系列では窓周りの窪みは設けられていないため、若干印象が異なります(当時、子供心に101系を真似て造ってはいるが、足回りは?と感じました)。

なお、西武における大先輩の「団塊鉄ちゃん気まぐれブログ」において451形の特集記事があり、同記事では”当時国鉄で試作された貨物気動車キワ90が当車に形状、塗色共に類似していました。”と書かれております。貨物気動車キワ90は写真でしかみたことがありませんが、確かにその通りと感じました。

451
側面から見ると両開きの客用扉、2連のユニット窓、この辺は国鉄101系と良く似ているのですが・・・屋根と足元に目をやると
西武多摩川線 白糸台

前照灯は1灯式のものが前面幕板中央部に埋め込まれ、標識灯は露出型の引っ掛け式のものが腰板部左右に設置されました。また、前面窓下中央部には行先種別表示板受けが設置されています。

客用扉は西武では初採用となる1,300mm幅の両開扉で、窓固定支持をHゴムによるものとした鋼製扉でした。本系列の客用扉下靴摺部分は車体外側の折り曲げ部分が大きく取られており、外観上靴摺が太く見えることが特徴でした。

側窓は2枚1組のユニット構造としたアルミサッシとし、全開可能な二段上昇窓です。なお、サッシ外側部分は車体同色に塗装されています。窓配置は先頭車がd1D2・2D2・2D2、中間車が2D2・2D2・2D2です(d:乗務員扉, D:客用扉、戸袋窓の記載は省略)。連結面は貫通路がクハ1411形と連結のため再び800mm幅の狭幅貫通路に変更され、貫通扉も設置されました。

ベンチレーターは501系同様にガーランド形を採用し、先頭車に6個、中間車に8個搭載しました。また、車内換気装置としてファンデリアが設置されたことから、ファンデリア直上のベンチレーター(1両あたり2個)は大型の特殊形状のものとされました。

車内はロングシート仕様で、カラースキームは501系後期車に準じていますが、本系列より壁面がアルミデコラ化され、車内の無塗装化が推進されました。車内換気装置としてファンデリアを1両あたり2基搭載した点は従来車に準じました。

ST式戸閉機構

従来の両開扉においては左右の扉それぞれに戸閉器を設置することが標準的であり、導入コストがかさむことや動作同期調整等保守上の難点を有するなどといった、両開扉固有の欠点を抱えていました。西武においてはそれら欠点を解消する新機構、すなわち、左右の扉上部を鴨居部に設置したベルトで連結し、1基の戸閉器で左右2枚の扉を駆動する機構を開発し採用しました。同機構は開発に携わった西武所沢車両工場の頭文字 (Seibu Tokorozawa) を採ってST式戸閉機構と命名され、その後の西武においてはもちろんのこと、国鉄103系電車を始めとした他社の両開扉を有する車両にも数多く採用されるに至りました。

主要機器

革新的な装備を多く採用した車体周りとは対照的に、主要機器は他系列同様に国鉄の払い下げを受けた、旧態依然とした制式機器で占められました。また、払い下げ品の中でも比較的グレードの高い機器については既に501系新製に用いられて在庫が払底していたことから、主要機器の仕様は501系よりもスペックダウンしています。

主電動機はMT15系(100kW)、制御器は電空カム軸式CS5と界磁接触器CS9の組み合わせ(直列5段・並列4段・弱め界磁1段)、制動装置は発電制動を持たないAMAE電磁自動空気ブレーキ、台車は電動車が鉄道省制式の釣り合い梁式TR14A・付随車が同TR11Aでした。その他、パンタグラフは国鉄制式のPS13、電動空気圧縮機 (CP)はAK3を搭載しました。

なお、CPおよび電動発電機 (MG)といった補機類は電動車には搭載せず、501系後期車より採用されたMTユニット方式を踏襲しています。

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クモハ451形+クハ1471形の編成 ベンチレーターに着目です。クハはグローブ型、クモハはガーランド型です。

後になるとクハ1451形が増備され、クハ1451~1454は後にクハ1471形1487~1490に改称・改番されましたが、両開き扉同士のすっきりした編成となりました。もっとも、この後に増備された411形クモハ+モハが冷房改造されて黄色化されたのに対して、451形は終生、赤電のままでした。

<追記> 久しぶりに西武の451形について過去に調べたものを見返してみると、最初はクハ1411形との2連、続いてサハ1471形を挟んだ4連、さらに4連の増備、続いて同型タイプクハ1451形の登場、そのクハの一部電装化と続きます。さらには西武がよくやる、4連から中身を抜いて6連と2連を造り、さらに余った2連が非電装化されてクハになりました。しかもそれらの過程で改番を伴っています。

これらの過程を文章で表現するよりは図を交えて説明した方がわかりやすいので、次回のこのシリーズの記事では、簡単な図とともに451形の複雑な変化のプロセスを追いたく思います。

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2013年10月13日 (日)

西ベルリンの思い出 パンナムエクスプレス ATR-42 N4204G

PAN AM EXPRESSの機体、今回はATR-42 のN4204Gです。

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N4204G (cn 061)ATR ATR-42-300 1989/4/8 TXL

前回の記事では前方の貨物ドアが開いているシーンをお見せ致しましたが、今回のN4204Gでは後方の客用扉からの搭乗客の乗り降りのシーンをお見せ致します。

ATR-42は脚が短く通常のタラップは使用不可能のため、扉が搭乗のためのステップとして機能します。またボーディングブリッジも使えないため、搭乗客のターミナルビルディングとの間の輸送はゲートバスが行っていました。

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1989/6/25 TXL

さて、PAN AM EXPRESSでは以下のATR-42 フリートリストに示すように

Pan_am_atr42_fleet_list
表 PAN AM EXPRESSのATR-42 Fleet list

N4201GからN4211GまでNレジで登録された機体とF-ODGMというフランスのレジで登録された機体があったようですが、前者は1987年6月から1990年3月までの間に納入され、PAN AM倒産の際にすべてTWA EXPRESSに売却されているのに対してFレジの機体は1988年10月から11月までの1ヶ月弱の活躍だったようです。

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2013年10月12日 (土)

公園保存蒸気 D51 453 柏市柏西口第一公園

全国各地の公園に静態保存されている蒸気機関車を見て歩くシリーズ、今回は柏市柏西口第一公園のD51 453号機です。

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錆の浮き出しなども見られず綺麗に整備されているD51 453号機 2013/9/7

柏駅の西口を出て、三方向に伸びる真ん中の道を行き、国道6号の交差点(柏駅西口)を直進し、柏中学校前の角を右折するとD51の姿が見えてきます。

駅のプラットホームのように盛り土がなされ、線路の先には踏切も用意されています。

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D51 453 号機 普段は柵で囲われており、機関車のそば、もしくはキャブ内には立ち入れません。

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炭水車もライトはきちんと装備されています。

D51 453号機の履歴を、機関車表(沖田祐作氏)から引用します。

D51453     汽車製造大阪工場=1872       1940-02-29 S77.60t1D1T(1067)
車歴;1940-02-29 製造→ 納入;国鉄;D51453→
配属;仙台局→1940-03-07 配置[仙鉄達165];原ノ町→1940-03-11
使用開始→1948-05-18 借入;尻内→1948-09-10 返却→1948-10-31 一ノ関→1949-02-28;長町→1963-02-05 借入;福島→1963-02-27 返却→1966-03-25(3/26?)一ノ関→1966-10-13(10/9?)新庄→
1968-09-29 鹿児島→1968-10-14(9/30?)出水→1970-10-03 吉松→1970-02-02
全検→1974-01-16 休車→1974-02-25 廃車[工車1452];吉松→1974-04-25 貸与[工車632]保存;千葉県柏市「柏西口第一公園」;D51453

D51のグループ分けとしては量産形に属し、1940年の製造で、28年間は東北地区で活躍しましたが、その後は九州に転勤し、6年勤めて廃車となっています。

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公園にもこの機関車の経歴を示した説明板も用意されていました。

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2013年10月11日 (金)

2013 夏 新潟の旅 13 EF510 基本番台 6号機

EF510の基本番台のシリーズ、今回は6号機です。

甲種回送日 2004/11/19

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高槻駅を14:03に通過する3095列車(A53) 2006/11/17

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その2日後、4058列車を牽引して、大阪ターミナルまでやって来た6号機が、EF66 0番台と単重1484列車(A55)で吹田機関区に戻るシーンです。 2006/11/19 岸辺

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A62仕業は終日、直江津にて待機の仕業で8:55 単380列車(A62)で黒井からやって来て17:35発の単385列車で戻ります。    2010/7/17 直江津

Ef5106_110529_2
高岡を14:38に通過する4060列車牽引の姿 2011/5/29

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この夏の新潟旅行でのショット、13:03 桑川駅の中線に進入する95列車(A67) 2013/8/7

関西でのカットは殆ど、同じ列車を似た場所で撮っているといった感じになっていますが、羽越本線内ではこの夏初めて撮影できました。

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2013年10月10日 (木)

西武鉄道 赤電の時代 501系 新宿線・国分寺線編

西武鉄道の赤電時代を懐かしむシリーズ、501系(第二代)の2回目は新宿線と国分寺線編です。
501
中線があった頃の東伏見駅に停車中の501系 サボから行き先表示器への移り変わりの時期でまだサボ入れの枠が残っています。パンタグラフもPS13です。

501_2
新宿線武蔵関~東伏見間を行く501系4連 1974年頃

初期車グループに属するサハ1501 - 1510の屋根周りを中心とした木部の老朽化が著しくなったことから、1969年から修繕工事が施工されました。後に対象は全車におよび、工事内容は以下の通りです。

屋根部を中心に木部の修繕
屋根部ビニールの撤去・塗装仕上げ化
雨樋の鋼製化
側窓のアルミサッシ化(側窓枠下段のみ)
車内座席下蹴込み板のステンレス化
サハ1501形偶数車の飯能・西武新宿寄り車端部に両開き貫通扉を新設

その他、車内送風機の扇風機化、先頭車前面窓内側に行先表示幕の新設、ATSの整備および列車無線の搭載等が実施されたが、前照灯のシールドビーム化は本系列に対しては施工されませんでした。

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国分寺駅に到着する空気バネ台車装備の501系4連 

JR側の国分寺駅は大きくかわりましたが、西武線の方は今でもこんな感じかと思います。

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かつては国分寺が西武線と国鉄線の貨物やりとりのターミナルでしたので、E851を始め多くの西武電機がこうやって中線にいました。

国分寺線は、西武鉄道で最も歴史の古い路線であり、1894年に川越鉄道が敷設した路線です。当初は、国分寺駅 - 川越駅(現在の本川越駅)間が本線でした。川越鉄道は甲武鉄道の子会社であり、現在の中央本線と直通する飯田町駅 - 川越駅(国分寺駅経由)間運転の列車も設定されており、1927年に東村山駅 - 高田馬場駅間(現在の新宿線)が開業すると国分寺駅 - 東村山駅間は分離され支線となり、現在の形態となりました。

私も小学校第2学年の秋(1963年)から第4学年(1965年)の12月まで小川~国分寺間を毎日通学しており、国分寺線は慣れ親しんだ路線でした。当時の主力はモハ151形でした。

モハ151形はもともと村山線(現在の新宿線高田馬場駅 - 東村山駅間)開業に合わせ増備された車両で、制御電動車モハ550形と制御車クハ600形から成る2両編成でした。1927年川崎造船所でモハ550 - 559の10両、翌年にはモハ560・561、及びクハ600 - 607の2形式10両、合計20両が製造されました。

車体は17m級の全鋼製で、ウィンドシル・ヘッダー付でした。阪神急行電鉄に登場した600形を端緒として、同時期に目黒蒲田電鉄・長野電気鉄道・豊川鉄道などに導入された、深い屋根と前面・側扉上の雨樋、おわん形ベンチレーターが特徴のいわゆる「川造形」と呼ばれる車両で、三面折妻・非貫通の前面で、形態としては長野の形態に似ていました。登場当初、前照灯は窓下中央に取り付けられていました。側面の窓配置は1D6D6D1で客室の座席配置はロングシートでした。シート両脇の肘掛け部分のスタイルも独特の形態をしていました。

1940年5月モハ100形101 - 112・クハ1100形1101 - 1108に改番され、武蔵野鉄道・西武鉄道の合併による西武農業鉄道発足を経て、1948年6月の一斉改番でモハ151形151 - 162・クハ1151形1151 - 1158に改番されました。1955年3月に161・162が電装解除され、1159・1160に改番されています。また、淘汰が進行していた1964年に、156が電装解除され1156(2代)となっています。後継20m車の増備に伴い1964年から1966年にかけて順次廃車になりましたが、20両全車が地方私鉄へ譲渡されました。

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津軽鉄道を2010年10月に訪問した際に五所川原駅で見かけたキハ22 2207の写真に写り込んでいたナハフ1200形(1202,1203)のどちらか 2010/10/23

深い屋根、お椀型ベンチレーター、客用扉上の弓状の水切り等、西武鉄道時代の特徴をそのまま残していました。

朝日新聞社から発刊されていた年鑑の「世界の鉄道」1973年版(地方私鉄の特集)で各地で活躍する西武151形の姿を見て、懐かしく感じました。

話は脱線してしまいましたが、501系の晩年は主電動機の出力的余裕から西武秩父方面のハイキング急行などにもよく運用されました。しかし101系の大量増備に伴って従来車の代替が進行すると、比較的車齢の高い本系列も修繕工事施工から日が浅かったにも関わらず代替対象となりました。311系および371系の淘汰が完了した後、かつて同一形式であった351系(元モハ501 - 520初代)と同時進行で淘汰が開始されました。

伊豆箱根鉄道へ貸与されるため1975年2月529編成が運用離脱したことを皮切りに順次廃車が進行し、1980年3月限りで全車運用を離脱、形式消滅しました。

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2013年10月 9日 (水)

西ベルリンの思い出 パンナムエクスプレス ATR-42 N4201G

これまで西ベルリンのテーゲル空港で撮影したPAN AMの旅客機について触れて参りました。今回からは同じPAN AM塗装ではありますが、言うなれば支線的路線で活躍するPAN AM EXPRESSの機体について触れようと思います。

西ベルリンのテーゲル空港はPAN AM EXPRESSのヨーロッパのハブ的役割を担っており、ここから1988~1989年当時、インスブルック、ザルツブルグ、ストラスブールなどを結ぶ路線がありました。運航区間については次回以降の記事で触れることにして、今回は飛んでいた機材に触れようと思います。

N4201g_cn_048_atr_atr42300_890507_t
N4201G  "Clipper Commodore". cn 048 ATR-42-300 1989/5/7 TXL

機材はATR42で、N4201G, N4204G, N4205G, N4206Gの4機を撮影しました。

ATR42という機体はフランスのアエロスパシアルとイタリアのアエリタリア(現アレーニア・アエロナウティカ)が1980年代初めに40席クラスの輸送機計画をそれぞれ持っており、アエロスパシアルはAS35、アエリタリアはAIT230という名で研究を行っていましたがこの2機種はほとんど同じクラスの機体計画だったため、統合し共同作業を行うことで協議し、1980年7月に協定が成立し、共同開発に着手したものです。ATRはAerei da Trasporto Regionale or Avions de transport régionalの略です。

1984年8月16日に初飛行し、1985年12月3日に通算4号機がフランスのAir Littoral に引き渡され、同年12月9日に路線に初就航したターボプロップ双発旅客機であり、42は標準の42席(ピッチ81cm)を意味します。日本では絶対に付けない形式番号でしょうか(笑)。

胴体は円形断面で客室内最大幅2.57m全長13.85m最大高1.91m、主翼は高翼配置で低翼機に比べ客室からの眺めはよく、客室は旅客の昇降扉が機体後方左側にあり、機体後方右側には機体後部にまとめられているギャレー、洗面所などに物品を出し入れするサービスドアを装備します。また、貨物室は機体前方にあり、機体前方左側にその貨物室への1.27 m X 1.28 mの大型カーゴドアを装備しています。

降着装置は全てダブルタイヤ装備で油圧により格納されます、主脚は胴体に取り付けられた収納バルジに格納されますが、格納扉は装備されていない為、飛行中は主脚タイヤ側面はむき出しの状態です。

貨物機として専用コンテナなら9台、LD-3なら5台搭載可能。前述の機体前方左側にある大型カーゴドアを利用でき、改修の必要がないためフェデックスなどの貨物航空会社で多く運用されています。

ATR42は以下の主要な六種類のタイプが存在します。

ATR 42-200
ATR 42の試作機で数機だけ作成された機体。エンジンはPW120で出力が2,000 shp。

ATR 42-300
最大離陸重量を引き上げ1996年まで作成された基本生産型。(Wikipediaの記述では1996年からとなってますが、原文ではuntilとなっています。)

ATR 42-320
エンジンをPW121(出力2,100 shp)へ換装し、離陸重量の引き上げ及び高温高地性能強化を行った型。最大離陸重量は300型から変わっていませんがエンジン重量が増加している為、搭載量が減らされています。

ATR 42-400
200/300/320型のエンジンに六枚のプロペラを装着した型。

ATR 42-500
搭載量を増大し、離着陸性能と操縦性を向上させ、エンジンはPW127E(出力2,400 shp)を搭載した型。アビオニクス機器を更新してICAOの設定するCATⅡのILS進入能力を使用できます。

ATR 42-600
2007年6月に発表され、2010年から導入されるシリーズ。エンジンをPW127Mへ換装し、500型よりアビオニクス機器を更新しCATⅢのILS進入能力を付与され、液晶画面への交換によるグラスコックピット化が予定されています。

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客用ドアと貨物用ドアの関係がよく分かります。 1989/6/26 TXL

N4201G1987年6月にPAN AM EXPRESSにデリバリーされた機体で、1991年12月に倒産後、Trans World Expressに売却され、後年Italairに売却されEI-COCのレジで飛んでいました。1998年1月20日、サルジニア島Alghero空港に着陸する際にハードランディングを起こして修復不能となり廃棄されています。

話は全くかわりますが、日本の航空会社のなかで、唯一Airbus機を導入したことの無かったJAL(JASとの統合でA300の運航はしていましたが)がついにAirbusA350を確定31機(オプション25機)発注したというニュースがありました。かつては世界最大のBoeing 747オペレーターといわれたJALがA350を導入することになった裏にはBoeing787の製造の遅れに始まって、今年初めからの一連のトラブルでこれまでのアメリカ一辺倒からの脱皮があるのでしょうか。

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2013年10月 8日 (火)

公園保存蒸気 D51 853 飛鳥山公園

公園に静態保存してある蒸気機関車を巡るシリーズ、今回は飛鳥山公園のD51 853号機です。地図はこちら Yahoo地図

D51_853_130803
王子の飛鳥山公園に都電6000形6080号車とともに保存されているD51 853号機です。 2013/8/3

まずはこの機関車の履歴です(機関車表より)。

D51853     国鉄鷹取工場=51     1943-08-31 S77.60t1D1T(1067)
車歴;1943-08-31 製造→
納入;国鉄;D51853→ 配属;? → 配置;? → 梅小路→1946-05-18 姫路一
→1948-07-01 現在;姫路一→1955-08-01 現在;長岡一→
1968-04-00 現在;酒田→1972-06-14 廃車;酒田→
保存;東京都北区「飛鳥山公園」;D51853

1943年製造の準戦時形(746、747、846~949 次第に悪化する材料事情により、各部に代用品が使用され、ボイラーのドームがカマボコ形になったり、デフレクタ、テンダーの上部、ナンバープレートが木製となったり、メインロッドの大端部のブッシュが角形から円形になったり、前面のボイラー端上部を切り取ったりという変更が行われました。2013/4/1の記事より) です。梅小路を皮切りに関西方面で5年間活躍した後、日本海縦貫線北部で活躍した後、1972年に廃車されています。製造から30年に満たない人生(車生)でした。

D51_853_130803_2
見た限りでは錆の浮き出しなどは見られず、きちんと整えられている感がありました。

D51_853_130803_10
炭水車のライトも残っています。

D51_853_130803_4
この角度からみると戦時形の特徴であるカマボコ形ドームがよくみえます。

D51_853_130803_3

                   保存機の説明板

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2013年10月 7日 (月)

2013 夏 新潟の旅 13 EF510 基本番台 5号機

EF510の基本番台のシリーズ、今回は5号機です。

まずは履歴データ(機関車表より)から

EF510-5     川崎重工兵庫工場=/= 三菱電機    E100.8tBBB(1067)
車歴;製造→ 納入;JR 貨物;
EF510-5→ 配置;富山機関区→2008-04-01 現在;富山機関区

甲種回送日 2004/10/19

Ef5105_060620_2
3095列車牽引のため吹田機関区から重単1481列車でEF210とともに大阪ターミナルに向かうシーンです。 千里丘 2006/6/20

Ef5105_060620
高槻駅を通過する3095列車 2006/6/20

Ef5105_100719
直江津に接近する4061列車 2010/7/19

早朝5:45の撮影ですが、直江津に向かう大阪からの下り列車にはこの時期、正面から陽があたります。

2010年3月改正ダイヤではEF81 22仕業、EF510 22仕業となり、これ以降EF510が縦貫線のメインの機関車の役割を担って行くようになりました。

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2013年10月 6日 (日)

西武鉄道 赤電の時代 501系 池袋線編

西武鉄道の赤電時代を懐かしむシリーズ、今回は前回のクモハ351形4連の増備と置き換え用に20m車体として登場した501系(二代目)です。

501
豊島園行き運用の501系 8連 今は高架化されてすっかり昔と変わってしまった練馬駅です。

最後尾のクモハですが、足元からはわかりにくいですが、側面(扉開閉確認灯の下の出っ張り)に空気バネ故障知らせ灯が付いているので空気バネ台車装着車と思われます。

モハ501形(Mc)-サハ1501形(T)-サハ1501形(T)-モハ501形(Mc)からなる4連で編成され、1957年に登場しました。電動車・中間付随車ともに20m車体で統一され、全鋼製車体に設計変更されて落成しました(521編成以降)。

さらに床面高さが1,160mmと初期車グループよりも40mm低くされたほか、屋根部曲面の断面形状も異なっており、初期車グループと比較すると屋根が薄く平たくなった印象を受けます。屋根の仕上げはモハ511(初代)・サハ1511以降同様ビニール張りです。ベンチレーターは初期車グループ同様ガーランド形を搭載し、ファンデリア直上のベンチレーター(1両あたり2個)が大型の特殊形状のものとされていることも初期車グループに準じています。

客用扉は1,100mm幅の片開扉で、初期車グループと異なりプレス模様のない扉を装備しました。側窓は初期車グループ同様二段上昇窓ながら、窓枠がアルミサッシ化されたほか、上下段の窓開口部比率が1:1に改められ、戸袋窓もHゴム固定の一枚窓となりました。窓配置はモハが20m級車体となったことに伴いd1D5D5D2(d:乗務員扉, D:客用扉)と変化し、サハは初期車グループと同様でした。また、連結面貫通路が1,200mm幅の広幅貫通路となり、貫通扉は廃止されました。

車内は床がグレーのロンリューム貼りとなり、壁面は初期車グループ同様ピンク系塗装塗り潰しながら、壁材が鋼板に変更されています。その他、シートモケット色や手すり・網棚形状等は初期車グループの仕様を踏襲しています。

主電動機は鉄道省制式のMT30(128kW)を搭載しました。これは当時西武が保有した主電動機では最も高出力のものであり、本系列の新製に際しては自社ストック品のほか、モハ311形に搭載されていたものを転用するなどして所要数を確保しています。

制御器は国鉄制式の電空カム軸式CS5を搭載し、界磁接触器CS9との組み合わせで弱め界磁制御を行いました。弱め界磁制御を取り入れたのは西武では本系列が初のことであり、MT30主電動機の高出力と相まって、最晩年まで本系列が後継のカルダン駆動車各系列に伍して第一線で運用され続けた要因ともなりました。

制動装置はA弁を使用したAMA/ATA自動空気ブレーキで、車体側に1両あたり1基搭載されたブレーキシリンダーを介して前後台車の計4軸の制動を動作させる、古典的なブレーキワークが採用されました。後年長大編成化に対応して電磁弁を追加し、AMAE/ATAE電磁自動空気ブレーキに改良されました。

後期車グループも主要機器の仕様は初期車と同一でしたが、モハの台車が全車TR22(DT11)で統一された点が異なります。サハは初期車グループ同様、全車TR11系を装備しました。また、CPおよびMGがサハへ搭載されて自重の均等化を図ったため、初期車グループとは異なりモハ単独での走行は不可能となりました。

<初代501~520編成の置き換え用新製>

モハ501~520(初代)の17m車(後のクモハ351形)を20m車に統一するために1958年8月より20m車体のモハ501~520(二代目)が新製され、順次置き換えられました。

代替新製された20両の電動車は後期車であるモハ521 - 530とほぼ同一仕様とされましたが、屋根がビニール張りから塗装仕上げに変更されて外観に差異が生じたほか、主要機器を初代から流用した関係で一部の車両は台車が異なりました。

また、これら代替新製された電動車に組み込まれることとなったサハ1501 - 1520は半鋼製車であり、床面高さが全鋼製車と異なっていたことから、編成替えに際して連結面貫通路の広幅化のほか、貫通路高さの調整を施工しています。加えて、サハ1521 - 1530同様にCPおよびMGが新たに搭載され、仕様の統一が図られました。

<空気バネ台車>

1959年2月より、401系(初代)モハ401・402においてTR25台車の枕バネを空気バネに改造した試作台車の実用試験を実施し、その実績を反映する形で501系のモハが装備するTR25・25A台車の空気バネ化改造が1961年から開始されました(こちらのサイトに拡大写真あり)。

改造内容はTR25・25A台車に装備されている枕バネ(4連板バネ)を撤去し、当該部分にベローズ式空気バネを設置するもので、同時にボルスタアンカーも新設されました。なお、この台車改造に際してはモハの一部で台車の振り替えが実施され、さらに予備品のDT13に同様の改造を施工して装備したものや、401系(初代)の廃車に伴って発生した台車を流用したものもありました。

これら台車改造は乗り心地の大幅な改善に寄与し、401系(初代)を例外とすれば、1967年から新製された801系の登場まで唯一の空気バネ台車を装備した車両でした。また、空気バネ台車を装備した車両は側面中央部の戸閉表示灯直下に空気バネ故障知らせ灯が追加され、外観上の特徴となっていました。

<2M4T編成>

501系が他系列と比較して高速性能に余裕を有していたことに着目した西武は、性能的余裕を活用する形で本系列に新たにサハ2両を組み込み、より安価に輸送力増強を図ることを計画しました。こうして1962年に新製されたのがサハ1551形1563 - 1572であり、これらを521 - 530編成に各2両ずつ組み込んで、2M4T編成が5編成誕生しました。都市部の高密度ダイヤで運行される高速鉄道におけるMT比1:2の編成は当時としては非常に特異な例でした。

しかし、実際に運用を開始すると編成出力が著しく低下したことによる加速性能、特に起動加速の劣化が到底看過し得ない程度のものであるということが明らかとなりました。肝心のラッシュ時の運用においては遅延の要因となって乗務員から不評を買う結果となり、結局1968年に編成を解消し、521 - 530編成は本系列のみの4連に戻されています。

なお、編成を解除された後のサハ1563 - 1572は半数が電動車化され、新たに551系の中間車として転用されました。

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2013年10月 5日 (土)

西ベルリンの思い出 パンナムのA300 N202PA その2

PAN AMのA300の二回目になりますが、今回はPAN AMとエアバスの関係、A300フリートについて触れてみたく思います。

N202pa_cn_195_clipper_america_airbu

N202PA (cn 195) ''Clipper America'' Airbus A300B4-203 890917 TXL

PAN AMはAirbus A300のB4タイプを1984年12月から使用しています。254座席の配置で、エンジンはGeneral Electric engines CF6-50C (51,000lb thrust)で、航続距離は2800mileでした。いうなれば当時、最初のワイドボディの短距離タイプでした。(B4-203)

Pa_a300_fleet_2
表 PAN AM A300 Fleet list

字がかなり小さくて恐縮ですが、cn (A300, A310の製造番号)順に並べたFleet listです。黄色で示した機体が倒産前のPAN AMのFleetのメンバーでcn204の機体以外は地名のClipper名がそれぞれに与えられています。赤で示したレジがPAN AM時代の登録記号です。

cn204の機体はEastern航空から購入した機体です。それ以外の黄色で示していない機体は再生PAN AMが他社で使用した中古機を購入したものです。

N202pa_cn_195_clipper_america_air_2
N202PA の離陸

私は西ドイツ時代にN202PAしか目撃していませんが、Airliners.netで写真の記録を見ると、N204PA, N210PAがヨーロッパ内、Frankfurt am Mainなどで撮影されており、それら以外はすべてアメリカ本土で撮影されています。このことからA300のヨーロッパ常駐機は3機だったのかも知れません。

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2013年10月 4日 (金)

公園保存蒸気 49627 貝塚公園

全国各地の公園に静態保存されている蒸気機関車を見て歩くシリーズ、今回は九州福岡市の貝塚公園に保存されている9600形の49627号機です。

49627_120605
福岡市貝塚公園に保存されている49627号機 2012/6/5

貝塚公園は福岡地下鉄貝塚線貝塚駅のすぐそばにあります。ここは1962年まで福岡競輪場があった場所で、競輪場の跡地に造られた公園です。これまでにも何回か訪れて来た交通公園の形態をとっています。1周630mとかなり長いゴーカートのコースもあります。

上空は福岡空港のRWY16への進入コースになっており、空港に着陸する旅客機が轟音とともに飛んで行きます。

園内には蒸気機関車のみならず、1968年に東亜航空から福岡市へ寄贈された英国製の「DH-114B ヘロン」も展示されています。

49627号機はいわゆる門鉄デフを装備した九州らしいスタイルの機関車でその履歴は

49627      川崎重工兵庫工場=580    1920-07-00 S59.80t1DT(1067)
車歴;1920-07-00 製造→ 納入;国鉄;49627→1920-07-01
使用開始[札鉄達391];札幌局→
鳥栖→1952-05-01 直方→1957-01-00 現在;直方→1964-04-01
現在;後藤寺→1968-03-01(3/2?)廃車[九州支社達2];後藤寺→
保存;福岡県福岡市「貝塚公園」;49627→1990-10-00 頃;福岡市の要望によりKSK 施工にて切取式除煙板K-7 型装備

となっています(データは沖田祐作氏の機関車表より)。

1920年の製造で最初の任地は北海道だったようで、そこで30年以上働いた後、九州に転属となり、16年間九州北部で活躍したようです。デフレクターに関しては保存後に現在の形になったようです。

4962720_120605
20系客車 ナハネフ22 1007と一緒に保存されています。

写真のように20系客車を一両従えた形で保存されています。蒸気機関車と20系と言えば、山陽本線、東北本線、常磐線や九州内でも見られましたが、9600形と20系は現役時代は縁が無かったのでは思います。

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2013年10月 3日 (木)

2013 夏 新潟の旅 13 EF510 基本番台 4号機

いつものEF510基本番台のシリーズに戻ります。今回は4号機です。

まずは履歴データです(機関車表より)。

EF510-4     川崎重工兵庫工場=/= 三菱電機    E100.8tBBB(1067)
車歴;製造→ 納入;JR 貨物;EF510-4→ 配置;富山機関区→2008-04-01
現在;富山機関区

甲種回送日 2004/10/5

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3095列車を牽引して山崎のカーブを行く4号機 2005/8/22

Ef5104_080905
芦原温泉駅に進入する4号機 2008/9/5
撮影時刻から3092列車と分かりました。

Ef5104_100709
大阪ターミナル連絡線から吹田操車場へ到着する3095列車 2010/7/9

Ef5104_101207
3095列車を牽引して桂川を通過 2010/12/7

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2013年10月 2日 (水)

休日おでかけ切符で高崎線沿線へ その3 行田・鴻巣編

2013年9月28日の高崎線沿線の旅、最後は行田・鴻巣です。

行田といえば、学校で習ったのは「足袋」の産地ですが、現在の行田市に当たる大字埼玉は万葉集に「さきたまの津」という記述があり、「風土記」にも「武蔵国埼玉郡」とあるように、埼玉県の地名の発祥の地なんだそうです。

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行田市駅では観光案内のポスターがお出迎え (ゼリーフライとは何?) 2013/9/28

古墳時代には稲荷山古墳や日本最大級の円墳とされる丸墓山古墳など9基の大型古墳が造られ、1968年には金文字の入った金錯銘鉄剣など貴重な文化財が出土しています。

室町時代、文明年間(1469~1487年)には関東七名城のひとつとされる忍城が築かれ、成田氏を中心とする武士団の本拠地として周辺に勢力を拡大していました。

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忍城の城郭と現在の地図を重ね合わせた図が掲示されてありました。こんな大きな城だったことには驚きました。

戦国時代には後北条氏と結んだため、豊臣秀吉の小田原征伐の際には石田三成に水攻めを受けることとなります。しかし、「浮き城」ではないかと言われるくらい、水攻めには果敢に耐えたそうです。

江戸時代には阿部氏、後に松平氏の城下町となり、石高は十万石。江戸時代中期より、下級武士の内職として足袋の生産が始まり、明治時代を迎えて機械化され一大産地となりました。戦後は洋装化が進んだため衰退しましたが、今でも生産は行われているほか、足袋から転じた繊維産業が地場産業として一定の地位を占めています。

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市内に掲示されていた足袋蔵の案内 これによると最盛期の足袋の生産は全国シェアの8割を占めていたとか

熊谷から秩父鉄道に乗車して、二駅目の行田市駅で下車しました。駅はかなりレトロな雰囲気で、駅名標なども風格を感じさせてくれます。駅には最初の写真のような観光地行田をアピールするポスターもありました。

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秩父鉄道行田市駅の駅名標 

行田での目的は駅から約1km、南にある市民プール横に静態保存されているC5726号機です。駅から南下して行くと、まずは銅製の子供の人形が歩道脇に作られているのが目にとまりました。

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今では行田の街並みの一部となっている童たちの銅人形

これは1998年に行田市の中心部を走る国道125号の電線類地中化整備事業で市役所前から栄橋までの区間(860m)の歩道上に小さな櫓が建てられ、その上に童たちの姿を模した銅人形が並べられたそうです。これらの人形は1999年度彩の国さいたま景観賞を授けられ、今では行田の町並みに無くてはならないものとなっているそうです(行田市商工観光課のページから)。

130928_4
昔ながらの蔵は足袋の蔵 今はギャラリー、コンサート会場

さらに南下して行くと、かなり大がかりな蔵が見えてきます。3階建ての蔵で、2階の床を抜いて吹き抜けのギャラリーとして改装し、絵画・手芸作品の企画展の他、クラッシック、ジャズなどのコンサート会場としても使われているそうです(足袋蔵ギャラリー門のページから)。

程なくC5726号機の前に到着、観察し、写真を撮った後は来た道を引き返すのはいやだったので、かなりの距離はありますが、JRの行田駅まで歩くことにしました。

まずはそのまま南下すると、素晴らしい公園が見えてきました。

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ここは水城公園で、忍城の外堀の沼を利用して整備された公園です。釣りを楽しむ人々の姿もかなりありました。

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公園の案内図(ここにもゼリーフライが)

さて公園周辺を見渡すと、駅でポスターを見たときから気になっていた「ゼリーフライ」の売店があるではないですか。行田名物と書かれています。しかし、ゼリーフライという言葉から連想するのはゼリーを揚げたもの?近くで買って食べている人でもいれば観察も出来ましたが、とりあえず今回は食事をした後でもあったのでパスして、帰って調べることにしました。

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水城公園にあったゼリーフライの売店

Wikipediaによると、

おからを主とし茹でたジャガイモを混ぜ合せ、つなぎに鶏卵を加えてコロッケのようにまとめて素揚げして作る。いわゆる「おからコロッケ」の一種で、軽食としてソースをつけて食べられることが多い。ご当地グルメとして、行田市内各所においてスタンドやカウンター形式で販売されている。価格は平均して1個100円程である。
ゼリーフライの由来は、行田市持田にあった「一福茶屋」(現在は閉店)の主人が、日露戦争で中国東北地方に従軍した際、現地で食べられていた野菜まんじゅうを基にアレンジしたものと言われ、店売りされた詳細な年代は不明なものの、明治後期には既に確認されている。名称の「ゼリー」はゼラチンで固めた菓子の「ゼリー」ではなく、形状や大きさが小判に近いことから「銭富来(ぜにふらい)」と呼ばれていたものが訛り、「ゼリーフライ」に変化したともされているが、行田周辺の産物が布であったことから「布来(ふらい)」の説もあり、定かとはなっていない。

とのことで、「ゼリー」は銭に由来し、おからコロッケなんですね。

水城公園付近から、JR行田駅まで、国道17号バイパスや新幹線の高架を目印に迷わず歩けましたが、炎天下40分程歩いたら、さすがに足が棒のようになりました。

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JR行田駅前付近の歩道のマンホールの蓋 こういったちょっとしたところにも観光推進の雰囲気が感じられますね。

鴻巣へ移動するために高崎線を待っているとやって来たのはなんと残り僅かとなった211系C16編成、高崎線開通130周年記念編成ではないですか。7月に登場したのは知っていたのですが、最近、大宮にもあまり行っていないもので未撮でしたが、こんなところで逢えるとは。

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211系C16編成 クハ211-3009他 高崎線開通130周年記念ラッピング塗装 2013/9/28 鴻巣

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部分的スペシャル塗装ですね。

鴻巣で降りた後、先頭部に急いで撮影しました。

続いて鴻巣です。こちらでの目的は駅の北方1.8kmにあるせせらぎ公園に静態保存中のC11322号機に逢うことでした。

鴻巣でのぶらぶら歩きは行田での長距離歩行でかなり疲れており、目的地と駅との単純往復になってしまい寄り道はしませんでしたので見たものは少ないのですが、

鴻巣はひな人形の産地として380年以上の歴史があり、江戸中期には江戸十軒店(現・東京都中央区日本橋室町)・越ヶ谷(現・埼玉県越谷市)とともに関東三大ひな市として栄えました。明治時代には埼玉県内の他の人形の産地である岩槻(現・さいたま市岩槻区)3軒、大澤(現・越谷市)2軒、越ヶ谷6軒に対し31軒300人の職人という記録も残っており、現在でも9軒のひな人形製造業者が軒を連ねています。

また花卉栽培が盛んでポピーの栽培面積とプりムラ・サルビア・マリーゴールドの出荷量が日本一だそうです。

2008年に確認された川幅日本一(鴻巣-吉見の境を流れる荒川で川幅は2537m)に因んで麺の幅5センチを超える川幅うどんをはじめ、せんべい、ケーキ、どらやきなど多種にわたり誕生している幅広の商品を総じて、「こうのす川幅グルメ」と言うそうです。

以上、Wikipedia、鴻巣市観光協会公式サイトの記述より引用

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2013年10月 1日 (火)

休日おでかけ切符で高崎線沿線へ その2 熊谷編

深谷に続いて今回は熊谷です。

埼玉県の地図を見ると熊谷は高崎から高崎線に沿う形で流れてきた利根川と秩父山地から流れ出し、秩父鉄道に沿って流れてきた荒川が最も接近する場所です。

先日の深谷付近の台地と湧水の話題もありましたが、熊谷付近が行田、鴻巣付近にかけて古墳が多いのもふたつの川に挟まれた水の便の良さと肥沃な大地(沖積平野)に由来するのではと思います。現に熊谷市はWikipediaによると国内で水のおいしい町32のひとつに入るそうです。

さらに熊谷市を全国的に有名にしているのは夏の最高気温で2009年8月16日14時42分に多治見市と並んで当時の観測史上最高の40.9度を観測したことです。今年その記録が四万十市によって塗り替えられましたが。よくこの気温の高さを盆地のせいでと思っている方が多いようですが、熊谷は地形上、盆地ではありません。

今回、熊谷を訪れた理由は駅南口から歩いて5分ほどのところにある荒川公園に静態保存されているD51140号機に逢うためでした。機関車に関する話題は公園保存蒸気のシリーズで取り上げる予定で、今回は荒川公園の慰霊塔に関して触れたく思います。

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荒川公園(熊谷市)の慰霊塔 2013/9/28

この慰霊塔は太平洋戦争で戦死された方々や熊谷で空襲等で亡くなられた方々の霊を慰めるために1962年に建立されたものだそうです。特に終戦の日の一日前の1945年8月14日の熊谷大空襲では多くの方々が犠牲になったそうです。

当時の状況が詳述されている総務省の一般戦災WEBサイトの文章を引用しますと

午後11時30分頃、房総半島の南方より侵入してきた数十機のB29は、空襲警報下(当夜は警戒警報出ず)の熊谷を襲った。最初の2機は偵察のためか、市街地上空を北方へ去り、すぐ引き返して来たとおもうと、すでに佐谷田、久下方面は火に包まれていた。そして高度3000~5000メートルの上空から、昼をあざむく照明弾とともに、夕立雨のように落下する無数の油脂焼夷弾とエレクトロン焼夷弾によって、市街地は瞬時にして火の海と化した。火に焼かれる者、傷つき倒れる者、逃げまどう人たち、子を探す親、父母を求める子どもなど、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄であった。
当時のアメリカ軍は、熊谷市は、中島飛行機株式会社の飛行機部品(機体及びエンジン)製造の中心地の一つとして考えており、また中島製品の最も重要な分配センターの一つと考えていた。そのことが、熊谷市が空襲を受けた理由のひとつと考えられる。また、軍の施設として、埼玉県所沢市に次ぐ第二の操縦教育の学校となる熊谷飛行学校があった。当初は操縦教育を行っていたが、本土決戦が近づくにつれ飛行部隊として編成換えが行われ、特攻隊操縦者の養成の任務を受けた。敗戦後は米軍の進駐が行われ、米軍が基地から撤退した現在では、航空自衛隊熊谷基地となっている。

多くの消防団員、警防団員は、我が家の焼けるのを見棄て、家族の行方も求めず、全力を尽くして消火につとめ、市民の避難誘導に当たったのである。市街地の3分の2を焼き尽し、死者266名の多きを出した火は、翌15日午後5時ごろようやく消えたが、余燼(よじん)はなお数日にわたってくすぶっていた。街は一面の焼け野原となり、多くの犠牲者が星川に、防空壕の中に、道路や溝に焼け死んでいた。特に星川付近は100名近い焼死者が重なっており、悲惨の極みであった。

そして皮肉にも空襲を受けた翌日終戦となり、埼玉県下唯一の「戦災指定都市」の指定を受けた。あと1日早く戦争が終わっていれば多くの死傷者を出さずに済んだのではないだろうか。

『熊谷市史 通史編』、『新編埼玉県史 資料編20』、『戦前戦中戦後の熊谷の様子』・『戦前戦中戦後の熊谷の様子』

とのことです。現在でも地球上でこういった戦闘が絶えず続き、多くの一般市民の尊い命が失われていますが、なんで人間はこんな愚かな殺戮を繰り返すのでしょうか。それにしても終戦のわずか一日前にこんな事態が起こっていたとは・・・

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秩父鉄道熊谷駅構内で休むデキ201号機 

公園で黒い物体を観察し、写真に収めた後、駅に向かうと茶色の秩父鉄道のクラシックスタイルの電機の姿があります。番号を確認するとデキ201号でした。確か、2010年頃12系客車とおなじダークグリーンに塗装されていたと思いますが、化粧直しをしたのでしょうか。おそらくこの機関車、広瀬川原の基地からSLパレオエクスプレスのエスコート役を務めて熊谷駅までやってきたのではないでしょうか。

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SLパレオエクスプレスを熊谷までエスコートする旧塗装時代のデキ201 2010/4/25 ひろせ野鳥の森~大麻生

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熊谷駅横の電留線で休息する7001編成 他

一方、駅方向を見ると旧東急の8500系(7000系)や軽量ステンレス車の8090系(7500系)の姿もありました。先日、国鉄101系由来の1000系がこの秋で引退の報道がありましたが、秩父鉄道の車輌も徐々に入れ替わっているようです。私も、高校時代(1971.4~1974.3)に唯一、東急との接点があり、毎日渋谷から東横線を利用していました。あの頃は、まだ青蛙5000系も健在で、本線には8000系そして地下鉄日比谷線乗り入れに7000系が活躍しており、7000系や京王井の頭線3000系のパイオニア台車をキラキラ光らせながら走る姿は当時の西武線とはだいぶ違うなあと感じていました。また、東横線では当時、既に自動改札機が導入されていました。

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行田市に向かうためホームで待っていると1010編成が入線してきました。 塗装は違えど101系の姿を今によく残す編成です。

今回、次の目的地である行田市の公園に向かうため秩父鉄道に乗車することにしました。秩父鉄道も、C58363の撮影や、広瀬川原基地公開のイベントなどで数回乗車していますが、今回は熊谷から行田市までの乗車となりました。ホームで待っていると入線してきたのは1000系のオリジナル塗装1210の編成で、昔、中央線で毎日101系の快速電車に乗っていた頃を思い出してしまいました。101系の先頭車両の運転台の後で前方を眺めているとヒューヒューという風切り音が聞こえてきますが、あれはまさに昔のままですね。

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客室と乗務員室の仕切りの様子 1960年製以前の車両は窓が大きく、試作車では窓が大きい上にHゴムではなくアルミサッシだったと記憶しています。

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運転台の様子 機器はいろいろ追加されていますが、基本的には101系時代の雰囲気をよく残しています。

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天井の扇風機は国鉄時代のまま、JNRマークが残っています。

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アコーディオンドアは新聞輸送などのための秩父鉄道のオリジナルでしょうか?

秩父鉄道の熊谷以西は上武鉄道が開業し、羽生~熊谷間は北武鉄道によって開業されました。1901年、上武鉄道が熊谷~寄居間を開業し、1921年北武鉄道が羽生~行田(市)間を開業しています。1922年8月に行田~熊谷間が開業し、同年9月には秩父鉄道が北武鉄道を合併しています。三峰口まで開業したのが1930年です。

熊谷から2つ目の行田市まで、運賃は300円、若干高いかな、でもこの区間(熊谷~持田)は秩父鉄道で最長区間であり、新駅の設置が検討されているので無理もないかなと思いつつ、行田市駅のレトロな雰囲気を味わいつつ、行田市民プール横に保存されているC5726を観るために足を進めました。

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