西ベルリンの思い出 TWA Boeing 727-31 N839TW
西ベルリンのテーゲル空港で撮影した旅客機のシリーズ、今回からはTrans World Airlines (TWA)です。
TWAはPan Amと同様、アメリカ合衆国では老舗のキャリアであったことと、後述のように、ルフトハンザ航空の復興にも協力的であったことから西ベルリンへの就航権利を持っていたのかと思います。実際に撮影できた機材はすべてBoeing727-100型でレジはN839TW, N844TW, N848TWの3機でした。今回はN839TWの写真を紹介します。
N839TW 7839 (cn 18904/ln 152) Boeing 727-31 1989/4/8 TXL
TWAは返還前の沖縄には就航していたそうですが、羽田や成田には就航実績が無かったために我が国での知名度はPan Amほど高くないのではと思われます。
まずは会社として設立からの歴史を追ってみましょう。Wikipediaの記述を参考にして記述しています。
1925年にウエスタン・エアー・エキスプレスとして設立されたあと、1930年7月16日に、1928年創設の大手航空会社のトランスコンチネンタル・エアー・トランスポート(T-A-T)(世界初の大西洋横断飛行を成し遂げた著名な飛行家のチャールズ・リンドバーグが技術顧問を務めていた)と合併し、トランスコンチネンタル・アンド・ウエスタン・エアー(T&WA)と社名を変更しました。
この秋にはアメリカ議会の予算承認の混乱で一時、閉館にまで追い込まれたスミソニアン航空宇宙博物館ですが、私も2011年9月に訪問する機会がありました。
スミソニアン航空宇宙博物館に展示されているNorthrop Alpha 2 NC11Y
1930年ノースロップ社製のAlpha 2 (S/N 3; ATC# 381)で、420馬力のPratt & Whitney Wasp C エンジン (S/N 3162)を搭載しており、最初はアメリカ商務省の所有機(NS-1)でした。続いてフォード自動車が所有し、すぐにNational Air Transportの所有となり、レジNC11Yが与えられました。その後、側面にTWAと表示されているようにこの機体はTranscontinental & Western Air, Inc.に1931年11月27日に売却され、1931年から1935年にかけて同社が担当した航空郵便ルートで活躍したそうです(情報はここから)。
1932年には全金属製の最新鋭機であるダグラスDC-1を導入した他、その後も同機の生産型であるダグラスDC-2やDC-3などの新鋭機を次々に導入し、コロンバス~ピッツバーグ~ニューアーク線やアメリカ大陸横断路線に参入するなど、その路線網を全米に拡大し続けました。現在、アメリカを代表する飛行機メーカーであるBoeingは当時、ユナイテド航空と独占契約を行っており、Boeing 247は同社以外の航空会社には販売できない条件が付加されており、このためT&WAはダグラス機を購入したそうです。
この写真の機体はEastern航空のものですが、同じくスミソニアン航空宇宙博物館に展示されているダグラスDC-3型機
1934年には一旦、経営危機が訪れ、リーマンブラザーズ(2008年9月15日に経営破綻したあのリーマンブラザーズです)とJohn D. Hertz(レンタカーで有名な)が会社の経営権を得ます。この頃、DC-2が運航に投入され、さらに1937年1月には最初のキャビン与圧機のBoeing 307(Stratoliner)を導入する契約が成立し、1940年5月に納入され、同年7月に路線投入されました。
1939年には、当時の社長のジャック・フライの友人の大富豪で、飛行家としても知られるハワード・ヒューズに買収されました。以降、ヒューズにより莫大な資金が投下され安定した資本のもと、与圧客室を持ち高高度運航が可能なボーイング307を1940年に導入した他、オーナーのヒューズ自らがアメリカ大陸無着陸横断が可能な大型旅客機、ロッキード コンステレーション開発の音頭を取るなど、本格的な国際航路の開設を含むさらなる事業規模の拡大を目指しました。
1939年9月の第二次世界大戦の勃発と、1941年12月のアメリカの第二次世界大戦への参戦により、国内外路線の拡大は一時的に中断されることとなり、パンアメリカン航空やユナイテッド航空、ノースウェスト航空などの競合他社と同じく、1945年8月の終戦までの間、所有機とそのパイロットの多くがアメリカ軍に徴用されてしまいました。
第二次世界大戦終結後の1946年には、コンステレーションを他社に先駆け導入しました。また、サウジアラビア航空やエチオピア航空の設立に協力した他、敗戦国である西ドイツのフラッグ・キャリアであるルフトハンザドイツ航空の復活にも協力を行いました。
1950年には、国際線を独占しようとするライバルのパンアメリカン航空と、それを支持するオーウェン・ブリュスター上院議員が提出した「コミュニティー・エアライン法案(国際線就航を特定の企業に制限する法案)」の論争に勝利し、国際線への本格的参入が可能になると、それに合わせて社名を「トランス・ワールド航空」に変更しました。
その後、ロッキード コンステレーションの最新機種である、L-1049「スーパー・コンステレーション」やL-1649「スターライナー」などの最新機材を次々に導入した他、1958年から1959年にかけて、当時の最新鋭ジェット旅客機 ボーイング707や、再びヒューズが開発に関わったコンベア880を相次ぎ導入するなど、パンアメリカン航空と並び、華やかな空の黄金時代を代表する航空会社として世界の空に君臨しました。
国際線はフランスやイタリア、ギリシアをはじめとする大西洋横断路線、およびヨーロッパ路線がメインでしたが、その後徐々に路線網を拡張し、最盛期には世界一周路線を運航するまでになりました。一時はPan Amに次ぐ、第二の非公式なアメリカ合衆国のFlag carrierと言われたそうです。
なお、日本路線はパンアメリカン航空とノースウェスト航空が長年独占し続けていたこともあり、アメリカ占領当時の沖縄に乗り入れていたのみでしたが、アメリカ軍チャーター等で横田基地や板付基地などにたびたび飛来していました。
その後、経営方針をめぐりヒューズと役員会が対立したことを受けて、ヒューズは1966年に保有する株の多くを手放し、経営から手を引くこととなりました。
最大のスポンサーでもあったヒューズが去ったことで経営方針が変わり、1967年には、世界最大級のホテルチェーンであるヒルトン・インターナショナルを買収するなど、順調な業績を元に事業の多角化を進めました。同年、TWAは Lockheed L-749A Constellation と L-1649 Starliner 貨物機を手放すことでアメリカで最初の保有機がすべてJet機の航空会社となりました。
さらに1970年代には、最新鋭のロッキード L1011 トライスター型機をイースタン航空やデルタ航空などの他の大手航空会社とともに導入し、国内幹線や短中距離国際線に投入したほか、ボーイング747型機や同型機の超長距離型であるボーイング747SPの導入などを通じて積極的な国際線網の展開を進めました。
TWAはもともと国内線路線を充実させており、ハブ空港としてLambert-St. Louis International AirportとJohn F. Kennedy International Airportを持ち、準ハブ空港としてKansas Cityや Los Angelesさらにプエルト・リコのSan Juanなどを持ってました。1980年代にはアトランタもハブ化しましたが、1990年代には縮小しています。さらにヨーロッパでもフランクフルト、西ベルリンに拠点を設けて、ヨーロッパ内(Berlin, Frankfurt, London, Zurich, Hamburg, Stuttgart, Vienna, Amsterdam, Istanbul.)をBoeing727-100でカバーしていました。
Boeing 727-100型機の場合、サイドから見れば胴体の長さで-200型と区別がつきますが、このように正面から見ても中央の第2エンジンの空気取り入れ口の形が楕円形であることから-100型と判断できます。
しかし、1970年代後半になると外国航空会社との競合激化などにより次第に業績が悪化し、経営が苦しくなったところで規制緩和の大波を受けることになりました。
1978年に、ジミー・カーター政権によってもたらされたアメリカ国内航空業界の規制緩和(ディレギュレーション)後、国内外での厳しい価格競争により、既に業績が悪化しつつあったTWAは大打撃を受けました。加えて1985年には、テロの標的ともなり、トランスワールド航空847便テロ事件が発生しました。
1980年代中盤にかけては、何度かカール・アイカーンなどの投資家による企業買収によって経営者が代わるなどの異変はあったものの、空の黄金時代をともに謳歌したパンアメリカン航空やブラニフ航空、イースタン航空などの大手航空会社が、厳しい競争に敗れ次々に破産や吸収合併により消えていく中、TWAはヨーロッパや中東への国際線をはじめとする主要路線の売却や、拠点空港をミズーリ州セントルイスへ移転するなどして何とか生き残っていました。
1990年代に入ると湾岸戦争による燃料費の高騰や格安航空会社の台頭などから慢性的な経営不振に陥り、1992年と1995年には相次いで破産申請を行うものの運航は継続していました。なおこの頃には新しい塗装を導入したほか、ボーイング777型機の導入やセントルイス-東京線の就航を計画するなど、積極的な経営拡大を画策していました。
しかし、1996年にニューヨーク州のロングアイランド沖でパリ行きの800便のボーイング747型機が、燃料タンクの構造的欠陥がもとで爆発、空中分解して墜落し、230人の乗員・乗客全員が死亡する事故(トランスワールド航空800便墜落事故)が起きるなど不運が重なり、ついには2001年にライバルの一つであるアメリカン航空に吸収合併されてしまいました。
吸収合併後もしばらくの間、多くの元トランス・ワールド航空の機材はそのままの塗装にアメリカン航空のロゴを入れたり、逆にアメリカン航空の銀色のペイントに「Trans World」のブランドロゴが入ったままで運航していたが、まもなくその様な機材も姿を消し、トランス・ワールド航空は完全に終焉を迎えました。
私も30代の頃、旅客機のプラモデル造りに嵌ったことがあり、TWAのコンステレーションやトライスターはハセガワなどのキットで作製した思い出があります。
実際の機体を見たのは1988年の西ベルリン・テーゲル空港が初めてでしたが、その後LAXなどでも撮影する機会がありました。
また2001年にアメリカ出張した際に偶然購入したAIRLINERS 7/8月号がTWAの特集号で、今回の記事作成にも役立ちました。ロッキードコンステレーションの写っている表紙を載せます。
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コメント
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お久しぶりです。
TWAは初めて利用した国外エアラインで、ワシントン・ナショナル~セントルイス~タルサ~セントルイス~ロサンゼルスと利用しました。
機材はDC-9、MD-80、B767-200ERでしたが、とてもフレンドリーで楽しいフライトだっただけに現存していないことが残念です。
塗装もこのB727-100と同じデザインでした。一度はB747SPを見てみたかったですね。
投稿: しっぽ屋 | 2013年10月22日 (火) 23時41分
しっぽ屋さん、お久しぶりです。コメントありがとうございます。
そうですか、TWAを利用されたことがあり、しかも最初でしたか。
わたしは結局、見ただけに終わってしまいましたが、西ベルリンだけでなく、1990年代にLAXで新塗装のB767を見たのを憶えています。
2001年頃、アメリカに出張した際にAIRLINERSという航空雑誌を偶然購入し、その中身がTWAの特集でした。あとでその表紙の画像も追記しておこうと思います。
投稿: B767-281(クハ415-1901) | 2013年10月23日 (水) 04時18分