5両の保存D52を観に18切符で日帰り旅行 その1
12月21日は御殿場線方面へ、23日は常磐線を北へ福島県の湯本まで、保存蒸気機関車に会いに行く日帰り旅行を致しました。
21日は静岡、神奈川両県に静態保存されているD52 5両を観るために、沼津、御殿場、山北、平塚、淵野辺と回りました。
私が初めてD52の存在を知ったのは、朝日新聞社の年鑑「世界の鉄道」で1973年版の蒸気機関車の特集がD52とD62でした。
この本にはD51と似た形をしていながら、太いボイラー、前方にせり出した短い煙突など力強い蒸気を印象づけたD52,D62の勇姿が満載されていました。活躍のシーンは瀬野~八本松間での補機、特に特急「かもめ」のヘッドマークを炭水車に掲げての姿は誇らしげであり、電化前の御殿場線を行く姿、あるいは雪の函館本線の走行シーンも印象的でした。我が国の蒸気機関車の中では最大の出力を発揮し、動輪周囲の最大定格出力は1660馬力でした。D51は1400馬力です。
<D52形蒸気機関車>
太平洋戦争中、国内の貨物輸送は貨物船の供出や機雷封鎖により、船舶による輸送力が不足し、鉄道貨物需要が逼迫しました。そういった状況に対処するために1200トン貨物を牽引することができ東海道、山陽、函館、室蘭本線で運用するためにD51を改良して誕生した形式がD52でした。
戦時中のため物資が極端に不足していたため、戦争完遂までの数年間活躍できれば良いという戦時設計でした。特に銅系の材料を節約し、木材などで代用したため造りとしては非常に質の悪いものとなりました。当然、本来の出力を出せない車両が多く製造されました。
ボイラーは用材の幅広鋼材が不足したため、缶胴の長さを変えることで、用材の寸法取りを合理化しました。その結果、3種類の長さのボイラーができあがり、原設計のものが甲缶に対して、短いものは乙缶、丙缶とされました。煙間長5000mmは決まっていたので煙室長で調節したそうです。基本的には鋲接で組み上げ、将来の増圧(18kg/cm2)に備えて2鋲式が原則でしたが、乙缶、丙缶では1列鋲で長手継手を溶接で製造するといった簡略化も図られました。
製造は民間メーカ-5社(日本車輌製造、川崎車輌、日立製作所、汽車製造、三菱重工業)、2カ所の国鉄工場工機部(浜松、鷹取)で行われました。当初は492両の製造予定でしたが、終戦で285両で打切りとなりました。
表1に番号と製造所ごとの割り当ての関係を表示します。
表1 D52 の番号と製造割り当て
セルの色は製造年度を意味しており、黄色が1943年度、緑が1944年度、青が1945年度で、無色は番号が割り当てられたものの終戦で未製造となったものです。151、152号機は三菱重工業で製造予定でしたが、川崎車両に振り替えられました。
続いて、製造された285両が全機登場した時点、1946年3月末の配置表を表2に示します。
表2 1946年3月末時点での配置表 285両
こうやってみても、D51の場合とは違って、軸重の関係もあり、入線できる線が最初から限定されていることが分かります。
戦争中の酷使と、工作不良でボイラー爆発などの事故が3件も発生したため、一旦全車の使用がが停止となり、ボイラー検査が実施されました。その結果、事故車と状態不良車、55両が1950年までに廃車となりました。また、下記の改造用の70両を除いた160両のうち、D52 12, 96, 126, 131, 146, 216, 222, 340, 417, 419, 456, 460の12両を除いた148両が1951年以降、浜松工場、鷹取工場ならびに広島工場において、代用材を標準材に取り替え、ボイラーを順次新製された甲缶に交換するとともに、自動給炭機(メカニカルストーカー)設置などの装備改造を行うことによって、ようやく当初の設計どおりの性能を発揮できるようになりました。一方、装備改造から漏れた12両は、除煙板や歩み板、石炭庫側板等の木製部を鋼板製に取り換えた程度で、自動給炭機も装備されず、戦時型の面影を強く残していました。
軍事輸送の終了で貨物機に余剰が出始め、一方、旅行制限の撤廃と旅客需要の急増に対処するために1948年から1949年にかけて49両(D52の種車は50両)のC62形式がD52のボイラーと、C59の足回りに従台車を2軸西他方式で登場しました。また1950年から1951年にかけて、従台車を2軸化して軸重を軽くしたD62形式に20両が改造されました。表3にそれらの番号対応を載せます。
D52の1950年までの早期廃車(55両)、C62への改造、D62への改造
C62 24号機はD52 106号機と233号機 乙缶と丙缶のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出したそうです。
戦後しばらくして、函館・室蘭本線からはいったん撤退し、東海道・山陽本線をはじめ御殿場線、岩徳線、鹿児島本線(門司 - 鳥栖間)で運用されました。また一部は瀬野八の後部補機として使用されていましたが、そこの配置車には自動給炭機が装備されていないものもありました。
最終的には一部が再度北海道に渡り、函館・室蘭本線で1972年まで使われました。最終使用は1972年12月で、稼動状態で最後まで残ったのはD52 202号機1両でした。
そういった生涯において、御殿場線沿線、そして神奈川県に5両、トップナンバーがJR貨物広島車輌所、ラストナンバーの468号機が梅小路蒸気機関車館に保存されており、468号機は梅小路で見学しておりましたが、今回の旅行では
D52 70 - 神奈川県足柄上郡山北町「山北町鉄道公園」(山北駅前)
D52 72 - 静岡県御殿場市御殿場駅前ポッポ広場
D52 136 - 静岡県沼津市「高沢公園」
D52 235(138) - 神奈川県相模原市「鹿沼公園」 現車は138号機ではないか、との説がありましたが、2009年8月、「相模原D52保存会」の手により整備された際、現車のロッドに235号機の刻印があるのが発見されました。
D52 403 - 神奈川県平塚市「文化センター」
を見ることができました。
今回の記事はD52に関する予備知識ということで、Wikipediaの記事を参考に纏めました。
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コメント
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D52ですか~。
D51ほど話題にはのぼらない機関車ですけど僕は好きだな~^^。
投稿: モモのパパ | 2013年12月25日 (水) 09時14分
モモのパパ さま、おはようございます。
早速、コメントをありがとうございます。
D51といえば日本人ならほぼ誰でも知っている蒸気機関車、
それに対してD52はかなりマニアックな機関車ですね。
今回、その勇壮なスタイルをたっぷり見ることが出来てよかったです。
投稿: B767-281(クハ415-1901) | 2013年12月26日 (木) 05時33分