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2014年2月28日 (金)

通勤電車シリーズ 101系 その3 特別快速と改造冷房車

通勤電車101系のシリーズ、今回は1967年夏に登場した特別快速1972年に登場した改造冷房車の話題です。

101_741215
八王子駅に到着した中央特快101系冷房車 1974/12/15

JRR発行の1979年版国鉄電車編成表には当時の中央快速線の運用の様子が出ております。

それによると列車番号の末尾、Aは三鷹区、Hは武蔵小金井区、Tは豊田区、Bは中野区で中野区の運用は快速電車運転前に武蔵小金井出区の528Bが東京駅に到着後、628Bで三鷹行きで折り返す運用だけでした。

特快運用は豊田と三鷹の受け持ちで平日東京駅10時7分着の51T から始まり、61T(11:22)、63T、65T、67T、51T、53T、55T、57A、59T、61T、63T、65T、67T、51T、53T、61T(15:57)と朝夕のラッシュ時間を除く昼の時間帯に運用ました(時刻は東京駅到着時刻)。

101
東京駅で出発待ちをする101系特快冷房車

一本の編成の周期で見ると同じ編成が高尾まで往復して帰ってくるのが2時間11分後でした。一日の運用でひとつの編成は特別快速として3往復しています。

101系の冷房改造車は1970年に登場した山手線103系冷房改造車の成功を受けて、1972年に製造年度の新しい4編成がまず改造されました。その編成が運用に投入される前に武蔵小金井電車区に留置されているのを私も見た憶えがあります。

その車輌は

クモハ101 168, 175, 199, 200, 206, 207, 208, 209
クモハ100  167, 182, 187, 188
 モハ101   224, 249, 258, 259
 モハ100   207, 222, 253, 254260, 261, 262, 263
 クハ100    57, 63, 73, 81
 サハ101   129, 130, 131, 132, 135, 136, 282, 299, 300, 301
 サハ100  105, 106

の40両で改造は大井、浜松、大船工場で施工されました。

101_2
国分寺を通過する特別快速

冷房装置はAU75A(42,000kcal/h)でMGをMH129-DM88(210kVA)に取り替え、5号車のモハ100と10号車のクモハ100に搭載し、自車を含めて5両分の給電方式としました。AU75Aの取り付け位置は後位側にずらして取り付けられました。通風器はパンタ搭載車とクハ100、サハ100は4台、その他は5台でした。この4本の10両編成は3+7の方式ですが、給電の関係で分割は不能でした。

101

                 三鷹を通過する特別快速

1976年度から1978年度にはさらに52両が改造されました。

クモハ101  163, 176, 178, 181, 184, 185, 186, 189, 197, 198, 203, 205
クモハ100   184, 190, 193 
 モハ101    203, 245, 250, 261, 264
 モハ100    190, 196, 225, 227, 237, 238, 239, 240, 244, 249, 251, 252, 257, 259   
 クハ100      56, 75, 76, 77, 79, 81, 89, 90, 91 
 サハ101    119, 120, 121, 122, 123, 124, 125 126, 298

冷房装置はAU75Bになり、MGはMH135-DM92(160kVA)を搭載、給電方式は自車を含めて4両とし、付属編成の2号車のモハ100にも搭載されました。AU75B取り付け位置は車体中央部となり、通風器もパンタ搭載車は5台、その他は6台となりました(2014/5/2:細井様のコメントにより、修正致しました)。

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2014年2月27日 (木)

公園保存蒸気を訪ねて 水戸駅周辺

水戸千波公園に保存されているD51 515号機は前回、記事に致しました。

水戸は県庁所在地であり、つくばの住民は県庁の水戸よりも東京を向いているのではよく言われますが、私は水戸は徳川御三家のひとつ水戸藩の中心であり、江戸時代の文化を今日に伝える街だと気に入っています。
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千波湖に通じる水戸駅南口 2013/12/23
徳川幕藩体制成立以前は佐竹氏が常陸の国を治めておりましたが、関ヶ原の戦いの際に佐竹義宣は徳川方に加担しなかったため、慶長7年(1602年)に出羽久保田21万石に減転封されました。
佐竹氏は秋田に左遷されるにあたって、藩主家の墓地と、水戸の美人を根刮ぎ、転封先に持っていったと云われています。これが、秋田美人のルーツの起こりだとされます。このため秋田は美人の産地となり、水戸には美人がいなくなったとも云われています(ホントかな?都市伝説?)。
佐竹氏の後、水戸城には下総佐倉藩より徳川家康の五男松平(武田)信吉が15万石で入り、翌1603年に信吉は21歳で病死しました。信吉の死により翌月、家康の十男で当時2歳の長福丸(徳川頼宣)が新たに20万石で水戸に入封しました。1604年、5万石の加増を受け25万石となりました。1606年、頼宣は元服した際に常陸介に叙任されていますが、1609年に駿河・遠江・東三河(駿府藩)50万石を与えられて転封し、1619年には紀州藩55万石に転封しました。頼宣は紀州徳川家の祖となりました。
頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男で当時6歳の鶴千代丸(徳川頼房)が下総下妻藩より25万石で入りました。頼房以降の藩主家を水戸徳川家と呼びます。
水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩であり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持っていたともいわれています。そのため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、内高が表高を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなりました。
頼房は事情により三男の光圀を継嗣とし、長男の松平頼重は讃岐高松藩12万石を与えられました。光圀は学問を好み、『大日本史』の編纂を開始し、水戸藩に尊王の気風を植え付けました。水戸藩で生まれた水戸学は幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えました。
尾張藩、紀州藩が藩主の血統断絶、幕府からの財政援助、独立志向の附家老による幕府統制への迎合などにより、御三卿や将軍家から藩主を迎えたのに対し、水戸藩では支藩(四連枝:讃岐高松藩、陸奥守山藩、常陸府中藩、常陸宍戸藩)からの養子により藩祖の血統を守りました。
水戸藩は幕末には斉昭が存在感を示したものの、藩内では保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の抗争から統制を失い、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱、弘道館戦争を招くとともに、藩論統一と財政難を克服することができず、幕末政局で主導権を握ることができませんでした。
水戸藩領は廃藩置県により、水戸県を経て、茨城県に編入されました。
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南口を出て線路沿いに歩くと水戸運輸区の前を通ります、
D51_131223_2 その玄関にはD51の動輪が90周年記念として展示されています。
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さらに進むと、JR貨物の田端機関区水戸派出の事務所もあります。その裏は機関車のたまり場となっており、これまでにもいろいろな機関車が休んでおりました。
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ED75 1001 2005/10/12
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EF81 85 他 2003/8/30
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DE10 1697 2005/11/7
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マニ50 2186 2013/12/23
以前、50系客車の記事でも紹介しましたが、ゆうマニことマニ50 2186も休んでいました。
今回は、常磐線では第一線を退いた651系やE653系については触れませんが、水戸名物E653系売店を最後に紹介したく思います。
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ちゃんと編成番号まで書き込まれているE653系 売店 2013/12/23
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千波湖の風景 中央の建造物は水戸芸術館のアートタワー 2013/12/23
水戸芸術館は1990年3月22日に開館した現代芸術の複合施設で設計は建築家 磯崎新氏、運営は水戸市芸術振興財団で初代館長は吉田秀和氏でした。二代目館長は2013年4月1日より小澤征爾氏です。アートタワーのデザインはDNAの二重らせんに由来しているそうです。
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対岸からみたD51 515号機 2013/12/23

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2014年2月26日 (水)

EF510-500番台 506号機

EF510 500番台シリーズ、今回は506号機です。

川崎重工からの出場、甲種回送2010年5月27日で、吹田信号所までDE10 1743、田端操まではEF65 1054に牽引されました。
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8010列車 特急「カシオペア」を牽引する506号機 2012/7/22 郡山
交流区間における数少ない寝台特急牽引の写真です。

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2列車 特急「北斗星」を牽引してさいたま新都心を通過 2011/5/21
震災後、北斗星の復活
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安中貨物 牽引 2011/2/6 荒川沖~ひたち野うしく
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2095列車を牽引して府中本町を通過 2012/10/14
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同じく2095列車を牽引して南柏に接近 2013/2/24
地下鉄千代田線乗り入れ209系1000番台が接近
以上、506号機牽引の各種列車の写真を集めてみました。

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2014年2月25日 (火)

九州に渡った485系 鹿児島運転所 その2

鹿児島運転所の485系の話題、1985年3月のダイヤ改正前まではボンネット・タイプのクハのみの編成構成でしたが、1985年3月14日のダイヤ改正を境に大きな変化がありました。

それは編成が鹿児島方がクロ、門司港方がクモハとなったことです。そのためにこの改正を前にして車輌の大移動、改造がありました。

1) クハ481 南福岡に転出 33, 35, 37, 39, 501, 502, 601, 602, 603
                  仙台に転出 1, 2, 3, 4, 6, 8, 9, 12, 13, 15, 18, 36, 40
                  勝田に転出 5, 7, 10, 11, 16, 20, 34, 38
     仙台に転出した車輌は勝田に移動し、
2013年10月29日の記事にあるように赤スカートのまま
常磐線で特急「ひたち」で活躍を開始しました。

2) サロ481 廃車 17      
                  南福岡に転出 29, 30, 31, 32, 33, 34, 35, 134, 135
        クロ480に改造 40>1, 43>2
                  南福岡でクロに改造転入 44>3, 45>4, 53>5, 56>6, 58>7, 64>8, 67>9, 76>10, 78>11, 83>12, 87>13, 103>14, 130>15

3) モハ485 廃車 モハ481/480-21 
                  クモハ485に改造 97>1, 98>2, 100>3, 101>4, 102>5, 104>6, 105>7, 109>8, 111>9, 113>10, 116>11, 118>12, 120>13, 134>14, 145>15
                  転入MM' 青森から 89-90, 91-308, 92-302

(改造前番号>改造後番号)

クロとクモハの改造は1~15の15両ずつ行われました。種車の番号順に改造後の番号が揃えられているのが分かります。

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キノコ形エアコンキセAU12のクハ480を先頭とした特急「有明」 1985/4/19 博多

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こちらはAU13を搭載したクロ480 1985/4/19 博多

エアコンのタイプでみるとクロ480-1~4はAU12形キノコ型のエアコンに非貫通型の運転台という信じられないスタイルで登場することになりました。同時期に紀勢線に登場した485系特急「くろしおも同様でしたが。後に冷房容量増強のために後位にAU13E形を1基増設となりました。5 以降はAU13E形を搭載していましたが改造時に1基撤去して4基搭載に変更し、のちにAU13E形を1基運転台側に増設しました。さらに11・12は後に半室普通車化再改造によりクロハ480-51・52となりました。

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門司港側の先頭車はクモハ485 特急「有明」 1985/4/19

クモハ485の改造は前位側にクハ481形300番台同様の運転台を設置し制御電動車化しました。運転台後部を機器室とし110kVA・MGおよびCPを搭載し、機器室後部に出入台を設置し、定員は16名減って56名となりました。

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乗務員室扉と客用扉の間隔が広く、この間に機械室が設置されているクモハ485形 1985/4/19 小倉

一連の改造によるクロ~クモハ編成で特急「有明」をメインに担当するようになりました。

←西鹿児島
TscM'MM'MM'Mc×15 所要11(臨時+2)
有明(15)(臨時+4)、にちりん(4)
 休
 西鹿児島9341424博多14521936西鹿児島
 西鹿児島6451124博多11521629西鹿児島17002244門司港
 門司港6521250西鹿児島13411824博多18522031熊本‥川尻
 川尻‥熊本742924博多9531427西鹿児島14571924博多19522131熊本‥川尻
 川尻‥熊本642824博多8521033熊本11031246博多13101446熊本15421724博多17522233西鹿児島
 西鹿児島8001224博多12521714西鹿児島18142254博多‥南福岡/2355542西鹿児島
 南福岡‥博多10521233熊本13421524博多15521732熊本18422024博多20522231熊本‥川尻
 川尻‥熊本8421024博多13171609大分18101954小倉20222206大分‥下郡
 下郡‥大分9101055小倉12221407大分14431625小倉17011841大分20102258博多‥南福岡
 南福岡‥博多7001121西鹿児島11511624博多16522129西鹿児島2300538博多
 西鹿児島8451324博多13521840西鹿児島
 西鹿児島9591512博多16471823熊本
 博多13471521熊本‥八代16041821博多

M'M×6 Ts×1 Td×5

485_48010_850419_2_2
特急「にちりん」も4往復クロ~クモハ編成が担当しました。 1985/4/19 小倉

485_4857_850419_2
クモハ485-7 特急「にちりん」 1985/4/19 小倉

鹿児島運転所におけるこの体制は長くは続かず、次の国鉄最後のダイヤ改正となった1986年11月1日の改正では門ミフと鹿カコの間で大規模な車両の交換が行われることになります。

このときの移動で、最後まで残っていたモハ481/480ユニット-13.14は廃車となり、初期の485系モハユニット89,90,92は福知山に転出します。そして

モハ485 107,112,115,129,133, 146,150,151,152,153, 159,163,165,166,167, 168,171,175,179,182, 192,193,194,197,198, 201
モハ484 211,216,219,233,237, 248,252,253,254,255, 261,265,267,268,269
270,273,277,281,284,294,295,296,299,300,303
クハ481 33,35,37,39,202, 206,214,215,218,219, 220,221,225,226,232, 233,234,237,239,241
251,255,262,501,502, 601,602,603
サロ481 29,31,33,34,35, 50,51,52,55,80, 89,102,134,135

門ミフからこれらの車輌が転入し、クロ~クモハ編成が門ミフに転出します。僅か1年半でクロ~クモハ編成から両端クハ、そして真ん中にサロの7両編成となり、ボンネットクハは4両、その他は貫通タイプとなりました。

1986年11月1日改正後は特急「有明」の運用はなくなり、メインは「にちりん」と「かもめ」もはじめて担当することになります。

←西鹿児島、長崎
TcM'MTsM'MTc×14 所要11(臨時+3)
にちりん(10.5)(臨時+2)、かもめ(1)(臨時+1)、有明(臨時1.5)
 休
 西鹿児島7391452小倉15542114宮崎‥南宮崎
 南宮崎‥宮崎8391454博多16522256宮崎‥南宮崎
 南宮崎‥宮崎6411254博多14151627長崎17351948博多‥南福岡
 南福岡‥博多8551713西鹿児島
 西鹿児島12352053博多‥南福岡/21102321長崎
 長崎620847/南福岡‥博多10541915西鹿児島
 西鹿児島9311754博多19552242大分‥下郡
 下郡‥別府8001338西鹿児島16162323小倉‥門司港
 門司港‥小倉8111314宮崎16422151小倉‥門司港
 門司港‥小倉722908大分9441137下関12111408大分14421617小倉17301909大分‥下郡
 下郡‥大分7101000博多12542116西鹿児島
 西鹿児島8431356博多14501949西鹿児島(TcM'MTsM'MM'MTc)
 西鹿児島13311840博多
 大分11251312小倉13261517大分15281721小倉18582107大分

M'M×1

<クロハ481-1~13>

1987年10月からは短編成化に伴うグリーン車の規模縮小でクハ481クロハ化の改造が進められます。

小倉工場で計13両が改造され、 1 - 8は種車がクハ481形200番台9 - 13は種車がクハ481形300番台でした。
グリーン席は3列×5席の体制でした。
1993年1がクハ481-226に復元され、2000年に9 - 13が廃車されました。残りの車両も2012年までに廃車されました。
クハ481-226・232・233・234・239・241・251・262・
312・328・329・341・353→クロハ481-1 - 13

クロハは門ミフに転出し、それに代わって「かもめ」「みどり」用に使用されていたクロ481-1, 2, 51, 55, 56, 57, 101, 102, 103, 104が門ミフより転入しています。

1988年12月にはクハ481-602クロ481-4に復元改造されます。
さらに1990年2月にはクハ481-243クロ481-301に格上げ改造されます。出入台前位に乗務員室を増設したため乗降扉横の窓は2分割されました。窓配置とシートピッチは一致せず、1両のみの区分であったが2000年に廃車となりました。

クロ480、クモハ485の改造車も再び鹿カコに戻ってきますが、以後頻繁に門ミフとの間で転属を繰り返します。1991年7月から1992年3月末にかけてクロ480全15両、クロ481-301の座席3列化改造がなされました。そして、2,4,6,8,10,13,14,15が門ミフに転出しました。
クロハ481も1992年7月には鹿カコに一部(2,3,7,8,9)が転入します。
1994年6月にはモハ485の電装解除改造があり、153,159サハ481-153, 159になりました。

その後、「にちりん」のみの担当期間が続きますが、1995年4月20日の改正で特急「にちりん」は分オイの担当となり、鹿カコの485系は特急「きりしま」の担当になります。

485_481300_960328
3両編成の緑の特急「きりしま」 1996/3/28 西鹿児島

←西鹿児島
TcM'MTc×3 所要2
きりしま(2)
 川内713804鹿児島‥西鹿児島8501055宮崎11411349西鹿児島16141818宮崎18382047西鹿児島23002336国分‥隼人
 隼人‥国分738819西鹿児島21202200川内

TcM'Mc×2 所要2
きりしま(4)
 西鹿児島641854宮崎10191221西鹿児島12501452宮崎16321838西鹿児島18502049宮崎22192314都城
 都城‥西都城707806宮崎8161023西鹿児島10501250宮崎14161618西鹿児島

TscM'MM'MTc×1
M'M×3 Tsc×2

2000年3月11日の改正では特急「ひゅうが」も加わります。

←西鹿児島
TcM'Mc×8 所要7
きりしま(7)、ひゅうが(4)
 南延岡‥延岡655803宮崎9401146西鹿児島13101518宮崎16201833西鹿児島21352213国分‥隼人
 隼人‥国分733812西鹿児島9101117宮崎‥宮崎空港14201535延岡17381855宮崎空港20122017南宮崎‥宮崎22222314都城
 都城‥西都城657758宮崎814923延岡16041719宮崎空港17371747宮崎18202032西鹿児島20372119川内2212出水
 川内705753鹿児島‥西鹿児島16101819宮崎‥南宮崎
 南宮崎‥宮崎720921西鹿児島11101315宮崎14201620西鹿児島17241929宮崎19402144西鹿児島
 西鹿児島640849宮崎‥南宮崎10451050宮崎空港10541104宮崎11371349西鹿児島19002109宮崎‥南宮崎
 南宮崎656806延岡825939宮崎空港946951南宮崎‥宮崎空港12131334延岡14051520宮崎空港17011827延岡‥南延岡

TcM'MTc×2
TcM'Mc×1

2001年3月3日の改正では再び、特急「にちりん」を担当するようになり、

←西鹿児島
ThscM'MM'Mc×4 所要3
にちりん(3)、きりしま(1)
 小倉6401140宮崎空港‥宮崎13131521西鹿児島17582010宮崎‥南宮崎
 南宮崎6061055小倉12251725宮崎空港17371742南宮崎17501756宮崎空港18202321小倉
 小倉10251524宮崎空港15371543南宮崎15581604宮崎空港16202057小倉

TcM'Mc×8 所要7
きりしま(6)、ひゅうが(4)
 南延岡‥延岡656821宮崎空港835845宮崎9371146西鹿児島12201427宮崎15151720西鹿児島21382215国分‥隼人
 隼人‥国分734813西鹿児島8241027宮崎10501100宮崎空港11201234延岡13101435宮崎空港15201631延岡17311859宮崎空港‥宮崎22232318都城
 都城‥西都城701802宮崎‥宮崎空港9191034延岡11061219宮崎空港12321237南宮崎‥宮崎17151922西鹿児島20352117川内2205出水
 出水610川内705752鹿児島‥西鹿児島14201626宮崎16411652宮崎空港17031833延岡19032007南宮崎
 南宮崎‥宮崎718933西鹿児島10211226宮崎19152121西鹿児島
 西鹿児島616827宮崎944953宮崎空港10031016宮崎11351346西鹿児島16201826宮崎‥宮崎空港21142228延岡‥南延岡
 南延岡‥延岡733857宮崎空港20152130延岡‥南延岡

M'M×3

2011年3月12日の改正で485系の運用が無くなりました。この時点で活躍していた485系は
モハ485   152, 164, 169, 176, 177, 180
クモハ485   1, 3, 6, 7, 8, 9, 11, 101, 108
モハ484   201, 204, 208, 209, 213, 215, 220, 254, 266, 271, 278, 279, 282, 304, 342
クロハ481   4, 5, 6, 7, 203, 205
クハ481      213, 238, 246     でした。これらの車両は2013年3月までに全車廃車となり、鹿児島車両センターの485系車両配置はなくなりました。

今回も「485系の動き 配置および編成・運用の移り変わり 鹿児島」のサイトのデータを参考にさせて戴きました。なお、クモハ485-100番台クロハ481-200番台に関しては南福岡運転所の記事で触れる予定です。

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2014年2月24日 (月)

西武鉄道 HSCブレーキ化・冷房改造 8 401系 (411F~421F/427F)

西武鉄道の冷房改造、HSCブレーキ改造の話題、再び401系です。

今回は1979年9月から同年年度末にかけての出場です。

1455-416    411F    1979年9月7日
417-1458  413F  1979年10月8日
1459-418  415F  1979年11月6日
419-1460  417F    1979年12月5日
1463-424  427F   1980年1月10日
1459-420  419F   1980年2月8日
421-1462  421F  1980年3月8日

1ヶ月に1編成の頻度で7編成が出場しましたが、427Fが先に改造されている点がこの後、1980年9月以降に出場したグループにおけるモデルチェンジとの関係で構造的にややこしいことになっています。

401_ii_810003
縦樋が埋め込まれた401系+701系の冷改6連 1981年10月 所沢

このグループの401系としての改造上の変化は、靴摺のステンレス化です。そして、種車の411系としての違いがこのグループメンバーにはあり、

411系 415-417編成は701系2次車で加えられた改良を反映し、客用扉下部靴摺の材質変更、戸袋窓車内側の窓拡大が実施されました。といっても外観写真からは判別が難しいですね。
(これらが401系 409Fから413Fに)

411系 418-422編成は従来乗務員扉後部に露出していた側面縦樋が車体内部に埋め込まれた点が異なります。なお、同時期に落成した701系753編成以降では乗務員扉手すりが埋込式に改良されていますが、本グループは従来タイプの露出型のままでした。
(これらが401系 415Fから423Fに)

411系 424-1463編成は張り上げ屋根風の外観、乗務員扉手すりも埋込式に
(この編成は401系 427Fに)

3種の異なった構造が401系に受け継がれています。

401系改造の進展に伴って残る411系との間に番号の重複が生じるようになるのでクモハ411形の番号が+20 改番されたのもこの頃でした。

401_ii_810004_2
後で記事にする予定の新101系4連と連結された401系 1981年10月 所沢

423Fの改造が次期に回され、427Fが先に改造されたためにWikipediaにあるように”423編成は「普通屋根仕様ながら客用扉窓が金属枠固定かつ袖仕切りが大型」、427編成は「張り上げ屋根仕様ながら客用扉窓がHゴム固定かつ袖仕切りが原形」という、それぞれ異端編成となりました。

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2014年2月23日 (日)

西ベルリンの思い出 Euroberlin France その1

冷戦下の西ベルリン、テーゲル空港で撮影した旅客機のシリーズ、今回のからはEuroberlin Franceという航空会社について触れます。

Gmonh_cn_23685_1357_boeing_7373y0_e
G-MONH (cn 23685 ln 1357) Boeing 737-3Y0 Euroberlin 1989/4/8 TXL

これまでにも出てきましたが東西分裂時代の西ドイツ本土と西ベルリン(民間空港ではTempelhof空港やTegel空港)を結ぶ東ドイツ上空の航空路は1946年2月に設定されたLuftkorridor(Berlin)空の回廊>と呼ばれた限定された空域でのみ飛行が許可されていました。空域の幅は20マイル(32km)で高度は10,000フィート(3000m)まででした。管制は占領軍ベルリン航空安全センター(BASC: The Berlin Air Safety Center)が担当していました。

そしてこの空域に進入できる航空機はアメリカ(N)、イギリス(G)、フランス(F)国籍の非戦闘軍用機と旅客機でパイロットもこれらの国のパスポートを保持するものに限られていました。ただ例外的にLOTポーランド航空のワルシャワ~ベルリン・シェーネフェルト空港経由~ロンドン・パリ便の飛行が認められていました。

西ドイツのルフトハンザ航空はこの取り決めにより、西ドイツ本土と西ベルリンを結ぶ路線を運航することは出来ませんでした。一方、フランスのAir France航空は連合国の航空会社として西ベルリン線を運航していましたが、Pan AmBAに押されがちで辛うじて西ベルリンとパリを結ぶ路線を直行もしくはデュッセルドルフ経由で1日1本運航していましたが、1980年代半からの西ベルリン線の旅客数回復の状況においても営業成績の回復は見込めそうに無い状況でした。さらにアメリカの他の航空会社、American Airlines, Continental Airlines, Delta Air Lines, Northwest Airlinesなども西ベルリン線の旅客回復により、PAやBAによる独占状態に不満を持ち始め、運航権の獲得に動き出そうとしていました。

Gmonl_cn_24255_1625_boeing_7373y0_e
G-MONL (cn 24255 ln 1625) Boeing 737-3Y0 Euroberlin 1989/4/8 TXL

その状況を打破するために、エールフランスとルフトハンザが手を組んで設立したのがEuroberlin Franceです。パリに本社を置き、ベルリンテーゲル空港に事業本部を置き、エール・フランスが資本の51%、ルフトハンザが49%を出資した会社でした。1988年から1989年の冬シーズンの1988年11月7日に運航が開始されました。

私共が西ベルリンで生活を始めたのが10月中旬なので、まさにその直後でした。機材はイギリスのルートンをベースとしたMonarch AirlinesBoeing 737-300型機を4機と乗組員もリースするウエットリース方式で、機材のメインテナンスもMonarch航空の姉妹会社のMonarch Aircraft Engineeringが担当しました。私も記憶していますが、1988年の秋時点ではベルリンの壁が1年後に崩壊して1990年10月に東西ドイツが再統一されることなど全く考えられない状況でしたから、フランスの航空会社という仮面を被ってルフトハンザがついに西ベルリンに進出したのかと考えていました。

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2014年2月22日 (土)

通勤電車シリーズ 101系 その2 製造年次と形態変化

国鉄101系の2回目、今回は製造年次と形態変化について触れようと思います。

101
表1 101系の番号と製造予算の関係

まず鉄道ピクトリアル誌(2013年4、5月号N874,875)の情報をもとに年度予算と製造番号の関係を表1にまとめました。

この表から分かるように、試作車10両、回生ブレーキ試験車2両、量産車(Mc: 1-209, M'c: 1-193+801-806, M: 1-264, M': 1-263+80-811, Tc: 1-85, T'c: 1-95, T: 1-145+201-301, T': 1-107+201-244) の1523両 計1535両製造されています。回生ブレーキ試験車は後に電装解除されてクハ101、クハ100に編入されています。

前回の記事で記述したように私が小学生になる前の1960年末の時点で中央線の新性能化は終了しており、1964年頃の新製車はカナリヤ色(黄色5号)で総武・中央緩行線に投入されていました。

しかし、なぜかクハ101-51クハ100-49はオレンジ色で出場し、武蔵小金井区所属で中央快速線に投入されました。当時、毎日電車に乗ると製造銘板を見ながら製造所と製造年を確認しており、昭和39年製のこれら2車両の新車の雰囲気は格別でした。

101_7803
お茶の水橋から写した中央線快速電車東京行き 1978/3
前3両の付属編成はMcM'T'cでT'cにはパンタ台が見えます。

編成は基本7両+付属3両で、東京寄りに3両が連結されており、三鷹や武蔵小金井で解結が行われていました。

基本編成は中間にサハ3両を挿入した

←東京
McM'TTTMM'c

でしたがサハ3両はサハ101、100が混ざっていましたが。101系のサハ100は将来の全電動車化を考慮してのモハ100に対応するものでしたから、7+3編成 (6M4T)の時代には格段の意味はありませんでした。将来の電装化に備えてパンタ台などを準備したサハ100の姿はなにか不格好にも見えました。一方で、7両基本編成ではMG/CPの所要数が不足となったため、MH81-DM44(5kVA)のMG、MH80-C1000のCPを搭載したTT'の200番台が製造され組み込まれていました。この200番台のサハは3両の中間に連結されていました。

101_790923
西国分寺に到着する101系 1979/9/23 こちらの付属編成はTcMM'c

付属編成は
←東京
McM'T'c   と TcMM'c の二通りがありました。

この付属編成、1966年の豊田電車区の開設の頃は、オリジナルの配置区だった三鷹区の編成はMcM'T'cに統一され、豊田区はTcMM'cに統一され、武蔵小金井区は両タイプが配置されていたそうですね(参考、鉄道ピクトリアルNo.874)。

101_810829
千駄ヶ谷を通過する快速東京行き 1981/8/29 McM'T'cの付属編成

製造年代におけるモデルチェンジに関して小学生の観察で気づいた点は

・標識灯の形態が内バメ式から、外バメ式に変わったこと

・屋根の雨樋がオレンジ一色から、上辺に白いゴムが加わったこと

・避雷器の変化 

 初期のタイプは置物のような形の物体が乗っていましたが、後期には103系で見られたような筒状のカバーが付けられました.上の写真の車輌は後期タイプです。

・パンタグラフの変化
 

 上記の表にあるようにM'車やM'c車のパンタは当初は左右の菱形の枠を結ぶフレームが枕木方向のPS13C形を装備しており、昭和33年債務予算製造車からPS16形になりましたが、PS13C形も後年、PS16形に換装されました。PS13形搭載車の写真は中央快速線の写真ではありませんでしたが、2012/12/2の関西本線の記事2012/12/3の大阪環状線の記事の写真にありました。

・運転台と客室の仕切り窓が小型になったこと 参考:2013/10/1の記事

・線路方向のみだったつり革に対して、ドア付近では高い位置に枕木方向のつり革も設置されたこと などでした。

101_2
五日市線運用に入っているTcMM'cの付属編成 1983/2/19 拝島
雨樋に注目!!

101_3
こちらは青梅駅の付属編成 McM'T'c
Mcは1960年以降の製造のもので雨樋には白いゴムが見えます。

これらの形態変化のうち、雨樋の変化に関しては鉄道ピクトリアルの記事には書かれていませんでしたが、昭和33年製などのごく初期の車両では上辺に白いゴムが当初は見られませんでした。

101_830226
市ヶ谷を通過する快速青梅行き 1983/2/26
先頭のクモハ100は標識灯の内バメ式タイプ

1967年7月にはそれまで快速オンリーだった運用に特別快速が登場しました。登場時は運転台窓ガラスの内側に小さく特別快速(特と快の字が大きく)の表示を出していました。

次回の記事では特別快速や改造冷房について触れます。

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2014年2月21日 (金)

公園保存蒸気 D51 515 水戸・千波公園

全国の公園等に静態保存されている蒸気機関車を観て歩くシリーズ、今回は水戸・千波湖の畔、千波公園に保存されているD51 515号機です。形式番号も含めて51515と並ぶ回文番号です。

D51_515_131223_2
D51 515号機 2013/12/23 水戸千波公園

場所的にはこちら で千波湖の西の端になります。偕楽園臨時駅からは近いですが、水戸駅から歩くと千波湖を半周する距離なので結構遠いです。

機関車自身は野外保存ですが、定期的整備されているようで大変美しい外観を保っており、運転台の計器類もきちんと保持されています。

D51_515_131223_4
正面から 前照灯は副灯付きですが、シールドビーム副灯の装着位置は比較的メインのライトから離れている印象でした。以前に撮った現役時代のD51の写真と見較べてもかなり離れていると思います。(参考 2013年3月29日の記事からそれらの写真が出てきます)。

あと、前々回の946号機の際に話題になったメインロッドのビッグエンドですが、こちらのものは

D51_515_131223_10
通常タイプの長方形をしております。

D51_515_131223_54
後からのショット

標識灯はありませんが、前照灯は装備されています。

D51_515_131223_31
キャブ内 バルブやメータ類は今にでも動かせそうな体制に整備されています。

機関車の履歴に関してはいつものように沖田祐作氏の機関車表のデータですが、

D51515     国鉄大宮工場=28               1941-03-31 S77.60t1D1T(1067)
   車歴;1941-03-31 製造→ 納入;国鉄;D51515→ 配属;? →1941-04-02 使用開始→
      1947-00-00 現在;水戸→1958-02-00 大宮→1961-02-10 借入;田端→
      1967-02-01 八王子→1969-10-14 借入;新鶴見→1969-10-31 返却→
      1970-01-15 借入;新鶴見→1970-02-06 返却→1970-04-01 新鶴見→
      1970-11-28 廃車;新鶴見→
      1971-00-00 保存;茨城県水戸市「千波都市公園」;D51515(千波湖畔公園説?)

大宮工場製造の第28号機で今でも同工場に展示されているD51 187号機が1号機で188から198、243から244、469から472、506から517へと続く30両の中の1両となっています。働き場所は水戸から始まり、終生首都圏でした。水戸所属機でしたが946号機とは異なり、ストーカーの設備はありません。晩年は高島線貨物などを牽引したようです。

D51_515_131223
といった駅名標的な案内板も用意されていました。

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2014年2月20日 (木)

EF510-500番台 505号機

EF510 500番台シリーズ、今回は505号機です。

川崎重工出場と甲種回送2010年5月13日から14日にかけて行われ、吹田(信)からの牽引機は、新鶴見機関区所属のEF65-1139だったとのことです。

505号機は500番台の中でも写真を多く撮っている機関車で

Ef510505_110626_0
ふだんはあまり撮影しない下り8009列車特急「カシオペア」 2011/6/26 大宮

Ef510505_110618_2
上り2列車特急「北斗星」 2011/6/18 大宮

Ef510505_110205_2
馬橋を通過する5388列車 通称「安中貨物」 2011/2/5

Ef510505_110109
友部に接近する1657列車 2011/1/9

Ef510505_110521_2
府中本町を通過する2095列車 2011/5/21

Ef510505509_100711
出場直後の509号機を従えての単機重連試運転 2010/7/11 栗橋~古河間

などでした。

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2014年2月19日 (水)

九州に渡った485系 鹿児島運転所 その1

前回までの特急「雷鳥」シリーズに続いて、晩年の485系車輌の変遷を辿るシリーズ、今回からは九州内特急を運転所毎に見てゆこうと思います。

485_481500_860219_3
クハ481-502 1986/2/19 小倉 (再掲)
九州に渡った485系の中でも最もインパクトのあったのは181系から改造されて485系に加わったクハ481-500番台ではないでしょうか。 

まずは鹿児島運転所(1997.11.29より鹿児島総合車輌所、2011.4.1より鹿児島車両センター)<鹿カコ>です。

同所に485系が配属されたのは、1975年3月の新幹線博多開業によるダイヤ改正でした。今からおよそ39年前のことになりますが、この改正前までは大ムコ所属だった485系11両編成37本が、東は「はくたか」で上野、南は「なは」「つばめ」「日向」などで西鹿児島・宮崎まで連日のように走り回っていましたが、改正により山陽路の昼行特急は廃止となり、余剰となった車両のうち

MM' 481 1~26
MM'  485 21~33, 44~46
Tc   481 1~18, 31~40
Ts    481 1~18, 26~35
Td    481 1~9, 23~26, 30          の154両が転属しました。

内容的には481系として、昭和39年度第1次民有と同第4次債務予算で製造された車輌すべて(太字)と485系初期車が含まれていました。この転属にあたっては転属に伴う回送を減らすために、改正時に鹿児島や南福岡に到着する編成を転属車両で構成するように事前に周到な計画が練られたそうです。

485_481_850420
ボンネットスタイルでも後期型のクハ481の特急「にちりん」 1985/4/20 大分

改正後は

←西鹿児島
TcM'MTsTsTdM'MM'MTc の編成14本に組成され、有明(7)(臨時+1)、にちりん(4)(所要11本)での活躍を開始しました。

2012年12月13日の記事で記述しているように、当時の特急「有明」は485系による7往復、同改正で門ミフから大ムコに転属した583系による3往復で運行されました。この頃のクハ481のスタイルはオリジナル車にあった髭の省略が印象的でした。

1980年5月には早くもサロ481-1,2,3が廃車となっています。製造から約16年の廃車は早く感じますが、特急用特別車両の宿命でしょうか。さらに1980年9月にはモハ485/484-27,33 サロ481-12が門ミフに転出しています。

1980年10月1日の改正で、編成から食堂車が外され、

TcM'MTsM'MM'MTc×13 といった編成となり、

所要10本で特急「にちりん」の運用はなくなり、特急「有明」を16往復担当するようになりました。特急「有明」の増発はそれまで急行として運行されていた「ぎんなん」「かいもん」の全列車、「えびの」「火の山」の熊本以北の格上げによるものでした。

編成から外された食堂車サシ481は1980年12月から1981年8月末にかけて1~9が廃車となりました。モハ481/480の電動車ユニットも9, 12, 15, 16, 22, 23, 251982年4月から6月にかけて廃車され、サロ481-15, 181982年7月に廃車されています。一方、これらを補うように盛アオ、仙センから17電動車ユニットが転属しています。またクハ481-7, 12, 14, 17が門ミフに転出しています。

1982年11月15日のダイヤ改正では

TcM'MTsM'MM'MTc×11 と編成形態は変わらずとも本数が減少し、所要8本での運用となり、有明(7)(臨時+1.5)、にちりん(1) にちりんの運用が復活しました。

1984年2月1日のダイヤ改正までの間にモハ481/480の電動車ユニットが13, 14, 21を残して廃車され、サロ481も13, 14が廃車されました。一方で門ミフから6電動車ユニットが転入しています。

485_481603_850419_2
現役時代のクハ481-603  1985/4/19 博多 窓のサイズ、個数が特徴

さらに仙センに残っていたクロ481-3, 4, 5が格下げ改造を受けてクハ481-601~603として転入し、希代の珍車と言われるクハ181-109改造の-501 クハ180-5改造の-502(いずれも新潟で改造)が転入しています。181_181109_750000_b

再掲ですが、中央線特急「あずさ」で活躍していた頃のクハ181-109 1975/3 三鷹 クハ181でスカートのタイフォンにシャッターが付いていたのは109のみ

485_481502_850419
クハ481-502 1985/4/19 小倉 
違う系列からの改造のため、車体の高さのずれが生じるという鉄道模型でもありえない改造をしてしまうほど当時の国鉄の財政事情は厳しかったのですね。後年、交直切り替えSWのない状態で下関まで行く運用に入り、小倉で運転打ち切りといったポカもありました。

長崎・佐世保電化による特急「かもめ」「みどり」の復活に合わせて仙センから門ミフに1975年5月から6月にかけて転属したクロ481-1, 2は格下げ改造されることなく廃車になっています。

1984年2月改正時点での鹿カコの485系の配置

モハ485 1-13,1-14,1-21,  21,  22, 23,  24,  25,  26,  27, 28,  29,  30,  31,  32,
              33,  44,  45,  46,  78, 79,  93,  94,  95,  96, 97,  98, 100, 101, 102,
             104, 105, 109, 111, 113, 116, 118, 120, 134, 145

モハ484 0-13,0-14,0-21,  21,  22, 23,  24,  25,  26,  27, 28,  29,  30,  31,  32,
              33,  44,  45,  46,  78, 79,  93,  94,  95,  96, 201, 202, 204, 205, 206,
             208, 209, 213, 215, 217, 220, 222, 224, 601, 602 

<モハ484-600番台>
200番台に車掌室と業務用室を設けたための番台区分で定員は200番台より8名少ない64名となっています。特急列車の専務車掌室は編成中央部にあるグリーン車のものを使用することが多いですが、東北特急では仙センの編成が上野方先頭車にクロ481形を組み込み、盛アオ編成もサロ481形は2号車に連結していたため編成中央部付近に専務車掌室を持つ普通車が必要となり本番台区分が製造されました。この構造は後の1000・1500番台に承継されました。2013/10/19のくろしおの記事でも出てきていますが、1972年製造の601、602は1982年10月27日に盛アオから鹿カコに転属していました。

またモハ484の第二パンタもこの頃から撤去され始めました。

クハ481   1,   2,   3,   4,   5, 6,   7,   8,   9,  10, 11,  12,  13,  15,  16, 18,  20,  33,  34,  35
               36,  37,  38,  39,  40, 501, 502, 601, 602, 603

由来は様々ですが、すべてボンネットタイプで固められていました。

クハ481-6021988年12月4日クロ481-4に復元されました。クハ481-603は引退後、九州鉄道記念館に静態保存されています。

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クハ481-37 ビデオカーに改造された先頭車 1985/4/19 小倉

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ビデオカーのステッカーと次位のモハ484は第二パンタ撤去済み 1985/4/19 小倉

またクハ481-33・35・37・39の4両は1980年より、サービス向上の一環として運転台仕切にスクリーンの設置・床面を雛壇式とし、出入口付近に「ビデオ特急」のステッカーを貼付てビデオ上映を実施しました。

サロ481  16,  17,  29,  30,  31, 32,  33,  34,  35,  40, 43, 134, 135

サシ481  23, 24, 25, 26, 30

言うなれば、この鹿児島での9年間は485系の長兄である、クハを除いた481系一族の第二の人生であり、最後の時期でありました。

481603_041017
「にちりん」のヘッドマークを付けて静態保存されるクハ481-603 2004/10/17 九州鉄道記念館

車両配置、編成などのデータは「485系の動き 配置および編成・運用の移り変わり 鹿児島」のサイトのデータを参考に致しました。

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2014年2月18日 (火)

西武鉄道 HSCブレーキ化・冷房改造 7 701系 (781F~745F)

前回の401系(401F~409F)に続いてというか、409Fと相前後して出場してきたのが、781F, 725F, 729F, 735F, 737F, 739F, 741F, 743F, 745Fの9編成でした。

文献から出場日を書き並べると、

781F 1978年9月2日
725F 1978年10月18日
729F 1978年11月30日
735F 1979年1月13日
737F 1979年2月21日
739F 1979年3月30日
741F 1979年5月10日
743F 1979年6月26日
745F 1979年7月31日

となっています。1978年9月から1979年7月にかけての登場でした。

これらの編成の外観上の変化は401系編成でも見られたエアコンキセ横に付けられたランボードの大型化でした。

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このグループの編成として初めて認識したのは725Fでした。 1979/2 練馬

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新宿線準急運用の401系+701系 6連 東伏見 1979/4

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池袋に到着する701系冷改車 1979/7/20  

確かこの日は新101系の写真を撮るためにこの場所にいました。701系冷改車は未だこの時点では池袋線でも活躍していました。

このグループの後、再び401系411F~419F, 421F, 427Fが出場してきます。

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2014年2月17日 (月)

西ベルリンの思い出 Dan-Air London Boeing 737 その2

今年はベルリンの壁崩壊から25年になりますが、西ベルリンのテーゲル空港で撮影した航空機シリーズ、今回はDAN AirのBoeing 737シリーズの2回目で、-300型について触れようと思います。

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G-BNNJ (cn 24068/ ln1506) Boeing 737-3Q8 1988/10/23 TXL

Boeing 737の-300, -400, -500はボーイング737シリーズとしては第2世代で、-600から-900 のNew Generationが登場した現在ではクラッシックと呼ばれています。

-300型はUSエアの要望により、1979年に開発が開始され、1980年のファーンボロー航空ショーでプロトタイプモデルが発表され、1981年3月USエアサウスウエスト航空が10機+オプション20機以上の発注を出し、1984年に登場した低燃費、低騒音の改良型でした。

エンジンをそれまでの低バイパス比のP&W JT8Dから高バイパス比のCFMインターナショナル製CFM56-3Bシリーズに換装し、燃費を大幅に向上させるとともに騒音を抑える効果も得られています。地上高の低い737に大直径のエンジンを装備するため、パイロンで主翼前方に突き出すとともに、独特なおむすび型のエンジンカウルが導入されています。

外観上の特徴としてはエンジンの他に、空力面や強度向上の面から垂直尾翼のデザインが変更され、付け根が前に伸びていることがあげられます。また主翼の先端も23cm(9inches)延長されています。

また、途中からBoeing 757767の技術を導入してグラスコックピット化 EFIS (Electronic Flight Instrumentation System)が図られ、コックピットに4面のCRTディスプレイが登場し、コンピュータ制御による操縦が可能となっています。このほか、客室の内装も757スタイルのものに改められています。

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G-SCUH (cn 23254/ln 1107) Boeing 737-3Q8 1989/6/25 TXL

-300型のプロトタイプは1984年1月17日にレントン工場でロールアウトし、2月24日に初飛行しています。11月28日に耐空証明を取得しました。1985年には252機もの発注が寄せられ、1999年まで生産が続けられ、最後の機体は12月17日 ZK-NGJとしてAir New Zealandに引き渡されました。

クラッシック型全体としては2000年に製造が終了し、総生産機数は3132機でした。

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2014年2月16日 (日)

通勤電車シリーズ 101系 その1 試作車、山用800番台

新たに通勤電車のシリーズを始めようと思います。101系、103系、201系、203系、205系, 301系と大都市圏で活躍してきた4扉通勤電車の話題を形式毎に順番に触れて行こうと思います。

最初は101系です。これまでにも拙blogでは

2012年12月2日の記事で関西本線の話題
2012年12月3日の記事で大阪環状線の話題 などでも101系103系の話題を取り上げてきました。

まずは中央快速線、武蔵野線のオレンジ・バーミリオン(朱色1号)の車両から行きたく思います。

101系は国鉄電車として初めて中空軸平行カルダン駆動方式を採用した新性能電車の最初の形式で

・1.3m幅の両開き4扉の軽量構造の全金属製車体
・扉間7人掛け、車端部3人掛けのロングシート
・コイルバネ台車、ウイングばね軸箱支持
・直巻整流子電動機(MT46A)
・発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ(SELD)
・電動車MM'ユニット方式 CS12A主制御器で2両分8個の電動機を制御

等、以後の通勤車両に受け継がれた方式が初めて採用された車両でした。

1957年に試作車10両1本が登場し、12月から営業運転が開始されましたが、すぐに使用電力の多さが問題となり、限流値を280Aの低めに設定した加速力抑制運転をせざるを得ない状況になりました。

1958年3月に量産車が同じ全電動車方式で投入されましたが、性能を十分に発揮することは出来ませんでした。
←東京                                                      高尾→
Mc503-M'004-M005-M'c502 + Mc501-M'000-M001-M'002-M003-M'c500
  大井工場     日本車輌      近畿車輛     汽車会社  日本車輌 

M': モハ90000・90002・90004   => モハ100-901~903
M: モハ90001・90003・90005   =>_ モハ101-901~903
M'c:モハ90500・90502           => クモハ100-901~902
Mc: モハ90501・90503           => クモハ101-901~902

101_100901_741215
晩年、量産化改造された試作車 クモハ100-901 1974/12/15 八王子

量産車のクモハ100と違ってジャンパ栓受けが車体にある点、雨樋が前面に回り込んだスタイルが特徴でした。また量産車ではHゴムだった戸袋窓、ドア窓はアルミ枠からHゴム化されましたが行き先表示、運行番号窓はアルミ枠のままでした。

当初はモハ90系電車として登場しましたが、1959年の称号改正で101系と改番されました。

101902_050827
大井工場に展示されていた頃のクモハ101-902 2005/8/27 大井工場一般公開の際

試作車の面影はジャンパ栓受け以外に殆どなく見事なまでに量産車と似てしまっています。

編成全車が製造費用の高い動力車でありながら性能を殺して運転するのは非効率であることから、同年11月より順次全電動車編成をやめ中間に2両の付随車を入れることとなりました(8M2T)。

付随車を入れた編成は限流値を350A固定まで引き上げましたが動力車が減ったため起動加速度は全電動車時代と大きくは変わっていませんでした。このとき製造された付随車は将来的に電気設備などが増強された際に容易に電装改造ができるような構造としていたものの、全電動車編成による高加減速高速性能と言う当初の思想は後退することになりました。

中央線の新性能化の後は山手線、京浜東北線への投入が考えられており、これらは8両編成だったので4M4T方式が計画されましたが、試験の結果、主電動機の温度上昇の点で無理との判断が下されました。結局、これらの線区には101系でなくMT比1:1が可能なあらたな通勤車両が適当と考えられ103系の開発に繋がりました。

その間も、101系による通勤輸送増強は続けられ、1959年の主電動機の熱容量試験を受けて8M2Tからさらに付随車の数を増やし6M4Tとして中央線で使用することで車両投入費を抑制することが計画され、1960年末にはこれにより新性能化を完了しました。また、このとき新たに製造された制御車およびMG・CP付きの付随車も1958年に登場した付随車同様、容易に電装改造ができるような構造となっていました。

以上、Wikipediaの記事を参考に101系の技術的革新性と実際に投入して明らかになった問題点を纏めてみました。

私自身は1963年、小学2年の2学期から中央線101系のお世話になっておりました。西武国分寺線の小川から国分寺に出て、国分寺から国立まで通学、1964年12月に荻窪に引っ越し、より中央線とのつきあいが深まりました。

100800
荒れた写真で恐縮ですが低屋根山用800番台のクモハ100 新宿

あの頃の101系の思い出といえば、

・山用スタイルといわれた モハ100 クモハ100の800番台
・モハ90で登場した試作モデルの900番台
・電力回生ブレーキ試験用に登場した910番台 
・基本編成7両化に合わせてMG・CP付きで登場したサハの200番台

などの区分番台の他、

・製造年代によるモデルチェンジ 標識灯、パンタグラフ
・将来の電装化に備えてパンタ台が用意されていたクハサハ100形
・MM'ユニット方式といってもMcM'とMM'cとMM'や山用800番台があったため番号が全く揃っていなかった電動車 
朱色1号の塗色は退色が激しく、時間が経つとオレンジ色からピンク色に変色が目立つ塗装でした。そのためか、Wikipediaの「朱色1号」の記事に書かれているように
”登場当初は「1YR 5.5/9.5」という設定であったが、褪色などの対策のため、少しずつ設定を変更し、1963年ごろに「0.5YR 5.3/8.8」という設定とされ、以後この設定が標準となった。

など小学生の眼から見ても極めて突っ込みどころの多い電車でした。

今回はここまでで、次回は量産車の製造年代と形態の違い等を写真で紹介できればと思います。

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2014年2月15日 (土)

公園保存蒸気を訪ねて~高萩駅周辺の散策

2013年12月23日の天皇誕生日は常磐線を北に向かい、湯本でD51946を観察、続いて高萩で9667を観察致しました。その後、水戸・千波湖畔のD51515を観て、最後に笠間のC58275を観察しました。今回は高萩駅周辺の話題で行きます。

高萩駅は常磐線起点の日暮里駅から162.5kmの場所にあり、ホームは1面、待避や長時間停車できる副本線にはホームが無い駅ですが、折り返す列車は多数設定されています。

その歴史は

1897年2月25日 日本鉄道 磐城線水戸~平間の開通で開業

1906年11月1日 日本鉄道の国有化で国有鉄道の駅に

1926年4月    現在の二代目駅舎に改築

131223
高萩駅西口と駅舎 2013/12/23

1937年10月1日 松原町から高萩町に改称

1954年11月23日 高萩町・松岡町・高岡村・黒前村の一部(福平)・櫛形村の一部(友部の一部)と合併し、高萩市が発足。

1978年10月2日 特急停車駅に

1987年4月1日  国鉄分割民営化により、JR東日本とJR貨物が継承。

2001年3月     貨物列車の発着がなくなる。

2002年3月23日  ダイヤ改正で貨物列車の設定廃止。
                       それまでは本線西側に沿って南下し、日本加工製紙高萩工場へ続く専用線があり、工場で使用する苛性ソーダや液体塩素などの化学薬品輸送が行われていました。

2007年3月18日 ダイヤ改正で常磐線で上野駅を始発・終着とする中距離電車はE531系電車に統一され、同時にグリーン車の営業が開始されました。
運用区間の北限は当駅であり、いわき方面には乗り入れていません。また、Suicaや同時に導入されたグリーン車Suicaシステムの使用範囲は当時の東京近郊区間の北限である日立駅までで、当駅までの延長もなされませんでした。
2008年3月15日 Suicaエリアおよびグリーン車Suicaシステムも当駅まで拡大され、この問題点は解消されました(後に、東京近郊区間とSuicaエリアは2009年3月14日改正でいわき駅まで拡大されました)。

常磐線で上野駅に発着する普通列車で最も遠い発着駅は2007年3月18日改正で当駅となりました。ただし、上野駅まで直通する普通列車は始発・終電を含む朝晩のみです。始発時刻は4時54分、終電の到着は0時12分です。

2011年3月11日 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により、市役所本庁舎及び第2・第3庁舎が大きく破損し崩壊の恐れがあるため、市役所は同月28日より総合福祉センターなど市内の複数の建物に仮移転して業務を行っています。破損した市庁舎は解体する予定とのことです。

産業は常磐炭田の存在によって、明治中期以降は石炭産業が盛んであり、高萩炭鉱、望海炭鉱などの鉱山が開かれていました。しかし、石炭産業の衰退に伴い、木材加工・パルプ加工等に産業の中心はシフトしています。 農業は水稲のほか、肉牛、乳牛、野菜、花などです。海に面しますが漁業は盛んではありません。市内の松久保・手綱等の工業団地には工場が多く立地しています。

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                   長久保赤水の像

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             改正日本輿地路程全図 が示されたプレート

駅西口に出ると当地出身の江戸時代の地理学者 長久保赤水(1717-1801)の像1774年(安永3年)に作成され、1779年に大坂で出版された『改正日本輿地路程全図』のプレートが眼にとまります。

この地図は日本人が出版した日本地図としては初めて経緯線が入った地図で、作成者名から通称『赤水図』と呼ばれています。これ以前に、江戸時代中期頃の地図考証家・森幸安によって描かれた『日本分野図(日本地図)』にも経緯線が入っており、この地図にならって経緯度線を入れて出版したとされています。

『幸安図』にも『赤水図』にも、当時未開拓であった北海道は描かれていません。また、緯線には緯度が記載されていますが、経線には経度は記載されておらず、京都御所を基点に経線が引かれていると考えらています。『幸安図』や後に作成される伊能忠敬の地図なども、京都を基準に経線が引かれている点で共通点が見られます。10里を1寸としているので、縮尺は約130万分の1となります。6色刷で、蝦夷(現在の北海道)や小笠原諸島・沖縄を除く日本全土が示されています。

赤水図は、伊能忠敬の地図より42年前に出版され、明治初期までの約100年間に8版を数えました。伊能の地図はきわめて正確であったが、江戸幕府により厳重に管理されたこともあり、この赤水図が明治初年まで一般に広く使われました。沿岸部のほとんど全てを測量した伊能の地図には劣りますが、20年以上に渡る考証の末、完成した地図は、出版当時としては驚異的な正確さでした。

赤水図は広く出版されたためドイツ国立民族博物館のシーボルト・コレクションや、イギリス議会図書館など海外の博物館等にも多く収蔵されており、当時の欧米において日本を知る資料として活用されていたことが伺われます。

現在、日本と韓国の間で領有紛争となっている竹島が当時の名称「松島」で記されており、日本の領有を裏付ける資料としてしばしば引用されています。

さて、目的の9667号機は駅の東側を走る国道6号線沿いにある高萩勤労青少年ホームにありますが、線路を越える際に高萩駅横の電留線に停まっている車両群を観察することが出来ました。

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高萩電留線で休む651系 K103+K205編成

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E653系 K351編成

この日は、2013年3月の改正で常磐線特急「スーパーひたち」から完全撤退したものの、E657系のSuicaシステム取り付け工事で2013年10月から1年半の予定で「フレッシュひたち」運用に復帰した651系(K103+K205編成)や同じく「フレッシュひたち」から撤退して、一部は羽越線特急「いなほ」に、さらに常磐線臨時列車運用で余生を送るE653系(K351編成)が滞泊していました。

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高萩周辺の観光地を紹介した地図 
高萩関連の観光いばらきの情報はこちら

高萩というと海水浴場というイメージですが、市の85%は山間部で花貫川と関根川の流れによって、美しい渓谷が作り出されているそうです。花貫渓谷や名馬里ヶ淵、海の見えるダムとして知られる花貫ダムは是非機会があれば訪れてみたく思いました。

今回の記事を作成するにあたり、Wikipediaの関連記事等を参考に致しました。

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2014年2月14日 (金)

EF510-500番台 504号機

EF510 500番台シリーズ、今回は504号機です。

川崎重工出場と甲種回送2010年4月26日から27日にかけて行われ、兵庫から吹田(信)までの牽引機は吹田機関区所属のDE10-1192、吹田(信)からの牽引機は、新鶴見機関区所属のEF65-1076だったとのことです。

Ef510504_110203
田端運転所で出発待機する504号機 2011/2/3

Ef510504_110213
冬晴れの朝、栗橋~古河間の中通り踏切に接近する8010列車「カシオペア」 2011/2/13

Ef510504_110108
日暮里を通過する2列車「北斗星」 2011/1/8

Ef510504_110626
トキなしタキのみの編成で我孫子を通過する安中貨物 5388列車 2011/6/26

Ef510504_110215_2
私にとって安中貨物等、常磐線貨物列車の定点撮影ポイントであるひたち野うしく~荒川沖間の妙向寺踏切に接近するかつてのワム八貨物列車96列車 2011/2/15

雪の朝であったので平日でしたが撮影に・・・線路に接近していないため後方が架線柱に被られていますが。

この列車も震災、原発事故による常磐線の普通で今は東北本線経由に。

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2014年2月13日 (木)

485系 「雷鳥」 2003年9月から終焉まで その10 A10編成

最晩年の485系特急「雷鳥」シリーズ、いよいよ最後のA10編成となりました。

編成の構成は

←金沢                 大阪→  
Tc     M'   M    M'  M   T    M'   M    Tsc
324   223 119  81  81  502 610 251 0-2301

485_a10_081211
岸辺の貨物線を通過する回送編成 2008/12/11

編成の向きは逆向きで、本来の金沢よりの先頭車はクハ481-324です。この車両は2013年7月26日の記事でクハ481-300番台の去就を纏めましたが、新製配置が金サワで、「雷鳥」で活躍した後は183系に改造されたグループに属します。

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岸辺を通過するA10編成の特急「雷鳥」 2008/2/25

大阪寄りの先頭車はクロ480-2301でモノクラスで運転されていた「かがやき」にグリーン車を連結するため、クロ480-10021991年1月に吹田工場で再改造した車輌です。

クロ480-1002は特急「北越」の短編成化のために1988年にMG、CP付きのサロ489-1000番台を先頭車化改造したもので、改造に際して種車の後位車端部を台枠ごと切り離して、運転台ブロックを接合し、車端部の車販準備室・車販コーナーを洗面所・和式便所に改装し、車掌室・業務用控室は存置されましたが、1991年の改造では便所の洋式化、車掌室・業務用控室部分の客室化、座席を2+1配列化などクロ481-2300番台と同様の改造がなされました。同車輌は「かがやき」「きらめき」の米原方に組み込まれた後、1997年3月、同列車が廃止された後は「加越」に組み込まれ、2003年7月に同列車が683系化された後は国鉄色化され、「雷鳥」に組み込まれました。2009年9月末に定期運用を離脱し、2010年に廃車となりました。

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2014年2月12日 (水)

西武鉄道 HSCブレーキ化・冷房改造 6 401系 (401F~409F)

西武鉄道赤電からの冷房・ブレーキHSC化改造車輌の話題、今回は1978年度から登場した401系の話題です。

401_7806
池袋線の準急運用に投入された401系 1978/6 所沢

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新宿線の急行運用にも投入された401系 こちらは2+2+4の編成 1978/6 所沢

401系というと、オールドファンには国鉄モハ63形に似た4扉の初代401系を思い起こされる方もいらっしゃると思います。私も、写真は撮っていませんが、初代401系が活躍する姿は見ております。

初代401系は国鉄から土砂崩れ事故で被災大破したモハ63024、三鷹事件の被災車両モハ63057、車両火災によって焼損したモハ63470の3両を下げ受け、1953年3月から翌1954年3月にかけて、西武傘下の復興社所澤車両工場(後の西武所沢車両工場)にて復旧の上順次導入したものでした。これらは制御電動車(モハ)1両・制御車(クハ)2両として復旧し、モハが1両不足したことから、1956年9月に同形態のモハを所沢車両工場で新製し、2両編成2本としました。1958年には空気バネ台車の試用などもありましたが、晩年は国分寺線・上水線などの支線で運用され、最晩年は多摩湖線専用車輌となり、1973年6月に廃車されました。

401-i-7806
保谷の電留線で休む401系+701系+401系編成 1978/6

401の系列番号が空白であったため、701系、801系の冷房改造・ブレーキHSC化改造グループの増結用編成として411系に同様の改造を施したグループが第2代401系と命名されることになりました。

改造に際しては旧クハ1451形も電装されてクモハ401形に編入され、全電動車編成となりました。また、411系当時は電動車の向きが末尾偶数・奇数で異なっていたものを、同改造に際してパンタグラフを搭載する旧クモハ411形を全車偶数向き(池袋・本川越向き)に、旧クハ1451形を全車奇数向き(飯能・西武新宿向き)にそれぞれ統一することとなり、旧クモハ411形(偶)が組み込まれた編成はそのままに、旧クモハ411形(奇)が組み込まれた編成については方向転換が実施されました。

401_7806_2_2
練馬に到着した豊島園行き8両編成 1978/6 
パンタの位置から2+2+4編成 

車体は冷房装置搭載に伴う各部補強に加え、車体塗装の黄色一色塗り化、客用扉のステンレス製無塗装のものへの交換、前面向かって左側幕板部へ行先表示窓を新設、ならびに前面標識灯部へのステンレス製飾り板の新設が実施されています。

前面形状は原形の切妻形状のままであり、同形状の前面を有する車両で車体塗装が黄色一色塗りとされたものは本系列が唯一でした。701系、801系は黄色一色塗りで登場しても101系と形態が似ているので違和感はありませんでしたが、401系は赤電のイメージが強かったので、この形態にこの塗色はかなり違和感がありました。

車内天井部は冷房装置搭載に伴って一新され、冷風風洞の新設に伴う天井の平天井化、車内送風装置のラインデリア化などが施工されています。一方、車内アコモについてはほぼ原形通りとされ、赤灰色系の壁面デコラに茶色系のシートモケットという組み合わせは411系当時のままとされました。

主要機器に関して、主電動機は日立製作所製HS-836-Krbで、中空軸平行カルダン装置と組み合わせて搭載されました。同主電動機は701系列で採用されたHS-836-Frbの改良版で、一時間定格120kWという出力を含めて同一スペックを有し、実際の運用においても両者は何ら区別されることなく混用されました。

主制御器は日立製作所製の電動カム軸式MMC-HT-20A6を採用しました。力行23段(弱め界磁起動1段、直列10段、並列7段、弱め界磁5段)の仕様は701系列で採用されたMMC-HT-20Aと同一であり、本系列もまた発電制動を省略しています。

台車は住友金属工業製のペデスタル式空気バネ台車FS-372を装備しました。同台車は101系の電動車から採用されたダイレクトマウント式空気バネ台車であり、701系列の電動車が装備するコイルバネ台車FS-342と比較して大幅な乗り心地向上が図られました。また、同台車を装備する関係で本系列の歯車比は101系と同一の86:15 (5.73)とされており、歯車比84:15 (5.6)の701系列とは力行特性が若干異なっていました。なお、改造以前に旧クモハ411形が装備していたFS-40台車は551系・571系へ転用され、従来形吊り掛け車の体質改善に寄与しました。

パンタグラフは従前通り工進精工所製KP-62系で変わりませんが、全電動車編成化および冷房化に伴う集電容量増加を加味してクモハ401形偶数車(旧クモハ411形)の後位側(連結面側)にパンタグラフを増設し、1両当たり2基搭載となりました。

冷房装置は101系および701系列で採用実績を有する三菱電機製CU-72系集中式冷房装置を1両当たり1基搭載し、車内側冷風吹き出し口はスポット式となりました。

その他、冷房装置搭載に伴ってMGの大出力化(日立製作所製HG-584Ir、出力110kVA)が実施されましたが、CPは411系当時同様にAK3を1基、それぞれクモハ401形(奇)に搭載しました。

番号と出場年月日は
413-1454 405F 1978年5月25日  
411-1452 401F 1978年5月26日
1451-412 403F 1978年6月28日
1453-414 407F 1978年8月4日
415-1456 409F  1978年9月8日 

第一陣として1978年度上半期に401~409Fの5編成が改造されました。これまでの701系、801系改造編成と外観的に変化した点は、集中式エアコンキセのサイドにランボード板が付いたことでした。車体は411系時代の形態を踏襲しているので、

401F~407F: 701系1次車と同一の仕様を有し、客用扉下部靴摺が縞鋼板仕様であることや、戸袋窓車内側の窓が若干小型であることなどが特徴でした。

409F: 701系2次車で加えられた改良を反映し、客用扉下部靴摺の材質変更、戸袋窓車内側の窓拡大が実施されました。

409Fが出場した後、再び781F, 725F, 729F, 735F, 737F, 739F, 741F, 743F, 745Fの順番で701系の改造編成が出場してきます。次回はこれらの編成について触れます。

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2014年2月11日 (火)

西ベルリンの思い出 Dan-Air London Boeing 737 その1

西ベルリン、テーゲル空港で撮影した旅客機のシリーズ、今回からはDAN AirBoeing 737シリーズについて触れようと思います。

Boeing 737BAの記事でも紹介しましたが、Boeing 707727の技術を受け継いだ1通路、ナローボディータイプの短中距離用ジェット旅客機で1964年に構想が打ち出され、1967年に初飛行し、1968年に初就航しました。-100と200の第1世代, -300, -400, -500のクラシック (第2世代)の後、-600, -700, -800, -900のニュージェネレーション(NG:第3世代)が現在も製造されています。世界で最も多く製造されている旅客機で7700機以上が製造されています。さらに世界で初めて2名乗務が可能となった機体でもあります。

DAN AirのフリートにB737が加わったのは比較的遅く、そのメンバーはブリタニア航空英国航空、ブリティッシュ・エアツアーズ(BAのチャーター部門)、エアー・ヨーロッパやその他のUKの航空会社で数年間飛行した機体でした。ILFC:International Lease Finance Corporationを通じてBoeing社に発注し、登録記号まで用意されていたものの会社の倒産により、就航せずに終わった機体が4機ありました。

Dan_air_boeing_737_fleet_list_2
表1 DAN Airが導入したBoeing 737のフリートリスト 

DAN Air のWEBサイトのデータとBoeing Production Listのデータを元に作成しました。

そしてテーゲル空港で写した-200タイプです。

Gbmdf_cn_22875_ln_917_boeing_7372e7
G-BMDF cn 22875 ln 917 Boeing 737-2E7adv 1989/4/15 TXL 
ガラス越しで撮影しているため反射が写って見苦しい写真ですが。

DAN Airは8機の-200タイプを導入しており、カスタマーコードやProduction Listから前歴をみると、

1) Maersk Air が発注(L9)した機体  OY-API時代の写真はこちら

  <Maersk Air>デンマークの大手海運会社A.P.モラー・マースクが傘下においていた航空会社で1969年創業。2005年にスターリング・ヨーロッパ航空と合併し、スターリング航空として再発足
  余談ですが、こうやって過去のレジで機体の写真を検索すると同じレジが再利用されているケースによくぶつかります。我が国の場合、Wikipediaにも書かれていますが、一部の例外を除いて原則としてレジの再利用は無いようです。そのため、1990年代末期の新レジ体系が導入される直前にはJA8000番台の旅客機のレジでかつて忌み嫌われて飛ばされていたJA8004などのレジが新造機に使われたことがありました。

2)  Britannia 航空が発注(U4)した機体 
   この航空会社に関してはBAの記事を参照
3)  New Zealand航空が発注(19)した機体 
      1978年以降はAir New Zealand
4) Air Floridaが発注(T4)した機体
      <Air Florida> ジミー・カーター政権による、航空規制緩和によってフロリダ州内のローカル航空会社から、全米・欧州に路線を拡大し、急成長しましたが、1982年のエア・フロリダ90便墜落事故をきっかけに利用客が激減し、設立後わずか12年で倒産してしまいました。
   エア・フロリダ90便事故とは、1982年1月13日、ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港)を激しい吹雪のなか離陸した90便(乗員5名乗客74名Boeing 737-222N62AF)が、離陸直後に氷結したポトマック川に架かる橋梁に激突・墜落した航空事故のことで、乗員4名乗客70名、さらに地上の4名が犠牲となりました。ポトマック川の悲劇としてしばしばテレビ等で紹介される事故です。
5) Wien Air Alaskaが発注(10)した機体
   <Wien Air Alaska> 1927年創業のNorthern Consolidated Airlines (NCA) and Wien Alaska Airwaysによる航空会社でアラスカ初、アメリカにおいても最初のグループに入ることで有名な航空会社
6) Arkia Israel 航空が発注(E7)した機体 と多種多様に渡っていることが分かります。
   <Arkia Israel 航空>Sde Dov Airportをベースとするイスラエル第二の航空会社で国内、国際定期便の他、西ヨーロッパへのチャーター便、地中海横断便を運航しています。1949年創業。

これは-300, -400タイプがILFCを介して発注しているのと大きな違いです。

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2014年2月10日 (月)

公園保存蒸気 9667 高萩勤労青少年ホーム

全国の公園等に静態保存されている蒸気機関車を見て歩くシリーズ、今回は常磐線高萩駅から歩いて10分ほどの高萩勤労青少年ホームに保存されている9667号機です。

9667_131223_29
高萩勤労青少年ホームの玄関横に保存されている9667号機 2013/12/23

デフレクターなしの4桁ナンバーです。ホームそばを通っている国道6号線の歩道橋からの望遠撮影です。

9667_131223
大正機の風格を湛えていますが、前照灯はシールドビームです。

9667_131223_4
9600形式は以前にも記述しましたが、狭軌鉄道向け機関車としては従来不可能と信じられてきた巨大なボイラーを、台枠の上に火室を載せてしまうことにより可能にした機関車でした。そのために出力は上がりましたが、ボイラー中心高さは当時の狭軌用蒸気機関車最高の2,591mmとなり、重心位置が非常に高く、小輪径の動輪もあって常用最高速度は65km/hと高速走行は苦手でした。この写真からもその重心の高さが容易に推察できます。

9667_131223_6
キャブ下のランボードと繋がるカーブは1/4円を描いていますが、9600~9617までの18両はSカーブを描いています。1915年(大正4年)川崎造船製のプレートも残っています。

9667_131223_16
9600形式の給水温め器は住山式で、D51などに見られる煙突のそばの丸い筒状のものではなくテンダー前部に温め槽と言われる水槽を仕切り、連絡水管で取水する方式です。

9667_131223_11
後部の様子 ライトは装備されていますがシールドビームライトです。ナンバープレートも付いています。

この機関車の履歴です(沖田祐作氏の機関車表より)

9667      川崎重工兵庫工場=204            1915-09-03 S59.80t1DT(1067)
   車歴;1915-09-03 製造→ 納入;国鉄;9667→1915-09-15 使用開始[中管達1006];中部局→
      1915-11-00 浜松→1923-06-00 敦賀→1927-05-00 糸魚川→1937-03-30 富山→
      1943-10-01 高山→1946-09-23 仙鉄局青森区→1950-08-01 青函局青森区→
      1952-08-05 盛岡局青森区→1971-10-26 廃車;青森→
      保存;茨城県高萩市「勤労青少年ホ- ム」(運動公園=RP330);9667

製造後、浜松に配属となりますが、8年後敦賀を嚆矢として、糸魚川、富山と北陸で働き、高山から青森へと転属し、最後は青函連絡船での入れ換えに活躍しています。

9667_131223_2
トータルで56年1ヶ月働き、走行距離は地球64.9周に相当するそうです。

なお、青函連絡船入れ換えで活躍した9600形の中には右側運転台の機関車がいたことを以前、TADAさまのサイトの掲示板の発言で見た憶えがありましたが、それは函館側の入れ換え機だったようです。

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2014年2月 9日 (日)

EF510-500番台 503号機

EF510 500番台シリーズ、今回は503号機です。

川崎重工出場と甲種回送は2010年4月12日から13日にかけて行われました。牽引機はEF651083号機だったようです。

Ef510503_110703_2
8009列車 「カシオペア」を牽引する503号機 2011/7/3 北浦和

Ef510503_101229
日暮里を通過する「カシオペア」推進回送列車 2010/12/29

雪のため到着が大幅に遅れた日のもので、撮影時刻は12:53と記録されています。

Ef510503_110628_2
さいたま新都心を通過する503号機牽引の2列車「北斗星」 2011/6/28

震災後の運転再開で機関車サイドには復興のステッカーが

Ef510503_110212
我孫子を通過する安中貨物 2011/2/12

今ではタキ15600形式が懐かしいです。 

Ef510503_110110
南流山を通過する1355列車を牽引する503号機 2011/1/10

2010年3月改正のダイヤでは田端操から越谷タまで1355列車の牽引機が折り返して、1657列車として水戸まで走っていました。

思えば2011年の年明けから、3月の震災前までは
まず府中本町で2095列車を撮影、その後カシオペア、北斗星をさいたま新都心などで撮影、武蔵野線でこの1355列車を撮影、そして安中貨物を撮影と一日で4種類の牽引風景を撮影することを数回試みました。

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2014年2月 8日 (土)

485系 「雷鳥」 2003年9月から終焉まで その9 A9編成

最晩年の485系特急「雷鳥」シリーズ、今回はA9編成です。

←金沢                 大阪→  
Tc     M'   M    M'  M   T    M'   M    Tsc
228  244  141  76  76  702 611 252 2303

485_a09_060620
北方貨物線を行く回送A9編成 2006/6/20 新大阪

金沢方の先頭クハは当時はかなり数を減らしていたオリジナルの200番台クハでA1~A10編成でも唯一のクハ481-200でした。

クハ481-2281972年12月24日、川崎重工の製造で新製配置は盛アオ、1978年に金サワに転属し、1982年から大ムコ所属となっています。そして2009年12月2日クハ183-207に改造されています。

485_a09_060618
岸辺を通過するA9編成 2006/6/18

こちらはクロ481-2303クハ481-327からの改造車ですね。後年、クロ183-2709に再改造され、「雷鳥」編成から離脱しました。

モハ485、484-76の電動車ユニットは1972年6月12日、川崎重工の製造で盛アオに新製配置、1978年に仙センに転属、1982年に大ムコに転属しています。

485_a09_080905
芦原温泉に進入するA9編成 2008/9/5

485_a09_080905_2
同編成の後追い

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2014年2月 7日 (金)

西武鉄道 HSCブレーキ化・冷房改造 5 801系 (801F, 803F)

西武鉄道の赤電からの冷房改造・HSCブレーキ化改造のシリーズ、今回は1978年1月、3月に登場した801系の改造編成について触れようと思います。

1975年10月に701系の731Fが登場してから、1ヶ月から2ヶ月おきのペースで4連が14本、6連が3本登場しました。

1978年になってからの1977年度の残る期間にどの編成が登場するのかと思っていたら、登場したのは801系、801Fと803Fでした。

801F  1978年1月14日
803F  1978年3月13日

1801f_7803
801F+803Fで8両編成を組み池袋線で活躍する801系冷改編成 1978/3 所沢

1801f_7803_2
クハ1801 1978/3 所沢

改造内容は701系の4両編成に施工されたものに準じていますが、電動空気圧縮機がAK3からHB-2000CB(定格吐出量2,130L/min)に換装されたほか、既に交換が実施されていた客用扉についてはそのままとされました。

1803f_7802
803F 1978/2 桜台

801系の冷房改造車が登場した頃、101系は窓周りがベージュに塗装されていたのでいくら張り上げ屋根スタイルだからと言っても101系と見間違うことはありませんでした。後年、101系の塗装が簡略化されて黄色一色になったときは驚きましたが。

801_820808
沼袋の通過線をゆく801系冷改編成 急行西武新宿行 1982/8/8

この頃の沼袋は島式ホームで外側に通過線がありました。

801系冷房改造・HSC化2編成が出場した後、1978年度からは401系401F~409Fが登場します。残された805F809Fの3編成が冷房改造されたのは701系、401系の冷房改造車全てが登場した5年後の1983年1月から3月でした。

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2014年2月 6日 (木)

西ベルリンの思い出 Dan-Air London Boeing 727 その2

西ベルリンのテーゲル空港で撮影した旅客機のシリーズ、今回はDAN AirBoeing 727の2回目となります。

Gbkas_b727200_890504_txl
G-BKAG cn 21055 ln 1117 Boeing 727-217adv 1989/5/4 TXL

テーゲル空港の英国系エアラインそろい踏みの写真でDAN AirほかBAの機体も見えます。

以前 追記でご紹介したDAN AirのWEBサイトの情報に基づいてBoeing 727のフリートリストを作ってみました。

Dan_air_boeing_727_fleet_list
表1 DAN AirのBoeing 727 Fleet list

DAN Airは20機のBoeing 727を運航しており、最初はJALもしくは東亜国内航空から購入した-46タイプの機体から始まっています。これらの中には同社にとって象徴的なG-BDANのレジが付与された機体もあるのですが、まさにその機体がテネリフェ島で同社39年の歴史における最大の事故に見舞われています。

ネットで検索するとJAL時代のこれらの機体の写真は多く登録されており、

JA8310 1969/1/1 福岡空港
JA8311 1965/9/12 羽田空港 Kiso 1966/9/13 羽田空港
JA8312  1966/11/1 羽田空港 Tokachi etc
JA8318 1969/1/1 福岡空港 Tama  東亜国内航空 Fuji
この機体は日本国内航空所有のコンベア880 (cn 22-00-45M JA8030 銀座)がJALへのリース中に羽田空港での離陸訓練中に推力を失って墜落した事故で失われたことに対する補償としてJALから東亜国内航空に無償譲渡されました。その機体がDAN Airにおいて不幸な事故に遭遇しているのは非科学的な表現ですが、何か運命の連鎖を感じます。
    
JA8320  1971/12/5 伊丹空港

<DAN Air 1008便事故> 事故に関するレポートはこちらにもBBC製作のドキュメンタリーの映像があります。

1980年4月25日、マンチェスターからTenerife-Norte Los Rodeos Airport (TFN)に向かったDAN Air 1008便(G-BDAN 乗員8名乗客138名)が着陸に向けたアプローチの過程で標高1662mの山腹に激突して乗員乗客全員が死亡した事故、降下の途中でホールディングをリクエストされたものの、そのパターンが公表されたものでは無くCrewが熟知していなかったことも事故の一因と考えられているようです。

JALからの5機に続いてアメリカのNortheast Airlines(以前にPan Namの話題でも登場)が発注し、Delta航空との合併でDelta航空より購入したした機体が1970年代後半に就航しました。

XY-ADR 1975/4 バンコク・ドムアン国際空港

1980年代には当時 デンマークの首都をベースとしていたStering Airlines (現在はアイスランド系資本)が使用していた機体やカナダのCP-Air、シンガポール航空の機体を購入して使用していました。

OY-SBC 1979/8/8 デンマークビルン国際空港
YA-FAW 2000/3 アフガニスタン・シャルジャ空港
      同機はDAN Airからリースバックされ、再度Ariana Afghan Airlinesが運航していた2001年10月にアメリカの爆撃にあってカブール空港で破壊されています。

C-GCPA
C-GCPB
これらは当該サイトの情報ではCP-Airが所有したただ2機の-200型だったそうです。

HC-BIC こちらのサイトではエクアドルの航空事情がスペイン語で紹介されているようでHC-BICに関する記述もあります。

VH-TBK Trans Australia Airlinesが12機発注したBoeing 727のうち5機目の当機のオーストラリアにおける登録からイギリスへの転売までの歴史がこちらのサイトで記述されています。

PH-AHZ  Air Holland時代のスキポール空港での写真が掲載されています。

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2014年2月 5日 (水)

公園保存蒸気を訪ねて~湯本温泉周辺の散策

今回は、前回の記事でご紹介した福島県いわき市、いわき湯本温泉周辺の散策について触れようと思います。

Wikipediaによりますと、日本全国にゆもと、もしくはゆのもと温泉という温泉は

北海道磯谷郡蘭越町にある温泉。ニセコ湯本温泉
岩手県和賀郡西和賀町にある温泉。岩手湯本温泉
岩手県花巻市にある温泉。新湯本温泉
福島県いわき市にある温泉。いわき湯本温泉
福島県岩瀬郡天栄村にある温泉。岩瀬湯本温泉
栃木県那須郡那須町にある温泉。那須湯本温泉
栃木県日光市にある日光湯元温泉
神奈川県足柄下郡箱根町にある温泉。箱根湯本温泉
山口県長門市にある温泉。長門湯本温泉
長崎県壱岐市にある温泉。壱岐湯ノ本温泉

10カ所もあるそうです。

131223_2
湯本駅の下りホームには足湯もありました。 2013/12/23

いわき湯本温泉は、かつては常磐湯本温泉と呼ばれており、湯本の地名は平安時代に遡るそうです。泉質は塩化物泉(含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉)で湧出量は毎分5000リットルとのことです。開湯は奈良時代だそうで古くはこの地を「佐波古」と呼んだそうです。鎌倉時代には「三箱の湯」として
信濃御湯、名取御湯ともに三御湯に数えられているそうです。明治時代に入って石炭採掘が始まると坑内から温泉が多く出水し、1919年には温泉の地表への湧出は止まってしまいました。その後炭鉱側との協議により温泉が復活することができたのは1942年のことでした。

131223_3
駅名標にならぶ湯本、泉、内郷の駅名もなにか日本的な暖かさを感じさせてくれます。

前回の記事でも記述したように石炭産業が斜陽化すると、常磐炭礦(現・常磐興産)会社は石炭産業から観光産業への脱却を図り、1966年には常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)をオープンしました。当時は珍しかった温泉プールやレジャー施設、その中でもフラダンスショーを目玉にした狙いは見事成功し、常磐湯本温泉(現・いわき湯本温泉)の名を一気に高めました。

131223
駅入り口の横には「観光番所」と名付けられた案内所もありました。

駅前から商店街を歩くと銅像が展示してありました。これらは「いわき市の野外彫刻」としてWikipediaにも纏められており、

131223_4
1994年11月1日に設置された黒川晃彦氏による「フルートを吹く少女」
131223_2_2

1998年11月1日に設置された北郷悟氏の作品「遠い国」

131223_3_2
1999年3月27日に設置された北郷悟氏の作品「光の中へ」

など、印象的な作品が展示されています。

131223_5
駅前の商店街を線路に沿って北上し、商店街が切れるところで線路をオーバークロスする道に出ます。線路を渡ってしばらく進むといわき石炭・化石館ほるるがあります。

この跨線橋からのショットも良い感じのカーブで絵になりそうです。常磐線の一刻も早い、全線復旧が待ち遠しいです。

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2014年2月 4日 (火)

EF510-500番台 502号機

EF510 500番台シリーズ、今回は502号機です。

川崎重工出場は2010年1月20日で、武蔵野線内の牽引機はEF65 1058号機でした。

Ef510502_110206_2
栗橋~古河間を行くEF510-502号機牽引のカシオペア 2011/2/6

Ef510502_110110
南浦和を通過する502号機牽引 北斗星 2011/1/10

Ef510502_110218_2

安中貨物を牽引しひたち野うしく~荒川沖間を通過する502号機 2011/2/18

Ef510502_110115_2
南流山を通過する2095列車牽引の502号機 2011/1/15

EF510 500番台のうち、501号機のみが2009年に製造され、502号機以降は2010年製造なんですね。年度でみれば、501、502の2両が2009年度製造で、503号機以降は2010年度製造と言うことになります。

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2014年2月 3日 (月)

485系 「雷鳥」 2003年9月から終焉まで その8 A8編成

最晩年の485系特急「雷鳥」、今回はA8編成です。

←金沢                 大阪→  
Tc      M'   M   M'  M  T     M'   M    Tsc
9-704 314 212 80 80 701 1003 1003 2302

485_a08_060620
東淀川を通過するA8編成 終着大阪もあと僅か 2006/6/20

サハ481-701は前回の記事でご紹介したように不足するサハの補充用にモハ485形を非電装化改造したもので、種車はモハ485-227です。

485_a08_060620_2
A8編成が回送として京都総合運転所に引き上げて行く姿 2006/6/20 高槻

同じ700番台クハでもクハ489-704はオリジナルの300番台非貫通タイプの上野よりクハで、1974年7月15日東急車輌の製造です。クハ489-700番台のうち、-703だけがクロ183-2751に改造されましたが、あとの3両は終生クハ489形として活躍し、-7012005年12月15日、-7022010年9月10日に、-7042010年4月30日に廃車となりました。

モハ485,484-1003の電動車ユニットは車歴を調べると1976年2月18日、日立の製造で特急「つばさ」の1000番台化で秋アキに新製配置されました。1001~1004までが同時期に配置されています。1985年3月10日に1001~1003は大ムコに転属となり、東日本に残る1000番台との運命の別れが起こります。このときに1500番台も転属しますが、1500番台は1986年11月1日の改正で上沼垂に転属したのに対して、1001~1004、1025~1029は大ムコに残り、福知山、金沢への移動を経て、メンバーは徐々に減って行きますが、雷鳥の最後までオリジナルのまま活躍したのは1003,1025, 1029の3ユニットでした。

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2014年2月 2日 (日)

西武鉄道 HSCブレーキ化・冷房改造 4 701系 (765F~783F)

西武の冷房改造、ブレーキHSC化シリーズ、701~705Fの3編成に続いて1976年度に出場したのは765F, 767F, 769F, 771F, 783Fの5本で、4両編成版でした。

701_1765f1767f_7611_2
登場時から初のレモン色4両編成で出場となった767F+769Fの編成 1976/11 練馬

出場年月日はそれぞれ

765F 1976年10月5日
767F 1976年11月12日
769F 1976年12月27日 
771F 1977年2月14日
783F 1977年3月22日  でした。

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新宿線で活躍する779F  1978/3 上石神井

さらに1977年度 775F, 777F, 779F, 773F, 727Fと出場しています。

775F 1977年5月2日
777F 1977年6月16日
779F 1977年7月25日
773F 1977年10月14日
727F 1977年11月26日

これで701系の冷房改造・ブレーキHSC化は一段落となり、この後、1978年1月からは801系が2編成、さらに411系の改造車が出場してきます。

(727編成からマイナーチェンジしたと書きましたが、誤りで401系編成が数本出揃い再び701系の改造が始まった1978年秋の781や725編成からでした)。

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2014年2月 1日 (土)

西ベルリンの思い出 Dan-Air London Boeing 727 その1

西ベルリンのテーゲル空港で撮影した旅客機のシリーズ、今回からDan Air Boeing 727のシリーズとなります。

Gbhne_cn_21676_1417_boeing_7272j4ad
G-BHNE  (cn 21676 1417) Boeing 727-2J4Adv 1989/4/15 TXL

まずは

Dan-Airの歴史から見て行こうとおもいます。

19535、サウスエンド空港をベースとするDouglas DC-3 (G-AMSU) 1機で創業されました。同機は、元々は同空港をベースとし、1952に創業したチャーター航空会社Meredith Air Transportの保有機でした。創業者はDavies and Newman1922以来、ロンドンにおいて船舶の仲介業を営んでいました。Davies and NewmanMeredith Air Transportの資金援助も行っており、同社が経営難に陥った際に、Douglas DC-3を買い取り、さらにサウスエンドと西ベルリン・テンペルホーフ空港との間の6ヶ月間のチャーターフライトの権利も手にしたようです。

Davies and NewmanからDANとし、Dan Air Services Limited 1953521、資本金5000ポンドでスタートしました。Dan Air Londonと胴体に大書されているのはDanish(オランダ)の航空会社と誤解されるのを避けるためだそうです。

包括的ツアーチャーター便、短距離定期便、大西洋横断便、事前予約チャーター便(Advanced Booking Charters)、石油産業サポート飛行を運航し、ロンドン・ガドヴィック空港、西ベルリンテーゲル空港等をハブ空港としました。

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G-BHNE

ガラスが反射して見苦しい写真ですが。

運航機材では、世界最大のコメット(de Havilland Comets)フリートを有し、最後までコメットを運航した会社となりました。その数は1966から197649機でした。もっとも全てが飛行に供されたのではなくスペアとして部品取り役だった機体もありました。198011に最後の1機が引退しています。コメット自身、世界初のジェット旅客機でありながら、相次ぐ空中分解事故で大改修を余儀なくされ、その間にBoeing 707Douglas DC-8といったアメリカ製の第二世代ジェット旅客機が台頭し、多くの航空会社が手放したことで、安価に入手できたこと、さらにBAC1-11-500Boeing 737-200が中古市場に乏しかったことも要因と考えられます。

また、Airspeed AS 57 Ambassadorの最後のオペレーターでもあり、19719Jersey—Gatwick間の定期便で引退しています。

イギリスはBoeing 727のライバル機であったトライデント(Hawker Siddeley Trident)を製造していましたが、Dan-AirBoeing製3発機のイギリス初のオペレーターであり、1973413にかつてJALが導入していたBoeing 727-100タイプ 3機を導入しました。英国航空局の要求に基づいて失速防止装置が装着されていました。1973から1978にかけて独自に発注した8機のB727-100シリーズでは後部胴体両側に非常脱出口が装備され、”stick-pusher”と呼ばれた失速防止装置も装備されました。その費用は一機あたり、10万ポンドでした。

さらにBAC1-11HS-748を運航しました。そして19835にはBAe 146を短距離路線に就航させました。

運航機材をリストすると

Airbus A300 B4

Airspeed Ambassador

Avro York

BAC One-Eleven 200/300/400/500 series

BAe 146-100/300

Boeing 707-320/320C

Boeing 727-100/200 Advanced

Boeing 737-200/200 Advanced/300/400

Bristol Freighter

de Havilland Comet series 4/4B/4C

de Havilland Dove

de Havilland Heron

Douglas DC-3

Douglas DC-4

Douglas DC-7

Handley Page Dart Herald

Hawker Siddeley 748 series 1/2

Nord 262

Piper Apache

Vickers Viscount series 700/800.

DAN AirはBoeing 707, 727, 737を運航しましたが、自社で製造発注した機体は無かったようで、Boeing 社からのカスタマーコードは与えられ無かったようです(あくまで調べた限りですが)。

1989年頃から、経営が悪化し、さらにイギリスのツアー会社の経営一体化の波に乗り遅れたことがひとつの原因となり、もうひとつはフリートが多種多様にわたり、老朽化しAir Europeなどの競争他社に較べ見劣りし、199211British Airwaysに公称1ポンドで売却となり、39年の歴史に幕を降ろしました。

テキストはWikipedia の記事を参考に纏めました。

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