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2014年9月18日 (木)

通勤電車シリーズ 103系 9 東西線乗り入れ用車両 その1 301系

通勤電車103系の歴史を製造順に追っかけているシリーズ、今回は地下鉄東西線乗り入れ用103系1200番台の順番ですが、この車両を語る上で避けて通れないのが国鉄通勤電車最初のアルミ車で登場した301系かと思います。ということで、301系について今回の記事で触れ、次回、103系1200番台について触れようと思います。

301_820130 中野を出発し、東西線に入る301系 1982/1/30

まずは地下鉄東西線の歴史を振り返ってみようと思います。

1917年内務省によって設置された「東京市内外交通調査委員会」が出した答申のひとつに現在の東西線の原型となる池袋~高田馬場~飯田橋~大手町~州崎といった路線計画がありました。1920年に東京鉄道に特許が下付されましたが、1923年の関東大震災の後、工事未着手を理由に特許が抹消され、1925年に東京市が特許を取得したものの、こちらも建設に至らぬまま、1941年に帝都高速度営団に引き継がれました。一方、東陽町~西船橋に相当する区間は戦前に東京成田芝山電気鉄道による免許申請がなされ、1927年に交付されるものの1940年失効となりました。

1946年1月より、戦災復興院での復興計画案のひとつとして地下鉄建設が計画され、12月に「東京復興都市計画鉄道」として5路線が告示となりました。このうちの5号線が「中野~高田馬場~水道橋~大手町~東陽町」とされ、1957年の「都市計画審議会」において「中野~高田馬場~飯田橋~大手町~茅場町~東陽町」となりました。

1962年の都市交通審議会答申第6号において、東京5号線は「中野方面より高田馬場、飯田橋、大手町、茅場町及び東陽町の各方面を経て船橋方面へ向かう路線」として示され、1964年には経由地を浦安・行徳とし、西船橋で総武線と接続するように答申が改訂されました。

1964年10月27日、5号線を東西線と呼ぶことが決まり、12月23日高田馬場~九段下間(4.8km)が開業しました。このときは車両を導入する設備がなかったので、開削工法区間のトンネル天井を開き、地上からクレーンで1両ずつ地下線に下ろして導入しました。春日三球・照代の地下鉄漫才を思い出しますが。

1966年3月16日、中野~高田馬場間(3.9km)開業、九段下~竹橋間(1.0km)開業
1966年4月28日、荻窪駅まで直通運転開始(当初は営団側のみからの片乗り入れ)
1966年10月1日、竹橋~大手町間(1.0km)開通、国鉄301系が投入され、相互直通運転開始。

当時は私は杉並区沓掛町、後の清水3丁目に住んでおり、毎朝荻窪から国立まで電車で通学していましたので、この頃の様子はよく見ていました。荻窪まで地下鉄東西線や中央線緩行電車が来たときはまだ総武線は旧形72系が多く走っていました。

1967年9月14日、大手町~東陽町間(5.1km)開業
1969年3月29日、東陽町~西船橋間(15.0km)開業 全線開業
1969年4月8日、相互乗り入れ区間を三鷹まで延長

地下鉄東西線は最初の開業から4年半で全線開業になりましたが、区間が伸びるたびに地下鉄路線図が改訂され、それを駅で入手するのも当時の楽しみのひとつでした。

301_820130_2 西船橋を出発する三鷹行 301系編成 1982/1/30

さて、国鉄側の乗り入れ車両の301系1966年10月の登場で、
営団5000系に合わせて TcMM'MM'MM'cの7両編成となりました。川崎重工と日本車輌で1966年に5本、1969年に3本製造されており、三鷹電車区に配置されました。国鉄が初めて製作した地下鉄対応の車両であり、アルミニウム合金車体を初めて本格採用した車両でもありました。また空気バネを採用した通勤車としても異色の車両でした。製造所が川崎重工と日本車輌が選定されているのは1962年製造の山陽電鉄2000系の製造経験を持つ川崎重工と1963年北陸鉄道6010系の製造経験を買われてのことでした。

アルミ車体であるが故の特徴として、窓枠の加工の困難さからユニット窓方式になっている点、さらに鉄粉などの異種金属の付着を徹底的に洗い落とす必要性から、雨樋の高さも高く設定されました。

台車はダイレクトマウント式空気バネ台車のDT34, TR204形を履き、103系と較べると乗り心地は大幅に改善されました。空気バネ台車にした理由は車体の軽量化にともなう揺れの軽減目的だそうです。

私も記憶していますが、登場時はアルミ地肌にクリアラッカーを塗り、黄色のテープを側面窓上に配置したスタイルでした。第5編成からは側面窓下にもラインが入り、前面も当初は銀色一色でしたが、窓下に黄色い帯が巻かれ、帯から黄色の板に変化しました。

1981年に輸送力増強のため、7両編成6本から、10両編成4本に組成変更が行われました。
その方法は
編成AB   TcMM'MM'MM'c     を    Tc- -MM'c x2 と MM' MM' x2 に
編成CDに TcMM'c を連結して TcMM'MM'MM'c+TcMM'c 10連2本
MM' を電装解除して T サハ301-101 -102に 
編成EFに  MM'Tと組み込んで10両貫通編成2本に。 MM' 1ユニットが休車に

301_820130_2_2 編成組成変更後の7+3 編成 クハ、クモハの運転機器は撤去され、窓ガラスは塗りつぶされています。  1982/1/30 西船橋

10年後の1991年に再度、10連化が行われており、このときは103系1200番台も交えた変更が行われています。この編成替えでサハ301-103が誕生しています。

301940801 かつてJNRと入っていた表示窓はJRになり、AU712で冷房化された301系 1994/8/1 西荻窪

3019408012 同編成の後追い写真 クモハ300 1994/8/1

1989年に中央総武緩行線に205系が登場し、ステンレス地に黄色の帯であったため、誤乗防止の観点から東西線のラインカラー(青22号)に変更されました。1990年から1992年にかけて、一部の車両を除いて更新工事が施工されました。

301系は1990年にそれまで115系が保持していた単一系列の登場から初廃車までの最長記録23年を更新しました。これは営業区間に踏切が無かったこと、他地域への転属が無かったことが理由と考えられています。

JR東日本の103系を首都圏から一掃する方針の決定により、最終置き換え計画が決定し、後継車のE231系800番台の竣工と交替する形で運用を離脱して行きました。最後は2003年6月10日に定期運用を終了しています。現在もクモハ300-4、1両が大宮総合車両センターで保管され、残存しています。

以上、Wikipediaの該当記事を参考に作成致しました。

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コメント

B767−281様 お早うございます。301系とても懐かしいです。70年頃は月一回九段下の科学技術館のサイエンスクラブと言う科学工作などをする教室に通っていたので、東西線はその際利用していました。103系とはグレードが全くちがい乗り心地は大変よかったです。また外形もモハ90のような角形ベンチレーター付きで、しかも雨樋が少し高くカッコいいなあ、と思っておりました。うっすらと覚えているのは、主電動機の部品のトラブルか何かで、床を突き破って部品がでてきてしまう、というトラブルがあったと思います。勿論そのご克服されましたが、さよなら運転は三鷹〜高尾で行われ、偶然に豊田の近くで目撃し、普段は走っていないところでさよなら運転も何だかな、と思いました。クモハ300−4健在ですか!うれしいです。それではお邪魔いたしました。

B767しゃん、おはようございます(^^)お邪魔致しますm(_ _)m地下鉄東西線に301系…走っていましたいました‼︎3枚目の画像の7+3=10連ですが、先頭車両同士は貫通幌で繋がっているのかな⁉︎

細井忠邦さま、マスダっち1971さま、おはようございます。

マルチレスで恐縮ですが、

わたしも301系が登場した際は、当時の常識では信じられない空気バネ台車に驚いたものでした。そしてその増備が103系1200番台と知って、えらくがっかりしたのを憶えています。東西線ができて、九段下、竹橋などに出かける際はよく利用するようになりましたね。
運転台付き車両のつきあわせた編成は貫通幌で繋がって、中は行き来できたと思います。

B767−281様 おはようございます。こちらに追加コメントさせていただきます。晩年には103系1200番台も10連化され(地上用のサハを組み込み、窓の開き幅を調整)ました。その際301系の5連と103系1200番台の5連というハンパが出現し、稀に両車が併結し10連を組んで運用につくことがありました。因みにその両車は運転台を生かしたまま貫通幌を取り付けておりました。103系1200番だはのちの105系のような顔つきでした。以上追加でした。お邪魔様です。

細井忠邦さま、こんばんは。

大変面白い話題ををありがとうございます。わたしも、301系の晩年は飛行機趣味にメインをおいて、鉄道から遠ざかっていたせいか、身近だった珍編成を取り逃しておりました。
Wikipediaの記事で301系と103系1200番台の5+5編成のことは知りましたが、空気バネ台車とコイルバネ台車の編成、乗り心地の悪さに営団から文句が出たとも書かれていましたね。
おもえば、301系と103系1200番台、極めてローカルな編成ではありましたが、実にいろいろなことがあった編成達でしたね。

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