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2014年12月 1日 (月)

東海道新幹線開業から50年 その6 博多開業以降、1979年頃まで

1975年3月10日、東海道・山陽新幹線はついに博多まで開業しました。

0_791218 0系 小窓車 1979/12/18 博多駅

1964年9月末の東海道新幹線開業に伴う東海道特急全廃のタイミングでは、まだ東京駅にひとりでゆくことすらしなかった時代で、151系特急が消えて行く様は見ることも出来ませんでした。1975年3月は大学1年、鉄道写真を始めて3年目の頃で、今回こそは、この歴史的転換をきちんと記録をしておこうと思い、教養課程Ⅱ学期(冬学期)の試験が終了した後の3月10日までの間で、消えゆく山陽・九州特急を記録する旅を計画しました。それが、拙blogの2012年11月3日からの「関門へ・・・」の一連の記事に纏めた内容でした。

この改正で新幹線のダイヤは5-5ダイヤになり、原則的に12分間隔となりましたが、東京駅のホーム転用工事が間に合わず、時間帯によっては24分の空白時間が生じるダイヤでした。7月18日15番線が完成し、1976年7月1日の長崎・佐世保線電化完成に合わせた東海道・山陽新幹線ダイヤ改正が行われました。

14_741215
1975年3月のダイヤ改正で廃止された14系「あさかぜ2/3号」 客車の向こうに転用中の15番線ホームが見えます。 1974/12/15 東京

このダイヤ改正で
・新大阪以西が各駅停車の広島行き 「Bひかり」が1時間に1本新設
・博多行き「Aひかり」は広島以西が各駅停車に、これにより所要時間が7時間48分から7時間31分に短縮
「Wひかり」と併せて、博多以西への乗り継ぎも改善され、鹿児島が日着圏になりました。
・東京~新大阪間の「ひかり」1往復が新横浜、静岡、米原停車となりました。

この頃の国鉄財政はかなり悪化しており、経営破綻寸前の状態でした。累積赤字解決策として、1976年11月6日に運賃値上げが行われ、運賃、料金とも約50%の値上げとなり、新幹線普通車指定席で東京~大阪間、5510円から8300円に、東京~博多間は9010円から14000円となりました。オイルショック以降の経済低迷期、さらに航空機、自動車の急速な普及で1975年度、61%だった対航空機の国鉄のシェアは、38%までに落ち込みました。

国鉄全体の旅客シェアも20%台となり、1980年4月までに三度の運賃・料金値上げをしたことが追い打ちをかけ、大幅な減量経営を強いられる事態となりました。1980年10月1日改正では、1974年度のピーク時に較べて20%減となった乗客数に応じて、列車運転本数を削減を行いました。利用率の低い「こだま」の削減を行い、その補完で、「ひかり」が熱海と三島の2駅を除く全駅に停車するようになりました。

開業時の1日の運転本数は60往復でしたが、1965年11月には110本、1972年3月には215本と増加し、さらに210km/hの高速運転で車両や路盤への負担は予想以上にかかり、老朽化について検討する必要性が出て来たのがこの頃でした。施設の点検は列車運行休止時間帯の深夜0時から早朝6時までに行われてきましたが、夜間の限られた時間では補修作業が間に合わなくなり、1974年12月11日から1975年2月19日にかけて4回の「臨時総点検」が行われるようになりました。いわゆる、始発から昼まで半日運転(東京~新大阪間)を休んで、徹底的な軌道、架線、設備の点検を行う設定でした。さらに1976年2月25日から1982年1月27日までにも44回に亘って「東海道新幹線若返り工事」が実施されました。

これ以降は深夜時間帯のみで対応できる新しい工法や部材の開発で列車を運休しての工事は行われなくなりました。2013年からは10年計画でトンネル、橋梁などの大規模改修工事が深夜時間帯に行われています。

車両の方は、0系初期車の置き換えに小窓の1000番台車両が登場しました。

22 第22次車として増備された車両 27形、36形の増備はこれで最後になりました。

機構的には以下のような変更がありました。

座席指定表示器の字幕化
発電ブレーキの下限速度の変更(50km/h→30km/h)
主制御器をステップ数を増加したCS46に変更
主抵抗器をMR201に変更
台車を台車枠材質を変更したDT200Aに変更
WN継手をQD251に変更
スカート内部の排障器の材質を鋼製からアルミ製に変更

37_2 1000番台車の登場と37形ビュフェ車組み込み編成

0
ビュフェの部分が縮小され小窓が5枚の37形1000番台 品川

なかでも9号車用に新形式のビュフェ車37形が登場した点が特筆すべき点かと思います。編成番号も、すべて1000番台車で構成される編成(今回は97~99)はN編成、H編成の先頭車が1000番台に置き換えられた編成はNH(Hは小さく)編成、中間車のみ1000番台となったものは従来と同じとなりました。この増備で、1次車99両が初の廃車となり、浜松工場で順次解体されました。

23 第23次車として増備された車両

23次車では客室内に新幹線車両で初の広告枠が取り付けられ、新聞記事にも「聖域がついに」といった記事があったのを思い出します。

24

25 第24次25次車として増備された車両

25次車の増備で1・2次車は全て引退となり、H1~H30編成はNH編成となりました。

26 第26次車として増備された車両

26次車では3~5次車が置き換えられました。1979年3月のダイヤ改正で「こだま」1~8号車が自由席となるため、ビュフェ車2両を含む7編成の変則編成の5・6号車ユニットと9・10号車ユニットの交換も行われました。37形1000番台はビュッフェ部分が狭かったため、27次車からはビュッフェ部分を拡張した1500番台になり、側窓の数も6枚になりました。

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コメント

こんにちは~。モモパパです。
新幹線。
博多開業時は僕5歳でした。
山陽新幹線にはあまり乗ったことがないのですが。
最近は車両も進化してきて0系の面影が残る車両は皆無になりましたね。

こんばんは。

私が始めて乗ったころは、大窓小窓混在だった気がします。一応0系しか無い時代に新幹線に乗ったことがあるというのは何となく嬉しい気がします。

B767−281様 こんにちは。考えてみるとこの頃の新幹線が一番魅力がなかった気がします。恐らく初期車は窓が大きかったこと(言い換えると開口部が大きい)も老朽化を早めた原因かと思います。そこで小窓車の登場となったわけですが、いかんせん眺めが今ひとつだったのはいただけませんでした。またどの増備からか詳しく知りませんが、シートが真ん中から逆は位置で転換できなかったような記憶があります。後ろ向きにたまたま乗って酔ってしまった、と友達から聞いたことがあります。その後100系が登場し、窓が大きく開放的になって良かったです。今でも100系が一番好ましいです。まあN700Aはかなり乗り心地が良いとは思いますが。ではお邪魔致しました。

モモのパパさま、こんばんは。

私も思い返すと新大阪から先はあまり乗ったことがありません。
九州に行くときは殆ど飛行機で、岡山とか広島というのはあまり行っていないのですね。
仰る通り、東北・上越から200系も引退して、0系のスタイルは過去のものになってしまいましたね。

MiOさま、こんばんは。

100系が登場したのが1986年ですから、すでに28年前ですものね。やはり50年という歴史、しかもその間、乗客の死亡事故0は素晴らしい記録です.今後も、それが続くように祈っています。

細井邦忠さま、こんばんは。

よく「貧すれば鈍す」と言いますが、やはり財政が苦しいときは何か暗くなりますね。
開業して15年くらい経って、施設の老朽化も問題となって、その補修と財政難が重なってという時代だったのですね。

ちなみに小窓化は私の記憶では関ヶ原付近を通過する際に落下した雪が石を跳ね上げて窓ガラスが割れる事故が相次いだので、窓ガラスを小さくしたと記憶しています。

いずれにせよ開口部を小さくする意味もあったのかと思います。
その後、インテリアをいろいろといじり出すのは2000番台からで、転換式シートから回転式リクライニングシートにしたものの海側のA~C席は回転できなかったため、集団見合い、もしくは集団離反タイプになりましたね。その辺の話題は次の記事あたりで行くつもりです。

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