1989年のDüsseldorf Airport その24 BA, TAROMのBAC1-11
1989年5月、冷戦下の西ドイツ Duesseldorf空港で撮影した旅客機の話題ですが、今回はイギリスが生み出した短距離用旅客機の中で最も成功したといわれるBAC1-11の話題です。
Duesseldorf空港に着陸するBAのBAC1-11-530FX G-AYOP cn233 1989/5/7
イギリスの航空業界は世界初のジェット旅客機de Havilland Cometをデビューさせたものの、度重なる空中爆発事故でその信用は大きく失われていました。そういった状況においてもジェット機が今後旅客機の主役として活躍するのは間違いない流れと業界は考えていました。
次のターゲットは短距離用のジェット機ということで、フランスではSud Aviation Caravelleが1955年4月21日にロールアウト、5月27日に初飛行をしていました。
1956年7月にBritish European Airways (BEA)は国内の航空機製造メーカーに対して第二世代のジェット旅客機として短距離ジェット機の提案を呼びかけました。それにHunting Aircraftが出した答えがそれまで成功を収めていたターボプロップ機Vickers Viscountの置き換えとして30席仕様のHunting 107でした。同じ時期にVickersはVC10をベースにした140席仕様のVC11を考案しました。他の航空機メーカーもそれぞれ独自の設計を考えていました。
1960年、イギリス政府の圧力により、HuntingはVickers-Armstrongs、Bristol、English Electricと合併することになり、その結果、British Aircfaft Corporation (BAC)が新たに設立され、Huntingの提案した107の案が引き継がれることになりました。しかし30席仕様では市場規模が小さいと考えられたので、59席仕様のBAC107に計画は変更され、エンジンは7000ポンド(31kN)の推力を持つBristol Siddeley BS75 ターボファンエンジンを搭載することとなりました。同時に140席仕様のVC11の計画も継続となりましたが、他の設計、例えばBristol Type 200などはこの時点で破棄されました。
市場調査の結果、59席仕様のBAC107でも小さいということでさらに計画は練り直され、1961年80席仕様のロールスロイスSpeyエンジンを搭載する案が固まり、BAC111と命名されました。この時点で並行して進められていたVC11計画はBAC111計画に集中するため破棄となりました。
BAC111の場合、同時代のHawker Siddeley Tridentとは異なり、英国内の航空会社(BEAやBOAC)のニーズに応えるというスタンスよりも、世界的な需要に応える方向で開発が進んだのが後の成功に繋がったといえます。試験飛行は英国空軍飛行中隊長のDave Glaserによって行われました。
製造のローンチは1961年5月6日 British United Airways (BUA)が10機の-200を発注したことで開始され、
10月20日 Braniff International Airways 6機 後に12機に
1962年7月24日 Mohawk Airlines 4機
Kuwait Airways 3機
Central African Airways 2機
Aer Lingus 4機
Western Airlines 10機 後にキャンセル
Bonanza Air Lines 3機
しかしこのBonanzaの発注に関してはアメリカ民間航空委員会 (CAB: the U.S. Civil Aeronautics Board) から「Bonanza航空のジェット運航には補助金が必要だ」というクレームが出され、発注が抑止されました。CABは同様にFrontier AirlinesとOzark Air Linesの発注も抑止しました。言うなれば自国の航空産業保護のための政治的圧力に他ならないもので、OzarkはDouglas DC-9を、FrontierはBoeing 727-100を発注しました。CABは Mohawk Airlinesの発注も抑止しようとしましたが、こちらはうまく行きませんでした。
1963年5月、BACはSpeyエンジンの推力増強型のMk.511を搭載した-300, -400の開発を発表し、航続距離の延伸がなされました。-300と-400の違いはアビオニクス関連の装備で-400はアメリカでの販路を開拓するためにアメリカ製の計器を搭載しており、これにAmerican Airlinesが反応し、-400を30機、実際に購入し、最大のカスタマーとなりました。
プロトタイプ(G-ASHG)は1963年7月28日にロールアウトし、8月20日に初飛行しました。これはライバル機であるDouglas DC-9よりも1年も早いことでした。しかし、同年10月22日の試験飛行の際にMike Lithgowの操縦した機体は失速試験の最中に墜落し、搭乗者全員が死亡する事態となりました。
事故調査の結果、T型の水平安定版とリアマウントエンジンの形態が失速時の回復を妨げる効果を持っていることが分かり、失速防止装置であるスティックシェイカーやスティックプッシャーが装備されるようになりました。また後部エンジンや水平安定版へ空気をスムーズに流れ込ませるための翼断面の改良もなされました。
この機体はエンジンの騒音を下げるために排気口周辺にハッシュキットを装備しています。それでも当時ブルブルといったエンジン音を轟かせていました。
こういった改良がカスタマーの信頼を勝ち取り、1964年2月にはAmerican Airlines, Braniffなどがオプションを本発注に切り替え、Mohawkからの追加発注、Philippine Airlines、Helmut Hortenからも発注を受け、1964年末には13機がロールアウトしました。1965年1月22日にはBUAに最初の機体であるG-ASJIが納入され、路線就航は4月9日、London Gatwickからイタリアのジェノバに向けてなされました。
1967年には119席仕様の-500、Super One-Elevenが提案されました。主翼前胴体を8ft4in、後部胴体を5ft2in伸張したストレッチタイプで翼端も5ft伸張し、エンジンは最新のMk.512バージョンを搭載しています。この開発にあたり、BEA/BAがcockpitをHawker Siddeley HS.121 Tridentと同じ仕様にして、自動操縦システムの装備、CATIIに対応した自動着陸装置の装備を要求(このバージョンが-510ED)したため、BAC1-11は開発当初、アメリカ製のライバル機に対して1年の先行を持っていましたが、この要求のために1年の遅れとなり、アメリカ市場での地位を失う結果をもたらしたと言われています。
さらに1970年にはオランダのFokker F28 Fellowshipといった競争相手も現れ、それに対抗して-400の胴体と-500の主翼を持った高温、高地用の-475を発表しましたが、10機しか売れず、1977年には静粛性の-670を日本市場に対して示しましたが、採用に至りませんでした。
1966年までに46機がデリバリーされ、1971年までにさらに120機がデリバリーされましたが、この時点で発注は微々たるものとなり、その後1982年までの11年間に35機が英国で細々と製造が続けられました。これだけ長くの間、製造ラインが閉められなかった訳は、BACとしてはロールスロイスが静粛で推力のあるエンジンを開発することを期待していたこと、ルーマニアがBAC1-11の製造全プログラムに興味を示し、ブカレストでの製造を考えていたことからでした。
YR-BCI cn 252 BAC1-11-525FT 1989/5/4 525はBACがRombac用に製造した-500タイプです。
1974年、BACは-700として134席仕様のSpey67エンジン搭載のストレッチトバージョンのローンチを考えていましたが、エンジンの開発がなされず中止となりました。
1977年にはBACはHawker Siddeleyと合併しBritish Aerospace(BAe)となり、CFM-56エンジン搭載の150席仕様の-800が考案されますが設計ステージに進むこともありませんでした。
1979年6月9日、ルーマニア チャウセスク大統領がルーマニアでの1-11ライセンス生産契約にサインして、後に言われるROBAC1-11登場の礎が作られました。
契約においては3機(-500 2機と-475 1機)の完成版1-11の納入とブカレストで最低22機の生産が含まれており、中国や他の発展途上国や東ヨーロッパ諸国へ、80機のルーマニア製1-11の販売が謳われていました。
最初のRombac1-11-561RC (YR-BRA cn 401) は1982年8月27日にロールアウトし、9月18日に初飛行しています。1982年12月29日にTAROMに納入されますが、生産ラインのペースは契約で謳われたものよりも遙かに遅く、1989年までに9機がデリバーされ、10機目と11機目は85%と70%の製造で製造ラインが放棄されました。9機のうち、2機がTAROMに納入され、残りのうち2機はRomaviaに納入され、最後の1機がデリバーされたのは1993年1月1日のことでした。
Rombac生産計画が失敗に終わったのは3つの理由が考えられています、ひとつは当時のルーマニアの国際的な地位と貨幣価値の関係で国外から調達すべき部品の調達がスムーズに進まなかったこと、Rombac1-11のヨーロッパにおける市場予測を見誤ったこと、1-11の騒音や燃費が西側のライバル機に較べて劣っていたことです。
チャウセスク政権崩壊後、ロールスロイスTayエンジンを装備し、グラスコックピットにしたRombac1-11を西側ユーザーに50機リースする計画が持ち上がりましたが、1991年4月に担当のイギリスのリース会社Associated Aerospaceが倒産して計画倒れになりました。さらにこの後、Kiwi International Airlinesが11機の Tayエンジン装備の1-11の確定発注と5機のオプション発注を行いましたが、これも無くなりました。
BAC1-11に関してはDuesselfdorf空港のみならす、ケルン・ボン空港やフランクフルト空港でも撮影しており、日本のテレビでもしばしば紹介されるあのBAの1-11も気がついたら撮影していましたので、後日紹介する予定です。
最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。
« 四方津を再訪 その3 豊田区のM51編成 | トップページ | 西武新101系 その7 時は流れて 2連編 その5 流鉄5000形 5002編成 流星 »
「旅客機」カテゴリの記事
- 2024年1月2日、羽田空港 海保機・日航機衝突事故の中間報告書が公表されました。(2024.12.27)
- 謹賀新年 2024年は初っ端からとんでもないことが連発する年となってしまいました。(2024.01.04)
- 世界で一番多い保有数を誇ったJALのBoeing747 その8 JAL最初の747-200F、JA8123(2023.03.24)
- 公園保存飛行機 亀山公園ますみ児童園 のセスナ170B JA3015(2020.08.19)
- 2019/8/31 久しぶりの成田空港 その8 ロシアの航空会社オーロラ(2019.09.25)
« 四方津を再訪 その3 豊田区のM51編成 | トップページ | 西武新101系 その7 時は流れて 2連編 その5 流鉄5000形 5002編成 流星 »
コメント