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2015年2月28日 (土)

水郡線営業所公開 その5 C61 20号機 part1

2014年11月30日の水郡線営業所公開、最後はこのイベントの目玉であったC6120号機について触れます。

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常陸大子で休むC6120号機 2014/11/30

国鉄蒸気機関車C61形式は戦後、復員兵輸送や買い出し列車などで旅客需要が急増し、一方で終戦による貨物需要の落ち込みで、旅客用機関車は不足し、貨物用機関車は余るといった状況を解決する妙案として、機関車の新規製造はGHQの許可が必要であったので、D51を旅客用に転用改造して生み出された形式です。

あまり状態の良くなかった戦争末期製造のD51を種車として、三菱重工業、日本車輌製造によって33両が改造されました。改造名義といっても流用したのはボイラーと一部の部品で中には殆ど新造に近い機関車もあったそうです。

C61_d51
表1 C61 33両とボイラーを提供したD51の対応関係 Wikipediaを参考に作成

表1のように1947年から1948年にかけて改造され、33両のうち、1~21号機を三菱重工業が、22~33号機を日本車輌製造が担当しました。

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2軸従台車

足回りはC57をベースに設計し、重量増加による軸重を軽減させるため、従輪を設計変更して2軸従台車としました。同時期にD52から改造を進めていたC62形式が労働争議により、完成が遅れたため、C61形式が日本初のハドソン軸配置の機関車として登場することになりました。
常磐線などで使用されたD51にメカニカルストーカーが装備されたという話題がありましたが、このメカニカルストーカーの装備に関してもC61形式が最初となりました。

東北本線、常磐線、奥羽本線、鹿児島本線と、首都圏から離れた地方幹線に配置され、C57形やC60形と共通に運用されることが多かったようですが、ボイラ容量が大きいメリットを生かして、優等列車牽引主体に運用されました。

特に東北本線仙台以北では特急・急行がC61,補機や各停がC60となっていたようです。デビュー当初の客車特急「はつかり」(仙台~青森)、寝台特急「はくつる」(盛岡~青森)、寝台特急「はやぶさ」の九州内など、これらの線区での特急、急行牽引の華々しい歴史に貢献しています。
私は、奥羽北線(秋田~青森)の電化直前、能代を訪問した際にC61,C60の活躍するシーンを見ているのですが、写真には記録していませんでした。

最後まで残ったのは日豊本線で、1974年の宮崎電化の前には殆どが運用を外れ、1975年1月に用途廃止となりました。

保存機は動態保存機として、梅小路の2号機とこの20号機、静態保存機は18号機の前頭部が直方市に動輪が福岡市博多区の出来町公園、19号機が霧島市国分の城山公園に保存されています。

20号機に関していつものように沖田祐作氏の機関車表のデータによりますと、

C6120      三菱重工業三原工場=659           1949-07-31 S78.10t2C2T(1067)
   車歴;1949-07-31 製造(ボイラ=D511094)→ 納入;国鉄;C6120→ 配属[達174];仙台局→
      1949-07-31 竣工→ 配置;青森→1949-08-27 鶴操通過糸崎より仙台へ→
      1949-09-01 現在;青森→1955-08-01 現在;仙台→1964-04-01 現在;仙台→
      青森→1966-12-15 仙台運転所→ 青森→1969-09-12 土崎工場全検→
      1971-09-15 宮崎→1973-08-28 休車→1973-11-18 廃車[工車976];宮崎→
      保存;群馬県伊勢崎市「華蔵寺公園」;C6120

落成後の新製配置は東北で、仙台と青森を行ったり来たりしながら、東北本線全線電化の1年後、九州に移動し、宮崎で宮崎電化の前まで働き、1973年8月28日付けで引退しました。伊勢崎市の華蔵寺公園に静態保存されました。全走行距離は286万9889kmでした。

静態保存期間中も公園管理者やボランティアの方々の努力により、良好な状態が保たれ、キャブも立ち入りが制限されていたため、運転機器類の欠品がなかったのが、復活に繋がったのでしょうか。先日のD51498の記事で触れましたように、D51498号機が2008年12月に小牛田機関区で空焚き事故を起こしてしまい、約9ヶ月間運転が出来ない事態になり、予備機の重要性が認知され、D51とC57の両車の特性を持ったC61に白羽の矢があたり、2009年6月、復元の方針が表明され、同年12月正式な発表となりました。

2010年1月19日、華蔵寺公園から離れ、大宮総合車両センターへ搬送、ボイラーは大阪のサッパボイラーで修復、動輪・車輪は住友金属工業にて整備、新造が行われました。約1年をかけて、修復工事が行われ、2011年1月27日、大宮にて火入れ式が行われ、38年ぶりの復活を遂げました。もっとも、このときの火入れはあくまで儀式で、ボイラー昇圧までは行わなかったそうで、改めて2月16日、完全整備の後、再度火入れを行い、ボイラー昇圧、汽笛吹鳴試験も行われ、2月21日には構内試運転も行われました。3月31日には車籍も復活し、大宮を出場、高崎車両センターへ回送されました。
この期間中に3月11日の東日本大震災が起こっていますが、かつてC571号機が阪神・淡路大震災の時に鷹取工場に入場中で、ジャッキ上から転落、ボイラー等を損傷する事故に見舞われたことがありましたが、電力事情の悪化等で出場に遅れが出たようです。復元行程に関しては高崎支社のサイトに詳細が示されています。

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スノープラウと仙C6120の刻印

復活にあたって重油併燃設備が付加されているのが大きな変化であり、炭水車の水容量の関係から甲板内側に収まりきらずやや上に付きだした形での装着となりました。また東北形重装備としてスノープラウが常備されています。さらにその後部のステップには仙C6120の刻印がはっきり見えます。
客車側から機関車の状態(動輪軸受けの発熱を潤滑油の油温で感知)をモニターできるように、連絡ケーブル用のジャンパ栓(KE-100)も用意されました。現役時代設置されていたメカニカルストーカーは腐食が進んでいたため復元されませんでした。保安装置はATS-PとATS-Psを装備し、首都圏各線に入線可能となっています。

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テンダーの左下隅にジャンパ栓があります。また右下隅のホース接続は給水中?

141130
キャブ下には家庭用石炭の袋が、果たしてこの石炭を燃料として使っているのか、今の若い人にはなじみの薄い、石炭の実物展示の意味だったのか、聞くべきだったのですが、家庭用というところがなんともユーモラスに感じました。

<特徴的な先輪に関して>

C6120号機は引退時には第一先輪がプレートタイプ、第二先輪はC59初期タイプに見られる丸穴ウエップ付き先輪が装着されていたそうです。

これは1963年頃、郡山工場入場中に第二先輪を軸焼けを起こしたC6115に回し、廃車になったC59形の丸穴ウエップ付き先輪を装着して出場し、さらに1969年の土崎工場での全般検査でもC609(C5946)の第二先輪と交換されて出場したからだそうです。

わたしもこの丸穴ウエップ付き先輪というのがいまいち実感がわかなかったので、これまで撮ったC59形の先輪を見比べてみました。

C59_1_041017_2 九州鉄道記念館の1号機 2004/10/17

このタイプが丸穴ウエップ(水かき)付き先輪とわかりました。

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広島こども科学館に保存されているC59161号機 2014/12/18

こちらは第一先輪が丸穴ウエップ付き先輪、第二がプレートタイプ先輪です。

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梅小路機関区のC59164号機 2014/8/10

こちらはは第一先輪がプレートタイプ先輪、第二先輪が丸穴ウエップ付き先輪です。

C61_20_141130_21
そして現在のC6120号機は両方ともプレートタイプです。

静態保存中は第二先輪が丸穴ウエップ付き先輪でしたが、復元工事でプレートタイプと交換されたWeb付き先輪は大宮車両センターに保管されているそうです。

今回は以上です。次回part2では復活後の写真をご紹介いたします。

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2015年2月27日 (金)

東海道新幹線開業から50年 その11 300系の登場 part2

東海道新幹線、開業から半世紀、今回は前回に続いて、300系です。

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偶然、新大阪駅で見かけた J2編成 2005/7/8

1990年に量産先行試作車J0編成が登場し、高速走行試験が実施され、量産化の目処がたった1992年1月から3月にかけて、第1次量産編成としてJ2~J5が落成しました。

1992年3月14日のダイヤ改正からの導入時は早朝・深夜の「のぞみ」2往復と日中の「ひかり」(東京~新大阪)1往復に投入されました。「のぞみ」は東京~新大阪間を2時間30分で結び、料金も別体系の列車としてスタートしました。朝の下り「のぞみ301号」は新横浜に停車した後、名古屋、京都を通過する設定で、名古屋、京都方面からは総スカンの声が上がったのを記憶しています(名古屋とばしと言われ、社会問題化しました)。ダイヤ的には、8-3ダイヤといわれ、「のぞみ」はダイヤの規格外でした。

編成は
←博多
号車 1  2  3   4  5  6  7   8  9  10   11  12  13   14  15  16
       323 325 329 326 325 328 326 315 319  316  325  328  326  325  329  322
       Tc  M1  Tpw M2 M1w Tp M2k M1s Tps  M2s  M1h  Tp  M2w  M1  Tpw  M'c

300系の特徴は2M1Tの3両で1ユニットとなる構成で、博多より先頭車はTcで、この車両はユニットに属さず、以降の15両が5ユニットに分割される構成となっています。こういった3両ユニットはイタリアのETR460やドイツのICE3での採用などの例はありますが、日本では今のところ唯一の例だそうです。

Vr_080817_tampere
イタリアのETR460 Pendrinoの技術をベースにフィンランド国鉄VRが導入した特急ペンドリーノ 2008/8/17 Tampere

Ice_3_090313_gare_de_lest
ICE 3 2009/3/13 Gare de l'Est
TGV高速線の東方延伸で、ドイツからはICE3がパリ東駅に顔を出しました。

グリーン車は315形8号車と319形9号車、316形10号車の3両となり、315形と316形が電動車で主変換装置等を装備し、319形が付随車で主変圧器を搭載しました。設備は316形に車掌室、319形に荷物保管室、業務用室、便所、洗面所となっていました。

300_030329_5
J25編成 2003/3/29 新大阪

300系量産車は試作車に較べて、屋根の高さが50mm高くなりました。前面窓ガラスの形状も変化し、眺望改善から、側窓位置は50mm下げられました。試作車にはあった前頭部の膨らみはなくなり、スカートの分割ラインのパターンも代わりました。帯色も試作車登場時は水色でしたが、量産車は従来の青色20号となりました。

運転台付き車両は博多向きTc325形便所、洗面所付き、東京向きM2c322形でした。

普通車の中間車は
325形で0番台、2,14号車、500番台5号車便所、洗面所付き、700番台、11号車、便所、多目的室、洗面所、車内販売準備室、車椅子対応設備
326形0番台、4号車、400番台、7号車、便所、洗面所、車内販売準備室付き、500番台、13号車、便所、洗面所付き
328形付随車 6,12号車
329形付随車 0番台3号車、500番台15号車 

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東海道線大高駅付近を疾走する300系 2009/3/21

1993年3月18日のダイヤ改正で「のぞみ」毎時1本化(1-7-3ダイヤ)、山陽新幹線での運転に対応するため、1992年9月から1993年3月にかけて、2次車として、10編成(J6~J15)が落成しました。また、JR西日本のF1~F5編成、3000番台もこのとき落成しました。東京~博多間の長距離運転に向けて水タンク容量が増大され、車内騒音低減のため、モータ電流値の変更や防音板の挿入が行われました。
F編成はインテリアを変更して、「都会的なセンス」と「家庭的な暖かみ」の両立をデザインコンセプトにしてJR西日本色を強調したそうです。

300_f5_080906 JR西日本のF5編成 2008/9/6 名古屋

1993年3月10日、J0編成は量産化改造を受け、J1編成になりました。この際に、329形の15号車は329-9002から329-9501に改番されました。

3次 1993年3月から1994年7月 J16~J23  F6~F9 0系置き換え
このロットでは設計変更が行われ、これまでプラグドアを採用していた乗降扉が通常の引き戸に変更されました。

4次 1994年11月から1995年6月 J24~J29 

1995年1月17日の阪神・淡路大震災では高架橋の落下などにより、新大阪~姫路間が長期間にわたって不通となり、4月7日まで山陽新幹線での「のぞみ」の運転が中止されました。

5次 1995年8月から10月 J30~J33
5次車から、乗り心地対策として、6号車319形に設置されていたパンタが省略され、1編成2パンタとなりました。

6次 1996年1月から6月  J34~J37

1996年3月16日の改正で東海道区間における1時間あたりの最大本数が2本に増加されました。

7次  1996年7月から1997年3月 J38~J45

1997年3月22日のダイヤ改正で500系「のぞみ」が登場しました。

8次  1997年5月から1998年3月 J46~J57
        この間に700系先行試作車C1編成 JR西日本は500系 9編成 が製造されました。

300_j61_090404 300系 最終編成のJ61編成 2009/4/4 浜松

9次  1998年7月から1998年3月 J58~J61   
このロットではパンタがシングルアーム式に換わり、カバーの形も変更されました。他の編成も追って変更されました。
(300系の製造年次は、Wikipediaと新幹線車両図鑑などで次数の数え方に違いがあるようで、ここでは後者を参考にしました)。 

2001年には500系、700系が増備され、300系は「のぞみ」から撤退、以降は「ひかり」「こだま」運用に就き、2007年にはJ1編成が引退し、2012年3月のダイヤ改正で、全廃となりました。

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2015年2月26日 (木)

高崎鉄道ふれあいデー その8 スハフ42形 三等緩急車

2014年10月18日の高崎鉄道ふれあいデー、8回目となると取り上げる材料も殆ど尽きているのですが、SLばんえつ物語号客車は以前、新潟の話題で取り上げましたので、今回は”渋く”スハフ42形客車について触れようと思います。

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スハフ42 2234 2014/10/18 高崎

Wikipediaなどにもスハ43系客車として纏められていますが、スハ43系はいわゆる正式な系列名称ではなく、軽量客車10系とそれ以前のオハ35系の間に位置する形式の、趣味的、便宜的な総称としての位置づけのようです。

形式的には

三等車        スハ43、スハ44、スハ45、 オハ46
三等緩急車     スハフ42、スハフ43、スハフ44、 オハフ45
三等荷物合造車  スハニ35
特別二等車     スロ51、スロ53、スロ54
寝台車        スロネ30、マイネ41
食堂車        マシ35、マシ36、
郵便車        オユ40、スユ41、スユ42、スユ43 

が属します。

特急、急行用などといった用途は定められずに長距離列車で使用することを前提に製造されており、わたしも小さい頃から大学の頃の撮影旅行まで、東海道線の急行「雲仙・高千穂」「桜島・高千穂」、羽越線方面の急行「鳥海」、東北本線の急行「八甲田」、奥羽本線の「津軽」などの座席車では必ずご厄介になった憶えがあります。1982年のダイヤ改正まで主要幹線の夜行急行の座席車として活躍した客車でした。

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スハフ42形は基本形の三等車スハ43形の緩急車で、基本番台は1~335まで汽車製造、川崎車輌、新潟鉄工所、日本車輌、近畿車輌、帝国車輌で製造されました。車掌室は、それまでの緩急車と異なり、デッキの外側に配置され、妻面に監視窓が設置されました。暖房は蒸気機関車からスチーム暖房でしたが、電気暖房化された車両は車番に2000が付加されました。因みに台枠形式は基本番台はUF136, 136Aの2種類、400番台は135とのことです(朝日新聞社刊 世界の鉄道’71)。

19両が北海道向けに改造され、500番台となりました。
通勤用にオールロングシート化改造され、オハフ41形200番台になった車両、軽量化改造を受け、オハフ33に編入された車両もいます。さらにスユニ50形に台車を流用された車両もありました。
スハ43形として誕生し、1965年から1966年にかけて緩急車化改造を受けた車両は400番台に符番され、さらに電気暖房の設置で、2400番台になった車両が4両、2401~2404、さらに北海道向けスハフ42 500番台に再改造された車両もいます。

500番台は北海道向けの枝番で、前述のスハフ42基本番台からの改造車、スハフ42 400番台から再改造車、北海道向けスハ43 700番台からの再改造車、オハ35形の改良増備車のスハ42形(オハ35系客車一族)の北海道向け改造車からの再改造車からなります。

さて、今回のスハフ42 2234ですが、1954年7月、日本車輌(本店)製造で製造時は蒸気暖房の234号でした。1962年10月、電気暖房化されて2234号となり、1964年3月、近代化改造、さらに1972年10月、体質改善工事が施工されています。

通常運用時の最終配置は盛モカ(盛岡客貨車区)で、東北本線、黒磯~青森間、常磐線平~仙台間を活躍場所にしていました。

42_2234_141018_12
2014/10/18 高崎
42_2234_141115_6 2014/11/15 尾久

台車はウィングバネ式のTR47形を履いています。

7903_3
現役時代 1979年3月 まだED75700番台が普通列車を牽引していた頃、編成の4,5両目の2両はスハフ42でしょうか。 鶴形~東能代

1975年3月31日現在のスハフ42の配置データ

釧路 2037 2038 66 503 504 506
旭川 2033 2166 502
札幌 2035 325 2404 501 508
室蘭 115
函館  2036 114 257 504 505
一ノ関 2296 2304
盛岡 2028 2031 2034 2046 2047 2049 2067 2069 2126 2155 2164 2165 2199 2200 2221 2222 2233 2234 2242 2243 2244 2245 2246 2247 2248 2250 2252 2253 2261 2292
青森 2083 2084 2085 2133 2135 2144 2145 2186 2187 2294
山形 2192 2241
秋田  2001 2007 2012 2014 2017 2030 2059 2061 2062 2063 2076 2077 2081 2190 2191 2196 2231 2232 2249
弘前 2008 2016 2021 2161 2188 2189 2194 2318 2319
福島 2011 2015 2022 2023 2032 2064 2065 2260 2326 2327 2401
仙台 2009 2010 2132 2134 2271 2283 2284 2320 2321 2322
酒田 2029
高崎 2002 2003 2004 2005 2006 2060 2193
水戸 2063 2172 2173 2175 2264 2265 2290 2293 2306 2307 2308 2329 2330
佐倉 2087 2094 2125
尾久 2048 2050 2051 2052 2053 2054 2055 2056 2057 2058 2070 2071 2073 2074 2086 2088 2089 2090 2091 2092 2124 2127 2128 2129 2130 2142 2143 2159 2160 2201 2202 2262
品川 2167 2174 2195 2223 2224 2225 2259 2291 2328 2402 2403
名古屋 2102 139 2185 2287 2298
金沢 2072 2154 2288
向日町 2044 2045 2104 2106 2122 226 2272
宮原 2254 2255 2299 2305 2309 2316
姫路 2103 2110 2121 2123 2141 2149 2153 2162 2197 2198 2237 2238 2251 2303
竜華 96
福知山 20 2026 140 2150 2151 2152 170 227 2235 2236 270 275 311 312 323 332
米子 228 313
出雲 100 113 310
岡山 19 97 98 99 101 108 109 112 136 137 300
広島 43 80 279
徳山 239
下関 40 41 278
高松 39 78 79 2095 131
門司港 13 24 148 169 266 267 277
門司 301 302
竹下 146 204 212 214 240
鳥栖 213 218 269 273 274 276 295 317 331
早岐 107 120 135 178 181
大分 147 179 182 217 219 289 314
熊本 138 205 206 209 215 216
八代 25 118 168 183 280 281 282 285 334
鹿児島 156 158 176
都城 116 119 157 210 211 220 297     計 337両

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イベント列車として 2009/6/28 レトロ横濱号 4両目 東逗子

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内房線100周年記念号 2012/2/11 木更津

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スハフ42 2173 2012/7/20 ふくしま復興号 郡山

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おいでよ佐原号 2013/2/11 成田線

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2015年2月25日 (水)

尾久車両センター公開 2014 その3 E259系 Ne003編成

2014年11月15日の尾久車両センターの公開、今回は二代目N'EX, Narita ExpressE259系について触れます。

E259_ne003_141115
N'EX E259系 Ne003編成 2014/11/18 尾久車両センター

初代N'EXの253系に代わってE259系がN'EXとして運転を開始したのは2009年10月1日でした。253系がN'EXとして営業を開始したのは1991年3月19日のことで、すでに20年近くが経過し、車両の更新が必要な時期となっていました。また2005年には成田空港のB Runway(16L-34R)の延伸に伴う大型旅客機の発着増も計画され、空港の利用客増が見込まれたこともあり、JR東日本としてはこのタイミングに253系を置き換える新型車両の投入に踏み切ったのだとおもいます。

253系は白:ポーラーホワイト、極地の白、黒:コスミックブラック、宇宙空間、赤:ホリゾンタルカーマイン、地平線に輝く太陽、灰色:ストラトスフィアグレー、成層圏の空の4色を使用し、特徴的な外観と内装を演出していましたが、E259系もその伝統を受け継ぎ、灰色を除く3色で構成されるデザインとなりました。デザイン担当はGKインダストリアルでした。

253系は当初、3両編成で登場し、中間車を増備して、6両編成になって行きましたが、E259系は最初から6両を基本にしました。

←成田空港
号車  6     5     4       3       2      1
クロE259     モハE259 モハE258  モハE259  モハE258    クハE258
  0               500         500              0                 0              0
   Tsc              M            M'              M                M'            T'c

トイレ・  車椅子                           トイレ   
多目的室 対応座席  

車体はアルミニウム合金の中空押出型材を使用したダブルスキン構造(段ボールのように2枚の板の間にトラス状の補強部材を入れて、従来のシングルスキン構造では必要であった骨組みをなくして、外壁のみで強度を保てるようにした構造)とし、型材にカーテンレール様の溝を設け、機器や内装品を直接取り付けています。

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車体幅はE257系と同じですが、室内に車内情報表示器を設置する関係で、通路部分の高さを確保するため105mm高くなり、またプラットホームとの段差を減らすため、253系よりも50mm 床面高さを下げた関係で全体に面長な印象を受けます。

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先頭車はE351系と同様に連結した際に貫通扉を介して、編成間を移動できるように高運転台構造となりました。貫通式高運転台構造とするために、メータ類の配置や視認性を考慮してモックアップが製作され、検討されたそうです。

客室は開放型客室のみとなり、253系で設けられたグリーン個室はなくなりました。照明は蛍光灯の配置を工夫して連続した間接照明としました。座席は2人掛け回転式リクライニングシートとし、AMFMラジオ、あるいは無線LANのアクセスポイント(*)も用意されました。

*(UQ Wi-Fi(UQコミュニケーションズ)、BBモバイルポイント(ソフトバンクテレコム)の2サービスに対応)

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駆動・ブレーキ方式は列車情報管理システムTIMSを経由してインバータ制御装置、ブレーキ制御装置に伝送される方式です。
E531系のMT75モータに冷却用ダクトを付加したMT75Bモータ(定格出力140kW)かご形三相誘導電動機4台を1群として、IGBTを主変換素子とした1台のインバータで制御するVVVF方式で、主回路は2レベル式、歯数比は17:96に設定されています。

制御装置は回生ブレーキを併用した電機指令式空気ブレーキで、常用ブレーキは編成全体のブレーキ力を管理し、制輪子の摩耗を低減、均一化するしくみになっています。さらに勾配線区対応の抑速ブレーキ、降雪時の着雪防止機能をつけた耐雪ブレーキ、保安用の直通予備ブレーキも装備しています。

保安装置はATS-PとATS-SNに対応しています。

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台車は電動台車DT77,付随台車はTR262とTR262A(先頭車後部)で、E257系やE233系の台車を基本としたヨーダンパ付き軸梁式ボルスタレス台車です。TR262Aには転動防止のため駐車ブレーキも付いています。

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Tr262ae259_140524_3
大宮センター公開で展示されていたTR262A台車 2014/5/24 

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車端部妻面には車端ダンパを設け、車両間には車体間ダンパが設置されています。
パンタグラフはE233系のPS33Dシングルアーム式を3号車E259形0番台に1台、5号車のE259形500番台に2台搭載し、5号車の2台のうち、4号車よりの1台は予備としています。折り畳み高さ3980mmとして、中央線狭小トンネルにも入線可能としています。

補助電源は三相交流440V,210kVAの容量のSIVをモハE258形に搭載し、偶数号車にはスクリュー式電動CP MH3124-C1600SN3B形を装備しています。

2009年の運行開始時点では10本が揃い、その後2010年6月までに22編成が製造(担当は東急車輌製造と近畿車輛)、配置されました。現在、全編成が鎌倉車両センターに配置され、成田エクスプレス、臨時列車の「マリンエクスプレス踊り子」などで運用されています。

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正式デビュー前に品川駅で撮影したNe005編成 2009/9/13
当時はまだ前面に編成番号の表記はありませんでした。

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2015年2月24日 (火)

40年ぶりの梅小路蒸気機関車館 7 D50 140号機

先日、梅小路機関車館が京都鉄道博物館開館準備のため、この夏に閉館するというニュースがありました。

こちらは昨年夏、2014年8月10日、台風の接近する猛烈な雨の日でしたが、40年ぶりに訪問した同館の様子をリポートしており、今回はD50 140号機です。

D50_140_140810_2
D50形式は第一次世界大戦の国内の貨物需要の増大に対処するため、特に東海道本線、箱根越えなどにおける輸送単位増大を図るため1916年頃から、9600形式の後継機として、計画された貨物用テンダー機関車でした。

当初は軸配置1E(デカボット)方式も検討されましたが、18900形(後のC51形式)の成功もあって、ミカド方式の従台車付き1D1方式とし、形式名は9900形となりました。鉄道省の小河原藤吉技師を主任設計者として、鉄道省とメーカー各社により共同設計されました。

D50_140_140810_30

川崎造船所が主体となり、汽車製造、日本車輌製造、日立製作所により、1923年から1931年の間に380両が製造されました(1928年10月に称号改正でD50形式に)。しかし折からの昭和恐慌による貨物輸送量の減少により、強力な貨物用機関車の需要が小さくなったため、製造が打ち切られ、以後の増備は改良型のD51形へ移行しました。

ボイラーは3缶構成の広火室加熱式ストレートボイラーで煙管長は18900形の設計を踏襲し、5,500mmとされ、火格子面積は従台車の採用で9600形の1.4倍の3.25平方メートルに拡大し、使用蒸気圧は12.7気圧、給水暖め器を初めて装備し、熱効率の向上を図りました。自動空気ブレーキ採用に伴い,圧縮空気が利用できるようになったため、動力式焚戸口が採用されました。

D50_140_140810_12 140号機は潅水清浄装置が装備されています。

1927年製造の19992号機からは輸入蒸機8200形(後のC52形 アルコ社製)の設計を参考に火室にアーチ管が追加され、煙管の伝熱面積の縮小、加熱面積が拡大され燃焼効率が改善されています。

先台車は1軸心向(リンク)式、従台車は18900形のものに改良を加えたコール式が採用され、動輪径は1,400mmとなりました。当初は機関車本体と炭水車の連結方式や先台車の案内方式に問題があり、分岐器通過の際に脱線事故や第一動輪のフランジ摩耗が頻発したそうですが、後年解決されました。

D50_140_140810_21
この前デッキの長さが検修する側にとっては好都合だったようですが、一方で脱線事故の頻発という欠陥でもありました。

9600形で600tから700tの牽引が限度であったものを一気に950tまで可能にする性能を発揮したため、現場からは好評を博し、量産が進められました。

初期車は登場後、東海道本線山北~沼津間、常磐線田端~水戸間などで使用され、東海道線の特急補機仕業では90km/h以上を出したといわれています。北陸本線、中央本線、信越線など急勾配区間の多い路線ではD51形の製造開始後も動軸重が僅かに重く、空転が発生しにくい同形式が信頼され続けたそうです。
前部のオーバーハングが長かったため、曲線通過性能に難があり、退行運転や推進運転で軽量な2軸貨車などを脱線させることもしばしばあったそうです。
廃車が出始めたのが1955年からで、1965年頃にはほとんどが廃車となり、また2軸従台車に改造されD60となった機関車も現れました。最後まで残ったのは、筑豊本線の石炭列車と大船渡線の貨物列車で、直方機関区の140号機が梅小路に動態保存となりました。

D50_140_140810_5
D50の性能諸元が幹線の貨物牽引定数決定の礎となっており、そこから駅の有効長や鉄道ヤードの規格が決まっており、D50は日本の鉄道の基準を作った機関車といっても過言ではないとのことです。

D51形の大量製造で両数に余剰が生じ、丙線規格区間向けに1951年から1956年にかけて78両が従台車を2軸方式のLT254に振り替えたD60形式が誕生しました。なお、D60形式はシリンダ内径も550mmに縮小し、ボイラの煙管構成も全面的に変更しているそうです。

D50_140_740929             40年前の姿 1974/9/29

なお、保存機はこの140号機と、北海道北見市に保存されている25号機しかありません。D60の保存機は1,27,46,61の4両が山口県、福岡県に保存されています。

最後に沖田祐作氏の機関車表より、140号機の履歴を載せます。

D50140     日立製作所笠戸工場=199          1926-03-20 S78.14t1D1T(1067)
   車歴;1926-03-20 製造→ 納入;国鉄;19939→ 配属[達310];神戸局→1926-03-20 使用開始→
      1926-03-28 配属;梅小路→10927-12-11 糸崎→1928-03-12 岡山→
      1928-05-30 借入;吹田→1928-08-19 返却→1928-10-01 改番[達380];D50140→
      1928-11-25 姫路→1930-10-01 梅小路→1931-12-21 吹田→
      1941-04-12(4/13 着)大里→1941-05-27 借入;鳥栖→1941-06-11 返却→
      1942-10-30(10/31 着)直方→1948-05-05 現在;直方→1952-11-19 借入;出水→
      1953-05-03 発(5/4 着)返却→1955-08-01 現在;直方→1964-04-01 現在;直方→
      1968-10-06 若松→1971-04-30 一休指定→1971-12-31 指定解除→
      1971-12-15 発(12/17 着11/17?)梅小路→1972-01-01 書類上の転属日→
      1972-05-16 借入;直方→1972-09-20(書類上返却日)9/26 発10/1 着返却→
      1979-03-28 廃車;梅小路→ 保存;京都府JR 西日本「梅小路機関車館」;D50140
      (距離=2,440,196㎞)

1926年製造ですから、来年満90年になります。新製配置は梅小路で関西、岡山付近で活躍した後、1941年から九州に渡り、1971年まで筑豊で活躍しています。

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2015年2月23日 (月)

San Diego Lindbergh空港でのSpotting 2 Aloha Airlines

サンディエゴ空港でのSpotting,前回はHawaiian 航空でしたが、今回もホノルルを拠点としたAloha航空です。アロハ航空といえばなんといってもBoeing 737の屋根が一部吹っ飛びながらも無事着陸した243便事故を思い出します。

N739al_boeing_73773a_cn_cn28500_ln4 N739AL Boeing 737-73A cn 28500 ln 414 2008/1/18 SAN

その歴史はHawaiian航空の競争相手として出版家Ruddy F. Tongg, Srがチャーター航空会社Trans-Pacific Airlinesとして.1946年7月26日創業しました。第二次世界大戦の生き残りのDouglas C-47 (DC-3)一機でホノルル~マウイ、~ヒロを結びました。すぐにAloha航空という名前に改名し、4機体制での運航になりました。1949年2月21日には定期航空会社としての免許を取得し、6月6日定期便としての初フライトを行いました。

N739al_boeing_73773a_cn_cn28500_l_2 N739AL 同機がSan Diegoに就航していた頃がAloha Airlinesの絶頂期だったのかも知れません。

1952年にはTPA-The Aloha Airlineと改名し、Convair 340を導入しますが、業績は伸びませんでした。1958年、再びAloha Airlinesに改名し、1959年4月15日Fairchild F-27 turboproを導入し、業績は向上しました。1958年、経営権はHung Wo Chingに移り、1987年には倒産の危機に見舞われますが、同族会社として存続させました。

1961年1月3日、創業以来活躍してきたDC-3がリタイアし、1963年には3機のVickers Viscountを導入し、ピストンからターボプロップ時代になります。さらに1966年4月16日にはBAC One-Elevenを導入し、F-27は1967年6月に、1971年10月にはViscountがリタイアし、ピュアジェット時代になります。その間にBoeing 737-200も2機導入しています。

1984年にはMcDonnell Douglas DC-10-30をリースし、5月28日からホノルル、グアム、台北間にAloha Pacificの名前で運航しますが、Contimental Airlinesとの競争には勝てず、1985年1月12日に運航停止を余儀なくされます。同年、Boeing 737 Quick Changeタイプを導入し、昼は旅客便、 夜は貨物便として活躍します。1986年2月にはホノルルとクリスマス諸島のキリマチを結ぶ便を運航し、世界初のETOPS 737運航航空会社となりました。

N751al_boeing_7377q8_cn_30674_ln151 N751AL Boeing 737-7Q8 cn 30674 ln 1511 2008/1/18 SAN

2000年2月14日、メインテナンスサービスを開始するとともに、ETOPS証明を得た737-700が導入され、ハワイ各都市、ホノルル、カウルイ、コナからオークランドに就航さらに、オレンジカウンティ、サン・ディエゴ、サクラメント、レノ、ラスベガスへと就航します。

しかし2000年代はAloha航空にとっては試練の年代となりました。2001年の9.11、2003年のSARSの流行や燃料費の高騰で経営が悪化し、2004年12月30日、連邦倒産法第11章適用を申請せざるを得なくなります。2008年3月20日、再度、適用申請の事態に陥り、同月31日、全旅客便の運航が停止されました。

*Aloha航空 243便事故*

1988年4月28日、ヒロ国際空港からホノルル国際空港に向かっていたN73711 (Boeing 737-297 cn 20209 ln 152) (機体愛称Queen Liliuokalani)が同日8回目の運航でマウイ島付近高度4000ftを飛行中に機体前方左側の外壁が破れ、与圧空気が流出し、爆発的減圧で前部座席から主翼近くまでの18ftの天井外壁が吹き飛ばされました。この一連の出来事で事件発生現場付近の通路を歩いていたCAのランシングが機体の穴から吸い出され行方不明となりました。

左エンジンの燃料制御ケーブルが破壊され、同エンジンは停止しましたが、幸い油圧系統は破壊されていなかったため、操縦系統は維持されており、マウイ島カフルイ空港に緊急着陸しました。機体の破片や猛烈な風圧を受け、65名が重軽傷を負いましたが、行方不明のCA以外は無事生還しました。

事故原因は機体の老朽化による金属疲労の蓄積、マルチサイトクラックの発生を見逃していたためにクラックが拡大して風船が割れるように機体が破壊したためと公式見解で発表されています。事故機はハワイ諸島内短距離路線に就航しており、事故当時世界で二番目に飛行回数の多い737でした。

実はこの事故の約7年前、1981年8月22日、台湾で起きた遠東航空103便事故、作家の向田邦子さんが犠牲になった事故でもありますが、も非常によく似た原因の事故と考えられています。こちらは、先日、Trans Asia AirwaysATR-72-600が離陸直後にエンジントラブルで墜落した台北・松山空港発高雄行き遠東航空103便Boeing737-222(B-2603 cn19939/151)乗員6名、乗客104名、が離陸後10数分で高度22000ftを巡航中、空中分解し、110名全員が死亡した事故でした。

事故機は1969年製造でUnited Airlinesが使用した後、遠東航空に売却されたまだ新しい機体でしたが、海洋に近い、台湾島内で頻繁に離着陸を繰り返し、塩水の影響で与圧隔壁の腐食が進行しており、貨物室の外板が与圧に耐えられなくなり、破壊が進行して空中分解に至ったと考えられています。事故の2週間前にも与圧が抜けるトラブルを起こしており、応急修理を終えてラインに復帰していました。今こうして、2つの事故を振り返ってみると事故機のLine numberが151と152で続いていることにも驚きを感じます。

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2015年2月22日 (日)

47年振りの東急世田谷線訪問 その1 玉電の歴史

2015年2月7日、まだ玉電が廃止される前の私が小学校時代の1968年以来47年振りに東急世田谷線に乗車して沿線風景を楽しみました。

今回、玉電の記事を書くにあたり、玉電の歴史を勉強し、さらにデハ200形の保存車を見学しに田園都市線宮崎台駅側の「電車とバスの博物館」に先週の土曜日、行ってきました。そこで仕入れた材料を使って今回からの記事を書いてみます。

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電車とバスの博物館に展示されている玉電の歴史のパネル 2015/2/14

玉電、玉川電気鉄道の最初の開通は1907年3月6日、道玄坂上~三軒茶屋間でした。その後、同年中に後に二子玉川園となる玉川までが開通しました。軌間1067mmの狭軌で、

3_150214 電車とバスの博物館 デハ204車内の掲示から

この絵のような電動客車が乗客を運んでいましたが、メインは多摩川の砂利輸送で無蓋貨車も所有していました。1920年には砂利運搬の貨物列車を東京市電に直接乗り入れるため、全線で改軌を行い1372mm軌間となりました。

因みにこの1372mmの軌間は馬車軌道が出自の東京市電、後の都電の軌間として東京ではメジャーで、東京市電との乗り入れをしていた、あるいは考慮していた私鉄、例えば京浜急行が1904年から1933年にかけて、1959年以前の京成電鉄、新京成電鉄1953年から1959年などが採用していました。スコットランドの一部で使用されていた関係からスコッチゲージとも呼ばれているそうです。
現在、日本では、都電荒川線、東急世田谷線、京王線(井の頭線以外)、都営新宿線そして函館市電のみが使用しているマイナーな軌間です。

1_150214_2 電車とバスの博物館 デハ204車内の掲示から

150214_3 電車とバスの博物館 エントランス通路の写真から

150214_2_2 電車とバスの博物館 エントランス通路の写真から

1924年には玉川・砧間の砧線、そして1925年1月18日に三軒茶屋~世田谷駅間が開業しました。そして同年5月1日に下高井戸駅まで延長されました。一方、山手線の内側でも1924年に、渋谷橋~天現寺間、1927年に渋谷橋~中目黒間が開通し、

150214_2 電車とバスの博物館の展示から

上記のような路線が形成されました。後に山手線内の路線と中目黒までの路線は東京市電に編入されました。

1927年、二子橋の建設費用を一部負担し、橋の上に単線併用軌道を敷いて、溝の口まで路線を延ばし、南武鉄道とも接続しました。太平洋戦争中、この二子玉川園~溝の口間は
分離・改軌され、大井町線の一部となり、二子橋は江ノ電の神戸橋、長野電鉄の村山橋、名鉄犬山線の犬山橋などと同じタイプの併用橋となりました。わたしもこの区間は父親が運転する車で家族で横浜に出かけた際に通過したのを憶えています。
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150214_4 電車とバスの博物館 エントランス通路の写真から
1_150214 電車とバスの博物館 デハ204車内の掲示から

1938年3月10日
、玉川電気鉄道は東京横浜電鉄に合併され、玉川線と名前をかえました。その後、東急は目蒲線、池上線の他、京浜急行、京王や小田急も傘下に置く大東急時代になり、終戦後、これらを分離し、東横、目蒲、池上、大井町の各線と玉川線3線の体制となりました。
その後の経済成長、クルマ社会の到来、1964年の東京オリンピックで路面電車廃止に拍車がかかり、国道246号の地下に新玉川線を建設するという計画の元に1969年5月10日、渋谷~二子玉川園間(9.1km)と砧線(2.2km)が廃止となりました。

私が小学校の頃の廃止直前の玉電には、デハ30形(デハ31~39)1927年製、玉電初の鋼製車、デハ40形(デハ41~52)1928~29年製が最古参として頑張っており、これらの車両は玉電廃止とともに廃車解体されました。写真はこちらのサイトに。
そして、デハ60形(デハ61~65)1939年製、デハ70形(デハ71~78)1942~1946年製の2形式は
60_150214 電車とバスの博物館の展示模型

150214_11 電車とバスの博物館 エントランス通路の写真から

形はよく似ておりましたが、60形は玉電廃止ともに廃車、70形は連結二人乗り改造済みであったことが幸いしてか、世田谷線で存続し、1999年に75+76号が新形式300系に改造されて今日も活躍中です。

80_150214 電車とバスの博物館の展示模型

上の写真のデハ80形(デハ81~108)は1950年登場で1953年までに28両製造され、玉電の主力でした。もっとも新造車は81~86号で、87号以降は木造車の鋼体化名義でした。81~86号は世田谷線に継承され、104~107号は87~90号と改番された後、現在の江ノ電に譲渡され601~604号として1990年まで活躍しました。601号は廃車後、里帰りして現在、宮の坂駅脇に展示されています(別記事で報告します)。105号、最終的に江ノ電651号は江ノ電もなか販売店の店先に展示されています。

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江ノ電 江ノ島駅そばの和菓子店 2015/1/3

651_150103 651号の前頭部

83+84号が2000年300系の種車となり、改造され、他の車両も同様に改造されました。
デハ200形に関しては別記事で纏める予定にしており、最後はデハ150形

150_150214 電車とバスの博物館の展示模型

150214_28 電車とバスの博物館 エントランス通路の写真から

玉電最後の新車でデハ151~154の4両が1964年に登場しました。鋼製車体ですが、当時の東急ステンレスカー7000系の雰囲気を漂わす、新風を吹き込んだ車両でしたが、如何せんデハ200形の存在感には圧倒されていた感がありました。玉電廃止後は世田谷線に継承されましたが、他の継承車が機器類の更新を受けて新しくなって行く中、最後には最も旧性能の車両ということになり、2001年初めに引退して行きました。

今回の記事を書くにあたり、ぽこぺんさまのサイトの玉電の項目の内容を大変興味深く拝見し、参考に致しました。またWikipediaの記述も参考にしています。

次回は、保存されているデハ200形デハ204、宮の坂の601号、そして現在の300形といった順番で記事にして行こうと思います。

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2015年2月21日 (土)

西武新101系 その7 時は流れて 2連編 その5 流鉄5000形 5004編成  若葉

流鉄で活躍する元西武鉄道新101系2連、今回は5000形第4編成、三代目「若葉」の話題です。

若葉という愛称が与えられた編成としては三代目になり、

初代は1200形1208編成で1200/1300形の一員として1979年から1987年にかけて西武501系、551系を譲受したもので、

クモハ1200 サハ60  クモハ1200

 1201           61           1202       流星 橙色地白帯 1979/1/31-1999/2/11         
  (515)        (1527)        (516)      
  1203           62           1205       流馬 水色地白帯 1979/9/1-1997/9/9
  (509)        (1509)        (510)
 1206           63           1207       銀河 銀色地橙帯 1980/4/26-1995/11/9
  (523)       (1524)        (524)
  1208     65           1209       若葉   若草地白帯  1981/6/8-1999/6/26 
  (511)       (1511)         (512)

クモハ1200 クハ80

 1210          81                        なの花 黄色地緑帯 1984/11/14-1997/2/3
  (561)   (1658)
クモハ1300 クハ70                    あかぎ  臙脂地白帯 1987/12/24-2001/5/21
 1301          71
  (558)       (1659) 

このように1201から始まる符番でしたが、1204は”死”を忌み嫌ってなのか避けています。

かつて旅客機などの登録記号でもJA8004, JA8304, JA8342, JA8404, JA8504 などが避けられ、JA8000番台が一杯になってきた頃、MD-90やA320がかつて避けられたこれらの登録記号を付けていたことがありました。おなじような現象は台湾の旅客機の登録記号などでも見られます。

因みに後年デハ3450形に改番された東急のモハ510形の場合は「惨事」に通じるという理由で510から565の末尾3が欠番になっていたとか。

3002310232_090607_2
3000形 3002編成の先代「若葉」 2009/6/7 馬橋

二代目は3000形3002編成で西武旧101系131Fを3連化したものでした。
1999年に1200/1300形置き換えのため、旧101系4連のモハ101形偶数車にクハ1101形偶数車の運転台を接合し、先頭車化しました。西武旧101系としては唯一の他事業者への譲渡事例となりました。

クハ30  モハ3100 クモハ3000

31            3101        3001       流星(二代目) 橙色地 N字形白帯
(1135)   (135)   (136)
32            3102        3002       若葉(二代目) 黄緑地 N字形白帯
(1131)       (131)       (132)  

2010年1月20日、全列車2両編成化で、定期運用を離脱し、「若葉」のさよなら運転は2011年5月15日に行われました。尚、元西武701系、801系改造の2000形「明星」「流馬」「青空」「なの花」が同時期に活躍していました。

51045004_130525_2
5000形 5004編成 三代目「若葉」 20013/5/25 馬橋

三代目若葉編成は2012年9月に甲種回送され、営業運転に就いたのは12月3日からでした。

51045004_140716_2
2014/7/16 馬橋

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2015年2月20日 (金)

1989年のDüsseldorf Airport その26 イベリア航空のDC-9

1989年初夏、当時西ドイツDuesseldorf空港で撮影した旅客機の話題、今回はイベリア航空のDC-9の話題です。

Ecbiu_cn_47314_279_mcdonnell_dougla
EC-BIU cn 47314 ln 279 McDonnell Douglas DC-9-32 1989/5/4 DUS

イベリア航空といえばかつて成田にも就航していた航空会社でスペインのフラッグキャリアーでもあります。首都マドリードを本拠地とし、設立はIberia, Compañía Aérea de Transportes として1927年6月27日に世界でもかなり初期に誕生した航空会社です。最初の飛行は同年12月14日でした。操業開始から1年以内にスペイン政府が出資し、マドリード~バルセロナ間の郵便飛行も手がけています。その後、スペイン内戦(Civil war)の時期,航空会社はMiguel Primo de Rivera独裁政権の支配下に置かれますが、1944年9月30日国営化され,内戦で荒廃したスペインの産業を復興させる産業機構(INI:Instituto Nacional de Industria)の一部になりました。
1946年にはDouglas DC-4を使っていち早くヨーロッパと南米、マドリード~ブエノスアイレス間に就航させます。1953年のアメリカとの協定(Pact of Madrid)ではスペインの外交的孤立が解け、 アメリカ国民がビザなしでスペインに入国できるようになり、1954年のモントリオールにおける国際航空博覧会での条文修正によって多くの人々の行き来がチャーターフライトなどによって活性化されました。

1980年代後半から1990年代にかけてスペイン内の他の航空会社、Aviaco, Viva Air, Binter Canarias and Binter Mediterraneoや南米のAerolíneas Argentinas, Viasa や Ladecoと提携することで利益を上げ、1987年にはLufthansa, Air France, SASと協力してAmadeusという発券システムも立ち上げました。1998年11月30日、それまで唯一南回り、ヨーロッパ線を運航していましたが、この日を以て日本路線から撤退しました。

1999年にはBA, Americanなどが主導する航空連合Oneworldのメンバーにもなりました。

2001年4月3日に民営化され、2006年にはMadrid Barajas空港の新ターミナル4がイベリア航空のターミナルとなりました。
2008年7月、BAとの合併計画が発表され,2010年4月に合併し、10月6日からBA, AA, Iberiaによる共同運航の大西洋横断便が就航しました。2011年1月21日、この合併は新たな航空会社連合 International Airlines Group (IAG)へと進みました。

Ecbqu_cn_47447_563_dc932_890507_dus
EC-BQU cn 47447 ln 563 DC-9-32 1989/5/7 DUS

今回は2機のDC-9-32が登場しました。Iberia航空が保有したDC-9のFleetを調べてみると

Iberia_airlines_dc9_fleet
表1 Iberia航空 DC-9 Fleet List Planespotters.netから

上記の表のように最初、-10タイプをオーダーした様ですが、発注を切り替え-30タイプにして、47機使用しています。

Ecbiu
EC-BIUの登録記号を付けたcn 47314の機体はIberia航空から以前,紹介したViva Airに移り、その後は貨物機としてAirbone Expressで活躍し続けました。

Ecbqu
一方、EC-BQUの登録記号を付けたcn 47447の機体はアルゼンチンの航空会社AUSTRALのFleetに加わりましたが、2000年にリタイアしています。
どちらもイベリア航空在籍当時はCiudad(City)の名前が愛称として付けられていました。

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2015年2月19日 (木)

四方津を再訪 その5 長ナノ 211系 N編成 3連

2014年12月6日の中央線四方津訪問の際に撮影した車両のシリーズです。

今回は、長らく活躍してきた115系に代わって活躍を始めた211系編成の話題です。

211_n317_141206_3
信州色の帯を締めて活躍を開始した元高崎B1編成からのN317編成 2014/12/6 四方津

211_n317_141206_6
中間のモハ210は1000番台のトップナンバー

思えば、211系に関しては東海道系の0番台、2000番台、高崎・宇都宮系の1000番台、3000番台については未だ拙blogにおいて触れていませんが、今回の記事ではそれらの転用先となった長野総合車両センターの編成について触れようと思います。

211_2 表1 登場時から2006年のG車組込みまでの編成表 1000番台クロスシート車がB編成、3000番台ロングシート車がA編成 車両番号と編成番号の関係も極めてシンプルでした。

211g 表2 2006年G車組み込みに伴う組換え B編成は変化がありませんが、A編成からC編成が構成され、編成番号と車両番号の構成は規則性がなくなり、さらにG車の構成の違いでC編成は3つのグループになりました。

211系の長野地区への投入は、2006年3月、高崎・宇都宮線で使用される車両のグリーン車連結率を100%にする決定に端を発しています。このために同年7月までにE231系110両が新製投入され、211系3000番台のグリーン車非連結の5両編成22本が余剰となり、14本(70両)は塩害等で腐食が進んでいた房総地区の113系置き換え用として幕張車両センターに転用され、40両は高崎・宇都宮線の輸送力増強用に振り向けられました。

転用された211系は大宮総合車両センターで前面種別表示器をLEDから幕式に変更され(一部の車両)、車体帯色を黄色に薄い青の「房総色」になり、2006年8月以降、順次出場しました。編成番号はマリ401~414と符番され、2006年10月21日から運用に就きました。

2007年11月から集電効率を上げる目的でパンタを2基にする増設工事(PS35C 201系の廃車発生品)が行われ、この工事が行われたマリ402~408, 410編成は編成番号がマリ501~508に変更され、マリ409, 411~414 編成は404~408編成に変更されました。さらに2008年2月からは半自動扉スイッチをE233系タイプに交換する工事も行われました。

211_3 千マリ時代の211系3000番台の編成表 2012年冬期のジェー・アール・アールの編成表データから

14編成の211系3000番台での房総地区での活躍はその後の京浜東北線のE233系1000番台投入による、209系余剰車改造209系2000番台、2100番台の房総地区投入で,2013年3月16日のダイヤ改正をもって終了することとなりました。

これらの211系3000番台の再就職先となったのが、長野の115系N編成の後継で、まず最初に2012年6月頃から、N304、N305編成として、5両編成からサハ2両を除いた3両編成が転属し、房総地区のスタイルのまま、試運転や乗務員の訓練運転が開始されました。2013年1月にはN301編成の改造工事が終了し、信州帯の211系の登場となりました。2013年3月15日にはダイヤ改正に先駆けて大糸線での営業運転に投入されました。

転用改造の内容は

・暖房の強化
・PS33E形パンタ(低断面トンネル用)に交換
・車体帯の交換
・運転台側台車にニュージェット、セラミック噴射装置取り付け
・保安装置をATS-P/ATS-Psに変更
・PS35Cパンタの撤去(N330番台N331~N339)←元マリ501~509

元マリ401, 405, 406, 407, 408 →N301, N302, N303, N304, N305

でした。14編成すべてにおいて転用改造工事が終了し、運用に就き、2014年3月のダイヤ改正からは松本~甲府・岡谷~辰野~飯田・塩尻~中津川と運用区間を拡大しています。

2113000_401_090815
N301編成になった元マリ401編成 2009/8/15 成東

2113000_501_091015_2
N331編成になった元マリ501編成 2009/10/15 成田

そして2015年3月14日のダイヤ改正における上野・東京ライン開業の準備として2011年度からE233系3000番台の増備が再開され、田町車両センターの211系は2012年4月23日を以て運用が終了となり、高崎車両センターの車両も2013年3月15日を以て、宇都宮線上野口の運用が終了、2014年3月14日を以て、高崎線での定期運用も終了となり、現在は両毛線での運用のみとなりました。

幕張の211系の転用に加えて、田町、高崎の211系全てが転用に関係しており、さらに長野センター配給から、疎開、長野、大宮、秋田などの改造へ至る過程を追ってみると、なんで廃車解体されてしまう車両が疎開していたのかという疑問にも突き当たる今回の一連の大移動であるようにも感じます。

田町車両センター 
10連
(セミクロスシート車)
  0番台 N1~N6
(ロングシート車)      
2000番台 N21~N26  N31 N32
 5連
2000番台 N51~N64

10両編成からG車とサハ2両を除いた6両編成0番台5本が転属 (元N4のみ未)
    → N601・N602・N603・N605・N606編成
さらに2000番台10両編成からG車とサハ2両を除いた6両編成0番台4本が転属 
    → N607・N609・N611・N612編成
いずれ残っている編成も改造されて編成番号がきれいに揃うものと思われます。

211_n63_120721
2012/7/21 福島駅で見かけた疎開中の元チタN63編成と思われる編成(編成札はN63と読み取れ、クハ211-2020も見えます)。 同編成は約1年後に解体されており、果たしてこの疎開は何だったんだろうと思います。

高崎車両センター

(ロングシート車)
 5連 3000番台  A
10連 3000番台  C
→ N306, N307, N308, N309, N310, N311, N312, N313, N314, N315, N316
(セミクロスシート車)
 5連 1000番台  B1~B11の各編成 からサハ2両が抜かれた33両がN317~N327編成に

Acvsn 表3 これまでに出場しているN300番台編成とその元となった元タカA,C編成の対応関係

211_b1_070520_2
在りし日のB1編成 2007/5/20 黒磯

211_b1_110628
5連から3連化の過程で廃車となってしまったサハ211-1001 2007/5/20 黒磯

211_130809

再掲ですが、2013/8に酒田を訪問した際にも211系の疎開を見ています。時期と経緯から調べてみるとC2,C10編成だったのかと思われます。

211_n318_141206
N317編成の併結相手は元B2のN318編成でした。

2111009_140524_3

2014年5月の大宮総合車両センター公開の際にも元B9編成(クモハ211-1009)が信州版に転用改造されている姿が展示されていました。 2014/5/24 大宮総合車両センター

本記事を作成するにあたり、長野総合車両センター所属車両さまのサイト、4号車の5号車よりさまのサイトとWikipediaの記述を参考にいたしました。

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2015年2月18日 (水)

通勤電車シリーズ 103系 20 青梅・五日市線の103系 part1

青梅・五日市線は首都圏の通勤路線でも中央快速線とは一線を画しており、昭和50年代に入ってもクモハ4072系などの旧形車が活躍していました。

40
103系が投入されて間もない頃、青梅線では72系4連にクモハ40を増結した旧形車5連が走っていました。 拝島

101系が間合い運用で活躍していた時期もありましたが、新性能電車として103系が初めて投入されたのは1976年のことで、京浜東北線の運用を受け持っていた浦和、東十条、蒲田電車区のATC対応・冷房車投入で捻出された車両が豊田区にやって来ました。

103_5
103_6
上と同じ場所で103系スカイブルー4連を

最初の移動でMcM'TT'cの4連9本、36両が配置されています。京浜東北線で活躍していた7+3編成の7両基本編成からMM'Tを除いた4連でした。塗色はスカイブルーのままでオレンジ・バーミリオンになるにはかなり時間を要したとのことです。

103_3_2
拝島を発車する青梅線方面 この頃は拝島で石灰石輸送の貨物列車が入れ換えを行っており、ED16, EF13, EF15などの姿もありました。

1977年には基本4連に付属3連も加わり、それぞれ4本の28両が同じく京浜東北線から転属しており、このとき試作の900番台も移動しました。

クハ103-900番台(901~904)の履歴 1963.3.25 日本車両で製造後、池袋区に初代クハ103-1~4として配置
901
1964.3.31 改番1967.2.28量改1967.10.31シナ1971.4.20モセ1973.4.6ウラ1977.9.21トタ
902
1964.3.31 改番1967.2.9量改1967.10.31シナ1971.4.20モセ1973.4.8ウラ1974.7.4カマ1978.3.24トタ
903
1964.3.31 改番1967.2.17量改1967.10.31シナ1971.4.20モセ1973.4.9ウラ1977.9.21トタ
904
1964.3.31 改番1967.3.7量改1967.10.31シナ1971.4.20モセ1973.4.9ウラ1974.7.6カマ1978.3.8トタ

モハユニット901, 902は山手線に留まり、最後は埼京線川越区に転属して廃車を迎えております。

103
いまも基本構造は変わらない拝島駅の五日市線ホームで出発を待つ103系4連

103_2_2
同じ日の撮影と思いますが、オレンジ・バーミリオンに塗り替えられた103系も登場していました。

1978年2月から3月にかけて五日市線に残っていた旧形車(クモハ40+72系4連)置き換えに19両、内訳はMcM'MM'T'c3本とMcM'MM')が転入し、完全新性能化が実現しました。3月29日に旧形車のお別れ運転が行われました。

101_103_830219
青梅線奥多摩行きは101系、五日市線は103系 1983/2/19 拝島

1979年4月1日時点での豊田区の青梅線103系の配置データによると、

Mc   M'   T   T'c          Tc   M    M'   Tc                大井工場入場中
103 102 103 103           103 103  102 103       Mc   M'   T
25  110  164  902             53    4     4     54                103 102 103
39  131   96  564            Mc  M'   M   M'  T'c             40  133 114
51  149  75   550           103 102 103 102 103            29   116
63  168 103  506             50 148  137 252  585
92  212 147  549             65 171  127 232  542
107 234 179  588             91 210    90 124  505
112 244 187  565            102 227  119 208  566
  9   82  73   537            Mc  M'  T'c
70  179  68  904            103 102 103
71  180 175 571              19   98  595
                                      68 176 584
                                    103  228 901                 青字はスカイブルー塗装車

冷房車の登場は1980年のことで、改造冷房車でした。1985年3月のダイヤ改正で5連を6連化する際に、非冷房サハ101形をジャンパ連結器をKE70に、さらに貫通幌を交換しただけの改造でサハ103-750番台続番として組み込みました。

サハ101-115, 116, 127, 128  → サハ103-773~776

773 1984.12.19 大井 トタ 1990.2.3 廃車
774 1985.2.28  大井 トタ 1986.10.21 ナハ 1988.2.26 マト  1990.1.13 廃車
775 1985.1.31  大井 トタ 1988.12大宮冷改 1991.9.10 廃車
776 1985.3.27 大井 トタ 1990.10.1 廃車

マトに転属した774は元101系車輌としては唯一のエメラルドグリーン塗装経験車になったとか。

103_3
首都圏のオレンジバーミリオンのクモハ103も中央快速線同様、103系の登場からかなり経ってのことでした。

1986年3月3日の改正では6連運用が武蔵野線と共通化されたため、101系1000番台がこちらを走ることもありました。さらに津田沼区との差し替えでTcMM'Tc編成も登場しました。

7月から9月にかけて仙石線72系970番台103系3000番台に改造した際に保留車となっていたモハ72形奇数車5両をサハ103-3000番台に改造し、1986年11月の改正で3連5本を4連化しました。まさに国鉄末期の「動ける車両は極力使え」と云った方針の反映かと思います。

モハ72971, 973, 975, 977, 979 → サハ103-3001~3005

3001 1986.3.31 大井 トタ 1990.5冷改 ヤテ 1995.9.26 ハエ 2004.10.8 廃車
3002 1986.8.18 大井 トタ 1990.8冷改 トタ 1996.2.24 ハエ 2005.2.25 廃車
3003 1986.8.18 大井 トタ 1990.8冷改 ヤテ 1995.9.26 ハエ 2005.10.18 廃車
3004 1986.10.15 大井 トタ 1990.5冷改 ウラ 1996.2.24 ハエ 2003.12.3 廃車
3005 1986.10.15 大井 トタ 1990.4冷改 トタ 1996.2.24 ハエ 2004.11.13 廃車

1032      
       軍畑?

201系の時代を経て、E233系が投入された今日でも中央快速線の乗り入れ運用車と、専用の青編成が存在する青梅・五日市線ですが、先日の中央快速線グリーン車連結12両化のニュースで、さらにこれから動きがあるのではないでしょうか。

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2015年2月17日 (火)

San Diego Trolley 1000形 part2

このシリーズではアメリカ・カリフォルニア州サン・ディエゴのトローリーを紹介しています。なかでも1981年の開業時から活躍し続け、今年1月にその運用が終了した1000形(本当にこの形式名が正しいのかは分かりませんが)、1000番台の番号を付けた車両の写真を最初に紹介しています。今回はその2回目です。

前回は1009号車まででしたが、1010,1011は撮り逃がしているので、1012号車からです。

1012_070114_std2
2007/1/14 Santa Fe Depotにて

1012_090114_std
1012号車は広告で電車にもなりました。 2009/1/14 America Plaza

1013_090114_america_plaza
1013号車 2009/1/14 America Plaza
同じ頃、1013号も同じカラーをベースにした広告電車になっていました。」

1013_150110_12th_imperial_tc
その1013号は今年見たときも広告電車でしたが、装いは全く異なりました。 2015/1/10

1016_040114_5th_street
1016号車 2004/1/14 5th Street

1017_150112_12th_imperial_tc3
1017号車 2015/1/12 もはやただ休むだけの状態だったのかも知れません。

1021_080116_san_ysidro_tc2
1021号車 メキシコ国境に近い San Ysidoro TC 2008/1/16

1022_050119_5th_str2
1022号車 2005/1/19 5th Street

今回は以上です。

今年、多くの1000形が12th & Imperial TC側の車庫に留置されていましたが,遠目に見た感じでは外板の痛み等はそれほど目立たずまだまだ第二の職場で働ける気がしました。

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2015年2月16日 (月)

広島・四国西南部旅行 広島編 その3 広島電鉄 part 1

2014年12月18日から23日にかけて広島から、四国西部を旅行しましたが、今回からは広島電鉄について触れようと思います。

1401218
現在の広島電鉄の路線図 2014/12/18 広島駅前で入手したパンフレットから

広島の路面電車は現在、日本一の規模を誇りますが、そのスタートは1909年秋、広島電気軌道が軌道敷設申請を広島県に提出したのが始まりでした。翌1910年6月18日広島電気軌道が設立されました。1912年11月23日、電車による営業が開始されました。1922年8月22日、宮島線(己斐 - 草津間)が開業しました。
原爆投下で全線不通になりましたが、3日後の8月9日には一部区間で運行が再開されました。1963年9月1日、自動車の増加で軌道内に車両乗り入れが許可されましたが、1971年12月1日、公安委員会により軌道敷内自動車乗り入れ禁止実施が施行されました。

複雑な路線構成ですが、軌道線は以下の6路線から構成されており、19km、鉄道線1路線(宮島線)、16.1km、総延長35.1km、軌間1435mm、直流600V電化方式となっています。

軌道線
本線      5.5km 広島駅~広電西広島
宇品線     5.7km  紙屋町~広島港
江波線     2.6km  土橋~江波
横川線    1.4km   十日市町~横川駅
皆実線         2.5km   的場町~皆実町6丁目
白島線    1.2km   白島~八丁堀

車両は連接車と単車があり、連接車は1系統(広島駅~紙屋町東~広島港)、2系統(広島駅~広電宮島口)に投入されており、3系統(広電西広島~宇品二丁目、広島港)、5系統(広島駅~比治山下~広島港)、6系統(広島駅~江波)、7系統(横川駅~広電本社前)、8系統(横川駅~江波)、9系統(江波~土橋~八丁堀~白島)は単車で運行されています。

現行の運賃は市内線が大人160円、均一制(白島線のみの場合は110円)、宮島線は区間制となっています。
1401218_2
運賃は後払い制で降車時に支払います。上のような一日乗車券もあり、電車一日の場合は路面電車(市内線、宮島線)に乗り放題で600円です。さらに宮島松大汽船に乗れる一日乗車乗船券もあります。
次回から、車両を紹介してゆきます。

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2015年2月15日 (日)

公園保存蒸機 C56 110 草加氷川児童公園

日本全国の公園等に保存されている蒸気機関車を観て歩くシリーズ、今回は草加市に保存されているC56110号機です。

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訪問したのは2014年7月16日でしたが、外板はかなり痛んでいました。

保存機関車のデータベースを調べてみるとC56形式は全国に22両保存されており、大井川鉄道の44号機と梅小路の160号機が動態保存されており、あとの20両は静態保存です。

関東に保存されているのは靖国神社の31号機、草加の110号機、普段は非公開の横浜の139号機の3両です。ポニーの愛称でも有名になった主たる活躍の場だった小海線周辺の中部地方が96号機、101号機、124号機、126号機、129号機、144号機、149号機、150号機と多く、あとは関西、中国、九州に数両ずつとなっています。

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キャブの窓にはガラスの破損防止のためか、大きなつらら切りが付いておりましたが、保存機にはそのガラスがありませんでした。

110号機の履歴を沖田祐作氏の機関車表データで調べて見ると

C56110     三菱重工業神戸造船所=210          1937-09-30 S37.60t1CT(1067)
   車歴;1937-09-30 製造→ 納入;国鉄;C56110→ 配属[達1024];神戸局→
      1937-09-30 使用開始→ 配置;神戸局→1944-03-31 現在;木次→
      1946-12-31 現在;木次→1955-08-01 現在;木次→1961-00-00 現在;浜田→
      1964-03-31 現在;木次→1965-00-00 現在;木次→1971-00-00 現在;浜田→
      1972-12-19 廃車;浜田→
      1973-03-16 保存;埼玉県草加市氷川町「氷川神社児童公園」;C56110

1937年三菱重工神戸造船所の製造で、新製配置は神戸局管内、長らく木次線で活躍し1972年浜田で廃車となっています。小海線とは全く縁の無かった機関車のようです。

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特徴的なテンダーの切りかきも見ることが出来ますが、フェンスが近すぎるのが残念です。

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氷川神社の門前に公園はあり、一段高い場所に機関車は保存されています。

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説明板は大変情報量が多く、丁寧に書かれているのですが、かなり傷んでいます。

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2015年2月14日 (土)

水郡線営業所公開 その4 マルチプルタイタンパー

2014年11月30日の水郡線営業所の公開、今回はマルチプルタイタンパーの話題です。

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東鉄工業 4007号機 2014/11/30 常陸大子

通称、「マルタイ」と呼ばれている保線用機械で、鉄道イベントでは数多く展示され、その作業風景の実演も観られることがありますが、水郡線営業所の公開では、車内の見学もありました。

展示されていたのは東鉄工業の機械で4007号機でした。

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車内に入ると同社のマルタイ更新の歩みが紹介されており、2005年から2011年までに導入された機械の写真が示されていました。

東鉄工業は鉄道の輸送力確保を目的として,鉄道省の指示で1943年に国策会社として設立された会社で、戦後は鉄道以外の事業にも進出しています。

線路事業ではJR東日本管内の線路メンテナンスの約3割を担っており、メンテナンスのみならず新幹線、高速道路、マンションなどの工事でも施工実績を持っています。2012年3月末時点でマルタイは16台保有しています。

機械を製造しているのはオーストリアのプラッサー&トイラー(Plasser & Theurer)社で本社はウィーンに工場はリンツにあります。こちらは1953年に設立された会社で創業当時は9人のスタッフだったそうですが、現在は世界104カ国に輸出実績を持っています。

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操作盤 モニター画面で確認しながら,ハンドルやペダルを操作する方式でした。

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オーストリア製の機械でも表示はドイツ語ではなく、すべて日本語表記になっており、線路幅も日本の狭軌に対応したものになっているのかと思います。

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なんといっても一番凄かったのが、実際にバラストを踏み固める操作を目視とカメラからの画像を確認しながら進められる点でした。

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高崎のイベントでも同型のマルタイ6009号機が展示されていました。 2014/10/18 高崎

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尾久の公開ではおなじプラッサー&トイラー製の機械でしたが、こちらはJR東日本の東京省力化軌道工事区所属の機械でした。

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2015年2月13日 (金)

東海道新幹線開業から50年 その10 300系の登場 part1 J0編成

1964年10月1日の東海道新幹線開業から50周年を機に東海道・山陽新幹線の歴史を形式別に振り返って来ましたが,今回は300系です。

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リニア・鉄道館に展示されている300系試作車の先頭車 322-9001 2014/8/12

前回の記事で記述しましたが、100系新幹線車両でも航空機に対抗して新幹線の速度を上げる試みはなされました。しかし、鋼製の車体や構造、あるいは2階建て車両の存在などで本格的な高速化への挑戦は断念せざるを得ない状況でした。

後に「のぞみ」として具現化する「スーパーひかり」の開発は分割民営化後の1988年1月にJR東海内部で「新幹線速度向上プロジェクト委員会」が設置されたのが嚆矢とされています。

日本国内の長距離輸送は国内定期航空運送事業者参入制度、いわゆる45・47体制の頃は圧倒的に鉄道が優位に立っていました。

45・47体制においては
JAL 国際線・国内線(幹線)
ANA 国内線(幹線・ローカル線)
JAS 国内線(ローカル線)と棲み分けられていました。

この規制が1986年に解かれ、同一路線に2,3社が運航すること(ダブル・トリプルトラック化)が緩和されました。1998年にはさらにその基準が撤廃され、スカイマークやエアドゥの参入が可能となりました。

そういった航空業界の規制緩和と国鉄末期の相次ぐ運賃値上げで、鉄道と航空のシェア争いも深刻化して行きました。
私もちょうど、この頃、社会人となり、出張などで航空機を使うようになり始めたので、よく憶えています。

飛行機に対して優位に立つためには,新幹線はどれくらいの時間で東京~新大阪を結ぶべきかが検討され、出された答えが2時間30分でした。同区間、飛行機の場合は離陸から着陸までの実質飛行時間は30分程で、ゲートアウトからインまでを含めると1時間となり、空港までのアクセス、搭乗前に到着すべき時間を考慮すると2時間30分で十分勝負ができるとの計算でした。それを満足するための最高速度は270km/hと算出されました。

速度が上がれば騒音と振動も増えるので、それらを現行の220km/hと同じレベルに抑制するにはどこまで軽量化すべきかが0系に、さまざまな重量にした付随車を挟んだテストが行われ、重量45t、軸重11.3t以下であれば、現行の振動値を超さないことが明らかになりました。

東海道新幹線区間は、1964年のオリンピック開会に間に合わせるために急ピッチで建設されたため、半径R2500のカーブが多く、そのカント量は180mmでした。カーブでの減速を減らすことも到達時間短縮に貢献するので、カント量を200mmにし、さらにR3000のカーブのカント量も150mmから180mmに増やす工事がなされました。これらの工事でカーブ区間の制限速度が255km/hまで引き上げられました。

ATCも高速化に対応可能なように2周波数化が実施され,閉塞区間の長さも従来の10kmから8.5kmに短縮されました。き電方式もBTからAT方式に変更となり、編成内に特高圧引通線を引き通して,3基のパンタからの集電方式としました。

車体はアルミニウム合金を用いたシングルスキン構造となり、車体総重量を6t減らすことに成功しました。空気抵抗を減らすため車体断面も縮小され、車高は100系よりも0.4m低くなり、重心を下げるため、空調装置は屋根上から床下に移されました。また出来るだけ滑らかにするためスカート一体構造となり、側窓も再び狭窓、さらに天地も低くなりました。

駆動方式は架線からの交流を直流にしてさらにインバータで三相交流に変換し、交流電動機を回すVVVF方式が採用され、これまでのMM'ユニット構成からM1TM2の3両ユニット式になりました。交流モーターの採用は出力のアップと質量の減少に大きく貢献しました。電動車にはVVVF方式による回生ブレーキが装備され、付随車は渦電流ブレーキで対応しました。実はこの渦電流ブレーキ装置の質量がモーターの質量より重くなったため、主変圧器を搭載していることもあって、付随車の方が電動車よりも重くなると言う結果を招きました。

台車は新幹線としては初となるボルスタレス台車を履き、軽量で曲線通過性に優れたものとなりました。駆動装置は100系とおなじWN平行カルダンドライブ方式となりました。

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試作車の特徴はなんといっても側面の出っ張りかと思います。

「のぞみ」用試験車両として、300系の試作J0編成が完成し、東京第二車両所に配置されたのは1990年3月8日でした。製造費用は46億円だそうで、100系G編成に較べて15億円高くなったそうです。性能試験では1990年に303km/hさらに1991年2月28日未明には325.7km/hを記録しており、961形による国内最高速度記録を12年振りに更新したことになりました。

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2015年2月12日 (木)

高崎鉄道ふれあいデー その7 D51 498

2014年10月18日の高崎鉄道ふれあいデー、今回の話題は会場正面の茶色の機関車群の最左端にあって、動態保存機ぶりを発揮していたD51 498号の話題です。

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黒煙をもうもうと上げて会場内を往復するD51498号機 2014/10/18 高崎

1115両製造された鉄道省D51形式の一員でその履歴は沖田祐作氏の機関車表のデータによれば

D51498     国鉄鷹取工場=26               1940-11-24 S77.60t1D1T(1067)
   車歴;1940-11-24(11/26?)製造→ 納入;国鉄;D51498→ 配属;大阪局→
      1940-11-24 使用開始→ 配置[広鉄達919];岡山→1945-06-29 空襲により書類焼失→
      1947-10-00 現在;岡山→1948-07-00 現在;岡山→1953-12-01 平→ 水戸? →
      1963-10-07 長岡一→1964-04-01 現在;長岡一→1965-04-15 借入;直江津→
      1965-07-19 返却→1966-03-26 新津→1972-03-15 坂町→1972-09-07 酒田→
      1972-10-05 借入;高崎一→1972-12-01 廃車[工車1161];高崎一→
      1972-12-01 保存;群馬県後閑駅前;D51498→1988-03-15JR 返却(大宮工場復元工事)→
      1988-11-25 動態復活;高崎(JR 東日本);D51498→
      1988-12-20 車籍復活[東運輸67];高崎運転所→2003-04-01 現在;高崎運転所→
      2008-04-01 現在;高崎車両センター高崎支所

1940年11月24日国鉄鷹取工場で落成、新製配置は岡山でした。戦後の1953年平に転属し、長岡、直江津、新津、坂町、酒田などを経て、高崎第一機関区で1972年12月に廃車となっています。未だ私は見ていませんが、先輪はC58103と刻印されており、交換されたことが分かっているそうです。

新津機関区時代(1966年から1969年)には、C57 1,C57180号機も同区に所属しており、奇しくも復活蒸機が3台同じ庫で寝泊まりしていたそうです。平区時代も梅小路に保存されている8630号機銀河鉄道999のモデルとなったC6248号機と同居経験があるとのことです。1972年10月鉄道100年記念で八高線に運転されたイベント列車を牽引した後、運用を外れたそうで、今から思えばその頃から強運の持ち主であったのかも知れません。

現役引退後は群馬県後閑駅前に保存されていました。ところが国鉄民営化とJR東日本の地域密着ポリシーによる蒸気機関車復活の機運、さらにバブルという時代背景もあり、横浜みなとみらいで開かれる横浜博覧会で蒸気機関車を運転したいという申し入れもあって、1988年3月15日に復元が決定し、6月に大宮工場に入場、復元工事がなされ、同年11月復活、12月には車籍も復活しました。

当時、蒸機復活にあたって、様々な静態保存機が検討され、最初は交通博物館(現在、大宮の鉄道博物館)に保存されていたC57135号機が一番状態的には良かったのでJR東日本としてはC57135号機を復活させる予定でした。しかし、蒸気機関車の代名詞といえばデゴイチという当時の社長の鶴の一声?でD51から選ばれることになり、最後に残ったのがつくばのさくら交通公園に保存されているD5170号機とこの498号機でした。70号機はナメクジスタイルであり、標準形の方が馴染み深いと言うことで498号機が選ばれたそうです。

復活に当たって、原型に近づけるため
・前照灯の変更(LP403→LP42)
・デフレクターバイパス弁点検口の閉口
・キャブ屋根延長部の切除
・蒸気ドーム前方手摺りの小型化
・テンダー重油タンクの小型化   などの工事が行われました。

またボイラー保護のため、使用圧力は15kg/cm²から14kg/cm²に下げられることとなりました。運転速度も、メインロッドへの負荷を軽減するため、高崎地区での運用時は50km/hまでを最高運転速度としているそうです。

諸事情により、横浜博覧会での運転は中止となりましたが、当時来日中だったオリエント急行88の国内ラストランが復活デビュー運転となり、1988年12月23日EF5861号機を補機として、前部本務機として上野~大宮間を牽引しました。

以後高崎車両センターで現役D51として各地のイベント列車や週末の上越線、信越線SL列車に活躍しています。

復活後の走行に対応した改造としてはATS-P関連機器の設置や仙台地区、新潟地区用の保安装置への対応、防護無線装置の更新、首都圏地区でのデジタル無線への対応、テンダー内の水残量のモニター装置(データ収集)の追加、冬季の旧形客車への暖房供給として蒸気供給管の再整備、速度計の電気式化、ヘッドライトのLP403化などが挙げられます。

ナンバープレートは復活時は形式名入りの大型のものでしたが、1995年12月頃から形式名のないものに交換されました。地の色はたびたび変わっています。汽笛の音色も何度もチューニングがなされているそうです。

これまでに運転不能になるダメージも何度か経験しており、1997年2月には動輪周りに深いダメージを負い、C58363号機が代役を務め、2008年12月には小牛田機関区で火入れを行った際にボイラー空焚きを起こして火室を破損、C11325+DE10C57180が代役を務めました。こういった経験から予備機確保の必要性が認識され、2009年6月11日、伊勢崎市華蔵寺公園に保存されていたC6120号機が動態復元されることになりました。

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2010/4/29 SL碓氷号を牽引 安中~磯部

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D51_498_100429_14 同日 横川駅 変形デフに動輪マークはありません。

このときが復活した498号機と初めての出会いとなりました。

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2010/5/1 屋形原踏切 
その2日後、今度は上越線沿線でSLみなかみを撮影

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水上駅でデフをみると動輪マークが付いていました。

2010年1月から4月に実施された中間検査Bで鷹取工場式をイメージした長野工場式集煙装置が取り付けられ、後藤工場式に準じた切り取り大型デフ後藤工式変形デフへ装備変更されました。2013年4月の5回目の全般検査後の試運転で先輪の傷が見つかり、さらに10月にはシリンダーに不具合も見つかりましたが、現在は復調しているとのことです。

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再掲となりますが、SLみちのくギャラクシー号を尾久から上野まで牽引したこともありました。 2014/3/8

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桐生や上毛電鉄を訪問した帰り、高崎駅で偶然、戻ってくるSLみなかみに出逢ったこともありました。 2014/4/5

10月18日のイベントでは10 時30 分、 12 時00 分、 13 時30 分 の3回汽笛吹鳴の後、展示会場脇の線路を往復運転しました。

その後12月に運用を離脱し、中間検査Aを経て、3月以降運用復帰するようです。

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2015年2月11日 (水)

尾久車両センター公開 2014 その2 EF81 81号機 part2

2014年11月15日の尾久車両センターの公開、前回に続いてEF81 81号機の話題ですが、今回はこれまでの同機の活躍を振り返ってみようと思います。

Ef81_81_020910
定期列車としての運行もあと僅かとなった寝台特急「北斗星」 2002/9/10 東十条

田端区のEF81が北斗星を定期で牽引していたのは1988年3月13日から、2010年7月15日、上野着の列車まででした。

まずは同機の履歴を沖田祐作氏の機関車表のデータで追っかけてみると

EF8181     日立製作所水戸工場=10200-2         1973-09-07 E100.8tBBB(1067)
   車歴;1973-09-07 製造→ 納入;国鉄;EF8181→ 配属;関西支社→1973-09-07 配置;富山二→
      1979-05-29 内郷→1984-02-01 田端→1987-04-01JR 東日本;EF8181→
      配置;田端運転所→2003-04-01 現在;田端運転所→2008-04-01 現在;田端運転所

今は田端運転所のEF81のエース的存在の81号機ですが、製造は1973年日立製作所水戸工場、新製配置は富山第二機関区でした。

Ef81_81_050905
常磐線から武蔵野線連絡線に進入するコンテナ貨物列車 2005/9/5 馬橋

以前、記事にしていますが、75~93号機は昭和48年度民有予算で製造され、7両が日本海縦貫線フレートライナー増発用として4両、75~78号機が酒田へ、3両、79~81号機が富山第二に配置されました。東北本線、常磐線へのEF81投入で1979年には内郷区へ異動となり、さらに1984年2月1日のダイヤ改正でヤード経由式貨物輸送が廃止されたのに伴って内郷区から田端区に転属となっています。

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ひたち野うしく~荒川沖間の二十三夜尊踏切を通過するコンテナ貨物列車 2010/11/21

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同じく妙向寺踏切を通過する通称「安中貨物」 2010/12/19

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2094列車を牽引して常磐線を南下 2011/1/8 大甕

と同機の寝台特急、安中貨物、コンテナ貨物の牽引シーンを集めてみました。

田端区のEF81が常磐線貨物定期運用から撤退したのは2010年12月初頭のことでした。その後、後継機EF510-500番台の車輪フラットなどのトラブルでEF81牽引が復活することもありましたが、2013年3月のダイヤ改正でJR貨物が委託していた貨物牽引運用が解消されたため、現在はEH500が常磐線貨物を牽引しています。

ローズピンク、お召し塗装に戻ってからの牽引シーンも撮ってみたいものですが、なかなかその機会に巡りあえません。

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2015年2月10日 (火)

40年ぶりの梅小路蒸気機関車館 6 C51 239号機

2014年8月10日の梅小路蒸気機関車館で見学した機関車の話題、今回はお召し機としても有名なC51239号機です。

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C51 239号機 2014/8/10 梅小路蒸気機関車館

C51形式は国鉄の前身の鉄道院が1919年に開発した幹線旅客用大型テンダー機関車で、登場時は18900形と称していましたが、1928年5月C51形と改名されました。

18900形式と当初命名された理由はアメリカから輸入したアルコ社製8900形式コール式1軸心向外側軸箱式従台車を参考にしたパシフィック軸配置の国産蒸機第一号となったからだそうです。

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常用最高速度100km/hで計画されたため、動輪の常用最大回転数から逆算して1750mmという当時の狭軌用蒸機では最大の動輪直径が算出され、以後C62まで踏襲されることになりました。

動輪直径が大きくなればボイラーの中心高が高くなりますが、当時ドイツから輸入されたボルジッヒ社製8850形が2438mmであり、すでに実用化されていた9600形がこれよりも高い中心高で問題なく運行されていたので、2400mmのボイラー中心高で設計されました。

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ボイラーは3缶構成とし、煙管長は5500mmとし、以後の標準となりました。台枠は25mm厚の板材による板台枠で、動輪はスポーク動輪としました。28962号機までは17本スポーク式で折損事故対策で28963(C51164)号機からは18本スポーク方式となりました。第2動輪を主動輪とし、弁装置はワルシャート式でピストン棒を短縮し、メインロッドを長くする方式としました。

炭水車は当初は17立方メートルタイプでしたが、41号機以降は石炭8t水17t積載の8-17形が標準になりました。後期には12-17形も登場しました。超特急「燕」運行時には東京~名古屋ノンストップ運転のため、C52形の20立方メートルテンダーと振り替え、さらに水30tを積載可能な水槽車を連結し、給水管で連絡しました。

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102号機以降は空気ブレーキ装置の装備が開始され、ランボードが2段式となり、第2動輪とランボードの間に空気だめが取り付けられました。

1919年から1928年までの間に鉄道院浜松工場、汽車製造大阪、三菱造船所神戸で合計289両が製造されました。

従来機と比較して飛躍的な性能の向上が認められ1920年代から1930年代にかけて主要幹線の主力機として活躍しました。239号機236号機とともにお召し列車専用機に指定され、1928年11月の昭和天皇の御大礼から1953年5月の千葉県下の植樹祭まで104回の牽引の大役を務めました。

C51_239_140810_3

輸送量の増加、客車の大型化などによる牽引定数の増大で、後続のC53,C59に任を譲り、1930年代以降は地方幹線に活躍の場を移しました。

1939年には陸軍の要請で16両が標準軌に改造され、供出され中国大陸に渡り、江南を中心に南京~上海間で運転されました。

戦後は動力近代化計画の遂行で早々と廃車が進められ1965年には全車が運用を退き、最後まで活躍したのは1966年2月に引退した251号機でした。

239号機の履歴は沖田祐作氏の機関車表のデータによりますと、

38938      汽車製造大阪工場=936            1927-00-00 S66.30t2C1T(1067)
   車歴;国鉄;38939;1927-03-19 使用開始→1928-10-01 改番[達380];C51239

C51239     汽車製造大阪工場=936            1927-03-00 S68.25t2C1T(1067)
   車歴;1927-03-00 製造→ 納入;国鉄;38938→ 配属;東京局→1927-03-19 使用開始→
      配置[東鉄達314];品川→1928-10-01 改番[達380];C51239→1933-06-30 現在;品川→
1934-11-00 現在;品川→1936-00-00 現在;八王子→1945-12-01 現在;新小岩→
      1947-10-00 現在;新鶴見→ 尾久→1955-04-11 直江津→1958-10-02 新津→
      1959-07-01 新潟→1962-10-26 廃車[達518];新潟→
      1963-09-23 新潟県「国鉄新潟教習所」;C51239→
      保存;新潟県新潟市「国鉄グラウンド」;C51239→
      移管保存;新潟県「新潟鉄道学園」;C51239→1972-09-27 梅小路→
      保存;京都府「国鉄梅小路機関車館」;C51239

現役時代は製造後の新製配置から東京機関区に在籍し、1945年に八王子に移るまでいました。その後、10年間首都圏にいて、1958年新潟に異動し、1962年に廃車となっています。その後、10年間新潟の地で朽ち果てかけていましたが、1972年の鉄道百年の機関車保存で長野工場での修繕を経て、梅小路入りをしました。新潟時代に教習用にカットモデル化されていましたが、外観の修復を経ています。梅小路入りする前の新潟時代の野に佇む貴重な姿はM.TADAさまのサイトにあります。

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40年前の梅小路入場、2年後の姿 1974/9/29

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2015年2月 9日 (月)

San Diego Lindbergh空港でのSpotting 1 Hawaiian航空

San Diego Lindbergh空港でのスポッティングの話題、今回取り上げるのはHawaiian 航空です。

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N581HA Boeing 767-33AER cn 28141 ln 853 2008/1/18 SAN

ハワイ州オアフ島ホノルル空港をハブとするハワイ最大の航空会社で、アメリカ国内でも8位に位置する航空会社です。西海岸のいくつかの都市、さらにニューヨークJFK空港まで運航しています。

1929年1月30日インターアイランド航空として設立しました。運航開始は10月6日で、Bellanca CH-300という単発水上機を用いての定期観光飛行が始まりでした。諸島間の飛行は双発のSikorsky S-38により、11月11日から開始されました。

1941年に社名を現在のハワイアン航空(Hawaiian Airlines)に改めています。この年の8月Douglas DC-3が導入され、1968年11月まで飛び続けました。1942年には貨物輸送も開始しました。その後、与圧設備の整ったConvair340が導入されたのは1952年のことで、1959年から60年にかけてConvair440が導入されました。

ジェット機の導入は1966年Douglas DC-9が初めてで、1984年DC-8によるチャーター便が南太平洋に飛ぶようになり、国際便の就航がサモア・トンガに就航しました。
1985年
ロッキードL-1011トライスターにより初めてアメリカ西海岸路線が開設されました。1994年にはトライスターに代わってDC-10が導入されました。

2003年3月21日、航空不況により倒産の危機が訪れ、連邦倒産法第11章適用申請がなされます。2006年12月には日本支社も閉鎖に追い込まれますが、2008年3月、国際線としてマニラ線が開設されます。

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N582HA Boeing767-33AER cn28139 ln 857 2008/1/18 SAN

2010年11月19日、日本支社も再開設され、羽田便が就航となり、2012年6月4日にはニューヨークJFK便も就航します。2014年3月11日、子会社のオハナが運航を開始しました。

創業以来、現在に至るまで乗客の死亡事故は起こしていない航空会社であり、定時出発立においても全米一位の航空会社です。

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N586HA Boeing 767-3G5ER cn 24259 ln 268 2005/1/21 SAN

機材は

ATR42-500 3機 子会社のOhana航空名でEmpire Airlinesが運航
Airbus A330-200 19機 長距離用
Boeing 717-200 18機 諸島間用
Boeing 767-300および-300ER 10機 現在、A330への置き換えが進行中

A321neo 発注中 2017年から導入予定
A330-800neo 発注中 2017年から導入予定

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N391ha_airbus_a330243_cn1399_1501_2
N391HA A330-243 cn 1399 2015/1/15 SAN

SANではこれまでBoeing 767-300ERしか見ていませんでしたが、今年はA330-200を初めてみました。

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2015年2月 8日 (日)

47年振りの東急世田谷線訪問 プロローグ

果たして東急世田谷線は路面電車と言うべきなのかは分かりませんが、2015年2月7日の土曜日は杉並や世田谷の公園保存蒸気機関車を巡る一環で47年振りに東急世田谷線に乗ってきました。

150207
かれこれ50年近く前の玉電現役時代の姿を思い出させてくれる世田谷線散策きっぷ 2015/2/7

左がデハ70形、真ん中がデハ150形、そして右がデハ80形 白地に黒字の行き先表示が二子玉川園方面、赤地の行き先表示が下高井戸方面でした。

150207_2 裏面は路線図

1964年の小学校3年までは東村山(最寄り駅は八坂か小川)に住んでおり、12月に杉並区清水3丁目に引っ越し、1972年の高校2年からは練馬区南大泉に住んでいました。小学校の低学年時代、近くで学習塾を開いていた先生が目黒区大橋に転居した関係で、荻窪から新宿、渋谷を経由し、渋谷から玉電で大橋まで通っていたことがありました。

その後、小学校6年頃(1967年4月)から下高井戸の進学教室に通い、さらに下高井戸から玉電で大橋へ、駒場東邦高校を会場とする進学教室に通ったこともありました。その関係で、玉電の現役時代はよく利用していました。その後、高校は世田谷の下馬でしたが、1969年5月11日の廃止後、生き残った東急世田谷線とは全く縁が無い状態でした。

今回は中央線の阿佐ヶ谷駅から、井の頭線浜田山に向かうコミュニティバスで、杉並児童公園を訪問、さらに浜田山から下高井戸へ向かう別のコミュニティバスに乗り、下高井戸から三軒茶屋まで世田谷線散策切符(一日自由乗車券)で沿線を散策し、三軒茶屋から三宿の世田谷公園を訪問し、最後は渋谷へ抜けて来ました。公園蒸気機関車の話題は別記事で報告しますが、玉電の話題は今回からひとつのシリーズにしようと思います。

200_150207
上の散策切符の図柄には登場していませんが、やはりもっとも印象的な車両といえばタマゴ形の200形 愛称ペコちゃんでした。車輪が小さいため、走行中に車輪のきしむような音が車内にも聞こえていたのが印象に残っています。

130113
130113_2
2年前の1月に渋谷駅のかつての玉電ホーム跡を訪れました。 2013/1/13

銀座線の車庫の横を道玄坂から下って渋谷駅の2階が玉電のホームで、降車ホームで客を降ろしたあと、終端まで行って、シーザーズ・クロッシングを渡り、折り返すパターンでした。電車が通る度にスプリングポイントがパタンパタンと音を出していたのを憶えています。

玉電廃止後はバスのターミナルとなり、ターンテーブルも設けられていましたが、それも今はなくなり、渋谷駅の大改装で建物自体がなくなろうとしているようです。

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2015年2月 7日 (土)

西武新101系 その7 時は流れて 2連編 その5 流鉄5000形 5003編成  

流鉄で活躍する元西武鉄道新101系2連の話題、今回は5000形第3編成、二代目「あかぎ」の話題です。

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元551系+1651形由来の1300形以来の塗色、「あかぎ」となって登場した5003編成 2012/4/1 

登場直後であったため、登場記念のHMが掲示されていました。

5003編成は「あかぎ」という愛称が付けられていますが、これは二代目で初代は元西武551系とクハ1651形の1300形1301編成でした。塗色は同じ臙脂色でした。

1300形はクモハ1301元クモハ558、1962年西武所沢車両工場製とクハ71の2連でクモハ1301の台車はFS40を履いていました。クハ71は元クハ1659で1963年西武所沢工場製です。入線時に台車はFS40でした。1987年12月24日に入線し、2001年5月21日まで活躍しました。1300形「あかぎ」は最後まで残った非冷房車でもありました。

51035003_120401_2

5003編成は元277Fで1982年所沢車両工場で製造されています。

5003編成は2011年6月5日の武蔵丘車両研修場で開催された「西武・電車フェスタ2011 in 武蔵丘車両研修場」で改造途上の姿が公開され、10月に甲種回送、2012年3月14日から営業運転を開始しました。

51035003_120415
2012/4/15 馬橋

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2015年2月 6日 (金)

1989年のDüsseldorf Airport その25 Sud SE210 カラベル

1989年初夏、当時西ドイツDuesseldorf空港で撮影した旅客機の話題、今回は先日の広島市交通科学館にも模型が展示されていたフランスが産んだ最初の短距離用ジェット旅客機、Sud SE210 カラベルの話題です。

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D-AAST cn 230 Sud SE-210 Caravelle 10B 1989/5/7 DUS

カラベルという愛称はコロンブスのアメリカ大陸への航海でも活躍した3本マストの帆船、キャラベル船に由来しているそうです。

1951年10月12日、フランス航空局民間資材調達委員会は国内の航空機メーカーに対して短中距離用ジェット旅客機の仕様書を公開しました。

要求された性能は

航続距離 2000km
巡航速度 600km/h前後
55~65人の乗客と1000kgの貨物を同時に運べる

というもので、
これに対する応答は多数寄せられ、SNECMA (Société nationale d'étude et de construction de moteurs d'aviation)によるアターの3発機の案とロールスロイス製エイヴォンエンジン(ターボジェット)の双発案が最後まで残り、1952年3月28日の委員会で

ユレル・デュボア航空機製造(Société de construction des avions Hurel-Dubois) HD-45
シュド・ウエスト(国営南西航空機製作所)(Société nationale des constructions aéronautiques du sud-ouest = SNACASO) SO-60
シュド・エスト(国営南東航空機製作所)(Société nationale des constructions aéronautiques du sud-est = SNACASE) X-210の3社の案を統合し、エイヴォン双発リアマウント型の SNCASE X-210 計画が選定されました。

開発費用を減らし、設計期間を短縮する目的で既に就航していたデ・ハビランド DH.106 コメットから流用できる技術は極力流用するということで1955年4月21日にロールアウト、5月27日に初飛行となりました。機首、胴体、操縦系を含む運航システムはコメットのものをそっくり流用し、おむすび形といわれる客窓もコメットの事故調査で得られた教訓に基づくものでした。

Daast_cn_230_sud_se210_caravelle_10
D-AAST

1956年にはエールフランスSASからの発注が寄せられましたが、パイロットの養成やコメットの教訓に基づいて慎重が期され、就航は1958年5月となりました。損益分岐点は200機の販売ということでしたが、279機が売れるヒット作となり、製造会社にとっても航空会社にとっても世界で初めて利益を生み出したジェット旅客機となりました。

尾翼付近に双発エンジンを配置する方式はその後多くの中短距離機で採用されており、特許収入は会社に留まらず、フランス国家財政にも大きな影響を与えたそうです。

リアエンジン方式は

1)主翼全幅に渡って高揚力装置が取り付けられ、離着陸性能が向上
2)脚長の短縮、地上高が下げられ、機載タラップで対応可能
3)未整地におけるエンジンの異物吸い込みが無くなる、逆噴射時のトリム変化が少ない
4)高い水平尾翼は主翼からの剥離流の影響を受けにくい、高仰角での離着陸が可能となり滑走路が短縮できる
こういったメリットがあり、まさに植民地を持っていたフランスにとっては好都合な設計でした。

Sud_caravel_210_860615_cdg
1986年6月15日、新婚旅行で初めて海外に出かけたとき、パリのCDGで見かけたAir Interのカラベル 露出に失敗して見苦しい写真です。

タイプは
Caravelle I   試作機から1.4mストレッチされた最初の量産タイプ 20機
Caravelle IA    Iからさらに0.5mストレッチ、エンジン強化 12機
Caravelle III    エンジン再強化タイプ 78機 これ以前のタイプの31機はこのモデルに改修
Caravelle VI-N さらなるパワーアップ 53機
Caravelle VI-R 逆噴射、グランドスポイラー、アンチスキッドブレーキ装備 56機
Caravelle VII   GEがIIIを購入して、CJ-805エンジンに換装したバージョン
Caravelle 10A 1mストレッチ、最大104席 大型化 APU標準装備 試作機のみ
Caravelle 10B 10AをPW製のJT8Dに換装 22機
Caravelle 10R VI-Rに準じた短胴タイプ 最長航続距離 20機
Caravelle 11R 10を1mストレッチ、貨客混載タイプ 6機
Caravelle 12  10Bを3.2mストレッチ 最終タイプ 最大140席 12機

カラベルは小さい頃、ブリキのおもちゃで買って貰った憶えがあり、その後のリアエンジン機はT字の水平尾翼になりましたが、カラベルだけは十字の水平尾翼で印象的でした。

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2015年2月 5日 (木)

四方津を再訪 その4 長ナノのC1編成

2014年12月6日の四方津訪問、今回は長野総合車両センター(長ナノ)所属の115系C1編成の話題です。

115_c1_141206
山スカ色で活躍する長ナノ C1編成 2014/12/6 四方津

中央東線の115系は国鉄最後のダイヤ改正となった1986年11月1日の改正で三鷹区から豊田区に移管されると当時に松本運転所に配置されていた信越線関係の車両が長野に移管となり、長野総合車両センターはこのとき初めて115系を受け持つことになりました。その後、2007年3月18日に松本車両センターに配置されていた6両編成も長野に転属となりました。

現時点で3両編成のN編成が15本、6両のC編成が6本の他、訓練車編成3両をあわせて84両が配置されています。

115_c1_141206_4
C編成は立川~松本ローカル列車に専従で投入されており、そのほか、出入庫のための長野~松本1往復、篠ノ井線松本~明科区間列車がありますが、それ以外は松本、小淵沢、甲府、大月、高尾、豊田での夜間滞泊が続く運用となっています。

2014年C2, 4, 5, 6, 7, 8, 9編成が、2015年に入ってC11 編成が廃車となっています。211系600番台の編成が1本運用開始される度に115系C編成が1本廃車となるようです。

構成は
←新宿・高尾
クハ115-1123+モハ115-1065+モハ114-1128+モハ115-1066+モハ114-1129+クハ115-1084 
となっており、全て未リニューアル車両です。

現在残っている編成ではC3, 12, 13, 14が未リニューアルでC10がリニューアル編成です。

115_c1_141206_5
奇しくも12月6日は豊田区の115系M1~10編成の運用終了の日でしたが、C1編成として活躍する6両は同一ロットで製造された車両たちで誕生以来、小山区時代のサハ115が抜き取られた以外は同じメンバーで活躍している編成だそうで、最後までこの仲間で頑張って欲しいものです。

115_c1_050429
2005/4/29 立川

115_c1_130608_2
2013/6/8 四方津

長野色時代のC1編成は2005年と2013年の前回訪問の際に撮影していますが、山スカ色への塗色変更は2014年3月25日のことで、26日から運用復帰したそうです。

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2015年2月 4日 (水)

通勤電車シリーズ 103系 19 中央西線の新性能化

通勤電車103系の話題、これまでは首都圏や関西の通勤車両における103系の進出を観てきましたが、今回は中央本線名古屋口の103系の話題です。

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中央西線名古屋口の103系 クモハ103を中津川方に連結した非冷房編成 1980/12/8 名古屋

中央西線名古屋口は1966年7月名古屋ー瑞浪間が電化され、横須賀線と京阪神緩行線から、70系(クハ68形を含む)が72両が転属し、通勤電車による運行が開始されました。同年10月には運用区間が東海道本線浜松~米原間まで拡大され、それまで客車で運行されていた列車が電車化されました。1968年には神領電車区が開設され、10月のダイヤ改正では運用区間を中津川まで拡大しました。

103_801208_2
1980/12/8 名古屋 助手席側にもワイパー付き

当時の70系の編成は基本6両、付属4両でラッシュ時には10両編成も組成されました。1973年には中央西線・篠ノ井線が全線電化され、坂下まで運用区間が拡大し、1975年には南木曽まで延長されました、さらに1976年には岡多線が開通し、付属編成が投入されました。

私はこの頃、1975年1月2日に大垣行き夜行で名古屋を訪問し、中央西線の通勤車両を記録しました。

103_860216
1986/2/16 名古屋
この時点では6+4編成でしたが、ライトのシールドビーム化、冷房化改造が進んでいました。

70系最盛期は横須賀線などからの転属車の格下げ車サハ75形サハ85形も組み込まれていたそうですが、80系は東海道本線に中央西線は72系(5+5編成)という方針から規模が縮小され、余剰車は新潟や長野に転出となりました。

103系は72系旧形車で運用されていた中央西線の通勤車を新性能化するため、ATC対応車の投入で捻出された0番台初期車を中心に1977年から投入され、神領区に配置されました。初期投入分は京浜東北線、横浜線から、後期投入分は青梅・五日市線からとなりました。

103_861203
3連の運用が登場した頃 1986/12/3 名古屋

投入時に以下の改造が施されました。
・塗装はスカイブルーに統一されました。
・ 2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設
 (後期に投入されたものについてはワイパー増設がされていない)。
・前面窓ガラスにデフロスタを取付
(後にガラスを熱線吸収ガラスに交換したため撤去している)。
・先頭車側面にサボ(行先方向板)受けの設置
(後期に投入されたものについては設置されていない)。
・サボを使う関係で冷房車でも方向幕の使用は行わず、前面の方向幕も「中央線」・「普通」などのステッカー貼付による固定表示とした。

編成は転入時は
←名古屋
   Tc T M' Mc Tc M' M T M' Mc       でしたが、1986年11月1日のダイヤ改正で
   Tc M' MC Tc M' M T T M' Mc      となりました。

クハ103基本番台の神領転属車は
-75~-91の新製配置で浦和区や蒲田区に配置された車両が異動したケース多く
-77, 78, 79, 83, 84, 85, 88, 90, 91が異動しています。
500番台はATC化に伴う捻出車で
-512, 542, 549, 559
クモハ103は若番車が多く
-3, 7, 8, 15, 16, 17, 18, 36, 37, 38, 49, 75 が異動しています。

民営化の時点では70両がJR東海に継承されました。

JR東海は211系5000番台を大量増備し、1989年7月には昼間の運行は全て211系となりました。103系は冷房車のみの50両が残され、1991年には特別保全工事、リフレッシュ工事がなされました。1995年には中央本線外に初めて進出し、関西本線亀山まで足を伸ばしました。1999年12月4日のダイヤ改正の前日、前年から投入の始まった313系に押される形で運用を終了しました。車籍は2001年度まで残されましたが、JRグループとして最初の全廃となりました。

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2015年2月 3日 (火)

San Diego Trolley 1000形 part1

2015年1月に5年ぶりの訪問をしたアメリカ・カリフォルニア州、San Diego、空港でのスポッティングの話題は別のシリーズを立ち上げていますので、こちらでは、これまでの訪問で撮影したSan Diego Trolleyその他、鉄道車両や博物館見学について触れようと思います。

すでに現地からの速報版で記述しましたが、

San Diego Trolleyがそれまでの鉄道路線を利用して営業開始したのは1981年7月26日のことでした。現在、総駅数53、路線延長86.1kmにまで成長しています。2013年第4四半期の統計値では全米で第4位の乗車数で平日の平均乗車客数は122,400名とのことです。

1001_090114_america_plaza
America Plaza~Santa Fe Depot間の急カーブを行く1001+1035 2009/1/14

開業当時に導入され、今日までTrolleyで活躍してきたのがSiemens-Duewag U2というタイプのLight-rail vehicle (LRV)でSiemens, Wegmann & Co. and Düwag.の合弁企業(Düsseldorf, West Germany and Florin, California)で製造されました。U2のデザインは現在、フランクフルトの路面電車博物館に保管されている1965年製のSiemens U1プロトタイプをもとにしており、1990年まで製造されました。

サイズは  全長 23.165m 全幅 2.652m 全高 3.78m
重量 35,000kg   Lightweight welded steel 製  最高速度80.5km/h
定員  座席64名 通勤時96名 イベント時150名
架線電圧 600V
300kW の直流モーター

San Diego Trolleyでは1000形として、71組が導入され、そのうちの11組はスペインのMendozaに譲渡されており、2015年1月25日のBlue Lineへの新型車4000形の投入で全車運用から撤退したそうです。

1001_150110_12th_imperial_tc
今回の訪問では一部の編成が稼働しているだけで大半は車庫で眠っていました。1001編成はトップナンバーとして保存されるのでしょうか? 2015/1/10 12th & Imperial TC

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1002 2002/1/13  Mission San Diego

この頃はGreen Lineはまだなく、Mission San Diegoの路線はBlue Lineとなっていました。

1003_050119_fvts
1003 2005/1/19 Fashion Valley TC まだこの頃も今のGreen Lineの路線はBlue Lineでした。

1004_090114_america_plaza
1004 2009/1/14 America Plaza~Santa Fe Depot

1004_150114_america_plaza
1004 2015/1/14

1004編成は今年も活躍していましたが、2009年に撮影したときとは広告のスポンサーが異なっていたようです。

1005_070114_std
1005 2007/1/14 Santa Fe Depot

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1007 2009/1/14 America Plaza~Santa Fe Depot

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1008  2009/1/14 Santa Fe Depot

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1009 2007/1/14 Gillespie Field

1009_090114_5th_street2
1009 2009/1/14 この頃は広告電車に

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2015年2月 2日 (月)

広島・四国西南部旅行 広島編 その2 広島市交通科学館

2014年12月の広島から四国西南部への旅行、今回は12月18日午後に訪問した広島市交通科学館の話題です。

141218
前回の記事で紹介したアストラムラインの長楽寺駅で下車し、5分ほど歩くと到着します。当日は前日からの降雪で結構、雪深い中を歩くことになりました。

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入館料は510円でした。屋外の展示と館内の展示から構成されており、第1のお目当ては屋外に展示の原爆被爆電車650形だったのですが、
F_141218
WEBサイトにもありますが、
※650形路面電車(被曝電車)は、塗装などの修繕作業をおこなっているため、
現在は見学いただけません。 ご迷惑をおかけいたしますが、あしからずご了承ください。
とのことでした。

ということで、館内を最上階から観て回ることにしました。
F_141218_2
3,4階は吹き抜けといった造りで

141218_4
3階フロアーに近未来都市の模型が展示してあり、4階はそれを取り巻く回廊構造となっていました。
第2のお目当ては2階のコレクションフロアで、歴代広島市電ほか、航空機から鉄道、船舶まで世界中の乗り物の模型や実物大レプリカが展示されていました。

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広島市電には単車タイプと連接車タイプがありますが、それらの模型が系統的に分けられて展示されています。

200_141218
200形などの単車タイプの展示

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570形以降の単車でもサイズの大きくなったタイプ

3800_141218
5000形などの連接車タイプ
このほか、世界の代表的な路面電車や各種機関車牽引列車などが展示されていました。

さらに旅客機の模型では日本に来ていたのを観た憶えはあるものの写真は撮っていないBAC VC-10 BOAC塗装の模型などもありました。
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ぶれており、フォーカスも甘い写真ですがソ連製のIl-62と似た4個のリアエンジンスタイルのVC-10
Se210_af_141218
さらにフランスが世に送り出した最初の短距離用ジェット旅客機カラベルの模型もありました。昔、プラモデルで作ったの思い出があります。

レプリカではTGVの機関車の車輪や地元マツダのロータリーエンジンの展示印象的でした。

最初、入場料510円はちょっと高いかなとも思いましたが、模型とはいえその種類の豊富さは眼を見張るものがあり、一度は訪れるべきかと感じました。

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2015年2月 1日 (日)

公園保存蒸機 K2形 134号 津田沼1丁目公園

全国の公園保存蒸機を観て歩くシリーズ、今回は昨年5月10日の千葉方面ツアーの最後に新京成新津田沼で観た元日本陸軍鉄道連隊のK2形 134号機です。

K2_134_140510_13
K2 134号機 2014/5/10 津田沼1丁目公園

陸軍省は鉄道連隊で使用する野戦軽便鉄道用機関車として、1901年からA/B形双号機関車193組386両をドイツのOrensteim & Koppel-Arthur Koppel A.-G.に発注しました。ただ、このタイプは勾配区間の取り扱いなどに難があったため、一両の牽引力増大と曲線通過性能の維持を図った5軸の強力機として、E1-E251921年に、E101-E1061925年に発注しました。その増備車として1942年から1944年にかけて、川崎車輌で製造されたのが試作機のK1形と量産形のK2形です。製造両数は47両だったそうですが、戦地に送られたのは10両ほどという記録もあるそうです。

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軸配列0-10-0(E)形600mm軌間用のサイドタンク機で、1890年に開発されたクリン-リントナー式の動軸誘導機構を採用しています。

満州駐留の鉄道連隊各部隊に配備された大半の機関車は戦後現地に放棄されましたが、戦時中に国内の軽便鉄道に払い下げられた機関車は戦後もしばらく活躍しました。このK2 134は西武鉄道に払い下げられユネスコ村で活躍し、その後静態保存されていましたが、1990年のユネスコ村の閉園で鉄道連隊ゆかりの地、津田沼に移設されたとのことです。

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E10などと同じく、5軸の動輪のうち、中央の第3動輪にはフランジがありません。

<クリン-リントナー式の動軸誘導機構>
Wikipediaの記載そのままですが、
第1・5動軸を中空軸とし、その中に中央部に特殊な球状の歯を切った中実軸を通して中空軸の内側に刻まれた歯と中実軸側の歯を噛み合わせることで、中空軸による首振り動作を許容しつつ、5動軸全てについて単純な連結棒(サイドロッド)による動力伝達を可能とする機構で、
さらに第1・5動軸の左右の各動輪それぞれの直近を2頂点とし、中空軸を1辺とする三角形のサブフレームを取り付け、その重心位置で台枠と首振り・スライド可能なピンを用いて結合し、それぞれの残る1頂点同士を関節によって連結することで首振りの範囲を制限する、一種のラジアル機構も備えていたそうです。

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機関車後部のデザインは極めてシンプルです。

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案内板も整備されています。

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