40年ぶりの梅小路蒸気機関車館 9 C55 1号機
2014年8月10日の40年振りの梅小路蒸気機関車館訪問、今回はC551号機です。
2014/8/10 扇形庫から出されていたC55 1号機
C55形は私も現役の、といっても機関区で休む姿ですが、宮崎で見ています(関連記事)。
C51形で国産幹線蒸気機関車の形式を立ち上げた鉄道省が亜幹線用に最初に開発した形式がC54形でしたが、総重量を軽量化とボイラー圧力上昇のアンバランスから空転が頻発し、設計変更を迫られ、17両で生産が打ち切られ、新たに棒台枠を採用するなどの新技術を取り入れて設計されたのがC55形式でした。1935年から1937年にかけ、3次に分けて、川崎車輌、汽車製造、三菱重工、日立製作所により62両が製造されました。
1次形 1~19 1935年
2次形 20~40 1936年 流線型のカバー
3次形 41~62 1937年
2次車、3次車では亜幹線以下の機関区に多かった60フィート(18m)転車台に乗るように炭水車のボギー台車間、炭水車と機関車の間隔を詰めて、全長を240mm短縮しています。
C55形より、蒸気ドームと砂箱が一体となっています。
これは自動空気ブレーキを採用した結果、下り勾配で急ブレーキをかけると強力なブレーキ力で蒸気ドーム内に湯が入り込むというトラブルが起こり出したため、蒸気ドームを第一缶胴部から第二缶胴部に移す設計変更を行い、さらに空いたスペースに砂箱を移設し、それらを一体のカバーで被うようにしたためだそうです。さらに電気溶接が進歩し、リベットを極力使わなくしたため、スタイルがかなり近代化されました。
一方で、ボイラー圧力やシリンダー寸法はC54形のものを踏襲しており、動軸の軸重を増やすことで空転の発生を抑えました。動輪はC54までと同じスポーク動輪ですが、鋳鋼製の輪心部に補強がなされており、「水かき」といわれました。これは当時、ドイツの国鉄制式機で採用された方式でした。ただ、以降の形式はボックス型動輪を採用したため、大型蒸気としては最後のスポーク動輪機となりました。
スポーク動輪と棒台枠による台車側面の肉抜き穴のために動輪と台枠越しに反対側が透けて見えるのが特徴ですが、上の写真まさにそんなかんじです。
2次車は上述のように流線型のカバーをつけて竣工しましたが、C5343号機同様に流線型とする効果が無いばかりか、種々のトラブルやカバーが存在するための煩わしさから現場からは嫌われ、1950年から1951年には再整備が行われ、1次形と同じスタイルになりました。30号機が保存される予定でしたが、手違いから解体されてしまい、現存する車輌はありません。
入館する前に梅小路公園を歩いているときに写しました。
四国を除く、全国の亜幹線で使用され、後継63号機以降に相当するC57形式と同じように使用され、性能や使い勝手もよかったので1964年まで62両全てが在籍していました。
わたしもC55,C57の活躍は中学(もしくは高校)時代に購入した朝日新聞社の「世界の鉄道’71」で宗谷本線や南九州で活躍する姿に感動したものでした。
1935年から38年にかけて当時、日本の統治下にあった台湾にもC551~9として配備され、戦後は台湾鉄路管理局に引き継がれCT250形(CT251-259)となり、1982年10月に形式消滅しています。
40年前の姿です。
1号機の履歴を沖田祐作氏の機関車表から
C551 川崎重工兵庫工場=1538 1935-03-29 S66.00t2C1T(1067)
車歴;1935-03-29 製造→ 納入;国鉄;C551→ 配属;札幌局→1935-04-21 配置;小樽築港→
1940-03-05 発(3/5 着)苗穂→1940-04-28 発(4/28 着)小樽築港→
1940-09-13 発(9/14 着)下富良野→1941-03-31 現在;下富良野→
1942-00-00 頃改称;富良野→1943-09-29 発(10/1 着)小樽築港→
1945-04-01 現在;小樽築港→? →1947-09-09 発(9/9 着?)小樽築港→
1949-03-01 現在;旭川→1955-08-01 現在;旭川→1958-09-21 発(9/22 着)室蘭→
1968-09-21(9/22? =9/20 苗穂工場発)旭川→1971-11-12 発(11/16 着)梅小路→
1978-03-28 廃車;梅小路→ 保存;京都府「国鉄梅小路機関車館」;C551
(最終走行距離=3,228,113㎞)
1935年3月39日が製造日ですから、御年 満80歳ですね。
最後まで読んで戴きありがとうございます。
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