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2015年3月31日 (火)

40年ぶりの梅小路蒸気機関車館 9 C55 1号機

2014年8月10日の40年振りの梅小路蒸気機関車館訪問、今回はC551号機です。

C55_1_140810
2014/8/10 扇形庫から出されていたC55 1号機

C55形は私も現役の、といっても機関区で休む姿ですが、宮崎で見ています(関連記事)。

C51形で国産幹線蒸気機関車の形式を立ち上げた鉄道省が亜幹線用に最初に開発した形式がC54形でしたが、総重量を軽量化とボイラー圧力上昇のアンバランスから空転が頻発し、設計変更を迫られ、17両で生産が打ち切られ、新たに棒台枠を採用するなどの新技術を取り入れて設計されたのがC55形式でした。1935年から1937年にかけ、3次に分けて、川崎車輌、汽車製造、三菱重工、日立製作所により62両が製造されました。

1次形  1~19 1935年
2次形 20~40  1936年 流線型のカバー
3次形 41~62 1937年

2次車、3次車では亜幹線以下の機関区に多かった60フィート(18m)転車台に乗るように炭水車のボギー台車間、炭水車と機関車の間隔を詰めて、全長を240mm短縮しています。

C55形より、蒸気ドームと砂箱が一体となっています。
これは自動空気ブレーキを採用した結果、下り勾配で急ブレーキをかけると強力なブレーキ力で蒸気ドーム内に湯が入り込むというトラブルが起こり出したため、蒸気ドームを第一缶胴部から第二缶胴部に移す設計変更を行い、さらに空いたスペースに砂箱を移設し、それらを一体のカバーで被うようにしたためだそうです。さらに電気溶接が進歩し、リベットを極力使わなくしたため、スタイルがかなり近代化されました。

一方で、ボイラー圧力やシリンダー寸法はC54形のものを踏襲しており、動軸の軸重を増やすことで空転の発生を抑えました。動輪はC54までと同じスポーク動輪ですが、鋳鋼製の輪心部に補強がなされており、「水かき」といわれました。これは当時、ドイツの国鉄制式機で採用された方式でした。ただ、以降の形式はボックス型動輪を採用したため、大型蒸気としては最後のスポーク動輪機となりました。

スポーク動輪と棒台枠による台車側面の肉抜き穴のために動輪と台枠越しに反対側が透けて見えるのが特徴ですが、上の写真まさにそんなかんじです。

2次車は上述のように流線型のカバーをつけて竣工しましたが、C5343号機同様に流線型とする効果が無いばかりか、種々のトラブルやカバーが存在するための煩わしさから現場からは嫌われ、1950年から1951年には再整備が行われ、1次形と同じスタイルになりました。30号機が保存される予定でしたが、手違いから解体されてしまい、現存する車輌はありません。

C55_1_140810_3
入館する前に梅小路公園を歩いているときに写しました。

四国を除く、全国の亜幹線で使用され、後継63号機以降に相当するC57形式と同じように使用され、性能や使い勝手もよかったので1964年まで62両全てが在籍していました。

71

わたしもC55,C57の活躍は中学(もしくは高校)時代に購入した朝日新聞社の「世界の鉄道’71」で宗谷本線や南九州で活躍する姿に感動したものでした。

1935年から38年にかけて当時、日本の統治下にあった台湾にもC551~9として配備され、戦後は台湾鉄路管理局に引き継がれCT250形(CT251-259)となり、1982年10月に形式消滅しています。

C55_1_740929_2 40年前の姿です。

1号機の履歴を沖田祐作氏の機関車表から

C551      川崎重工兵庫工場=1538            1935-03-29 S66.00t2C1T(1067)
   車歴;1935-03-29 製造→ 納入;国鉄;C551→ 配属;札幌局→1935-04-21 配置;小樽築港→
      1940-03-05 発(3/5 着)苗穂→1940-04-28 発(4/28 着)小樽築港→
      1940-09-13 発(9/14 着)下富良野→1941-03-31 現在;下富良野→
      1942-00-00 頃改称;富良野→1943-09-29 発(10/1 着)小樽築港→
      1945-04-01 現在;小樽築港→? →1947-09-09 発(9/9 着?)小樽築港→
      1949-03-01 現在;旭川→1955-08-01 現在;旭川→1958-09-21 発(9/22 着)室蘭→
      1968-09-21(9/22? =9/20 苗穂工場発)旭川→1971-11-12 発(11/16 着)梅小路→
      1978-03-28 廃車;梅小路→ 保存;京都府「国鉄梅小路機関車館」;C551
      (最終走行距離=3,228,113㎞)

1935年3月39日が製造日ですから、御年 満80歳ですね。

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2015年3月30日 (月)

San Diego Lindbergh空港でのSpotting 4 Frontier Airlines

San Diego Lindbergh空港で撮影した旅客機の話題、今回はFrontier Airlinesです。

N1pc_boeing_7372p6adv_cn_21613_ln53 N1PC Boeing 737-2P6 cn 21613 ln 530 2002/1/17 SAN

Frontier Airlinesと名乗った航空会社はアメリカ史上、ふたつあり、最初はアリゾナ航空、チャレンジャー航空、モナーク航空の合併によって1950年6月1日に設立し、デンバーのStapleton空港を本拠地とした航空会社で、1985年ピープルエクスプレスに買収され、消滅しました。

2番目のFrontier航空は1994年2月8日にかつてのFrontier航空の役員らが設立し、同年7月5日から運航を開始した航空会社で、アメリカにおける超がつくLCCの草分け的航空会社です。やはりデンバー国際空港をバフとして、クリーブランド、マイアミ、シカゴ、オーランド、トレントン、ワシントン・ダレスなどとを結んでおり、Indigo Partners傘下の航空会社です。

San Diego空港以外の空港でもよく見かけた機体ですが、垂直尾翼に1機ずつ動物の絵が描かれているのが特徴です。開設当初はBoeing 737で運航していましたが、1999年Airbus A318 A319を購入、リースしてフリートを拡張することに同意しました。2001年に一機目のA319が納入され、塗装も下のように新しくなりました。2003年にはA318のローンチカスタマーになり、Boeing 737は全機退役しました。

B737_frontier_fleet
Frontier Airlines Boeing 737 Fleet list

Boeing 737は全部で42機を使用し、すべてが-200 typeでした。

N1pc
写真のN1PCは1978年11月にUAE政府に納入され、1995年からアメリカ国内で使用され、アロハ航空などでも使用され、最後はボリビアのAero Surで使用されました。

N950fr_airbus_a319111_cn_3028_08011 N950FR Airbus A319-111 cn 3028 2008/1/18

A319_frontier_fleet
A319のFleet list 全部で53機使用しており、すでに18機はFleetを離れています。

N950fr
cn3028の機体はリースバックされた後、ブルガリア航空にリースされています。

Fleet listや履歴のデータはPlanespotters.netを参考にしました。

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2015年3月29日 (日)

47年振りの東急世田谷線訪問 その3 宮の坂の保存車

東急世田谷線の話題、今回は宮の坂の駅横に保存されているデハ80形2代目87号、江ノ電600形601号です。

以前にも記述しましたが、玉電80形は1950年から1953年にかけて、日立製作所、東急横浜製作所、川崎車輌で28両製造されました。但し、純粋な新造は81~86の6両で、後の22両は旧型車(デハ1形とデハ20形)の鋼体化改造でした。デハ87号はデハ29号の鋼体化でした。

80_150214
玉電時代のデハ80形86号 電車とバスの博物館の展示写真から

玉電末期の合理化策の一環として80形のうち、81~86号は「連結2人のり」化改造がなされ、81~84号は連結面側の運転台も撤去、中扉のステップ延長、扉幅縮小、ドアエンジン設置などの改造が施工されました。玉電廃止で87-103号と108号は廃車となり、104-107号は87-90号に改番(1969/5/11)されました。
87-90号は連結2人乗り改造が施されなかったために、世田谷線ではあまり活躍することなく1970年に江ノ島鎌倉観光に譲渡され、600形として使用されました。世田谷線除籍日は1970年4月30日、江ノ電入籍日は1970年9月1日です。

601_150207 連結面側

601_150207_10
運転台側は腰にライトが付いたスタイルです。

江ノ電においては軌間を1372mmから1067mmに変更し、客用扉ステップの撤去、片運転台化、乗務員室脇の客用扉位置の移動、方向識別灯の撤去等の改造がなされました。603-604編成1983年601-602編成1990年4月28日に廃車されました。

廃車された601号は宮の坂駅脇の宮坂区民センターに静態保存されました。相棒だった602号は1988年651号に改番され、前回の記事で紹介したように前頭部は「江ノ電もなか」の扇屋に保存されました。

601_150207_2
車内も公開されており、シンプルな運転台も見ることができます。

601_150207_7
台車はブリル76Eというタイプで、主電動機は東洋電気製造TDK583 で吊り掛け式駆動方式です。
601_150207_2_3
説明板には前面の形態変化の説明もありました。

601_150207_13
車輌は宮の坂駅ホームに隣接して保存されています。2015/2/7


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2015年3月28日 (土)

西武新101系 その7 時は流れて 2連編 その5 流鉄5000形に乗って流山散歩 

元を正せば西武新101系2両編成の第二の車生として流鉄5000形にフォーカスを当て、活躍中の5編成を馬橋駅のJRホームから撮影した写真で紹介して参りました。

実を言えば、馬橋駅でよく写真は撮るものの、これまで下車したこともなければ、流鉄に乗車したこともありませんでした。そこで、この機会に、流鉄に乗って、5編成がどのように運用されているのかも見ておくべきと思い、3月14日に一日乗車券を使って流鉄、流山観光を楽しんで来ました。さらに3月22日にも写真を撮っていますので、これから紹介して行こうと思います。

150314 馬橋駅連絡通路にある流鉄ホームへの入口 2015/3/14

馬橋駅で常磐線改札口を出て、跨線橋を渡ると流鉄ホームへ降りる階段があります。

150314_2
階段を降りると昭和テイストの出札、改札口があります。もちろん自動改札口ではありません。

150314_3時刻表です。朝夕は増便されますが、昼間は1時間に3本の頻度です。

150314_edt 初乗りの線では一日自由乗車券を購入することにしていますが、500円とのこと。ちなみに片道全線、200円です。

1 購入した切符はこういったものでした。

51015001_150314_5
入線してきた編成は第1編成5101-5001の「流馬」でした。

51015001_150314 ワンマン対応の機器が追加された以外は、西武時代と殆ど変わっていない運転台

51035003_150314 小金城趾における交換風景 「あかぎ」が流山方面、「流馬」が馬橋方面

データイムは2編成の運行で、小金城趾で交換が行われていました。もう一本の編成は第3編成の「あかぎ」でした。

約11分で終点、流山に到着。

51055005_150314 2番線には第5編成「なの花」が休んでいました。

51045004_150314 検車庫内には第4編成「若葉」と編成を解かれた第2編成「流星」がいました。

150314_2_2 こちらは流山の駅舎内です。やはり、昭和の雰囲気が漂っています。

150314_4 流山の駅舎はこんな感じでした。

part2で流山市内を散策します。

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2015年3月27日 (金)

1989年のDüsseldorf Airport その28 Swissair MD-81

このシリーズでは統一前の西ドイツ時代の1989年の初夏に留学先の西ベルリンから週末休暇を利用して、西ドイツ本土ルール地方の主要都市であるDüsseldorfを訪問し、その際に空港で撮影した旅客機を航空会社や機種ごとに紹介して来ました。

3月24日午前10時41分頃(現地時間)に南フランス(17 km (10.6 mls) SW of Barcelonnette)で発生したGermanwings 4U9525便(バルセロナ発デュッセルドルフ行)乗客乗員150名搭乗のA320-211(D-AIPX)の墜落事故はドイツ在住の邦人2名が乗客名簿にあるということもあり、日本でも連日、大きく報道されています。
まず、この事故で犠牲になった方々のご冥福をお祈り申し上げます。

この事故に関して、現時点で明らかになっていることは、

10:00 バルセロナ空港を離陸
10:27   フライトレベル380 (38000フィート)に到達
10:30  IRMARのポイントに直行するという無線交信を最後に交信が途絶える。

管制側のレーダー記録では
10:31 マルセイユ東方で海岸線を横切る。
10:40:47 6175フィートで機影が消失

この間、乗務員から緊急事態を告げる連絡は一切無く、38,000フィートから6,800フィートまで3710フィート/分の急降下をしているということです。ブラックボックスのうち、ボイスレコーダーは回収されており、音声を聞いてみると、どうやら2名のコックピット乗務員のうち、一名がコックピットから閉め出されたような形跡があること。IFR(フライトレコーダー)は容器は見つかっているが、本体は未発見とのこと。

以上、Aviation Safety Networkの記事と新聞等の情報を参考にしました。

今回は今は亡き、スイス航空のMD-81について触れようと思います。

Hbisx_cn_49844_1579_mcdonnell_dougl
HB-ISX cn49844 ln 1579 1989/5/5 DUS

スイス航空(Swissair, S.A/AG: IATA: SR, ICAO: SWR)はかつて「空飛ぶ銀行」とも言われた堅実な経営で有名な航空会社で、1931年に創業し、1990年代後半にはクロスエア、バルエアを傘下に治め、SAirグループを形成し、サベナ・ベルギー航空と資本提携し、クオリフライアー航空連合の盟主まで務めた航空会社でしたが、傘下に収めたサベナ航空やフランスの航空会社の業績悪化、さらに1998年にカナダ・ハリファックス沖で起きたMD-11による111便事故、そしてアメリカ同時多発テロによる航空需要の落ち込みで2002年に倒産に至りました。

Hbisx_cn_49844_1579_mcdonnell_dou_2 HB-ISX

国営航空が存在しないわけには行かないので、子会社だったクロスエアが政府の援助を受けて資産を受け継いで経営しているのが現在のスイスインターナショナルエアラインズとスイスヨーロピアンエアラインズです。

今回は会社の歴史の概要に留め、機材の変化や路線拡張の様子は次回の記事で触れます。

Hbisx

写真のHB-ISXは1989年3月にデリバリーされたばかりの機体でした。そのためか、現在も現役でイランのKish航空フリートのメンバーです。またこの機体はMD-81として製造されていますが、搭載燃料量を増やし、最大離陸重量が増えて、MD-83にコンバートされた機体です。データはPlanespotters.netのものを参考に致しました。

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2015年3月26日 (木)

ご苦労様でした トワイライトエクスプレス part1 EF81 43

昨年12月6日の四方津で撮影した車輌の記事は前回で終了で、今回からは2015年3月のダイヤ改正で26年に及ぶ運行に幕を降ろした大阪と札幌を結んだ豪華寝台特急「トワイライトエクスプレス」について触れようと思います。

運転開始は1989年7月21日で、当初は団体専用列車としてツアー客を対象にした運行で、寝台券は一般販売されていなかったそうですね。1989年12月から一般にも寝台券が販売されるようになったそうです。尤も、この列車が運転開始された頃、私は西ドイツに滞在中で、10月に帰国して初めて列車の存在を知った次第でした。

7月の運行開始時点では編成は1編成で12月2日に第2編成が落成し、団体専用列車から臨時列車となり、1990年から1991年にかけてオハネ25形を改造した2号車を組み込んで9両編成となり、1991年4月には第3編成が落成しました。
以降、函館本線内の森付近での経路変更(1994年)、有珠山噴火による迂回運転(2000年)、新潟中越地震による運休(2004年)、羽越本線脱線事故による運休(2005年)、青森駅経由から青森信号所経由への変更(2006年)、新潟中越沖地震による運休(2007年)、東日本大震災による運休(2011年)などがあり、2015年2月には大雪や強風で15時間、16時間の遅れで運行されたこともありました。

私自身は残念ながら乗車経験はありませんが、関西出張、北陸旅行、北海道出張などで遭遇する機会に恵まれ、EF81やDD51重連牽引の姿を記録しているので紹介して行こうと思います。
まずは6機の専用塗装を施されたEF81牽引の姿から行こうと思います。JR西日本、敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室所属のEF81 43, 44, 103, 104, 113, 114の6両が牽引に充当されました。104号機は故障で離脱し、列車の廃止よりも先に2013年に廃車、解体となりました。

まずは43号機牽引の姿です。

Ef81_43_tle_030327_2 2003/3/27 塚本

北方貨物線経由で網干総合車両所宮原支所に向かう回送8002列車を塚本駅で捕らえた写真です。

Ef81_43_tle_030327_3
線路が緩くSカーブを描いており、編成が様々な表情を見せてくれる場所です。

EF8143号機の履歴は沖田祐作氏の機関車表データによりますと

EF8143     日立製作所水戸工場=10110-2         1972-05-25 E100.8tBBB(1067)
車歴;1972-05-25 製造→ 納入;国鉄;EF8143
→ 配属;関東支社→1972-05-25 配置;長岡→
      1972-07-00 酒田→1982-12-04 富山二→1986-11-01 敦賀→
      1987-04-01JR 西日本;EF8143→ 配置;敦賀運転所→
      1995-10-01 改称;福井地域敦賀派出→2008-04-01 現在;福井地域鉄道部敦賀運転派出

となっており、昭和46年度第2次債務予算で日立製作所の製造です。以前の記事に書きましたが、42号機から74号機までのグループで羽越本線電化開業用の名目で製造されており、この機関車は酒田区の駐泊施設が未完成だったため長岡に暫定配置された後、酒田区に配置されています。1982年、EF70の淘汰のため、40、41,42、43、44号機が揃って富山第二に異動しています。そして、1986年11月に将来の貨物機と旅客機の選別が行われ、「日本海」「つるぎ」および大阪口の団臨牽引用に43~48, 101~108, 113, 114号機が敦賀に転属しています。

Ef81_43_061119 2006/11/19 岸辺

トワイライト専用機の衣装を纏った姿で今は亡き「日本海」を牽引したこともありました。

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2015年3月25日 (水)

通勤電車シリーズ 103系 22 中央・総武緩行線 part1

通勤電車103系のシリーズ、今回から首都圏のカナリア色の通勤電車、中央・総武緩行線への103系投入の話題です。

103_790923
新小岩を発車した302編成 1979/9/23

以前、101系のシリーズで中央線の複々線化が荻窪まで伸びた1966年には、私は小学校4年で中央・総武緩行線にはまだ旧形国電が活躍していたという話をしました。1969年には複々線化が三鷹まで延伸し、西側部分に関しては現在の体制ができあがり、1972年7月には東京~錦糸町間の総武快速線新設と津田沼までの複々線化がなされました。千葉まで複々線が延伸したのは1981年のことでした。

この間、緩行線の車両は1969年に旧形国電が陶太され、101系に統一され、1979年からは103系も導入されました。さらに、中央快速線に導入された201系1982年には中央・総武緩行線にも投入されているため、この線における103系の歴史は常に複数の系列のなかのひとつといったイメージだったように感じます。

最初に103系が投入されたのは、1979年2月から3月にかけてで、10両編成3本が新製されて投入されましたが、クハ6両はATC車で品川電車区に、中間車8両3本は津田沼電車区に投入されました。この3本の編成は
    Tc    M    M'   T   M    M''  T    M   M'   Tc
301    131 684 840 458 685 841 459 686 842 130
302    113 687 843 460 688 844 461 689 845 114
303    123 690 846 462 691 847 463 692 848 124
6両のクハは品川区から転属しています。

1979年版の編成表では、クハ103-113, 1144月時点では非冷房で「夏までに冷改予定」となっています。130, 1311月31日に大井工場で冷改、123,1243月29日に冷改されています。113,114が前に細井さんがコメントされていた冷房SWだけを付けて中間車の冷房を活かしたクハのようです。結局、113、114が冷房改造されて大井工場を出場したのは1979年11月15日でした。

新製の中間車は昭和53年度本予算で製造されており、クハ103-733~755(奇数)、746~768(偶数)、モハ103-665~692、モハ102-821-848、サハ103-448-463で
クハは733,735,737, 739, 745, 747, 749, 751, 753, 755が品川区に、741, 743が池袋区に、モハユニット665/821~670/826, 675/831~683/839が豊田区へ、671/827, 672/828が品川区へ、673/829, 674/830が池袋区に、サハ448~457は豊田区に配置されています。

上の写真のように当時の一次車のクハには妻面や側面の方向幕を操作する指令機が搭載されていないので、101系の幕を入れて手動で対応したそうです。

103_830226 代々木に停車中の305編成 1983/2/26

その後、1979年4月に2編成、7月に1編成が投入され、夏までに6編成が揃いました。

1979/4/24, 4/10 近車 モハユニット 701/857~703/859, 704/860~706/862
            サハ 464, 465, 466, 467
1979/7/12 東急  モハユニット 707/863~709/865
                         サハ  468, 469 
このときに池袋区から試作冷房車のクハ103-178,179が4月28日に転属しています。それ以外には103,104が4月18日に転属しています。7月5日には蒲田区から48と71が転属しています。   

103_820130_4
市川を発車する306編成 1982/1/30

ここまでは8両の新製中間車とATC化で山手、京浜東北を追われたクハによる10連といった構成でした。

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続きは次回の記事で。

2015年3月24日 (火)

San Diego Trolley 1000形 part4

2015年1月のBlue Line 4000形 導入で開業以来の運用に終止符を迎えたSan Diego Trolley 1000形の活躍する姿を紹介していますが、前回は1031号車まで紹介しました。

1032号車は撮り逃がしていますので、1033号車から行きます。

1033_150114_america_plaza2 1033 2015/1/14

今年、San Diegoから帰国する日にこの付近のバス停から空港行きのシャトルバスに乗りましたが、その直前に写した写真で、1000形最後の勇姿かと思います。

1034_030113_santa_fe_depot 1034 2003/1/13 Santa Fe Depot

1035_090114_america_plaza 1035 2009/1/14 America Plaza

1037_150110_12th_imperial_tc 1037 2015/1/10 12th & Imperial TC

車両基地内で休む姿です。

1041_030115_12th_and_imprial 1041 2003/1/15 12th and Imperial TC

1051_150112_12th_imperial_tc 1051 2015/1/12 12th and Imperial TC 車両基地

この基地のすぐ横に深夜、トロリーの線路を走る貨物列車の操車場があり、SDIY (San Diego & Imperial Valley Railroad) のディーゼル機関車701形も停まっていました。

701_150112_12th_imperial_tc3
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2015/1/12

今回は以上です。

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2015年3月23日 (月)

広島・四国西南部旅行 広島編 その3 広島電鉄 part 3 3700形

広島電鉄の車輌の話題、3000形の次は3500形に行くべきなんですが、生憎今回は遭遇していないので、3700形に行きます。

3701_141219 広島駅前に進入する3701編成 2014/12/19

少しだけ、3500形について触れます。
3500形は1980年に登場した連接3車体(3501A-3501C-3501B)の構成でAB両端の台車が動力台車、AとC,CとBを支える台車が付随台車といった方式で、日本船舶振興会の資金援助で日本鉄道技術協会が開発した「軽快電車」の第1号です。1980年7月に川崎重工兵庫工場で完成しました。サイリスタチョッパ制御、直角カルダン駆動、モノモータ2軸駆動方式など、試作的要素が強く、同年12月21日に営業運転に入るまで、試験運転が繰り返され、データ収集が行われたそうです。この電車から、3950形まで、同タイプの3車体連接車シリーズは「ぐりーんらいなー」という愛称が与えられました。

デビュー直後、宮島線に投入されましたが、後継の3700形以降の車輌に較べると加速性能が劣る等の問題点があり、予備車扱いとなり、現在は荒手車庫の奥で眠っているそうです。

3701_141219_2
3500形の様々な試験結果を反映させて1984年に登場したのが3700形です。3500形に較べるとオーソドックスな抵抗制御・平行カルダン方式で5編成が製造されました。

5編成のうち、3701、3702編成は市内線に投入され、3703~3705編成は宮島線に投入されています。

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本川町を行く3704編成 2014/12/18

3701編成 1984年製造 速度制御装置は未設置
3702編成 1985年製造 これ以降、速度制御装置設置
3703編成 1986年製造
3704、5編成 1987年製造 幕の位置が異なり、エアコンキセの設置も異なります。

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2015年3月22日 (日)

公園保存車両 京都市電2001 京都梅小路公園

全国の公園等に保存してある車両を観て歩くシリーズ、今回は梅小路蒸気機関車館訪問前に梅小路公園で見かけた京都市電2001の話題です。

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元京都市電 2001 梅小路公園 2014/8/10

この車両は京都市電最後の新造車として製造された2000形、6両のうちの1両です。特徴はラッシュ時には連結運転を行い、閑散時にはワンマン運転を行えるように設計されており、1964年から1965年にかけてナニワ工機(現アルナ車両)で製造されました。

車両定員は90名、全長11,900mm、全幅2,440mm、全高3,800mmで軌間は1435mm、直流600V方式で、電動機は45WのSS-60を2台搭載し、吊り掛け駆動方式で、ブレーキはSME非常弁付直通ブレーキ方式です。

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連結車とワンマンの使い分けをするための2段表示も特異的

6両全車が烏丸車庫に配置され、4系統(京都駅前 - 四条烏丸 - 烏丸車庫前(現在の北大路バスターミナル) - 金閣寺前 - 西大路七条 - 七条烏丸 - 京都駅、現在の地下鉄烏丸線及び京都市バス205系統)に集中投入されました。連結運転時には、1両目に運転手と車掌、2両目に車掌の3乗務員体制となり、車輌間はブザーで連絡を取り合いました。当初の予定では20両新造される予定でしたが、交通局の財政事情悪化で、2年で製造が打ち切られ、不足分は600形の改造工事で対応となりました。

以後、600形改造の2600形が増えたことで、連結運転の系統数も増えましたが、1974年の地下鉄工事に伴う烏丸線の廃止以降、持て余し気味となり、1977年9月の河原町・七条線廃止時に全車廃止となり、2001は烏丸車庫に保存、2002~2006は伊予鉄道に譲渡されました。

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大手町の平面交差をゆく2006号 2014/12/21

伊予鉄道譲渡にあたり、軌間が1067mmの狭軌であるため台車枠、輪軸の長さはそのままで車輪のバックゲージのみ1067mm対応としました。さらに主電動機は狭軌用の強力型である三菱電機MB-336-LR4に交換され走行性能を引き上げました。ワンマンカー/連結車表示幕の撤去・前照灯の1灯化、側面方向幕の設置などモハ50形に準じた仕様への改造が施され、1979年から翌1980年にかけて5両全車が竣工しました。1982年には冷房化改造と制御装置の直並列化改造も実施されました。

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2015年3月21日 (土)

水郡線営業所公開 その5 C61 20号機 part2

このシリーズ、前回に続いて、高崎車両センターから、常陸大子に奥久慈清流ライン号牽引のためやって来たC6120号機の話題です。

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常陸大子で展示されるC61 20号機 2014/11/30

2011年2月から3月にかけて、38年ぶりの復活を遂げ、D51498号機とともに高崎車両センターを住処に運用を開始しました。

本線試運転は4月21日より開始されましたが、初日に水上駅でトラブルが発生し、蒸気を開放してDD51888による救援を得て、高崎に回送となりました。本格的営業運転の開始は6月4日の「快速SL C61 復活号」からとなりました。

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SL内房100周年記念号 2012/2/11 蘇我

その後、さまざまなイベント列車牽引に活躍していますが、私は2012年2月10日から12日の「SL内房100周年記念号」、2012年7月28日、29日の「SLふくしま復興号」(撮影したのは試運転)、2013年2月9日から11日「SLおいでよ銚子号」、2014年12月5日から7日の「SL奥久慈清流ライン号」でした。

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SL おいでよ銚子号 2013/2/11 小路踏切

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ふくしま復興号 試運転 2012/7/20 日和田

今後のイベントの予定の中で注目されるのはC57180号機の全般検査期間中の代役として「SLばんえつ物語」を初めて牽引することのようです。

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現役時代 OM101編成のクハ183-1529 2008/6/28 新川崎

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2006/3/27 大宮

因みにC6120号機が復活した後、伊勢崎の華蔵寺公園には2014年1月21日にJR東日本よりクハ183-1529が無償譲渡され、3月4日より展示されているとのことです。

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2015年3月20日 (金)

東海道新幹線開業から50年 その12 500系の登場 part1

2014年10月の東海道新幹線開業50周年にあたり、0系、100系、300系と見てきましたが、今回は500系です。

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田町を通過する 500系 W1編成

前面窓ガラス上に編成番号が書かれていますが、W1編成の特徴はJR500 WEST JAPANのロゴの前方にみえるホクロのような●です。
この●はすれ違い試験時に取り付けられたセンサー用の窓とのことです。

100系、300系はJR東海、JR西日本の両社が製造しましたが、500系は山陽新幹線における航空機への対抗、高速化を目指してJR西日本が単独で製造した形式です。車体強度、台車強度、力行性能など全てを320km/h対応として1996年1月に最初のW1編成(量産先行車)が落成しました。製造は川崎重工業車両カンパニー(1 - 6号車)・近畿車輛(7・8号車)・日立製作所笠戸事業所(9・10・13 - 16号車)・日本車輌製造(11・12号車)の各社が担当しました。

1997年3月22日のダイヤ改正で営業運転を開始し、山陽区間での営業最高速度300km/hを実現し、新大阪~博多間を「のぞみ」で2時間17分で結びました。

歴代の新幹線車輌の中でも高速性を意識した車輌デザインはドイツのアレクサンダー・ノイマイスター社によるもので、同社は福岡市交通局3000系電車ICE3のデザインも手がけています。500_w7_050708_10

500系 W7編成の前頭部 2005/7/8 新大阪

いわゆる「トンネルドン」といわれる微気圧波対策のため、前頭部は全長27mの半分以上に相当する15mに渡って断面を徐々に窄めた構造となっており、車体断面も車体高を維持しつつ断面積を縮小するため、客室に関係ない部分を切り詰めた円形となっています。そのために先頭車の乗務員室扉後方の客用扉が無くなり、乗務員室後方の2列の座席も2-2配置となり、運転席の視野も限られた構造となっています。

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500系 W7編成のキャノピーの構造 2005/7/8 新大阪

高剛性を保ちつつ軽量化し、防音性能も向上するためにアルミハニカム材をアルミ合金で挟んだ素材を組み上げる方式を採り、車体重量は300系よりも1両あたり、600kg軽量化を実現しています。

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枇杷島付近を通過するW1編成 2005/7/5 
たまたま通過した500系を撮影したものですが、●からW1編成と識別できました。

制作費は1両あたり3億円、1編成あたり46億円で700系よりも10億円余分にかかったため、所要の9編成で製造は打ち切られました。

ユニット構成や形式の話題は次回の記事で。

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2015年3月19日 (木)

パリの6つのターミナル駅巡り リヨン駅 1

前回のスハフ42形の記事で高崎鉄道ふれあいデーのシリーズは終了とし、今回からは新しいシリーズ、パリの6つのターミナル駅巡りに入ります。

1986年6月の新婚旅行や、数度に亘る出張でパリを訪問しています。海外の都市を訪れた際にその都市の中心駅を訪問すれば鉄道車輌を見ることが出来るのと同時にその国の文化や人々の暮らしの様子にも触れることができるので、駅は重要なポイントと考えています。

パリには、リヨン、オステルリッツ、モンパルナス、サンラザール、北、東の6つのターミナル駅が存在し、リヨン駅のそばにベルシー駅もあり、それぞれの駅からそれぞれの方向に独特の列車が発着しています。2009年3月にフランス・モンペリエに出張した際にパリで列車から飛行機の乗り継ぎの関係で時間があったので、6つのターミナル駅巡りをしました。

まずはリヨン駅 (Gare de Lyon) から参ります。

リヨン駅はパリを20に分ける行政区(東京23区のようなもの)でいうと12区にあり、南東部セーヌ川の北岸に面しています。パリの行政区は中心部から、時計回りに螺旋を描くように1から番号が振られており、12区はルイイ区 (Arrondissement de Reuilly)」ともよばれているそうです。面積は20の区の中で最大で、リヨン駅の他、経済・財政・産業省、オペラ・バスティーユなどがあります。

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リヨン駅で最も印象的なのはこの駅舎の時計台かと思います。
リヨン駅はフランス国鉄(SNCF)のパリから南東方面に向かう長距離列車(グランド・リーニュ grande ligne)の発着駅であり、パリ交通公団(RATP)によるRER(Réseau express régional d'Île-de-France、イル=ド=フランス地域圏急行鉄道網)のA線、メトロ1号線、14号線、SNCFによるRER D線などが発着する駅となっています。

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リヨン駅の案内図 2009/3/8
高架ホームの無い上野駅といった感じです。

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待合ホールの風景

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映画にもしばしば登場するレストラン「ル・トランブルー」(青列車) 1901年開業のベル・エポック調の装飾が有名です。

パリ・リヨン鉄道の起点駅として1849年8月12日に現在の位置よりも北のバスティーユ広場に近い位置に開業しました。1855年、現在の位置に盛り土し、移設され5線のホームが全長220m、幅42mの大屋根で覆われ、両側に出発用、到着用のホールが設けられる壮大なものとなりました。1900年のパリ万博に合わせて3代目の駅が開業し、現在の青ホームに相当する13線のホームが設置されました。

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駅舎もこのときにマリウス・トゥードワールの設計により造られました。1977年RER A線が乗り入れ、1981年にはTGVの発着に対応して、地平ホームが既存のホームの約200m東側を終端として増設されました。これが今の黄ホームです。

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黄ホーム終端から青ホーム終端 約200mの距離があります。

1988年6月27日、リヨン駅地下ホーム(現在はRER D線ホーム)ではパリ鉄道史上最悪の列車衝突事故が起きています。私はこの事故をNational Geographic Channelの「衝撃の瞬間」シリーズ3-11 Paris Train Crashで知りました。

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現在は殆ど引退しているようですが、当時パリ北駅の近郊線ホームで見かけたZ5300タイプ 2009/9/19

同日夕刻6時36分頃、リヨン駅に向かう近郊電車Z5300形 8両編成がダイヤ改正で停車駅を勘違いした女性乗客によってリヨン駅手前 8kmのLe Vert de Maisons駅で非常ブレーキが引かれ、緊急停止しました。運転士と車掌は列車の運転再開のため、ブレーキのリセット操作を行いましたが、その際にブレーキ管に空気を送るレバーを間違って操作し、安全システムの存在を誤認して、ブレーキが効かない状態で発進させてしまいました。途中、Maisons-Alfort駅で停車する予定でしたが、約26分の遅れのため通過となり、そのままリヨン駅に向けた下り坂に進入してしまいました。

一方、リヨン駅地下ホーム2番線では出発予定の電車が車掌の到着遅れのため、出発が遅れていました。出発が遅れた場合、到着列車は信号プログラムにより別のホームに誘導されるはずでした。

リヨン駅に向かう列車はブレーキが効かないことに気付き、管制室に非常事態を連絡、さらに車掌と連絡して、乗客を後部に避難させ、車掌は非常ブレーキ用ハンドブレーキを操作しますが、速度は落ちません。運転士は非常警報ボタンを押しました。

リヨン駅管制は非常事態を出発予定列車に伝え、帰宅ラッシュで満員の乗客を車外に出すように誘導します。車内はパニックに陥り、7時9分、2番線に暴走列車が突入し、正面衝突を起こし、逃げ遅れた乗客、最後まで乗客に避難を呼びかけた出発列車の運転士など乗員乗客56名が死亡、55名が負傷する大惨事となりました。

事故調査により、(1)ブレーキシステムが効かない状態で発車(2)ブレーキチェックが出来るはずの停車駅が遅れのため通過となる(3)運転士がパニック状態になり、電気ブレーキを使用しなかった(4)暴走列車を空いている線路に誘導するポイント切り替えシステムが、無線交信の際に列車名を伝えなかったために列車を特定できず、かつ信号プログラムが非常警報の作動でリセットされてしまい、空いたホームに誘導するシステムがキャンセルされてしまった。という不幸な偶然の重なりで事故に至ったことが分かりました。

1995年にはRER D線リヨン駅~シャトレ・レ・アル駅間が開業し、地下の近郊線ホームがD線ホームとなり、1998年にはメトロ14号線が開通しました。

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2015年3月18日 (水)

尾久車両センター公開 2014 その4 カヤ27-501

2015年3月のダイヤ改正に関する話題は一旦、お休みにして再びいつものシリーズを続けます。

今回は2014年11月15日の尾久車両センター公開で展示されていたカシオペアE26系編成用予備電源車カヤ27-501の話題です。

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尾久車両センター公開で展示されたカヤ27-501 2014/11/15

E26系カシオペア用の編成には本来、カハフE26形が12号車として編成に組み込まれており、従来の電源車とは異なり、ラウンジカーとしての機能も兼ね備えた車両となっています。カハフE26形にトラブルが生じた際や、検修による入場の際の代替電源車として2000年カニ24 510を種車として改造されたのがカヤ27-501です。

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カシオペア編成の本来の電源車 カハフE26-1 2006/9/24 大宮

カニ24 510は元来、1977年9月28日「あさかぜ」「瀬戸」「安芸」の24系25形化で登場したカニ24 100番台グループで、16両が1977年から1980年にかけて新潟鐵工所および富士重工業で製造されました。それまでのカニ24に対して荷物取扱量の増加で荷重を5tとし、車体長が1m延長され、19.5mとなり、後位妻面に貫通扉が設置されました。そのうちの一両-1131990年に「北斗星」投入のため、耐雪耐寒強化工事が施工され、カニ24 510に改番されていました。

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表1 カニ24 100番台16両の履歴 (国鉄型車輌の系譜シリーズ01 形式24系 イカロスMOOKを参考にしました。)

2425_801213 大ムコ時代のカニ24 113
新大阪駅に到着した24系25形使用の「明星6・彗星2号」 1980/12/13
番号は確認していませんが、カニ24 113~116の4両のどれかと思います。

2424_830102 秋アキ時代のカニ24 113
秋田駅に到着した特急「出羽」24系編成の電源車を務める姿 1983/1/2
こちらも番号は未確認ですが、101, 102, 113~116の可能性が高いです。         

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普段は目にすることが無いカヤ27の連結面 製造や改造を示す5枚の銘板が印象的です。 
E26系客車とは密着連結器で連結されます。

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台車はE26系客車は軽量ボルスタレス台車TR250形、TR251形で枕バネは空気バネなのに対してこちらはコイルバネ方式のTR66Cを履いています。

(追記)寝台特急固定編成客車の電源車はマニ20以来、TR54を履いていましたが、ディーゼルエンジンとMGの両方を搭載したカニ22が登場した際に、自重の重さに耐えるためウイングバネ式のTR66が開発されました(細井様のコメントを拝見して思い出しました)。

カヤ27化改造に当たって、発電設備が更新され、種車の荷物室は車内販売等に使用する業務用室に変更されました。E26系編成は電気指令式ブレーキを常用として装備し、牽引機関車の変化に対応して、ブレーキ指令読み替え装置を持っていますが、カヤ27形連結時はこの読み替え装置を搭載していないため、従来のCL方式(応荷重式自動ブレーキ装置)によるブレーキ方式となります。

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カヤE27-501を編成に組み込んだカシオペア 2007/5/24 石橋~自治医大

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2015年3月17日 (火)

ダイヤ改正 仙台EH500 首都圏運用の変化

JR貨物の交直両用電機、ECO-POWER 金太郎こと、EH500形1997年に試作機が登場し、2000年3月から量産され、81号機まで登場し、12両は関門、九州内用に門司機関区に配置、70両は仙台総合鉄道部に配置され、北は五稜郭、南は新鶴見までの範囲をカバーしてきました。

拙blogにおいても過去に何度かEH500に関して触れましたが、今回は3月14日に秋葉原で「貨物時刻表」を入手し、2015年3月のダイヤ改正における運用の変化が見えて来ましたので、記事にしました。

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仙台のEH500の登場以来の運用の変化を振り返ってみると、青函トンネル区間のED79、東北本線・黒磯以北の交流区間のED75、そして黒磯以南の直流区間のEF65等の3種類の電機の仕事を一台でこなす機関車として登場しましたが、運用区間が長かったために走行距離に応じた点検頻度の増加を招き、また故障が多発して運用を外れたED75が再登板といったこともありました。そのために、交直両用機でありながら、黒磯以北の運用が多く、首都圏の直流区間の運用は、隅田川への3056~3057レ、新鶴見への3086レ、新鶴見からの3087レそれらの夜の折り返し運用といった時代が長く続きました。

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隅田川で出発の準備をするEH500-1号機牽引 3057列車 2006/3/5

2008年3月の改正で東北のED75重連運用は1運用になり、2009年3月の改正では黒磯まで来る運用は全てEH500となりました。一方、常磐線を介して南下する運用にもEH500が投入され、2010年3月からは90レ、91レで水戸までの運用が設定されました。さらに同年12月の改正では3062レ、3063レで越谷ターミナルまでの運用が加わり、水戸までだった90レ、91レは田端操まで延長されました。越谷タ関連の運用は武蔵野線を経由するために機関車が方向転換するようになったのもこの頃からでした。

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震災時における被災後、しばらく限定運用されており、昨年夏に久しぶりに本格運用に復帰した試作901号機牽引の常磐線2095列車 2014/8/5 妙向寺踏切

一方、同改正では田端運転所のEF510-500番台EF81に代わって常磐貨物の運用を担当するようになりました。しかし、2011年3月の東日本大震災で、常磐線はいわき以北が不通となり、東北から常磐線経由で走っていた貨物列車は東北本線経由になりました。

2012年3月の改正では青函トンネルの新幹線併用化に向けて交流複電圧方式のEH800形の試作機が登場し、2013年3月の改正ではJR東日本田端運転所に委託していた常磐線貨物列車の運用をJR貨物が担当するようになり、EF510-500番台に代わってEH500が受け持つようになりました。そして2014年3月の改正では新座ターミナル折り返しの運用も追加となり、首都圏運用は12往復まで増えました。

そして今回の改正ですが、運用は101-182までの82仕業まで増え、首都圏乗り入れは18往復となりました。

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表1 2015年3月改正における仙台EH500の首都圏運用

表1に貨物時刻表から首都圏乗り入れ運用をピックアップしてみましたが、以前からの新鶴見、隅田川、越谷、新座の運用に加えて、梶が谷ターミナル運用が加わり、黒磯までだった運用の首都圏までの延長が特徴的です。

常磐貨物に関しては仕業番号がA126(5095~5094), A150(2097~2092), A156(2095~2094)からA117, A107, A145にそれぞれ変わっていますが、時刻は殆ど同じです。

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目下のラストナンバー81号機牽引の5094レ 安中貨物 2013/12/4 妙向寺踏切

青函トンネルの併用化でEH500の運用は青森までなり、青函はEH800になる時代もそこまで来ており、仙台の70両のうち、何両かは九州へ転属とも言われていますので、この運用が最盛期の運用になるかも知れません。

ちなみに、今回の改正では吹田のオシタロウことEF210-300の運用が一般のEF210と共通化されていたり、富山のEF510が岡山まで進出したりと、撮影する側にとっては面白い変化もあるようなので、じっくりと時刻表を眺めてみるのも楽しいかも知れません。

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2015年3月16日 (月)

ダイヤ改正 上野東京ライン開業 part2 走行写真

上野東京ライン、今回は秋葉原駅から眺めた新幹線の上を走る高架線を走る車輌と、田町駅で写したこれまでは見られなかった車輌の走行風景を紹介致します。

まずは、秋葉原駅からの写真です。

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E231系U33編成は「上野東京ライン開業」の特製HMを付けて走行 2015/3/14 秋葉原

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北陸新幹線の車輌も通過

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浅草橋よりの窓からの眺め E231系 U60編成

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塗装の新しくなったE3系2000番台も通過

続いて田町駅の京浜東北南行き、山手線外回りホーム北端から

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E657系 K17編成 2015/3/14 田町  
今回の増備車輌ですね。

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こちらはK1編成

品川駅ではデータイム「ひたち」が毎時44分発、「ときわ」が毎時14分発で、「ひたち」の出発後51分に「ひたち」が、21分に「ときわ」が到着するので、田町駅付近では到着列車が通過して、すぐ出発列車が通過するパターンでした。

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E531系 K415編成

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付属編成は増備されたK473編成でした。

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2015年3月15日 (日)

ダイヤ改正 上野東京ライン開業 part1 まずは品川へ

1975年3月10日のダイヤ改正は新幹線博多開業をメインとしたダイヤ改正で、大ムコや門ミフの485系、583系による山陽・九州路の昼行特急が全廃され、わたしも当時大学1年で改正前にやはり改正で廃止される「高千穂・桜島」で下関まで行き、「つばめ」や「はと」を撮影したものでした(関連記事)。綾小路きみまろではないですが、あれから40年、北陸新幹線が長野から金沢まで延伸し、北陸本線や信越本線の一部が第3セクター化され、北陸までJR最後の風景を見に行った方々も多かったようですが、今回は身近な上野東京ラインの開業風景を見てきました。

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最寄りの荒川沖駅の列車案内表示 2015/3/14

我孫子・上野に東京、品川が加わり、品川行という表示が開通したんだと感じさせてくれます。
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2番線 ホームの表示も新しくなっています。

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時刻表、8:41発に乗車しましたが、これは3本目の品川行電車でした。
いつもは5:27発の初電で出かけることが多いのですが、今日は品川行に乗車するため少し遅く家を出ました。
150314_4 足元の乗車表示も新しくなっており、昨日の記事にあったフレッシュひたち11両の表示も当然のことながら撤去されていました。
普段は乗らない先頭車両に乗ったのですが、予想していた通り、日暮里あたりから満員状態
上野ではほぼ同時に7番線に到着した高崎から熱海行の1851E(E233系3000番台)の出発を待つ形で3分ほど停車してから発車。
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E531_150314_3
因みに上野東京ラインに乗り入れるE531系の正面表示は上の相互表示でs、上野止まりは従来と同じです。 品川にて
150314_910 品川駅 9,10番線の駅名標 常磐線専用、行き止まりホームであることを示しています。線路は南に続いています。

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品川駅の常磐線列車用ホームは9,10番線で、特急「ひたち」「ときわ」は9番線にのみ、E531系は両方に、E231系は10番線と分けられているようです。






150314_5 品川駅の列車案内表示 開業!の字幕はいつまで表示されるのでしょうか?

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ホーム案内表示 6,7番線がありません
この後、田町でこれまでは見ることがなかった常磐線車輌を撮影、さらに秋葉原で高架線を行く上野東京ラインの車輌と新幹線を撮影、そして上野駅へと行きました.それらに関してはまた別の記事で纏める予定です。さらにこれまで国府津、高崎に配属されていたE233系3000番台に関しては所属標記や編成番号の変化が見られ、噂には聞いていましたが、小山に集約される様ですね。

田町のNT編成のときもそうでしたが、高崎のL,D編成も短期間で動きがあるために未撮影で標記が変わってしまう編成が未だ出てしまいそうです(笑)。

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2015年3月14日 (土)

いよいよダイヤ改正 常磐線の車両の変化

今日から、ダイヤ改正で、わたしもこれから東京方面に出かけてきます。
その前に、常磐線関係の車両について触れようと思います。

 

まず、改正で定期運用を終える車両として、挙げられるのは651系特急電車ですね。
1988年から1990年にかけて、さらに1992年に増備された川崎重工業製造の交直両用特急車両で1989年3月11日のダイヤ改正でそれまでの485系ひたち」に代わって、「スーパーひたち」として華々しくデビューしました。白を基調とした外装から「タキシードボディのすごいヤツ」というキャッチコピーが付けられ、私も当時生まれた子供がセーラームーンなどを観ているときに、651系を思い出したものでした。

 

2002年12月1日の改正からはそれまでの「スーパーひたち」専用から「フレッシュひたち」も担当するようになり、座席の改造、照明の変更等を経て、2013年3月のダイヤ改正で後継のE657系に後を任せました。2015年3月の改正から運用されるSuicaによる座席指定システム導入のためのE657系の改造工事入場の関係で再び、2013年10月1日から常磐線特急「フレッシュひたち」1往復を担当するようになっていました。

 

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K105編成+4連編成で朝の「フレッシュひたち4号」として復活定期運用する651系 2013/11/16 妙向寺踏切 (荒川沖~ひたち野うしく間)

 

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651系のお役目終了、そして特急愛称の変更でこの表示も消えます。2013/10/6 荒川沖

 

2014年3月15日のダイヤ改正で185系の後継特急として、「スワローあかぎ」「あかぎ」「草津」を担当することになり、交流機器を回路的に分離して、直流専用改造し、1000番台とした編成もあります。また2011年3月11日の東日本大震災の当日、「スーパーひたち15号」としていわきで7連を切り離し、原ノ町に向かったK202編成は原ノ町到着の約1時間半後、地震発生、その後の原発事故等で常磐線は寸断され、原ノ町に取り残されたままとなりました。

 

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651系1000番台 「あかぎ」 2014/7/16 大宮

 

E653系が「いなほ」「しらゆき」に転用されているため、651系が廃車になった485系K40, K60編成に代わって波動用として勝田センターに残るため、活躍はまだこれからも見ることができるでしょう。

 

E531k471_150308

 

 


付属編成単独で水戸線運用に入るE531系 K471編成 2015/3/8 小山

 

一方、上野東京ラインの開通に伴う所要増で増備された車両もあります。

 

まず、特急用のE657系K17編成が総合車両製作所で製造され、2014年11月4日に横浜事業所を出場しました。

 

←いわき
クハE657+モハE656/657+モハE656/657+サロE657+サハE657+モハE656/657+クハE657
   17          17/17           117/117         17            17         217/217           17

 

E531系も基本編成1本K423編成と付属編成7本K469~K475編成が総合車両製作所で製造され、出場しています。

 

K423           2014/9/30

 

←高萩
クハE531+サハE531+モハE531/530+サハE530+サロE531/530+モハE531/530+クハE530
      23          30              2023         2023                23         1023/23           23   

 

K469           2014/12/18
K470           2015/1/27
K471           2015/1/27
K472           2015/2/19
K473           2015/2/19
K474           2015/3/10
K475           2015/3/10

 

←土浦
クハE531+サハE531+モハE531/E530+クハE530
   1019         31           19/1019          2019
     |             |                  |                  |
   1025         37           25/1025          2025

 

E531系の新車に関してはK471編成は乗車したり、運用に入っているのを見かけています。

 

さらに松戸車両センターのE231系に関しては三鷹車両センターのB20, B21, B22編成から

 

B20、B21の5号車サハE230 6ドア車-20, -21を抜き取り、B22の6号車サハE231-65をB20の5号車に、同じくB22の7号車サハE231-66をB21の5号車に連結して、
B20→マト118、B21→マト119とし、B22の5号車サハE230 -22も抜き取り、サハE230は全て解体され、B22の残りの車両は三鷹センターに留置となっています。

 

以上、編成の製造データなどに関しては「4号車の5号車寄り」のサイトの情報を参考に致しました。

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2015年3月13日 (金)

寝台特急「カシオペア」のEF81 代走牽引

すでにいろいろなBlog等で報じられていますが、3月1日の8009列車から本来、EF510-500番台、しかも専用塗装の509号機もしくは510号機が優先して牽引するはずの「カシオペア」がEF81によって牽引されています。

3月1日発の8009列車、返しの3月3日着の8010列車が81号機
3月3日発の8009列車、返しの3月5日着の8010列車が95号機
3月6日発の8009列車、返しの3月8日着の8010列車が再び、81号機
3月8日発の8009列車が97号機、返しの3月10日着の8010列車は97号機ATS故障のため、青森車両センターの138号機
3月10日発の8009列車が返しで138号機
そして、3月12日着の8010列車はATS修理をした97号機ということでした。

これは田端運転所所属のEF510-500番台が

510号機 重要部検査で富山機関区に入場
515号機 秋田センターにて検査中
513号機 2月25日、上野着の北斗星以降運用に就かず

といった絶対数の不足によるため(鉄道ファン情報サイト)と思われます。ただ、不思議なのはEF510-509号機は同時期、「北斗星」の運用を3/1, 3/7, 3/9, 3/11と担当しており、「北斗星」がEF81の代走牽引とならずに「カシオペア」が今回の事態になったことです。

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EF81 79号機牽引のカシオペア 8010列車 2009/2/8 大宮

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EF81 89号機牽引のカシオペア 8010列車 2006/3/26 自治医大~石橋

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EF81 92号機牽引のカシオペア 8010列車 2002/9/10 東十条

寝台列車「カシオペア」は1999年7月16日の登場から、2010年6月のEF510-500番台投入まで、(カシオペア専用塗装のEF81が最初から準備されていたかどうかは確認中)、専用塗装のEF81 79,89, 92号機限定で上野~青森間を牽引し、2008年89号機が故障で離脱、2009年に廃車となり、99号機が新たに専用塗装となり、牽引を担当しました。

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EF81 99号機牽引のカシオペア 8010列車 与野

そんなわけで、北斗星牽引を担当していた☆のEF81にとっても、EF8195にとっても「カシオペア」の牽引は通常ではあり得ないことでした(2010年7月にIGRいわて銀河鉄道いわて沼宮内~御堂間での土砂流出で迂回運転となり、EF81 98が牽引したことがありました。関連記事)。

ただ、EF510-500番台は仲間が入院するとよく風邪を引くというか、集団感染しやすい機関車のようで、常磐線貨物の運用を受け持っていたときも何機かで車輪のトラブルが発生し、安中貨物をはじめとする貨物運用がEF81担当に戻ったことがありました(関連記事)。

そういったときに備えてEF81を検査期限が残っている限り、残しているのかとも思えますが、今回の「カシオペア」牽引、田端に残ったEF81のいわば最後の花道的運用でもあり、私も記録しておかなくてはと思い、3月8日日曜日にEF8181牽引の8010レを小山で、さらに8009レを牽引する機関車を尾久で確認してから浦和で撮影しました。

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ローズピンク、お召し塗装に戻って2度目のカシオペア牽引となったEF8181号機

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尾久で推進回送に備えるEF8197号機 

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浦和駅に接近するEF8197号機牽引 8009列車

この後、青森でATS故障を起こし、すぐに帰ることができなくなりEF81138号機が代走するとは・・・

今回の一連の代走騒ぎでは、95号機も牽引していますが、同機に関してはHMなしでしたが、2012年10月14日上野着の「カシオペアクルーズ」を担当しています。

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同列車の推進回送 2012/10/14 日暮里

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集中豪雨のため東北本線が不通となり、カシオペアは上越線経由となり、長岡のEF64 1051号機が牽引したこともありました。 2011/9/23 東十条

1月末頃から富山機関区に検査入場していた510号機3月9日にEF81 81に牽引されて田端に戻っているので、3月13日発の8009列車からは通常スタイルに戻るかと思われます。

カシオペアは今回のダイヤ改正では変動のないものの、先はあまり長くないと思われますので、牽引機の変化などはできるだけ記録しておきたいものです。

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2015年3月12日 (木)

ダイヤ改正を前に 上野駅高架ホーム その2

3月14日のダイヤ改正を前にした上野駅の話題、今回は常磐線のダイヤを中心に見て行こうと思います。

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9,10番線のホーム案内も改正時点で剥がせるように現行の案内が貼ってありました。

まずは常磐線のダイヤが改正でどの程度変わるかですが、一言で言えば、「品川まで一部の列車が延長されるだけで、これまでのダイヤと殆ど変わらない」と言えるのではないかと思います。

上野到着上り常磐線の時刻を現在のダイヤと改正後のダイヤで比較してみると、

Time_table_2014
上段が到着時刻、下段が列車番号、赤字が特急(4桁がフレッシュひたち、2桁がスーパーひたち)、青字が特別快速です。E231系快速は含まれていません。

改正後のダイヤでは

Time_table_2015
E231系の快速では
取手発 718, 735, 757, 1612, 16,48, 1701, 1720, 1731, 1758, 1818, 1831, 1903, 1921, 1946, 1955, 2014, 2030, 2051, 2103品川行きに (上野着時刻は上記の時刻に約41分プラス)

特急は従来の「スーパーひたち」が「ひたち」に「フレッシュひたち」が「ときわ」になり、白地は上野止まり、赤地は上野東京ラインに入ります。「ひたち」は全列車、上野東京ラインに入り、1000番台、1030までの番号となり、「ときわ」は上野止まりは2000番台2052から、上野東京ラインに入る列車は1052からの番号が振られています。E231系快速では朝7時台と8時台に成田からの快速が2本上野東京ラインに入り(緑地)、取手発は上記の時間帯の電車が入ります。それ以外は中距離電車で、黒地の快速と青地の特別快速が上野東京ラインに入ります。

ダイヤを比較して見る限りでは上野東京ラインに入るスジを伸ばしたというダイヤで、これまでのダイヤと基本骨格は殆ど変わっていないことがよくわかります。

いつからかは忘れましたが、現行のダイヤでは

E657系特急 地平ホーム
E531系    原則として 9,10番線発着
       E531_k421_120515_8
現行ダイヤでは珍しく8番線に到着する1354M K421編成   2012/5/15

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11番線を出発するE231系 113編成 2011/3/26

E231系 11,12番線と形式ごとにホームが分かれていますが、改正後は、E531系が地平ホームに入線するケースもあるようです。

2332M 土曜休日 15番線
2338M 平日    13番線
424M        13番線

一方で新ダイヤにおける下り列車の出発を見てみると

Timetable_2015
E231系快速の時刻 品川発取手行き 1556, 1702, 1721, 1801, 1816, 1853, 1907, 1931, 1953, 2011, 2031, 2053, 2107, 2123, 2147, 2202
となっており、中電の品川発が終わる頃から深夜にかけての時間帯に走ることが分かります。

地平ホームから出発するのは特急のみでE531系の出発は無いようです。下りの「ひたち」に関しては全てが品川発ではなく、上野発の列車もあり、それらには2000番台、2049以下の数字が与えられています。

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この表示が見られるのもあと僅かです。

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2015年3月11日 (水)

ダイヤ改正を前に 上野駅高架ホーム その1

2015年3月14日のダイヤ改正まで、あと僅かとなりました。

今回のダイヤ改正では、北陸新幹線の長野~金沢間延伸上野・東京ライン開業といった新線の開通があり、それに伴う車両の新規増備、車両の転用、JR線から第三セクターへの転換、さらには青函トンネル開通以来、首都圏と北海道を結んで活躍してきた寝台特急「北斗星」の定期運行終了、関西と北海道を結んでいた豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス」の廃止などの大きな変化があります。

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上野東京ライン開業を告知するポスター 2015/3/8 上野

普段は出張と週末くらいにしかJRを利用しませんが、3月8日の日曜日は別記事にする予定の「カシオペア」のEF81代走の撮影のついでに、上野東京ライン開業を間近に控えた、上野駅高架ホームをいろいろと見て回り、14日のからの新ダイヤに向けた準備風景をいくつか写真に収めてきました。

まず最初に気付いたのは駅名標です。

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高架ホーム5番線側の駅名標 2015/3/8 上野  

既に上野東京ライン開通後の表示に切り替えられており、後はマスクを剥がす状態ですが、このホームは上野東京ライン開通後も宇都宮線、高崎線専用のホームということなのでしょうか。北方向の隣駅は尾久のみとなっています。

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一方、反対側の6番線は常磐線列車も使うため、北側の隣駅は尾久と日暮里?となっています。

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5,6番線ホームから鶯谷方向を

だからといって5番線側から常磐線方向に行けないのではなく、線路的には6番線同様に常磐線と繋がっています。常磐線方面列車は、6番線から南行き線を横断して、常磐線に入線することになります。

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5番線側にも出発信号表示器も東北、常磐両方用意されています。

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6番線側

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東京方面 6番線から

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東京方面 9番線から

140716 2014/7/16 の同じ場所

秋葉原の電留線まで線路は通じていたので7,8,9番線からの線路は開通していましたが、昨年7月の時点では6番線から南下する線路は塞がれていました。すでに試運転も再三行われており、あとは開業を待つと言った状態かと思います。

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上野東京ライン開通直前の上野駅高架ホームの時刻表

改正後の高架ホームの使用パターンを時刻表から見てみると

5番線:上野東京ライン北行き、上野発(早朝)、宇都宮、高崎線専用
6番線:上野東京ライン北行き、上野発(早朝、深夜)、宇都宮、高崎線、
     上野東京ライン北行き、常磐線快速
7番線:上野東京ライン南行き、宇都宮、高崎線専用、上野発宇都宮行き最終
8番線:上野東京ライン南行き、宇都宮、高崎線、常磐線、上野着宇都宮、高崎線、常磐線
     上野東京ライン北行き、常磐線特急、一部臨時列車
9番線:上野東京ライン南行き、常磐線特急、快速、上野折り返し(早朝、深夜)常磐線快速     

さらにこれまでは取手までの快速専用となっていた11,12番線にE531系が発着します。

このことから品川方面から北上してきた常磐線方面の車輌のうち、E657系特急は上野駅手前で南行き線を渡り、8番線に入線、E531系はまず6番線に入線し、上野駅を出発してから、南行き線を渡ることが分かります。

何度か書いていますが、1972年10月2日が私の上野駅写真撮影デビューでした。当時、高校2年で、東北特急全盛時代で、高架ホームには東京駅発着の485系ひばり」「やまびこ」などが発着していました。

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1972年10月、上野駅で撮影した485系 「ひばり」

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品川と尾久を結ぶこういった配給列車も見かけました。 鶯谷

新幹線建設で1983年1月以降、線路が途切れてから、32年。今回の開通では常磐線に関しては品川までですが、宇都宮・高崎線系統は東海道線と相互に乗り入れて、かなりの長距離運用が実現します。

時刻表によると、上野東京ラインを通って東京駅を通る列車の列車番号の末尾はEが付き、大宮方面が偶数、横浜方面は奇数となります。常磐線はHが付き、上野・品川方面が偶数、松戸、取手、成田方面が奇数となります。

今回の新ダイヤでは宇都宮線の快速ラピッド、高崎線の快速アーバンが東海道に乗り入れても東海道線内は普通列車となり、逆に東海道線快速アクティが宇都宮線に乗り入れる場合も普通となります。

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2015年3月10日 (火)

40年ぶりの梅小路蒸気機関車館 8 C53 45号機

2014年8月10日、1974年9月以来、40年振りに京都梅小路蒸気機関車館を訪問しました。今回は3シリンダー蒸機として有名なC53形45号機です。

C53_45_140810_3 C53 45号機 2014/8/10 梅小路蒸気機関車館

ボイラー下の前面デッキの出っ張りは中央シリンダーと後述のグレズリー連動弁装置の被いですね。

当時の鉄道省が3シリンダー方式の国産蒸気機関車の開発を手がけるようになったきっかけは1926年9月23日に山陽本線安芸中野~海田市間で発生した山陽本線列車脱線事故で、34名が犠牲になりました。

この事故は広島県下を襲った集中豪雨で瀬野川支流の畑賀川が決壊し、築堤が崩壊し、線路が宙づりになったところに28977号機(後のC51178号機)牽引の特急第一列車(後の特急富士)が進入し、脱線大破した事故で、客車が木製であったため、被害が大きかったと考えられ、客車の鋼製化の必要性が唱えられた事故でした。

客車を鋼製化するとなると当時の技術では自重が5t程度増加し、さらに車長が17m級から20m級になると、1列車あたりの牽引定数が50tから100t近く引き上げられることになりました。それに耐えうる出力の機関車を2シリンダー方式で製作する技術は当時まだなく、世界的に流行であった3シリンダー方式の機関車として、アメリカのアメリカン・ロコモティブ(アルコ)社に半ダースの6両を発注し、経費節約のために炭水車は自前で製作することにしたのが、8200形(後のC52形)でした。本社があったニューヨーク州のスケネクダディ工場にて1925年11月に完成し、1926年2月、日本に到着しました。国産の炭水車は日立製作所が製造し、D50形と同じ水槽容量20m³、燃料積載量8.4t、台車は板台枠の2軸ボギー台車を2個履くタイプでした。

サンプルとして輸入された8200形6両は各種試験に供され国産3シリンダー機C53形の開発に役立てられました。その後、名古屋と沼津で東海道本線の運用に就き、さらに瀬野八の補機としても活躍し、晩年は下関操車場で入れ換えに使われ、1947年に全車が廃車されました。

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ピストン弁前・後方に通常では見かけない仕組みが見えるのがグレズリー式連動弁装置の特徴かと思います。

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給水温め器もこのようにかなり下に装着されています。C5345号機はこのようにピット線上に停められています。ただ、この中に潜り込んで3シリンダ機構を見学することはできないようです。

C52形の技術を解析して国産化したのがC53形ですが、それに携わったのは当時新卒だった島秀雄氏でした。3シリンダー式の最大の難点は弁装置にあると言われ、C53ではロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 (LNER) の技師長 (Chief Mechanic Engineer:CME) であったナイジェル・グレズリー卿が考案したグレズリー式連動弁装置が採用されました。2シリンダー方式のワルシャート式弁装置にその左右のピストン弁の尻棒の先端に連動大テコと連動小テコを繋げ、2つのテコの働きにより、左右のシリンダーのバルブタイミングから差動合成で台枠中央部に設けられたシリンダーのバルブタイミングを生成する方式となっています。3シリンダー方式は自動車の6気筒エンジンと4気筒エンジンの違いのように動輪の回転が滑らかになり、低速域の粘着特性が改善され、牽引力が増すとともに軌道へのハンマーブローが軽減されると考えられており、実際良く整備されたC53では安定性の高い走行を示したそうです。

1928年に53両、1929年に44両の計97両が製造されました。

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暗くてわかりにくい写真ですが、第一動輪前部の空間を覗いてみました。

性能向上が期待された3シリンダー機でしたが、構造が複雑で部品点数が多く、整備検修側から嫌われたこと、さらに設計側の3シリンダー機構の理解不足で剛性を低下させるような穴開け、軽量化等を行ってしまったため、亀裂が多発したり、動作不良が生じたりと重大なトラブルに再三見舞われたようです。また日本の軌間における余裕のなさにより、弁装置まわりのスペースが狭く主連棒ビッグエンドへの注油が非常に困難であったことも大きなマイナス要因となりました。

1934年11月には梅小路機関区の43号機が流線型に改造されました。これは空気抵抗を軽減するためではなく、列車の周囲の気流を改善し、煙が列車に絡みつくのを防ぎ、走行中に対向列車や駅ホームの乗客に及ぼす風圧の軽減を目標にしたものでした。43号機の試験成績は良好であったのでC53を流線型に改造するための改造費として昭和10年度予算で10両分(1両につき3000円)が内定したそうですが、結局は実現しませんでした。

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C53の形態的特徴は通常は蒸気ドームと砂箱の2コブですが、重心の上昇を防ぐため、砂箱を左右のランボード上に分散させたことです。これも砂を補給する方にとってみれば大変な作業かもしれません。

C53_45_140810_11
動輪はスポーク方式です。主連棒や連結棒は他機に較べると細い感じが致します。

1940年代になり、2シリンダーで同クラスの性能のC59が登場し、幹線の主力機の座を追われることになりました。ただ大きな車体と複雑な構造が災いして、戦後は運用を離れる車両が続出し、1948年から1950年に全機廃車となりました。

梅小路に保存されている45号機は、沖田祐作氏の機関車表のデータによると

C5345      汽車製造大阪工場=1040            1928-11-02 S81.00t2C1T(1067)
   車歴;1928-11-02 製造→ 納入;国鉄;C5345→ 配属;大阪局→ 配置[大鉄局達乙1748];大阪局→
      1930-08-00 現在;梅小路→1933-06-00 現在;梅小路→1946-12-31 現在;梅小路→
      1950-07-13(6/29?)廃車[大阪鉄道局達乙1393];梅小路→
      保存;大阪府吹田市「国鉄吹田教習所」;C5345→1957-12-07 鷹取工場へ発送→ 復元走行→
      移管保存;大阪府「交通科学館」;C5345→1972-09-30 梅小路へ→
      移管保存;京都府「国鉄梅小路機関車館」;C5345

終生、梅小路で過ごした釜で、1950年に廃車となった後は吹田教習所に保存され、1957年に鷹取工場で復元され、1962年鉄道90周年事業の一環として大阪府の交通科学館に保存されましたが、梅小路蒸気機関車館開館とともに移管されています。

C53_45_140810_4
C53が廃車になった頃の1949年、炭水車2両分を糖蜜輸送用のタキ40t積みに改造する工事が行われ16両のタキ1600形が誕生したそうです。

C53_45_740929最後に1974年当時の同機の姿を

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2015年3月 9日 (月)

San Diego Lindbergh空港でのSpotting 3 ATI DC-8-73AF

San Diego Lingbergh空港でのSpottingの話題、今回はアメリカでもさすがに見かけなくなったMcDonnell Douglas DC-8の話題です。

N603al_mcdonnell_douglas_dc873f_cn_
N603AL ATI (American Transport International)のDC-8-73AF cn46003 ln 401 2003/1/16    確か離陸に向けてタキシング中の機内から撮影した写真だったと思います。

Douglas DC-8といえばBoeing 707のライバルとして、1952年に開発がスタートし、1955年6月に受注を開始、1958年までに133機を受注し、Boeing 707に対する遅れを取り戻すため、試作機を製作を省略するという大胆な手法で、1958年4月に初号機が完成、5月に初飛行、1959年9月18日UADELTAで初就航という超スピードで就航に漕ぎ着けたことでも有名な開発ストーリー持つ旅客機です。

Boeing707は主脚が短いために胴体延長が出来ませんでしたが、DC-8はスーパー60シリーズやエンジン換装タイプを次々とリリースして、DC-10が登場した直後の1972年まで556機が生産されました。

今回、ご紹介する-73タイプは生産中止後に、機齢の若かった-63タイプ(-61の胴体ストレッチと-62の主翼翼端の改良、エンジンポッドの空力特性の改良で航続距離を1万キロに延長したタイプの両方を併せたもの)のエンジンをCFMインターナショナルのCFM56に換装したタイプです。

N603al
N603ALの履歴です。 Planespotters.netから

最初はJT3Dエンジンで懐かしいフライングタイガーに納入され、1984年にエンジンを換装し、ジャーマンカーゴやルフトハンザカーゴで活躍し、エメリーのフリートに加わり、2002年からATIのフリートのようです。現在はモハビ砂漠にストア中でしょうか。

Air Transport Internationalはテキサス州Irvingを拠点とするグローバル貨物、コンビチャーター会社で1978年にUS Airwaysとして設立し、1988年からATIとして運航を始めた会社です。DC-8は既に手放しており、現在はBoeing 757-200 combi 5機, 767-200SF 4機, 767-300SF 2機の計11機からなるフリートで運航しています。

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2015年3月 8日 (日)

公開 47年振りの東急世田谷線訪問 その2 デハ200形

玉電シリーズ、今回は宮崎台の東急「電車とバスの博物館」に保存されているデハ200形204号を紹介しようと思います。

204_150214_10 東急「電車とバスの博物館」に保存されているデハ204 2015/2/14

デハ200形はその形態からも想像されるように1954年から製造された東急デハ5000系で採用されたモノコック構造、中空軸平行カルダン駆動、設計当時最新のHSC発電ブレーキ連動電磁直通ブレーキなどの技術を採用し、1955年に6編成、デハ201~206が東急車輌製造で製造されました。
5101a_100320 熊本電鉄で活躍する元東急デハ5000形 2010/3/20 北熊本 

こちらは直角カルダン方式でしたが、デハ200形はたわみ継ぎ手を使用した中空軸平行カルダン方式となりました。また主電動機と車輪の歯車間に遊び歯車が挿入されました。
熊本電鉄の5000形も東京メトロ01系の導入でついに引退のようですね。

車体は長さ10,200mm、幅2300mmの2車体を連接台車で結合した連接車で、鋼材は高抗張力鋼を使用、旧日本海軍の航空機技術を応用したモノコック構造およびボディマウント構造を採用し、自重22tと大幅な軽量化を実現しました。

204_150214_2
車体間を結んで支える1軸のリンク操舵方式の連接台車 TS-501

Talgo_090308_montpellier5
こちらは本物のタルゴ客車の連接台車 2009/3/8 Montpellier 

確かにデハ200形の連接部とよく似ています。タルゴの場合、軌間可変機構もあるので、左右の車輪は車軸で繋がっていないとか。

TS-501台車では台車枠と車体側心皿フレーム1組の間をコイルばねで支持し、2車体それぞれの心皿フレームと台車枠の間に2本ずつリンクを連結し、その案内により車軸が常に曲線中心方向へ向く操舵機構を開発・搭載しているとのことです。

204_150214_7
車体は卵形断面のため、扉部床面とホームの間が大きく開くため、空気シリンダーによって展開される可動式ドアステップが設置されました。
屋根は車体の構造強度を負担する下屋根と外形を保ち、パンタの保持をする上屋根の二重屋根構造でした。
ドアの位置は荷重負担の中心となる心皿を支持する横梁と重ならないように左右非対称配置となっています。

204_150214_3
前面は2枚窓流線型で尾灯は車体腰部、屋根左右は標識灯でした。

204_150214
座席はオールロングシートで、片側運転台の反対側間でありましたので、現役時代はここに座るのが楽しみでした。

204_150214_4
特徴的な卵形の車体構造がよく分かります。連接部の車内は幌で繋がっています。換気装置は各車体天井にファンデリアが4カ所設置されていました。

204_150214_5 TS-302 二軸ボギー台車

台車は車輪径510mmで東急車輌製造がその前身の海軍工廠から承継した鋳造設備を利用して製造したそうです。前にも書きましたが、この車輪が走行時には独特のギシギシといった走行音を出していました。

204_150214_3_2
一見、シンプルな運転台ですが、当時の最新ハイテク技術が込められたものでした。

制御器は主電動機の電流量を監視しながら、限流値に達するとリミターが作動し、その指令に従って主回路を切り替え、進段する方式でかつ乗客数に応じて主電動機の限流値を自動可変させる応荷重装置も備えていました。ノッチ段数は力行4段、電制3段で最大加速度は2.6km/h./sでした。
抵抗器はスペースの関係からパンタのない第二車体の天井に搭載され、屋根側面にルーバーを設けて自然通風冷却方式としました。

運用的特徴は扇風機すら満足に設置されていなかった当時の玉電にあって、強力な送風機構を持っていたので夏場は「プール行き」臨時電車に優先的に使用されたそうです。

先進の機構が投入されていたことが、仇となってワンテンポ遅れた応答性などで当時の玉電を取り囲む交通事情では不利に作用したことが多かったようです。さらにボディーマウント方式であり、床下空間が狭かったため、故障時にはピット線入りを余儀なくされたことも不利でした。一軸の連接台車はスプリングポイントで横に引っ張られたために前後部に反動が発生したり、時には脱線することもあったそうです。ローリングが激しかったのも欠点でした。扉位置が他車と異なることもラッシュ時等に問題となり、敬遠され、玉電廃止前から運用離脱状態となり、世田谷線には承継されませんでした。製造後わずか14年での現役引退でした。
デハ204と206が保存されましたが、204は多摩川園から高津駅前広場、電車とバスの博物館に保存され現在に至っていますが、206は野田市の清水公園に保存されたものの荒廃のため解体されました。
204_150214_6
301_150207 現在の世田谷線300形 301  デハ200形を模した塗装が施されています。 2015/2/7 山下

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2015年3月 7日 (土)

西武新101系 その7 時は流れて 2連編 その5 流鉄5000形 5005編成  なの花

流鉄に行った西武新101系の話題、今回は5000形の第5編成「なの花」の話題です。

51055005_140321_2 三代目 「なの花」 5005編成 2014/3/21 馬橋

流鉄の編成の愛称で「なの花」は3代目になり、初代は1200形1210編成、二代目は2000形2005編成でした。

1210編成は元クモハ561改造のクモハ1210とクハ1602から1658となった601系クハ改造のクハ81からなる2両編成でした。流山線入線時に台車をそれぞれ、京王デハ1900形の廃車発生品の日立製作所製KBD107に換装しましたが、後日、TR25とTR11Aに再換装しています。
1992年1月から1994年6月まで小松製作所のCMを纏っており、愛称も「コマツ」となっていました。

2000形の導入により、1997年に廃車となり、解体されました。

20052006_110205_2
2005編成 2011/2/5 馬橋

2005編成は757Fのモハユニットにそれぞれのクハの運転台を接合した、クモハ2005とクモハ2006の2連の編成で、1997年3月に導入されました。2006年にはワンマン運転開始に伴う、対応改造も実施し、ドア開閉チャイム、案内放送、、自動の車内アナウンス装置などが取り付けられました。また、前面行き先表示器がLEDタイプに改造されました。
2013年4月28日、運用を終了し、クモハ2006は松戸市の昭和の杜博物館に保存されています。
20052006_110205
上半分は三代目西武501系を彷彿させるスタイル、台車をみると701系のモハといった感じのクモハ2006

5005編成は2013年9月に甲種回送され、同年12月6日から三代目「なの花」として営業運転が開始されました。

51055005_140716_3 2014/7/16 馬橋

この姿はあと7~8年見ることができるのでしょうか?

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2015年3月 6日 (金)

1989年のDüsseldorf Airport その27 アドリア航空のDC-9 (MD-82)

1989年初夏のDüsseldorf空港シリーズ、今回はAdria AirwaysDC-9 (MD-82)です。

Yuanc_mcdonnell_douglas_md82_dc982_ YU-ANC McDonnell Douglas MD-82 (DC-9-82) (cn 48087 ln 1035)  1989/5/7 DUS

現在は白いボディにADRIAと大書されたマーキングで有名なスロベニアのフラッグ・キャリアですが、当時はユーゴスラビア連邦の航空会社でした。

設立は1961年3月と比較的新しく、同年8月KLMから2機のDC-6Bを購入し、Zagrebを拠点にオランダ人クルーにより、商業運航を開始しました。同時期、アドリアのクルーと技術スタッフがJAT Yugoslav Airlinesと空軍にて技術を習得しました。1961年12月には自前のスタッフにより、最初の運航が行われました。

チャーター便運航事業により、西ドイツ、英国、オランダ、スカンジナビアの空港からアドリア海沿岸都市へと利用する乗客が徐々に増加し、1964年にはアメリカやカナダからのチャーター便も飛ばすようになり、国際連合のための便も運航するようになりました。同年にはリュブリアナに新たな空港が開港し、拠点を移しました。やがてDC-6Bによる運航では競争力がなくなり、1967年には経営危機に陥り、1968年にセルビアのベオグラードを拠点にしたInterExportと合併し、社名もInex-Adria Airwaysと改め、フリートの刷新が開始されました。

1969年、最初のジェット旅客機のDC-9-30 (115席仕様)を入手し、チャーター業界でシェアが拡大し始め、1969年9月、リュブリアナ~ベオグラード間の定期便運航を始めました。その頃にはSud Aviation Caravelle, Douglas DC-8, BAC One-Elevenなどもフリートに加わりました。1972年には大西洋横断便もDC-8-55*に刷新しましたが、翌年には撤退しました。1970年代後半、Adria Airlinesは最も定時率の高いチャーター航空会社として表彰されました。当時のこうしたビジネス上での成功はGrimex社との建設的な連携が大きく貢献しており、また西ドイツとの人の流れも大きく貢献していました。国際的なビジネスのみならず、ユーゴスラビア国内路線もこの頃充実が図られました。

*このDC-8-55 (cn 45883 ln 308)は1965年10月20日Seaboard World Airlinesに貨物機として納入された機体で、N806SWという登録記号が最初に与えられていますが、1970年2月1日から1972年3月31日まで同じレジでJALにもリースされていました。その後、YU-AGBとユーゴのレジが登録されましたが、使われずN806SWでInex-Adria Airwaysに1972年4月20日から、10月8日までリースされました。

この時期、1972年3月から1981年12月にかけて、アドリア航空に関係した事故が5件、起きており、かなりの数の犠牲者が出たことが教訓となり、アドリア航空は訓練や技術レベルを高める研修の充実化が図られるようになったとのことです。

Yuanc_mcdonnell_douglas_md82_dc98_2 YU-ANC

1981年には3機のMD-80を購入しますが、12月にそのうちの1機 (YU-ANA cn 48407 ln 998) がコルシカ島のサンピエトロ山に激突し、搭乗者全員が犠牲となる事故に遭遇します。1984年には西ドイツやスイスで働く出稼ぎ労働者のためにリュブリアナ~ベオグラード~ラルナカの初の定期国際便を運航開始しました。同年、新たにAirbus A320 5機の購入を決定し、2機のDash7もサラエボ冬季オリンピックに備えて購入しました。1985年には4機のDC-9-30, 2機のDC-9-50, 1機のMD-81,3機のMD-82、2機のDash7とさらにもう一機のMD-82とフリートが増加してゆきました。

1986年、特定の企業が膨張するのを制限する法律により、Inexグループを離れ、再度名前をAdria Airwaysとしました。さらにIATAに加盟しました。1989年、最初のAirbus A320が納入され、IAEエンジンを搭載した最初の機体となりました。

ユーゴスラビア連邦の崩壊、スロベニアの独立宣言(1991年6月25日)の3日後、ユーゴスラビア連邦軍がアドリア航空のハンガーを爆撃し、納入されて1年未満のA320やDC-9-30, Dash7などが大きく損傷し、さらに機材の登録や保険などでも大きなハンディを背負うことになりました。

1992年、Adria Airwaysは新興独立国スロベニアのフラッグキャリアになり、これまでのチャーター便をメインとした事業体系から大きく転換を余儀なくされました。

ここから先はまたの機会に。

Duesseldorf空港で撮影したMD-82 YU-ANCですが、Plane Loggerのサイトで履歴を調べてみると

Yuanc
1982年にYU-ANCとして登録されInex Adria Airwaysのフリートに加わっており、写真の頃は丸7年が経過した頃でした。スロベニア独立後もS5-ABBのレジでアドリア航空のフリートでしたが、最後はアメリカに渡り、バリュージェットレノエアーで活躍した後、最後はSpirit Airlinesのフリートだったようです。

Inex-Adria Airwaysで検索すると1989年当時の同航空会社のfleet listが出てきますが、MD-82はYU-ANC 1機で、あと2機のYU-AJZ(cn 48046 ln 977)YU-ANB (cn 48048 ln 1005)はいずれもMD-81でした。因みに1981年の導入の年にコルシカ島サンピエトロ山に激突して失われたYU-ANAはまだ当時はDC-9-81と呼ばれていました。

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2015年3月 5日 (木)

四方津を再訪 その6 長ナノ 211系 N編成 6連

2014年12月6日の中央線四方津付近で撮影した車両の話題、前回に続いて長ナノで活躍を開始し始めた211系の話題です。

前回は3連の話題でしたが、今回は6連について触れます。3連はMcM'T'cから構成されますが、6連はTcMM'MM'Tcのクモハのない編成で、元田町区の基本番台、あるいは2000番台からの車輌で構成されています。

211_n601_141206_3 元田町のN1編成を元に誕生したN601編成 2014/12/6 四方津

前回の記事でも触れましたが、かつて田町車両センターには211系基本番台と2000番台が配置されていました。

211_n1_110925_2
国鉄時代に製造された211系 N1編成 2011/9/25 鶴見

G車は113系に組み込まれていたサロ124を改造編入したサロ213/212-100番台 が組み込まれています。

211_n603_141206_3 N603編成

田町時代の211系についてはいずれ詳しく触れようと思いますが、簡単に纏めると、

1) 国鉄時代の新製投入(0番台10連6本、2000番台5連5本)
2) 1989年から1991年にかけてのJR東日本の追加増備(10両編成8本、5両編成9本)、 2階建てグリーン車の投入 従来編成とのG車の組み替え 4号車平屋5号車2階建て
N31,N32編成は2両とも2階建て(サロ213+サロ212)
3) 2004年から2006年にかけての113系淘汰に伴う、サロ124、サロ125の改造編入、それに伴う従来の平屋タイプのグリーン車の高崎・東北線向け転出

などを経て、2011年9月以降E233系3000番台が田町車両センターにNT編成として投入され、置き換えが開始されました。

211_n605_141206_9 N605編成

5連、14編成(N51~N64)編成は全て廃車解体されており、10連、N1~N6、N21~N26, N31~N32編成に関しては中間付随車のサハ、2両とサロ2両が抜き取られ、廃車となり、クハ+モハ2ユニットの6連が編成番号順にN601からN614と符番され、新たな職務に就く予定で、現時点ではN608, N610, N613, N614が長野、大宮に入場中です。(追記:3/6 3月4日に元N31編成由来のN613編成が大宮センターを出場したそうです。)

211_n609_141206_2 N609編成

211_n611_141206 N611編成

今回の改造で電気連結器は撤去されています。

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2015年3月 4日 (水)

通勤電車シリーズ 103系 21 中央快速線への103系一次タイプの転入

通勤電車103系シリーズ、今回は山手線、京浜東北線のATC化で捻出された低運転台クハやクモハを含んだ編成の中央快速線投入の話題です。

103
103系 一次車の冷房改造車、前照灯はシールドビーム化されたクハ基本番台を先頭にした特別快速 阿佐ヶ谷

これまで中央快速線には、1973年初頭の量産冷房車編成1974年のATC準備工事対応クハ編成など、武蔵野線開業用や関西本線電化用の101系の捻出、豊田電車区の特別快速運用の冷房化対応で冷房車が投入されていました。

1977年度101系を南武線などに投入し、旧形国電を陶太させるため、三鷹電車区に103系 (7+3連8本)が投入されました。サハ2両は例によってサハ101から改造の750番台でした。1978年10月のダイヤ改正では、特快の運用が1本、三鷹区の担当となり、クモハ先頭の特快が走ったとのことです。103系1200番台もこの時期に2本増備されました。

1979年初頭には、101系取り替え用として10連5本が豊田区に投入されましたが、中間車は新製車、先頭車は山手線ATC対応化の捻出車でした(上の写真の編成)。

103_mc
三鷹電車区で休むクモハ103先頭の編成 冷房改造車

103_mc_2
東京駅を出発するクモハ103をラストにした編成

103_2
中央線転属を控えて、既にオレンジ・バーミリオンに塗装変更され、京浜東北線の運用に就く編成 鶯谷

103_3
同じような混色編成を同じ日に2回も目撃し、非常に印象的でした。
誤乗防止のステッカーも印象的でした。

1_2 表1 1979年4月1日時点の三鷹区の103系基本番台編成表
2 表2 同時点の豊田区、中央快速線用103系編成表
豊田区の103系クハには1次、量産冷房、高運転台ATC対応の3種が揃いました。

103_800915
103_800915_2 1980/9/15 東京駅

その後、1980年から投入された車輌は先頭車も新製車で、ATC非対応の高運転台車でATC機器搭載スペースが空いたため、乗務員室扉後方の戸袋窓が復活したクハとなりました。このときにもサハ5両は750番台 (101系初期冷房改造車のジャンパ連結器交換バージョン) となりました。他の101系初期冷房車は南武線に転出しました。前回の記事で試作クハや500番台クハも青梅・五日市線用に豊田区に所属していましたので、この時点で全タイプのクハが揃っていたことになりますね。

103atc
豊田区に配置された高運転台非ATCタイプクハのその後

6組12両が配置されましたが、短期間で津田沼区に転属し、さらにATC取り付け改造された車両、あるいはJR東日本で廃車後、JR西日本に譲渡された車両、あるいは武蔵野線で長く活躍した車両などに分かれます。

1979年には201系試作車が登場し、三鷹区の103系7+3編成は豊田区に移動、201系の増備にあわせて、投入されたばかりの非ATCクハ編成2本は津田沼区へ、ATC対応クハは横浜線へとさらに武蔵野線へも転出し、1983年には101系よりも先に撤退となりました。

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2015年3月 3日 (火)

San Diego Trolley 1000形 part3

2015年1月4000形のBlue Lineへの本格導入で開業以来の活躍に終止符を打ったSan Diego Trolley 1000形の現役時代の姿を紹介しているシリーズの3回目です。

前回は1022号車まででしたので今回は1023号車からです。

1023_030113_santa_fe_depot
1023 2003/1/13 Santa Fe Depot

1025_030115_12th_and_imprial
1025 2003/1/15 12th & Imperial Transit Center

1026_050119_sfd
1026 2005/1/19 Santa Fe Depot

1028_090114_america_plaza
1028 2009/1/14  Santa Fe Depot

1029_020113_san_diego_fashion_valle
1029 2002/1/13 Fashion Valley Transit Center

1030_150116_santa_fe_depot
1030 2015/1/16 America Plaza~Santa Fe Depot

今年のSan Diego訪問で見た最後の本線で活躍する姿です。

1031_090114_america_plaza
1031 2009/1/14 Santa Fe Depot

150112_civic_center
Trolly stationに貼り出されていたBlue Line改良工事のお知らせ この工事の終了で低床式の4000形がBlue Lineにも導入され、1000形、2000形が主体だった運用が4000形メインに切り替わったのかと思います。

以上です。

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2015年3月 2日 (月)

広島・四国西南部旅行 広島編 その3 広島電鉄 part 2 3000形

2014年12月の広島~四国西部旅行の記録、今回から広島電鉄の車輌の話題です。

3003_141218
3003編成はラッピング車輌 2014/12/18 本町通

広島電鉄には連接車と単車があり、路線に応じて使い分けていますが、今回は連接車の中でも古株の3000形です。

3003_141218_2
側面と正面では全く印象が異なります。

路面電車の博物館とも言われる広電だけあって、それまでに歴史を持った車輌が集められていますが、この3000形も西日本鉄道から移って来た車輌から構成されています。広島電鉄での活躍開始は1979年からとなります。

3000_1_2
表1    西鉄における各形式の竣功日と製造所

3000_2_2
表2 西鉄時代の番号と広電における番号の対応

西鉄北九州線の1000形、福岡市内線の1101、1201、1301形が路線廃止などで余剰になり、広電に譲渡され活躍の場を移したのが始まりでした。

3006_141218
3006編成 広島駅前 2014/12/18

時間的には9編成のうち8編成が譲渡された1201形を3連接車体に改造したのが、最初でした。広電初の3連接車体として、導入されました。市内線と宮島線の直通運用に充当されました。

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3008編成 広島駅前 2014/12/18

続いて、1101形を改造した3005編成が登場し、最後に西鉄1301形から2車体3台車の連接車として1976年1月に竣工し、運用されていた1300形2編成が1981年に再改造され、3007、3008編成として加わりました。

3000_3 表3 3000形の現状      
3つの表はWikipediaを参考に作成しています。

3008_141218 3008編成の車内の様子

3000形改造に際して、1101形などはカルダン駆動方式でしたが、全車吊り掛け駆動に統一されました。冷房装置も1980年から1983年にかけてバス用の装置を搭載しました。

登場当初は宮島線の主力でしたが、3700、3800、3900形登場後はまず1992年に3001が廃車され、電気ブレーキ装備が無いため、ブレーキシューの交換インターバルが短いこともあって、1998年市内線(宇品線)専用となりました。定員が180名と広島電鉄最大であるため、朝のラッシュ時には5号線(比治山線)8号線(横川線)でも使用されています。

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2015年3月 1日 (日)

公園保存蒸機 D51 684号機 東村山運動公園

日本全国の公園等に保存してある蒸気機関車を観て歩くシリーズ、今回は東京都東村山市の東村山運動公園に保存してあるD51 684号機です。

東村山運動公園は西武新宿線久米川駅から北東方向に20分程歩いた場所にあり、近くには野火止用水が流れています。地図

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D51 684 号機 2014/7/20 東村山運動公園

これまでいろいろな保存蒸機を見て参りましたが、ちょっとこれは見るに耐えない状況になってしまったかなと正直感じました。2007年5月11日に撮影されたお写真がTADAさまのサイトにあるのですが、それと較べても7年間一度も手入れがなされずに放置されていたのではと思わせる変化です。

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全体に渡る外板の傷み、前面のナンバープレートや副灯のガラスの欠損・・・

この機関車の履歴を沖田祐作氏の機関車表データから見てみると
D51684     日本車輌名古屋工場=1028           1942-03-21 S77.60t1D1T(1067)
   車歴;1942-03-21 製造→ 納入;国鉄;D51684→ 配属;? → 配置;? →1946-12-31 現在;吹田→
      1947-03-00 現在;吹田→1955-08-05 姫路一→1957-02-21 借入;長町→ 長町→
      1962-07-30 前灯整備LP403→1963-03-20 重油併燃装置取付;郡山工場→
      1967-10-13(10/15?)秋田→1968-07-03 旋回窓取付→1969-03-07 運転室特別整備→
      1972-10-17 滝川→1972-10-24 耐寒工事施工;苗穂工場→1976-03-01 廃車;滝川→
      1976-10-16 保存;東京都東村山市「運動公園」;D51684

1942年日本車輌名古屋工場で製造後、新製配置から5年間は不明ですが、吹田から姫路、そして1957年に仙台へ、東北地区で働いた後、最後は北海道に渡り、1976年の蒸機最後の時を滝川で迎えています。
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デフレクターは北海道タイプの前縁がカットされたタイプ
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砂管は3方向に落ちるタイプで、逆転機のモーションプレートは小穴タイプです。主連棒のビッグエンドは長方形タイプです。
D51_684_140720_18 後部のナンバープレートはありますが、前照灯が欠落しています。

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訪問したのは去年の7月20日で、夏休みに入った頃で、公園はテニス大会などが開催されていて賑わっていたのですが、その一角で忘れられたように朽ち果てかけているD51の姿があまりにも対照的というか、哀れに感じました。

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140720
帰りは野火止用水に沿って、八坂駅まで歩き、幼稚園時代に八坂から萩山まで歩いたのを思い出しましたが、このあたりの野火止用水は美しく整備されて大きな鯉の姿もありました。

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