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2015年4月25日 (土)

西武新101系 その7 時は流れて 2連編 その5 流鉄5000形に乗って流山散歩 part3

2015年3月14日の流山散歩、3回目は、市内散策の後半です。

流山の街は江戸川の流れに沿って、発展しており、前回は北部を観て歩きましたが、一旦、駅まで戻り、後半は南部を見て回ることに致しました。

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流山駅全景 駅横に掛かる跨線橋から流山の検車区方向を見た眺め 2015/3/14

流山駅の開業は1916年3月16日でした。ですから、来年で開業100周年となります。

かつて流山駅から万上みりん(キッコーマン)の工場まで貨物用の引き込み線が存在し、昭和44年に廃線になったと聞いていましたので、その跡を辿ってみることにしました。引き込み線の跡は前回の記事で載せた「流山本町 江戸回廊マップ」においても一目瞭然でその存在がわかります。
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貨物用引き込み線跡 駅から工場方向

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工場から駅方向 奥に見える歩道橋のような橋が先ほどの跨線橋

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引き込み線跡のカーブした路は工場まで続いており、工場の壁はなまこ壁風になっており、白味醂200周年の記念に壁には流山の歴史を紹介する懐かしい写真などが展示されていました。工場内の引き込み線の写真もありました。
ちなみに白味醂200周年は昨年でした。

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工場の横には庚申塚もあり、庚申塔が建てられていました。

庚申塔は道教に由来する庚申信仰に基づいており、庚申講を3年18回続けた記念に建てられることが多いそうです。庚申講は人間の体内にいるという三尺虫が庚申の日の夜、寝ている間に抜け出して天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされることから、その晩は寝ずに天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習だそうです。落語に「疝気の虫」というのが」ありますが、なにか発想が似ていますが、昔は病気にしろ、信仰にしろ虫が関係していると思っていたことが多かったのでしょうか。

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寺田稲荷という小さな御稲荷さん

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訪れた時は梅が満開だった浄土宗の寺院 宝泉山長流寺

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江戸時代の俳人 小林一茶は生涯に流山をたびたび訪問しており、その際に訪ねていたのが味醂の開発者でもある五代目秋元三左衛門でした。三左衛門も双樹と号し、両者の交流の地が一茶双樹記念館として残されています。

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そのそばには不動尊を本尊とする真言宗豊山派の寺院、光明院があります。秋元三衛門氏の墓も境内にあります。

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さらにその横には海抜15m、周囲350m余りの小山があり、その上に赤城神社が鎮座しています。この小山はかつて洪水の際に群馬県の赤城山の山体の一部 が流れ着いたという伝承があり、神社の名前も赤城神社にそして流山の言われとなっているそうです。
流鉄の電車に「あかぎ」という愛称がつけられているのも この伝承のためなんですね。

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赤城神社の拝殿

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毎年10月上旬の日曜日 第3土曜日・日曜日の例祭に先立つ宮薙には氏子達が大しめ縄を作る大しめ縄行事が行われているそうです。そのしめ縄が山門に飾られています。長さ10m重さ500kgだそうです。

江戸川沿いの旧街道から、県道5号線に出て、ケーズ電気の前あたりに来ると写真のような碑が建っています、

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ここは軍馬の食糧保管の倉庫があったようで、こちらにも引き込み線があったようです。

糧秣本廠は深川の越中島にありましたが、向島区本所にあった倉庫が手狭になったので出張所として、干し草や藁の産地に近く、かつ江戸川の水運や鉄道が利用出来る流山の地が選ばれ、1923年に建設が開始され、1925年に完成したそうです。
敷地面積は35,260坪(約116,562m2)、 建坪は3,560坪(約11,769m2)で、結構広大な土地で、現在は民間に払い下げられ、キッコーマン、三楽オーシャン、盛進製薬の工場や、イトーヨーカドー流山店、流山南高等学校や住宅地となっています。

管理した主な糧秣は、干し草、藁(わら)、牧草、大麦、燕麦、コーリャン、乾パン、肉の缶詰などで、近衛第一師団の各部隊に糧秣を供給し、宮内省や警視庁には牧草を供給しました。太平洋戦争敗戦とともに解散しました。

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平和台駅 駅舎

最後に平和台駅から帰りました。この駅は1933年に開業したときは赤城駅で、1965年に赤城台、1974年に平和台と改称されています。軍関係の施設があった関係から平和台と改称されたのかと思ったら、平和不動産によってこの周辺が区画整理されたのが言われのようでした。
ちなみに平和不動産が開発した地域で平和台と名前が付いているのは、小田急線鶴川、成田線布佐にもあるようです。

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コメント

クハ415-1901さん、こんにちは。
流鉄は3年前の夏に初めて駆け足で回りました。
もう一度行きたいなあと思いつつ、まだ目的を果たしていません。
東京からほど近いのに、ローカルムードが気に入りました。
みりん工場に専用線があったとは、なおさら気に入りました。
みりん工場からのタンク車?見てみたかったです。
独得のカーブはいかにも線路跡といった感じですね。

B767さん、おはようごじゃります(^◇^;)お邪魔致しやすm(_ _)m流山は…ローカルムードが漂っている街ですな。

やぶおさま、こんばんは。

私もつくばから比較的近いにも拘わらず、今まで未踏の地でした。33年程前、未だ常磐高速が東京まで繋がっていない頃、つくばへのルートで三郷、流山と通ったことはあったのですが、その時は通過するのみで、当時の総武流山鉄道を写真におさめていればと後悔しております。

マスダっち1971さま、こんばんは。

わたしも訪れて見て、その良さが分かった次第です。

B767さん、おはようごじゃります(^^)またお邪魔致しますm(_ _)mあの〜〜流山には…まだキッコーマンの万上(マンジョウ)みりんの工場はございますのん⁉︎千葉県野田市はキッコーマン醤油の工場があるから、醤油の街だから、千葉県流山市は…みりんの街かな⁉︎

マスダっち1971さま、おはようございます。

そうですね、野田が醤油、流山がみりんというのは間違いないですね。
みりん工場の門前も通りましたが、監視カメラ作動中なんて表示もあって、そそくさと抜けました(笑)。

御無沙汰しております。 流鉄ですか?私はまだ一回も利用したことありませんが今じゃつくばエクスプレスが出来てだいぶ利用客が減ったみたいですね。
流山市は最近新しいマンションが出来て昔と随分変わってしまったと知人から聞きました。
長々と失礼しました。

花さま、おはようございます。

わたしも、流鉄は見てはいたものの実際に乗車して流山を訪問したのはこのときが初めてでした。
江戸川を中心に発展したあとがよく分かりました。

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