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2015年4月11日 (土)

西武新101系 その7 時は流れて 2連編 その5 流鉄5000形に乗って流山散歩 part2

2015年3月14日ダイヤ改正の土曜日、上野東京ライン初乗りの後、常磐線馬橋駅からこちらも初めての流鉄に乗って流山の街を歩いた話題の続編です。

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江戸川の堤防から眺めた現在の流山市街 2015/3/14

首都圏のベッドタウンでありながら、かつての県庁所在地や江戸川の水運で栄えた頃の風情を残す街です。

Photo 流山本町 江戸回廊マップ

新撰組陣屋跡でボランティアガイドの方から戴いた流山市観光協会作製のパンフレットにあった江戸回廊マップをスキャンしたものです。

流山は江戸時代に開削された江戸川の水運を利用して繁栄し、さらにみりんの醸造が盛んでした。そして明治初期には葛飾県の県庁所在地であったため、県庁の建物は現在も博物館として残され、当時の様子を伝える資料が展示されているそうです(実は今回の訪問では博物館は訪れておりません)。

流山を語るキーワードは、「新撰組」「みりん」「江戸川」「赤城山」かなと思います。

まず最初は新撰組に関する話題で、

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駅前の流山街道(駅前を通っている県道5号)を南下するとすぐ目にとまるのがこの看板です。

幕末期の1867年(慶応3年)10月,将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、新撰組も幕府軍に従って戊申戦争に参加しましたが、初戦の鳥羽伏見の戦いに敗れ,榎本武揚の率いる軍艦で江戸に逃れました。官軍の進撃を抑え,幕府直轄の甲府の地**を守るため幕府の命により、甲陽鎮撫隊と名を改め、甲州勝沼の戦いに出動しましたが,再び敗れ、近藤勇、土方歳三らは流山に陣を構えました。当時、この場所は酒造家の長岡屋があったそうです。
(**甲斐の国一国が江戸幕府の直轄地になったのは8代将軍吉宗による享保の改革の一環だそうです)。

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陣屋跡の説明板

150314_3 石碑

近藤勇はこの地で新政府軍に包囲され、街が兵火に包まれることを避けるために自首しました。1868年(慶応4年)4月3日のことでした。官軍内部でも近藤の処遇についてはいろいろな意見があったそうですが、3週間後の4月25日、板橋の刑場で処刑となりました。35歳でした。一方、土方歳三は箱館まで行きますが,戦死しました。

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この並びに焔魔堂(1776年安永5年に作られた閻魔木像)と義賊 金子市之丞、遊女 三千歳の墓もありましたが、こちらはパスしました。新撰組のスタイルをした人々が餅つきをしているのが見えましたが。

現在の県道5号線はバイパスで江戸川の堤防沿いの道が旧街道かと思いますが、旧街道沿いには昔ながらの商家の建物が残っています。

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丁字屋という看板がかけられているお店ですが、イタリア国旗が掲げられているように現在はイタリアンレストランでした。(遊食伊太利庵 丁字屋というWEBサイトもあります)。

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その並びには新川屋 和装小物、呉服店で1846年(弘化3年)の創業です。土蔵造り二階建てで1890年(明治23年)の建築だそうです。

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通りの向かい側には同じく 呉服店ましや(増屋)があり、こちらは1859年(安政6年)の創業で、それ以前は酒造業を営んでいたそうです。土蔵は1870年(明治3年)に建てられたものだそうです。新撰組御用達という看板もあったそうです。

これらの建物の裏手には江戸川が流れており、堤防に登ると

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関宿方向

その昔、現在の江戸川と同じ流れ方をする川に太日川(河)という川があり、渡良瀬川の下流部で五霞町の西側を南下し、江戸湾に注いでいました。更級日記、吾妻鏡、義経記にこの川を渡ったという記述があるそうです。1590年(天正18年)徳川家康が江戸に入った後、伊奈忠次を関東郡代に命じ、関東周辺の河川工事あたらせ、以後伊奈家3代(忠治、忠克)らによって、利根川の東遷事業が行われました。

1641年に江戸川上流部が人工放水路として開削され、1654年に赤堀川(備前堀)掘削工事が完成し、利根川の水が銚子に放流されるようになり、東北地方や北関東からの物資が涸沼、霞ヶ浦、銚子から利根川経由で江戸に運ばれる水運の幹線ルートが出来上がりました。

一方で江戸川周辺からも野田の醤油、流山のみりんが産物として江戸に運ばれるようになりました。1890年には利根運河が開かれ、水路が短縮されましたが、その頃は鉄道の時代となっており、水運は急速に廃れて行きました。

因みに、訪問したときは早すぎて、紹介する時期としてはちょっと遅かったですが、利根運河は桜の名所です。

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3月の中旬、堤防の斜面は満開の菜の花で埋め尽くされていました。

次回の記事では流山駅から万丞みりんの工場までの引き込み線の跡、工場外壁の説明画、流山由来の赤城神社などについて紹介致します。

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コメント

B767さん、おはようごじゃります(^◇^;)お邪魔致しやすm(_ _)m流山ですね。首都圏のベッドタウンでもあるんすか‼︎流山で【みりん】…ですか⁉︎その工場って…もしや『キッコーマン』かな⁉︎【マンジョー本みりん】は『キッコーマン』のブランドだからね。

B767さん、おこんばんは(^◇^;)またお邪魔致しやすm(_ _)m【マンジョー】じゃなくて…【マンジョウ本みりん】でした(ー ー;)申し訳ございませんm(_ _)mあ〜〜小っ恥ずかしい(^^;)

マスダっち1971さま、おはようございます。

そうです、万上みりんですね。次回の記事でその工場の壁に描かれていた歴史等に触れたく思います。

B767−218様 こんばんは。こちらにもお邪魔させていただきます。流山初めて町の様子を知りました。新撰組との関係、私が住んでいる日野もそれで町おこしをしているくらい史跡があります。参考にさせていただき5月の連休に歩いてみたいと思います。では失礼いたします。

細井忠邦さま、こちらにもあちがとうございます。

日野市は土方歳三の出生の地であるのですね。わたしも以前、NHKの番組で紹介されているのを見ました。

新撰組というのも大佛次郎の鞍馬天狗などに登場してテレビなどでよく取り上げられますが、実際にどうだったかは結構謎の多い集団であることを今回、私も初めて知った次第です。

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