1989年のDüsseldorf Airport その29 Swissair Fokker100
1989年初夏のDuesseldorf空港、今回は前回に引き続きSwissairのFokker 100です。
HB-IVD cn 11252 Fokker 100 (F-28-0100) 1989/5/4 DUS
前回も触れていますがSwissair- Schweizerische Luftverkehr AG が創設されたのは1931年で1919年創業のAd Astra Aero (ラテン語でto the starsの意味とのこと)と1925年創業のBalairの合併によるものでした。創業当時は他の航空会社と異なり,全く政府の援助なし運営されていました。当時の機材はそれぞれの航空会社から引き継いだFokker VIIa 1機, Fokker VIIb 8機, Dornier Merkur 2機、Messerschmitt M18 1機、Comte AC-4 1機でした。
1932年4月17日、ヨーロッパの航空会社としてはチェコのCSA (České aerolinie)がFord Trimotorを1930年に購入したのに次いで2番目にアメリカ製の航空機、Lockeed Orionを購入しました。当時、最速の航空機でチューリッヒ~ミュンヒェン~ウィーン線に投入されました。1933年には最初のアルプス越えのルートとしてチューリッヒ~ミラノ線が開設されました。
1934年、Curtiss AT-32C Condorの導入とともにヨーロッパ初のフライトアテンダントが搭乗することになりました。Ms Nelly Dienerさんで世界的に有名になりましたが、1934年7月27日、金属疲労のため、同機がドイツWurmlingen近郊に79回目の飛行で墜落し、犠牲となりました。
以前,細井忠邦さんがコメントされていたように1936年から長いDouglas機とのつきあいが始まります(まさに、Douglas社が市場に出したほぼ全種類の旅客機を使用していると言っても過言でないようです)。最初はDC-2で同年開設されたロンドン線に投入されました。さらにDC-3も同じ年に投入されています。
1939年8月27日、ナチス・ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされる数日前にアムステルダム、パリ、ロンドンへの路線は休止となります。大戦中、スイスはフランスがナチス・ドイツに降伏したことで四方を枢軸国に囲まれる状態となりましたが、アンリ・ギザン将軍のもと、武装中立が保たれました。それでもStuttgartに駐機されていたDC-2がアメリカの爆撃で破壊されたこともありました。1945年7月30日に商業運航を再開しました。
1947年、株式の上昇により、DC-4によるニューヨーク(JFK)、南アフリカ、南米への長距離運航が可能となりました。一方、短・中距離便には1948年末から最初の与圧機であるConvair 240が使われました。1951年にはスイスのフラッグキャリアーとなり、大西洋便はDC-4からDC-6Bに置き換えられました。
1948年、拠点空港もそれまでの Dübendorfから Zurich-Klotenに移りました。1956年、DC-7Cが導入され、アメリカへのノンストップ運航が可能となりました。一方、短距離路線にはConvair CV-440 Metropolitanが導入されました。1957年、東京への乗り入れが開始され,南回り便でアテネ、カラチ、ボンベイ、バンコク、マニラを経由しての運航でした。
ちなみに父がヨーロッパ出張の帰国便でこのルートを飛んだと話していました。Swissairは同年、ギリシャの海運王、アリストテレス・オナシスがオリンピック航空を設立するのを手助けしています。
ヨーロッパのライバル会社がジェット機の導入前にターボプロップ機を導入していましたが、SwissairはSASとともにいち早くジェット旅客機を発注し、DC-8を1960年初頭に入手しています。短距離用にはSud Aviation SE-210 Caravelleを導入しています。機材の維持・管理はSASと共同で行われました。さらに1962年にはConvair 990 Coronadoも導入しています。Convair 880 同様"韋駄天ジェット「巡航速度マッハ0.91」"といわれ、導入当初は契約時の性能が発揮できずにいましたが、南米線、西アフリカ線、中東、極東線に投入され、従業員や顧客からは好まれた機材でした。
HB-ICC Convair990 1986/6/17 Luzern Verkehrshaus
1986年の新婚旅行でルツェルンの交通博物館を訪問した際に同館の野外スペースに展示されているCV990 HB-ICCを撮影しました。主翼上に飛び出したポッド状の膨らみ(スピードカプセル)が同機の最大の特徴で、中学生の頃、プラモデルで作製した憶えがあります。
1966年、DC-9の導入が開始され、同社の短中距離機の核として、DC-9-15, -32さらにはMD-80シリーズとして続いて行きます。1971年には20年以上の長きに渡り、同社のトップに君臨するArmin Baltensweilerが経営のトップに就任し、Boeing 747-200、さらに1972年にはDC-10-30が導入されます。
1975年には世界の航空会社で2番目に中国乗り入れ(北京、上海)を果たし、DC-9-51のLaunch costomerとなり、さらに1977年にはDC-9-81,現在のMD-80シリーズのLaunch costomerにもなり、BaltensweilerはMD-80の父親とも言われています。1979年にはAirbus A310-200とBoeing747-300 Streched Upper deck typeを世界で初めて発注しました。また,今回のFokker 100やMD-11のLaunch customerにもなっています。1960年代以来、同社は貨物の予約システムにおいても世界をリードする立場になっています。
Airbus A310-200の発展型で航続距離が伸びた-300もSwissairがLaunch customerとなっており、同機には水平安定板内にも燃料タンクが設けられ、搭載量が増やされると同時に燃料を移送し、機体の重心位置を制御するシステムも搭載されました。そもそもこのシステムはコンコルドで開発されたものでしたが、水平尾翼内に燃料タンクを設けたのはA310-300が最初でした。1985年から導入されました。
1988年にはFokker100が導入され、1991年にMD-11が導入されています。1990年代半ばにはA320-111, -214さらに胴体を短縮したA319-112が導入され、長距離用にはA330-223が導入されました。最後に発注した機体はA340-600でしたが、倒産に至る過程で発注を-300に切り替え、-600はSouth African Airwaysに納入されました。A319, A320, A330などの機体はSwiss International Air Linesに継承されました。
"Flying Bank"といわれるくらい堅実な経営で有名な航空会社としての地位を確立したかに見えましたが、「奢れる平家は久しからず」ではないですが、前回の記事で記述したように2002年に倒産に至りました。
なお、今回はMD-80とFokker100でしたが、留学中にZurich-Kloten空港も訪問しているので今回登場した機体をいくつかさらに紹介できると思います。
Swissairはその71年の歴史において、9件の重大事故を起こしており、390名の方々が犠牲になっています。
1954年6月19日 Convair-240 燃料切れでイギリス海峡に不時着、当時は救命胴衣などの装備が義務づけられていなかったため、乗客3名が溺死
1956年7月15日 Convair CV-440 アメリカからスイスへのデリバリーフライトでShannonへのアプローチの際に失速し、墜落 乗員4名が死亡
1957年6月18日 DC-3 有視界飛行訓練中にエンジン1機停止の訓練を行っている最中に墜落、搭乗者9名、全員死亡
1963年9月4日 Caravelle チューリッヒ空港を離陸したローマ行き306便(乗員6名乗客84名)が10分後に墜落。原因は地上をタキシングしている際の車輪ブレーキの加熱で発火し、機体の主要部品が破壊されたため。乗員6名、乗客74名、全員の他、墜落場所となったHumlikon村では200名の人口のうち、43名がこの事故で犠牲になりました。
1967年2月10日 Convair CV-440 チューリッヒ空港を離陸した機が、雲に被われた山腹に激突、乗員4名が死亡。
1970年2月21日 Convair CV-990 チューリッヒ発、テルアビブ行き330便(乗員9名乗客38名)が離陸7分後,高度4300mを飛行中に後部貨物室で爆弾が爆発、緊急事態の無線交信と空港に引き返すとの連絡があるものの、操縦不能に陥り、空港北西24kmの森に墜落。全員死亡。
1970年9月6日 ヨルダンの Zerqa Dawson's Fieldで3機のハイジャックされた機体がテロリストによって爆破、うち1機がSwissair機 人的被害はなし。
1979年10月8日 DC-8 アテネのEllinikon空港で着陸時にオーバーランして、乗客14名が死亡 着陸速度が高すぎたことと、ブレーキングのための残りのRWYが短かったため
1998年9月2日 MD-11 JFKからGeneveに向かっていた111便(乗員14名乗客215名)が客室内の電気配線のトラブルから出火し、操縦不能となりハリファックス沖に墜落。全員死亡。
個人的には、Convair-990の事故とMD-11の事故は記憶にありましたが、それ以外の事故は今回初めて知りました。
HB-IVD
今回の記事を作成するにあたり、Swissairという会社がFokker, Convair そしてDouglasの航空機を好んで使っていた会社だと言うことがよく分かりました。
Fokkerに関しては創業前のBalairやAd Astraから使用しており、VIIaに関しては写真を撮っていませんが、Luzern Verkehrshausにも展示してあるようです。
表1 Swissair のFokker100 Fleet list
表2 HB-IVDの履歴
表1にSwissairのFokker100のフリートリストを、表2に写真のHB-IVD cn11252のその後の様子をいつものようにPlanespotters.netのデータを参考に纏めました。
同機は最後、ALPI Eaglesで働きましたが、同社は経営状態の悪化からイタリア民間航空局から運航許可が降りず、2007年末で運航を停止しているようです。
最後まで読んで戴きありがとうございます。
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B767−281様こんばんは。年度始めはなんとなくバタバタします。ようやく最初の週を乗り越えた感じです。フォッカー社はF27フレンドシップが全日空で採用されていたので日本でも馴染みがあります。F28、F100といい機体を開発しましたが、残念ながら倒産の憂き目にあいました。有名なコンベア990が出てきて嬉しいです。JALの880、羽田で見たような見ていないような、少し記憶にあります。初期のジェットは初期新性能電車と同様個性的なのが好きです。「経済的」という唯一な売り、でないのが魅力的です。旅客機シリーズも楽しみにしております。
投稿: 細井忠邦 | 2015年4月11日 (土) 22時03分
細井忠邦さま、おはようございます。
わたしも小学校の社会科見学で羽田空港を訪問した際にCV880を見ているはずです。学校が指定した同行の写真屋さんの写真に同機の姿が写っていました。
投稿: B767-281(クハ415-1901) | 2015年4月12日 (日) 06時25分