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2015年11月27日 (金)

公園保存車輌 番外編 刈谷市 宮城道雄供養塔

全国の公園等に保存されている車両をみて歩くシリーズ、今回は前回、前々回の刈谷市交通児童遊園のすぐそばにある、作曲家、箏曲家の宮城道雄氏の供養塔訪問の記録です。

140812_6 供養塔入り口 2014/8/12 刈谷

右手に東海道本線が走り、名鉄三河線のガードもあり、左手の県道48号線に面して刈谷市交通児童遊園があります。

宮城道雄は1894年(明治27年)4月7日、神戸に生まれ、8歳で失明し、生田流箏曲の二代菊仲検校、二代中島検校に師事し、11歳で免許皆伝、1919年作曲家としてデビュー、1929年には「春の海」が世界的な評価を得ました。1937年、東京音楽学校(現東京藝大)教授に就任、1956年6月25日未明、大阪公演に向かうため、付き添いの義理の姪(内弟子)と夜行急行「銀河」に乗車中、刈谷駅付近で午前3時頃、昇降ドアがら列車外に転落し、病院に収容されましたが、同日午前7時15分に死去しました。

140812_3 供養塔の標識

わたしも、中学校の音楽の授業で「春の海」を習った際に、宮城氏のことを知り、母から列車から転落し、亡くなったと聞かされ驚いた記憶があります。当時の客車列車がドアは手動で開け閉めし、特に夜行列車の場合、目の不自由な方でなくても転落事故の危険性は十分にあるなと感じていただけに、宮城道雄氏の転落事故を初めて聞いたときは大変ショックだったのをよく憶えています。

今回の刈谷訪問の際に、供養塔も是非訪れてみようと思いました。

140812_4

三十宝塔の供養塔 1957年5月 刈谷市、宮城会、日本盲人会の三者によって建立されました。

当時の急行「銀河」13列車は東海道本線全線電化開業前のダイヤで
東京を20:30に出発、横浜2105、静岡2358と停車し、名古屋には0321、岐阜0358、米原0507、京都0640、大阪0735と停車し、神戸着は8:25でした。

1_2

(こちらのサイトに急行「銀河」の列車番号、時刻、編成の情報があります。)

140812_8 名鉄三河線が東海道本線をオーバークロスするガード付近

13列車が当時、この場所を通過したのは午前2時35分頃で、高瀬忠三氏の「悲しき記録」によると、午前3時半頃現場を通過した下り貨物列車1189列車の田中二三機関士が「三河線のガード付近に轢死体らしきものを見た。」と大府駅に紙片を落として連絡し、刈谷駅員数名が現場に向かって、ガード下の線路脇に横たわる宮城氏を見つけたそうです。発見時は意識もあり、駅員と言葉も交わされたそうです。

140812_5 目の不自由な参拝者のため点字で記された案内塔もあります。

現場は直線で、列車から振り落とされるようなカーブではなく、かつポイントなどもありません。13列車の20分後には急行「安芸」が通過し、貨物列車も通過していましたが、発見されたのは40分後の1189列車となりました。転落後、1時間20分ほど現場に救出されるまでいたことになります。

住所の確認で、留守宅には5時過ぎに、列車には5時7分の米原到着前に連絡が行き、二等寝台に就寝中だった付き添いの牧瀬喜代子氏と連絡が取れ、米原から急遽引き返されたそうです。

宮城氏の方は大まかな縫合で約25針、大小6カ所の裂傷でしたが、意識はしっかりしていたそうです。頭部の処置と輸血などをして、6時を回った頃から、容態が急変し、7時15分に帰らぬ人となりました。(詳細な記述はこちらに)。

140812_2
こちらは交通守護と読めます。 妻の宮城貞子氏によって建てられたもののようです。

列車から転落の真相については未だに解明されておらず、警察による公式記録では自殺となっているとのことです。

命日の6月25日は遺作の歌曲「浜木綿」にちなんで浜木綿忌と呼ばれ、供養塔で営まれる法要に多くの方々が参詣されるそうです。

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コメント

こんにちは~。モモパパです。
宮城道雄氏の供養塔が刈谷にあるとは知りませんでした。
そうですね。
当時の客車は乗降口が手動で平気で開けたまま走行してましたから。
今では考えられないことですが。
ましてや目の不自由な身。
転落死してしまったんですね。

モモのパパさま、こんばんは。

わたしも現地を訪問してから刈谷付近を通るときは車窓に目をやって慰霊碑を確認しています。警察の検証通り本当に自殺だったのか、あるいは事故なのか、難しいかも知れませんがしっかり検証して欲しいですね。

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