速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その3 青函連絡船摩周丸2
函館市内の観光、元青函連絡船摩周丸の続編です。
2015/12/23 摩周丸入口
摩周丸博物館、開場は冬場11月から3月までは朝9時からですが、12月23日は祝日だったせいもあってか、8時半を過ぎると続々と観光バスも到着しはじめ、実際は8時50分頃、オープンとなりました。入場料は500円でした。
受付時にもらったパンフレットから
船内は2階船楼甲板、3階遊歩甲板、4階航海甲板の3階構成となっています。
摩周丸の資料および展示物は経済産業省から2009年2月6日に近代化産業遺産に認定されており、その標が船内に入ってすぐの場所に掲示されています。
2階の入口には昨日の記事で触れたJIS型錨と国鉄型錨の説明があり、3階へ誘導されます。
この展示の内容は冊子にも纏められており、売店で300円で購入できます。
3階がメインの展示場で1908年から1988年まで青函連絡船の80年の歴史と終航してからの20年、合わせて100年の歴史を纏めた展示がありました。
どの船がいつ就航し、いつ終航したか、80年の歴史とともに紹介した展示物
青森~函館間の航路の歴史は1854年に日米和親条約により、下田と函館が開港場に指定され、明治政府により1869年に開拓使が函館におかれた頃から始まります。1873年に開拓使が函館~青森間に定期航路を開きました。この頃は函館~青森・安渡(大湊)という航路でした。1879年、三菱汽船が開拓使の航路を譲り受け、青森~函館間に定期航路を開設しました。1882年、三菱に対抗して北海道運輸が設立され、1883年には政府の主導で東京風帆、北海道運輸、越中風帆が合併し、共同運輸が設立されました。その後、両社の競争は激化し、共倒れの危険性もあったので、政府の主導で1885年合併がなされ、日本郵船が誕生しました。
初代の連絡船 「比羅夫丸」の模型
一方、鉄道に関しては本州側は岩倉具視らが設立した日本鉄道により、1891年に上野~青森間が全通、北海道側は1882年8月に岩見沢~室蘭間が日本炭礦鉄道によって開通し、1893年から日本郵船は青森~函館航路を室蘭まで延長し、3港連絡としました(1906年廃止)。1905年、函館~小樽間も全通し、札幌を経由して旭川まで鉄路が繋がりました。同じ年、奥羽本線も全通し、津軽海峡を挟んだ鉄道連絡の重要性が増しました。
日本鉄道は連絡船直営化を目指して、青森~函館間連絡用に独自に蒸気タービン船2隻をイギリスに発注しました。1906年3月31日、鉄道国有法が公布され、日本鉄道は国有化され国鉄に、日本鉄道が発注した蒸気タービン船は東北に縁の深い阿部比羅夫、坂上田村麻呂から「比羅夫丸」「田村丸」と命名されました。これらの船の総トン数は1480トン、旅客定員328名、載貨量239トンで速力18ノットでした。比羅夫丸は1908年3月7日、田村丸は4月4日、青函航路に就航しました。
当時、軍艦でも蒸気タービン船は日本には無く、最新鋭の高速船で青森~函館間を4~5時間で結びました。旅客は国鉄が奪いましたが、大口貨物は日本郵船が握っていたので、政府の主導で国鉄が青函航路を買い上げる形で1910年3月、日本郵船の青函航路は廃止されました。また当時は大型船は岸壁に着岸できず、小蒸気船や艀で上下船していたため、国鉄は函館、青森に桟橋を建設し、1910年に函館港に竣工、青森港は1923年に一部が完成しました。
ドイツ^デンマークの鉄道連絡船に乗るICE-TD 車両605 2009/4/20 Hamburg Hbf
青函航路の車両航送技術はドイツ・デンマークの鉄道連絡船技術を参考に研究したそうです。
車両をそのまま船に乗せる車両航送が始まったのは1914年の車運丸就航からですが、この船は甲板に線路を3本持ち、7トン貨車7両、客車なら3両、機関車は1両運ぶことができました。1924年5月、自航式航送船、翔鳳丸が就航して本格的な鉄道連絡船になりました。3460総トン、旅客定員895名、搭載貨車25両で速力17ノット、青森~函館間を4時間30分で結びました。
函館岸壁の可動橋
可動橋の説明板
函館、青森岸壁に残された可動橋は2011年 機械遺産44番に認定されています。
可動橋模型
可動橋側と船側を繫ぐ特殊なレール
特殊レールのツメの部分
車両航送にとって重要な技術が潮水位の高さの変化などに依らず安定的に岸壁側と船側を線路で繋げる技術でした。
車両航送は港と車両の整備を待って1925年8月1日から開始され、輸送力の飛躍的増大、経費の節減、積みおろしの時間短縮効果で貨車の輸送距離が拡大し、北海道の鮮魚類が関東・北陸まで送られるようになり、北海道の水産業に大きな影響を与えました。
その後、樺太と稚内を結ぶ稚泊航路、朝鮮半島と本州を結ぶ関釜航路にも大型船が就航し、戦前の黄金時代を迎えますが、1937年からの日中戦争の拡大、1945年終戦間近の米軍による攻撃で青函連絡船は全滅します。
終戦後、いろいろな船をかき集める形で青函航路が復興し、定期航路として再開にこぎ着けます。私の母もこの頃、東京から倶知安に疎開しており、終戦後に青函航路を渡った経験を聞いた憶えがあります。
洞爺丸の模型
1946年、国鉄はGHQに対して鋼鉄船の新造許可を申請し、1947年待望の新造船、洞爺丸(総トン数3898トン、旅客定員1128名)が就航しました。搭載貨車数は18両と少ないものの戦後直後とは思えないほどの豪華船だったそうです。1948年までに姉妹船の羊蹄丸、大雪丸、摩周丸が就航し、貨物専用船の北見丸、日高丸、十勝丸、渡島丸も就航し、従来からの第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸、第十一青函丸、、第十二青函丸、石狩丸と合わせて14隻体制となりました。
1946年2月から上野~札幌間に寝台車と荷物車で構成された占領軍専用列車が設定され、青森~函館間は編成ごと航送となり、11月からは横浜~札幌間に拡大、1201、1202列車となり、1952年4月からは日本人も利用可能となりました。一般列車としては1948年12月から上野~青森間の急行201、202列車と函館~旭川間の急行1,2列車に1寝台車を連結、航送したのが始まりでした。こういった寝台車航走は1954年の台風15号海難まで続きました。
1954年9月26日の台風15号による洞爺丸を始めとする5隻の沈没事故は青函連絡船史上最大の海難事故となりました。この事故に関しては別の記事で詳しく触れますが、その後、連絡船の安全性を高めるため船尾扉の装備、船底、舷側の二重化などの対策がなされ、エンジンも蒸気からディーゼルになって行きます。
1964年、昨日の記事でも触れた新造船 津軽丸が連絡船総取替計画の一環として登場します。1966年までに姉妹船 八甲田丸、松前丸、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸、十和田丸の7隻が就航しました。津軽丸が東京オリンピックの聖火を函館から青森まで運んだのは1964年9月でした。津軽丸で修学旅行中の女子高生が投げ損ねた紙テープを取ろうとして手摺りとタラップの間から海中に転落する事故が起き、航路開設以来続いていた見送りの紙テープが廃止されたのもこの頃でした。
1974年3月29日 青函連絡船大雪丸初乗船時の船内案内図(再掲)
大雪丸 模型
1967年からは遊歩甲板後部を改造して自動車(乗用車)6台の航走も開始されました。
摩周丸にも復元された自動車航走のための区画があります。函館ではエレベータ、青森ではスロープで積み込みが行われました。
1969年から翌年にかけては貨物専用船、渡島丸、日高丸、十勝丸が建造され全長144.6m、搭載貨車55両は津軽丸型を大きく上回りました。1970年代前半からはディスカバージャパンキャンペーンや札幌オリンピック、そしてSLブームで多くの若者が北海道を訪れました。私も初乗船は1974年3月でした。大雪丸は札幌オリンピックの聖火を青森から函館まで1月に運んでいます。
1976年から77年にかけて空知丸、檜山丸、石狩丸が建造され、従来タイプの船は一掃され昨日の記事の13隻体制になりました。そのおかげで1日30往復の運航が可能となりました。
些か見苦しい写真ですが13隻のシンボルマーク
13隻の新造船が揃ったところで、それぞれのシンボルマークが設定されたのが、航路開設70周年にあたる1977年でした。
オイルショック後の景気低迷期を脱しても連絡船の旅客数は交通体系の変化により、減る一方になりました。旅客の多くはジャンボジェットの就航などで空路を使うようになり、貨物はトラックを乗せるフェリーに流れるようになりました。
実際に煙突サイドに掲出されていたJNRとJRマーク
1978年、貨物専用船の渡島丸が余剰により係船となり、1982年3月には津軽丸が引退、11月には松前丸も終航となりました。船旅を楽しくするため、利用者の減ったグリーン船室の一部を喫茶室にしたり、「マリンガール」の乗船のどもありましたが、青函トンネルの開通も間近に迫る中、船齢の若い、貨物船 石狩丸、檜山丸を普通船室を増設して客船に改造し、なんとか旅客便を維持する策が採られました。1984年1月、日高丸、十勝丸が終航しました。
1987年4月、国鉄は分割民営化され、8隻の連絡船はJR北海道の所属となりました。船籍も東京から函館に移されました。そして1988年3月13日、青函トンネル開通とともに80年の歴史に幕を降ろしました。
1988年3月14日、最終便として青森に向かった羊蹄丸が函館に戻り、8隻が函館に集結、その夏、青森、函館で青函博覧会が開催され、青森会場には八甲田丸、函館会場には摩周丸が展示され、十和田丸と羊蹄丸が6月3日から9月18日まで1日2往復の復活運航を行い、青函航路として最後の営業を行いました。
バブル景気の時代も幸いし、8隻の船は買い取られ第二の船生を送ることになりました。
羊蹄丸: 日本海事科学振興財団(船の科学館)が購入
大雪丸: 長崎にてホテルシップヴィクトリアとして開業
十和田丸: 横浜~神戸間豪華クルーズ船 フィリピンマクタン島のホテル
石狩丸、空知丸: 地中海フェリー
檜山丸: 青少年検修船「21世紀号」 東南アジアへ
摩周丸、八甲田丸は函館、青森岸壁に保存、連絡船の歴史を伝える博物館船に
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