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2016年1月31日 (日)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 弘前街歩きと大鰐線チョコッと

2015年12月20日から26日までの1週間の青森・函館旅行を40回に渡って報告してきましたが、いよいよ今回が最後です。

弘南鉄道弘南線で弘前まで戻った後は、弘前駅を見て、弘前の街をブラブラ歩くことにしました。

151225_2 弘前駅は新駅舎に改装されて10周年、奥羽本線弘前~青森間が開業して120周年ということで、こういった飾り付けがなされていました。

中央に置かれたSLの模型はC621号機でした。どういう関係か分かりませんが。

調べてみると1894年12月1日に官設鉄道の弘前駅(旅客駅)は奥羽北線の青森-弘前間開業とともに開業しており、12月11日から貨物の取り扱いを開始し、一般駅となっています。新駅舎(4代目)供用開始も2004年12月12日からでした。ですから、2014年12月からこれらは設置されているようですね。

弘前は2010年秋にも来ており、その時も小1時間程、市内を歩いているのですが、今回は12月21日の夜、歩いた中央弘前駅からJR弘前駅までのルートを逆に辿るように往復しました。

151225
弘前市街図 この地図、西の方向が上になっています。

JR弘前駅から緑の遊歩道を通り、羽州街道(県道260号線)沿いに中央弘前駅付近まで歩くことにしました。

151225_3 駅前には「りんごの風」という銅像 弘前出身の彫刻家、古川武治氏によるもので、自然の実り、収穫、若い生命感が表現されているそうです。

県道260号線沿いは弘前のメインストリートのようで、大きな書店なども建ち並んでいます。

151225_4
JR弘前駅からおよそ20分ほどで中央弘前駅前に到着しました。一見すると駅というよりは古めのスーパーマーケットかという感じです。

7040_151225
大鰐線はこの土淵川に沿っており、土淵川は久渡寺山に源を発し、市内を通り、平川に合流する川で大鰐線と川辺の景色は弘前百景のひとつだそうです。

7040_151225_3
大鰐線の7000系は先日の記事でも触れましたが、7000形と呼ばれており、日立製の車両が集められています。

7031-7032 7033-7034 7037-7038 7039-7040 の2両編成4本が1988年に6000系とともに譲渡されました。7035-7036に該当する車両は東洋電機製で秩父鉄道に譲渡され、2000系のデハ2002-2301になりました。

譲渡後は回生ブレーキカット、寒冷地対策としてベンチレーターのカバー取り付け、暖房強化などの改造を受けました。1991年にワンマン化改造をされました。

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2016年1月30日 (土)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 弘南鉄道弘南線4

弘南鉄道弘南線、沿線の新里(にさと)駅には8620形蒸気機関車48640号機が保存されています。そこで、復路は新里駅で途中下車して見学をすることにしました。

48640_151225
48640号機

151225
新里駅は1927年9月7日、弘南線弘南弘前~津軽尾上間が開業したときに停留所として開業し、1951年9月18日、停車場に格上げされた駅です。

151225_3 新里駅 構内の様子 2015/12/25
ホームの屋根も昔の写真ではあったようですが、現在は撤去されています。

1959年7月15日から1971年10月1日までは貨物取り扱いを行っており、今でも構内にはそういった跡が残っています。48640号機もそういった場所に展示されているのであたかも入れ換え機が待機しているように見えます。

1972年7月1日から業務委託廃止により、一旦無人化され、1973年4月には解消されましたが、1987年11月16日から、再び無人駅となっています。

48640号機は会津、秋田、五能線で活躍後、1973年6月22日に廃車となった後は;青森県鯵ケ沢町「鯵ケ沢町役場」に保存されていました。それがNPO法人五能線活性化倶楽部により、2011年11月14日にこちらに移設され保存展示されるようになったそうです。お披露目の会も2011年12月4日に催されたとのことです。

私がいつも保存車両の情報で参考にさせて頂いているM.TADA氏のサイト(汽車・電車1971~)でも移設後の様子が紹介されておりますが、2012年6月の時点のお写真と較べると、大きな違いはデフレクターが装着されている点です。デフレクターは2013年7月の時点では装着されていたようです(関連記事)。

151225_2
2011年11月、おそらく48640号機の移設と同じ頃改築された駅舎 2015/12/25

今回は速報版と云うことで48640号機に付いては、後日保存機シリーズで詳しく触れる予定です。

7103_151225
7153_151225
新里駅周辺、特に黒石方面は好撮影地です。

7152_151225
1時間新里駅に滞在して、弘前に向かいました。

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2016年1月29日 (金)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 弘南鉄道弘南線3

今回も弘南鉄道弘南線の話題です。

2015年12月25日、函館を出発する頃から、暖冬の気候が漸く本格的な冬の気候に変化する兆しが見えていましたが、弘南線初乗りで黒石駅に到着した頃には完全に冬の様相を呈してきました。

70107100_151225
今回立ち寄りませんでしたが、途中の平賀駅同様に編成が留置されており、終点の黒石駅には折り返しで発車する7153編成の他、左の7022編成、さらに昨日の記事で紹介した7021編成が留置されていました。

Ed333104_151225
また、除雪用のラッセル車キ104とED333が連結された編成も留置されていました。

105_151221 再掲

大鰐線では大鰐温泉駅にED221とキ105が留置されていました。

このラッセル車は国鉄キ100形貨車として、1928年から1956年まで苗穂・大宮・浜松・土崎・郡山の各国鉄工場と、飯野産業(飯野重工業)・立山重工業において全194両(キ100~キ293)が製造された事業用貨車(単線用ラッセル式除雪車)です。
もっとも、キ258~キ2751953年に木製のラッセル車キ400形(2代)を苗穂工場、新津工場にて鋼体化改造して編入したそうです。

104_151225
キ104 前頭部

前部がラッセル部、後部が機械室となっており、前頭部は上の写真のようにくさび形をして、線路上の雪をかき分けます。前頭部の形状は100-143の延鋤形、144-172の曲面状の流線形、173-293の平板の直線形と試行錯誤の跡があったようですが、直線形の優位性が認められ、大部分が直線形に改造されたそうです。

ラッセル前頭部の「舳先」部分の最下端には、フランジャと呼ばれる可動式の爪があり、踏切や分岐器等支障のある箇所以外ではこのフランジャを下ろして線路間に溜まった雪を除雪するようになっています。

操縦室後ろにある機械室の左右側面には大型の除雪翼があり、これを左右に展開することにより、前頭ラッセル部が掻き分けた雪をさらに線路脇に押し退けます。この左右除雪翼や前頭ラッセル部下端のフランジャを動作させるのは全て空気シリンダによって行われているため、機械室屋根には機関車から送られてくる圧縮空気を溜めておくエアタンクを6基備えています。

仕様
自重:31.1t
最大長:11.39m
最大高:3.99m
軸数:2軸ボギー台車×2  前位の台車は除雪時の安定性の確保から枕ばねのないTR42、後位の台車は戦前製のものはアーチバー式のTR20、戦後製はベッテンドルフ式のTR41を装備しています。

弘南線のキ104は1968年に譲渡されたもの、大鰐線のキ105は国鉄キ157を1975年に譲渡されたものです。

これらのラッセル車、1月に見たTwitterの記事ではせっせと除雪運用で活躍しているとのことです。

ED333は武蔵野鉄道(現 西武池袋線)の電化にあたり、1923年にアメリカウエスティング・ハウス社より、購入した3両の凸型電気機関車の1両で武蔵野鉄道ではデキカ10形と命名され、旧西武鉄道との合併による形式名統一でE11形となりました。参考記事

Ed22_1_151221
再掲

一方、大鰐温泉駅で見かけたED221は信濃鉄道(現 大糸線の北松本-大町間)が1926年に米国ウェスティングハウス/ボールドウィン社から30トン級EL3台を購入し、No1~3と名付けられました。1937年の国有化でED221~3となり、1号機は1948年に廃車となりました。これを西武鉄道が購入し、ED1と命名、同年10月近江鉄道に貸し出され、1950年2月、正式に近江鉄道に籍を移し、さらに1960年10月から1974年11月までは一畑電鉄でED221として活躍し、1975年から弘南鉄道に活躍の場を移しました。2,3号機もそれぞれ別の車生を辿っていますが、それぞれ解体されずに保存されているとのことです。

参考にした記事

151225
151225_2
黒石の観光に関しては折角の機会ではありましたが、気候的に厳しかったので、次回に回すことにして、直後の折り返し電車で弘前方面に向かうこととしました。

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2016年1月28日 (木)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 弘南鉄道弘南線2

弘南鉄道弘南線、今回は同線で活躍中の車両について触れてみようと思います。

以前にも書いたと思いますが、2010年10月に弘前を訪問した際も弘南線の車両はJR弘前駅のホームからでしたが撮影はしていました。

7153_101023_2
7103-7153編成 2010/10/23 弘前駅

7022_101023_2
7012-7022編成  2010/10/23 弘前駅

7155_101023_2
7105-7155編成 2010/10/23 弘前駅

そして今回の旅で弘前駅で待っていたのは
7103_151225 7153_151225
7103-7153編成でした。

見て分かるようにこれらの車両は元東急7000系1988年からそれまで使用されていた旧国鉄17m国電、モハ11形、クハ16形旧東急デハ5400形モハ108旧東急3600系の代替用として導入されたものです。

東急7000系は電気機器が東洋電機製のものと日立製のものがあり、東急時代両車は運用上区別されていましたが、弘南鉄道でも東洋電機製の車両が弘南線にデハ7010、デハ7020、デハ7100、デハ7150として、日立製の車両が大鰐線にデハ7000として配置されています。

7012_151225 7022_151225 黒石駅で見かけた7012-7022編成 2015/12/25

7021_151225 7021編成 2015/12/25 黒石駅

オリジナルの顔が保たれている7010形は、7011-7021、7012-7022、7013-7023の2両編成3本、6両が譲渡され、それぞれ改番が行われており、原番号の対応は

弘南    東急        弘南    東急
7011        7013    7021        7014    1989年譲渡
7012        7025    7022        7026    1990年譲渡
7013        7029    7023        7030      1990年譲渡    

となっています。東急偶数>弘南偶数 東急奇数>弘南奇数の関係は維持されています。
弘南線入線時に回生ブレーキカット、寒冷地対策としてベンチレーターのカバー取り付け、暖房強化などの改造を受けました。1994年にワンマン化改造が行われました。

一方、東急時代は中間車だったデハ7100形は2両編成5本分が譲渡されて7100-7150形として活躍しています。

弘南    東急        弘南    東急
7101        7141         7151        7142        1989年譲渡   7151:1999年6月廃車
7102        7143         7152        7144    1989年譲渡
7103        7109         7153        7108        1990年譲渡
7104        7169         7154        7154    1990年譲渡   7104:1999年6月廃車
7105        7153         7155        7122        1990年譲渡

入線に際しての改造は7010形と同様で、種者が中間車であったため、運転台取り付け改造も行われました。ワンマン化改造は1992年と1994年の2回に分けて行われました。

1997年8月25日に飯田駅で起きた衝突事故で7151と7104が廃車となり、7101は7154と編成を組み、4編成が活躍しています。

7000_151225 特徴的なパイオニア台車

7000_151225_2 東急時代そのままのつり革

熊本のアオガエル同様に車内は東急時代の風景がそのまま残されていました。

7000_151225_3 運転席は東急時代の機器にワンマン化改造で機器が付加されていました。

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2016年1月27日 (水)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 弘南鉄道弘南線1

2015年12月25日、青函連絡船八甲田丸の見学を終えた後は、再び弘前へ向かいました。この旅の最初の行程(12月21日午後)、大鰐温泉まで行き弘南鉄道大鰐線に乗車しましたが、今度は黒石までの弘南線に乗車するためです。

151225
弘南線(こうなんせん)は路線距離(営業キロ)で16.8km、駅数は起終点駅を含めて13駅です。全線単線で、弘前、新里、館田、津軽尾上、田舎館、黒石で交換が可能です。全線直流1500Vで電化され、閉塞方式は自動閉塞式です。

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弘前駅の時刻表と券売機

ダイヤは基本的には30分間隔の運転で、12時13時14時台は60分間隔になります。

歴史は、
1926年2月18日、弘南鉄道に対して中津軽郡和徳村と南津軽郡尾上村間に鉄道免許状が下付されたのが始まりです。
1927年9月7日、弘南弘前~津軽尾上間が開業しました。
1948年7月1日
、全線が600Vで電化されました。
1950年7月1日、津軽尾上から弘南黒石まで延伸し、全線開業となりました。
1954年4月1日、架線電圧を750Vに昇圧、1961年9月1日には1500Vに昇圧しました。
1965年4月1日
、票券閉塞式から通票閉塞式に変更、1970年12月10日、平賀~弘南黒石間を単線自動閉塞化、1978年12月22日、弘南弘前 - 南弘前間単線自動閉塞化。
1984年7月1日 貨物営業廃止。
1993年4月1日 ワンマン運転開始。
1997年8月25日 館田駅構内で電車正面衝突。32人が重軽傷。
1999年11月1日 自動列車停止装置 (ATS)使用開始。
2007年6月12日 平賀駅構内で黒石発弘前行電車が脱線。負傷者なし。

黒石からはかつて軽便鉄道法に基づいて1912年8月15日に開業した国鉄黒石線が川部まで通じており、1980年に成立した国鉄再建法で、1981年9月18日 第一次特定地方交通線として廃止が承認され、1984年11月1日、弘南鉄道が経営を引き継ぐことになりました。しかし、利用者が伸び悩み、1998年4月1日転換特定地方交通線のトップを切って廃止されました。

151225_3 2015/12/25 旅客運賃表 新里駅

旅客運賃は弘前~黒石全線乗って460円、新里駅で途中下車して撮影をして、黒石~新里430円、新里~弘前300円かかりましたので、弘南線、大鰐線1日自由乗車券(大黒様きっぷ)を購入する方が得でした。

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弘南線について触れる上で忘れてはならないのが田んぼアート駅かと思います。2013年7月27日に開業した新駅(臨時駅)で尾上高校前と田舎館の間にあり、4月1日から11月30日までの期間、列車が停車する駅です。残念ながら今回の旅では観ることが出来ませんでしたが、是非機会があれば再訪したく思います。
田んぼをキャンバスに見立て色の異なる稲を植えて巨大な絵や文字を作り出すプロジェクト田んぼアートを見ることが出来、1993年に田舎館村で村おこしのために始められたとされています。

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2016年1月26日 (火)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 青函連絡船八甲田丸6

青森の青函連絡船八甲田丸の話題、今回は車両甲板の下の第二甲板の話題です。

151225

摩周丸の記事でも紹介しましたが、第二甲板(博物館的にはB1)は船首からバウスラスター室、普通船員居室、発電機室、総括制御室、主機室となっています。八甲田丸では主機室、発電機室、総括制御室が公開されていました。

151225_2
青函連絡船初のディーゼル船の檜山丸(初代)から十和田丸では毎分230~250回転の2サイクル低速ディーゼルエンジン(B重油使用)を主機関に採用していました。エンジンの高さが船底から車両甲板までほぼ一杯になり、主機械のピストン抜き作業は車両甲板に設けたボルト締めの水密ハッチの蓋を開けながら行う必要があり、車両搭載時には実施不可能でした。

1600ps_151225 シリンダーヘッドの数からV8タイプのエンジンと見られます。

津軽丸2代以降では背の低い毎分750回転の
単動4サイクルトランクピストン
排気ターボ過給機付ディーゼル機関 (軽油を使用)
川崎 MAN V8V 22/30mAL もしくは 三井 B&W 1226 MTBF-40V

を搭載したため、所要出力を確保しつつ、天井の低い車両渡船の機関室内で、主機械頂部と機関室天井の間に余裕を持たせ、ピストン抜き作業も機関室内で可能となりました。

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750rpmではプロペラ効率が悪く、減速機を介して主軸に繋ぐ必要があり、また片舷1軸あたり4台のエンジンが繋がるため、故障機や休止機を軸系から容易に切り離せるようにしておくことも必要で、各主機械と主軸の間にはクラッチも必要となりました。そこでフルカンギアを介して、油の出し入れで動力の伝達をON/OFFする機構が導入され、8台のエンジンの出力は、それぞれ流体継手と1段減速歯車を介して両舷の主軸に伝達され、主軸はプロペラ効率のよい毎分217.5回転で互いに外転しました。

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表示から推測するところ、フルカンギアの潤滑油の冷却装置でしょうか?

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メインエンジン上の物々しい配管

通常は主機械6台程度の稼働で定時運航可能なため、運航しながらの機関整備が可能となり、当時檜山丸型で行われていた20日間運航後3日間休航、という機関整備のための休航は不要となりました。

151225_4 2015/12/25 総括制御室

摩周丸ではディスプレイ越しでしたが、八甲田丸では同じ光景を直接見ることができました。計器盤は船尾方向向きに設置され、ここで各種機械類の状態が監視され、通常の運転操作はここから遠隔操作で行われました。

151225_5 発電機室

151225_6
1939年以来
の連絡船では電圧は225Vでしたが、十和田丸(初代)では3台の発電用ディーゼルエンジン(360制動馬力)が搭載され、三相交流60Hz 445V 300kVAの発電が行われていました。津軽丸2代以降は左舷から中央部にかけて、出力840制動馬力ディーゼルエンジン(大雪丸(2代)、摩周丸(2代)、羊蹄丸(2代)では800制動馬力)で駆動される三相交流60Hz 445V 700kVAの主発電機が3台設置され、右舷にはバウスラスター駆動電源で、かつ主発電機故障時には、主要推進補機のバックアップ電源となる、出力900kVAの主軸駆動発電機が設置されていました。

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1954年9月26日の洞爺丸をはじめとする5隻の青函連絡船沈没事故を教訓として、1957年に就航した十和田丸初代、さらに1964年から就航した津軽丸二代目以降、数々の安全対策が取り入れられたことがよく分かりました。

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2016年1月25日 (月)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 青函連絡船八甲田丸5

青森岸壁に係留されている青函連絡船八甲田丸の話題、今回は車両甲板に保存されている車両の紹介です。

151225
ちょっと見にくいかも知れませんが、車両甲板には
スユニ50 509, 510   キハ82 101
DD16 31 ヒ600 4両 ヨ6000形6798 が保存されています。

50_509_15122550_509_151225_2

50_510_151225 最初は我が国の鉄道郵便・荷物車の最終型となったスユニ50 509, 510です。

国鉄が最後に1977年から設計・製造した50系客車の一形式で、スユニ60形などの置き換え用に計画されました。車体、台枠は新製されましたが、台車はTR47形台車、自動連結器一式は廃車となったスハ43形スハネ16形から流用されたため、名義上は新製ではなく改造扱いとなりました。1978年から1981年にかけて国鉄工場で80両が改造施工されました。

0番台が本州以南用、500番台は北海道用に区分されました。0番台は電気暖房搭載で現番号に2000が付加されました。外部塗色は青15号です。

82_101_151225

82_101_151225_2
続いて本州側では「白鳥」、北海道側では「おおぞら」、「北斗」、「北海」「おおとり」などで青森、函館駅の常連だったキハ82形特急車両です。

キハ82 1011965年7月9日、富士重工で製造、1987年2月18日廃車になるまで終生、函ハコで活躍した車両です。

Dd16_31_151225
DD16 31

DD16形1971年登場した小型液体式ディーゼル機関車で、軸重が12tに制限されている簡易線向けに製造された形式です。1971年から1975年にかけて国鉄長野工場、日本車輌製造・川崎重工業で65両が製造されました。

Dd16_31_151225_2
前後非対称のセミセンターキャブ方式となっているのは長い方にエンジン(DML61S)を出力を1000psから800psに落としたものを搭載し、キャブ下に燃料タンクを配置し、短い方に機関予熱器、蓄電池箱などを納めて軸重不均衡を調整しているからです。

0番台 65両 
300番台 飯山線、大糸線用に2,5,4,13を単線用ラッセル式除雪ヘッドを取り付け可能に改造したタイプ

DD1631     川崎重工大阪工場=3826           1974-04-00 D48.0tBB(1067)
   車歴;1974-04-00 製造→ 納入;国鉄;DD1631→ 配属;青函局→1974-04-25 配置;長万部→
      1980-10-01 五稜郭→1986-03-31 廃車;五稜郭→
      保存;青森県青森市青森港「メモリアルシップ八甲田丸」;DD1631

沖田祐作氏の機関車表データによる31号機の履歴です。

600_151225 ヒ600形貨車

1954年から1977年までに構内入れ換え用、航走車両の積み下ろし作業用の控車として、トム16000形、ワ12000形、ワ22000形、ワム3500形、ワム20000形、ワム21000形、ワム23000形、ワム50000形、ワム90000形、スム1形、テム300形、テラ1形から総数253両が改造されました。走行装置は種車の違いにより、シュー式、一段リンク式、二段リンク式があり、最高速度は65km/hでした。

600_151225_2
1968年10月1日
のダイヤ改正で高速化不適車の指定を受け、識別のためヒの左肩にロが付け加えられました。

600_151225_3
6798_151225
最後は緩急車ヨ6000形6798です。

1950年代から60年代にかけてローカル線の緩急車はワフ(有蓋緩急車)が使用されていました。居住性が悪く不評だったため、その改善と慢性的な緩急車不足を解消させるため、1962年から1969年にかけて製造されたのがヨ6000形式でした。東急車輛製造・協三工業・汽車製造・鉄道車輌工業・日立製作所・若松車輌で905両(ヨ6000 - ヨ6870、ヨ6900 - ヨ6915、ヨ7900 - ヨ7917)が製造されました。

窓4枚の車掌車スタイルを基本としていますが、ヨ5000形に比べると車体が630mm、軸距が300mm短縮され、それに伴い窓数も3個となり、室内の執務用机や椅子、長椅子も3人分から2人分に減らされています。屋根も深いRのカンバス張り屋根を持ったヨ5000形に対し、ヨ6000形はゆるやかなRをもつ浅めの鋼板屋根となり、換気用ベンチレータも1個に減りました。

暖房用ストーブは当初石炭使用のダルマストーブでしたが後に石油ストーブに改装された車両も多数存在し、識別のため妻面左右に白線が標記されました。塗色は黒、常備駅が定められ日本全国で活躍しました。

走り装置はヨ5000形と同様の重ね板ばねを用いた二段リンク式軸箱支持となっており、軸距は短くなったものの、長く軟らかいばねを使用していることもあって、85km/hで走行可能でした。全長は7,200mm、全幅は2,640mm、全高は3,621mm、自重は8.8tで、換算両数は0.8でした。

6000番台 871両
6900番台 16両 北海道向け 二重窓、塩化ビニル床などの耐寒対策
7900番台 18両 耐寒構造で緩衝性能を向上させるため連結器緩衝装置が油圧式に

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2016年1月24日 (日)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 青函連絡船八甲田丸4

青函連絡船八甲田丸の船内紹介、今回は鉄道連絡船の車両甲板です。

151225 翔鳳丸模型

以前、摩周丸の記事でも記述しましたが、青函連絡船における最初の自航式航走船は1924年5月に就航した翔鳳丸でした。その模型が八甲田丸の展示にありました。3460総トン、旅客定員895名、搭載貨車25両、速力17ノットで青森~函館間を4時間30分で結んでいました。

151225_2
旅客船は翔鳳丸から津軽丸二代まで、貨物船は第1青函丸から渡島丸二代に至る車両甲板の変化

車両甲板の線路構成も規模が大きくなっているのが分かります。

151225_3
先頭の貨車は船体側の連結器で連結されると同時に緊縛装置で甲板床とも繋がれました。

151225_4 船体側自動連結器

151225_5 緊縛装置

151223
函館の摩周丸の展示でも緊縮装置の展示がありました。

151225_6
八甲田丸では車両甲板が公開されており、甲板後方扉のすぐそばまで行くことが出来ました。

次の記事で車両甲板に収納されている車両の写真を紹介致します。

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2016年1月23日 (土)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 青函連絡船八甲田丸3

青森の桟橋に係留されている博物館船八甲田丸の紹介、今回は函館の摩周丸では開放されていなかった高級船員の部屋です。

151225
津軽丸(二代)型の連絡船では遊歩甲板レベルの前部が高級船員室、それ以外の大部分が一等船室(グリーン船室)に、さらに後部は1967年6月以降、自動車航走用のスペースとなりました。
151225_2 船長室
実際の航海で船長がどれだけこの部屋に滞在されていたのかは不明ですが、賓客の接待などとしても使われたのでしょうか。

151225_3 事務長室

151225_4 サロン会議室

歴代の桟橋長の名前が記録されているボードがソファーの後に置いてありました。

次は船内の各種表示を集めたもので
151225_5 乗船名簿記入台

松本清張の点と線のアリバイ・トリックを思い出します。

151225_6
151225_2_2
こういった表示類、見ているだけで不思議とあの頃を思い出します。

151225_7 最後に80年間の運航回数の年別実績のグラフです。
1954年(昭和29年)の落ち込みは洞爺丸をはじめとする台風15号による遭難事故の影響で、1970年をピークに運航回数は終航まで減り続けていたことも分かります。
これは以前に記述したように旅客ではB747などの就航による航空機利用の増加、貨物ではフェリー開設によるトラック輸送の増加によるものです。
と言うことで、次回はいよいよ鉄道輸送、車両甲板の様子の紹介です。

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2016年1月22日 (金)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 青函連絡船八甲田丸2

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸の内部の様子ですが、今回は”青森らしさ”という観点から紹介して行こうと思います。

151225 乗船口から入り、上階の展示室へ

先般の連絡船『摩周丸』が江戸時代末期に開港し、異国情緒あふれる函館の街を背景としているのに対して、『八甲田丸』の展示は本州最北端の県庁所在地青森の文化を示しています。

                         青森県章

青森県章 まさに特徴的な県の形を示しています。青森という名称の由来は海上からの目印となる青い森が現在の青森市本町付近にあったことに由来するそうです。江戸時代は弘前藩が治めており、1871年に県庁が弘前から青森に移されました。

30_151225

県外の人間が青森と聞いてイメージするのはなんと言ってもリンゴであり、全国有数の農業産出県で主要な出荷品目はリンゴの他、ナガイモ、ニンニクが全国一の生産量を誇り、漁業も盛んで八戸港の水揚げ高ではサバ、イカが国内一の水揚げ高となっています。

151225_2 祖父が秋田県能代に居た頃は毎年冬に青森のリンゴが贈られてきました。このタイプのリンゴ箱は小さい頃からよく目にしていました。

地形的には県の中央部を奥羽山脈が縦走するため、西側の津軽地方、東側の南部地方(三八、上北、下北地方)は歴史、気候、文化が異なります。

青森ねぶたまつり、弘前ねぷたまつり、五所川原立佞武多、八戸三社大祭などの夏祭りのほか、縄文時代の遺跡が数多く出土しており、三内丸山遺跡(青森市)や二ツ森貝塚、是川遺跡(八戸市)などで住居や土器および土偶が発見され、観光の目玉となっています。

一方で、八戸臨海工業地帯が国策で建設され、下北半島ではむつ小川原湖周辺に国家事業の原子力関連施設の建設が続いています。核燃料サイクル施設や国際原子力機関のITER関連施設、原子力発電所が立地し、県内主要企業の日本原燃があります。また国内で最大級の風力発電施設もあります。

151225_3 2015/12/25 補助汽船 ふくうら丸の模型
白と黄緑色の塗色から、「青船(あおぶね)」とも呼ばれました。

続いて青函連絡船80年の歴史の展示などがあり、さらに青森港で活躍した補助汽船(タグボート)の紹介がありました。

151225_4 (航路廃止時)ひうら丸・ふくうら丸・しらかみ丸・たっぴ丸・かつとし丸が活躍していました。船体の名前は青函航路の岬の名前が付けられました。

二代目津軽丸型連絡船にはバウスラスターが装備されていましたが、通常の着岸時には補助汽船(タグボート)が右舷船尾を押し、回頭着岸作業を行っていました。
推進装置はフォイト・シュナイダープロペラ、コルトノズル付きCPP、ダックペラなどがありました。

仕様 ひうら丸、ふくうら丸タイプ

総トン数 237.0t
全長     30.0m
全幅     8.4m
出力     2000馬力
最高速力 12.0ノット

着岸作業のほか、函館港内に停泊(錨泊)している連絡船の乗組員交代のランチや、岸壁付近の浮遊物(ゴミ)の回収など様々な業務に使用されました。

1988年3月13日、青函航路の廃止により運用を終え、両船とも売却されました。ひうら丸は石狩湾新港、小樽港のタグボートとして2007年まで運用されました。ふくうら丸は苫小牧港のタグボートとして2000年頃まで運用されました。

151225_5
青森港入港の仕方

空港に進入・着陸する航空機に決められたアプローチ・コースがあるように船舶の入港にもコースがあり、目標とするポイントとの位置関係を確認しながら所定のコースに従って入港が行われました。

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2016年1月21日 (木)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 青函連絡船八甲田丸1

青森駅に到着後、最初に訪れたのは桟橋に係留されている「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」でした。

151221 現役当時の黄色い船体のまま青森第2岸壁に係留されている八甲田丸

八甲田丸は1964年登場の津軽丸型の第2船として1964年7月31日に竣工し、更新工事などにより耐用年数を超える23年7ヶ月の長期間(歴代の連絡船では最長記録)運航され、1988年3月13日の青函連絡船終航まで運航されました。青函連絡船として最後の車両航走を行った船でもあります。

151225 青森駅と連絡船桟橋を結ぶ跨線橋も残されています。

151225_4
連絡船時代は青森駅に到着するとあの跨線橋を渡って乗船していました。

メモリアルシップ八甲田丸は終航時の青森第2岸壁に係留された状態で展示した博物館船で青森市の文化交流施設として管理運営はNPO法人“あおもりみなとクラブ”が担当しています。

151225_2
函館で摩周丸の展示を見ており、それとの比較で青森の八甲田丸の展示を見てみて感じたことは、八甲田丸の展示では車両甲板の公開、鉄道に関する情報が充実していること、さらに青森市の文化交流施設として青森の文化の紹介にも重点が置かれていることでした。

151221_2
八甲田丸 仕様 就航時

総トン数     8,313.75トン(5,382.65トン)
全長             132.00m
垂線間長     123.00m
型幅             17.90m
型深さ             7.20m
満載喫水     5.20m
主機     単動4サイクルトランクピストン排気ターボ過給機付ディーゼル機関・川崎MAN V8V 22/30mAL 8台
最大出力     12,475軸馬力
定格出力     1,600制動馬力×8
最大速力     20.93ノット
航海速力     18.20ノット
旅客定員     1,200名
乗員             53名
車両搭載数     ワム換算48両

151225_3
ファンネル(煙突)マークもJNR仕様で残されています。

連絡船終航後、今日まで

1988年7月9日から9月18日まで
青函トンネル開通記念博覧会の青森会場にパビリオンとして繋留・展示
同年9月
青森県・青森市・東日本フェリーなどの出資により青森ウォーターフロント開発設立

151225_5 館内には博物館船への改装工事の際の写真も展示されていました

1989年9月 - 1990年5月
三菱重工横浜製作所にて博物館船への改造工事
1990年7月
展示施設として一般公開開始
2003年4月1日
青森ウォーターフロント開発の自己破産に伴い、運営をみちのく北方漁船博物館に委託
2006年4月1日
運営が特定非営利活動法人あおもりみなとクラブに委託される
2011年7月24日
函館市青函連絡船記念館摩周丸や可動橋と共に機械遺産44番に認定
2012年7月31日
青函ワールドの展示が開始、このとき羊蹄丸(2代)から搬出されたグリーン自由椅子席2脚も展示開始

このような歴史を辿っています。

入館料は500円で摩周丸と同じでした。
これから数回の記事で展示内容について紹介しようと思います。

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2016年1月20日 (水)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 再び青函トンネルを

2015年12月23、24日の函館市内観光を楽しんだ後、25日は函館発の列車で江差線、津軽海峡線を通り、再び青森に戻りました。

現行のダイヤでは青春18切符利用で、青函トンネル区間(蟹田~木古内)しか特急列車を使わない旅の場合、青森を朝一番の列車で出発すると蟹田、木古内での接続待ち時間が長く、木古内からはバスを使いましたが、上りの函館~青森の場合は待ち時間は殆どありませんでした。

函館 6:53 120D 木古内  7:54/8:03 蟹田 8:50/8:57 332M 青森 9:43
             特急スーパー白鳥14号 4014M   

40_1797_151225 2015/12/25 函館駅

6時36分、まだ夜の明けきらない函館駅に入線してきたのはキハ40 1797 でした。

151225 行き先表示がサボである列車も久しぶりに見た気がします。
因みにサボはサインボードの略なんですね。

車内は12月31日の記事の写真で紹介したように、両端の出入り口付近はロングシード、他は4人掛けボックスシートでした。金曜日の朝とあって、函館から江差線方面に通学する高校生で結構、混雑していました。

151225_2
天気は雨模様でしたが、車窓からは函館山が見えました。

この写真からも函館山が陸繋島であることはよく分かりますが、牛が寝そべるような外観から臥牛山とも言われているようです。島の形成は約100万年前の海底火山の噴出で、流出土砂によって砂州が出来て渡島半島と繋がったのは約5000年前だそうです。

40_1797_151225_2
120D列車は定刻に木古内駅に到着、

151225_3 乗り換えのスーパー白鳥14号の自由席の位置まで移動

785_ne303_151225 2015/12/25 木古内 クハ785-303他

この日のスーパー白鳥14号は増結編成付きの8両で先頭2両は785系300番台 NE-303編成でした。

789_151225 乗車した789系自由席車両はガラガラでした。

789_151225_2 デッキへ通じるドア上部には案内表示があり、現在どのトンネル内を進行中なのかを表示してくれます。

在来線特急で青函トンネルを潜るのは恐らくこれが最後の機会となりますが、気になっていた今年3月26日の北海道新幹線開業後の青春18切符の取り扱いが1月5日発表になりました。

それによると、オプション券(北海道新幹線の奥津軽いまべつ~木古内間と、道南いさりび鉄道全区間の乗車をセットにしたもの)を購入すれば、1回の乗車に限り、同区間を18切符で乗車可能にするもので、値段は2300円とのこと。

これまでは18切符さえあれば、青森~函館の往復が可能だったのが、新幹線開業後は新幹線に乗ることになり、さらに4600円余計に支払わなければならなくなるということで、接続の便や奥津軽いまべつ駅での接続の様子はどうなのか、ダイヤを見てみなければ分かりませんが、何のための新幹線か、あるいは道南いさりび鉄道の誕生かと言う気もしないではありません。

50分弱の乗車で蟹田に到着、

Eh50010_151225 蟹田からは701系N13編成で、途中、中沢駅で7分停車し、EH500-10号機牽引の貨物列車の通過待ちなんてこともありました。

こちらも40分強の乗車で定刻に青森に到着しました。
25日は気圧配置が冬型になったせいか、青森も雨から雪になる天気でした。

余談ですが、津軽線では1月17日早朝5時40分頃蓬田村の中長科踏切(蓬田~中沢間)の中で立ち往生した除雪車と、蟹田駅から青森駅に向かう始発の普通列車 (322M)が衝突する事故がありました。乗客はゼロで、乗務員4名と除雪車の運転手にはけがはなかったそうですが、特急列車の運休が発生し、9時間程度運転が出来なかったそうですね(記事)。事故に遭遇した編成は701系N5編成ですね。

701_n5_151221 701系N5編成 2015/12/21 千刈踏切
報道写真で見る限り、前面が激しく損傷しており今後の去就が心配です。

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2016年1月19日 (火)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その4 函館市電駒場車庫

2015年12月の旅行、函館市内観光最後のトピックは2日間、1日乗車券で何度もお世話になった函館市電の駒場車庫です。

151223 2015/12/23 駒場車庫 電車運行部門の建物

函館市電の車庫は現在、駒場車庫ひとつのみですが、かつては

新川車庫: 函館水電時代の車庫で東雲町(後の労働会館前~湯川間の電化に先立ち、当時の東川橋停留所から引き込み線が設けられ、1913年6月29日に開設されました。1926年1月20日の新川車庫火災で電車59両のうち31両が焼失する事件がありましたが、再建しました。しかし1934年3月21日の函館大火でも再度焼失し、再建は断念され、車庫機能は駒場車庫と柏木車庫に移されました。現在、跡地には北海道電力函館支店が建っています。

柏木車庫: 1936年2月15日から函館市交通局時代の1974年4月19日まで使用されていました。柏木町電停の南側にありました。跡地はホテルロイヤル柏木を経て、函館まるかつ水産柏木店及びホリディスポーツクラブ函館店になっています。

梁川車庫: 1966年5月25日に完成し、1973年10月1日に廃止されました。現在は複合遊戯施設「テキサス函館」(旧・函館西武)が建っています。

駒場車庫は1934年12月27日に大火で焼失した新川車庫の代替施設として完成し設置されました。当初は周辺地名の柏野から、柏野車庫と言われていたようです。2002年10月7日、函館市役所末広町分庁舎の閉鎖で管理部及び運輸部がこちらの管理庁舎へ移転しました。

函館駅の方から湯ノ川に向かってきた電車全てにおいて、乗務員の交代もここ駒場車庫前で行われているようです。

151223_2 2015/12/23 駒場車庫前電停 奥が湯ノ川方面 手前が函館駅前方面

配置車両は客扱いする路面電車35両、花電車3両等(等は除雪用の事業用車など)です。

車庫の様子は正面の道路からもよく見えるので、私も今回、市内観光の合間にしばしば駒場車庫前電停で下車して、観察しました。

812_151223_3
運用を終え、湯ノ川から函館駅方面に向かう線路から車庫に入る812号

151223_3
本線と車庫を結ぶ引き込み線は2本あります。手前の函館駅方向の線路に繋がる線路と奥のガソリンスタンドの前あたりで湯ノ川方面の線路に繋がる線路です。

151223_4
道路を渡って車庫の敷地内に入った線路は道路と平行になり、ポイントで検修棟5,6,7線と7以降の線に繋がる線路が分岐します。

3004_151223_2 その先では検修棟1,2,3,4に繋がる線が分岐しています。

8002_151223_2 検修棟1,2線には500形501号、530号の姿が見えます。

2002_151223 さらに道路に平行に進む線路の先

2002_151223_4 車庫から運用に出るためスタンバイ状態の2002号

今回は外からの観察に留まりましたが、例年7月には「路面電車感謝祭」という公開もあるそうですし、事前に問い合わせてokならば見学も可能とのことなので、今度函館を訪問する機会には是非、再訪してみようと思います。例年4月から10月末まで運行されている「箱館ハイカラ號(39号)」も是非、観たく思います。
なお、車庫に関してはこちらにも詳しい記事があります。

車両の写真の紹介はこの旅行のシリーズが終わってから始める予定にしております。

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2016年1月18日 (月)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その3 外国人墓地

2015年12月24日、ベイエリアを観光した後は、市電に乗車し、函館どつく前電停周辺と外国人墓地の散策を行いました。

151224_10 2015/12/24 函館どつく前電停

151224_2 函館どつく前から外国人墓地をカバーした地図

151224_3

函館どつく前電停のそばには、弁天台場跡と新撰組最後の地の碑がありました。

弁天(岬)台場は江戸幕府が1856年から1863年にかけて外国船襲来に備えて箱館湾沖に建設した砲台です。周囲390間(約710m)、不等辺6角形で総面積11,611坪(約383,000平方m)高さ37尺(約11.2m)の石垣を持つ土塁2350尺(約780m)に囲まれたものでした。土石は函館山より切り出し、大手門などは大坂から運んだ備前御影石を用いたといわれています。設計者は五稜郭と同じ武田斐三郎で工事は松川弁之助が請け負い、井上喜三郎が引き継ぎました。

151224_4 皮肉なことに台場が実際に使われたのは内戦となった箱館戦争であり、台場は旧幕府脱走軍によって占拠され、新政府軍と砲撃戦が展開されました。しかし、新政府軍によって圧倒され、1869年5月15日、籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか約240名全員、新撰組百余名も含まれており、ここが最後の地となりました。

台場は1896年の港湾改良で取り壊され、周囲が埋め立てられ、消失しました。

このあたりの海岸は函館山の北西の山麓で、対岸には久根別、上磯から茂辺地、葛登支岬まで見えます。

151224_5
151224_2_2
151224_3_2
波静かな湾に停泊する各種の船
3枚目の写真の対岸に見える高架橋が北海道新幹線です。

1512224渡島半島のランドマークでもある駒ヶ岳は噴火前は富士山のような山容で標高1700mありましたが、1640年の大噴火で山頂が崩壊し、 現在のような山容(標高1131m)になったそうです。

151224_2_3 外国人墓地へ行く道路の途中に国華山高龍寺があります。

高龍寺は函館市内では最古の寺院で
1633年 松前法源寺(曹洞宗永平寺派)の僧・盤室芳龍が、亀田(現在の万代町付近)に創建。
1706年 幸坂下に移転。
1869年 箱館戦争において、旧幕府軍が箱館病院分院として使用。しかし5月11日の箱館総攻撃の際、乱入した官軍兵により負傷者を殺害・放火され焼失。
1879年 現在地に移転。
1899年 現本堂が完成。
1911年 東北以北最大といわれる山門が完成。
2012年 本堂・山門など計10の建造物が登録有形文化財となる。 といった歴史がある寺院で、蠣崎波響(松前藩の家老で江戸時代後期の画家)の最高傑作といわれる釈迦涅槃図を所蔵しています。

1512224_2
墓地一帯に入ると最初にあるのが中国人墓地です。

ペリー来航、函館開港で居住外国人が増え、死去する者も増えたので1870年、開拓使と在函5カ国領事の間で協定が結ばれ、外国人墓地設置が決まりました。

151224_7 中国人墓地には中華山荘とも呼ばれ、23基の墓があります。

1512224_3 プロテスタント墓地

函館港を一望する高台にあり、ペリー艦隊ヴァンダリア号の水兵2名の他、イギリス、ドイツ、アメリカ人等41基の墓があります。

151224_8
中国人墓地の道を挟んで反対側、高台側にはロシア人墓地があります。初代ロシア領事の夫人を含む43基の墓があります。墓の形状もロシアの文化を反映しています。

151224_2_4
151224_2_5 墓地群の先にあるピンクの建物は函館検疫所台町措置所

1877年、中国に始まったコレラの流行が日本にも波及する勢いをみせたので内務省からの指示で開拓使函館支庁内に検疫取り扱い事務所が設けられました。しかし、流行は防げず、1885年、防疫体制の強化のため、函館、新潟、横浜、神戸、下関、長崎に常設消毒所が設置されることになりました。函館では同年11月に消毒施設が建てられ、1886年5月には隔離室も併設され、検疫業務が開始されました。

151224_9
1896年3月、函館消毒後は検疫所に改称され、1945年には太平洋戦争終結により、樺太方面からの引揚者の検疫にあたり、多くの患者を措置所に収容し、医療、援護に活躍しました。1968年、検疫所は市内海岸町に落成した港湾内合同庁舎内に移転し、1997年小樽検疫所函館出張所と改称されました。

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2016年1月17日 (日)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その2 ベイエリア散策4

函館ベイエリアの散策、今回は函館港に関する話題に触れてみようと思います。

151224_5 函館港遊覧船の発着場

151224_6 函館港と倉庫群 さらに日本初の気象観測に関する説明

以前の記事に書いたように函館湾一帯は「宇須岸(うすけし)」と呼ばれ、波の穏やかな港として知られていました。1454年に豪族河野政通が館を築き、形が箱に似ていたことから箱館と呼ばれるようになりました。

江戸時代には箱館は廻船の寄港地として繁盛し、箱館は北国における俵物(対中国(清)貿易向けに輸出された煎海鼠(いりなまこ/いりこ)・乾鮑(干鮑(ほしあわび))・鱶鰭(ふかひれ)の海産物(乾物)のこと)の集荷拠点になりました。

151224_8 北前船の碇

151224_10 造船所跡地の碑

19世紀に入ると市街地化するための堀割が設けられ、遠浅の海の埋め立ても進められました。造船所も設けられ人工港湾の整備が進められました。この頃、高田屋嘉兵衛(1769-1827 廻船業者、海商)は蝦夷地御用定雇船頭に任命され、択捉航路を開きました。

151224_9 高田屋嘉兵衛の説明板

1854年3月31日日米和親条約の締結で同年5月17日にはペリーが軍艦5隻を率いて箱館湊に入港し、測量を行いました。1859年には安政五カ国条約で貿易が開始されます。この頃イングランド、ハンプシャー・リミントン生まれのトーマス・ブレーキストン(プラギストンとも標記:1832-1891)は1860年軍務で中国へ派遣され、揚子江上流の探検を行った後、1861年箱館により、その成果をまとめ発表しました。一旦、本国に戻った後、1863年再び来箱します。製材業に従事しながら日本初の蒸気機関による製材所を設立しますが、蝦夷地では輸送手段がなかったため挫折しました。1867年、プラギストン・マル商会を設立し、貿易商として働き、20年以上滞在し、市の発展に貢献しました。
ブレーキストンは上水道や函館港第一桟橋の設計なども手がけ、気象観測の開始に寄与しました。ブレーキストンの名はその後、プラギストン線(動植物の分布境界線)として後世に残ることになりました。

151224_7 倉庫群の一角には前夜、函館山から見えた巨大なクリスマスツリーがありました。カナダのハリファックスから贈られたものとのことです。

函館での気象観測は1838年船大工・続豊治の子として生を受け、5歳の時に回船業を営む福士長松の養子になり、船大工、通訳、測量技師の福士成豊(1838-1922)に受け継がれます。成豊は開拓使の官吏となり、新島襄の海外密航を支援し、ブレーキストンの気象観測所を引き継ぎ、1872年8月26日、函館船場町(現、末広町)の自宅に気候測量所を設け、本格的な気象観測を始めました。1876年ロシアのペトロハブロフスクに出張し、翌年には千島列島を調査・測量し、「クリル諸島海線見取図」を作成しました。

2_151224 正体不明でしたが、ベイエリアの一角にはロンドンの2階建てバスもありました。

話をプラギストン線に戻しますが、ブレーキストンは野鳥の研究から津軽海峡で動植物の境界線があると提唱し、

ツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンザル、ライチョウ、ヤマドリ、アオゲラ は津軽海峡以南
ヒグマ、エゾシカ、エゾシマリス、ミユビゲラ、ヤマゲラ、シマフクロウ、ギンザンマシコは以北に分布

タヌキ、キツネ、ニホンリスは南北で亜種が異なるとされています。

津軽海峡は最終氷河期(約7万年前~1万年前)に140mの水深がある水路部が残ったため北海道と本州で生物相が異なったと考えられています。
近年のゲノム解析技術の発展で北と南で異なる生物種がゲノム配列レベルでどのくらい異なっているのかも興味深いテーマかと思います。

151224_11 ワイン樽を利用したモニュメント 夜はライトアップされて綺麗かと思います。

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2016年1月16日 (土)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その2 ベイエリア散策3

函館ベイエリアの散策、今回は「函館ご当地バーガー」について触れようと思います。

151224 西波止場美術館に隣接する函館ご当地バーガーショップ ラッキーピエロ ベイエリア本店

ご当地バーガーとしてテレビなどで良く紹介され、思い出すのは横須賀佐世保など米海軍関連のものが多いと思います。

ご当地バーガーの定義は、
局所性:販売、提供される地域が特定地域に限られていること
独自性:手作り感、地産地消であったり、町おこしと関連していたりといった全国展開しているファストフード店にない特徴を持つ
などを有していること などとされています。

ただ、横須賀にしろ佐世保にせよ、米海軍でよく食べられていたものがマスコミ等を通じて有名になったものであり、町おこしや地産地消とは趣を異にしています。まあ、その場所に行った思い出として「あんなものを食べたな」と記憶に残ることが重要かと思います。

151224_2 ベイエリア本店から僅かの距離のところにあるマリーナ末広店

ここ函館には1987年6月に創業されたラッキーピエログループが展開するハンバーガーショップチェーンが頑張っています。

特徴は作り置きしないで、注文を受けてから揚げ、焼くノンファーストフード提供体制、肉や米は北海道産、野菜類も函館近隣で栽培されたものを極力採用する地元の食材を使用する姿勢をとっていることです。

当初はバーガーだけでしたが、顧客アンケートによる要望に応え、カレーライス、オムライス、カツ丼などもメニューに加え、函館にある17店舗では店舗独自のメニューとしてラーメン、あんかけ焼きそば、ピザなども扱っているそうです。

151224_3 マリーナ末広店の店頭にならぶ函館限定超人気「大好きミルクコーヒー」と「ラッキーガラナ」専用の自動販売機

ベイエリアには最初の写真のベイエリア本店とマリーナ末広店が極めて近い距離に存在し、函館駅そばに函館駅前店、五稜郭タワーのそばに五稜郭公園店があるのを見ました。

「百聞は一見にしかず」ではなく、「見るだけではもの足らず、味わうべし」でランチはマリーナ末広店でとることにしました。

メニューはハンバーガーなら、

チャイニーズチキンバーガー  (全国ご当地バーガーNo.1の栄誉を獲得!)
ラッキーエッグバーガー
トンカツバーガー
テリヤキバーガー
酢豚バーガー
THEフトッチョバーガー
函館山バーガー
土方歳三ホタテバーガー
くじら味噌カツバーガー などがありましたが、私はテリヤキバーガーにしました。セットメニューは飲物はウーロン茶のみというので、単品で飲物は「ラッキーガラナ」にしました。

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函館ではマクドナルドなどの全国展開するハンバーガーチェーンを殆ど見かけないことから、地元に浸透しているのが良く理解できました。
参考までに函館周辺のマクドナルド店舗の情報はこちら

ネットで調べてみると1年間で180万人以上が来店する人気ぶりだそうで、こういった記事もありました。

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2016年1月15日 (金)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その2 ベイエリア散策2

2015年12月24日の函館・ベイエリア散策の続きですが、今回は赤煉瓦倉庫です。
151224_3 2015/12/24 函館の港に隣接して建てられた金森商船株式会社の赤レンガ倉庫

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ベイエリアの赤煉瓦倉庫と言えば明治・大正時代に建造されたものが、現代でも歴史的郷愁、ノスタルジーを感じさせることから全国各地に残されています。
港に隣接するものとしては、函館と並んで、小樽横浜神戸佐世保などが有名です。その他、愛知県半田市のカブトビール半田工場の倉庫石川県立歴史博物館になっている旧金澤陸軍兵器支敞の建物、敦賀の石油貯蔵用の倉庫、舞鶴の旧日本海軍の倉庫、大阪港の築港赤レンガ倉庫姫路市立美術館となっている旧陸軍第10師団の兵器庫・被服庫の建物、淡路島の洲本市にある旧鐘紡洲本工場原綿倉庫、呉の旧海軍工敞赤レンガ倉庫、善通寺市の旧陸軍の兵器庫などが赤レンガ建物として残されています。

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金森商船は大分県出身の実業家初代渡邉熊四郎が長崎から1863年に箱館に渡り、1869年大町に開業した「金森洋物店」がオリジンだそうです。1884年に青函連絡船の歴史にも登場した共同運輸会社と郵便汽船会社の合併があり、それまで共同運輸会社が使用していた地蔵町築島、後の船場町の倉庫群が売却されることとなり、熊四郎はこれを購入し、自身の会社の倉庫や営業倉庫(貸倉庫)として使用を始めたの始まりだそうです。1890年海運業の発展で倉庫が不足する事態となり、倉庫は増設されて行きました。
倉庫はやがて1656坪敷地に21棟にもなり、1869年には函館麦酒醸造所の設立へ尽力し、函館ビアホールも開店しました。その後、大火にも見舞われ、倉庫焼失の危機もありましたが迅速に復興し、1910年には収益を上げるまで事業は回復しました。

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飛行機の発達などで海運業に陰りが見え始めてからは規模縮小を余儀なくされましたが、1988年には倉庫の一角が「函館ヒストリープラザ」として利用されることとなり、店舗もそれにあわせて入れ替わりました。

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ちょうどクリスマスイブ当日でもあり、夜のイベントに備えた準備が行われていました。

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「BAYはこだて」はイベントホール、レストランなどの店舗が入る商業施設、「函館ヒストリープラザ」は展示ホールやビアホールからなり、「金森洋物館」はアンティークなどの輸入雑貨やクリスマス用品を扱い、「金森ホール」はコンサート、展示会、結婚式なども出来る場所とのことです。

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151224_2_6 (追記)電車通りにある旧金森洋物店(Canemori Mise)の建物が現在は市立函館博物館郷土資料館として残されています。和洋折衷の防火煉瓦造りで1880年に建てられた建物は明治時代の函館の雰囲気を今に伝えています。現在、北海道で一番古い開拓使による家屋建築施設の記念物として北海道指定有形文化財となっています。

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2016年1月14日 (木)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その2 ベイエリア散策1

函館の旅、市内観光2日目、元町の坂の上の教会群を観て歩いた後は、八幡坂を下り、ベイエリアを散策することにしました。

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函館は海と山の挟まれた地形で道路も碁盤の目のようになっており、比較的わかりやすいですが、このような地図が至る所にあり、良く整備された観光地であると感じます。

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ちょっと見えにくいかと思いますが、八幡坂の麓辺りが、昔 会所町といったことを示している標識です。
1854年3月31日、日米和親条約締結で幕府は箱館と下田の開港を決定しました。1859年7月1日には、安政五カ国条約により、長崎、横浜とともに対外貿易港となりました。1869年、旧幕府軍が新政府軍に降伏し、箱館戦争が終結すると、蝦夷地は北海道と改称され、箱館も函館になりました。それまでの箱館府を廃止して、開拓使出張所が設置されました。1882年、開拓使を廃止して、北海道には札幌県、函館県、根室県と農商務省の北海道事業管理局の3県1局で北海道全体を管理する時代となりました。
函館県の県庁が八幡坂の2本北の御役所坂(基坂)に設置され、八幡坂、基坂周辺の一帯は官庁、金融街となりました(関連情報サイト)。今でもこの周辺には当時の名残の建物が数多く見られます。

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ちょっと離れた先には青函連絡船摩周丸の姿が見えます。

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沢山並んだライトからイカつり船でしょうか。

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緑の島の岸壁には多くのヨットが
カリフォルニア・サンディエゴの風景と似ています。

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2002年 彫刻家 峯田敏郎によって制作された 「記念撮影 未来への始まり-海原-」というタイトルが付けられている 新島襄のブロンズ像

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同志社大学の創業者である新島襄は諸術調所入学のため、来箱しました。五稜郭を設計した教授武田斐三郎に師事したかったのですが、武田は既に江戸に戻っていたため、塾頭の長岡藩士・菅沼精一郎の紹介でロシア領事官付司祭ニコライの日本語教師となりました。当時は鎖国の世の中で海外渡航は禁止されていましたが、禁を破ってでも海外を見たいという情熱から1864年6月14日夜、大町の波止場から小舟で沖に出て、湾内に停泊するアメリカ商船ベルリン号に乗り移り、密出国しました。その時の様子を表した像です。

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日本最古のコンクリート電柱

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函館はしばしば大火に見舞われており、1871年10月15日の切店火事、1873年3月23日の家根屋火事、1879年12月6日の2326戸焼失の火事、1896年8月26日のテコ婆火事、1899年9月15日の2494戸焼失の火事、1907年8月25日の8977戸焼失の火事、1913年5月4日の1532戸焼失の火事、1916年8月2日の火事、1921年4月14日の火事、1934年3月21日の10176戸焼失、死者2054名の火事と焼失個数が1000戸を超える火事でも10件あります。
こういった火事に対して耐火性を持たせるためコンクリート製の電柱が早くから導入され、今日、日本最古の電柱として残るのがこの四角錐の電柱です。1923年製で下辺は47cm、上辺が19cm四方となっています。

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西波止場美術館

わたしはあまり興味はありませんが、各国のテディベアーアーティストの作品を展示している美術館とのことでした。

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「赤い靴の女の子」の像と歌詞碑

1922年野口雨情が詞を書き、本居長世が作曲した童謡 赤い靴ですが、この歌詞は哀愁を帯びた歌詞で小さい頃から憶えています。静岡県出身の女性が未婚の母として育てていた3歳の女の子を北海道の農場に入植するにあたり、開拓生活の厳しさから、養育を諦め、アメリカ人宣教師に託すものの、宣教師夫妻の帰国の際に結核に冒されていたため、東京麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けられ、そこで結核で9歳で亡くなるという実話に由来するということですね。

歌詞では異国に連れられて行ったことになっていますが、実は東京の孤児院に預けられていました。

上記の定説とそれに対する異議とでいろいろ論争が起こっているようですね(関連記事)。 
横浜の山下公園や横浜駅にも像がありますが、サンディエゴの海辺にもあるそうで、ここ函館の像は2009年に建てられたそうです。

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2016年1月13日 (水)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その1 元町の坂2

二十間坂の上まで上り詰めてからは、元町カトリック教会の方へ、進路を北西に取りました。

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朝8時頃でしたが、南東の方角から差し込む朝日が、元町カトリック教会の正面を照らしていました。
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1859年にパリ外国宣教会司祭メルメ・カションが設けた仮聖堂、さらに1867年にフランス人司祭ムニクートアンブルステルが設けた仮聖堂を起源に1877年にフランス人司祭マレンにより、木造の初代聖堂が建立されました。この初代聖堂は1907年に火事で消失しましたが、1910年、煉瓦造りの二代目聖堂が竣工しました。二代目も1921年の火災で焼失しましたが、焼け残った煉瓦の外壁を利用して1924年に33mの尖塔を持つ鐘楼付きゴシック様式の聖堂が再建され、現在に至っています。
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”天主公教会”とは日本におけるローマカトリック教会 (Ecclesia Catholica, Roman Catholic Church) の明治・大正期における呼称です。

151224_3 元町カトリック教会の正門前の坂道は大三坂です。
かつては木下の坂と呼ばれていましたが、「大三」という屋号の郷宿が出来て、大三坂と呼ばれるようになりました。五稜郭タワーの記事で出てきた箱館奉行所に公用で来た人々が「大三」に宿泊したそうです。1987年に「日本の道百選」にも選ばれています。

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大三坂の上には「チャチャ登り」と言われる坂道が続いています。「チャチャ」とはアイヌ語で老人のことでこの坂を上るときは誰でも老人のように腰をかがめることからこの名が付いたと言われています。

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函館ハリストス正教会

151224_3_2 表札の横にはクリスマスリースが

1859年、ロシア領事のゴシケヴィッチが領事館内に聖堂を建てたのが源流で、1861年に来日した修道司祭の亜使途聖ニコライ・カサートキンにより、3人が洗礼を受け、日本ハリストス正教会(神田のニコライ堂に府主教座を置く)の原型となりました。1907年の函館大火で全焼しましたが、1916年に再建されました。聖堂は「主の復活聖堂」と呼ばれ、キリストの復活を記念しています。

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八幡坂
ハリストス正教会の前を過ぎて次の坂道は函館で最も有名な八幡坂です。正面に函館桟橋と連絡船摩周丸が見えます。

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下から八幡坂を眺めると頂上には函館西高が見えます。かつては坂の上に函館八幡宮があったことからこの名が付いたと言われています。八幡宮は1878年の大火で焼失し、谷地頭に移転しました。

海と山が間近に迫る風景、美しいです。

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2016年1月12日 (火)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その1 元町の坂1

2015年冬の青森・函館旅行、市内観光2日目はまず函館山麓の元町教会群を見学することにしました。
まずは市電、十字街電停で下車し、電車通りに沿って二十間坂との交差点まで歩きました。

二十間坂はかつては「大工町坂」と呼ばれたそうですが、1879年の函館大火のあと、防火帯として拡幅が行われ幅が20間(約36m)あったことからその名が付いたと言われています。1900年に函館山に要塞が建設された際に大砲を運ぶための道路として使われました。

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二十間坂の途中には浄土真宗大谷派(東本願寺)函館別院がありました。

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1641年
、松前の専念寺6世浄玄が木古内村に阿弥陀堂を創建し、1710年に箱館に移転したそうです。1858年、江戸幕府の命により本願寺箱館御坊浄玄寺として本願寺の掛所(地方に設けられた別院、本願寺派では休泊所と言うようです)。となりました。1876年、東本願寺別院になりました。本堂、正門、鐘楼は重要文化財に指定されています。

151224_2 二十間坂を登り切るとなんと自由の女神像が

151224_2_3 本家の自由の女神ではアメリカ合衆国独立記念日の「1776年7月4日」とフランス革命勃発(バスティーユ襲撃)日の「1789年7月14日」とローマ数字で刻印されている銘板には「頑張れ東北!、ガンバレ函館!」と

なんでこんなところに自由の女神像がと思いネットで調べると、ある記事によると2010年6月に設置されたようです。函館市都市景観形成地域指定エリアであり、周辺住民からも事前届け出無しの設置に苦情が出され函館市からも6月23日に撤去の指導方針が表明され、8月19日には撤去されたとあります。しかし、その後、どういう経緯で復活したのかは分かりませんが、2015年12月24日の朝には同じ場所に設置してありました。

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二十間坂の上からの眺め

バスが通っている道路が電車通り、左が函館どつく前方向、右が十字街方向

151224_4 二十間坂 下からの眺め

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2016年1月11日 (月)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その5 函館山2

函館山、日没時間が近づくと夜景を見るために多くの観光客が集まって来ます。

最近の日本の観光地の多くがそうかと思いますが、訪れる観光客の多くが外国人で、なかでも中国からのお客さんが圧倒的に多いのではないかと思います。

151223 2015/12/23 16:35 薄暮時の夜景 ショウタイムの始まりという感じです。

151223_2 16:42

151223_2_2 16:48

151223_3 17:00

時間の経過とともにバックが暗くなり、ライトの数が増えて行くのが分かります。

1512223_8 17:03
朝訪れた青函連絡船摩周丸も綺麗にライトアップされています。
摩周丸の手前に青く光る巨大なクリスマスツリーはベイエリアのクリスマスツリーで24日朝に訪問しました。

151223_4 17:21 ちょっと違う角度から
湾内に突出した埋め立て地は”緑の島”で函館港の整備による浚渫土砂を使用して作られた小さな人工島です。
1980年に建設が開始され、全部で70万立米の土砂が投入され、周囲1,118m、面積約8haの埋立地となりました。島には一切の建造物はなく、ささやかな駐車場、緑の芝生とベンチがあるだけで「何もないのが最大の特徴」の島だそうです。

1988年、青函トンネル開通を記念して青函トンネル開通記念博覧会が開催された際は臨時駐車場として使用され、会場である旧函館どつく跡地までのシャトル船の発着港となりました。2009年には函館港開港150周年イベントのメイン会場として使用されました。

そして振り返ると

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151223_2_3 展望台もクリスマスイブの前日であったためか、綺麗なイルミネーションで縁取られていました。

函館一押しの風景です。

函館の夜景は、
1) 334mという函館山の高さ、低すぎなく、高すぎない、ちょうど良い距離、見下ろし角度は10度
2)陸継島による両側が海に挟まれた地形による明暗のコントラスト
3) 山から海へ通じるまっすぐで平行な坂道、
4) 函館山と北海道を結ぶ部分の街路構成、
5) 温かみのある街のイルミネーション
などいくつかの要素が上手く調和されてこれだけの景観を作っているのですね。

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2016年1月10日 (日)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その5 函館山1

2015年12月23日、最後に訪問したのは函館山でした。もちろん、世界三大夜景のひとつ函館山からの夜景を見るためでした。

1512223 2015/12/23 函館山山頂

市電電停、十字街から南部坂を登ること約5分、函館ロープウエイの山麓駅に到着です。

1512223_2 十字街の電停
函館市交通局の建物の前には嘗て使用されていた市電の操車塔が残されています。ドームのある建物の手前が南部坂の入り口です。

151223 外国人観光客が多いせいか、英語、中国語、韓国語、ロシア語での表示に

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ちょうど夕暮れ迫る函館山夜景のゴールデンタイムだったせいか、そばの駐車場には続々と観光バスが到着します。山麓駅はあっというまに大混雑状態になり、ロープウエイも5分おき運行になります。

151223_3
函館山ロープウエイは1958年に函館観光事業会社として設立され、同年5月に架設工事に着工、11月15日、31人乗りゴンドラで開業となりました。

1959年には山頂展望台と食堂・売店が開設されました。1970年、ゴンドラは2代目の45人乗りに増強されました。1986年、函館市が出資し、第三セクターに、1988年3代目の125人乗りゴンドラを導入し、展望台も改修されました。

151223_5

1992年、日本初のコミュニティFM放送「FMいるか」が開局、当日も山麓の乗り場で聴くことが出来ました。1997年、オーストリアより、125人乗りゴンドラ(4代目)を導入。2014年11月、大阪車輛工業製の125人乗りゴンドラに更新(5代目)。2015年11月、山麓駅および山頂施設の改修を完了し、同月13日より営業を開始しました。

仕様

索道方式 3線交走式普通索道
線路水平亘長 787.25m
線路傾斜亘長 835.06m
線路高低差 278.50m
支柱数 0
最急勾配 28度58分(終点停留所山麓寄り)

ゴンドラは上記のように大阪車輛工業製で所要時間は3分

151223_4 山頂駅を出発するゴンドラ さすがにこれから夜景が楽しめる時間帯に下りに乗るお客さんは殆どいませんでした。

151224 2015/12/24 ベイエリアから見えるロープウエイ

函館山の高低差は300m弱でロープウエイは3分で到着します。

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2016年1月 9日 (土)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その4 五稜郭タワー2

昨日の記事では五稜郭タワーからの眺めについて触れましたが、今回は五稜郭の歴史等について触れてみようと思います。

151223 2015/12/23 五稜郭のほぼ全景

北海道・蝦夷地の防御として江戸幕府は箱館奉行所を箱館に設置しました。ちなみに函館の地名の由来は1454年津軽の豪族河野政通が宇須岸(アイヌ語で湾の端)に館を築き、形が箱に似ていることから箱館と呼ばれるようになり、1869年に蝦夷地が北海道となり、函館に改称されました。

江戸以外の幕府直轄領の行政・管理、防御のため置かれた遠国奉行のひとつとして、
長崎奉行、京都町奉行、大坂町奉行、伏見奉行、山田奉行、日光奉行、奈良奉行、堺奉行、駿府町奉行、佐渡奉行、浦賀奉行、下田奉行、羽田奉行、新潟奉行、箱館奉行、松前奉行、大津奉行、清水奉行、神奈川奉行、兵庫奉行が置かれ、箱館奉行は18世紀末のアイヌの反乱やロシア人の来航を背景に1802年2月に設置されました。奉行所は現在の基坂・元町公園に置かれました。しかし、ロシアの脅威が収束したので、1821年、奉行所は廃止されました。1854年3月、日米和親条約で箱館が開港されると6月に箱館奉行を再置することにしました。ただ、函館山の麓の基坂では防御上問題があったので、亀田方面に移転することとし、当時の大砲では箱館湾からの射程外である、鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書が老中・阿部正弘に提出され、五稜郭の建設が決定しました。
1857年に築城を開始、1864年に竣工、1866年に完工しました。
大政奉還で江戸幕府が倒れ、明治新政府が箱館府を設置し、政庁と利用されますが、1868年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸、新政府軍は青森に敗走し、五稜郭は占領されました。旧幕府軍は堤を修復、大砲を設置、胸壁を構築し防御を固め、1869年3月に一連の工事を完成させました。

151223_2 土方歳三(1835-1869)の像
昨年3月、流山を訪問した際に新撰組の歴史に触れましたが、流山で近藤勇と別れた土方歳三は宇都宮の戦いの後、会津戦争に参加、仙台を経て、旧幕府海軍と合流し、大江丸で蝦夷地に渡り、五稜郭に入りました。

1869年5月、新政府軍の箱館総攻撃が開始されると、五稜郭の大砲で七重浜や函館港方面に砲撃が行われましたが、5月18日、抵抗もむなしく、土方は戦死、榎本らは降伏し、五稜郭は新政府軍に引き渡されました。
明治以降は兵部省、後の陸軍省の所管となり、1871年には札幌の開拓使本庁舎建設のため、付属の建物は解体され、以後は練兵場となりました。

151223_3 一度はこの満開の桜、見て見たいものです。

1913年、函館区長が陸軍大臣に公園として無償貸与を請願し、1914年五稜郭公園として一般開放されました。函館毎日新聞が1913年から10年かけて数千本のソメイヨシノを植樹し、今では道内有数の桜の名所となっています。

1925年には内務省に所管が変わるとともに、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく史蹟に指定され、1929年には郭外の長斜坂が追加指定され、文部省の所管となりました。そして戦後、文化財保護法が制定されると、1952年に特別史跡に指定されました。

2004年に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定され、観光地の評価としては、ミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで、「五稜郭跡」、「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得しています。

151223_4

奉行所遺構の発掘調査も進められ、2006年「箱館奉行所復元構想」が現実化し、復元工事に着工、2010年に完成し、7月29日に開館となりました。

五稜郭自身は1974年3月の函館訪問で見学していたので、今回はタワーからの見学だけでしたが、

敷地面積は250,835.51平方メートル、郭内は約12万平方メートルあります。水堀で囲まれた五芒星型の堡塁と1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、その内側に奉行所庁舎のほか、用人や近習の長屋、厩、仮牢など計26棟が建てられました。郭外北側に役宅街が造られました。

151223_5
五稜郭はヨーロッパで発達した稜堡式城郭の形式で造られ、ヨーロッパの城郭の紹介もありました。私が1988年から1989年まで住んでいたベルリン(当時は西ベルリン)にも西方のSpandau にZitadelle というヨーロッパにおいて最もよく保存された城郭があります(サイト)。あと、訪問した経験のある場所ではカナダのケベック市にも似た形態の城郭があります。

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2016年1月 8日 (金)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その4 五稜郭タワー1

2015年12月23日、朝市、青函連絡船摩周丸に続いて訪問したのは五稜郭タワーでした。

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昼の五稜郭タワー 2015/12/23

国の特別史跡に指定されている五稜郭に隣接する展望塔で1964年12月に五稜郭築城100年を記念して高さ60mの旧タワーが開業しましたが、その老朽化で旧タワーの隣りにあった料亭「稜雲亭」跡地に建設されることになり、2004年11月に着工、2006年3月竣工、4月1日に開業しました。さらに12月1日に「アナトリウム」が完成しました。

151223_4 エントランス

五稜郭の形状にちなみ、塔体の断面形状は星形、展望台は五角形としました。

仕様

構造 タワー部 鉄筋コンクリート造  展望台部、低層部 鉄骨造
建物高さ 98m 避雷針高さ 107m
エレベーター 展望台用 2基 30人乗り
展望台 一回床高さ 86m 2回床高さ 90m
性能 スーパークロッシングダンパーなどにより 震度7の地震、あるいは最大瞬間風速50m/sに対して問題が生じないように設計されています。

アクセスは市電 五稜郭公園前の電停から徒歩で10分ほどです。

151223_5 エレベーターで最上階に到着後、最初に目に飛び込んでくるのは眼下に広がる星形城郭の五稜郭の風景です。 (北東の方向)

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続いて、時計回りに視線を送ると湯ノ川、函館空港が見えてきます。
左隅に管制塔が見え、ANA機ともう一機駐機しているのが分かります。 (東南東方向)

151223_10 少し回って南東方向、下北半島 大間崎も見えます。

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さらに時計方向に回ると谷地頭や立待岬が見えてきます。(南南西方向)

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少し引き気味で函館山の全景を 
函館山展望台からの眺望にに較べると高さが低いですが、陸繋島、トンボロで繋がった函館山の景観です。

151223_8
さらに回ると函館駅、青函連絡船摩周丸の姿もみえます。(南西方向)

151223_3_2
摩周丸をクローズアップすると、その向こうの函館山の斜面に真っ直ぐな道路の坂道が見えます。

151223_9
さらに回ると、函館湾堤防、七重浜、そして上磯の太平洋セメントの工場も見えます。対岸の横一線の白い線は北海道新幹線の高架橋です。(西方向)

151222 2015/12/22 木古内から函館に向かうバスの車内から見えた五稜郭タワー

151223_3_3
コジマ電気ビックカメラの建物の裏側にJR五稜郭駅の跨線橋が一部見えます。五稜郭という駅名ですが、五稜郭からは約2kmほど離れています。駅の向こうの大きな建物は函館病院で12月22日には北海道防災航空隊ヘリコプター「すずらん」(JA9986)が病院屋上のヘリポートに離発着していました。
Ja9986_151222 2015/12/22 五稜郭駅上空を飛んで函館病院に着陸する防災ヘリ

151223_11
五稜郭の西側に建つ三角形の建物は函館中央図書館です。

151223_12
最後に郭内中心部に建てられ建物のうち、現存する奉行所のクローズアップです。

151224 2015/12/24    夜はライトアップされます。

今回の記事では展望台としての五稜郭タワーということで纏めました。次回は五稜郭に関する歴史を中心に纏める予定です。

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2016年1月 7日 (木)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その3 青函連絡船摩周丸5

函館、若松埠頭に係留される青函連絡船摩周丸の博物館の話題、今回は船として、車載連絡船としてのメカニズムに関する話題です。

151223 手前は洞爺丸事故の後、1957年建造された十和田丸初代 2015/12/23
奥は津軽丸型の八甲田丸

151223_2_3 カプセル型救命筏のコンテナ

十和田丸初代では端艇甲板上に10隻の救命筏が並んでいましたが、津軽丸タイプではカプセル型コンテナが航海甲板両舷に並ぶ程度になりました。

1964年5月10日に就航した津軽丸2代目以降、連絡船は大きく近代化されたと言われています。
具体的には、
① 車載客船・車両渡船特有の上下幅の短い機関室に中速ディーゼルエンジンを多数搭載するマルチプルエンジン方式を採用し、12800馬力の従来船の2倍以上の高出力化を実現し、航海速力を18.2ノットに上昇させました。
② 当時、日本最大の可変ピッチプロペラ (Controllable Pitch Propeller)を2基装備し、さらに船首水線したには出力850馬力のバウスラスター(Bow Thruster)を装備し、港内での操船能力を上げることで、従来4時間半有していた青森~函館澗を3時間50分に短縮することが出来ました。一日2往復から2.5往復が可能となり、稼働率が向上しました。
③ 画期的な自動化、遠隔操縦化で従来、車載客船で約120名、車両渡船で72名から78名要していた運航要員が53名になりました。
151223_2
サイドを切り開いて各層の構成が見えるようになっている羊蹄丸模型

船首(バウ)に設置されたサイドスラスター(バウスラスター)の位置もよく分かります。

コンパス甲板:操舵室屋上の最上層の甲板で、磁気コンパス本体がおかれ、その後方に前部マストが建っていました。マスト中段の前方への張出しには第1レーダーのスキャナーとハーモニック形のエアホーンのラッパが左右に2本、その直下の張出しにはモーターサイレンのラッパが1本、最下段の張出しには第2レーダーのスキャナーが設置されていました。さらに、操舵室屋上には、右舷に探照灯、左舷に灯火前面のスリットを開閉させてモールス信号を送る信号灯があり、また最前部中心線上には約3mの高さのポールが設置され、上端に碇泊灯、中段には赤色の危険物積載表示灯が設けられていました。

151223_4 無線通信室の左舷の電気機器室に置かれていたジャイロコンパス

航海甲板:操舵室床面高さの甲板で操舵室と無線通信室が設置され、津軽丸では両室とも前向きでしたが、第2船の八甲田丸からは無線通信室は連絡が取りやすいように後ろ向きとなりました。

遊歩甲板:両舷に甲板室全長に渡る遊歩廊が設けられ、甲板室前の部分が高級船員室になっていました(摩周丸では非公開でしたが青森の八甲田丸では公開されていました)。後部煙突件マストより後は1967年6月から、乗用車搭載スペースとなりました。

151223_2_2 操舵室から見た船首船楼甲板

船楼甲板
:船首の露天部分は揚錨機や係船ウインチが設置された船首係船作業場になっており、甲板室の前の部分には高級船員室が、それ以外の大部分は2等船室関連で、旅客食堂が右舷中央部に配置されていました。

中甲板
:車両甲板中2階にあたり、船内軌道各線の終端部から船首端までの隙間部分の狭い甲板でした。最前部に甲板長倉庫、左舷には船首係船作業場が狭くて設置できなかったスプリングウインチの本体および、揚錨機とスプリングウインチの動力となる油圧を造る動力機械が、右舷には主ウインチと補助ウインチの動力機械が設置されていました。両舷にそれぞれ船員浴室が配置されていました。

151223_3 摩周丸ではアスベストの問題等もあってか、車両甲板は非公開でしたが展示室のディスプレイでその様子を見ることができました。

車両甲板:従来の車両渡船同様、船尾端3線、船尾近くで中線が分岐して、車両甲板の大部分で4線となるよう敷設され、ワム換算48両積載できました。津軽丸型では、万一車両甲板上に海水が滞留しても、すぐには車両甲板下へ流れ込まない構造となるようにレール面からの高さ約92cm、幅1.4mのプラットホーム状の通路が設けられ、付近から車両甲板下へ降りる階段は、このプラットホーム上から約3cmの低い敷居越しに降りる構造とし、それ以外の場所から車両甲板下へ降りる階段は、在来船通り高さ61cmの敷居が設けられました。当時の国鉄は洞爺丸事故で中止となった寝台車航走を復活させようと、第5船以降の摩周丸2代、羊蹄丸2代、十和田丸2代に前部機関室囲壁の船尾側に短いプラットホームと船楼甲板の2等出入り口広間に繋がる階段を設置しましたが、運輸省は寝台車航走を認めず、実現は出来ませんでした。

151223_7 貨車の積み込み等による船体の傾きは2対のヒーリングタンク内の海水を調節するヒーリング装置でバランスを取っていました。

車両甲板より下の船体は、12 枚の水密隔壁により13区画に分けられ、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造でした。更に船体中央部、第1補機室、発電機室、第1主機械、第2主機室、第2補機室の5区画では、船底だけでなく側面にも、2対のヒーリングタンクと、5対のボイドスペース(空タンク)またはバラストタンクが設けられ、二重構造とし、これらボイドスペースは、片側が損傷して浸水しても、この浸水を対側のボイドスペースへも導き、非対称性浸水による船体傾斜を軽減するクロスフラッディング設備も設けられていました。

151223_5 ディスプレイ越しに見えた総括制御室

第二甲板:車両甲板から最も船首側の階段を降りるとバウスラスター室に通じていました。2番目の階段を降りると普通船員居室のほか、左舷に高級船員食堂、右舷に普通船員食堂が通路を隔てて設置された第1船室と呼ばれる区画に通じました。さらに船尾側に進むと、発電機室(出力840制動馬力ディーゼルエンジンで駆動される三相交流60Hz 445V 700kVAの主発電機が3台、さらにバウスラスター駆動電源で、かつ主発電機故障時には、主要推進補機のバックアップ電源となる、出力900kVAの主軸駆動発電機が設置)がありました。さらに船尾には総括制御室があり、計器盤は船尾方向向きに設置され、ここで各種機械類の状態が監視され、通常の運転操作はここから遠隔操作で行われていました。そのさらに船尾側が防音扉を隔てて、主機室でした。8台の主機械は4台ずつ、第一と第二主機室に納められていました。

151223_6 主機室もディスプレイ越しに

更に船尾側へ進むと、第3補機室の中段で、機関部作業事務室や倉庫があり、船艙の両舷を走る主軸には可変ピッチプロペラ管制装置が仕組まれていました。

151223_8 プロペラのピッチを変化させることで、主軸の回転数や回転方向を変化させずに推進力を変化させるメカニズムでプロペラ機などにも用いられていますが、津軽丸2代はそれをいち早く取り入れた船でした。

151223_9 自動車のトルクコンバータの原型とも言えるフルカン(ドイツ語のVulcanの誤読らしい)継ぎ手により、主機と主軸を繋ぐクラッチの役割を担わせました。

151223_10 貨物線タイプ 檜山丸の主機関 模型

可変ピッチプロペラとフルカン継ぎ手により、通常は8台のエンジンをフル稼働させることなく6台程度の稼働で定時運航が可能となり、運航しながらの機械整備も可能となりました。

函館の摩周丸を見学し、記事に纏めることで青函連絡船のことが以前に増して良く理解できたように感じます。さらに青森の八甲田丸見学では函館の摩周丸では非公開だった車両甲板などの様子も見ることが出来、非常に有益でした。八甲田丸の記事は後日掲載致します。

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2016年1月 6日 (水)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その3 青函連絡船摩周丸4

青函連絡船摩周丸の話題、今回は船室や船内サービス関係です。

青函航路の実距離は61海里、旅客営業キロ程では113.0km、貨物営業キロ程は300kmでした。廃止された1988年3月時点での運賃は普通運賃2000円、寝台料金上下段とも2400円、グリーン席指定1600円、自由席1100円でした。東京から札幌まで鉄道(東北、函館本線)、連絡船を使って行く場合、運賃計算は東北本線と函館本線の営業キロ数を通算した運賃と青函航路の運賃の合計となりました。

151223_3 96席あったグリーン指定席の座席

G_151223 各座席には読書灯も備えられていました。

1974年3月、初めて北海道に連絡船で渡った時は母からの「船だけは絶対にグリーン船室に乗りなさい。」とのことで、グリーン指定席を往復とも予約しました。帰りの東北・常磐線経由の583系寝台特急「ゆうづる」の旅も寝台が満席でグリーン座席の旅になりましたが、18歳、人生初のグリーン席だったと思います。

G151223 グリーン寝台の飾り毛布

G14_151223                       飾り毛布14パターン

1908年の就航より開始され、1964年の高速船 津軽丸就航以前は折り返し時間に余裕があったため、乗務員によるおもてなしの一環として一等寝台、後のグリーン寝台に飾り毛布がセットされていたそうです。季節により、正月には松竹梅とか初日の出、端午の節句には冑、夏はひまわりと何通りかのパターンがあったそうです。
毛布をこのように折って組み立てる技術も教え込まれたものではなく、先輩の技術を後輩が盗んで伝えられていったそうです。

寝台は20名分でした。

G_151223_2 このキハ80系の座席のようなシートは二等(普通)の椅子席だったと思います。座席下に救命胴衣が収納され、中央部に起倒式の肘掛けがありました。

151223 一般船室

多くのフェリーなどで見られる雑魚寝状態の席というか絨毯の間といった感じでした。
空いているときは問題ありませんが、混在しているときは船酔いして寝ている人もいれば子供は走り回るなどの光景がみられました。一般船室の定員は970名でした。数値は羊蹄丸の例です。

151223_2
一般船室に掲示されている1982年11月改正(東北新幹線本格開業時)の首都圏、大阪からの列車接続

東北新幹線が盛岡まで開通していても函館まではほぼ半日かかる旅であったことが分かります。

151223_4 3階の前方にある展望サロン

ここで、昨日の記事で触れた1954年の「台風との斗い」の展示や、売店などがありました(祝日であったので休業していましたが)。

151223_5
また青函連絡船、トンネルなどに関する多くの図書資料も置いてありました。時間があればじっくり見てみたく思いました。そして、1954年9月26日の海難事故に関する新聞記事のスクラップ帳も閲覧可能でした。

151223_6 制服の展示

昨日の洞爺丸事故の記録から分かるように青函連絡船の旅客タイプでは1隻につき100名を超える乗組員が乗船していたのですね。津軽丸2代目が就航してからは運航要員はかなり減った様ですが。マリンガールが乗船するようになったのは1980年7月21日以降(当時の海の記念日以降(7月20日)からということでしょうか)、夏シーズンだったと記録にはあります。

青函連絡船の乗組員の船室は車両甲板の下にあったそうです。

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2016年1月 5日 (火)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その3 青函連絡船摩周丸3

昨日に続いて函館若松埠頭岸壁に係留されている青函連絡船摩周丸博物館の話題です。前回の記事では「青函連絡船80年の歴史」について触れましたが、今回は船内の展示でもう一つの目玉であった1954年9月26日の台風15号による函館湾内での洞爺丸をはじめとする5隻の連絡船の海難事故に触れようと思います。

151223
船内では「台風との斗い」と云うタイトルで纏められており、こちらも展示内容が冊子に纏められ売店で300円で購入できました。

1954年9月18日頃カロリン諸島で発生した熱帯低気圧が9月21日午前3時台風15号と命名されました。当時は飛行機(米軍)による位置観測で現在の気象衛星観測に較べるとかなり精度が低く位置の情報も不正確でしたが、21日13時25分北緯13.5度、東経135.9度付近にあり、中心の気圧は1000mbと比較的弱いもので弱い熱帯低気圧と見なされました。23日9時に再び台風に格上げされ、25日3時に石垣島付近を通過、進路を北東に変え、26日3時に九州南部に上陸、中心気圧は970mbでした。宮崎県からから大分県を通過し、瀬戸内海を通り、26日6時過ぎには広島市の東方で再上陸、山陰地方を横切って7時40分頃、米子市の東で日本海に抜けました。そして15時には青森県西方海上北緯41度、東経139度に達しました。特徴として、①進行速度が非常に速い、②陸地を縦断しても勢力が衰えない、日本海海上で再び発達、③降雨量が少ない 台風でした。

(注:以前は、放送などでも気圧の単位はミリバールと云っていました。1気圧=1013mbと私は学校で習いました。ただ、SI単位系ではパスカルが一般的であるため1992年12月からmbと同じ数値になるヘクトパスカルが放送等で用いられるようになりました。)

151223_2 青函連絡船の運航表 
津軽丸型の登場で速度が上昇し、一日2.5往復が可能になりました。洞爺丸型の時代は14.5ノットで所要時間は下り4時間半、上り4時間40分で1日最大2往復でした。

9月26日の青函航路は11隻の連絡船 (洞爺丸、羊蹄丸、大雪丸、北見丸、日高丸、十勝丸、渡島丸、第六青函丸、第八青函丸、第十一青函丸、石狩丸)で17運航(34便)の運航計画でした。摩周丸は検査工事のため、浦賀ドックに入渠中、第七青函丸は検査工事のため函館ドックに入渠中、第十二青函丸は手入れ待機中で防波堤内に錨泊でした。

14時くらいまではそれぞれが定時運航を行っていましたが、台風の接近で函館港には多くの自衛艦、巡視船、漁船、一般商船などが避難のため入港してきました。

洞爺丸 3便で函館到着後、14時40分発の4便の予定 運航見合わせ
羊蹄丸 10便で青森到着 16時30分発の9便の予定 運航見合わせ
大雪丸 5便で青森出航、沖待ちで14時35分函館港外に投錨、16時55分函館港着
北見丸 61便で青森出航、沖待ち後、11時15分有川着 以後運航休止
日高丸 81便で青森発、16時33分 着岸不能で防波堤内に投錨
十勝丸 53便で青森発、18時50分 着岸不能で防波堤外に投錨
渡島丸 62便 強風浪のため遅れて青森到着
第六青函丸 54便で有川出航 引き返し13時11分 防波堤内に投錨
第八青函丸 73便17時45分 有川到着 以後運航休止
第十一青函丸 1202便で函館を出航 13時53分引き返し14時48分 函館着
石狩丸 1201便 沖待ち後18時40分函館着

船名の色分けは赤がこの台風による事故で沈没した船、黄色が函館で難を逃れた船、緑が青森側にいて無事だった船です。

洞爺丸(3898トン)に関しては第9回国民体育大会秋季大会が8月22日から26日まで、北海道で開催された関係で、昭和天皇のお召し船として、運航された1ヶ月後の悲劇でした。当日は4便として14時40分に出航予定のところ、1202便(昨日の記事のあるように米国軍人、軍属が乗車)の第十一青函丸が引き返して来たので、この便の乗客、車両を移乗させることとなりました。また可動橋が停電で上がらなくなり、出港の見通しが立てられなくなり、運航中止となりました。停電は2分で復電し、可動橋も上がりましたが出港見合わせはそのままでした。このときに出港していれば、台風接近時間帯には陸奥湾に入っており、難を逃れたとも言われています。

151223_4 船首方向、正面には函館山が

17時過ぎに土砂降りの後、風が収まり晴れ間ものぞき、台風の目が通過したことが予想され、天候の回復は早いと判断して18時30分に出港を決意しました。後から考えると台風の目と思われたのは閉塞前線で、18時39分青森行き遅れ4便(旅客1151人、車両12両ボギー車4(マイネフ385と荷物車マニ3216を含む)、一般貨車8、重量合計313トン)として離岸するも南西からの風が著しく強くなり、18時55分頃、防波堤西出入り口を通過後、風下に圧流されるため、西向きに回頭し、19時1分頃天候が収まるのを待つため防波堤灯台付近の海上で投錨し、仮泊することにしました。しかし平均40m、最大で50mの暴風と波浪により、走錨し、船尾車両搭載口から侵入した海水が車両甲板に滞留し、ボイラー室、機関室の浸水が起こり、蒸気ボイラーへの石炭投入が困難になりました。

151223_5 操舵室

20時30分頃、海水量の増加と船体の動揺から発電機の運転も不能となり、船底へ貯まる汚水の排出も不能となり、22時前後には左右両舷の主機が運転不能になりました。このため操船の自由を失い、沈没を避けるため七重浜への座礁を決断しました。

151223_6 船内で万が一火災等が発生した場合、このシステムでどこで発生したがが操舵室で分かるようになっています。

Dsc06879 操舵室には神棚もあります。

22時26分頃、海岸まで数百メートルの地点で後部船尾が撞触し、座礁、船体は右舷に45度傾斜、しかし船体は安定せず、左舷錨鎖が切断、船底の横揺れ防止フィン: ビルジキールが海底の砂に刺さり、大波を受けて船体は横倒しとなり、満載した客貨車の倒れる轟音とともに横転、沈没しました。22時45分頃、函館港防波堤灯台付近に左舷側に135度傾斜し、沈没、最後は海底に煙突が突き刺さる様な状態になったそうです。

151223_7 無線通信卓
無線室は操舵室とは別の部屋になっていました。

151223_8 青函連絡船における無線通信系統の説明

無線に関しては22時41分頃、「SOS de JBEA 洞爺丸、函館港外青灯より267度8ケーブルの地点に座礁」と発信され、直ちに「JBEA de JNI RRR SOS」と函館海保局が応答しました。「本船、500kc(キロサイクル)にてSOS、よろしく」が最後の打電となりました。

因みに 当時のコールサインは

JNI 海上保安庁・第一管区・函館海上保安部海岸局
トウマ(洞爺丸)JBEA
タセマ(大雪丸)JTBP
ロセマ(第六青函丸)JWNT
ハセマ(第八青函丸)JECA
トイセマ(第十一青函丸)JLLW
トニセマ(第十二青函丸)JWEZ
イシマ(石狩丸)JWSZ
キミマ(北見丸)JQGY
トカマ(十勝丸)JGUD
オシマ(渡島丸)JDZQ
ヒタマ(日高丸)JQLY でした。

遭難後、旅客110名、乗組員38名、その他11名の計159名が救助されましたが、旅客1041名、乗組員73名、その他41名の計1155名が死亡、もしくは行方不明となりました。

第十一青函丸(2851トン)に関しては1202便として13時20分定時に函館を出港しましたが、穴澗岬沖合から引き返し、14時48分に函館に着岸、旅客と駐留軍用ボギー車を陸揚げし、替わりに一般貨車5両を積み、貨車合計45両(重量合計1018トン)を搭載し、天候見合わせのため避泊錨地に向かうべく16時2分に離岸しました。16時25分、西防波堤灯台より真方位245度、2海里の地点に投錨仮泊しました。18時頃より、強く吹き出した南南西の風に対応して機関を使用して守錨に務めるも19時50分発電機が浸水で故障、操船能力を失い走錨を始め、復原力を失い、19時57分頃、急激に右舷側に横転し、沈没したものと推察されています。西防波堤灯台から真方位256度、1620mの地点に船首と船底の一部を水面上に現し、沈没しました。乗組員全員90名が殉職しました。

北見丸(2928トン)は94便の貨車46両(重量合計1047トン)を搭載し、有川3岸壁で船長他75名の乗組員が乗船しました。一時避泊のため15時17分離岸、15時30分、西防波堤灯台から257度1.2海里の地点で投錨、停泊しました。19時頃から船首を風波に立てるように操船しましたが、20時20分頃から突風48mになり、このまま錨泊は不可能と判断し、踟蹰(ちちゅう)航法で適当な錨泊地を探して進みましたが、強風と波浪による浸水で主機の停止、発電機の停止に陥り、傾斜が増して搭載車両が横転、22時35分、船も右舷に横転し、沈没しました。葛登支岬灯台から真方位89度、2900m、水深50mの地点でした。乗組員6名は函館半島西岸の寒川部落付近に漂着し助かりましたが、船長以下70名が死亡しました。

日高丸(2932トン)下り81便として貨車43両、うち空車3両(総重量約888トン)を積載して函館に向かいましたが、所定の運航時刻より40分ほど遅れて港内に進航するも東の風が強く岸壁係留できず、16時33分、沖合の西防波堤灯台から真方位84度、900mの地点に錨泊しました。その後、暴風で有川桟橋への接近を恐れ、防波堤外に転錨することとし、22時少し過ぎ、西防波堤灯台を通過したところで波浪が激しくなり、船尾開口部より浸水が始まりました。23時35分頃、機関が使用不能に陥り、船体傾斜が増大、沈没しました。西防波堤灯台より、真方位264度、1530m、水深20mの地点でした。20名の乗組員は防波堤内で救助されましたが、船長以下56名が死亡しました。

十勝丸(2912トン)は船長他75名、下り53便として車両35両、うち空車12両(総重量約652トン)で青森を出港するも函館は風が強く着岸不能と判断し、18時50分、葛登支岬から真方位62度、約3.3海里、水深28mの地点に投錨し、仮泊しました。しかし、19時50分頃には機械室が浸水、22時20分主機が停止、積載車両が横転、23時42分、右舷側に転覆し、沈没しました。西防波堤灯台から真方位253度半、1810m、水深20mの地点でした。乗組員17名は国鉄タグボートに救助されましたが、船長以下59名が死亡しました。

これら5隻の連絡船の遭難、沈没の経緯を読んでみると、いずれも船尾開口部から海水が浸入し、機械室が浸水、主機や発電機の停止で操船不能に陥り、傾斜が増大し、沈没というよく似た過程を辿っていることがわかります。

その後の海難審判では、船首は風上を向いており、開口部は海面よりも高い位置にあるはずで水が流れ出るのではないかと思われましたが、実験を繰り返した結果、船の縦揺れと波の周期 (9秒) が一致して、船尾が海水をすくい上げるようになり、さらに揺れ戻って流れ出る前に船尾が持ち上がり、車両甲板に海水が滞留するようになったのではないかと推察されたようです。

七重浜での洞爺丸の転覆は水槽による実験の結果、漂流中に右舷のビルジキール(ローリング抑制のためのフィン)が漂砂(嵐で海底の砂が動き、一時的に形成された浅瀬)に引っかかり、船体が一点支持となり、そこに大波がおそったために転覆したと推定されました。

大雪丸は函館岸壁の混雑で沖待ち状態になりますが、函館岸壁に着岸、旅客と貨車を降ろし、一旦離岸し、指示を待ちます。港内では他船との衝突もあるので、防波堤外に転錨し、洞爺丸の南西方に投錨します。防波堤に衝突する危険もあったので前進全速で知内沖に向かい、難を逃れました。第十二青函丸は22番錨地で錨泊中でしたが、台風の接近で21時35分、防波堤外に逃れ、踟蹰(ちちゅう)航法で難を逃れています。一方、第六青函丸は31番錨地に留まり、第八青函丸は函館離岸後すぐに投錨して仮泊、石狩丸は函館到着後、係留索が切れ、自然離岸しましたが何とか持ちこたえました。

9月26日の海難事故で旅客1041名、鉄道郵便職員4名、鉄道弘済会職員6名、公務職員26名、車掌5名、乗組員348名が死亡、生存者は旅客110、鉄道弘済会職員6、公務職員4,車掌1、乗組員81でした。

この事故を教訓に

151223_3
津軽丸型の連絡船では主機関のディーゼルへの転換、車両積載口への水密扉の採用、車両甲板下の旅客区画の廃止、機関室から車両甲板への開口部の全廃、凌波性・復元性の向上、船底部水密区画及び水密扉の設置、操舵性向上のための二枚舵の採用等大きく設計変更されました。

151224 穴澗岬から見た函館湾の風景    2015/12/24
今から約61年前、この海で日本最大の海難事故が起こっていたとは思えないほど、穏やかな風景に見えました。

また1月3日の記事で記述したように錨の把駐力を増加させるための改良がなされました。

洞爺丸事故に関しては水上勉の小説、「飢餓海峡」でも登場しており、映画化もされており、自分が生まれる前の大惨事でありながら、記憶に焼き付けられています。
函館の洞爺丸などの海難事故の犠牲者を慰霊する慰霊碑は七重浜にあります。木古内から函館に向かうバス停に慰霊碑前という停留所がありました。

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2016年1月 4日 (月)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その3 青函連絡船摩周丸2

函館市内の観光、元青函連絡船摩周丸の続編です。

1512232015/12/23 摩周丸入口
摩周丸博物館、開場は冬場11月から3月までは朝9時からですが、12月23日は祝日だったせいもあってか、8時半を過ぎると続々と観光バスも到着しはじめ、実際は8時50分頃、オープンとなりました。入場料は500円でした。

151223_4 受付時にもらったパンフレットから

船内は2階船楼甲板、3階遊歩甲板、4階航海甲板の3階構成となっています。

151223_11 摩周丸の資料および展示物は経済産業省から2009年2月6日に近代化産業遺産に認定されており、その標が船内に入ってすぐの場所に掲示されています。

2階の入口には昨日の記事で触れたJIS型錨と国鉄型錨の説明があり、3階へ誘導されます。

100_151223 この展示の内容は冊子にも纏められており、売店で300円で購入できます。

3階がメインの展示場で1908年から1988年まで青函連絡船の80年の歴史と終航してからの20年、合わせて100年の歴史を纏めた展示がありました。

80_151223 どの船がいつ就航し、いつ終航したか、80年の歴史とともに紹介した展示物

青森~函館間の航路の歴史は1854年に日米和親条約により、下田と函館が開港場に指定され、明治政府により1869年に開拓使が函館におかれた頃から始まります。1873年に開拓使が函館~青森間に定期航路を開きました。この頃は函館~青森・安渡(大湊)という航路でした。1879年、三菱汽船が開拓使の航路を譲り受け、青森~函館間に定期航路を開設しました。1882年、三菱に対抗して北海道運輸が設立され、1883年には政府の主導で東京風帆、北海道運輸、越中風帆が合併し、共同運輸が設立されました。その後、両社の競争は激化し、共倒れの危険性もあったので、政府の主導で1885年合併がなされ、日本郵船が誕生しました。

151223_3 初代の連絡船 「比羅夫丸」の模型

一方、鉄道に関しては本州側は岩倉具視らが設立した日本鉄道により、1891年に上野~青森間が全通、北海道側は1882年8月に岩見沢~室蘭間が日本炭礦鉄道によって開通し、1893年から日本郵船は青森~函館航路を室蘭まで延長し、3港連絡としました(1906年廃止)。1905年、函館~小樽間も全通し、札幌を経由して旭川まで鉄路が繋がりました。同じ年、奥羽本線も全通し、津軽海峡を挟んだ鉄道連絡の重要性が増しました。

日本鉄道は連絡船直営化を目指して、青森~函館間連絡用に独自に蒸気タービン船2隻をイギリスに発注しました。1906年3月31日、鉄道国有法が公布され、日本鉄道は国有化され国鉄に、日本鉄道が発注した蒸気タービン船は東北に縁の深い阿部比羅夫、坂上田村麻呂から「比羅夫丸」「田村丸」と命名されました。これらの船の総トン数は1480トン、旅客定員328名、載貨量239トンで速力18ノットでした。比羅夫丸は1908年3月7日、田村丸は4月4日、青函航路に就航しました。

当時、軍艦でも蒸気タービン船は日本には無く、最新鋭の高速船で青森~函館間を4~5時間で結びました。旅客は国鉄が奪いましたが、大口貨物は日本郵船が握っていたので、政府の主導で国鉄が青函航路を買い上げる形で1910年3月、日本郵船の青函航路は廃止されました。また当時は大型船は岸壁に着岸できず、小蒸気船や艀で上下船していたため、国鉄は函館、青森に桟橋を建設し、1910年に函館港に竣工、青森港は1923年に一部が完成しました。

605_icetd_090420_hamburg_hbf17 605_icetd_090420_hamburg_hbf5 ドイツ^デンマークの鉄道連絡船に乗るICE-TD 車両605 2009/4/20 Hamburg Hbf

青函航路の車両航送技術はドイツ・デンマークの鉄道連絡船技術を参考に研究したそうです。

車両をそのまま船に乗せる車両航送が始まったのは1914年車運丸就航からですが、この船は甲板に線路を3本持ち、7トン貨車7両、客車なら3両、機関車は1両運ぶことができました。1924年5月、自航式航送船、翔鳳丸が就航して本格的な鉄道連絡船になりました。3460総トン、旅客定員895名、搭載貨車25両で速力17ノット、青森~函館間を4時間30分で結びました。

151223_5
151223_2_2 函館岸壁の可動橋

151223_9 可動橋の説明板
函館、青森岸壁に残された可動橋は2011年 機械遺産44番に認定されています。

151223_8 可動橋模型

151223_6 可動橋側と船側を繫ぐ特殊なレール

151223_7 特殊レールのツメの部分

車両航送にとって重要な技術が潮水位の高さの変化などに依らず安定的に岸壁側と船側を線路で繋げる技術でした。

車両航送は港と車両の整備を待って1925年8月1日から開始され、輸送力の飛躍的増大、経費の節減、積みおろしの時間短縮効果で貨車の輸送距離が拡大し、北海道の鮮魚類が関東・北陸まで送られるようになり、北海道の水産業に大きな影響を与えました。

その後、樺太と稚内を結ぶ稚泊航路、朝鮮半島と本州を結ぶ関釜航路にも大型船が就航し、戦前の黄金時代を迎えますが、1937年からの日中戦争の拡大、1945年終戦間近の米軍による攻撃で青函連絡船は全滅します。

終戦後、いろいろな船をかき集める形で青函航路が復興し、定期航路として再開にこぎ着けます。私の母もこの頃、東京から倶知安に疎開しており、終戦後に青函航路を渡った経験を聞いた憶えがあります。

151223_10 洞爺丸の模型

1946年、国鉄はGHQに対して鋼鉄船の新造許可を申請し、1947年待望の新造船、洞爺丸(総トン数3898トン、旅客定員1128名)が就航しました。搭載貨車数は18両と少ないものの戦後直後とは思えないほどの豪華船だったそうです。1948年までに姉妹船の羊蹄丸、大雪丸、摩周丸が就航し、貨物専用船の北見丸、日高丸、十勝丸、渡島丸も就航し、従来からの第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸、第十一青函丸、、第十二青函丸、石狩丸と合わせて14隻体制となりました。

1946年2月から上野~札幌間に寝台車と荷物車で構成された占領軍専用列車が設定され、青森~函館間は編成ごと航送となり、11月からは横浜~札幌間に拡大、1201、1202列車となり、1952年4月からは日本人も利用可能となりました。一般列車としては1948年12月から上野~青森間の急行201、202列車と函館~旭川間の急行1,2列車に1寝台車を連結、航送したのが始まりでした。こういった寝台車航走は1954年の台風15号海難まで続きました。

1954年9月26日の台風15号による洞爺丸を始めとする5隻の沈没事故は青函連絡船史上最大の海難事故となりました。この事故に関しては別の記事で詳しく触れますが、その後、連絡船の安全性を高めるため船尾扉の装備、船底、舷側の二重化などの対策がなされ、エンジンも蒸気からディーゼルになって行きます。

1964年、昨日の記事でも触れた新造船 津軽丸が連絡船総取替計画の一環として登場します。1966年までに姉妹船 八甲田丸、松前丸、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸、十和田丸の7隻が就航しました。津軽丸が東京オリンピックの聖火を函館から青森まで運んだのは1964年9月でした。津軽丸で修学旅行中の女子高生が投げ損ねた紙テープを取ろうとして手摺りとタラップの間から海中に転落する事故が起き、航路開設以来続いていた見送りの紙テープが廃止されたのもこの頃でした。

740329 1974年3月29日 青函連絡船大雪丸初乗船時の船内案内図(再掲)

151223_12 大雪丸 模型

1967年からは遊歩甲板後部を改造して自動車(乗用車)6台の航走も開始されました。

151223_13 摩周丸にも復元された自動車航走のための区画があります。函館ではエレベータ、青森ではスロープで積み込みが行われました。

1969年から翌年にかけては貨物専用船、渡島丸、日高丸、十勝丸が建造され全長144.6m、搭載貨車55両は津軽丸型を大きく上回りました。1970年代前半からはディスカバージャパンキャンペーンや札幌オリンピック、そしてSLブームで多くの若者が北海道を訪れました。私も初乗船は1974年3月でした。大雪丸は札幌オリンピックの聖火を青森から函館まで1月に運んでいます。

1976年から77年にかけて空知丸、檜山丸、石狩丸が建造され、従来タイプの船は一掃され昨日の記事の13隻体制になりました。そのおかげで1日30往復の運航が可能となりました。

13_151223 些か見苦しい写真ですが13隻のシンボルマーク

13隻の新造船が揃ったところで、それぞれのシンボルマークが設定されたのが、航路開設70周年にあたる1977年でした。

オイルショック後の景気低迷期を脱しても連絡船の旅客数は交通体系の変化により、減る一方になりました。旅客の多くはジャンボジェットの就航などで空路を使うようになり、貨物はトラックを乗せるフェリーに流れるようになりました。

Jnrjr_151223 実際に煙突サイドに掲出されていたJNRとJRマーク

1978年
、貨物専用船の渡島丸が余剰により係船となり、1982年3月には津軽丸が引退、11月には松前丸も終航となりました。船旅を楽しくするため、利用者の減ったグリーン船室の一部を喫茶室にしたり、「マリンガール」の乗船のどもありましたが、青函トンネルの開通も間近に迫る中、船齢の若い、貨物船 石狩丸、檜山丸を普通船室を増設して客船に改造し、なんとか旅客便を維持する策が採られました。1984年1月、日高丸、十勝丸が終航しました。
1987年4月、国鉄は分割民営化され、8隻の連絡船はJR北海道の所属となりました。船籍も東京から函館に移されました。そして1988年3月13日、青函トンネル開通とともに80年の歴史に幕を降ろしました。

1988年3月14日、最終便として青森に向かった羊蹄丸が函館に戻り、8隻が函館に集結、その夏、青森、函館で青函博覧会が開催され、青森会場には八甲田丸、函館会場には摩周丸が展示され、十和田丸と羊蹄丸が6月3日から9月18日まで1日2往復の復活運航を行い、青函航路として最後の営業を行いました。

バブル景気の時代も幸いし、8隻の船は買い取られ第二の船生を送ることになりました。

羊蹄丸: 日本海事科学振興財団(船の科学館)が購入
大雪丸: 長崎にてホテルシップヴィクトリアとして開業
十和田丸: 横浜~神戸間豪華クルーズ船 フィリピンマクタン島のホテル
石狩丸、空知丸: 地中海フェリー
檜山丸: 青少年検修船「21世紀号」 東南アジアへ
摩周丸、八甲田丸は函館、青森岸壁に保存、連絡船の歴史を伝える博物館船に

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2016年1月 3日 (日)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その3 青函連絡船摩周丸1

2015年12月23日、朝市に続いて訪れたのは「函館市青函連絡船記念館 摩周丸」でした。国鉄青函航路に就航していた津軽丸型連絡船「摩周丸2代目」の船体を利用した博物館船です。

151223 函館若松ふ頭桟橋に係留された青函連絡船摩周丸船体 2015/12/23

拙blogではあまり船のことには触れてきませんでしたが、実は2014年12月の呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)、海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)を皮切りに2015年1月にはSan DiegoでUSS Midway Aircraft Carrier (空母ミッドウエイ)博物館、10月に横須賀で戦艦三笠記念館、そして12月に函館で摩周丸、青森で八甲田丸の博物館を訪問し、船関係の博物館もよく訪問した気が致します。

151223_3
現在も函館駅から連絡船方向に少し伸びている引き込み線

151223_2 函館駅から見た連絡線船体
かつては駅から船までこの場所がレールで繋がっていました。

青函連絡船現役の時代には函館港若松ふ頭に客貨両用の函館第1、第2岸壁、五稜郭駅の貨車操車場に直結する有川ふ頭に貨物専用桟橋函館第3、第4岸壁がありました。

151223_4 摩周丸から函館駅方向を見る

この間には連絡線の錨や蒸気機関車D51形の動輪などが展示されています。

D51_151223 何号機の動輪なのかは表示がありませんが、D51の主動輪

151223_7津軽丸と大雪丸の錨

これらの錨は国鉄型と呼ばれ、従来の補助汽船に使われていたJIS型の錨に対して耳(トリッピング・バーム)を拡大し、40度の後退角を付けた物だそうです。そのために海底の土砂を掴む力:把駐力が40%上昇したそうです。

洞爺丸事故を始めとする1954年9月26日の青函連絡船5隻の転覆事故は錨の把駐力不足がひとつの原因とされており、それ以降把駐力の強化を求めた結果、国鉄型の錨が開発されたそうです。

因みに津軽丸は1982年3月終航後、大久保商店に売却、北朝鮮に転売、さらにサウジアラビアに転売され、1998年にスエズで解体されましたが、この錨に関しては売却の際に取り外されたという説と、各船の予備錨のひとつだったという説があるそうです。

13_151223 近代連絡線13隻の写真

津軽丸、八甲田丸、松前丸、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸、十和田丸、渡島丸、十勝丸、日高丸、空知丸、檜山丸、石狩丸の13隻の写真

私も青函トンネル開通前の連絡線時代、1974年3月、1974年7月、10月、1975年7月、10月と青森~函館間を往復しています。どの船にいつ乗ったかは憶えていませんが、摩周丸も乗船した記憶があります。

151223_8
初代摩周丸の模型

初代は4本煙突で側面に工のマーク 所謂、洞爺丸タイプです。

151223_9 二代目 摩周丸

151223_10 摩周丸の客室案内図

二代目摩周丸は青函航路初の自動化、遠隔操縦を可能とした津軽丸型の第5船として1964年12月2日に三菱重工神戸造船所で起工され、1965年3月18日に進水、1965年6月30日に就航しました。総トン数は8,327.71トン(船尾水密扉で車両格納所を含まない総トン数は5363.33トン)です。1988年3月13日、青森15時発、函館着18時50分の5便が最後の連絡線便でした。

仕様は

全長        132.00m
垂線間長        123.00m
型幅           17.90m
型深さ          7.20m
満載喫水        5.20m
メインエンジン     単動4サイクルトランクピストン排気ターボ過給機付ディーゼル機関
           三井B&W 1226MTBF-40V 8台
最大出力        13,250軸馬力
定格出力        1,600制動馬力×8
最大速力        21.15ノット
航海速力        18.20ノット
旅客定員        1,200名
乗員           53名
車両搭載数       ワム換算48両      でした。

車載客船・車両渡船特有の天井高さの低い機関室に、中速ディーゼルエンジンを多数搭載するマルチプルエンジン方式を採用することで、12,800馬力という従来船の2倍以上の高出力化を実現しました。航海速力は18.2ノットに上昇し、当時日本最大の可変ピッチプロペラ (Controllable Pitch Propeller CPP)を2基装備し、更に船首水線下には日本初となる出力850馬力の本格的バウスラスター (Bow Thruster BT)を装備し、港内での操船能力を著しく向上させることができました。その結果、従来4時間30分前後を要していた青森―函館間を3時間50分に短縮し、「海の新幹線」と呼ばれました。これにより従来の1日2往復から、1日2.5往復運航が可能となり稼働率向上が図られました。

連絡船としての任務を終えた後は、1988年7月~9月の青函博覧会で展示された後、1991年からは「メモリアルシップ摩周丸」として一般公開されましたが、1993年には経営不振に陥り、2002年11月末で営業が終了、2003年4月、「函館市青函連絡船記念館摩周丸」と改めリニューアルオープンしました。

船内の展示の様子に関しては明日以降の記事で触れます。

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2016年1月 2日 (土)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その2 函館朝市

2015年12月23日の函館市内観光で最初に訪れた場所は、ホテルから歩いて数分の函館朝市でした。

1512223 2015/12/23 朝7時前未だ夜も明けきらぬ函館朝市

前回、2003年9月に来たときも訪れていますが、約280の店舗が約2000平方メートルの敷地に集まっています。

1512223_3 毛ガニの水槽

朝市の歴史は1945年、函館駅前広場の隅に函館周辺の農業生産者の一部が換金の必要に迫られて野菜の立ち売りを始めたのが最初だそうです。組織化された配給ルートが無く、闇市の一部と見なされていたそうです。

1946年
、駅前広場から高砂町旧憲兵隊司令部前広場(旧市交通局バスセンター前)に移動し、立ち売りから路上露天の形態になりました。

1512223_4 イカの水槽

1947年、立ち売り露天は衛生、交通の見地から常に立ち退きを迫られており、渡島農業協同組合の協力を受けて東雲町電話局の郵政省の空き地を借用し、生産車と消費者が自然発生的に売買を行う野点市場が形成されました。電話局の新設のため土地明け渡しの申し入れがありました。

1956年、函館市と交渉し、現在地の若松町に1997平方メートルの土地を取得し、9月21日に移転。このときに朝市連合会が誕生。

1512223_5 カレイの水槽

1987年、法人組合6法人により、函館朝市協同組合連合会が設立。


公式サイトよりMap

買い物が出来る店と食事が出来る店から構成されています。
朝ご飯の時間だったので私は朝定食を注文しました。

1512223_6 朝市の中の食堂街

151223
朝から1500円位する海鮮丼物等はヘビーなので、650円の朝定食を注文しました。
サンマの塩焼き定食でしたが、脂が乗っていて美味しかったです。

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2016年1月 1日 (金)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 3日目 函館市内観光 その1 函館市電

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願い致します。

昨年暮れの青森・函館旅行、五稜郭駅で撮影した列車ではまだ789系が残っているのですが、こちらは後日の記事の青函特急の話題に回して、今回からは函館市電の話題で行きたく思います。

1
市電1日乗車券
函館市電の企画切符には市電単独の1日乗車券(¥600)や市電・バス共通1日、2日乗車券(それぞれ\1000, \1700)があります。

函館は1974年3月、2003年9月と今回と3回訪れていますが、1974年は2時間ほどでとんぼ返り、2003年9月は五稜郭駅貼り付きで実はしっかりと函館観光をしていませんでした。ということで、今回は12月23日、24日の2日間、市電1日乗車券を利用して、いろいろな場所を観て歩きました。市電の1日乗車券は上記のように使う日付に相当する部分をスクラッチします。

今回、訪れた場所は                             最寄りの電停

1) 函館朝市                  函館駅前
2) 青函連絡船記念館摩周丸        函館駅前        
3) 五稜郭タワー                五稜郭公園前
4)   函館山(夜景)               十字街
5)   元町教会群                                    十字街
6)   函館ベイエリア               十字街
7)   駒場車庫                  駒場車庫前 
8) 外人墓地                  函館どつく前

の8カ所で、青函連絡船に関しては青森の岸壁に係留されているメモリアルシップ「八甲田丸」も訪問しました。

函館市電は函館市企業局交通部が運営しており、以前は路線バス事業(函館市営バス)も行っていましたが、2003年3月31日に函館バスに移管されました。

札幌市電と同様、北海道に関係する自然・文化・産業の中で次世代に継承したいものとして北海道遺産構想推進協議会が選定した北海道遺産に選ばれています。

151223
駒場車庫にある函館馬車鉄道記念碑    2015/12/23

1897年12月12日に下湯川村の佐藤祐知が起こした亀函馬車鉄道が東京馬車鉄道と小田原馬車鉄道(現・箱根登山鉄道)の技術指導により開業した馬車鉄道を起源とし、1913年にその路線を引き継いだ電力会社 函館水電(現・北海道電力)が電化、路面電車として運転したのが始まりとされています。

馬車鉄道由来のため、東京ゲージ、あるいはスコッチ・ゲージと呼ばれる1372mm (4ft6in)の軌間(京王線、井の頭線を除く、東急世田谷線、都電荒川線、都営新宿線などに採用)が採用されています。

1512223_2
十字街おける路線の分岐、合流 左が2系統 谷地頭方面、右が5系統 函館どつく前方面 

現在の路線は本線(函館どつく前~函館駅前: 2.9km)、湯ノ川線(松風町~湯ノ川: 6.1km)、宝来・谷地頭線(十字街~谷地頭: 1.4km)、大森線(函館駅前~松風町: 0.5km)計10.9kmで運転系統としては2系統(湯ノ川~谷地頭)、5系統(湯ノ川~函館どつく前)となっています。両系統は十字街で分岐します。

151223_3 東側の終点 湯ノ川

151223_4 函館山の北側の終点 函館どつく前

151223_4_2 函館山の南側の終点 谷地頭

停留所総数は26で、3つの起終点の終端部分では単線ですが、それら以外は複線です。全線直流600Vで電化されています。

151223_2 電車通り(道道83号線)に面している駒場車庫 2015/12/23

車庫は駒場車庫で、湯ノ川から3駅目にあります。

最盛期には6路線、合計17.9kmを有していましたが、乗客の減少等により、経営状態が悪化し、1978年11月1日本線 ガス会社前~五稜郭駅前、1992年4月1日東雲線 宝来町~松風町、1993年4月1日本線 函館駅前~ガス会社前、宮前線 ガス会社前~五稜郭公園前などが廃止となりました。

車両は、500形、700形、800形、2000形、3000形、8000形、8100形、9600形が活躍中で2日間でこれら殆どを撮影できましたので、広島電鉄同様にシリーズ化して紹介する予定です。

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