西武線各駅探訪 4 保谷駅
西武鉄道の各駅を紹介するシリーズ、今回は保谷駅です。
小学校3年の1964年12月から杉並区清水3丁目の公務員住宅に住み、高校2年の1972年に南大泉に建て売り住宅を購入し、初めてのマイホームとなりました。ただ、場所は保谷、武蔵関、東伏見の3駅といずれも等距離、歩いて15分ほどの場所で、高校時代は武蔵関、あるいは東伏見まで自転車、大学教養時代は吉祥寺まで自転車、専門課程(1976年4月から1978年3月)では保谷駅まで自転車もしくは徒歩といった生活でした。研究室配属になってからは、東伏見~高田馬場~大手町~根津の通学経路となり、池袋線から新宿線に戻りました。その後、つくばに移る1983年頃、実家も保谷市栄町に家を新築し、南大泉の家は離れました。
保谷駅との関係は1976年4月から1978年3月までだったと思いますが、撮影などでもよく訪れており、池袋線ではもっとも思い出深い駅です。
改札口の感じは以前と変わりませんが、その向こうの商業施設は私が使っていた頃はありませんでした。
駅所在地は西東京市東町三丁目14番30号ですが、ホームの東側は東京都練馬区に所在します。
開業は1915年4月15日で武蔵野鉄道が池袋~飯能間44.2kmを開業した際に、東長崎、練馬、石神井、東久留米、(旧)小手指、元狭山、豊岡町、仏子、飯能ともに開業し、所沢駅は川越鉄道と共用を開始しました。開業当初は貨物輸送がメインで、蒸気機関車による営業でした。ちなみに池袋~所沢間が電化されたのは1922年11月1日でした。
北口はまだターミナルではなく跨線橋の階段の入り口があるだけでした。ホームは一面で上り下り2線の島式ホームでした。駅北側に電留線が2本ありました。
1970年代後半、駅は既に橋上駅化されていましたが、ホーム構成は今とは大きく違い、南口、北口ともに規模は今とは違いました。北口は橋上駅化されたときに出来たそうですが、私がお世話になっていた頃の北口は橋上駅に上る階段の入り口といった感じでした。
保谷乗務所ビル
このビルは最近、改装されたのでしょうか。1986年12月30日から使用開始とのことですが。
南口のSEIYUは私が使用していた頃から存在し、南口を出るとSEIYUの横の階段を降りていました。
1991年12月27日に新駅舎の使用が開始となりました。
2003年、北口の改築
2009年4月16日、西武鉄道直営の新商業施設、Emio保谷がリニューアルオープン
駅前通りをクルマで通過することがしばしばありましたが、保谷駅で下車したのは先日、7月3日が30年ぶりくらいになり、南口、北口の変貌振りに驚いた次第です。
ホームの構成の変化は2014年似写真を撮っているので、何度がホームに降りて気付いていました。
2010年3月21日、新上りホームが使用開始(上の写真の30000系の通過している線路)、と同時に旧上りホーム(下の写真の5000系が通過しているホーム)の使用が停止
2010年9月18日、下り列車の停止位置を所沢よりに50m移動
2011年7月17日、駅改良工事完了、2番ホームが使用再開。2面3線に。
駅西側にはかつての車両基地、現在は電留線として残されている施設があり、敷地面積は19,990㎡で構内の線路延長は2311mになります。池袋~所沢電化の1ヶ月前の1922年10月1日に、武蔵野鉄道、保谷電車庫として開設されました。戦後は復興社保谷車両工場として、車両の検査、修繕、ならびに製造業務を担当しましたが、1950年にそれらの業務は所沢車両工場に移され、保谷車両管理所となり、池袋線の車両管理を担当しましたが、車両の増備、編成の長大化で2000年3月に、その機能は武蔵丘車両管理所に移され、現在は、車両管理の無い電留線となっています。
駅西側の跨線橋から
かつての保谷車両管理所の線路に2000N系8連が2本、本線沿いの線路には折り返し、メトロ7000系が休む。
保谷駅からかつて自宅があった大泉富士幼稚園の方に歩いてみることにしました。15分くらいで自宅の場所に到着しましたが、あの頃は大根やキャベツ畑ばっかりだった場所がすっかり住宅地になっており、隔世の感でした。
さらに、南へ、結局武蔵関の駅まで歩きました。
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コメント
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おはようございます。
B767-281さん、南大泉にお住まいだったのですか。
私の友人も1971年に南大泉に引っ越しました。
シャンソンも歌われる 菅原洋一さん宅の少し先です。
当時は畑の中を歩いていきました。
今では全く違う景色です。
西武系の武蔵野という中華料理へ 友人のお母さんが連れて行ってくれて 牛肉細切り麺が美味かったです(笑)。
1992年くらいからは新座市野寺で仕事をしていて
保谷駅から30分歩きました!
当時は画像の電留線がありました。
それに いとこが保谷高校近くに住んでいたことがあり、歩いたものです。このいとこの親父が東芝から京急で勤務でした。
保谷駅ホーム北側でE41型電気機関車が入れ替えもしていました。
ポイントも手動でした。
1973年頃、16時過ぎに普通保谷行きがありましたが、これが101系の6両編成で
朝のラッシュ時は10両編成できて 保谷に入庫し、4両切り離しして 4両編成は電留線へ。
6両編成は 保谷から再び出庫し 池袋から準急でした。
保谷駅の北口、区画整理されて変わりましたね!
話が戻りますが、野寺へ向かうのに屋敷林があって そこに駄菓子屋もありました。
でも区画整理されて 跡形もなくなりました!
またまた長々申し訳ありません。
投稿: 準急豊島園 | 2016年7月12日 (火) 06時28分
準急豊島園さま、こんにちは。
家の現在の実家は栄町3丁目にあるのですが、新座市野寺はその先の方ですね。昨年に伏見通りが全線開通して、保谷の北側も随分変わりました。野寺はまさにあの道の終点付近からですね。
菅原洋一氏は南大泉にお住まいでしたか。武蔵野という中華料理店憶えています。先日、保谷の駅前を歩いてみたのですが、駅前、SEIYUの横にあった「べにもん書房」という本屋はなくなっていましたし、ひばりが丘よりの比較的大きかった本屋(名前を忘れました)もないですね。驚いたのは大泉学園よりの古書店「アカシア書店」はまだあるのですね。私が学生の頃は老夫婦が店番されていましたが、今は代替わりされているのでしょうね。
投稿: B767-281(クハ415-1901) | 2016年7月12日 (火) 16時52分