下山国鉄総裁追憶碑を訪ねる その1
下山事件とは
太平洋戦争が終結し、日本が連合国の占領下にあった1949年7月6日未明の午前0時30分ごろ、前日朝の出勤途上から消息が分からなくなっていた国鉄初代総裁下山定則氏が足立区五反野付近の東武伊勢崎線が交差する常磐線線路上で轢死体として発見されました。今からちょうど67年前のことです。
2016/6/25 下山国鉄総裁追憶碑が脇に設置されている常磐線高架線付近(手前が東京拘置所、奥が五反野駅方向)五反野親水緑道と常磐線が交差する場所です。
かつてはここは弥五郎新田踏切だったそうですが(当時の写真はこちらに)、常磐線の高架、複線化、さらにTXの開通で様子は大きくかわりました。碑も最初は上の写真の左の方の遺体発見現場近くに設置されたそうですが、工事などで移設されたそうです。
下山は1925年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、鉄道省に入省、企画院技師、技術院第4部長、鉄道総局業務局長補佐、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長を歴任し,1948年4月に運輸事務次官に就任、1949年6月1日の日本国有鉄道発足で初代総裁に就いたばかりでした。
1949年当時、中国大陸では蒋介石率いる国民党と毛沢東らが率いる共産党の内戦において共産党軍の勝利が決定的になっており、朝鮮半島では北緯38度線を境に共産政権と親米政権が一触即発の状況で対峙していました。日本ではアメリカの占領下政策が民主化から反共の防波堤に転換しつつあるときで、ドッジ・ラインによる緊縮財政政策が実施され、6月1日には行政機関職員定員法が施行され、全公務員で28万人、日本国有鉄道では10万人近い人員整理が行われようとしていました。
1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では吉田茂率いる民主自由党が単独過半数の264議席を確保しましたが、日本共産党も4議席から35議席に躍進、吉田内閣の打倒、人員整理に対して頑強な抵抗を示していました。下山総裁は人員整理の当事者として労働組合との交渉の前面に立ち。事件前日の7月4日には3万7千人の従業員に対して第一次整理通告を行っていました。
7月5日朝、午前8時20分ごろ、大田区上池台の自宅を公用車ビュイックで出発した下山は買い物の用事があるので日本橋の三越に行くよう指示、到着したものの開店前だったため、時間をつぶすため、国鉄本社のある東京駅前に行き、千代田銀行〈現、三菱UFJ銀行〉などに立ち寄り、9時37分ごろ、「5分くらいで戻るから待っていてくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入り、そのまま消息を絶ちました。
一方、国鉄本社では人員整理を巡り、局長会議が午前9時から予定されていましたが、下山が出勤しなかったため、自宅に連絡、「普段通り公用車で出かけた』との連絡で、大騒ぎとなり、警察に連絡、失踪事件として捜査が開始されました。
失踪後の足取りに関する目撃情報は
・三越店内 数名の人物ともに目撃
・営団地下鉄銀座線 浅草行き列車内で目撃
・13時40分過ぎ、五反野駅改札で改札係と言葉を交わす
・14時から17時、五反野駅そばの末広旅館に滞在
・18時から20時、五反野駅から轢断地点に至る東武伊勢崎線沿線で服装背格好のよく似た人物の目撃情報
轢断した列車は現場を0時20分ごろ通過する常磐線下り869列車、D51651号機牽引。
沖田祐作氏の機関車表データを調べてみると
D51651 日立製作所笠戸工場=1469 1941-06-04 S77.60t1D1T(1067)
車歴;1941-06-04 製造→ 納入;国鉄;D51651→ 配属;東京局→1941-06-15 配置;水戸→
1950-03-14 煙突取替→1959-09-22 平→1965-03-28 糸崎→1965-09-13 新見→
1965-10-21 後藤工場集煙装置取付:左側換気装置取付→1972-09-16 廃車;新見
1941年6月、日立製作所笠戸工場で落成しており、新製配置は東京局、水戸機関区で常磐線が任地でした。1965年に糸崎、新見へ移り、晩年は伯備線で活躍し、1972年に廃車となっています。伯備線時代の写真はこちらに。
同機関車は1943年10月26日、土浦駅桜川橋梁付近で発生した列車衝突事故を起こした機関車で同事故は死者110名、負傷者107名を出す、重大事故でしたが、戦時中であったこともあり、大きく報道されませんでした。
<常磐線土浦駅列車衝突事故> *************************************
貨第294列車は18時40分頃土浦駅上り1番線に到着、入換のため貨車41両を持ち引上線に引上げたところ、信号掛が転轍器を異方向に転換したため異線に進入、上り本線から分岐する転轍器を割出して18時48分に進路を支障しました。
18時51分30秒、貨第254列車(D51651号機牽引)が場内信号機の進行指示によって進行したため支障車両に衝突、牽引機関車は貨車に食込み、直後の貨車14両は脱線転覆し、下り本線を支障しました。
18時54分、下り本線に進入した客第241列車は、貨第254列車に接触し脱線顛覆。客車2両は脱線傾斜し、3両目は桜川橋梁上から脱線傾斜、4両目は桜川に転落水没しました。5両目以下は橋梁手前で転落は免れました。
2014/6/1
桜川鉄橋脇に建てられている土浦事故の慰霊碑
事故の様相は1962年5月3日に発生した常磐線三河島列車多重衝突事故とよく似ており、土浦事故の検証がしっかり行われ、対策がなされていたら、三河島事故は防止できたのではと悔やまれる事故でした。
なお、この事故の241列車には1985年の日航ジャンボ機事故で犠牲となった幼少時代の坂本九氏が母親の疎開で笠間に向かうため乗車しており、当初は桜川に転落し、多数の犠牲者を出した客車に乗っていたそうですが、事故直前に別の車両に移って難を逃れたそうです。
***************************************
当夜のD51651号機は蒸気で発電する主発電機が故障しており、非常用電池で灯火を点灯させて走行する状態で前照灯は10W程度の明るさのため乗員は下山総裁を轢断した瞬間は気づかなかったそうです。また、出発前には田端機関区停泊中の蒸気圧が機関助手が点検すると規定の10キロの1/3ほどに下がっており、発車前30分間、大慌てで石炭を焚き、蒸気圧上げに努めたそうです。そんなわけで、出発は予定の0時2分から8分遅れの0時10分になりました。
連結していた49両の貨車はすべて空車で、遅れを取り戻すには好都合でした。荒川の鉄橋を轟音を立てて渡り、鉄橋から400メートル先の東武電車のガード下で綾瀬駅の信号機を確認するため機関助手が身を乗り出した瞬間、レールに敷いてあるバラスがパチパチと機関車の底板に当たる音が聞こえました。綾瀬を過ぎて、金町にかかるころには8分の遅れは完全に解消していました。江戸川鉄橋を渡り、松戸駅に着く手前で、機関車全部右側レールとの間で火花が散るのを機関助手が見つけました。
午前1時、我孫子駅で機関車を調べると、最前部の排障器が曲がっているため、火花が出ていたことがわかり、五反野ガード下でバラスのはじける音を思い出し、何か事故を起こしたと機関助手は直感しました。水戸着は3時49分で、ここでも車体を調べると排障器の曲がりだけでなく、機関車の底や貨車の車軸に多量の血痕が見つかり、人身事故を起こしたことがはっきりし、列車は運転中止で車庫入りとなりました。
遺体発見時の様子
7月6日午前0時25分ごろ、上野発松戸行き国鉄常磐線最終電車2401Mが足立区五反野南町の東武伊勢崎線ガードとの交差地点を通過中、小雨に濡れた線路上に死体らしきものを発見、同26分、綾瀬駅に到着後、ホームにいた駅助役にそのことを伝えました。
2016/7/1 小菅駅のホームから常磐線方向
正面の高層アパートの裏手を常磐線、TXが走っていますが、あの当時は恐らく、小菅の駅からも常磐線が見渡せたと思います。尤も、小菅駅は伊勢崎線浅草~西新井間が電化された1924年10月1日に開業しましたが、その後、休止状態にあり、1950年11月15日に復活開業しているので、事件当時は休止していたと思われます。
駅助役は改札係、駅手を呼び、カンデラを持たせて現場に急行させ、2人は小菅刑務所裏の警手詰所から電話で首と手足のない胴体がレール横に転がっており、肌が白かったので女の死体らしいという報告をよせました。
駅助役は現場から戻った2名の報告をそのまま上野保線区北千住分区長に伝え、午前1時5分、分区長は副分区長とともに徒歩で現場に向かい、死体の着衣を調べているうちに『日本国有鉄道 総裁 下村定則』の名刺が多数散乱していること、そばに東武鉄道優待乗車券の入ったパスがあるのを発見しました。
彼らは急報の必要性を感じ、西新井署南町駐在所に連絡、
死体は首、胴体、右腕、左脚、右足首の5つの部分に轢断されており、鼠色の上着、白ワイシャツ、チョコレート色の靴、時計などが線路に80mに渡って散らばっていました。
午前4時ごろには検視が終了、国鉄関係者も現場に駆けつけ、午前5時半から現場検証が開始され、下山は午前0時19分に現場を通過した869貨物列車によって、轢かれたものと断定され、当該貨物列車からは衣類の切れ端、肉片、血痕などの付着が確認されました。
自殺説 対 他殺説の論争
遺体の司法解剖は事件の発生場所から東京大学医学部法医学教室が担当することになり、当時の主任の古畑植基教授が指揮を執りました。
東大は回収された遺体に認められた傷に生体反応が認められないことから、下山氏は死後轢断されたと判断しました。一方、現場検証を担当した東京都監察医務院の八十島信之助医師は、血液反応がないのは当夜の雨によるものであるとの根拠から自殺と判断していました。さらに、慶應義塾大学医学部の中館久平教授も生体轢断を主張しました。
これらの結果、下山事件は自殺説と他殺説で国会、医学界で大きな論争となりました。目撃情報からは下山総裁があたかも列車に飛び込んで自殺したようにもみえますが。遺体は事前に血が抜かれ、失血死した後、轢断されたのではないかと遺体の検証を行った東京大学医学部(死後轢断説)、それに異を唱えた慶応大学医学部(生体轢断説)の間で論争が起きました。
また、衣類(ワイシャツ、下着、靴下)に多量のヌカ油が付着していたにも関わらず、上着や靴下内部には付着がみられず、衣類に4種類の塩基性塗料が付着していたこと、足先は完全に保存されているにも関わらず、革靴は轢断されているなど不自然な点が多く見つかりました。また轢断地点から下り線路の上野方面に向かって数百メートル枕木上に血痕があることもルミノール発光で見出されています。
ただ、当時はDNA鑑定技術などもなかったため、これらは下山総裁の血液かどうかも同定できないまま、捜査は1950年には打ち切られ、1964年7月6日に殺人事件としての公訴時効が成立しました。
その後の推理
他殺説
松本清張 「日本の黒い霧」米陸軍防諜部隊
朝日新聞記者 矢田喜美雄 「謀殺下山事件」
諸永裕司 「葬られた夏」
森達也 「下山事件(シモヤマケース)」
柴田哲孝「下山事件 最後の証言」
他殺説は当時の日本における共産党の躍進、労働組合運動の活発化を問題視したGHQ傘下の諜報機関、G2のキャノン機関?がわざと事件を起こして、こういった勢力を潰そうとした陰謀説が主張されています。
自殺説
毎日新聞記者 平正一 「生体れき断」
佐藤一 「下山事件全研究」
自殺説は人員整理を行わなくてはならない立場からの逃避、ストレス回避行動による自殺と考えられています。
結局、この事件は迷宮入り事件となっており、1949年夏に起こった国鉄がらみの3事件、三鷹事件(7月15日)、松川事件(8月17日)とともに戦後3大鉄道ミステリ事件とされています。
個人的には占領軍が関係した謀略だったのでは(他殺説)と思いますが、アメリカの公文書公開でもない限り、日本政府が何か今後、この事件に対して情報を示すことはまずないと思います。関係者も殆ど鬼籍に入っており、こういった戦後に頻発した怪事件が謎のまま忘れ去れらて行くのは決して良いことではないと感じます。
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コメント
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B767-281様今晩は。下山事件は三鷹、松川とならび戦後の三大謀略事件です。殆ど関連書籍には目を通していますが、他殺だと思います。動機は単純に左翼のイメージダウンを狙ったと言う説より汚職隠し絡みの方が私には説得力があります。ノーベル平和賞まて貰った某元首相あたり怪しいなとも思います。突然下山事件がアップされてビックリして居ます。
投稿: 細井忠邦 | 2016年7月 6日 (水) 20時52分
細井忠邦さま、こんばんは。
確かに下山氏が消息を絶つ前に朝、佐藤さんに会うはずだったというような記録がありますね。佐藤栄作という政治家も造船疑獄をはじめいろいろとあったようですから、関係あるかもしれませんね。
占領軍の某機関の犯行にしても共産党のイメージダウンでこんなことをするとは思えませんね。
アップしたのは今日が事件の発覚日ですので、数週間前から現場を訪問したりして、準備しておりました。
投稿: B767-281(クハ415-1901) | 2016年7月 6日 (水) 20時59分
追伸です。仲代達矢主演の「忙殺下山事件」これは朝日新聞の記者で、捜査に協力した矢田さんという人の書いた本を原作に熊井啓監督で映画化した作品ですが、その後DVDにもなりましたが、なぜか絶版になっています。これに関しても色々な憶測があり、内容の一部が事実に限りなく近いからでは、というのも含まれています。そうそう1949年の暑い夏、この7月から一連の事件が起こったのでしたね。私も今度夏休みになったら歩いてみたいと思います。
投稿: 細井忠邦 | 2016年7月 6日 (水) 22時31分
細井忠邦さま、おはようございます。
わたしも「謀殺下山事件」は文庫本で読み、さらに映画もテレビで放映されたときに見ました。熊井監督の作品には帝銀事件を扱った作品とかドキュメンタリーものが多く、よく見ています。
投稿: B767-281(クハ415-1901) | 2016年7月 7日 (木) 05時55分
B767-281様お早うございます。こちらに失礼致します。昨日ようやく下山総裁慰霊碑を訪れることができました。総裁が姿を消した三越本店から地下を通って旧ライカビル跡地を訪ね、浅草まで再び銀座線に乗車、東武に乗り換えて五反野。総裁(替え玉?)が休んだ末広旅館跡地を見て慰霊碑に到着しました。印象に残ったのは、三越本店からライカビルまでの近さ!この事件は今日の政治状況と繋がっているとしみじみ感じた訪問でした。北朝鮮危機を煽った自身は呑気に夏休みをしている某首相、嘘と誤魔化しは今も昔も変わらないなんて情け無いですね。
投稿: 細井忠邦 | 2017年8月17日 (木) 08時38分
細井忠邦さま、こんにちは。
68年後の実地探査されましたか。わたしも、あれから
下山事件完全版―最後の証言 など一連の柴田 哲孝氏の著作を読み、あくまでもフィクションという設定で書かれてはいますが、あの中に書かれているように下山氏は拉致され、監禁、殺されたのではないかと想像しております。
日本の場合、戦後の3大鉄道関係事件、(下山、三鷹、松川)や帝銀事件など真相が明らかにされない事件が多くありますし、8月と言えば以前にも話題になった1985年の日航ジャンボ機事故の垂直尾翼破壊の原因はなんだったのかといった問題も真相は一部の人間のみが知っている状態で闇に葬られるのでしょうか。
森友・加計の問題はきちんと解明しなくてはいけないですね。
投稿: B767-281(クハ415-1901) | 2017年8月17日 (木) 13時48分
下山総裁は鬱による自殺です。「占領軍の謀殺」なんて所詮松本清張の作り話でしかなく、秦郁彦氏や松川事件元被告の佐藤一氏などによる「自殺」の見解が妥当でしょう。占領軍にしてみれば、謀殺しなくてもパージかけて追放すれば事足りたことで、わざわざ殺す理由すら見当たりません。また、他殺と鑑定した人物が手掛けた他の事件でも調査の雑さが指摘され再審無罪になった例がいくつかあります。ブログ主氏が5年6年近くたってこの文章を読んでいるか思い返しているかは分かりませんが、謀殺説はお捨てになった方がよろしいですよ。
投稿: くさかべ | 2022年3月29日 (火) 08時44分
くさかべさま、はじめまして。
コメントありがとうございます。
ちょうど今、図書館から松本清張「日本の黒い霧(全)」を借りてきて読んでいたところですが。わたしは当時の警視庁捜査一課の捜査のやり方などを改めて読み直しても、総裁の死は他殺であって決して自殺ではないと思います。松本清張以降、柴田哲孝の小説「暗殺者たちの夏」などを読んでも、あれは決して自殺ではないと思います。
投稿: B767-281(クハ415-1901) | 2022年3月30日 (水) 04時49分