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2017年11月29日 (水)

京王井の頭線 その路線と3000系の時代 その2

京王井の頭線という路線は、私の人生において、一時期集中的に利用することはあっても、それ以外の時期は殆ど利用しない路線であったように思います。

その一時期が、大学の教養学部時代(1974年度と1975年度)でした。南大泉の家から、吉祥寺まで自転車、雨の日は西武バス吉61系統、小関(かつての早実グランド前)の停留所から吉祥寺までバスで出て、乗車していました。

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1987/4/7 井の頭公園

その頃はまだグリーン車もいましたが、3000系が主力の時代でした。ステンプラカーと呼ばれた3000系の正面のカラーは
ブルーグリーン
アイボリー
サーモンピンク
ライトグリーン
バイオレット
ベージュ
ライトブルー    の7色(レインボーカラー)で構成されており、編成番号を7で割って余り1がブルーグリーン、割り切れるのがライトブルーといった順番で、回って行きました。この規則は今日の二代目1000系に引き継がれています。

3719_870407
1987/4/7 井の頭公園
第19編成 竣工は1979年12月8日、廃車は2009年3月26日
電動式行き先表示器が最初に設置された編成でした。
クハ3719はリニューアルされた姿で京王レールランドに保存

3000系は第15編成、1969年2月15日竣工までは4連で登場し、1971年4月30日のデハ3106、3107、3108、3109を筆頭にデハ3100が増備され、5連化されました。その後、
3103、3104、3105、3110 1972/11/15
3111             1972/11/29
3112、3113、3114、3115 1973/11/22
3102             1973/11/29
3101             1973/12/6  と、15編成分のデハ3100が増備されました。

ちなみに第16編成の登場は1975年2月8日でした。この編成からは最初からデハ3100を組み込んだ5連で登場しました。
また第1、2編成はそれ以降の編成とは大きく異なり、客用扉は片開き、車体も狹幅でした。5連化でデハ3100を組み込む際、デハ3100はすべて両開き扉、広幅車体であったので、第1,2編成が5連化された姿は異なった中間車1両が挿入された姿となりました。

冷房に関しても第13編成(1967年3月7日竣工)までは非冷房で落成、第14、15編成(1969年2月15日)が試作の新製冷房車、第16編成以降が量産冷房車となりました。ちょうどデハ3100が組み込まれる頃に非冷房で登場した編成の冷房化も行われました。電源は130kVAのブラシレス式MGから給電されました。

第20編成以降は軽量ステンレス構造となりました。

制御・制動方式も編成ごとに変わっており、第1~9編成は抵抗制御・発電制動方式、第10~15編成は落成当時抵抗制御・回生制動方式、1985年頃に界磁チョッパ制御方式に改造、第16編成以降は界磁チョッパ制御・回生制動となりました。5両化用のデハ3100形は第16編成以降と同じ。

主要諸元
最高運転速度     90 km/h
起動加速度     2.5 km/h/s
車両定員     140(先頭車)・150(中間車)
自重     24.5 t - 35.0 t
全長     18,500 mm 第1,2編成は18,000 mm
全幅     2,872 mm
全高     4,100 mm
車体材質     ステンレス
主電動機     直流直巻電動機(第1 - 9編成)
直流複巻電動機(第10編成以降)
主電動機出力     100 kW(直巻)
120 kW(複巻)
駆動方式     中空軸平行カルダン駆動方式
歯車比     5.60(直巻)
6.07(複巻)
制御方式     抵抗制御・界磁チョッパ制御
制動装置     発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ(第1 - 9編成)
回生ブレーキ併用電磁直通ブレーキ(第10編成以降)

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民鉄:京王電鉄」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。

この頃の井の頭線は懐かしいですね。丁度高校受験の頃に何度も乗りました。下北沢のグリーンマックスに行くのに乗った記憶も有ります。

MiOさま、おはようございます。

やはり、井の頭線との接点をお持ちですか。
沿線住民ではなくても何か人生のある時期、良く乗る路線ってありますね。

大変失礼承知で回想しますと、吉祥寺は武蔵野市内は既に住居表示実施地域で番地プレートが各戸に貼り付けされてる一方で、吉祥寺通りを北上して練馬区に入るや23区なのに旧制地番表記…これが特に石神井圏や大泉圏では昭和60年代から平成初期まで続いて、パラドックスを感じたものです。しかし吉祥寺が繁華街拡大で便利になる一方で風俗やゲーセンも増えて社会問題を併発したのに対して練馬区西部はのんびりした風景が展開されていました。
南大泉から吉祥寺駅はけっこう距離があり、チャリ通いはかなりハードではなかったでしょうか?吉祥寺駅発着唯一の埼玉県越境系統である吉61系統でも大泉学園駅から吉祥寺駅間はけっこう時間かかりますからね‥それに吉祥寺駅は放置自転車問題が深刻で手前に止めといたのに、帰りはめちゃめちゃ駐輪場の奥まで押し込まれていてハンドル同士絡み合って、チャリを出すだけでもひと苦労…ひどい時代だったと思います。

ねこたろうさま、こんにちは。

私が南大泉に住んでいたのは高校2年の1972年から10年間程でした、高校時代は家から、自転車で武蔵関、東伏見に行き、新宿線で高田馬場、山手線で渋谷、渋谷から東横線でした。大学の最初の2年間は吉祥寺まで晴れの日は自転車、雨の日は小関の停留所からお話にある吉61系統のバスでした。朝、自転車で出掛け、午後から雨になり、吉祥寺から雨の中を帰ったということも何回かありました。なにせ新青梅街道、西武新宿線、青梅街道、五日市街道を越え、南北に走るのですから高低差はありませんが結構な距離でした。
 また8時から1限の授業があり、夕方の5限の授業まで休講などで空いた時は一旦家に帰るなんてこともありました。
 住居表示ですが、地元小平でも小川地区などはまだ4桁の地番表示が残っていますね。吉祥寺も近鉄デパートが出来て数年の頃で、まさに現在の街の姿が整ったころでしたね。大学も専門課程になってからは文京区になりましたから、もっぱら池袋から丸ノ内線、あるいは新宿線~東西線~千代田線根津となり、井の頭線とは縁が切れてしまいました。

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