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2020年8月31日 (月)

直方市石炭記念館の蒸気機関車 Koppel 32号機

2017年10月15日記事でアップしたように、2日目のメインは博多駅でのクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」の撮影と直方の石炭記念館訪問でした。同記念館の詳細は2018年1月13日からの記事としてアップしました。

171014 2017/10/14 直方市石炭記念館とその前庭に展示されているKoppel32号機

今回はKoppel製32号機について触れてみようと思います。

Koppel社は正式には オーレンシュタイン・ウント・コッペル (Orenstein & Koppel OHG) 社(以下O&K)といい、1876年4月1日、ベンノ・オーレンシュタインとアルトール・コッペルにより、ベルリンで設立されました。創業当時は一般的な製造業社でしたが、早い段階で鉄道分野に参入、蒸気機関車、貨車、客車の製造を手がけ、さらには建設用削岩機、貨物船、地ならし機、クレーン車、エスカレータなどの製造にも手を広げました。日本には1910年代、軽便鉄道ブームが起こった際に軽便鉄道用機関車が多く輸出されました。ドイツではドイツ帝国軍へ軍用機関車を納入するために設備が拡張されて行きました。

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煙室扉の中心がボイラーの中心と合っていないのもこの機関車の特徴

Dsc09986_20200830093301 小回りが効き、後方視界も良く、バック運転も楽なことから重用されました。

Koppel32号機は宮田町(現、宮若市)にあった貝島大之浦炭坑が同炭鉱の専用線用の資材運搬用機関車として1925年に輸入しました。1C1軸配置のタンク機で日本に輸入されたKoppel機の中でも最大級(50t)の機関車です。
同機は1976年8月の閉山まで活躍し、1977年4月に石炭記念館に移設されました。

ドイツにおけるO&Kは第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗戦、崩壊、ベルサイユ条約で軍用軽便鉄道の接収、製造産業と軍隊規模の制約を課されました。1925年の終わりから3ヶ月間の操業停止を課せられたものの、以後取引状況は改善し、1930年代にはタイプ50シリーズの蒸機、狭軌用、標準軌用の蒸機を製造、ディーゼル機関車の製造も開始し、ドイツ国営鉄道にも納入されました。

ナチスドイツ統治化、ヒットラーのアーリア化政策で1935年、O&Kと関連会社の株式の強制売却、1941年には政府の信託理事会の管理下に置かれました。この時代はMBAという呼称でした。ベルリンの空襲が始まると設備はすべてプラハに移転しました。第二次世界大戦後の東ドイツ時代はVEBと改名、蒸機の製造も開始しました。
しかし1981年には鉄道事業から撤退、1996年にはエスカレーター製造部門をフィンランドのコネ社に売却、建設機械部門はFiatグループに売却され、2006年にベルリン工場はその歴史の幕を閉じました。

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2020年8月28日 (金)

公園保存蒸機 中間市垣生(はぶ)公園に保存されているC11 260号機

2017年10月の九州北部旅行で訪問した公園保存蒸機、今回は筑豊本線筑前垣生駅から徒歩5分ほどの垣生公園に保存されているC11形260号機です。

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2017/10/14 雰囲気のある、木造駅舎の筑前垣生駅

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関東の人間には中間市といってもあまり馴染みが無いかもしれませんが、北九州市八幡西区の西、遠賀郡遠賀町、水巻町に隣接しており、かつては筑豊炭田の一角をなした場所で、炭鉱の閉山等により人口が大きく落ち込んだこともありましたが、最近は北九州都市圏のベッドタウンとして再生しているようです。市のほぼ中心を遠賀川が流れています。また丘陵はかつてのボタ山です。1889年に中間村と岩瀬村が合併し、長津村となり、1922年に町制施行で長津町、1924年に町名変更で中間町に、1932年に中間町と底井野村が合併、1958年に市制施行で中間市となりました。

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Dsc00069 赤い欄干の太鼓橋と垣生神社参道

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この辺りは遠賀川の形成する肥沃な遠賀平野に位置し、古代より稲作が盛んだったことから、遠賀川式土器や弥生時代の農耕文化を伝える遺物が多数出土しています。垣生公園内にも古墳群(垣生羅漢百穴)があり、また約2000本の桜が咲き誇ることから市内外から多くの人々が集まる花見スポットとなっています。

Dsc00076 訪問したときは整備の直後だったのか、大変美しい姿でした。デフレクターは切取式K-7です。

Dsc00093 砂箱が角形、蒸気ドームが丸形という変形機です。半田駅横の265号機も同様の形態でした。

Dsc00074_20200827192101 沖田祐作氏の機関車表による履歴では
1944-3-29 日本車輛名古屋工場 製番1521
当初配属先不明
1955-2頃 小倉工場で切取式除煙板K-7装備
1955-8-1現在 佐々
1962-3現在 佐々
1964-4-1現在 佐賀?
1970-9-1全検
1971-3-31現在 早岐
1972-3-31現在 熊本
1974-5-3行橋
1974-7-17休車
1974-8-20廃車 行橋   とあり、デフレクターは九州に転属してからのようです。

C11の中では247号機以降の4次形に属します。資材と工数の省略から砂箱、蒸気ドームとも角形がこのグループの特徴(戦時設計形)ですが、後年の装備改造で丸形に改造された機もあるようですが、260号機の場合は砂箱までは手が回らなかったのでしょうか?

  • C11 22・23(製造番号268・269)
  • C11 57・58(製造番号334 - 335)
  • C11 69 - 71(製造番号336 - 338)
  • C11 102 - 104(製造番号467 - 469)
  • C11 110 - 112(製造番号486 - 488)
  • C11 126 - 132(製造番号561 - 567)
  • C11 215 - 246(製造番号973 - 984・1108 - 1119・1167 - 1174)
  • C11 252 - 265(製造番号1221 - 1228・1251 - 1256)
  • C11 268 - 381(製造番号1343 - 1372・1380 - 1408・1418 - 1472)

日本車輛製造でつくられたC11形は全部で180両で汽車製造の60両、川崎車輛の88両、日立製作所の53両に比べダントツに多い両数です。


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九州のC11に見られる炭庫の前照灯脇の通風孔が特徴です。
他では広島イオンモール府中に保存されている189号機があり、同機の記事にありますがC12形でも通風孔を持つものがあります。

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直方市の汽車倶楽部とは九州各地に保存されているSLの定期保守を行っておられるNPO法人でWEBサイトにその活動の様子があります。

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2020年8月27日 (木)

公園保存蒸機 北九州市(黒崎)桃園公園に保存されているD51 244号機

2017年10月、新幹線博多車両基地の公開イベントに参加するため福岡県を訪れました。その際に県内各所の公園で保存されている車両に関して紹介します。この旅行の関しては同年12月29日から2018年2月26日までの間、間に別の話題を数件挟みながら、詳報してあります。

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2017/10/14 黒崎駅南口

Dsc09823 国道3号

Dsc09820_20200826184201 市立児童文化科学館前が最寄りのバス停

Dsc09821 桃園公園の奥にある北九州市立児童文化科学館

Dsc09785 ドームはプラネタリウムでしょうか。

最初は国道3号線に沿って並行する鹿児島本線の八幡駅と黒崎駅のほぼ中間に位置する桃園公園に保存されているD51形244号機です。黒崎駅から国道3号を走るバスで現地に向かいました。

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前照灯のガラス欠損、ナンバープレートがレプリカであること以外は塗装がだいぶ劣化していますが、よく整備されています。

沖田祐作氏の機関車表データによると
1939-12-16 国鉄大宮工場 製番14
東京局配属
1939-12-20配置 国府津
1944-8-24広島第一
1953-4-2柳井
1958-10-1長崎
1961-9-28門司
1970-4-9全検
1972-3-15休車
1972-4-28廃車 門司 とのことです。

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履歴を見ると広島工場で整備された時代が結構長いですが、広島工場特有のㇵの字エプロン、前台枠埋め込み尾灯といったスタイルではありません。

浜寺公園に保存されているD51 469号機が1940-1-22 国鉄大宮工場 製番15ですので、年末、年始で製造年は違いますが兄弟関係にあります。以前、D51516号機の記事で纏めてありますが、大宮工場では30両のD51が製造されました。

1938年度 D51 187 - 194(製造番号1 - 8)
1939年度 D51 195 - 198・243 - 244・469 - 472(製造番号9 - 18)
1940年度 D51 506 - 515(製造番号19 - 28)
1941年度 D51 516・517(製造番号29・30)

Dsc09815 デフレクター後方の潤滑油の6連バルブはランボード上に枕木方向に並び、カバーが掛けてあります。

Dsc09792 逆転器モーションリンクプレートの穴は小穴タイプ、白く塗装されています。一方、砂管のパターンは187、469、513、516などと共通のパターンです。

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潅水清浄装置はキャブから少し離れて取り付けられています。

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炭水車の尾灯は欠損しています。

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キャブ内も立ち入り可能でしたが、メータ類のガラスはありませんでした。

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2020年8月26日 (水)

小湊鉄道 五井機関区の保存機 その3 小湊鉄道B10形4号

小湊鉄道五井機関区の保存機関車、最後はB10 4号です。

Dsc08135  2017/8/27 五井機関区

この機関車はC型タンク機の1号、2号とは異なり、B型、四輪連結十輪タンク機関車です。製造元や小湊鉄道に入線する履歴に関しても1,2号機とは異なります。

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元は英国のベイヤー・ピーコック社1894年に製造したテンダ機Pbt2/4形で製造番号は3641です。1895年日本鉄道が輸入し、94号機となりました。宇都宮機関区、上野営業事務所などで活躍し、1910年、形式称号改正で5500形5507号となりました。

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5500形は官設鉄道や日本鉄道により、1893年から1898年にかけて数次にわたって輸入されています。最初は1893年製の6両AF(226-231、組立完了時には142-147に)(製造番号3597-3602)で、東海道線の増強用でした。1898年に二―ルソン社製の5630形とともにD6形に改められました。

1894年には3640-3651の12両、1897年には3889-3924の36両、1898年には4014-4025の12両が日本鉄道により、輸入されました。東武鉄道でも1898年製4026-4035の10両を輸入し、B1形(3-12)としています。これらのうち、6両(7-12)は後年、総武鉄道に譲渡され、16-21に改番されました。1906年の鉄道国有化法で日本鉄道、総武鉄道は国有化され、1909年制定の鉄道院の車両形式称号規程により、官設鉄道のD6、旧日本鉄道のPbt2/4、旧総武鉄道の16-21は5500形となり、それぞれ5500-5505、5506-5565、5566-5571に改番されました。

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1枚目の写真と4枚目の写真を較べるとわかりますが、タンク機に改造された際に装着された側水槽の形が左右で異なるのもB10の特徴です。右側が前方上面を斜めに切り落とした五角形、左側が右側よりやや長さの短い四角形でこれは当時、真空ブレーキから空気ブレーキに変化する過程で空気ブレーキ用のコンプレッサーや空気タンクを取り付けるスペースを確保するための措置でした。この改造で運転整備重量は34.07tから48.43tに増加、軸重も11.62tから13.24t(第一動輪上)に増加しました。

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ローカル線の開業でタンク機の需要が大きくなったため、1929年から1930年にかけ、5500形に側水槽を新設、運転台後方に従輪を追加し、炭庫を設ける工事が国鉄大宮工場にて実施され、2Bテンダ機から2B1タンク機に改造されB10形となりました。このとき、10両 (5506, 5507, 5510, 5512, 5515, 5527, 5534, 5557, 5558, 5565)が改造されました。なお、こういったテンダ機からタンク機への改造は大正時代後期から行われており、5300形を改造した960形、6350形を改造した1000形(2代)、6200形および6270形を改造した1070形などがあり、

新旧番号の対象は5506, 5558, 5512, 5507, 5527, 5557, 5565, 5510, 5515, 5534 → B10 1 - 10 となっています。

改造後は千葉、八王子で活躍、1936年には陸軍千葉兵器支廠に譲渡されました。終戦後の1946年11月、小湊鉄道に貸渡され、1949年正式に譲渡され、1951年2月まで活躍しました。1938年からB10形の私鉄への譲渡が始まり、B109とB1010がラサ工業に、1943年にはB106が東洋埠頭に譲渡されました。一方、国鉄に残ったB10は1950年までに全廃となりました。

主要諸元
全長:11,378mm 全幅:2,061mm 全高:3,672mm
運転整備重量 48.43t 空車重量 36.3t
最大出力 550馬力
実用最高気圧 12.0kg/cm²
汽筒および衝程 406mm×559mm
制動機の種類 手用および空気制動機
連結器の種類 シャロン自動連結機
火床面積 1,330m²
焔管(径×長さ) 45.0mm×3.229m×152本
伝熱面積 73.0m²
水槽容量 6.530m³
燃料櫃容積 2.2m³

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2020年8月25日 (火)

小湊鉄道 五井機関区の保存機 その2 小湊鉄道2号機

今回は昨日の1号機と同時に導入された2号機です。
主要諸元のデータは1号機と同じです。

Dsc07983 2017/8/27 公開中の小港鉄道2号機 連結器は自連に交換されています。

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ボールドウィン機関車会社Baldwin Locomotive WorksBLW は1825年に 宝石や銀細工職人のマサイアス・ウィリアム・ボールドウィンがペンシルバニアで創業した鉄道車両会社で当初は製本機や平織り綿布(キャラコ)の捺染用のシリンダーを製造しましたが、自分用に小型の定置機械を製作するようになり、動力源として蒸気機関に関心を持つようになり、1831年にはフィラデルフィア博物館の要請で展示用小型機関車を製作しました。それがきっかけとなり、フィラデルフィア郊外の支線で使用する小型の機関車の製造を受注しました。

イギリスでリチャード・トレビシックにより、世界初の蒸気機関車が発明されたのは1802年、ジョージ・スティーブンソンのロコモーション号は1825年ですので、既にアメリカのカムデン・アンド・アンボイ鉄道(C&A)にはジョージ・スティーブンソンの息子のロバート・スチーブンソン製の蒸気機関車が輸入されニュージャージー州ボーデンタウンに保管されていました。尤も、マサイアス・ウィリアム・ボールドウィンが訪問した際はまだ組み立てられておらず、部品の寸法を測定したそうです。

当時、蒸気機関車を製作するための工具すら存在せず、大変な苦労のもとに部品の製造から始め、最初の機関車「オールド・アイアンサイド」「剛の者」が完成し、1832年11月23日、フィラデルフィア・ジャーマンタウン・アンド・ノリスタウン鉄道において試運転されたのちに営業に就き、20年の長きにわたり使用されました。

日本向けに蒸気機関車を輸出し始めたのは1887年で、日本の鉄道開通の15年後でした。


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その後、1928年には世界最大の機関車製造会社にまで成長しました。
ボールドウィンの経営は多角的で、機関車製造の傍ら、銃の製造も行い、蒸気機関車のみならず、電気機関車、ディーゼル機関車と手を広げましたが、それが市場占有率の低下を招き、1956年には機関車製造から撤退することになりました。以降は建設機械の製造に特化するボールドウィン・ライマ・ハミルトン社となりましたが、1965年にアーマー社の完全子会社となり、1970年にはグレイハウンド社がアーマー社を買収、1972年にはグレイハウンド社によってボールドウィン・ライマ・ハミルトン社は閉鎖となりました。

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2020年8月24日 (月)

小湊鉄道 五井機関区の保存機 その1 小湊鉄道1号機

2017年8月27日、小湊鉄道のキハ5800形の公開イベントが行われ、五井機関区に保存されている同鉄道会社の創業期に活躍し、保存されている蒸気機関車を見学する機会に恵まれました。

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2017/8/27 五井

機関区には現在の小湊鉄道の主力気動車であるキハ200形気動車14両、JR東日本より譲渡されたキハ40形気動車2両、DB4形ディーゼル機関車1両、ハフ101、デハ101・102、クハ101号客車が所属し、さらに今回からの記事で紹介予定の開業時から1962年まで使用されていた蒸気機関車3両(1号、2号、B104号)、そして1997年まで活躍したキハ5800形が保存されています。

2016年11月18日、機関庫および鍛冶小屋が国の有形文化財に登録答申され、2017年5月2日に正式に登録されました。

Dsc08076 3両の保存蒸機機関車 右から1号、2号、B104号

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最初は1号機関車です。1924年(大正13年)にアメリカのボールドウィーン社が製造した57776号を輸入したものです。

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形式は六輪連結十輪タンク機関車で最大寸法は全長:9,867mm、全幅:2,717mm、全高:3,352mm、運転整備重量37.93t(空車重量、30.1トン)、最大出力は712馬力、実用最高気圧11.5kg/㎠、汽筒および衝程は381mm×508mm、制動機は手用および蒸気制動機、連結器はマルコ式自動連結機、火床面積は1,480m²、焔管(径×長さ)は44.5mm×2.744m×152本、伝熱面積は65.40m²、水槽容量は3.785m³、燃料櫃容積は2.785m³(これらのデータは同社のWEBサイトから)

Dsc07993 キャブ内も見学できました。

Dsc08127 ナンバーに関しては1号機は炭水車に、2号機は先頭部に表示されていました。

1956年まで活躍しました。

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2020年8月21日 (金)

中央・総武緩行線の運用と編成の関係

昨日の記事にあるように、中央・総武緩行線用にはE231系0番台6本とE231系500番台52本の計58本が配置され、01Bから99B、01Cから11Cまでの56運用を担っています。そこで運用情報サイトのデータを基に、いろいろと調べてみました。

E231-small 2020/3 ダイヤ改正における中央・総武緩行線のE231系運用と8/12から8/16の間の編成

01Bから始まる運用パターンを見てみるとそれぞれの運用で終了する駅名は次の番号で開始する駅名となっていることが分かります。一部例外があり、37Bは津田沼で終了しますが、39Bは御茶ノ水からのスタート、73Bは千葉で終わりますが、75Bは津田沼からスタート、79Bは津田沼で終了、81Bは幕張からスタートとなっています。これらの連絡は回送を走らせているのかと思います。

朝夕のラッシュ時と昼間の閑散時間に対応するため、
A.終日走行する運用、
B.昼間は車両基地に入区する運用 (車両基地別に分類)
C.午前中だけ走る運用が設定されており (運用終了後、入区する基地別に分類)

A. 03B, 05B, 07B, 13B, 17B, 19B, 23B, 25B, 27B, 29B, 37B, 43B, 47B, 49B, 57B, 63B, 65B, 69B, 75B, 79B, 89B, 95B, 97B, 03C, 05C, 07C, 09C, 11C

┌千 葉0545←0425中 野 
└千 葉0557→0735三 鷹┐
┌西船橋0846←0737三 鷹┘
└西船橋0848→0946中 野┐
┌津田沼1050←0949中 野┘
└津田沼1056→1211三 鷹┐
┌津田沼1329←1214三 鷹┘
└津田沼1335→1438中 野┐
┌千 葉1600←1441中 野┘
└千 葉1612→1743三 鷹┐
┌西船橋1858←1746三 鷹┘
└西船橋1904→1959中 野┐
┌千 葉2129←2008中 野┘
└千 葉2143→2317三 鷹┐
┌千 葉0054←2321三 鷹┘
└千 葉0059→0115津田沼

その一例として 89B運用 三鷹・中野~千葉方面を8.5往復しています。三鷹~千葉間、片道約95分で、千葉側の折り返し時間が長いケースもありますが、ほぼ21時間働き詰めの運用です。

B. (津田沼)09B, 11B, 33B, 45B, 51B, 61B, 73B, 83B, 93B
 (中野) 15B, 55B, 59B, 67B, 87B
   (三鷹) 21B, 35B, 53B, 71B, 85B, 91B

C. (三鷹)1B, 41B, 01C(津田沼)31B, (中野)39B, 77B, 81B, 99B 

津田沼0726→0846三 鷹 
稼働時間僅か時間80分の01C運用

どの編成がどの運用に入っているか、8月12日水曜日から8月18日火曜日までのデータを見てみると、、途中で編成が交換されているケースも多々ありますが、同じ編成が1日ずつ次の運用に流れて行くのが基本であることが分かります。11C運用の翌日は01B運用に戻っています。

E231500-a546-200814

E231500-a546-200814-2
2020/8/14 水道橋

実はE231系500番台編成の撮影が進み、最後にA546編成が残った際に運用表を眺め、この規則性を見出し、先週の金曜日8月14日、73BにA546が入ると予想し、水道橋駅で撮影することが出来ました。

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2020年8月20日 (木)

中央・総武緩行線 使用車両と運用番号の変遷

数年前、中央・総武緩行線は209系500番台13本、E231系量産先行試作編成1本、0番台編成46本が活躍していましたが、2015年3月に山手線にE235系0番台の新製投入(最終的に2019年12月17日までに50本投入)が開始され、それまで活躍していたE231系500番台11両編成52本からサハE231-4600番台を除いた10両編成が中央・総武緩行線に転属しました。それに伴い、209系500番台は武蔵野線、八高線・川越線に転属し、E231系0番台も多くが常磐快速線、武蔵野線、八高線、川越線(E231系3000番台)に転属しました。E231系500番台の転入だけでは不足する編成分はE231系0番台6本を4M6Tから6M4Tに組換え、従来から連結されていた6扉サハE230はその際に廃車となりました。なお、E231系500番台に連結されていたサハE231-4600番台のうち、4602、4604、4605、4606の4両は編成数が52本から50本に減ったことと、新製のタイミングの関係でトウ04、05編成にサハE235-501,502が組み込まれたことから、E235系への改造・組み込みが見送られ、現時点では車籍は有する者の余剰車となっています。

E231500-a506-200810-2 2020/8/10 飯田橋 ミツA506編成

E231系500番台編成に関してはトウ520が2014年10月28日にミツA520編成として三鷹に転入したのを皮切りに2020年3月3日のA506編成まで52編成がサハE231-4600番台を残して三鷹に転属しました。わたしもデジカメ時代以降は首都圏の通勤車両に関しては全編成を記録することを目標にしており、E231系500番台の中央・総武緩行線で活躍する姿を小平~つくば往復の行程で記録してきました。最初は運用などを気にせずに来た編成を片っ端から記録していましたが、ある時点からはその日の編成の運用状況をネットでモニタしながら撮り残した編成を効率的に追っかけるようにしました。その結果、最後に残った編成がA546編成でした。

201 東中野 201系 運用番号はB

205-21-940801-edit 西荻窪 205系 運用番号はこちらもB

103-790923 1979/9/23 新小岩 こちらの運用番号はC 

209500-501-090704-2
2009/7/4 東中野 209系500番台 C501編成

209500-c510-150124-2 2015/1/24 新小岩 検査入場などでC運用の編成がB運用に入ることもありました。

これらの編成の時代は上り下り時刻に関係なく運用番号は固定されていました。

中央・総武緩行線の現在の運用は1Bから99Bまでの(奇数+B)と1Cから11Cまでの(奇数+C)の計56運用あります。BとCの違いは2004年までは三鷹電車区、中野電車区所属車両(主に201系、205系)がB,習志野電車区所属車両(主に103系、209系、E231系)がCでしたが、2003年12月に全車両が三鷹電車区に移籍したため、2004年のダイヤ改正から6扉車を連結するE231系がB,209系500番台がCとなりました。

E231500-a502-200801
2020/8/1 E231系になってからは運行番号表示窓が4桁の数字+アルファベットとなり、数字の上2桁は発車駅の時刻14時、68Bは69B運用の上り偶数を意味するようになりました。

E231500-a505-200804
2020/8/4 荻窪 1307Cは始発駅を13時台に出発した07C運用(107B)の下り西行きです。

しかし、2019年3月のダイヤ改正からは209系500番台編成が転出したため、BとCの区別がなくなり、01~99がB, 101~111の分を01~11として末尾にCを加えたものとしました。

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2020年8月19日 (水)

公園保存飛行機 亀山公園ますみ児童園 のセスナ170B JA3015

少し前に亀山公園のC58保存機を紹介しましたが、同機の横にはJA3015という登録記号のセスナ機も置かれています。機体に関する説明文も用意されていたようです。私は訪問時、残念ながら気がつきませんでしたが、そこには

JA3015 この飛行機は終戦後アメリカセスナ社から5機購入久しく閉ざされていた日本の空を日本人の手によってS27年秋はじめて飛んだ機の内の一機である。当時は遊覧飛行あるいは取材のため使用されたJA3015は最初青木航空(銀座)に所属していたが後に藤田航空に合併され全国的に活躍した機体である(飛行8000時間)と書かれており、さらにサイズや速度などの飛行データが添えられていました。

Dsc07089
Dsc07087
Dsc07088 2017/8/5

セスナ170はセスナ140の機体フレームを再設計し、4人乗り大型キャビンとしたもので、170では主翼が羽布張りでしたが、170Aでは全金属性となり、形状も変更されました。170Bではエンジンも変更され、翼下面が可動するファウラーフラップが装備されたことで離着陸性能が改善されました。1947年11月から9年間に渡って生産され、戦後のファミリー機の代表的機種となりました。
総生産数は5172機で、170(729機)、170A(1536機)、170B(2907機)です。

170Bの諸元
全長:7.61 m
全幅:10.97 m
全高:2.01 m
翼面積:16.2 m2
空虚重量:547 kg
最大離陸重量:998 kg
エンジン:コンチネンタル O-300 水平6気筒ピストンエンジン(145hp) × 1
最大速度:230 km/h
巡航速度:195 km/h
実用上昇限度:4,724 m
航続距離:950 km
乗客:3名
乗員:1名

この機体のレジを頼りにネットサーチすると、

1952年秋、終戦後初めて日本人の手で日本の空を飛んだ飛行機のうちの1機(日本の城 亀山城に関するサイト

型式はCessna170B、製造番号cn20693 (1172日記

履歴は
  c/n20693 N2541D 輸入は野崎産業扱い
1952/07/29 JA3015登録 青木航空 定置場東京国際空港 
1956/06/02 日本遊覧航空 定置場東京国際空港 
1961/06/11 藤田航空 定置場東京国際空港 
1965/09/21 小沢博勝 定置場調布飛行場
1966/11 前輪式に改造 詳細は下記
1968/04/30 前脚折損事故 尾輪式に再改造
1969/07/08 三陸航空 定置場仙台空港
1970/12/25 国際航空輸送 定置場仙台空港
1973/02/15 抹消登録
1972/03 ドライブインあんぜん文化村に展示
  亀山市ますみ児童園に展示
2018現在 撤去            とのことで現在は既に撤去済みのようです(これらの情報はヒコーキ雲のサイト)から

Site Mapで三重県のページへ

さらに インターネット航空雑誌 ヒコーキジャーナル第188号のページ

には2016年に三重県内退役展示機巡りをした際の写真が掲載されております。

最後にこちらのサイトには日本遊覧航空時代の写真があります。

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2020年8月18日 (火)

2020年8月末で閉園する豊島園 閉園後も引き続き存続する西武豊島線と豊島園駅

西武グループに属する株式会社豊島園が運営する遊園地、「としまえん」は室町時代に豊島氏が石神井城の支城として築城した練馬城の城址を中心に造園され、1926年9月15日、造園家戸野琢磨の設計により部分開演、翌年1927年4月29日に開園しました。1944年、戦況の悪化で一時閉園しましたが、1946年3月、営業再開、1951年1月31日の株主総会で西武鉄道株式会社が事業を継承することになりました。

Dsc02079 としまえん 遊園地の入り口

Dsc02086 豊島園遊園地を貫く石神井川 かつて練馬城はこの川の南岸(右側)に築城されていました。

近隣には1924年に東武鉄道の創設者、根津嘉一郎の協力を得て、貿易商の花岡知爾により開設された兎月園(とげつえん)があり、客の奪い合いから共倒れを懸念した根津は豊島園のオーナー実業家・藤田好三郎と協議し、兎月園は大人向けの高級路線で、豊島園は子どもを中心としたファミリー路線へとすみ分けることにしました。開園時の豊島園は体育と園芸を主体とし、運動場と温室をメインとした施設でした。開園から3年後には養鶏場・芋掘場・イチゴ畑などが整備され、まさに農園でした。そういえばもう少し西の大泉学園の北には今でも都民農園という場所があります。遊園地とともに田園都市の構想もあり、豊島園に隣接して小鷹利三郎発案による城南住宅の造成も行われました。

豊島園は遊園地として発展する際に機械遊具の発展にも力をいれ、1951年には園内に「空飛ぶ電車」として日本初の懸垂型モノレールを登場させました。これは東海道新幹線車両や小田急3000形の開発に携わった三木忠直の開発によるもので、日立製作所笠戸工場で製造されました。後にこの技術が湘南モノレールや千葉都市モノレールに繋がって行きました。

わたしも子供の頃、親に連れられて遊園地を訪問したことがあり、有名なウォーターシュートに乗ったこともありましたが、自分が親としては訪問したことはなく、今回、8月末の閉園前に豊島線、豊島園駅、そして遊園地を外から見ておこうと思い、8月8日土曜日の午後にフラッと出かけてみました。

501 地上駅だった頃の練馬駅、豊島線は上り本線を横切っていました。

Dsc02065_20200817155501 現在の豊島線分岐 右手の高架を下って行くと豊島園駅

Dsc02094
駅番号は池袋SI01~西武秩父SI36,小竹向原SI37,新桜台SI38に次ぐ番号となっています。
Dsc02097ホームは1面2線で8両編成が限界
路線が短いため、よく見ると正面の高層マンションの下の高架線を走る池袋線の車両が見えます。

Dsc02070

この駅は遊園地最寄り駅としての機能と城南住宅などの周辺の住宅への足としての機能があり、遊園地閉園後も引き続き存続されます。

Dsc02074
Dsc02061 練馬駅高架化工事期間は練馬~豊島園間の運行がありましたが、今は一部を除き池袋直通の各停ですべて8連で運行
1988年までは平日朝の下りに池袋発練馬停車、豊島園という準急豊島園行きが運行されていました。

豊島線は豊島園への旅客輸送を目的に西武鉄道(池袋線)の前身である武蔵野鉄道が1926年9月20日に鉄道営業免許申請、10月30日下付、12月9日工事申請、1927年6月28日、工事認可、9月5日着工、10月15日練馬~豊島園間1.0km開業になりました。この頃、武蔵野鉄道と豊島園には資本関係は全くなく、経営に参加したのは1939年、買収により鉄道と遊園地が一体化したのは1941年のことでした。

Dsc02073
都営地下鉄大江戸線の豊島園駅は西武線駅の若干東側にあります。この駅は1991年12月10日、当時都営12号線として光が丘~練馬間が開業したときに開業しました。

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2020年8月17日 (月)

公園保存蒸機 亀山公園ますみ児童園 のC58形359号機

2017年8月、愛知・三重旅行の伊勢神宮(外宮)参拝の帰りに亀山駅で下車、歩いて15分程の亀山公園(城址公園)に保存されているC58359号機です。

Dsc07100
伊勢亀山城は文永2年1265年に関実忠により、鈴鹿郡若山に築城され、神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城として重要な位置づけにありました。その後、現在の位置に移され、織田信長の伊勢侵攻などでは戦場となりました。江戸時代、伊勢亀山藩主の居城となり、明治維新以降は廃城令によって殆どの構造物が取り壊されました。2006年、亀山城周辺保存整備事業の一環として、二の丸帯曲輪および周辺部分が江戸時代末期の状態に復元されました。

Dsc07069
Dsc07070
Dsc07083
2017/8/5

沖田祐作氏の機関車表による履歴では
1944-1 川崎重工兵庫工場 製番2932
1945-8現在 王寺
1946-12-31現在 王寺
1956-4-1現在 王寺
1964-4-1現在 竜華
1967-3-31現在 竜華
1970-3-25廃車 竜華
新製配置後の活躍は関西本線であったことがわかります。1944年製造グループは352号機から368号機の17両ですべて川崎車輌でした。

Dsc07082 C58もD51同様、潤滑油のバルブ箱が助手席側ランボードの前端付近にありますが、この機関車ではバルブはランボードの下に枕木方向に並んでいるのがわかります。

Dsc07072
ドームはD51に較べると小ぶりで砂管は2本垂直に落ちています。

Dsc07079
潅水清浄装置も装備されていますが、助手席側キャブからは少し離れています。Dsc07076
炭水車は383号機以降の戦後製造分に較べると小型の6-17(石炭6t、水17t)タイプです。灯火類は装備されています。

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2020年8月14日 (金)

公園保存蒸機 玉城町城山公園に保存されているC58形414号機

2017年8月の愛知三重方面の旅行で訪問した公園保存蒸機、今回は参宮線田丸駅から5分ほどの城山公園に保存されているC58形414号機です。

170805 2017/8/5  駅名標
170805_20200813183501 奥が多気方面
170805_20200813183502 駅舎は木造駅舎

170805_20200813183601
Dsc06859edit
この説明にあるように田丸の街は南北朝時代に南朝の拠点として城下町となり、織田信長がさらに城下町として整備、江戸時代は伊勢参りの宿場として栄えた街です。

C58414号機は沖田祐作氏の機関車表データによると
1947-5-14 汽車製造大阪工場 製番2550
札幌局配属 配置苗穂
1949-3-1現在 苗穂
1955-8-1現在 苗穂
1973-4-24廃車 苗穂
1973-9-1保存場所到着 汽車製造大阪工場で落成後、札幌局配置となり、一時滝川区に配置されたこともありましたが、苗穂機関区配置で活躍しました。走行距離は1,301,409.9km でした。

C58形は1938年から1947年にかけ、汽車製造と川崎車輛で合計431両が製造されました。414号機は1947年製造の最終グループ17両(408号機から427号機)に属します。製造は戦中の1944年までと戦後の1946年以降に分かれ、後者はボイラー径の拡大(1,364mm → 1,396mm)、炭水車を6-17型(石炭6t・水17t)から10-20型(石炭10t・水20t)型に拡大、無台枠の船底型に変更、台車の変更(軸ばね形プレート式 → まくらばね形鋳鋼製)とするなどの設計変更が行われました。

Dsc06855
デフレクターは北海道機特有の切り詰め式となっています。

Dsc06857_20200813185901
前照灯はシールドビームの補助灯付きです。ナンバープレートは赤く塗装されています。

Dsc06853 潅水清浄装置は搭載されていません。

Dsc06848
炭水車は拡大された10-20型で、

Dsc06851 台車は戦時形D51などでもみられる まくらばね形鋳鋼製を履いています。

Dsc06844_20200813190501 少々字が小さく見えずらいですが、「昭和21年~22年にC58二次形45両製造、うち39両が終戦後軍供出として樺太に接収」とあるのは誤りで二次形(戦後形)は42両、樺太向けは昭和16年~18年製造の14両、戦後ソ連に接収。軍供出は改造工事が行われたものの輸送されないものも多く、実際供出されたのは25両。とのことです(こちらのサイトから)。

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2020年8月13日 (木)

公園保存蒸機 津市偕楽公園に保存されているD51 499号機

全国の公園等に保存されている蒸機を見て歩くシリーズ、今回は2017年8月の愛知・三重の旅で立ち寄った三重県の県庁所在地津市の津駅から歩いて5分ほどの偕楽公園に保存されているD51形式499号機です。JR東日本の動態保存蒸機D51498号機の一番違いの番号機です。

Dsc06774
Dsc06775
Dsc06757
2017/8/5 形態的な特徴はなんといっても後藤式G-3タイプのデフレクターです。

D51-498-100429 2010/4/29 安中~磯部 G-3タイプのデフレクターは1番違いの498号機にも新製されたのもが装備されたことがあります。通常タイプのデフレクターに比べ、スタイルが精悍に見えます。

沖田祐作氏の機関車表による車歴データでは

D51499 国鉄鷹取工場=27 1941-02-01 S77.60t1D1T(1067)
車歴;
1941-02-01製造→納入;国鉄;D51499→配属[鉄運乙第252号];広島局→1941-02-10配置;糸崎→1943-10-01広島→1943-12-15糸崎→1950-08-13鳥取→1953-12-10集煙装置取付(後藤工場)→1954-12-22重油併燃装置取付→1957-07-09後藤工場にて切取式除煙板G-3型装備;鳥取→1958-09-17福知山→1972-04-01(3/31?)亀山→1972-05-20借入;奈良→1972-10-01奈良→1973-09-18(9/17限)廃車;奈良

(最終走行距離205万km=概数)→
1973-10-09保存;三重県津市「偕楽公園」

となっており、製造は鷹取工場(製番27号機)、広島局配置を皮切りに山陰本線、関西本線等で活躍し、最後は奈良機関区で廃車となっています。

 Dsc06756 砂撒き管のタイプは前2本が若干前方に曲がり、3本目は途中から45度下がるタイプ、逆転器リンクプレートの穴は小穴タイプです。

Dsc06771 潤滑油バルブの箱はランボード下にありますが、6連のバルブは見えません。

Dsc06761
機関助手席前のランボードに潅水清浄装置が搭載されています。

Dsc06765
ドーム後方に重油併燃装置の重油タンク、煙突には集煙装置が装着されています。炭水車の前照灯はケースだけで中身が欠損しています。

普通型以外のデフレクターに関してはこちらのサイトのデータが大変参考になります。

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2020年8月12日 (水)

豊川海軍工廠について

これまでの4記事において日本車輛製造豊川製作所に保存されている、同所で製造され、保存された車両についてみてきました。最後に、豊川製作所の広大な敷地を含む周辺の地域の歴史に触れておこうと思います。

日本国憲法下の陸・海・空・自衛隊においては兵器の開発・製造は民間企業に委託されていますが大日本帝国憲法下の帝国陸・海軍は直属の軍需工場を持っていました。

陸軍は陸軍造兵廠として
東京砲兵工廠 1871~1935 現在、後楽園遊園地など、小石川後楽園
火工廠    1937~1945 現在、ふじみ野市の中核部分
大阪砲兵工廠 1870~1945 現在、大阪城公園
名古屋工廠 1941~1945  現在、イオンモール熱田、名古屋市体育館、神宮東公園
小倉工廠   1894~1945 現在、北九州市立中央図書館、勝山公園など(広島に続く原爆の投下目標でした)
南満工廠   1940~1945 奉天市文官屯                   がありました。

一方、海軍は海軍工廠を    (数字は開設年)
呉海軍工廠 1903    現在、ジャパン マリンユナイテッド呉工場
横須賀海軍工廠 1903  現在、在日米軍の横須賀海軍施設(通称横須賀基地)
佐世保海軍工廠 1903  現在、佐世保重工業佐世保造船所、一部はアメリカ海軍の施設(通称佐世保ベース)
舞鶴海軍工廠 1903   現在、ジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所
広海軍工廠 1923    現在、王子マテリア呉工場
豊川海軍工廠 1939   後述
高座海軍工廠 1943   座間市、海老名市にまたがった地
光海軍工廠 1940    現在、新日鐵住金光鋼管工場、武田薬品工業光工場
多賀城海軍工廠 1943  現在、陸上自衛隊多賀城駐屯地他
鈴鹿海軍工廠 1943   現在、旭化成、カネボウ、本田技研工業、鈴鹿サーキット
沼津海軍工廠 1943   現在、沼津市立第一中学校ほか
川棚海軍工廠 1943
相模海軍工廠 1943
津海軍工廠 1944

各地に造って行きました。
海軍工廠の開設の歴史を見てみると日露戦争開戦前に呉、横須賀、佐世保、舞鶴が設置、広、豊川、光と続き、戦局が苦境になった1943年秋以降、各地に増設されています。

Dsc06525
2017/8/4

豊川工廠は1937年頃、航空機用機銃の生産のために計画され、当初は鈴鹿航空隊が近い鈴鹿が有力候補でしたが、起伏などの問題から豊川が選ばれました。開廠は1939年12月15日で当時の宝殿郡豊川町、牛久保町、八幡村にまたがる約200haの土地に5番目の海軍工廠として設置されました。従業員は1500名で1940年には南東側の土地を買収し、拡張されました。太平洋戦争では航空機が戦闘の主役になったことから航空機用機銃と対空機銃の需要が高まり、工廠は大発展をとげ、1945年2月の時点で従業員は職員400名、工員10,000名、徴用工員40,000名、動員学徒6,000名、計56,400名となり東洋一の規模となりました。
周辺の交通網の整備も進み、引き込み線(豊川鐡道西豊川支線)、通勤のための名古屋鉄道国府駅~市役所駅(現諏訪町駅)の開通などがなされ、1943年6月1日に国府町も含めた3町1村が合併して豊川市が成立となりました。

しかし、太平洋戦争の戦局悪化で本土空襲が始まると軍需工場は米軍機のターゲットとなり、1944年11月1日には偵察機が飛来、1945年8月7日、サイパン、テニアン、グアムから飛来したB29爆撃機124機による大規模空襲を受け、僅か30分間に250kg爆弾3256発が投下され工廠は壊滅しました。この空襲でおよそ2500名が犠牲となりました。当時アメリカ側は広島、長崎以外にいくつかの原子爆弾投下候補地を選んでいましたが、豊川海軍工廠もそのひとつでした。

敗戦後、工廠は再建されることなく1945年10月5日に廃止されました。跡地は警察予備隊豊川駐屯地(現陸上自衛隊豊川駐屯地)、日本国有鉄道豊川分工場(現日本車輌製造豊川製作所)、千代田光学(現コニカミノルタ瑞穂サイト)、豊川市役所、名古屋大学空電研究所(現名古屋大学太陽地球環境研究所)、熊谷組豊川工場(現テクノス株式会社)などになりました。

軍需工場のおかげで街は発展しましたが、そのために戦局が悪化すると攻撃目標となり、多くの犠牲者を出してしまいました。戦後75年が過ぎ、あの戦争の悲惨さを身をもって体験した人々がどんどんこの世を去って行き、戦争の悲惨さを知らない人間が大半占める世の中になっています。まして今の政権は唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約には批准せずアメリカなどの核の傘に依存する姿勢を貫いています。

日露戦争開戦から太平洋戦争敗戦までの戦争の歴史をきちんと学び、軍拡が如何に無駄なことか、そして戦争を起こすことが如何に悲惨な結末をもたらすかを風化させずに後世に伝えるのが我々の締めではないかと感じました。

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2020年8月11日 (火)

日本車輌豊川工場の保存車両 4 名古屋鉄道モ811

関東在住の鉄道ファンであるため名古屋鉄道の車両に関する知識は殆どなく、乗車経験もさほどありません。
本来ならこの4月に名鉄2日間有効の全線フリー乗車券を利用して名鉄全線乗り潰しの旅を敢行する予定でしたが、新型コロナウイルス蔓延のためあえなく中止となり、この夏も第二波の到来なのか再びの新規感染者増加で夏休みの旅行も断念の日々が続いております。

Dsc06523
2017/8/4

日本車輛製造豊川製作所、メモリアル車両広場に保存されている車両、最後は名古屋鉄道モ800形電車です。
この車両は1935年4月、名古屋鉄道の前身、名岐鉄道に押切町~新岐阜間の特急運転開始に伴い、10両納入されたデポ800形です。当時としては大型の18m車体に最新鋭の機器を装備し、801~805が1935年4月に806~810が1936年3月までに両運転台式、セミクロスシートの電動車として製造されました。
その後、2両は電装解除、再電装化され、車番の入換も行われました。戦時中にはロングシート化、さらに1948年東西直通で1500V昇圧がなされ、編成固定化による片運転台化や主制御器の交換、ドアステップの撤去などの改造も受けました。1996年までに全車が運用を終えました。

Dsc06536
モ811は当初デポ804として登場、1938年6月にモ802に改番され、戦後はク2312と編成を組み、1957年に岐阜方の運転台を撤去、1962年11月、重整備の際に豊橋方が高運転台に改造され、1981年9月、3880系の廃車による増結車確保で両運転台に戻り、モ811に改番され、岐阜側も高運転台となりました。1996年4月の廃車で正面窓やダークグリーン塗装,前照灯,室内白熱灯などの復元がなされ、日本車輛製造豊川製作所に保存となりました。

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2020年8月10日 (月)

日本車輌豊川工場の保存車両 3 新幹線0系 22形ー2029

  先日の記事に続いて日本車輌製造豊川製作所の保存車両、今回は0系新幹線22-2029です。

Dsc06522 2017/8/4

22形といえば0系編成における東京方先頭車で、1964年から1986年までに0番台1~143、外観的には客用窓が小型化され、主制御器をCS46に変更し、ステップ数が17段から20段になった1000番台1001~1051、内装を200系に準じて変更し、客用窓周りをFRP化した2000番台、2001~2030の合計224両が製造されました。パンタグラフ、主変圧器、整流装置、空気圧縮機が搭載されています。定員は0番台、1000番台が80名、2000番台はシートピッチ拡大で1列減で75名となりました。自重は0番台が57.4t、1000、2000番台が58.9tです。

2029号は第38次(0系として最後の増備)車として22ー2030とともに1985年12月から1986年4月にかけて16両が製造されました。製造当所は0系初期車の置き換え用としてSk26編成に組み込まれ、16両化でYk26編成、晩年はJR東海Yk8編成に組み込まれ1999年9月1
8日
、東海道新幹線における0系最後の営業運行「こだま473号」に使用されました。翌月の廃車に際して製造所の日本車輌製造が譲り受け、保存となりました。

Dsc06535
製作所公開の際には近くで写真が撮れるようです。

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2020年8月 7日 (金)

日本車輌豊川工場の保存車両 2 8620形58623号機

昨日に続いて、日本車輌製造豊川製作所に保存されている車両、今回は8620形式58623号機です。

Dsc06521

Dsc06524

この機関車、こういった状態で展示されているために、周囲を観察することは通常はできません。

Dsc06533 日本車輌製造製の特徴的なマークと製番54が確認できます。

Dsc06527
日本車輌製造で製造された鉄道省向け制式1号機関車であるために保存されたようです。ただ、ここにある機関車の歴史には大きな誤りがあります。沖田佑作氏の機関車表の車歴によると
1922-5 日本車輛名古屋工場 製番54
名古屋局配属
1931/1/31 人吉庫
1934/5 正明市 正明市は現在の長門市で山口県です。さらにこの後、稲沢庫、稲沢区に1936年に移動、さらに1937年には高知区へ移動
1955-8-1現在 松山
1957-6現在 松山
1964-4-1現在 小松島
1970-5-28 小松島 廃車

ということで「一度も四国を離れることなく」は誤りのようです。

Dsc065312017/8/4

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2020年8月 6日 (木)

日本車輌豊川工場の保存車両 1 東京都交通局懸垂式モノレールH形

2017年8月の愛知・三重旅行では昨日の豊橋総合動植物公園を訪問した後、豊橋から名鉄名古屋本線、国府から豊川線を乗り継ぎ、諏訪町へ、同駅から徒歩10分ほどの日本車輌製造豊川製作所へ行きました。

Dsc06519 2017/8/4

アポも何も取らない訪問なので正面玄関から先は入っていませんが、玄関付近には
上野動物公園のモノレール
0系新幹線
8620形蒸気機関車
名鉄モ811 が保存展示されています。

最初は上野動物公園のモノレールです。2019年11月1日、日本初のモノレールだった正式名称「東京都交通局上野懸垂線」(上野モノレール、上野動物園モノレール)は1957年12月17日開業から62年弱の運行の歴史が途切れました。営業距離300mで日本最短の路線で東京都懸垂電車条例に準拠した輸送機関で動物園西園と東園を結んでいました。

Dsc06518

Dsc06538
Dsc06517

1957年に全線開業した際の車両がH形で今回紹介する豊川工場に展示されているものです。

その後、1967年1月1日から2代目車両M形、1985年4月2日から3代目車両30形、2001年5月31日から4代目車両40形で運行されてきました。私も上野動物園のモノレールは幼少の頃、親に連れられ動物園を訪問した際に乗車したのを憶えており、モノレールの下を都電が走っているのが見えました。乗車したのはこのH形でした。そして自分が親として子供を連れて上野動物園を訪問したときに乗車したのは3代目30形だったと思います。

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2020年8月 5日 (水)

豊橋総合動植物公園「のんほいパーク」内に保存されているD51 89号機

豊橋総合動植物公園は動物園・植物園・遊園地・自然史博物館の4ゾーンからなる複合施設で1899年に安藤政次郎が開園した動物園を下に発展し、1992年から現在の形態となりました。のんほいとは三河方言の~ですねにあたる「のん」とやあ、おいの「ほい」を合わせたものだそうです。
Dsc06456

Dsc06455 2017/8/4 
最寄り駅は東海道本線二川駅で、同駅から徒歩で6分の距離です。

D51-89-170804 D5189号機
同機は1~100号機までのナメクジスタイルのD51の中にあって101号機以降の標準形のスタイルの異色機です。また正面からみて右側のデフレクターが切り込まれている特有のスタイルです。ナンバーは形式入で緑色に着色されています。スノープラウは北陸仕様です。

沖田祐作氏の機関車表データによる履歴は
1938-3-26 国鉄浜松工場 製番22
名古屋局配属
1938-4-3配置 稲沢
1944-9-21 浜松
1948-5-15 静岡
1949-9-5 金沢
1962-6-29 富山
1965-8-2借入 糸魚川
1965-9-30返却 富山
1965-10-1 金沢運転所
1971-4-17 廃車 金沢  となっており、浜松工場で製造され、終生、東海、北陸で活躍し、最後は金沢で廃車されました。

いわゆるナメクジタイプのD51は第1動輪の軸重が13.17tと第2~4動輪の軸重よりも1t以上軽く、重量列車引き出し時に空転が多発するため、重量配分に問題がありました。1937年1938年に浜松工場でこの問題を解決するため、86-90号機において給水温め器を煙突前に枕木方向に載せ、担いバネの釣合梁の支点位置を変更し、動輪重量の配分を可能な限り変更する改良試作が行われました。
この改良によりナメクジタイプよりは空転問題は改善されたものの、D50形に較べると第1動輪の粘着性能に問題があり、北陸本線や信越線の勾配区間を担当する機関区からは嫌われたようです。

Dsc06462
デフレクター後のオイルバルブの位置はランボード上に線路方向に並ぶタイプ、逆転器リンクプレートの穴は大穴タイプ、砂管は前二本が若干前に傾斜、3本目は途中から折れるタイプです。

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機関助手席前の潅水清浄器はキャブから少し距離を開けて前に取り付けられています。

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炭水車は8-20A、台車は軸バネがコイルバネ、側枠が一体鋳鋼製のTR24形類似タイプ

Dsc06469 炭水車の前照灯、尾灯は装備されています。


Dsc06477 キャブに立ち入ることはできませんが隙間から内部を覗くことは可能です。

Dsc06468 説明板も用意されています。

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2020年8月 4日 (火)

磐越東線小川郷駅に隣接して置かれている軽量客車のカットボディ

2017年7月21日、つくばから常磐線を北上、いわきから磐越東線で郡山に抜け、郡山から会津若松を訪問し、会津鉄道、野岩鉄道、東武鉄道で東京に戻った際に、磐越東線小川郷駅で車中から見かけた車体です。

170721 2017/7/21 小川郷

撮影当時はカラオケボックスとして使用されていたようです(もう既に3年の年月が過ぎているので現在も存在しているかどうかは定かではありませんが)。
この車両は1957年に1~30の30両が製造されたナハ11形ナハ10形の室内灯を蛍光灯化した形式)の緩急車ナハフ11形(定員80名)でした。そのうちの29が電気暖房化され2029となり、郡山工場で1975年に交直流電車の教習車に改造されナヤ11形1号になりました。

因みにナヤ11 2はナハ11 2061から郡山工場にて、ナヤ11 3はオロネ10 25から幡生工場にてそれぞれ改造されました。ナヤ11 1と2は水戸に配属され、水戸鉄道学園にて2両1組で使用され、ナヤ11 3は広島に配属され電気機関車用の教習車として使用されました。1987年のJR移行直前に3両とも廃車となり、形式消滅しました。

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2020年8月 3日 (月)

開発が進む虎ノ門界隈を歩く

虎ノ門エリアといえば霞ヶ関の官庁街の南側で2020年6月6日には東京メトロ日比谷線の新駅「虎ノ門ヒルズ」駅が開業、この辺に多くのビルを持つ森ビル株式会社が2014年6月11日に地上52階、地下5階、塔屋1階の超高層ビル虎ノ門ヒルズ森タワーを開業、

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2020/7/30 虎ノ門ヒルズ森タワー

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環状2号線 築地虎ノ門トンネルの入口 
環状2号線は江東区有明2丁目の国道357号線(湾岸道路)接続部から豊洲6丁目、、中央区勝どき陸橋、築地大橋、地下トンネル未供用(旧築地市場、新大橋通り、海岸通り、第一京浜、)、地下街路でこの入口に至り、以降、外堀通りとして、神田佐久間町に至ります。

180405 2018/4/5 虎ノ門病院 旧館

Dsc01673 2020/7/30 新館は後方の土地に建設され、旧館は取り壊されました。

さらにこのビルを中心としたビジネス、商業施設がこれから続々オープンする予定だそうです。
国家公務員共済組合の虎ノ門病院も2019年5月にそれまでの旧館から新館に移転しました。年に4回、同病院に通院する関係で地下鉄の新駅を訪問し、今回、虎ノ門周辺を見学してきました。

Dsc01686edit
地下鉄虎ノ門、虎ノ門ヒルズ駅の位置関係

この周辺を通っている地下鉄は溜池山王から虎ノ門を通り、新橋へ抜ける黄色い線の銀座線と上の地図を縦方向に桜田通り(国道1号)の下を走る日比谷線で虎ノ門ヒルズ新駅は桜田通りと環状2号線が交差する交差点に設けられました。

Dsc01683 桜田通りの日比谷線北千住方面行き入口 A2

Dsc01684 階段、もしくはエレベータを下ると改札口がありますが、入場しても反対側のホームに連絡する階段はありません。

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地下鉄の駅ではしばしばありますが、この入口は北千住方面行きにしか乗車出来ない入口です。反対側のホームにはA1とB1口があり、B1口は改札を通って、銀座線虎ノ門駅と地下通路で繋がっています。しかしその距離は3ブロック分あります。

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