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2020年8月12日 (水)

豊川海軍工廠について

これまでの4記事において日本車輛製造豊川製作所に保存されている、同所で製造され、保存された車両についてみてきました。最後に、豊川製作所の広大な敷地を含む周辺の地域の歴史に触れておこうと思います。

日本国憲法下の陸・海・空・自衛隊においては兵器の開発・製造は民間企業に委託されていますが大日本帝国憲法下の帝国陸・海軍は直属の軍需工場を持っていました。

陸軍は陸軍造兵廠として
東京砲兵工廠 1871~1935 現在、後楽園遊園地など、小石川後楽園
火工廠    1937~1945 現在、ふじみ野市の中核部分
大阪砲兵工廠 1870~1945 現在、大阪城公園
名古屋工廠 1941~1945  現在、イオンモール熱田、名古屋市体育館、神宮東公園
小倉工廠   1894~1945 現在、北九州市立中央図書館、勝山公園など(広島に続く原爆の投下目標でした)
南満工廠   1940~1945 奉天市文官屯                   がありました。

一方、海軍は海軍工廠を    (数字は開設年)
呉海軍工廠 1903    現在、ジャパン マリンユナイテッド呉工場
横須賀海軍工廠 1903  現在、在日米軍の横須賀海軍施設(通称横須賀基地)
佐世保海軍工廠 1903  現在、佐世保重工業佐世保造船所、一部はアメリカ海軍の施設(通称佐世保ベース)
舞鶴海軍工廠 1903   現在、ジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所
広海軍工廠 1923    現在、王子マテリア呉工場
豊川海軍工廠 1939   後述
高座海軍工廠 1943   座間市、海老名市にまたがった地
光海軍工廠 1940    現在、新日鐵住金光鋼管工場、武田薬品工業光工場
多賀城海軍工廠 1943  現在、陸上自衛隊多賀城駐屯地他
鈴鹿海軍工廠 1943   現在、旭化成、カネボウ、本田技研工業、鈴鹿サーキット
沼津海軍工廠 1943   現在、沼津市立第一中学校ほか
川棚海軍工廠 1943
相模海軍工廠 1943
津海軍工廠 1944

各地に造って行きました。
海軍工廠の開設の歴史を見てみると日露戦争開戦前に呉、横須賀、佐世保、舞鶴が設置、広、豊川、光と続き、戦局が苦境になった1943年秋以降、各地に増設されています。

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2017/8/4

豊川工廠は1937年頃、航空機用機銃の生産のために計画され、当初は鈴鹿航空隊が近い鈴鹿が有力候補でしたが、起伏などの問題から豊川が選ばれました。開廠は1939年12月15日で当時の宝殿郡豊川町、牛久保町、八幡村にまたがる約200haの土地に5番目の海軍工廠として設置されました。従業員は1500名で1940年には南東側の土地を買収し、拡張されました。太平洋戦争では航空機が戦闘の主役になったことから航空機用機銃と対空機銃の需要が高まり、工廠は大発展をとげ、1945年2月の時点で従業員は職員400名、工員10,000名、徴用工員40,000名、動員学徒6,000名、計56,400名となり東洋一の規模となりました。
周辺の交通網の整備も進み、引き込み線(豊川鐡道西豊川支線)、通勤のための名古屋鉄道国府駅~市役所駅(現諏訪町駅)の開通などがなされ、1943年6月1日に国府町も含めた3町1村が合併して豊川市が成立となりました。

しかし、太平洋戦争の戦局悪化で本土空襲が始まると軍需工場は米軍機のターゲットとなり、1944年11月1日には偵察機が飛来、1945年8月7日、サイパン、テニアン、グアムから飛来したB29爆撃機124機による大規模空襲を受け、僅か30分間に250kg爆弾3256発が投下され工廠は壊滅しました。この空襲でおよそ2500名が犠牲となりました。当時アメリカ側は広島、長崎以外にいくつかの原子爆弾投下候補地を選んでいましたが、豊川海軍工廠もそのひとつでした。

敗戦後、工廠は再建されることなく1945年10月5日に廃止されました。跡地は警察予備隊豊川駐屯地(現陸上自衛隊豊川駐屯地)、日本国有鉄道豊川分工場(現日本車輌製造豊川製作所)、千代田光学(現コニカミノルタ瑞穂サイト)、豊川市役所、名古屋大学空電研究所(現名古屋大学太陽地球環境研究所)、熊谷組豊川工場(現テクノス株式会社)などになりました。

軍需工場のおかげで街は発展しましたが、そのために戦局が悪化すると攻撃目標となり、多くの犠牲者を出してしまいました。戦後75年が過ぎ、あの戦争の悲惨さを身をもって体験した人々がどんどんこの世を去って行き、戦争の悲惨さを知らない人間が大半占める世の中になっています。まして今の政権は唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約には批准せずアメリカなどの核の傘に依存する姿勢を貫いています。

日露戦争開戦から太平洋戦争敗戦までの戦争の歴史をきちんと学び、軍拡が如何に無駄なことか、そして戦争を起こすことが如何に悲惨な結末をもたらすかを風化させずに後世に伝えるのが我々の締めではないかと感じました。

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