2018年晩夏 長野県内の保存蒸機を見て歩く旅 66 しなの鉄道線に関して
2018年晩夏の信州の旅、往路は中央本線でしたが復路はしなの鉄道で軽井沢へ、碓氷峠はバスで下り、横川からはJR東日本を利用しました。
しなの鉄道株式会社 ロゴ
しなの鉄道は1997年10月1日北陸新幹線高崎~長野間の開業でJR東日本から経営移管された旧信越本線軽井沢~篠ノ井間(65.1km)を運営する会社(第三セクター鉄道 長野県73.64%、長野市3.88%、八十に銀行2.69%、上田市2.23%、千曲市1.98%)として設立されました。2015年3月14日には北陸新幹線長野~金沢間の延伸開業で長野~妙高高原間(37.3km)も経営移管されました。篠ノ井から長野に関しては引き続きJR東日本が経営し、しなの鉄道が乗り入れる方式となっています。
路線最大の運賃収入が見込まれる同区間については篠ノ井線の特急列車ダイヤ調節との理由からJR東日本は経営分離しないことから、しなの鉄道側は不満を訴えてきました。
長野県とJR東日本長野支社が2002年に実施した調査では同区間の年間運賃収入は約14億円であり、仮にしなの鉄道が同区間の経営を担当した場合、JRグループ各社との間で列車の運行調整を行うためには技術的経費的に困難であること、さらにしなの鉄道の当時の人件費・駅管理費等の維持コストを基に営業損益を試算すると年間10億円の損失が生じることがわかり、引き続き従来通り、しなの鉄道が乗り入れる方式となりました。
現有車両はJR東日本から譲渡された115系、2020年から導入が進められているSR1系ですが、今回の記事では既に退役した169系について触れようと思います。
169系に関しては拙Blogにおいても2013年7月16日の記事で触れていますが、1963年10月1日の碓氷峠新線開業でEF63重連による推進・抑速運転方式となりましたが電車の編成両数は8両に制限されていました。1967年に165系900番台としてEF63重連との協調運転可能な編成が試作され、1968年から1969年にかけ、協調運転可能な装置類を搭載した系列として誕生したのが169系でした。McM'Tc27組81両が新製、サロ165形を改造した19両、サハシ153形を改造した10両の計110両の所帯となりました。
しなの鉄道には3両編成4本(S51~S54)と部品供給用の車籍無しの3両が譲渡されました。全ての編成がJR時代は快速「みすず」で活躍していた4連のアコモ改良工事施工車でシートはD21もしくはD23リクライニングシートでした。譲渡にあたり、サハ165が抜かれ3連となりました。トイレは使用禁止で、保安装置はATS-SNのため、S54編成はATS-Pを撤去しました。サービス電源はS52以外はSIVに換装されました。塗装は移籍時は旧長野色でしたが、まもなくしなてつカラーに変更されました。S52編成に関しては2008年9月、信越本線軽井沢~関山間開業120周年を記念し、旧国鉄色となり、2009年3月にはしなの鉄道色に戻り、2010年9月18日、2回目の旧国鉄色となりました。
2013年3月15日を以て営業運転を終了、同年8月1日までに全車廃車となりました。坂城駅に保存されたS51編成については後日、触れます。
最後まで読んで戴きありがとうございます。
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