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2021年1月 7日 (木)

2018年晩夏 長野県内の保存蒸機を見て歩く旅 68 169系の誕生から終焉まで

昨日の記事で坂城駅横に保存される169系3両編成(クモハ169/モハ168-1+クハ169-27)について触れましたが、165系900番台、新製車27組81両、サロ165からの改造車19両、サハシ153からの改造車10両の総計110両がどのように編成され、どのような運用に投入され、いつ廃車に至ったかを見てゆきたく思います。

169_20210106202801 急行「妙高」 熊ノ平信号所

1.試作車、量産車製造、他系列からの改造編入

1967年12月に碓氷峠協調運転試作車としてクモハ165/モハ164-901~904、クハ165-901~904の3両編成4組12両が日本車輌で製造されました。冷房工事準備車として落成し、クモハ、クハはAU12形、モハは低屋根構造でAU12S形搭載を前提にしていました。

1968年8月からは量産車第一陣としてクモハ169/モハ168-1~25、クハ169-1~24が製造され、クモハ169/モハ168-1~7を日本車輌、8~23を東急車輛、24,25を近畿車輛、クハ169-1~3を日本車輌、4~21を東急車輛、22~24を近畿車輛が担当しました。これらは冷房準備車として製造されクハ/クモハは分散式AU13E形、モハは集中式AU72形の搭載を前提にし、パンタグラフ部の構造は低屋根構造とはなりませんでした。

1969年9月の増備車両は冷房車両となり、クモハ169/モハ168-26,27、クハ169-25~27ともに東急車輌で落成しました。クハ/クモハは分散式AU13E形、モハは集中式AU72形を搭載し、クハに冷房電源専用として110 kVAのMH128-DM85形電動発電機(MG)が設置されました。

169_20210106133501
169系の投入でそれまで新前橋、長野に配置され、信越線の急行に使用されていた165系は新前橋に異動となりましたが、横軽対策済みで長野に残留したサロ165形19両が長野工場にてサロ169形に改造されました。冷房装置はAU12Sが6台搭載され、電源は自車給電用に40kVAのMG(MH122A-DM76A)を床下に搭載しました。これらのサロは169系の信越線での定期運用終了前に廃車されています。

169_20210106133801  サハシ169形は1968年当時、宮原区で余剰となっていたサハシ153形10両から、1965年10月の中央東線急行電車化でサハシ165-50番台が改造されたときと同じ仕様で改造され、日程の都合で改造は2次に渡って施工されました。1次ではジャンパ連結器、協調運転用引き通し回路の増設、横軽対策などの暫定改造で、2次は耐寒耐雪構造への変更とビュッフェ部の改造で寿司コーナーがそばコーナーに変更され、出入り台横に業務用控室が設置され、小窓が追加されました。床下に自車給電用に40kVAのMG MH101-DM65が搭載され、当初冷房はビュッフェ部分のみでしたが、1969年から1970年にかけ、客室部分にもAU12が搭載され、MGは110kVAのMH128-DM85に増強されました。これらのサハシも1980年代を待たずに廃車となっています。

2.信越線での運用

S169 1967年10月時点では信越線急行を担当する長野区の165系はMcM'Tc+McM'TsTsTcで5両編成8組、3両編成8組、予備車として各形式が3両ずつでした。169系導入にあたり、McM'Tcは転出しましたが、Ts車19両はサロ169形化改造の種車となりました。

169系急行は1968年10月のヨンサントオ改正でデビューし、当初は長野運転所所属のサロ2両とサハシ1両をMcM'とT’cに挟んだ6連+3連+3連の12連で運行されました。この時点ではMcM'T’c22組、TsTsTb8組で9両基本編成8本、3両付属編成6本、予備車McM'3組Tc2両、Ts3両、Tb2両の計103両体制でした。

列車名は「信州:上野~長野/湯田中」「妙高:上野~直江津」でした。1972年3月489系特急「白山」の登場、1975年3月の特急「あさま」の189系化などで、1976年11月30日限りでビュッフェの営業終了、1978年10月改正を前にサハシは編成から外され、11両化されました。

1979_20210106193001

1979年4月1日時点での長野運転所169系編成データ サハシが除かれ、サロが2両の時代

さらにグリーン車の利用率低下もあり、1982年11月の改正ではサロも1両減車となり、10両編成となりました。ヨンサントウ改正で一旦消滅した上野~湯田中間急行「志賀」は169系の登場で一旦は消滅しましたが、1969年10月改正で復活し、1982年11月の改正で長野電鉄乗り入れもなくなりました。

169-840503-2
軽井沢駅

信越線急行運用の減少で余剰となった車両は松本運転所に転出し、モハ168形は中央線狭小トンネル通過対策としてパンタグラフがPS23形に変更されました。1985年3月のダイヤ改正で169系による急行「信州」は全廃となり、169系はサロなしの9連(3連x3)になり、「妙高」でのみ運行されましたが、1986年11月のダイヤ改正でそれも189系による運行となり、信越線での169系の定期運行は終了しました。

3.他系列への改造、廃車

試作車として1967年に165系900番台で製造されたTcM'Mc4組12両は新前橋電車区配置され165系と共通運用され、1968年に量産化改造され169系900番台に改番されました。1984年から1985年にかけ、クハ/クモハ169-900台の各4両はクハ455形に系列間改造され、それぞれクハ455-300番台、-400番台となりました。モハ168-900番台4両は電装解除され、サハ165形100番台に改造され、松本運転所に配属、急行「天竜」に使用されました。
クモハ169-9が1982年7月にモハ168-5が1978年3月にクハ169-2が1987年2月にそれぞれ事故廃車となった以外は量産車3形式はJR東日本の承継されました。

1986_20210106195701 1986/11 国鉄最後のダイヤ改正時の長野第一運転区、松本運転所お169系編成表 
「天竜」を改称した「かもしか」用編成はクリーム10号、緑14号で座席は新幹線シートに

1993
1993年3月のダイヤ改正時の三鷹区、幕張区編成表

三鷹、幕張の編成は首都圏の波動輸送用に使用され、2003年、1998年までに全廃されました。

松本と長野の間では編成毎の交換もありましたが、200年、2001年までには廃車となり、4編成12両がしなの鉄道に譲渡されました。

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コメント

B 767-281様お早う御座います。ミツの169系は、晩年には簡易リクライニングシートに変わりお得な車両になっていました。むさしの号にも投入されたり、鎌倉号にも入ったりしていました。185系が出た時、そのまま急行で良いのではと思いました。ビュフェについては1976年だと思いますが、当時高校の寮が清里にあり、その帰り道アルプスを利用し、もうすぐ無くなると言うのもあって、友達とコーヒーを飲みました。正直苦いばかりでそれ程美味しいものではありませんでしたが、いい思い出です。

細井忠邦様、おはようございます。

三鷹区の169系、わたしも90年代、急行型車両がいることは認識していましたが、169系とは知りませんでした。

急行型のビュッフェ体験は私も山陽本線の広島から先でサハシ153のビュッフェを体験した憶えがあります。確か、ハムサンドか何かを注文した憶えがあります。もしかしたらあの車両が後に169系にコンバートされたのかもしれません。

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