大川端・佃島周辺を散策する part3 石川島から大川端リバーシティ21へ
西武9000系4連の9102FのLED化は5月26日木曜日、午前の時点では確認できていないので、大川端・佃島シリーズと参ります。 2021/11/17 石川島と佃島 今は両方の島が埋め立てにより、一体化していますが江戸時代はそれぞれ別々の島でした
現代において「石川島」と聞くと石川島播磨工業を思い出しますが、江戸時代の初期には隅田川河口の三角州の小さな島(鎧島、三国島とか森島と呼ばれていました)で、江戸幕府幕臣で船手頭・御船奉行(幕府用船の保管・運行を任務とする)だった石川八左衛門重次(はちざえもんじゅうじ)が寛永年間(1624~44年)時の将軍徳川家光から拝領したため石川島と名が付いたそうです。この頃は、石川島と佃島は別々の島でした。
1790年には火付盗賊改の長谷川平蔵の提案により、江戸府内の無宿、無頼、乞食などを収容する人足寄場が設けられました。石川家は屋敷地を幕府に返却し、麹町永田町に移転し、島全体が人足寄場となりました。人足寄場は軽犯罪者や無宿人に仕事を教え、出所後に自律させる更正施設のようなものでした。
1817年の伊能忠敬の江戸実測図では埋め立てが進み、石川島と佃島が一体化しています。
3代目歌川広重の東京名勝図会「つくだじま」(1869年)に描かれている石川島灯台(江戸湾から日本橋方面に入る舟に位置を知らせるため、設置された)の跡に当時の姿を模した建造物が建っています。
明治になってからは1873年に懲役場、1877年に警視庁監獄署となり、1895年に巣鴨に監獄が設置され、機能が移転となりました。一方、1853年には水戸藩が造船所を設け、石川島造船所となりましたが、こちらも1939年に深川区豊洲に移転となりました。太平洋戦争後、造船所は石川島重工業、石川島播磨重工業、IHIとなり、造船以外の部門の佃工場が残っていましたが順次縮小され、1979年に閉鎖され、跡地はウオーターフロント開発の対象となり、1986年に着工された「大川端リバーシティ21」として生まれ変わりました。
2021/11/17 勝鬨橋側から見た大川端
永代橋から見た大川端
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