大川端・佃島周辺を散策する part11 築地場外市場から、浜離宮恩賜庭園へ
かちどき橋の資料館の資料館を後にし、晴海通りを銀座方向に向かって歩くと数年前まで東京の台所として機能した旧築地市場の前に出ます。
築地市場は江戸時代から東京の食品流通を担ってきた日本橋魚河岸が1923年9月1日の関東大震災で全壊し、市場組合が芝浦で仮営業を開始し、旧外国人居留地で海軍省の所有地(それまで海軍大学校、造船廠、水路部などの施設がありました)を借り受け、臨時の東京市設魚市場を開設したのが始まりとされています。1935年に東京市中央卸売市場が開設され、2018年に豊洲に移転するまで83年間、その機能を担いました。1954年3月にはビキニ環礁でアメリカによる水爆実験が行われ、その際に被爆した第五福竜丸が水揚げした水産物が市場に入荷、残留放射性物質の混入で市場が大混乱に陥ったこともありました。1966年10月1日には関西からの鮮魚特急「とびうお号」が運行され、話題になりましたが、国鉄民営化を前に国鉄の引き込み線も1987年1月31日に廃止されました。2018年10月11日、豊洲市場が開場、市場機能は移転しましたが、観光地としての築地場外市場はそのまま名称も残されました。
東京メトロ日比谷線が茅場町~八丁堀~築地と走ってきて東銀座に向けて方向転換する交差点を左に曲がると、国立がん研究センター中央病院の前に出ます。
さらに進むと朝日新聞東京本社ビルの前を通ります。以前は権力に対峙するジャーナリズムとして朝日新聞には期待していましたが、安倍政権以降はすっかりその牙が抜かれてしまったようでを、情けない限りです。新大橋通りが大きく右に曲がり、首都高速汐留JCTの下辺りに浜離宮恩賜庭園の大手門があります。
元々、17世紀の初め頃は葦などが茂る湿原で徳川将軍家の鷹場でした。1654年に甲府藩主徳川綱重がこの地を拝領し、海を埋め立て別邸を設け、藩の下屋敷として使用されました。綱重の子、綱豊が徳川6代将軍家宣となったため、甲府徳川家は絶家となり、将軍家の別邸、浜御殿となりました。
これ以降の歴史、並びに庭園内の様子については次回以降の記事にて紹介いたします。
最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。
« 2022年夏 名古屋遠征 沼津にて313系8500番台と遭遇 | トップページ | 2022年夏 名古屋遠征 JR東海 通勤車両の新しい顔 315系 »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 大川端・佃島周辺を散策する part12 浜離宮恩賜庭園(2022.08.26)
- 大川端・佃島周辺を散策する part11 築地場外市場から、浜離宮恩賜庭園へ(2022.08.19)
- 大川端・佃島周辺を散策する part10 かちどき橋の資料館 part2(2022.08.12)
- 大川端・佃島周辺を散策する part10 かちどき橋の資料館 part1(2022.07.22)
- 大川端・佃島周辺を散策する part9 晴海埠頭から東京国際見本市会場跡へ(2022.07.15)
« 2022年夏 名古屋遠征 沼津にて313系8500番台と遭遇 | トップページ | 2022年夏 名古屋遠征 JR東海 通勤車両の新しい顔 315系 »
コメント