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2024年5月 9日 (木)

2023年夏と2024年冬の名古屋旅行 その42  大坂の陣以降の尾張徳川藩と名古屋城の歴史

尾張徳川藩の初代藩主、徳川義直は慶長5年11月28日(1601年1月2日)家康の9男として大坂で生まれました。幼名を五郎太丸といい、4歳で甲斐国の藩主を拝命、実際の領国経営は甲府城城代平岩親吉と甲斐国奉行大久保長安が担当し、本人は生母於亀とともに駿府城に居住しました。7歳のとき、家康の4男で28歳で病没した松平忠吉の遺領を継いで尾張国清洲城に転封となりました。

1610年2月、家康は甲斐、信濃、および東海道の要として名古屋を重要拠点と考え、天下普請で名古屋城の築城を決断、1615年4月、完成した名古屋城にて義直と浅野幸長の娘・春姫の婚儀が行われ、家康も駿河から参加している最中に、大坂にて豊臣方挙兵の報が入り、そのまま大坂へ出陣し、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしました。

名古屋城完成に伴う城下町の整備(清須越し)は1612年頃から、義直が名古屋城に移った1616年までに行われ、5万人を超える住民と社寺3社110か寺が移動しました。

義直は当初、1615年に完成した本丸御殿は居住していましたが、1617年に二之丸御殿が完成すると1620年に移り、本丸御殿は将軍上洛時の御成御殿とされました。1626年には大御所となった秀忠が、1634年には3代将軍家光が上洛の際に立ち寄っており、この際には大々的な改築がなされました。その後、1865年、14代将軍家茂が上洛の際に1泊しています。

家康は1616年に亡くなりましたが、その遺産が9男義直、10男頼宣、11男頼房に譲られ、尾張、紀伊、水戸の後に言う「徳川御三家」が出来ます。石高は尾張家61万9500石、紀伊家55万5000石、水戸家25万石(後に35万石)で尾張家は御三家筆頭に位置付けられていました。表高(公称知行高)では尾張と紀伊の差は少ないですが、尾張家には木曾上納といわれる木曾の山林から木を伐り出す権利も付与されており、その収入も加えると100万石近かったと言われています。御三家には宗家継承権があり、将軍家の跡取りがいなくなった際に御三家から出すというものでした。しかし徳川15代将軍振り返ると、7代将軍家継が8歳で死去し、宗家が断絶した際に八代将軍として紀伊家から吉宗が養子として入り、以後は紀伊家の血筋が14代家茂まで続きました。15代将軍慶喜は水戸家の出ですが、慶喜の場合は御三卿のひとつである一橋家に養子入りした後、将軍家を継承しており、水戸家が直接将軍家を継いだわけではありません。

今は徳川御三家といえば尾張、紀伊、水戸ですが、江戸時代初期は将軍家、尾張家、紀伊家を御三家と呼ぶことがあり、尾張家、紀伊家、駿河家(秀忠の3男忠長の系統、1代で終わり)の3大納言家を御三家と読んだ時期もあったそうです。さらに家光の子の甲府家(綱重、綱豊の2代、松平左馬頭家)および舘林家(綱吉、松平右馬頭家)が石高・家格的に匹敵することから御三家と同位に位置付けられた時代もありましたが、駿河忠長の改易、舘林綱吉が5代将軍、甲府綱豊が6代将軍(家宣に改名)でこれらの徳川家は消滅したことで水戸家が格上げされ、後世に伝わる御三家になったそうです。

将軍家と尾張徳川家の間でも後継ぎ問題等でいろいろぎくしゃくしたことは何回かあったそうで、1631年大御所秀忠が病気になった際に義直と頼宜が揃って江戸に見舞いに向かった際に家光が叔父二人を大磯で止めた事件があります。当時、家光に子供は無く、義直は家光より4歳年長で、すでに光友がおり、家光としては将軍の後継のことで叔父らが口出しをするのを嫌がったのではないかと言われています。さらに1633年家光が大病を患った際に義直は再び、名古屋から江戸に見舞いに向かいますが、老中酒井忠勝の命で品川で止められます。これ以来、幕閣たちに「尾張藩は本家横領の下心あり」との印象を持たれたようです。義直の後、光友、綱誠、吉通、五郎太、継友と藩主が代わりますがいずれも早逝しています。特に吉通は自立後、6代将軍家宣の信任が厚かったのですが、25歳の若さで急死してしまい、五郎太も3歳で藩主になったものの2か月で急死、ここで直系は途絶え、吉通の弟、継友が藩士に迎えられ、1716年7代将軍家継が8歳で病没し、将軍家の後継ぎ候補として、26歳の継友、紀伊家の吉宗33歳、水戸家の綱條61歳が候補になりますが、年齢が高い綱條がまず除外され、実績の点で吉宗が8代将軍に選ばれました。

継友は39歳で麻疹で亡くなり、7代藩主となったのが宗春でした。宗春は八代将軍吉宗の緊縮財政、質素倹約をすすめる享保の改革に対抗して積極的な経済繁栄政策を推し進め、江戸在府中は吉原に通い、三浦屋の春日野太夫を身請けし。尾張藩の下屋敷に住まわせ、参勤交代で帰国する際には着飾らせ行列に加えたそうです。城下町名古屋では歌舞音曲を奨励、そのため全国から芸人が名古屋に集まり、芝居小屋が急増、遊郭も名古屋だけが賑わっていたそうです。これが名古屋を大都会に押し上げ、現代にも続く七五三、結婚式、嫁入り道具などにみられる名古屋の派手好き文化の祖となっていると思われます。藩の士風は乱れ、財政は悪化、「これを黙って見過ごしていては幕府の威信にかかわる」と1739年宗春の謹慎蟄居が命じられます。宗春自身、緊縮財政に転じますが蟄居で藩主は支藩から宗勝が迎えられ、宗春時代に抱え込んだ赤字減らしが行われ、さらに宗勝の2男宗睦の治世40年間で財政が立て直されたことから宗睦は「尾張中興の祖」と言われています。さらにこの時代には藩校明倫堂が創設され、藩士のみならず町人、百姓の聴講も許可されました。宗睦以降の藩主は義直の直系ではなく、一橋家からの斉朝、将軍家からの斉温、斉荘、田安家からの慶蔵、高須松平家からの慶勝、茂徳と養子が続きました。

18世紀中期には名古屋城の天守台石垣の不同沈下が進行し、特に西北隅の沈下は2尺にもなったため、1752年から大修理が始まりました(宝暦の大修理)。天守台の石垣の積みなおしも行われました。

慶応3年(1867年)3月、15代将軍徳川慶喜が京都二条城で「大政奉還」を申し出、同年12月討幕派の力を背景に、「王政復古の大号令」が発せられ、将軍職は廃止、天皇を頂点とする明治政府が成立しました。尾張藩も1868年、名古屋藩、犬山藩、今尾藩に分裂しました。1869年1月、版籍奉還が行われ、旧大名は藩知事に任命され、尾張徳川家16代当主の義宣が名古屋藩知事に任命されますが、1870年には名古屋藩は高須藩と合併となり、義宣の実父で元藩主の義勝が藩知事となりました。このときに天守の金鯱が無用の長物で天守から降ろされ東京に運ばれ皇居内に御物として収納されました。1872年には廃藩置県が断行され、名古屋藩は名古屋県となり、さらに三河、知多を中心とする額田県と合併して愛知県となりました。当時の明治政府は反乱や一揆に備えるため名古屋城全域を陸軍用地に指定し、陸軍東京鎮台第三分営が置かれ、本丸御殿が司令部、天守が仮兵舎として使用されました。1873年には廃城令「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」が出され、名古屋城は陸軍が使用していたため取り壊しを免れましたが、二之丸、三之丸などの建物は取り壊されました。その後、名古屋城と姫路城は1879年9月に陸軍省、内務省、大蔵省により、永久保存されることが決まりました。

1892年10月28日濃尾地震(マグニチュード8.0)で本丸の多門櫓、西之丸の榎多門が大破、天守は倒壊こそしませんでしたが床板が平坦でなくなり、漆喰壁が剥がれ落ち、本丸御殿は壁貼り付け絵やふすま絵に亀裂が入るなどの大きな被害が出ました。

Dsc00128 Dsc00130_20240508135101 2024/1/5 乃木文庫 陸軍時代に弾薬庫として建てられたもので名古屋鎮台に赴任経験がある乃木大将にちなんで命名されています。

太平洋戦争末期の1944年12月、名古屋への本格的空襲が始まり、1945年3月には本丸御殿の障壁画を御深井丸の乃木文庫に保管、金鯱を地中に埋める工事も手配されましたが、5月14日の空襲で天守、本丸御殿が焼失し、おおくの国宝建造物が失われました。

Dsc00139_20240508135001 2024/1/5 鉄筋コンクリート造りの天守閣

戦後まもなく天守閣再建を望む声が上がり、1954年頃から民間での募金活動も始まり、名古屋市は1957年6月、鉄筋コンクリートによる天守閣再建を決定、1959年10月1日、再建されました。ただ、同年9月には伊勢湾台風が襲来しており、名古屋は大きな被害を受けていたことから完成式は関係者のみで行われました。

Dsc00154_20240508135401 愛知県体育館 ドルフィンズアリーナ 三之丸地区にあり、毎年7月にはここで大相撲7月場所が開催されます。

2018年5月、築59年を経た天守閣は耐震性能が低いため閉館となり、同年6月には本丸御殿が復元完成し、一般公開が始まりました。木造で復元する天守閣お竣工は2022年12月と当初予定されていましたが、その後、コロナ禍などで遅れており、現時点で予定は明記されていません。

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