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2024年12月27日 (金)

2024年1月2日、羽田空港 海保機・日航機衝突事故の中間報告書が公表されました。

運輸安全委員会は(JTSB: Japan Transport Safety Board)は2024年12月25日1月2日に羽田空港C滑走路で発生した海上保安庁所属ボンバルディア式DHC-8-315型JA722Aと日本航空株式会社所属エアバス式A350-941型JA13XJの衝突事故調査の中間報告を公表しました(報告書のファイル)。同報告書は158頁に及ぶ長大なもので、まだ全文は読んでいませんが、NHKの夕刻のニュースなどでも中間報告書の公表について報じられていました。

残骸から回収されたボイスレコーダ(CVR)の解析から推察される事故の原因に関しては、

1)海保機の機長、副機長が管制官からの「C5誘導路の停止位置で待て、あなた方がナンバーワンだ」という指示を滑走路の停止位置で待つのと誤認し、滑走路に進入してしまったこと。
前日に発生した能登半島地震の救援物資の輸送などが飛行の目的であったため、離陸内の機内の会話、羽田基地とのやり取りもその点がメインとなっており、急いで現地に向かわなければという気持ちが誤進入につながったとも推察される。

2)担当管制官は海保機が滑走路に進入した際にたまたまモニター画面から目を離しており、警告が点灯していたのを見落とし、別の管制官が気付いて注意したにも関わらず、それがきちんと伝達実行されなかったこと。

3)着陸してきた日航機も海保機の衝突防止灯の灯火が白色であったため、他の照明などと紛れ、滑走路上の期待を視認できず着陸復航で回避できなかったこと。

の3者、それぞれのミスが重なって大事故に至ったのではないかとしています。

これらのことは事故直後から想像されたことであり、「マッハの恐怖」などで柳田邦男氏が書いておられますが、これまでの航空機事故の調査でも再三、指摘されてきたように大きな事故はミスが(不幸な偶然が)二重三重に重なった際に起こるものですが、今回の事故もまさにそういった感じがしました。

起きてしまった事故と失われた命は取り返しがつきません。二度とこのような事故を起こさないために、人間が犯しやすいミスを如何に機械(あるいはAIなどが)バックアップするか、どうすればフェイルセーフ機構を確実にできるか、失われた尊い生命を無駄にしないために、人類が知恵を絞っていかなければならない課題だと感じます。

2024年は元日の能登半島地震、2日の羽田衝突事故と大きな災害、事故からスタートした年となり、あと1週間弱で新しい年を迎えようとしています。拙Blogも今回の記事で今年の分は最後となりますが、1年間。お付き合いいただいてありがとうございました。2025年は1月6日からスタートする予定です。それでは、よいお歳を。

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2024年12月26日 (木)

2023年12月26日 松本城を見学

これまでにも何度か松本の街は訪問しておりますが、松本城を訪れたことはありませんでした。そこで2023年の冬シーズンの青春18切符を利用し、日帰りで松本往復を敢行しました。

このシーズンの18切符5日間分は、12月16日の宇都宮(ライトレール乗車の旅)、同29日大船(湘南モノレール乗車の旅)、2024年1月4日~6日名古屋の旅)の往復に利用しました。

JR各社は2024年冬シーズンからこれまでの青春18切符のシステムを改定し、連続した5日間、もしくは3日間の利用、従来のように複数の人間が同じ行程に使用することも不可能にしました。これに対して、私ももちろん反対の署名をしましたが、多くの方々が反対意見を表明されましたが、JR東日本はその署名の受け取りも拒否したというニュースがありました。

231226 2023/12/26 松本駅東口(お城口)のまち巡り案内図

松本城は松本駅の北北西の方向、直線距離にして約1km先にあります。

231226-3 駅から歩いて約15分で到着します。

信濃の国の守護であった小笠原氏の館として現在の松本市に林城が築かれ、その支城のひとつに深志城(現在の松本城の昔の名前)がありました。1550年8月27日、甲斐の武田氏の侵攻で林城、深志城は落城、武田氏が松本盆地を支配しますが、1582年には甲州征伐で武田氏も滅亡、本能寺の変で織田信長も死去すると、小笠原氏が旧領を回復し、城主に、城の名前も松本城となりました。1590年、秀吉の小田原征伐で石川数正が入城し、その子孫康長らにより、天守、城郭、城下町が整備されました。

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江戸時代になると松本城主は石川氏、小笠原氏、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏、そして再び戸田氏と代わり、明治時代になると版籍奉還などで城は廃棄、天守も競売にかけられ、解体の危機にさらされますが、難を逃れ、1903年から1913年には明治の大修理、1930年には国の史跡に、1936年には天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟が国宝に指定、1950年から1955年にかけて解体復元工事がなされています。

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天守は5重6層で壁は下部が黒漆塗の下見板、上部は白漆喰仕上げとなっており、下見板は雨水をはじき天守の壁を守り、50年の耐久性が確保されていました。日本に現存する天守12城のうち、5重6層の天守としては最古のものとなっています。もともとこの城の天守は関東の徳川家康を監視するための戦略拠点としての役割も持って造られました。一方。江戸時代に造られた辰巳櫓、月見櫓(赤い欄干の)は江戸初期の平和な時代を象徴する構造物です。

231226-2_20241225092001 天守台西方には北アルプスの山々が見えます。左から槍ヶ岳、常念岳、横通岳、東天井岳、大天井岳

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天守台から

231226_20241225093501この朱塗りの橋は埋橋(うずみばし)と呼ばれ1955年に架けられたそうで、埋門へ通じることからこの名になったそうです。松本城の堀のアクセントになっています。

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2024年12月25日 (水)

2023年晩夏の関西旅行 城巡り編 その3  岸和田城

2023年8月31日の城巡り、3か所目は岸和田城でした。

長浜城、彦根城と滋賀県の城巡りをしたので、3か所目は安土城あたりにしておけば良かったと今になって思うのですが、彦根から岸和田はいくら新快速~大阪~環状線~新今宮~南海線と乗り継いでも2時間以上かかる距離で、おまけに彦根駅で貨物列車の撮影などに時間をかけていたものですから、岸和田駅に到着したのは午後4時を回っていました。

230831-edit_20241224101601 2023/8/31 コントラストが低くて見にくいと思いますが、岸和田駅と岸和田城の位置関係を示した「岸和田わくわくナビマップ」

岸和田城というくらいだから南海本線の岸和田駅が最寄り駅だろうと思い込んでましたが、地図でよく調べると同じ南海本線の蛸地蔵駅の方が近いことがわかりました。


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駅から歩くこと約15分、漸く石垣、堀が見えてきました。


Dsc06813


城の門はどこかなと思いつつ、堀に沿って歩くと櫓や天守閣が見えてきました。


Dsc06816


案内板を見つけ、入場時間をみると「入場は午後4時まで」、残念ながら時間切れでしたが・・・

南北朝時代(延元元年/建武3年)の湊川の戦いで楠木正成の部下として活躍した武将の岸和田治氏とその一族により、1400年ごろまでに岸和田の地が開拓されました。その後、15世紀後半に現在の岸和田城から約500m南東に山城が築かれました(岸和田古城)。しかし16世紀初頭には放棄されました。その後、信濃泰義により、現在地に移築され、1581年から1582年にかけての羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、豊臣家の一門衆で秀頼の傅役の一人だった小出秀政が1585年に和泉岸和田城3万石に封ぜられた際に5重の天守が整備されました。
大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、1619年からの松平康重の時代に総構えと城下が整備されました。以後、紀州の監視の役割から家康の妹の子である阿部宣勝から阿部氏代々が城主となっていました。1871年の廃藩置県で廃城となりました。

Dsc06818 連結式望楼型3層の天守、1954年に復興 築城時の天守は前述のように5重の天守でしたが、1827年11月20日の落雷で消失しました。
手前には国の名勝に指定されている重森三玲の設計で1953年に竣工した砂庭式枯山水庭園、諸葛孔明の八陣法をテーマに大将・天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎と石組みをした八陣の庭があります。

今回は訪れた時間が遅かったため、天守に登ることもできませんでしたが、またの機会に再訪し、八陣の庭を天守から眺めてみたく思います。

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2024年12月24日 (火)

2023年晩夏の関西旅行 城巡り編 その2 彦根城

長浜城を約1時間見学した後は長浜駅まで戻り、彦根へ。新快速、といっても米原以北は各停ですが、約30分で到着します。もっとも米原で9分の長時間停車も含めてなので走っている時間は20分程度です。

230831-edit_20241223081201 2023/8/31 彦根市 観光案内図 この地図は左下の矢印の先が北となっています。

彦根駅に関しても2014年8月に近江鉄道の車両基地、あるいは近江鉄道ミュージアムを見学した時に来ているのですが、彦根城を訪れるのは今回が初めてです。駅前の大通りを琵琶湖のほうに向かって500mほど進むと外堀らしきものが見えてきます。

Dsc06742家康の側近として江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次、本田忠勝、榊原康政、井伊直政を俗に徳川四天王と呼んでいますが、井伊直政が関ヶ原の戦いの軍功により、近江国北東部に18万石を封じられ、石田三成の居城だった佐和山城に入場したのが1600年でした。直政は佐和山城の古さを嫌い、琵琶湖畔に近い磯山に居城を移すことを計画していましたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年に死去しました。直継はまだ幼少であったため、家老の木俣守勝が家康と相談し、1603年彦根山に彦根城の築城を始めました。
 彦根は東国と北陸、西国へ通じる街道、そして琵琶湖の水運の結節点であったため、家康は尾張藩、越前藩など7か国12大名に手伝いを命じる天下普請で築城が行われました。1606年には2期工事が完成、天守完成と同じころ直継が入城、1616年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると彦根藩により第3期工事が行われ、御殿が建造されました。彦根城の築城に当たっては昨日の長浜城など廃城になった城の資材が流用され、彦根藩内の城は彦根城だけとなり、譜代大名の筆頭に位置する井伊氏は一国一城令を守る手本を示したといわれています。

Dsc06745 二の丸佐和口多聞櫓

連郭式平山城で天守のある本丸、御殿が設けられた二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪が配置されており、天守および附櫓、多聞櫓は国宝、城郭は特別史跡に指定されています。1874年の廃城令で陸軍省管轄の施設になりましたが、老朽化で民間売却されるところを明治天皇の彦根行幸の際に保存が決定、皇室付属地彦根御料所となり、最後の彦根藩主井伊直憲に下賜され保存となりました。さらに太平洋戦争においても1945年8月15日夜に米軍が彦根市を夜間爆撃する予定でしたが同日正午の終戦の詔勅で爆撃を免れました。

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藩主などの馬が繋がれていた馬屋で城内に馬屋が残されている城は他にありません。重要文化財に指定されています。

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天秤櫓と廊下橋

難攻不落な彦根城の象徴とも言われる構造物で侵入して来た敵に対して天秤櫓の急な石垣と戦時には落とされる廊下橋が待ち受けています。

Dsc06767 3階3重の屋根で構成される天守 天守は大津城から移築とされ、国宝に指定されています。

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天守の内部 天守は18万石時代に完成しており、直継の弟、直孝は大坂冬の陣の戦功で秀忠、家光、家綱の3将軍の執政となり、3回の加増で30万石になりました。さらに幕府領5万石の預かりを合わせ、彦根35万石と言われました。

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2024年12月23日 (月)

2023年晩夏の関西旅行 城巡り編 その1 長浜城

2024年6月25日から、途中に別の話題を挟むこともありましたが、阪急電鉄、嵐山電鉄、大阪メトロ、JR西日本、JR貨物、近江鉄道、そして南海電鉄と関西圏の様々な鉄道会社の車両を見てきましたが、最後は城巡りの話題で終わらせようと思います。

2024年8月31日、早朝から西宮北口駅で阪急神戸線を撮影した後、梅田へ、JR大阪駅から新快速で長浜に向かいまずは長浜城を見学しました。長浜には2014年8月長浜鉄道スクエアを見学した際に来ており、今回は2度目の訪問になります。長浜城は琵琶湖に面した豊公園内にあり、南北に走る北陸本線長浜駅から西へ歩いて数分の距離です。

230831-2edit 2023/8/31 JR長浜駅と豊公園、長浜城歴史博物館の位置関係

230831_20241222110701 2023/8/31 JR長浜駅から見た長浜城の復興天守閣
現在の天守閣は東京工業大学名葉教授故藤岡通夫氏の設計指導により1983年に再興されたもので2層の大屋根に望楼をのせた初期天守の様式で天正期の城郭を想定したものです。

この城は1573年、羽柴秀吉が姉川の合戦、小谷城攻略で浅井長政を滅亡させた功績として主君の織田信長から浅井氏の旧領を拝領し、それまでの浅井氏の居城だった小谷城(伊部山にあった山城)の資材や竹生島宝厳寺が1558年の火災からの復旧に際して浅井長政が寄進した材木を流用し、築城した城で秀吉にとってみれば人生最初の城でした。城の完成は1577年頃とされ、城下町は小谷城下(湖北町伊部)からそっくり移し、それまで今浜だった地名を信長の名から一字拝領し、長浜に改名しました。長浜は秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した地とされています。
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1582年の本能寺の変で明智光秀に織田信長が殺害されると長浜城も明智に加担した山本山城主の阿閉貞征に占領され、羽柴氏の係累は近隣のてらに逃れました。阿閉は山崎の戦いに参戦し、しかし明智光秀が羽柴方に敗戦したことで、阿閉も捕縛され、一族すべてが処刑され、長浜城も羽柴氏の支配下に戻りました。

1586年の天正地震で城は全壊、当時の城主山内一豊の息女が死亡、側方流動で城の一部が琵琶湖に水没しました。1606年、内藤信成・信正が城主に、1615年の大坂の陣で内藤氏は摂津高槻に移封となり、長浜城は廃城となりました。資材の大半は彦根城の築城に流用されました。

Dsc06700 2023/8/31 天守から西方を見ると琵琶湖越しに彦根城の天守閣がみえます。

Dsc06708 復興天守の内部構造

1983年に犬山城や伏見城をモデルにした復興天守が建設され、市立長浜城歴史博物館として運営されています。

Dsc06709 Dsc06712 2023/8/31 琵琶湖湖岸の豊公園にある太閤井戸の碑

1939年の夏、旱魃の際に、湖中から発見された井戸跡で厚さ3cm程の木製の井戸枠が湖中から確認されました。

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2024年12月20日 (金)

国内線の航空需要を満たすため導入されたANAのB747SR-81 2 JA8135

JALのB747シリーズに続き、ANAのB747シリーズに入っていますが、SR-81の初号機、2号機のJA8133、JA8134は引退が1994年と比較的早かったため、きちんと写真に収めることができませんでした。
cn21606/ln360として製造、1979年2月21日に初飛行、2月28日にANAに納入された機体は3機目のSR-81としてJA8135のレジに登録されました。500席仕様で国内線に投入され、当時、498席仕様だったJALのSR-46を凌ぐ座席数として話題になりました。エヌアイエアクラフトリーシングに売却され、ANAがリースする形で運航されました。

Ja8135-ana-b747sr81-cn21606-ln360-880824

1988/8/24 HND 既にこの時点でモヒカンからトリトンブルーの塗装になっていました。
現在のT3あたりに国内線ターミナルがあった頃の写真

Ja8135-ana-b747sr81-cn21606-ln360-970302

1997/3/2 HND

1999年11月に退役、Atlas Airに売却、11月10日からN8078Mのレジになり、活躍しましたが、やがてスペア部品取りの状態となり、解体されました。

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2024年12月19日 (木)

2023年晩夏の関西旅行 南海電鉄編   来年4月からは南海電鉄になる泉北高速鉄道の5000系

高度経済成長期の昭和30年代から40年代にかけ、大阪府においては北大阪の千里ニュータウンを始めとして国鉄阪和線、南海高野線に挟まれた地域に新しい街を創る構想から泉北ニュータウンが建設されました。泉北ニュータウンと大阪都心を結ぶ鉄道路線として大阪市営地下鉄1号線(現、大阪メトロ御堂筋線)の延伸案、国鉄阪和線、南海高野線、近鉄南大阪線からの分岐案が検討され、営業エリアとしての問題や輸送能力の余力から南海高野線からの分岐案が採用されました。ただ、南海直営とすると多額の投資が必要となることから、当時、トラックターミナルを運営していた大阪府の第三セクター大阪府都市開発1969年3月に中百舌鳥~光明寺池間の敷設免許を取得、1971年4月1日に中百舌鳥~泉ヶ丘間、1977年8月20日に光明寺池まで開業しました。その後、和泉ニュータウン構想が持ち上がり、トリヴェール和泉として結実、和泉市中南部の人口が増加したことで1995年4月1日には和泉中央駅まで延伸しました。

南海高野線からの分岐線が泉北ニュータウンの路線になると決定した際に南海が直接経営にタッチできなかったのは1960年代から1970年代にかけ、南海電気鉄道線において重大事故が頻発し、重い負債がのしかかっていたためでした。1971年の開業時、全業務は南海に委託され、2008年からは株式の売却が始まり、2014年7月1日に株式が南海電鉄に譲渡され、商号も泉北高速鉄道と変更され、南海電鉄の一員となりました。そして2024年11月1日には国土交通省が泉北高速鉄道の南海電鉄道の合併を認可し、2025年4月1日に吸収合併されることが決まりました。以降は南海電気鉄道泉北線となります。

今回紹介する5000系は1990年から導入している系列で、和泉中央への延伸での所要増に向けて8両編成5本が川崎重工業、東急車両製造で製造されました。これまで大阪府都市開発の車両は南海電鉄の車両をベースに設計されていましたが、本系列はそこから脱却した初の完全自社設計の車両でした。拙Blogでも2018年8月11日記事で紹介しています。

5505-230831 5506-230831 2023/8/31 新今宮 5505F かつては「ハッピーベアル」のラッピングを纏っていた車両です。

5510-230831 2023/8/31 新今宮 5509F 

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2024年12月18日 (水)

2023年晩夏の関西旅行 南海電鉄編   1962年登場の6000系のスタイルを引き継いだ6300系

南海電鉄は1962年12月、東急車輛製造がアメリカ・バッド社のライセンス供与を受け製造した、日本初の20m級オールステンレス車である6000系を高野線にデビューさせました。これは当時、高野線の平坦区間である三日市以北の沿線宅地開発の進展で通勤客が急増し、輸送力を増強する必要性に迫られたからでした。当時、南海本線には6000系の鋼製車バージョンである7000系も投入されました。高野線がステンレス車、南海本線が鋼製車とされたのは高野線は踏切が少なく、万が一の事故の場合の修繕の問題を考慮してのことと言われています。
6000系は側扉が片開き式でしたが、1970年に登場した6100系は側扉を1.3m幅の両開き式とし、1965年には架線電圧の600Vから1500Vへの昇圧が決まっていたので、複電圧方式で製造されました。拙Blogにおいても6000系に関しては2018年7月24日25日の記事で、6100系に関しては7月26日の記事で触れていますが、あれから6年が過ぎ、2018年の時点で製造開始から56年が経過しつつも全車72両が健在だった6000系も52両が廃車となりました。6100系は1996年から台車をパイオニア台車からS形ミンデン台車に履き替える改造工事が施工され、2009年までに76両全車完了し、系列名も6300系となり、今なお全76両が健在です。

6301-2308312023/8/31 新今宮 モハ6301を先頭とする6300系 6連 6301は6100系時代は6119でした。

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2024年12月17日 (火)

西武多摩川線車両交換甲種回送列車を国立にて撮影

西武鉄道では離島的路線である多摩川線で働く101N系の武蔵丘検修場での定期検査のため、3か月に1度の頻度で車両交換が実施されています。今回(12月14日から15日にかけて)は狭山線で活躍中の1251F(近江鉄道湖風号カラー)が多摩川線に、多摩川線からは1253F(赤電カラー)が本線系にJR貨物の機関車に牽引され、甲種回送となる予定です。尤も、1253Fは今年6月に本線系から、多摩川線に異動となった編成で、僅か半年の多摩川線赴任で帰還というのは異例のことのようです。

2020年秋に多摩湖線の101N系が9000系置き換えられてから、101N系を撮影することは滅多になくなりましたが、今回は久しぶりなので武蔵野線から中央線に転線する国立駅で甲種回送列車を撮影することにしました。

本線系から多摩川線に回送される編成は、小手指車両基地にて準備(自動連結器への交換、反射板の取り付け等)の上、263Fに牽引され、新秋津へ、新秋津からはJR貨物のEF65 2000番台(新鶴見機関区)に牽引され、1346発の9285レで新座貨物ターミナルへ、1356着 新座貨物ターミナルにて、機回しが行われ、1456発の9267レで八王子に向かいます。国立通過は1536の予定、八王子到着は1553. 八王子で機回しが行われ、深夜になるまで停車、056発の9282レで武蔵境着128で西武鉄道に引き渡されます。
一方、多摩川線から本線系に回送される編成は白糸台車両基地で準備が整えられ、武蔵境駅まで自走、315発の9281レでEF65に牽引され351に八王子に到着、機回し後、1154発の9286レで国立通過1213、新秋津に1229に到着となり、西武鉄道に引き渡されます。

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Ef65-20861251f-9267-241214-7 Ef65-20861251f-9267-241214-11 Ef65-20861251f-9267-241214-16 Ef65-20861251f-9267-241214-20 1251f-9267-241214 2024/12/14 国立 多くのギャラリーが待ち受ける中、9267レ甲種回送列車はEF65 2086号機に牽引され、所定時刻より
早めの15:22頃、国立駅を通過してゆきました。

思えば新鶴見機関区のEF65も今年度が最後の活躍年度かもしれませんし、西武101N系もサステナ車両の導入で淘汰されるのは時間の問題と思われ、こういった回送シーンがあと何回見られるのかわかりません。かくいう、私も来月には69歳になりますが・・・。

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2024年12月16日 (月)

中央快速線E233系にG車連結開始 9週で25編成に

続々と増え、12両編成を当たり前のように見るようになった2024年師走の中央快速線ですが、この2週間の変化をリポートしたく思います。

E2330-t37-12r-241210 2024/12/10 高円寺 12連化されたT37編成

前回のレポートで写真を上げられなかったT37編成、12月10日に漸く遭遇することができました。この編成は豊田車両センターで同所に留置してあったサロE233/232-10ユニットを11月18日月曜日以前に組込、同日から運用に復帰していました。平日の71T運用は4:49発の豊田始発東京行きで始まり、翌未明0:55大月着で終わる運用です。

E2330-t5-12r-241210 2024/12/10 東中野 12連化されたT5編成

T5編成も12月2日に豊田車両センターに留置されていたサロE233/232-15ユニットを組込、12月10日火曜日に営業運転75T運用に入っているのが目撃されています。私も偶然に東中野で遭遇しましたが、同運用に豊田に到着後、夕刻まで休憩に入る運用のため、その後は遭遇できませんでした。

E2330-t27-12r-241210 2024/12/10 高円寺 12連化されたT27編成

T27編成は国府津車両センターまで出張し、同所に疎開していたサロE233/232-30ユニットを12月2日月曜日に組込、12月4日、61T運用から復帰しているのが目撃されています。

E2330-h47-12r-241214 2024/12/14 国立 12連化されたH47編成

H47編成は幕張車両センターに出張し、12月4日、水曜日同所に疎開中だったサロE233/232-51ユニットを組込、12月6日の23H運用から復帰が目撃されています。

E2330-t21-12r-241214-2 2024/12/14 立川 12連化されたT21編成

T21編成も国府津車両センターに出張し、12月9日月曜日、同所に疎開中だったサロE233/232-25ユニットを組込、12月11日の71T運用から復帰しているのが目撃されています。

E2330-t41-12r-241214 2024/12/14 拝島 12連化されたT41編成

T41編成は12月5日、木曜日、豊田車両センターにて同所に留置されていたサロE233/232-16ユニットを組込、12月13日の61T運用から復帰しているのが目撃されています。

以上が12月14日時点で営業運転に入っているE233系12連化編成ですが、幕張に出張したH56編成、豊田センター内でT13編成などが12連化されているようです。このペースでは年内にあと10編成程度、12連化が行われるのでしょうか。

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2024年12月13日 (金)

国内線の航空需要を満たすため導入されたANAのB747SR-81 1 初号機、2号機 JA8133、JA8134

第二次世界大戦終結後の1951年、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)はわが国における航空活動の禁止を解禁し、国内各地に航空会社が誕生しました。政府・運輸省は「わが国の航空事業の健全な発展のため、事業者の集約化による輸送秩序の確立」を眼目とし、様々な施策を推進し、事業者間でも将来の過当競争を防止し、業界の健全な発展を期する趣旨から、事業者自らが選択し、提携・合併が行われてきました。
 1970年(昭和45年)時点で幹線・およびローカル線輸送を行っていた航空企業は日本航空・全日本空輸・日本国内航空・東亜航空の4社でした。同年6月、運輸省は運輸政策審議会に対して「今後の航空輸送の進展に即応した航空政策の基本方針について」を諮問し、同審議会は10月21日に答申しました。答申を受け内閣は「航空企業の運営体制について」という閣議了解を出し、その内容は

  • 航空輸送需要の多いローカル線については、原則として、同一路線二社で運営する。
  • 国際定期は、原則として日本航空が一元的に運営、近距離国際航空については、日本航空、全日空提携のもとに余裕機材を活用して行う。
  • 貨物専門航空については、有効な方法を今後早急に検討する。

1971年5月15日、日本国内航空と東亜航空が合併し、東亜国内航空が発足すると、1972年7月1日、以下のような運輸大臣通達が国内降雨空会社に示達されました。

  日本航空……国内幹線、国際線の運航。国際航空貨物輸送対策を行う。
  全日空……国内幹線およびローカル線の運航。近距離国際チャーターの充実を図る。
  東亜国内航空……国内ローカル線、国内幹線の運航。

これが45/47体制、俗に航空憲法といわれる日本の航空市場における事業分野の棲み分けを定めたルールでした。

全日空は1964年B727-100で国内線のジェット化に着手、さらにB737-200で羽田・伊丹発着の地方路線をジェット化、1969年にはB727-200により、競争力を確保してゆきました。一方で航空需要の増加に対応できないことが明白になったのが空港の処理能力でした。これはこれ以上の増便は不可能を意味しており、拡大する航空需要に対処するには大型の新鋭機導入による便あたりのキャパシティのアップしかあありませんでした。

この頃、激しい競争を展開していたのがDC-10L-1011Tristarで、1972年、ANAはL-1011の導入を決定しました。JALは国際線用にB747を就航させており、国内幹線にもB747が導入するのはある程度、予想されていました。予想通り、JALは1973年に日本の国内線向けに開発されたB747SRを投入し、ANAは対抗手段としてロッキード社は提案したL-1011のストレッチタイプのL-1011-300、747SR,747-200Bの3機種が選定の候補となりました。国内幹線への適合性、運用面、経済性、さらに当時順調に推移していた国際チャーター便の実績も考慮され、1977年6月29日、B747SRの導入が決定しました。L-1011を機材大型化の過程で挟んだことはB747の導入を遅らせた結果になりましたが、B727-200からいきなりB747にするのではなくL-1011を挟んだことは、運航やハンドリングの現場の混乱を抑える効果があったと現在は評価されています。ちなみにB747SRのエンジンはJAL機に装備されたP&W JT9Dシリーズではなく、GE CF6-45Aでした。同年9月1日にボーイング社と3機の正式購入、8機のオプションを契約しました。

初号機はcn21604/ln346で製造され、1978年11月3日、Everett Factoryをロールアウト、N8286Vのテストレジで初飛行、同年12月21日にANAに引き渡され、レジはJA8133が与えられました。2号機はcn21605/ln351 で製造、1978年12月9日に初飛行、12月20日に引き渡されJA8134のレジが与えられました。両機ともに12月25日に羽田空港にフェリーされ、1974年1月25日、羽田~札幌、羽田~福岡線に就航しました。当時の愛称は「スーパージャンボ」でした。

Ja8133-ana-b747sr81-cn21604-ln346 1992/12 伊丹空港 導入当時のままの”モヒカン”塗装
レジの識別が難しい写真ですがJA8133だったと思います。

JA8133は16年間、ANAの国内幹線、亜幹線、さらには成田~グアム線などの国際チャーター路線にも投入され、1994年12月15日、退役となり、N747BKとしてBoeing社に売却されました。1995年6月12日からはQatar AirwaysのフリートとしてA7-ABKのレジでさらには1997年7月2日からはTunisairのフリートにもなりましたが、現在はすでに解体されています。

JA8134は1995年2月23日にBoeing社にN747BLのレジで売却、1995年6月12日からQatar AirwaysのフリートとしてA7-ABLのレジでさらには1998年3月18日からはSaudi Arabian Airlinesのフリートに、1999年3月1日からは再びQatar Airwaysのフリートとして活躍しましたが、こちらもすでに解体されています。

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2024年12月12日 (木)

2023年晩夏の関西旅行 南海電鉄編   1974年より製造された6200系

2023年夏の関西旅行、新今宮~岸和田間の南海本線を利用した際に見かけた南海電鉄の車両、今回は新今宮駅で撮影した6520を先頭にした高野線の6200系です。この系列については2018年3月に関西を旅行した時の記事(2018/8/22018/8/3)で触れているので今回は詳しくは書きませんが、直流電車の制御技術が抵抗制御方式から電機子、あるいは界磁チョッパ方式を経てVVVF方式に進化してゆく過程で登場した系列で6000系・6100系の丸みのあるスタイル(俗にいうカエル顔)から東急8000系ののような食パン顔スタイルとし、台車もパイオニア台車からS形ミンデン台車に履き替え乗り心地の改善を図った車両でした。

最初は抵抗制御方式で登場、1975年にはオイルショック後の省エネ意識の高まりから電機子チョッパ方式の8000系(初代)が試作されるものの、製造コストの高さ、誘導障害の問題などから量産には至らず、界磁チョッパ方式の8200系が製造されることとなり、8000系(初代)は抵抗制御方式に改造の上、6200系に編入、8200系は界磁チョッパの部品の入手が困難になった時期(2013年以降)、6200系抵抗制御車のVVVF化と合わせて、VVVF化更新が行われ、6200系50番台となりました。(追記:6521Fと50番台以外の6連は更新工事を受けておらず、未だに抵抗制御方式のままです)。

6200ex8000ex8200

6520-230831

2023/8/31 新今宮 6200系として抵抗制御方式で1981年に製造されましたが、VVVF化はされていません。

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2024年12月11日 (水)

2023年晩夏の関西旅行 南海電鉄編   9000系の後継として1992年に登場した2代目1000系

南海電鉄は1994年の関西新空港の開業を見据え、南海グループの新たなCI戦略に即し、新規のデザインを盛り込んだ車両として1992年に二代目1000系が登場しました。

南海は長らくライトグリーンとダークグリーンを車両に纏い、南海グリーンとして定着していましたが、本系列ではグレーをベースにブルーとオレンジのニューカラーが採用されました。車体は20m級軽量ステンレスで従来のビートを廃し、特殊溶接による突合せ外板継ぎを多用し、塗装割れを防ぐために板厚を増してひずみ対策を取りました。前頭部は工作の容易性を考慮してFRP製縁覆いを使用しています。

制御方式は1~5次車はGTOサイリスタ素子によるVVVFインバータ方式、6次車は2レベルIGBT素子によるVVVFインバータ方式です。

1000_6r


1000_4r


1000_2r


2代目1000系は6連10本、4連1本、2連6本の計76両が製造され、現在は全車両、南海本線に配置されています。 


1507-230831


2023/8/31 新今宮 6連 1507


1036-230831


2023/8/31 新今宮 2連 1036

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2024年12月10日 (火)

2023年晩夏の関西旅行 南海電鉄編   2015年から運転を開始した7000系・7100系(南海本線)、6000系(高野線)置き換え用の8300系

南海電鉄という会社は関西の大手私鉄の中でも車両を長く使う会社であると思います。今回紹介する8300系1963年に登場した7000系、7100系のリプレイス用に2007年に登場した8000系をベースにした車両であるからです。

車体は20m級4扉のステンレス製、前頭部は8000系ではFRP製でしたが、8300系では普通鋼製とし、衝撃吸収能力を持たせてあります。制御装置は5次車まではIGBT素子による1C4M方式のVVVFインバータ、6次車からはハイブリッドSiC素子によるVVVFインバータとなり。省エネルギー効率が向上しました。主電動機は国内では狭軌初となる全閉内扇式かご型誘導電動機が本格採用されました。駆動方式も8000系までのWNドライブ方式からTD平行カルダンドライブ方式(歯車比85:14)となりました。台車は8次車まではモノリンク式ボルスタレス台車でしたが9次車からは近畿車輛製で軸箱支持装置が円筒積層ゴム片支持方式となりました。

4両編成22本、2両編成18本の計124両が製造され、南海本線向けに住之江検車区に60両、高野線向け小原田検車区に64両配置されています。

8300_4r

南海電鉄8300系 4連 編成、次車区分、配置データ

8300_2r

南海電鉄8300系 2連 編成、次車区分、配置データ

8361-230831

2023/8/31 新今宮 高野線用に配置された8711編成2連を先頭にした区間急行

8310-8316-230831 2023/8/31 新今宮 高野線用4連 8310と8316

8364-230831 2023/8/31 新今宮 高野線用2連 8714編成

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2024年12月 9日 (月)

2023年晩夏の関西旅行 南海電鉄編 特急四国の後継として特急サザンで活躍する10000系 

関東の人間にはあまりなじみがないかと思いますが、大阪から四国方面との連絡ルートとして、大阪難波~和歌山市駅~和歌山港から南海フェリー徳島航路で徳島とを結ぶルートがあります。

1985年3月に小松島線が廃止されるまでは小松島港と和歌山港の間に鉄道連絡船があり、本州側の南海線を介した鉄道連絡ルートが本四連絡の主要ルートでした。1998年4月に神戸淡路鳴門自動車道が開通し、本四連絡の主要ルートは神戸市経由の陸路に移行しましたが、1999年4月以降は徳島港を経由した南海四国ラインは現在も健在で1995年1月の阪神・淡路大震災などで山陽新幹線や山陽本線が長期間不通になった際には四国と関西以東を結ぶ迂回ルートとして大きな役割を果たしました。

明石海峡大橋を含む神戸淡路鳴門自動車道は膨大な建設費が投じられたため通行料金が非常に高額なため、南海フェリーは貨物自動車(トラック輸送)やマイカー利用者に焦点を定め、利用客の増加に努めており、南海電鉄も各種割引切符を導入しており、グループを挙げてこのルートの集客に努力しています。

1899年、和歌山~小松島港間に航路が開設され、連絡列車運行されました。これが我が国における鉄道連絡船の先例のひとつとされています。1922年には難波駅~和歌山市駅間に喫茶室併設の固定編成電車電7系による急行列車が設定され「浪速号」・「和歌号」・「住吉号」・「濱寺号」・「大濱号」・「淡輪号」の愛称が与えられました。1930年には車両が電9号となり、所要時間が1時間となりました。1956年、和歌山港線和歌山市~和歌山港間が開通し、関西~四国間の最短ルートとなりました。1961年、難波ー和歌山市駅間の列車で和歌山~小松島航路に接続する列車を特急に昇格させ、「四国」の愛称が与えられました。1962年には四国連絡急行を特急「あわ」号に格上げ、高知連絡特急「とさ」号の新設などもあり、車両は1101系が充当されましたが、1968年10月1日のダイヤ改正でこれらはすべて特急「四国」に名称統合されました。1973年、架線電圧が1500Vに昇圧され、11001系後期製造車を更新改造した1000系が特急「四国」号に導入され、所要時間は55分となりました。1985年には特急「四国」号の後継として10000系特急「サザン」の運行が始まりました。

10000_20241208135301

10000系は2両編成10本が製造されましたが、その後、中間車8両の増備と先頭車6両の中間車化改造が行われ、1992年には4連7本体制となりました。2011年には10000系の後継車として12000系サザン・プレミアム」4連2本が導入され、10000系の2編成が2012年、2013年に廃車となりました。

10904-180323

2018/3/23 天下茶屋 10004編成 中間車は10001Fからの改造車のため側窓の高さが揃っています。

10906-101206 2010/12/6 浜寺公園 10006編成 こちらも中間車は10003編成改造のため側窓の高さは揃っています。既に廃車済み

10907-180323 2018/3/23 尾崎 10007編成 この編成の中間車は新造車のため、側窓の高さが違います。

10908-180323-2 2018/3/23 天下茶屋 10008編成 10007編成と同様です。

10910-230831 2023/8/31 新今宮 10010編成 今回の旅行で撮影した写真

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2024年12月 2日 (月)

中央快速線E233系にG車連結開始 7週で19編成に

10月13日に青梅・中央快速線E233系0番台にG車が連結され運用に入り、11月末で7週間が過ぎました。12連化された編成は前回のレポート後、新たにT37, H43, T42, T35, H54, H53の6本が追加となり、19本になりました。今回製造されたG車ユニットの総数が57組ですから、その1/3が運用に入ったことになります。
 前回のレポートではT22の運用入りまでを紹介しましたが、

E2330-t22-12r-241119-3 2024/11/19 東小金井 12連化されたT22編成

E2330-t37-10r-241101 2024/11/1 東小金井 10連時代のT37編成

11月18日月曜日には豊田車両センターでT37編成へのG車ユニット(-10)の組込が行われ、即日、71T運用に入っているのが目撃されています。この12両編成とは相性が良くないのか、私が撮影に出た日には運用に入っていないのか、未だに遭遇していません。

E2330-h43-12r-241129 2024/11/29 西国分寺 H43編成

11月12日に国立で見かけた回9590Mで幕張車両センターに向かったH43編成、同所で疎開中の-43G車ユニットを組み込み、11月18日に回9895Mで豊田に戻り、11月20日には75T1で運用に復帰したのが目撃されています。将来、57本の12両編成が組成された時、G車の番号と一般車の番号が一致する編成はこれ以外にもあるのでしょうか(笑)。

E2330-t42-12r-241130-3edit 2024/11/30 荻窪 T42編成

T71が追加製造されるまでは10両貫通編成のラストナンバーだったT42編成、11月24日に豊田車両センターにてG車ユニット(-11)を組み込み12連化されました。こちらも即日、43T運用に入っているのが目撃されています。

E2330-t35-12r-241130 2024/11/30 武蔵境 T35編成

T35編成は11月22日、国府津車両センターまで回送、同所にてG車ユニット(-29)を組み込み、11月26日,17Tに入っているのが目撃されています。

E2330-h54-10r-241112 2024/11/12 国立 今ではもう見られないH54編成の10連時代

H54編成は11月20日、幕張車両センターに回送、11月26日、同所でG車ユニット(-44)を組み込み、豊田に回送後、11月28日から01H運用に入るのが目撃されています。

E2330-h5312r-241130 2024/11/30 荻窪 H53編成

11月21日には最終出場の-57G車ユニットを組み込んで東海道貨物線で試運転を行ったH53編成ですが、伴走役のお役目は御免となったのか、-57G車ユニットを組み込んだ状態で営業運転に11月30日から入ったようです。

H47編成も11月27日に幕張に回送されており、近日中に運用復帰するものと思われます。

12月2日月曜日から5日まで熊本方面に旅行するため、今週はこの記事で終了し、12月9日から再開します。

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