« 2025年2月 | トップページ | 2025年4月 »

2025年3月31日 (月)

西武鉄道 4代目「L-train」として40152Fがデビュー

2025年3月28日、プロ野球2025年シーズンが開幕しました。

西武鉄道では埼玉西武ライオンズの応援のため、2010年から2013年には3000系3015F、2016年から2019年9000系9108F、2018年からは20000系、20104Fと20105FがL-trainとして活躍して来ました。今シーズンからは四代目として40152Fが新たに加わり、3月15日のダイヤ改正でデビューしました。3月13日付の西武鉄道ニュースリリースによれば「四代目のデビューで三代目は編成を減らして引き続き運行」とあり、3月21日には20105Fが武蔵丘検修場に入場が確認されているので、20105Fが通常塗装に戻り、今年度は20104Fと40152Fの二本体制になるのでしょうか。

3000-3016-120506-2 2012/5/6 練馬高野台 3000系 3015F 初代L-train

9000-9008-180312 2018/3/12 練馬高野台 9000系 9108F 二代目L-train  現在は4連化され、多摩湖線などで活躍中

20000-20004-180204 2018/2/4 秋津 20000系 20104F 三代目 L-train

20000-20105-230721 2023/7/21 小平  20000系 20105F  三代目 L-train

40000-40052-4ltrain-250328-3 40000-40152-4ltrain-250328-3 2025/3/28 西所沢 40000系 40152F 四代目 L-train

開幕戦は北海道日本ハムファイターズに三連敗のスタートとなりましたが、頑張って欲しいものです。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月28日 (金)

国内線の航空需要を満たすため導入されたANAのB747SR-81 13 JA8156

cn22709/ln541として製造、1981年9月21日N5573Bのテストレジにて初飛行、1981年12月17日にANAに引き渡されたのがJA8156でした。

同機は14機目のSR-81でした。就航当初は国内線専用機としてCF6-45A2エンジンにて飛んでいましたが、1991年頃から、国際線に就航可能なようにエンジンをCF6-50E2に換装、まずはJA8157の補佐役としてシドニー線スタンバイ機となり、1995年からは関西空港発着の香港線用機材、1996年からは名古屋空港発着のホノルル線専用機材としての活躍の場が与えられました。

1985年5月28日午前11時14分頃、乗客204名、乗員18名で東京羽田国際空港からのNH81便として那覇空港のRWY18にGCA方式で着陸しようとしたところ、主脚が接地し、リバース操作が行われた直後に左前方の誘導路から滑走路に進入直前の自衛隊機QM-22(航空自衛隊所属三菱式MU-2A型73-3222)を視認、直ちに右方向に回避操作を行い、同機は左側でQM-22と交差、その際に衝撃、あるいは衝撃音が無く、回避できたものと判断、客室乗務員からも客室内で異常がないことを確認、グランドコントロール(GND)と無線交信し、ターミナルビルに向かって地上滑走を続けました。
自衛隊機QM-22は救難訓練のため、機長、副操縦士、機上無線員、救難員の4名が乗り組み、11時08分06秒、那覇GNDの許可を得て駐機場から地上滑走を開始、気象情報によると視程が3kmで計器気象状態であったため、GNDに対し、特別有視界飛行方式での飛行許可を要求、このリクエストに対してGNDは誘導路E-2の停止線手前で停止の指示を出し、那覇タワー(TWR)へのコンタクトを指示しました。離陸準備の完了をTWRに告げ、特別有視界飛行方式での飛行許可を求めました。11時11分、管制の指示通り、E-2の停止線前で停止。TWRは沖縄アプローチ(APP)から特別有視界飛行方式の飛行の許可を受理、同許可を伝達するためQM-22を呼んだところ、応答はなく、24秒後に再度、呼びかけ、許可を発出。トランスポンダーコード番号の聞き取り等の不具合の確認等の後、離陸前点検が機長、副操縦士間で行われ、滑走路に向かって地上滑走が開始されました(停止が解除されていない、離陸許可だ出ていないにもかかわらず)
QM-22の副操縦士によれば、滑走路の中心線に向かって地上滑走中、突然、右主翼端から押されるような衝撃を受け、機体が左右に揺れ、同時に頭上を航空機が前方に通過していったとのこと。接触は11時14分頃のことでその旨をTWRに連絡しました。

機体の損傷
JA8156は小破、No1エンジンカウリングの下面損傷、ドレーンマストの一部欠損
MU-22は中破、右主翼端燃料タンク中央上部の破損、及び擦過傷痕、右主翼上部蓋板の破損

この事故の報告書はこちらから入手可能です(報告書(PDF)公表)

正にこの事故、2024年1月2日の羽田空港での海保機とJAL機の衝突事故とよく似た事故だったことがわかります。NH81便が自衛隊機を視認し、回避できたことで衝突による被害を小さくできたことがわかります。

1985年10月25日に公表された航空事故調査委員会(2008年10月からJTSB運輸安全委員会)の報告書では自衛隊機の機長、副操縦士が離陸許可を得たものと相互に錯誤し、滑走路に進入させたのが原因としています。

Ja8156-ana-b747sr81-cn22709-ln541 撮影時期不詳 HND

Ja8156-ana-b747sr81-cn22709-ln541-980102 1998/1/2 HND

Ja8156-ana-b747sr81-cn22709-ln5_20250327101701 1998/1/2 HND

2004年8月、ANAを退役後、N233BAにリレジされ、Boeing Aircraft Holding Companyが管理しますが、2005年2月には解体されています。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月27日 (木)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その10 1950年代初頭、ジャガーの隆盛

ジャガー(Jaguar) といえば往年の英国の高級車メーカーでした。

ウィリアム・ライオンズとその友人、ウィリアム・ウォームズレイ1922年に創業したスワロー・サイドカー・カンパニーが嚆矢で、最初はバイクのサイドカーを製作していましたが、1926年には工場を移転、コーチワーク、コーチビルダーとして自動車のボディの製造を手掛けるようになりました。1927年、当時の大衆車オースチン・セブンのシャーシにアルミ製のボディを換装したオースチン・セブン・スワローを発表、さらにそのサルーン版にデュオ・トーンとしてツートンカラーにしたバージョンを発表、それがヒットし、1928年社名をスワロー・コーチビルディング・カンパニーに変更、コヴェントリーに移転しました。

1933年、専用設計のシャシーを持つSS1,SS2を発売、社名をSSカーズとし、ヒットさせますが元のエンジンが凡庸であったため、外見は高級車のベントレーを彷彿させるも性能が凡庸だと批判を受けました。その評価を打開するため1935年、ボディのみならず、エンジン、シャシーもすべて専用設計のSS・ジャガー2½、さらに大排気量エンジンを搭載したスポーツタイプのSS・ジャガー90SSジャガー100を発表しました。
これらのタイプは優れたスタイリングと豪奢な内装、強化されたエンジンと量産効果によるコストダウンで1500ポンドのベントレーに比肩する高級車が400ポンドで販売されたこともあり、大ヒットとなりました。ただ、ライオンズのこうした戦略に対してウォームズレイは事業拡大に反対し、離れてゆきました。

第二次世界大戦中、コヴェントリーはナチスドイツ空軍の激しい爆撃にさらされ、1940年1941年の爆撃で甚大な被害を受けました。戦後、SSカーズ、SSジャガーの、ナチス・ヒトラー親衛隊のSSと重なることから1945年に。社名はジャガー・カーズ、ブランド名はジャガーと変更されました。

Dsc02845_20250326132601 ジャガーXK120
1951年 SSジャガー100の後継モデルとして投入 1948年から1954年まで生産 殆どがアメリカに輸出され、英国にとって貴重な外貨獲得に貢献
全長4385㎜、全幅1580㎜、全高1300㎜、重量1289㎏、ホイールベース2585㎜ 水冷直列6気筒DOHC3422ccエンジン搭載 最高出力119kW/160HP/5000rpm 

1948年に発表されたスポーツカーXK120はエンジン形式XKと公称最高速度120MPHを意味しており、美しいボディスタイルと高性能、さらに低価格でセンセーションを巻き起こし、ジャガーの名を国際的に有名にした名車となりました。1950年代にはレーシングカーの開発に乗り出し、ルマン24時間耐久レースではイタリアのフェラーリ、マセラティ、ドイツのメルセデス・ベンツ、ポルシェを圧倒し、3連覇を果たし、名声を確固たるものにしました。

その後、1966年7月に、イギリス最大の民族資本系自動車会社グループである「ブリティッシュ・モーター・コーポレーション」(BMC)との合併を行い「ブリティッシュ・モーター・ホールディングス」(BMH)を結成しました。しかし、労働争議の頻発などから品質低下に陥り、販売台数の低下、さらにオイルショックの影響で1975年8月には国営化されました。1984年、サッチャー政権時の民営化政策で民営化、体質改善がなされ、再び活気を取り戻すこともありましたが、1989年にはフォード傘下に、そのフォードグループも2000年以降、経営不振に陥り、2014年にはインドのタタ・モータースに売却されてしまいました。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月26日 (水)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その9 1950年代初頭、アメ車のニューモデル

第二次世界大戦が終了し、日本が連合軍によって占領されていた1945年8月から1951年4月までの間、アメリカでは続々とニューモデルと言われる車が登場しました。その先駆けとなったのが3月20日記事で紹介したキャデラックのフリートウッド60スペシャルでしたが、その特徴はテールフィンでした。


Dsc02831_20250325091401  
1949年式のスチュードベーカーコマンダーはテールフィンこそありませんが、たばこのピースやラッキーストライクの箱のデザインを担当したレーモンド・ローウェイによるスタイリングで横から見るとどちらが前かわからないと言われつつも斬新なスタイルで人気を博しました。
全長5151㎜、全幅1787㎜、全高1605㎜ 重量1463㎏、ホイールベース3030㎜、水冷直列6気筒SV 2456ccエンジン


Dsc02833_20250325092301

ビックスリーのひとつであるフォードもカスタム4ドアセダンを1949年に登場させました。こちらもフラッシュサイドの流れるような斬新なデザインが話題となり、トヨペットクラウンRSなどのスタイルにも影響を及ぼしました。
全長5005㎜、全幅1860㎜、全高1620㎜、重量1448㎏、ホイールベース2885㎜、水冷V型8気筒3927㏄エンジン、最高出力75kW/100HP/3600rpm

Dsc02853


カイザー フレイザーヘンリーJ


第二次世界大戦後誕生した自動車メーカー カイザーフレイザー社が「デザインに優れ、乗り心地が良く、今まで新車を諦めていた生活者層でも購買可能な経済的な自動車を作りたい」という熱意の下に1951年に世に出した5人乗り2ドア小型セダン。

全長4455㎜、全幅1792㎜、全高1580㎜、重量1062㎏、ホイールベース2537㎜ エンジンはウィリス・オーバーランド社製水冷直列6気筒2651cc、最高出力59kW/80HP/3800rpm

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム


最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月25日 (火)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その8 かつては乗用車メーカー、今は路面電車のメーカーとして知られるチェコのタトラ

1850年、チェコ人の実業家、イグナーツ・シュスダラが馬車メーカーネッセルドルフ車両製造会社(Nesseldorf Wagenbau Fabriks Gesellschaft)として創業したのが今日もチェコの路面電車メーカーとして世界に名を馳せているタトラです。タトラという名称は旧チェコスロバキアの最高峰である現在、スロバキアに聳えるタトラ山脈に因んだもので、日本のメーカーが「富士」という名称を使うのと似ているのかと思います。

1881年に鉄道分野に進出し、客車を製造、1897年には自動車を製造し始め、ネッセルドルフ車両製造工業会社(Nesselsdorfer Wagenbau-Fabriks-Gesellschaft)と改称、チェコスロバキア国が成立した時にはチェコ語地名に合わせてコプジブニツェ輸送機器株式会社(Kopřivnica vozovka, a.s.)に改称しました。

タトラブランドで生産された自動車は1920年代から1930年代にかけ国際的に高い評価を受け成功をおさめました。1927年タトラ工業株式会社(Zavody Tatra, a.s.)に改称。のちチェコの財閥で、鉄道車両、エレベーターの製造工場やビール醸造所などを経営するリングホッフェル家の傘下に入り、1935年にプラハ・スミホーフに鉄道工場を持つリングホッフェル工業株式会社(a.s. Ringhofferovy závody)と合併してリングホッフェル・タトラ株式会社(Ringhoffer-Tatra, a.s.)となり、本社をプラハに移しました。この間に自動車のみならず、鉄道車両、航空機の製造を本格的に手がけました。

1939年、ナチスがチェコスロバキアに侵攻するとドイツの軍需工場体制に組み込まれ、終戦後は社長らリングホッフェル家はナチス協力者として追放され、1945年10月の主要重工業国営化でタトラ国営会社となり、社会主義計画経済化では乗用車の生産は中止され、トラック、バス、鉄道車両の製造に特化しましたが、1955年に乗用車生産を再開、当時チェコスロバキアでは大衆車メーカーAZNP社(現、シュコダ・オート社)が台頭していたため、高級車メーカーとして公用車向けの大型車を製造しました。この頃、路面電車のタトラカーが共産圏各国に広く輸出されていました。

1989年、ベルリンの壁崩壊に続く東西冷戦からの体制変革で、1992年には民営化されタトラ株式会社(Tatra a.s.)となりましたが西側の自動車メーカーとの競争にさらされ、主要な市場を失い急速に経営が悪化、乗用車の生産は打ち切り、軍用車の発注でなんとか食いつなぎ、2009年の世界金融危機でも経営危機に陥り、軍用車の生産で生き延びている状況のようです。

小さいころから世界の自動車などの絵本でチェコスロバキアのタトラ社の車は実にユニークなスタイルをしているなと思っていましたが、トヨタ博物館でタトラ87を間近で見て、その思いが蘇りました。

Dsc02875_20250324120401 Dsc02877_20250324120401 1948年式 タトラ87

1934年に登場したタトラ77に続くモデルで涙滴形流線型ボディを採用、空冷V型8気筒OHC2969㏄のリアエンジン、リア駆動
全長4740㎜、全幅1670㎜、全高1500㎜、重量1370㎏、ホイールベース2850㎜、最高出力63kW/85PS/3500rpm

6038-m4-090418-alexanderplatz 2009/4/18 Alexanderplatz Berlin
旧東ドイツ時代にタトラKT4DMとして導入された東西統一後もベルリントラムとして活躍、2021年に営業運転を終了

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月24日 (月)

西武鉄道 2000N系 4連 2527F 横瀬基地に廃車回送

昨年秋からの半年間は中央線のG車連結の件でJR線の方ばかりに意識が集中しており、西武鉄道の方の変化はあまり見ていませんでしたが、池袋線では40000系8連の48152F,48153Fが営業運転を開始、2025年版Lトレインとしてこれまでの20000系に代わり、40000系の40152Fにラッピングが施されデビュー、そして今年5月末から国分寺線に投入される元小田急8000形8000系8103Fが池袋線、新宿線、国分寺線などで試運転開始などといったニュースがありました。
そんな中、新宿線で長らく活躍してきた2000N系4連2527F3月18日、任を解かれ横瀬基地に廃車回送されました。

2000系第7次車として4連2509F~2529F、2連2453F、6連2045F(竣工時は2055F)、2053F、8連2057Fなど66両のうちの1編成として1988年11月10日、東急車輛製造にて竣工しています。2525Fと同日の竣工でした。

減パン工事を1992年12月7日に、MGは,CPの換装工事を2005年9月29日に受けています。更新修繕は受けていません。

2000n-4-2628-160613 2016/6/13 井荻 6連との併結で新宿線急行運用に


2000n-4-2527-170304


2017/3/4 東村山 4連単独で西武園線運用に

2000n-4-2628-200531 2020/5/31 小平 4連との併結で新宿線各停運用に

2000N系 4連の廃車は2023年11月の2529F以来、1年4か月ぶりです。

2000N系4連の廃車に関して

2501F 2022/7廃車
2503F 2022/6廃車
2505F 2022/12廃車
2509F 2023/6廃車
2511F 2023/3廃車
2513F 2023/7廃車
2515F 2023/3廃車
2519F 2022/2廃車
2521F  2022/3廃車
2525F  2025/3廃車
2529F  2023/11 廃車



にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム


最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月21日 (金)

国内線の航空需要を満たすため導入されたANAのB747SR-81 12 JA8153

cn22595/ln516として製造、1981年3月29日に初飛行、13機目のSR-81として同年5月28日にANAに引き渡された機体がJA8153でした。エンジンはGE CF6-45A2でしたが、ANAのB747SRは全機CF-45A2で引き渡され、JA8156,JA8157は長距離国際線チャーター用に-50E2に、同じくJA8158は貨物機にコンバートされた後にー50E2にパフォーマンスアップされました。

元々、GEのCF6エンジンはアメリカ空軍のC-5輸送機用に開発されたTF39ターボファンエンジンで、それを民間用に転用したものでした。最初にCF6エンジンを搭載した民間旅客機はDC-10でした。DC-10に搭載されたタイプはCF6-6で最大離陸重量時の静止推力は40,000 lbf (178 kN)。次にエアバスA300に採用されたのが推力が46,000–54,000 lbf (205–240 kN)のCF6-50で、エールフランスがローンチカスタマーとなって製造され、続いてKLMがB747-200BのエンジンにCF6-50に選択しました。これに続いたのがANAのSRシリーズで推力を若干落としたCF6-45としました。言うなればCF6-45A2というタイプはANAのB747SR用に-50をモディファイしたタイプだったのですね。
さらなる発展形がCF6-80シリーズで推力は48,000–75,000 lbf (214–334 kN)となりました。このタイプはB767エアバスA310に採用され、エアバスA310はETOPSに認定されました。CF6-80には-80A-80C2-80E1の3つのタイプがあり、-80AはB767-200、A310-200に、-80C2はA300-600, A310-200/300、B767-200/200ER、B767-300/300ER、B767-400ER、B747-300、B747-400/400ER、MD-11に、-80E1はA330-200/300等に搭載されました。

Ja8153-ana-b747sr81-cn22595-ln516-971026 1997/10/26 HND

JA8153はANAで23年半務めた2004年11月N245BAとリレジされ退役し、再就職することなく解体されています。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月20日 (木)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その7 先進技術を積極的に導入したキャデラック車

華々しく登場したものの、売れ行きは芳しくなかったエアフローシリーズ登場から遡ること3年の1931年、GMの高級車ブランドであるキャデラックはV型16気筒、165馬力、7.4リッターエンジン搭載のシリーズ452Aを発売しています。V型16気筒エンジンと言えば元々はディーゼル機関用のエンジンで船舶、航空機、鉄道車両用がメインでしたがキャデラックは高級車市場向けに開発、シリーズ452Aに搭載しました。年間500台程度の生産でした。


Dsc02882


キャデラック シリーズ452A


ヒトラーのドイツでフェルディナント・ポルシェらが国民車の実現に立ち向かっていた1938年、アメリカでは実用性を考慮した流線形モデルの車としてキャデラックシリーズ60スペシャルを発売しました。ランニングボードを廃し、トランクルームが設置され、現代のスリーボックスセダンの原型となりました。また変速レバーをコラムシフトとしたのもこの車が最初でした。全長5264㎜、全幅1978㎜、全高1679㎜、重量1948㎏、ホイールベース3226㎜、水冷8気筒L-頭型5670㏄エンジンを搭載,101kW/135HP/3400rpmでした。


Dsc02871


キャデラックシリーズ60スペシャル


1945年、第二次世界大戦が連合国の勝利で終結した後、戦争で疲弊した工場体制の立て直しの間、自動車の方も戦前型のマイナーチェンジでお茶を濁していましたが、1948年、GMの高級車ブランドであるキャデラックは曲面ガラスを使用し、双胴の戦闘機ロッキードP-38の尾翼をモチーフにしたテールフィンなどの先進的なデザインの「キャデラックフリートウッド60スペシャル」を世に出しました。全長5740㎜、全幅2004㎜、全高1613mm、重量1976㎏、ホイールベース3378mm、水冷V型8気筒、総排気量5676ccのエンジンを搭載、最高出力は112kW/150HP/3600rpmでした。このクルマのスタイルは当時、非常に先進的で日本のメーカーもトヨペットクラウン、プリンススカイラインなどが似たようなスタイルとなりました。

Dsc02857_20250319083201 キャデラックフリートウッド60スペシャル

キャデラックは先進技術を積極的に取り入れるのが特徴で、1912年発売のモデル サーティではセルフスタータを最初に取り入れ、1931年発売のシリーズ452Aでは量産型V型8気筒やV型16気筒エンジンを搭載、変速機ではシンクロメッシュ・ギアボックスの導入、サスペンションではダブルウイッシュボーン式前輪独立懸架の実用化、パワーステアリング、自動調光式ヘッドランプの採用、エアー・コンデショナーの設置などで他車に先掛け、乗用車に技術革新に大きく貢献しています。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム


最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月19日 (水)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その6 歓喜力行団の車(KdF-Wagen) ~総生産台数2000万台を超えたVW Type1

ドイツの自動車設計者フェルディナント・ポルシェはダイムラー・ベンツ出身の自動車技術者で1931年に退社後はシュトゥットガルトに自身の経営する「ポルシェ設計事務所」を構えていました。彼は1920年代以来、「高性能レーシングカー」「農業用トラクター」「優秀な小型大衆車」を将来開発したいと考えていました。1932年にはツェンダップ1933年にはNSUといった自動車メーカーと提携し、後のフォルクスワーゲンの原型というべきリアエンジン方式の小型車の開発に取り組んでいましたが、企画段階もしくは試作車段階で予算不足、不景気、提携メーカーの弱腰などで計画は頓挫していました。

1933年国会社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を取り、党首アドルフ・ヒトラーがドイツ首相になるとベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と国民車構想を打ち出しました。特に当時、自動車は高価であり、個人が自動車を所有するという政策はナチ党の支持率をあげるのに絶好の政策でした。ヒトラーはこの国民車の設計をポルシェに依頼しました。

ナチ党の中に歓喜力行団(Kraft durch Freude:KdF)という組織がロベルト・ライの率いるドイツ労働戦線(DAF)の下に設けられ、旅行・スポーツ・コンサート・祝祭典などを企画しました。活動鵜の目的はナチ党の理想を行き渡らせ、政権へのドイツ人の忠誠心を高めることでした。ヒトラーの国民車も「歓喜力行団の車:KdF-Wagen」と名付けられました。ニーダーザクセン州に「歓喜力行団の車を生産する街」(Stadt des KdF-Wagens、KdF-Stadt)が設けられ、工場や労働者住宅が建てられました。戦後はヴォルフスブルクに改名され、フォルクスワーゲン・グループの本部が置かれています。

Dsc02822

Dsc02823_20250318092801
自ら運転はしないものの、自動車好きだったヒトラーが課した国民車の条件は
・頑丈で長期間修理を必要とせず、維持費が低廉なこと
・大人2人と子供3人の乗車が可能なこと
・連続重高速度100いじょうkm/h以上
・14.3km/l以上の燃費性能を持つこと(7リッターで100km走れること)
・空冷エンジンの採用
・流線形車体の採用  を満たし、1000マルク以下で購入可能なことでした。

当時、1000㏄級4人乗り小型車で大量生産による低価格化を実現したオペルP4ですら1450マルクに抑えるのが精いっぱいであったことからも条件を満たし、かつ1000マルクにおさまる自動車の開発は極めて難題でした。

ポルシェは開発期間中にアメリカを訪問し、自動車大量生産の祖といえるヘンリー・フォードとも面会し、大量生産技術について相談しています。ヘンリー・フォードも反ユダヤ主義者でナチスの思想に共感を占め示していますが、自動車技術に関しては保守的で国民車の設計思想に関してはさほど理解は示さなかったようです。

契約が結ばれて1年後の1935年、プロトタイプ2台(V1,V2)が完成、1936年には3台(V3))、1937年には30台のプロトタイプがダイムラー・ベンツで制作されました。ナチス親衛隊の免許保持者から選ばれたドライバーにより試験が行われ、プロトタイプの弱点が洗い出され、強化されました。1938年、フォルクスワーゲンのスタイルが確立、5月にはKdF-Stadtの工場の定礎、1939年までに35台が製造、プレス金型を使用した最終プロトタイプVW39が14台が製造されましたが、9月1日のポーランド侵攻で戦時一色となり、国民車構想は頓挫してしまいました。

歓喜力行団は労働者向けに、「歓喜力行団の車」を購入するための特別貯蓄制度を設けました。「毎週5マルクを貯めて自家用車を手に入れよう」という積立制度でしたが、第二次世界大戦の勃発、ドイツの敗戦でKdFは解体したため、納車は出来ませんでした。戦後、訴訟までに発展しましたが、新たに創業したフォルクスワーゲン社が積立金を払った人々に対し、大幅な割引価格でフォルクスワーゲンタイプ1が販売されることで和解に至りました。

ちなみにKdF-Wagenの工場、体制は戦後、ドイツの自動車メーカーの工場が連合国の収奪の対象になる中、あまりに先進的であったためか、その価値がわからず放置されたそうです。工場の管理を担当したイギリス軍将校アイヴァン・ハーストはドイツ人労働者の協力的な態度とフォルクスワーゲン車の内容に将来性を感じ、手段を尽くして工場を修復させ、自動車生産を再開させることを目論み、1945年には1785台の生産が始められ、1947年にはオランダへの輸出が始まり、1949年にはアメリカにも進出しました。1955年には累計生産台数100万台突破、1964年には累計生産台数1000万台を超え、1972年2月17日、累計生産台数が1,500万7,034台に到達し、フォード・モデルTの記録を抜くに至りました。フォルクスワーゲン社ではかなり前から後継者の開発を手掛けていましたが、1970年代ゴルフがようやく軌道に乗り、1978年に本国での製造が終了しました。その後、メキシコやブラジルで生産が続けられましたが、2003年7月30日、メキシコ工場でタイプ1の最終車両が完成、総生産台数約2153万台を達成して生産終了となりました。基本的な設計を変えずに2000万台以上を生産した四輪乗用車は、他に存在しません。

Dsc02915

わが国では、ビートル(Beetle)という愛称が一般的ですが、ドイツ留学中はドイツ人はケーファー(Käfer)と呼んでいるのをよく耳にしました。意味はカナブンやカブトムシのような甲虫類です。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月18日 (火)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その5 流線形スタイル全盛時代へ

1925年、今からちょうど100年前にパリで開催されたパリ万博は「アール・デコ博覧会」と言われ、19世紀の産業革命以来、大量生産されるようになった工業製品に適した機能美を追求する博覧会になりました。アメリカは1823年に第5代大統領ジェームズ・モンローが唱えた「モンロー主義」の精神によってかこの万博には不参加でしたが、博覧会後アールデコ調の製品が大量に流れ込み、この潮流に飲み込まれてゆきました。

アール・デコを大規模工業生産に適合させ大衆化したのが工業デザイン(インダストリアルデザイン)でアメリカにて誕生しました。1909年にはstreamlinedという言葉が登場し、1910年代から1920年代には未来の交通機関は空気抵抗の軽減のため流線形になるだろうという予測が出され、1934年クライスラーとデソート(クライスラーが北米で展開したブランド)が当時として画期的な流線形スタイルの「エアフローシリーズSE」を発表しました。

Dsc02812_20250317093101 デソート エアフローシリーズ SE

全長4918㎜、全幅1835㎜ 全高1710㎜ 重量 1640㎏ ホイールベース 2934㎜ 水冷直列6気筒L-頭型エンジン 総排気量 3956㏄
最高出力 75kW/100HP/3400rpm 前車軸上に置かれたエンジン、モノコックに近いボディなど革新的要素に満ちた車でした。

クライスラーのエンジニア カール・ブリアーとウイリアム・アーンショーがライト兄弟の弟、オーヴィル・ライトから空気力学について学び、風洞実験の結果、空気抵抗を受けない車体の形態について出した「トライフォン・スペシャル」と名付けられたプロトタイプを量産化したモデルでクライスラーは8気筒エンジン、デソートは6気筒エンジンを搭載し、1934年に発売しました。当時のアメリカ経済は1929年世界恐慌からまだ完全に回復しておらず、フランクリン・ルーズベルト大統領は不況脱出の切り札としてニューデール政策を掲げ、公共事業として全米高速道路網の整備に力を入れていました。新しい道路に適応する広く快適な車内空間、安全で強力な長距離移動が可能な車として製造されたのがエアフローシリーズでした。ただ、スタイルがあまりにも急進的でありすぎたことなどから市場には受け入れられず、商業的には成功しませんでしたが、エアフローシリーズにおける挑戦は以降のアメリカ自動車業界の発展につながりました。

エアフローシリーズ登場から遡ること3年の1931年、キャデラックはV16、165馬力、7.4リッターエンジン搭載のシリーズ452Aを発売しています。写真は撮っていませんでしたが、V型16気筒エンジンと言えば元々はディーゼル機関用のエンジンで船舶、航空機、鉄道車両用がメインでしたがキャデラックは高級車市場向けに開発、シリーズ452Aに搭載しました。年間500台程度の生産でした。

Dsc02816 フィアット トッポリーノ

一方、ヨーロッパ車でも流線形スタイルの車は続々と登場し、イタリアではフィアット1936年トッポリーノ」の愛称の小型車を出しています(小学校の頃、人気があったトッポ・ジージョを彷彿させますが、イタリア語でトッポはネズミを意味します)。569ccのエンジンを搭載した小型車で大型車のスケールダウンではなく、元々小型車として設計された点がユニークでした。全長3215㎜、全幅1275㎜、全高1377㎜、重量507㎏、ホイールベース2000㎜、最高出力10kW/13HP/4000rpmでした。

Dsc02818 プジョー402

フランスのプジョーも1938年、エアフローシリーズによく似た402を出しました。ヨーロッパ車としては初の流線形ボディで前照灯がエンジングリルの中にしまい込まれている点がユニークで、それまではあったサイドステップが無くなり、ボディの幅が広くなっているのも特徴でした。全長4850㎜、全幅1640㎜、全高1580㎜、重量1194㎏、ホイールベース3150㎜、水冷4気筒OHV、1991cc、最高出力40kW/55PS/4000rpmでした。

1933年、ドイツではナチスを率いるヒトラーが政権を取り、1939年のポーランド電撃侵攻に向けて第二次世界大戦への動きが加速してゆきますが、100年後の今、同じような流れが起きないことを願うばかりです。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月17日 (月)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その4 フォード・モデルTと同時代、さらにその後継世代の車たち

フォード・モデルT(日本ではT型フォード)が自動車業界を席捲していた20世紀の初めの自動車のスタイルと言えば直方体の車体の4隅にフェンダーと車輪が付き、前後のフェンダーを結ぶ形でステップが車体の外側に取り付けられ、客室部はフロントグラスと側面ガラスに囲まれたスタイルでした。車輪は殆ど、スポークタイプでスペアタイヤをサイドフロント、もしくはリアに搭載していました。タイヤも初期は自転車サイズ、そしてリアカーサイズと徐々に太くなってゆきました。

Dsc02785

Dsc02787_20250316091201キャデラック モデル サーティ

この頃の多くの車のエンジンは前方からクランク棒をエンジン部に差し込んでクランクシャフトを回転させ、起動させるる方式でした。エンジンスタートに関しては圧縮空気を利用する方式、強いスプリングによる方式など様々方式が試されたようですが、なかなかうまくゆかず、今日のようなセルモータによる方式を初めて実用化したのは1912年に登場したキャデラック モデル サーティー(Cadillac Model Thirty)でした。全長4083㎜、全幅1860㎜、全高2286㎜、重量1568㎏、ホイールベース2940mm、水冷式直列4気筒L-頭型エンジンを搭載し、スタイルはオーソドックスでしたが、手回しハンドルによる起動から解放し、ヘッドライトも電気式になりました。

Dsc02788_20250316093301 フォード モデルA

1927年、フォードがモデルTから撤退し、ヘンリーの息子、エドセルが1928年、世に出した後継者はモデルAでした。設計はすべてを新しくなり、ギアシフト方式は3段トランスミッション、ブレーキも4輪方式になりました。スタイルはリンカーンに習った上級モデルとなりました、全長3851㎜、全幅1673㎜、全高1825㎜、重量1000㎏、ホイールベース2628㎜、水冷式直列4気筒L-頭型エンジンを搭載、総排気量3286㏄、最高主力30kW/40HP/2200rpmでした。尚、フォードは1925年に横浜に工場をつくり、まずモデルTと組み立て、続いてモデルAの組み立てを行いました。車両は当時、円タクと呼ばれたタクシーに使用されました、

Dsc02802ダット社製 ダットサン11型フェートン 全長2743㎜、全幅1197㎜、全高1556㎜ 重量444㎏ ホイールベース1890㎜ 水冷直列4気筒L-頭型エンジン
総排気量772㏄ 最高出力9kw/12HP/3000rpm 3速MT

日本初の1914年から自動車(主に大型トラック)の製造を行っていたダット自動車製造(快進社自動車工場、ダットは当初は脱兎から1930年の省令で排気量500cc未満の車は運転免許証が不要で自動車税も安くなるということでこの市場向けに495㏄の小型車として製造したのがダットサン・11型でした。ダットサンはトラックや普通自動車と区別するためにダットの息子(Son of DAT)という意味で付けたものでした。

総数150台がダット自動車で製造され、1933年東京石川島自動車製造所と合併し、自動車工業株式会社(いすゞ自動車の前身)となり、小型車部門とダットサンの商標は戸畑鋳物および日本産業株式会社の共同で設立された自動車製造株式会社(後の日産自動車)に継承され、製造が続けられました。

後にDATSUNとなり、日産がダットサンの製造権を獲得し、小型車ブランド名になりました。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月14日 (金)

国内線の航空需要を満たすため導入されたANAのB747SR-81 11 JA8152

cn22594/ln511として製造、1981年2月18日初飛行、2月27日にANAに引き渡されたのがJA8152です。12機目のSR-81でした。JA8133以来、ANAのB747SR-81は同一の仕様で引き渡されてきましたが、JA8153までは最後までGE製のCF6-45A2エンジンを搭載したタイプでした。

Ja8152-ana-b747sr81-cn22594-ln511-960504
1996/5/4 HND


Ja8152-ana-b747sr81-cn22594-ln511-961013


1996/10/13 HND

2004年9月28日に退役後、N238BAのレジでストアされますが、その後、新たな職に就くことはなく解体されました。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム


最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月13日 (木)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その3 マス・プロダクションによるフォード・モデルTの登場から衰退へ

昨日の記事にあるようにヘンリー・フォードは最初、デトロイト・オートモービル社(後のキャディラック社)の主任設計者でした。1903年に独立し、フォード・モータース社を設立し、デトロイトにピケット工場を開設しました。

開設当初製作していたのは車体中央部に2気筒エンジンを搭載し、チェーンで後輪を駆動する「バギー」と呼ばれる小型車でした。日本でも本田宗一郎が開発したホンダS360スポーツの駆動方式がチェーンドライブだった点を思い出します。バギーはモデルA1903年)、モデルC1904年、モデルF1905年)と進化してゆきましたが、1905年、本格的な直列4気筒FRドライブ方式のモデルB、さらに1906年には6気筒エンジン40HPの高級車モデルKを開発しますが、ヘンリーの主目的は小型大衆車でした。

1906年、バギーのモデルFの後継として4気筒17HPのモデルNを500ドルで販売、さらに派生型のモデルRモデルSも販売し、大ヒットとなります。それまで2気筒12HPのモデルFを1000ドルで販売していたのが500ドルにできたのは流れ作業方式の導入による量産効果のためでした。

Dsc02775
Dsc02777 Dsc02778
フォード モデルTツーリング 1909年に発売されたタイプで全長3318㎜、全幅1687㎜、全高2188㎜ 鵜雨量660㎏ ホイールベース2540㎜ 水冷直列4気筒2896㏄ エンジン搭載 最高出力15kW /20HP/1600rpm 初期の典型的モデルでした。1912年以降のモデルは生産性を高めるため、ボディカラーは黒エナメル1色となりました。これは乾きが一番早かったからと言われています。

次に製造するモデルTでは量産効果を高めるために部品互換を徹底し、個別部品の加工精度の向上、規格化が図られ、バナジウム鋼を多用し、高速切削加工を進め、生産性の向上と軽量化を図ることにしました。さらに開発作業は限られた人数で極秘のうちに進められました。1907年10月に最初の2台のプロトタイプが完成、1908年3月に発表、市販は10月から開始されました。価格は850ドルに設定され当初の計画より高めでしたが、当時の同クラスの車が1000ドルを超える中、非常な好評で迎えられ、1909年4月には3か月分のバックオーダーを抱えることとなり、7月まで受注を停止、1909年1年間で1万台を超えるモデルTが生産されることとなりました。限られた工場スペースにおいて生産効率を上げるための「フォード・システム」と呼ばれる流れ作業体制もモデルTの製造過程で確立してゆきました。製造当初、1台あたり14時間要した組み立て時間が1914年4月には1時間33分にまで短縮されたといいます。また信頼性を上げるために補修部品のストックを全米各地のデポに置き、アフターサービスの充実も図りました。
1911年にはイギリスでも生産が始まり、年間生産台数は1923年に205万5300台以上とピークに達しました。その後、減少はしましたが生産終了前年の1926年ですら163万台生産され、アメリカで生産される車の半分以上がモデルTでした。総生産台数は1500万7033台で4輪自動車でこの記録を凌いだのは2100万台以上製造されたフォルクスワーゲン・タイプ1のみでした。

ヘンリーはモデルTの革新、改良には無関心で、代替モデルを開発する必要は全くないと信じ込んでいました。しかし、1920年代になると道路は舗装され、車の性能は向上し、高性能な車は6気筒、8気筒、12気筒と多気筒エンジンを積むようになり、最高速度もアップしてゆきました。さらに装備品も充実し、クローズドボディが主流になってゆくと、エンジンのパワーが車の重量に適応できなくなり、モデルTの鈍足性が問題になり始めました。ボディカラーも黒塗り一色、デザイン面でも魅力を欠くようになり、GMのシボレーなどはモデルTよりも低重心で高級車をイメージするスタイリングのシリーズ490などを発売し、ユーザーを引き付けるようになりました。

Dsc02762_20250312105401 Dsc02764_20250312105401 GMがフォード・モデルTに対抗して1915年に送り出した シボレーシリーズ490
モデルTは遊星ギアを用いた独特の変速システム(前進2段、後進1段)を採用していましたが、こちらは一般的な3段ギアボックスとし、エンジンはOHVとしました。全長3507㎜、全幅1796㎜、全高2020㎜、重量847㎏、ホイールベース2591mm、水冷直列4気筒OHV、最高出力19kW/26HP/1800rpm
490は販売価格490ドルによるものです。

GMは販売戦略として割賦販売を取り入れ、モデルチェンジを頻繁に行い、ユーザーの魅力を引き付ける手法を駆使に1920年代後半にはフォードを抜いてトップに躍り出ました。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月12日 (水)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その2 黎明期の蒸気自動車、ガソリン車

世界最初の自動車はフランスにおいて陸軍砲兵部隊の大砲の牽引のため、陸軍大臣エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズールが軍事技術者、ニコラ=ジョゼフ・キュニョーに命じ、それまでの馬に代わって蒸気機関を搭載した砲車として1769年1770年に2台製作された三輪蒸気自動車、俗に言うキュノーの砲車(写真はこちら)と子供の頃、絵本で学んだ覚えがあります。

1号車は1/2サイズの試作、2号車が実物大で全長7mを超える大型運搬車でしたが、試走時に事故で破損、以降、ショワズールの失脚などで顧みられることもなく倉庫で30年間保管、ナポレオン時代の1801年に新設されたアカデミーの博物館(コンセルバトワール)に移設、保管展示され、その後はパリ工芸博物館 (Musée des Arts et Métiers)に移され現在に至っているようです。

車両仕様

全長: 7.25 m
全幅: 2.19 m (2.3 m)
ホイールベース: 3.08 m
駆動輪(前輪): 直径1.23 m 、幅0.19m 木製車輪に鉄タイヤ
後輪直径: 前輪よりも大径、鉄製
後輪間隔: 1.75m
車輌空重量: 2.8トン
積載時重量: 約8トン(車両+荷+乗員4名)
時速: 9.5km
ボディとフレーム: フレームや車輪はオーク材。車輪には周囲に鉄タイヤ。
エンジン部
ボイラー直径: 1.5 m
ボイラー高: 0.98 m
火室直径: 1 m
火室高: 0.30 m
エンジン: 自然圧を利用した蒸気エンジン直列2気筒
ボア: 325 mm
ストローク: 378 mm
ピストン高: 45mm
排気量: 67.72リッター(50L、47L、40Lとの記述もある)
燃料: 木(液体燃料との記述がされているものもある)
パワートレーン・トランスミッション:コネクティングロッド、チェーン、クランク、ラチェットでの伝達による前輪駆動。リバース(後退)も装備。

しかし、このクルマに関してはトヨタ博物館では触れられていなかったように思います。

 

Dsc02753 Dsc02751
それから117年後、ドイツにおいて小型軽量のガソリンエンジンを開発していたカール・ベンツ1886年に世に送り出したのがベンツパテントモトールヴァーゲン(Benz Patent Motorwagen )です。一見、エンジンを乗せた、三輪車のような自動車ですが、これが世界初のガソリン自動車と言われています。4輪ではなく3輪にしたのは操舵性の問題を解決するためだったそうです。エンジンは水冷式単気筒954㏄で最高出力0.55kW/0.75PS/400minでした。全長2700㎜、全幅1400㎜、全高1450㎜、重量265㎏で時速15km/hの走行が可能でした。

Dsc02759_20250311083701 Dsc02761_20250311090001
この頃の自動車はまだ動力源から駆動輪に至るメカは定まっていませんでしたが、エンジン-変速機-プロペラシャフト-ディファレンシャルギア-駆動輪といったその後のFR(Front-engine rear-wheel drive)のレイアウトを初めて世に出したのが1898年フランスのパナールエルヴァッソールが考案した6HPワゴネット(Panhard et Levassor 6HP Wagonette)でした。全長2950㎜、全幅1700㎜、全高1795㎜、総排気量1699㏄、水冷直列2気筒SVのエンジンを搭載し、最高出力4.5kW/6HP/minでした。


Dsc02756 

Dsc02758_20250311090001 一方、アメリカではスタンレー社が1897年から蒸気自動車の製造を始め、1905年にはフロントにボイラーを置き、ボイラーで作った蒸気を床下のスライドバルブ式2気筒エンジンに送り、平歯車で直接、車軸を駆動するスタンレースティーマーモデルE2(Stanley Steamer Model E2)を世に出しました。全長3591㎜、全幅1605㎜、全高1606㎜、重量766㎏、ホイールベース2641㎜、最高出力7.4kW/10HP/minで1927年まで製造され、1905年、フロリダのオーモンドビーチにおいて127.66MPHの世界記録も樹立しました。静粛で振動が少なく、高速で走ることから大ヒット車となったようでした。

ヘンリー・フォードがガソリン車を開発したのが1896年デトロイト・オートモビル社(後のキャデラック社)の主任設計者に就任したのが1899年、その後、重役陣と対立し、自ら社長を務める新自動車会社フォードモータースを設立したのが1903年、世界的ヒットとなったフォード・モデルT(日本ではT型フォード)が発売されたのが1908年ですから、まさにこの時代、欧米では自動車産業の黎明期でした。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月11日 (火)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その1 概要とトヨダ・AA型乗用車の復元モデル

愛知環状鉄道を八草~岡崎間を往復した後は来た道を戻り、リニモの芸大通駅から歩いて数分のところにある「トヨタ博物館」を見学することにしました。

Dsc02742
Dsc02743

Dsc02745
トヨタ自動車が創立50周年記念事業の一環として1989年4月に開館した自動車に関する博物館でガソリン自動車誕生から約100年間の自動車の歴史をテーマにトヨタ車のみならず19世紀末から20世紀にかけて製造された世界各国、各メーカーのクルマを体系的に展示しているのが大きな特徴です。

入場し、2階からの展示スペースに上るエスカレータの前に展示されているのが1935年、豊田自動車の前身の豊田自動織機製作所自動車部の豊田喜一郎などが試作した「A1型」を改良し、1936年に完成、同年4月に市販した同社初の量産乗車となった「トヨダ・AA型乗用車」の復元モデルです。残存したクルマを整備して復活させたのではなく、製造当時の設計図、生存していた技術者の意見を聞きながら1986年に完成させたものです。

Dsc02746 Dsc02748_202503100815014ドアセダンで後部ドアは観音開きでした。前後のドアは完全な対称デザインで左前と右後のドア、右前と左後のドアは共通のプレス型から作られました。後に初代クラウンなどでも踏襲され、歩行者などを巻き込んで危険とされた観音開きスタイルですが、当時としては4枚のプレス工程を2枚に収めるというメリットがあったのですね。Dsc02749_20250310081501

側窓は6ライトタイプで後部トランクはありません。

Dsc02750

ボディは1920年代までは木骨鋼板張り構造、または木製の骨組みに布を張って防水塗装した「ウェイマン式ボディ」が主流でしたが、事故時の耐久性や長期使用による劣化等の問題があったためクラースラー社はバット社の協力を得て全鋼製ボディを採用、AA型もそれに倣いました。ただ、アメリカでは大型プレス機で加工していましたが、トヨタでは熟練工の賃金が安かったこともあり、工員の手叩きで成型がなされました。

1936年9月に東京府立商工会館で開催された国産トヨダ大衆車完成記念展覧会に出展された際は社名はトヨダでしたが、翌10月には社名をトヨタに変更、1937年1月にはトヨタ自動工業株式会社として豊田自動織機から独立しました。1943年に生産が終了するまでに1404台が製造されました。

3389ccの水冷式直列6気筒OHVのA型エンジンが搭載され最高出力65hp/3000rpm(グロス)、最大トルク19.4kg・m/1800rpm、3速シンクロメッシュ・フロアMT変速、前後輪とも固定軸?縦置き式半楕円リーフスプリングのサスペンション、サーボ付き油圧ドラムブレーキが装備され、全長4785mm、全幅1730mm、全幅1736mm、車両重量は約1500㎏、最高速度は約100km/h~110km/hでした。価格は3685円(大正時代の1円が現在の1080円程度ということで、今の値段で400万円弱)でした。

流線形ボディは当時の世界的風潮であり、シャーシの設計ともどもクライスラーデソート・エアロフローの影響を強く受けていました。

この時代、日本の自動車産業はアメリカ・イギリス・フランス・イタリアそしてドイツに対して大きく立ち遅れており、自家用車の普及や道路の舗装状況も極めて低い状態でした。トヨタAA型は当時の乗車車の最大のユーザーであったハイヤータクシー業界に参入するのを主目的に製造され、1935年から製造された「G1型トラック」及び1936年から製造の「GA型トラック」とエンジンを共用とし、製造コストの低減を狙いました。もっともA型エンジンはシボレーの直列6気筒エンジンのコピーであるため、当時日本ではメートル法が採用されていましたが、インチ規格で設計されていました。

Dsc02810 2階の1920年代流線形時代の到来のコーナーにも色違いのAA型が展示されています。

AA型が発売された当時、日本や満州のハイヤー・タクシー業界は国内でノックダウン生産されるフォードやシボレーを購入・使用しており、AA型やそのバリアント(オープンモデルのAB(ABR)型、戦時モデルのAC型)が進出する余地は殆どなくトヨタ関連企業、官公庁、帝国陸軍などが主たるユーザーでした。輸出に関しても販路が確立されていなかったため、満州国や友好国、占領地などで少数が使用されただけでした。そのため戦争での被災、戦中戦後の酷使で1950年代までにほぼすべてが喪失したとみられています。1980年代にトヨタ自動車がAA型の行方を捜したものの日本国内では残存車を見つけることは出来ませんでした。そこで冒頭に記したようにトヨタテクノクラフト(トヨタの子会社で救急車、モータスポーツ、カスタマーズパーツの製作)が中心となり当時のヤード・ポンド法の設計図を基に一からの製作がなされ1986年、展示されている車体が完成しました。実際に走らせてみると性能的に復元モデルは実車よりも優れているようです。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月10日 (月)

中央快速線E233系にG車連結開始 57編成中、最後に運用復帰したH55編成も撮影

青梅・中央快速線E233系基本番台2022年7月27日に6+4分割編成のH57編成にサロE233/232-1が組込まれ、数回にわたる試運転が行われ、同年11月14日には10連貫通編成のT24編成に-2ユニットが組込まれ12連での試運転も開始されました。2024年10月13日からの12連での営業運転開始当日、T3編成に-7ユニットが組込まれ、まずはこの3編成での運転開始となりました。その後、T編成は豊田と国府津に疎開したG車ユニットを組込む、H編成は幕張に疎開したG車ユニットを組込む作業が繰り返され、2025年3月1日にT19編成が豊田で-22ユニットを組込、57編成分のG車ユニットがT40とT71を除く10両貫通編成41編成とH49を除く6+4分割編成16編成に組込まれました。

営業運転復帰はそれぞれの編成によって要する日数が違っており、豊田で組込まれその日のうちに復帰する編成もあれば、復帰まで数日を要する編成もありました。国府津や幕張から返却された編成についても同様でした。

そんな中で幕張でG車ユニットを最後に組込まれたH55編成は2025年2月21日に豊田から幕張に回送、1週間後の28日に幕張から豊田に返却されており、運用に復帰したのは目撃情報によれば3月4日の09H運用からでした。私も12連化された57編成の記録のため3月7日金曜日に15H運用に入っている同編成を追いました。

E2330-h55-12r-250307 2025/3/7 西国分寺 12連化され3月4日から運用に復帰したH55編成

E2330-h55-12r-250307-4 E2330-h55-12r-250307-6 2025/3/7 八王子 中央特快として東京に向かうH55編成

今週15日の土曜日からは57編成に組込まれたG車の営業が開始されます、E233系基本番台は2006年から2008年にかけての製造、G車ユニットとは親子ほどの車齢差があるわけですがこれから12連化された編成、そして10連のまま残された編成にどのような動きがあるのか興味深く見守りたく思います。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム


最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月 7日 (金)

国内線の航空需要を満たすため導入されたANAのB747SR-81 10 JA8148

cn22294/ln481として製造、1980年9月30日に初飛行、同年11月25日にANAに引き渡されたのがJA8148でした。

11機目のSR-81としてJA8147と同時に引き渡された機体ですが、この時期ANAのフリートは1974年2月から導入されたロッキードL-1011が退役が進み、SRが主力機としての地位を確立した時期でもありました。

Ja8148-ana-b747sr81-cn22294-ln481-970703

1997/7/3 HND

Ja8148-ana-b747sr81-cn22294-ln481-981101 1998/11/1 HND

2004年11月、退役し、N243BAのレジで整備保管状態となりますが、次の職場は見つからず解体となりました。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月 6日 (木)

2024年春の名古屋周辺旅行 八草から愛知環状鉄道で岡崎へ その3 北野桝塚の車両基地と沿線風景

今回の旅で愛知環状鉄道は八草~岡崎間を往復しただけで、八草~高蔵寺間は乗車していませんが、同線が国鉄岡多・瀬戸線として旧鉄建公団が建設しただけあり、ほぼ全線に渡って立体交差化された高架区間となっており、複線として路盤が整備されています。

240316-edit_20250305131001
2024/3/16 八草 駅名標 この青い色が愛知環状鉄道のコーポレートカラー

2000-g31-240316 後方展望 篠原駅でのG31編成との交換
現在は単線として運用中ですが、路盤やトンネルは複線規格で整備されており、新たな用地買収をせずに複線化は可能なようです。


240316-edit_20250305132501


2024/3/16 北野桝塚 駅名標


2000-g12-240316


2000-g6-g12-240316


北野桝塚駅の高蔵寺寄りにある車両基地
左の白い編成は2022年11月から2023年3月までの予定でG6編成に「瀬戸信用金庫80周年」ラッピングを施したもの(情報

以前の記事にも登場しましたが駅番号06の北野桝塚駅は1970年10月1日、国鉄岡多線の貨物駅として開業、1976年4月26日から旅客営業が開始されました。貨物輸送は自動車輸送が有名でしたが、1984年12月27日を以て廃止、1985年1月1日、貨物の取り扱いが廃止されました。2001年12月23日、愛知万博対応工事で北野桝塚~三河上郷間が複線化され、当駅も2面4線となりました。旅客化以来、駅員無配置でしたが2008年4月1日から有人駅となり、同年5月12日には「お忘れ物取扱所」が開設されました。2022年4月1日、「お忘れ物取扱所」は新豊田駅に移転しました。


240316_20250305134001 岡崎方面


自動車輸送が活発だった時代には近くのトヨタ自動車工場とを連絡する専用線が存在し、自動車輸送のための多数の側線と広大なモータープールがあり、1971年には10往復の専用列車が設定されていました。1日140両、1300台の自動車を扱う拠点駅で運営管理はトヨタ輸送が行っていました。三菱自動車も専用線を計画していましたが、建設はされませんでした。

240316_20250305135001 2024/3/16 六名(むつな)駅の岡崎よりにある信号場


岡崎駅 - 六名駅 構内配線略図

六名~岡崎間の構内配線図(六名駅のWikipediaから)

ここから岡崎駅までの区間は単線並列となっており、東海道線方面に進むとJR東海道線の線路に繋がっており、豊橋方面から検測車の愛環への入線、新造車の甲種輸送などに使われています。

240316_20250305135401 岡崎駅に接近

240316_20250305135801岡崎駅 改札口

240316_20250305135802
岡崎は言わずと知れた徳川家康の生誕地でゆかりの史跡が多数存在します。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム


最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月 5日 (水)

2024年春の名古屋周辺旅行 八草から愛知環状鉄道で岡崎へ その2 車両編 2000系

開業以来使用されてきた100系の置き換えため、2002年から2009年までに日本車輛製造で2両編成20本が製造されたのが2000系です。
 JR東海の313系2連3000番台R編成(R101~R116)をベースに製造することで製造コストを抑えています。ちなみにR101~108編成は日本車輛製造でR109~116編成は近畿車輛でいずれも1999年3月に竣工しています。2000系の運用は2003年3月14日のダイヤ改正から開始されました。

3133000-r112-111225_202503040815012011/12/25 笠寺 2000系の兄貴分といえるJR東海313系3000番台R112編成
同編成は1999年3月10日、近畿車輛にて竣工しています。

主要諸元

最高運転速度 110 km/h (愛知環状鉄道線内)120 km/h
起動加速度 2.6 km/h/s
減速度(常用) 4.3 km/h/s
編成定員 107(席)+179(立)=286名
編成重量 68.3 t
編成長 40.2 m
全長 20,100 mm
全幅 2,978 mm
全高 4,020 mm
主電動機 かご形三相誘導電動機 C-MT66A
主電動機出力 185kW
駆動方式 TD継手式(中実軸)平行カルダン
歯車比 1:6.53
編成出力 740 kW
制御方式 VVVFインバータ制御(IGBT素子 1C2M)
制動装置 電気指令式ブレーキ
回生ブレーキ・抑速ブレーキ
耐雪ブレーキ・直通予備ブレーキ
応荷重対応・T車遅れ込め制御
保安装置 ATS-ST、一部車両ATS-PT、EB、TE、防護無線

編成記号はGで、
第1次車G1,G2,G31,G33 2002/12/19
第2次車G3,G4,G5,G6,G7 2003/12/2
第3次車G8,G9,G10 2004/10/12
第4次車G11,G12,G32 2004/11/4
第5次車G13 2005/11/14
第6次車G14,G15 2007/12/17
第7次車G51,G52 2009/2/25   
と7次に分かれて甲種輸送(日本車輛豊川製作所~豊川駅~豊橋駅~岡崎駅~北野桝塚駅)されました。

G30番台はイベント用に着脱式のテーブル、カラオケ用のコンセントなどを備えた車両で過去には、BOSE社製スピーカーや空気清浄機なども備えられていましたが、現在は撤去されています。G50番台は座席がセミクロスシーとからロングシートになった編成です。

2000-g3-240316 2024/3/16 北野桝塚 G3編成

2000-g10-111225 2011/12/25 岡崎 G10編成

2000-g32-240316-2 2024/3/16 北野桝塚 G32編成

2000-g11-240316-3 2024/3/16 岡崎 G11編成 2022年10月15日より、「ジブリパーク」ラッピングとなっています。

2000-g33-240316 2024/3/16 G33編成 2133運転台

新製された際は一般公募による緑を基調としたデザインのカラーリングでしたが、2009年のG51,G52編成増備からコーポレートカラーである青色帯のデザインに変更され、多くの編成がそれに倣って変更の途上にあります。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月 4日 (火)

中央・総武緩行線 E231系500番台 2編成にHM 「三鷹車両センター関節95周年」と「新宿駅140周年」

中央快速線のG車組込編成を撮影する過程でよく目にするのが三鷹から御茶ノ水にかけて並走する中央・総武緩行線です。

新製配置され、当初は4M6Tだった編成が6M4T化されたE231系基本番台と山手線から転用されたE231系500番台が活躍中ですが、現在、E231系500番台、2編成にHMが装着されています。

1本目は2024年8月19日から、A532編成に装着された「三鷹車両センター関節95周年」HMです。

E2331500-a53295hm-241225 E2331500-a53295hm-241225-2 2024/12/25 飯田橋

もう1本は2025年2月9日から3月25日までの期間限定でA522編成に装着された「新宿駅140周年」HMです。

E231500-a522-250225-2  
2025/2/25 幕張本郷

E231500-a522-2502253 2025/2/25 津田沼

どちらのHMも三鷹側、千葉側でデザインが異なっている点が特徴的です。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2025年3月 3日 (月)

中央快速線E233系にG車連結開始 20週でG車ユニット、組込完了

昨年10月13日から開始された青梅・中央快速線E233系基本番台へのG車ユニット組込も豊田センターに留置されていた-21と-22の2ユニットはT14編成とT19編成に組込まれ、幕張センターに疎開中だった最後の-36ユニットはH55編成に組込まれ昨年秋までに製造された57ユニットはすべて組込まれました。結局、準備工事がされていながらG車が組込まれなかったのはT40編成でした。

T39編成:2月10日に国府津車両センターに回送、-34ユニットを組込、2月17日に豊田に帰還

H46編成:2月13日に幕張車両センターに回送、-35ユニットを組込、2月19日に豊田に帰還

T18編成:2月12日、豊田車両センターで-24ユニット組込

H55編成:2月21日に幕張車両センターに回送、-36ユニットを組込、2月28日に豊田に帰還

T14編成:2月25日、豊田車両センターで-21ユニット組込

T19編成:3月1日、豊田車両センターで-22ユニット組込  といった動きが前回の記事以降ありました。

E233g

 

青梅・中央快速線E233系G車組込の記録
幕張、国府津でG車ユニットを組込んだ編成は豊田センターに帰還した日を組込日としています。

E2330-t39-12r-250226-2
2025/2/26 三鷹 12連化され運用に復帰したT39編成

E2330-h46-12r-250223
2025/2/23 東小金井 12連化されたH46編成

E2330-t18-12r-250223
2025/2/23 東小金井 12連化されたT18編成

E2330-h55-12r-250225
2025/2/25 中央・総武緩行線の車内から 幕張車両センターに留置されるH55編成

E2330-t14-12r-250301-3
2025/3/1 東小金井 12連化されたT14編成

E2330-t19-12r-250301-3
2025/3/1 東小金井 12連化されたT19編成

57編成分のG車ユニットが組込まれ、2週間後に迫ったダイヤ改正からは本格営業が始まるわけですが、気になるのはG車が組込まれなかったH49, T40, T71編成の去就です。

H49編成は昨年9月以来、通常運用には全く入らず、豊田と武蔵小金井間の移動、もしくは2月21日には山手貨物線にてハンドル訓練が行われたようですが、果たしてどうなるのでしょうか?T40,T71編成は

E2330-t40-10r-250301T40編成

E2330-t71-10r-250301-2 T71編成
2枚とも2025/3/1 東小金井

どちらも青梅・中央快速線の運用に就いていましたが、果たしていつまで続くのか?房総地区に転属の噂もあるようですが・・・

また、12連化された編成の中ではH52編成の目撃情報が2月20日から無いのがちょっと気になっています。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 
鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

« 2025年2月 | トップページ | 2025年4月 »

カテゴリー

2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
フォト
無料ブログはココログ

日本ブログ村

  • 日本ブログ村