2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その6 歓喜力行団の車(KdF-Wagen) ~総生産台数2000万台を超えたVW Type1
ドイツの自動車設計者フェルディナント・ポルシェはダイムラー・ベンツ出身の自動車技術者で1931年に退社後はシュトゥットガルトに自身の経営する「ポルシェ設計事務所」を構えていました。彼は1920年代以来、「高性能レーシングカー」「農業用トラクター」「優秀な小型大衆車」を将来開発したいと考えていました。1932年にはツェンダップ、1933年にはNSUといった自動車メーカーと提携し、後のフォルクスワーゲンの原型というべきリアエンジン方式の小型車の開発に取り組んでいましたが、企画段階もしくは試作車段階で予算不足、不景気、提携メーカーの弱腰などで計画は頓挫していました。
1933年、国会社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を取り、党首アドルフ・ヒトラーがドイツ首相になるとベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と国民車構想を打ち出しました。特に当時、自動車は高価であり、個人が自動車を所有するという政策はナチ党の支持率をあげるのに絶好の政策でした。ヒトラーはこの国民車の設計をポルシェに依頼しました。
ナチ党の中に歓喜力行団(Kraft durch Freude:KdF)という組織がロベルト・ライの率いるドイツ労働戦線(DAF)の下に設けられ、旅行・スポーツ・コンサート・祝祭典などを企画しました。活動鵜の目的はナチ党の理想を行き渡らせ、政権へのドイツ人の忠誠心を高めることでした。ヒトラーの国民車も「歓喜力行団の車:KdF-Wagen」と名付けられました。ニーダーザクセン州に「歓喜力行団の車を生産する街」(Stadt des KdF-Wagens、KdF-Stadt)が設けられ、工場や労働者住宅が建てられました。戦後はヴォルフスブルクに改名され、フォルクスワーゲン・グループの本部が置かれています。
自ら運転はしないものの、自動車好きだったヒトラーが課した国民車の条件は
・頑丈で長期間修理を必要とせず、維持費が低廉なこと
・大人2人と子供3人の乗車が可能なこと
・連続重高速度100いじょうkm/h以上
・14.3km/l以上の燃費性能を持つこと(7リッターで100km走れること)
・空冷エンジンの採用
・流線形車体の採用 を満たし、1000マルク以下で購入可能なことでした。
当時、1000㏄級4人乗り小型車で大量生産による低価格化を実現したオペルP4ですら1450マルクに抑えるのが精いっぱいであったことからも条件を満たし、かつ1000マルクにおさまる自動車の開発は極めて難題でした。
ポルシェは開発期間中にアメリカを訪問し、自動車大量生産の祖といえるヘンリー・フォードとも面会し、大量生産技術について相談しています。ヘンリー・フォードも反ユダヤ主義者でナチスの思想に共感を占め示していますが、自動車技術に関しては保守的で国民車の設計思想に関してはさほど理解は示さなかったようです。
契約が結ばれて1年後の1935年、プロトタイプ2台(V1,V2)が完成、1936年には3台(V3))、1937年には30台のプロトタイプがダイムラー・ベンツで制作されました。ナチス親衛隊の免許保持者から選ばれたドライバーにより試験が行われ、プロトタイプの弱点が洗い出され、強化されました。1938年、フォルクスワーゲンのスタイルが確立、5月にはKdF-Stadtの工場の定礎、1939年までに35台が製造、プレス金型を使用した最終プロトタイプVW39が14台が製造されましたが、9月1日のポーランド侵攻で戦時一色となり、国民車構想は頓挫してしまいました。
歓喜力行団は労働者向けに、「歓喜力行団の車」を購入するための特別貯蓄制度を設けました。「毎週5マルクを貯めて自家用車を手に入れよう」という積立制度でしたが、第二次世界大戦の勃発、ドイツの敗戦でKdFは解体したため、納車は出来ませんでした。戦後、訴訟までに発展しましたが、新たに創業したフォルクスワーゲン社が積立金を払った人々に対し、大幅な割引価格でフォルクスワーゲンタイプ1が販売されることで和解に至りました。
ちなみにKdF-Wagenの工場、体制は戦後、ドイツの自動車メーカーの工場が連合国の収奪の対象になる中、あまりに先進的であったためか、その価値がわからず放置されたそうです。工場の管理を担当したイギリス軍将校アイヴァン・ハーストはドイツ人労働者の協力的な態度とフォルクスワーゲン車の内容に将来性を感じ、手段を尽くして工場を修復させ、自動車生産を再開させることを目論み、1945年には1785台の生産が始められ、1947年にはオランダへの輸出が始まり、1949年にはアメリカにも進出しました。1955年には累計生産台数100万台突破、1964年には累計生産台数1000万台を超え、1972年2月17日、累計生産台数が1,500万7,034台に到達し、フォード・モデルTの記録を抜くに至りました。フォルクスワーゲン社ではかなり前から後継者の開発を手掛けていましたが、1970年代にゴルフがようやく軌道に乗り、1978年に本国での製造が終了しました。その後、メキシコやブラジルで生産が続けられましたが、2003年7月30日、メキシコ工場でタイプ1の最終車両が完成、総生産台数約2153万台を達成して生産終了となりました。基本的な設計を変えずに2000万台以上を生産した四輪乗用車は、他に存在しません。
わが国では、ビートル(Beetle)という愛称が一般的ですが、ドイツ留学中はドイツ人はケーファー(Käfer)と呼んでいるのをよく耳にしました。意味はカナブンやカブトムシのような甲虫類です。
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