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2025年3月11日 (火)

2024年春の名古屋周辺旅行 トヨタ博物館を見学 その1 概要とトヨダ・AA型乗用車の復元モデル

愛知環状鉄道を八草~岡崎間を往復した後は来た道を戻り、リニモの芸大通駅から歩いて数分のところにある「トヨタ博物館」を見学することにしました。

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トヨタ自動車が創立50周年記念事業の一環として1989年4月に開館した自動車に関する博物館でガソリン自動車誕生から約100年間の自動車の歴史をテーマにトヨタ車のみならず19世紀末から20世紀にかけて製造された世界各国、各メーカーのクルマを体系的に展示しているのが大きな特徴です。

入場し、2階からの展示スペースに上るエスカレータの前に展示されているのが1935年、豊田自動車の前身の豊田自動織機製作所自動車部の豊田喜一郎などが試作した「A1型」を改良し、1936年に完成、同年4月に市販した同社初の量産乗車となった「トヨダ・AA型乗用車」の復元モデルです。残存したクルマを整備して復活させたのではなく、製造当時の設計図、生存していた技術者の意見を聞きながら1986年に完成させたものです。

Dsc02746 Dsc02748_202503100815014ドアセダンで後部ドアは観音開きでした。前後のドアは完全な対称デザインで左前と右後のドア、右前と左後のドアは共通のプレス型から作られました。後に初代クラウンなどでも踏襲され、歩行者などを巻き込んで危険とされた観音開きスタイルですが、当時としては4枚のプレス工程を2枚に収めるというメリットがあったのですね。Dsc02749_20250310081501

側窓は6ライトタイプで後部トランクはありません。

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ボディは1920年代までは木骨鋼板張り構造、または木製の骨組みに布を張って防水塗装した「ウェイマン式ボディ」が主流でしたが、事故時の耐久性や長期使用による劣化等の問題があったためクラースラー社はバット社の協力を得て全鋼製ボディを採用、AA型もそれに倣いました。ただ、アメリカでは大型プレス機で加工していましたが、トヨタでは熟練工の賃金が安かったこともあり、工員の手叩きで成型がなされました。

1936年9月に東京府立商工会館で開催された国産トヨダ大衆車完成記念展覧会に出展された際は社名はトヨダでしたが、翌10月には社名をトヨタに変更、1937年1月にはトヨタ自動工業株式会社として豊田自動織機から独立しました。1943年に生産が終了するまでに1404台が製造されました。

3389ccの水冷式直列6気筒OHVのA型エンジンが搭載され最高出力65hp/3000rpm(グロス)、最大トルク19.4kg・m/1800rpm、3速シンクロメッシュ・フロアMT変速、前後輪とも固定軸?縦置き式半楕円リーフスプリングのサスペンション、サーボ付き油圧ドラムブレーキが装備され、全長4785mm、全幅1730mm、全幅1736mm、車両重量は約1500㎏、最高速度は約100km/h~110km/hでした。価格は3685円(大正時代の1円が現在の1080円程度ということで、今の値段で400万円弱)でした。

流線形ボディは当時の世界的風潮であり、シャーシの設計ともどもクライスラーデソート・エアロフローの影響を強く受けていました。

この時代、日本の自動車産業はアメリカ・イギリス・フランス・イタリアそしてドイツに対して大きく立ち遅れており、自家用車の普及や道路の舗装状況も極めて低い状態でした。トヨタAA型は当時の乗車車の最大のユーザーであったハイヤータクシー業界に参入するのを主目的に製造され、1935年から製造された「G1型トラック」及び1936年から製造の「GA型トラック」とエンジンを共用とし、製造コストの低減を狙いました。もっともA型エンジンはシボレーの直列6気筒エンジンのコピーであるため、当時日本ではメートル法が採用されていましたが、インチ規格で設計されていました。

Dsc02810 2階の1920年代流線形時代の到来のコーナーにも色違いのAA型が展示されています。

AA型が発売された当時、日本や満州のハイヤー・タクシー業界は国内でノックダウン生産されるフォードやシボレーを購入・使用しており、AA型やそのバリアント(オープンモデルのAB(ABR)型、戦時モデルのAC型)が進出する余地は殆どなくトヨタ関連企業、官公庁、帝国陸軍などが主たるユーザーでした。輸出に関しても販路が確立されていなかったため、満州国や友好国、占領地などで少数が使用されただけでした。そのため戦争での被災、戦中戦後の酷使で1950年代までにほぼすべてが喪失したとみられています。1980年代にトヨタ自動車がAA型の行方を捜したものの日本国内では残存車を見つけることは出来ませんでした。そこで冒頭に記したようにトヨタテクノクラフト(トヨタの子会社で救急車、モータスポーツ、カスタマーズパーツの製作)が中心となり当時のヤード・ポンド法の設計図を基に一からの製作がなされ1986年、展示されている車体が完成しました。実際に走らせてみると性能的に復元モデルは実車よりも優れているようです。

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