速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 倉敷美観地区を訪問 その1 大原家の建物
江戸時代初期の1642年(寛永19年)、倉敷は天領とされ代官所が設けられました。それ以来、備中国南部の物資の集積地として発展し、倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の街並みが保存されてきました。1969年に市の条例で美観地区に定められ、1979年には岡山県内2件目の重要伝統的建造物群保存地区に設定され今日に至っています。私自身、倉敷美観地区は岡山で学会等が開催されるときにはよく足を伸ばしており、今回で数回目ですが訪れるたびに美しい街並みに心を癒されています。今回は大原美術館をはじめとして倉敷川に沿った風景を堪能し、鶴形山の阿知神社も参拝しました。
2026/5/15 倉敷の駅から線路と直角に南東に伸びる大通りを10分ほど歩くと美観地区入口の交差点があります。そこを左折し、1ブロックほど進むと倉敷川(運河)その周りに美観地区が広がっています。
白壁、なまこ壁の蔵風の商家
倉敷川に架かる最北の石橋は今橋
今橋の西側に大原美術館
大原美術館は倉敷の実業家大原孫三郎が洋画家児島虎次郎に託して収集した西洋美術、古代エジプト美術、中近東美術、中国美術などの作品を展示するため1930年に開館した我が国初の西洋美術、近代美術を常設展示する美術館です。ニューヨークの近代美術館が1929年に開館していることを考慮しても日本に当時、美術館が数えるほどしか存在していなかったことを考えると大原孫三郎の先見性は特筆すべきものです。
今橋の反対側には旧大原家住宅があります。
旧大原家住宅の隣には有隣荘
天領倉敷では「古禄」と言われる世襲勢力が元々栄えていましたが、新田、塩田開発、倉敷川の水運の利を生かした「新禄」と呼ばれる商人が新興勢力として台頭、なかでも大原家と大橋家が筆頭格でした。大原家は綿の仲買いで発展し、倉敷川の終点に居を構え、河岸の両側に店舗と蔵を構えました。1889年大原孝四郎は倉敷紡績の設立に参加、孫三郎はそれをさらに発展させ、財閥となり、得た富で倉敷中央病院、大原美術館などを造営しました。有隣荘は1928年に孫三郎が家族で住むために建てた大原家の旧別邸です。
そもそも倉敷はなぜ「繊維のまち」になったのか、それは400年前頃までこの辺一帯は「吉備の穴海」と呼ばれる一面の海でした。江戸時代から干拓が始まり、海は陸地となりましたが、土壌に残る塩分のため稲作には適さず綿花やイグサなどの作物が栽培されました。これらを原料として倉敷の繊維産業が花開き、国内屈指の製品出荷額を誇る「繊維のまち」となりました。
今橋から中橋方向
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2003/6/7 NRT-RWY16























































































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