2014年11月30日の水郡線営業所公開、最後はこのイベントの目玉であったC6120号機について触れます。
常陸大子で休むC6120号機 2014/11/30
国鉄蒸気機関車C61形式は戦後、復員兵輸送や買い出し列車などで旅客需要が急増し、一方で終戦による貨物需要の落ち込みで、旅客用機関車は不足し、貨物用機関車は余るといった状況を解決する妙案として、機関車の新規製造はGHQの許可が必要であったので、D51を旅客用に転用改造して生み出された形式です。
あまり状態の良くなかった戦争末期製造のD51を種車として、三菱重工業、日本車輌製造によって33両が改造されました。改造名義といっても流用したのはボイラーと一部の部品で中には殆ど新造に近い機関車もあったそうです。
表1 C61 33両とボイラーを提供したD51の対応関係 Wikipediaを参考に作成
表1のように1947年から1948年にかけて改造され、33両のうち、1~21号機を三菱重工業が、22~33号機を日本車輌製造が担当しました。
2軸従台車
足回りはC57をベースに設計し、重量増加による軸重を軽減させるため、従輪を設計変更して2軸従台車としました。同時期にD52から改造を進めていたC62形式が労働争議により、完成が遅れたため、C61形式が日本初のハドソン軸配置の機関車として登場することになりました。
常磐線などで使用されたD51にメカニカルストーカーが装備されたという話題がありましたが、このメカニカルストーカーの装備に関してもC61形式が最初となりました。
東北本線、常磐線、奥羽本線、鹿児島本線と、首都圏から離れた地方幹線に配置され、C57形やC60形と共通に運用されることが多かったようですが、ボイラ容量が大きいメリットを生かして、優等列車牽引主体に運用されました。
特に東北本線仙台以北では特急・急行がC61,補機や各停がC60となっていたようです。デビュー当初の客車特急「はつかり」(仙台~青森)、寝台特急「はくつる」(盛岡~青森)、寝台特急「はやぶさ」の九州内など、これらの線区での特急、急行牽引の華々しい歴史に貢献しています。
私は、奥羽北線(秋田~青森)の電化直前、能代を訪問した際にC61,C60の活躍するシーンを見ているのですが、写真には記録していませんでした。
最後まで残ったのは日豊本線で、1974年の宮崎電化の前には殆どが運用を外れ、1975年1月に用途廃止となりました。
保存機は動態保存機として、梅小路の2号機とこの20号機、静態保存機は18号機の前頭部が直方市に動輪が福岡市博多区の出来町公園、19号機が霧島市国分の城山公園に保存されています。
20号機に関していつものように沖田祐作氏の機関車表のデータによりますと、
C6120 三菱重工業三原工場=659 1949-07-31 S78.10t2C2T(1067)
車歴;1949-07-31 製造(ボイラ=D511094)→ 納入;国鉄;C6120→ 配属[達174];仙台局→
1949-07-31 竣工→ 配置;青森→1949-08-27 鶴操通過糸崎より仙台へ→
1949-09-01 現在;青森→1955-08-01 現在;仙台→1964-04-01 現在;仙台→
青森→1966-12-15 仙台運転所→ 青森→1969-09-12 土崎工場全検→
1971-09-15 宮崎→1973-08-28 休車→1973-11-18 廃車[工車976];宮崎→
保存;群馬県伊勢崎市「華蔵寺公園」;C6120
落成後の新製配置は東北で、仙台と青森を行ったり来たりしながら、東北本線全線電化の1年後、九州に移動し、宮崎で宮崎電化の前まで働き、1973年8月28日付けで引退しました。伊勢崎市の華蔵寺公園に静態保存されました。全走行距離は286万9889kmでした。
静態保存期間中も公園管理者やボランティアの方々の努力により、良好な状態が保たれ、キャブも立ち入りが制限されていたため、運転機器類の欠品がなかったのが、復活に繋がったのでしょうか。先日のD51498の記事で触れましたように、D51498号機が2008年12月に小牛田機関区で空焚き事故を起こしてしまい、約9ヶ月間運転が出来ない事態になり、予備機の重要性が認知され、D51とC57の両車の特性を持ったC61に白羽の矢があたり、2009年6月、復元の方針が表明され、同年12月正式な発表となりました。
2010年1月19日、華蔵寺公園から離れ、大宮総合車両センターへ搬送、ボイラーは大阪のサッパボイラーで修復、動輪・車輪は住友金属工業にて整備、新造が行われました。約1年をかけて、修復工事が行われ、2011年1月27日、大宮にて火入れ式が行われ、38年ぶりの復活を遂げました。もっとも、このときの火入れはあくまで儀式で、ボイラー昇圧までは行わなかったそうで、改めて2月16日、完全整備の後、再度火入れを行い、ボイラー昇圧、汽笛吹鳴試験も行われ、2月21日には構内試運転も行われました。3月31日には車籍も復活し、大宮を出場、高崎車両センターへ回送されました。
この期間中に3月11日の東日本大震災が起こっていますが、かつてC571号機が阪神・淡路大震災の時に鷹取工場に入場中で、ジャッキ上から転落、ボイラー等を損傷する事故に見舞われたことがありましたが、電力事情の悪化等で出場に遅れが出たようです。復元行程に関しては高崎支社のサイトに詳細が示されています。
スノープラウと仙C6120の刻印
復活にあたって重油併燃設備が付加されているのが大きな変化であり、炭水車の水容量の関係から甲板内側に収まりきらずやや上に付きだした形での装着となりました。また東北形重装備としてスノープラウが常備されています。さらにその後部のステップには仙C6120の刻印がはっきり見えます。
客車側から機関車の状態(動輪軸受けの発熱を潤滑油の油温で感知)をモニターできるように、連絡ケーブル用のジャンパ栓(KE-100)も用意されました。現役時代設置されていたメカニカルストーカーは腐食が進んでいたため復元されませんでした。保安装置はATS-PとATS-Psを装備し、首都圏各線に入線可能となっています。
テンダーの左下隅にジャンパ栓があります。また右下隅のホース接続は給水中?
キャブ下には家庭用石炭の袋が、果たしてこの石炭を燃料として使っているのか、今の若い人にはなじみの薄い、石炭の実物展示の意味だったのか、聞くべきだったのですが、家庭用というところがなんともユーモラスに感じました。
<特徴的な先輪に関して>
C6120号機は引退時には第一先輪がプレートタイプ、第二先輪はC59初期タイプに見られる丸穴ウエップ付き先輪が装着されていたそうです。
これは1963年頃、郡山工場入場中に第二先輪を軸焼けを起こしたC6115に回し、廃車になったC59形の丸穴ウエップ付き先輪を装着して出場し、さらに1969年の土崎工場での全般検査でもC609(C5946)の第二先輪と交換されて出場したからだそうです。
わたしもこの丸穴ウエップ付き先輪というのがいまいち実感がわかなかったので、これまで撮ったC59形の先輪を見比べてみました。
九州鉄道記念館の1号機 2004/10/17
このタイプが丸穴ウエップ(水かき)付き先輪とわかりました。
広島こども科学館に保存されているC59161号機 2014/12/18
こちらは第一先輪が丸穴ウエップ付き先輪、第二がプレートタイプ先輪です。
梅小路機関区のC59164号機 2014/8/10
こちらはは第一先輪がプレートタイプ先輪、第二先輪が丸穴ウエップ付き先輪です。
そして現在のC6120号機は両方ともプレートタイプです。
静態保存中は第二先輪が丸穴ウエップ付き先輪でしたが、復元工事でプレートタイプと交換されたWeb付き先輪は大宮車両センターに保管されているそうです。
今回は以上です。次回part2では復活後の写真をご紹介いたします。
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