2026年10月15日 (木)

速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 広島平和記念資料館とG7広島サミット記念館

平和記念公園敷地内に広島原爆の惨状を後世に伝えるための施設として1955年に開館したのが「広島平和記念資料館」です。当初は「広島平和会館原爆記念陳列館」という名称でした。私共の子供の世代は高校の修学旅行などで広島を訪問し、この資料館を見学していますが、我々の世代は高校の修学旅行は広島まで足を伸ばすことはなく京都・大阪だったので、私自身は1976年頃、大学生のときに広島を旅行し、初めて訪れました。今でもそのときの状況を憶えていますが、原爆の被害の大きさ、悲惨さを目の当たりにし、涙が止まらなかったのを思い出します。今回の旅行ではあの時以来、ほぼ50年ぶりに訪問しました。


260517_202610140918012026/5/17 慰霊碑側から見た平和記念資料館

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建物は東側の東館と西側の本館からなり、東館は原爆投下までの広島市の歴史や原爆投下の歴史的背景に関しての展示、西館は広島原爆の人的・物的被害に関する展示となっています。大学生のときに見た「被爆再現人形」は2016年の改修工事で撤去されたことと、オーバーツーリズムの影響で館内は外国人観光客で超満員の状況で展示を久しぶりにゆっくりと眺めることはできませんでした。

平和記念資料館を出た後、2023年に広島で開催された「G7広島サミット記念館」に立ち寄りました。

毎年5月から7月にかけ世界的な影響力を持つ主要先進国7か国と欧州連合の首脳が集まり、世界経済や国際情勢、地球規模の課題について話し合う国際会議が「G7サミット」で1970年代のオイルショックや世界的経済不況を機に1975年、フランスのジスカール・デスタン大統領の提案で11月15日から17日にかけフランス・ランブイエで開催されたのが始まりでした。当初はフランス、西ドイツ、イギリス、アメリカ、日本のG5でスタートする予定でしたが、イタリアのモロ首相(当時)が参加を強く主張し、イタリアもメンバーに加えられG6となりました。第二回のプエルトリコ・サンファン(アメリカ)会議ではアメリカ・フォード大統領の提案でカナダがメンバーに加わり、G7となりました。1989年の冷戦の終結後、ロシアも加わり、G8の時代もありましたが、2014年のウクライナに対する軍事介入、クリミア半島併合などでロシアは排除されG7に戻りました。議長国はフランス~アメリカ∼イギリス~西ドイツ~日本~イタリア~カナダの順で回り、日本ではこれまで東京(第5回1979年、第12回
1986年、第19回1993年)、名護市(第26回2000年)、洞爺湖町(第34回2008年)、志摩市(第42回2016年)、広島市(第49回2023年)が開催されています。

Photo_20261014100401 Photo_202610141004022022年のロシアのウクライナ侵攻に対して旧西側諸国がどう結束するか、ロシアの核兵器使用の威嚇に対して人類初の核兵器が使用され、壊滅的な被害を受けた広島の地を如何に世界にアピールするかが大きなテーマであったようですが、G7サミット自身が「政治ショー」化していること、このときはアメリカは民主党バイデン政権でしたが、第一次、そして第二次トランプ政権ではアメリカの行動に対する抑制も効かない状況が露呈しており、まさに国際会議の在り方が問われる状況となっているように感じます。またこのときのサミットに参加した各国首脳を顔ぶれをみても、アメリカ、カナダ、日本、ドイツ、イギリスの首脳は既に交代しており、政権トップ座にあり続けることの難しさも感じました。



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2026年10月14日 (水)

速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 城下町だった中島地区と平和記念公園

現在、平和記念公園となっている中島町一帯は広島城築城以来の城下町(町人町)で、旧太田川(本川)と元安川の2つの川の分岐する三角州の最上流部に位置することから太田川上流の芸北地域と広島湾とを結ぶ水運による物産集散地であり、さらに西国街道(山陽道)が横断していたこともあり、広島随一の盛り場でした。1878年に県庁が隣の水主町(現・中区加古町)に置かれ、1889年の市制施行では中島新町に市役所が置かれ、この近辺の地区は県政・市政の中心部としての位置を占めていました。明治後期には元柳町の(旧)広島銀行本店や中島本町の住友銀行広島支店など、多くの金融機関がこの地区に立地しており、元安川対岸の大手町通りと並ぶ金融街を形成していました。ただ1894年、山陽鉄道が開通し、広島駅が東の松原町に開業、1912年には旧広島城外壕を埋め立てて広島駅と相生橋東詰を結ぶ市内電車線が開通、市内のメインストリートは電車通りに沿って次第に東に移るようになり、本通(電車通り以東)、紙屋町、八丁堀などが新たな繁華街として台頭しました。1921年、八丁堀の南に新天地歓楽街(現・中区新天地)が開発された結果、市街地の中で中島町界隈が商業・娯楽地区として占める地位は次第に低下してゆくこととなりました。市役所も市域の拡大に伴い手狭になることが予想され、1928年に国泰寺町の新庁舎に移転しました。第二次世界大戦が始まると経済統制などで市内の盛り場全般が寂れはじめ、この地域の喫茶店・映画館も閉店に追い込まれてゆきました。
1945年8月6日の原爆投下で当時約1300世帯・約4400人が暮らしていた中島地区はほぼ全域が爆心半径500メートルの同心円内に入っており、街も住民も一瞬のうちに消滅し、当日はこの地区で建物疎開作業が行われていたため、勤労奉仕で動員され中島本町・材木町の集合場所(爆心地からおおむね500 - 600メートル)に集まっていた学徒や近郊地区からの義勇隊員もほとんどが全滅しました。
戦後の焼け跡には被爆当日、たまたま自宅を離れていたため助かった僅かな住民を含む人々が400戸にのぼるバラックを建て居住していましたが、ほどなくして「中島公園」として市民公園の建設が計画され、1950年には平和記念公園および平和大通りが造られ、旧住民の多くが立ち退きを迫られることとなりました。このとき、被爆時の地面に盛り土がなされました。

260517_202610131117012026/5/17 相生橋の袂に建つ慰霊碑

260517_20261013111901平和記念公園の慰霊碑

1949年に国会で広島平和記念都市建設法が制定され、平和記念公園建設のための設計コンペが開催されることとなり、約140件の応募から丹下健三らの案が1位に選ばれました。同案は市の中央を東西に走る予定の100メートル道路に垂直に交わるかたちで、記念館、広場、慰霊碑、原爆ドームを一本の軸線で結んだ。また、ピースセンターの建物をゲートとし、中央部はボイドにすることで祈りの場を設けるというものでした。1951年8月6日、現在の区域を平和記念施設にすることが決定され、1955年に完成しました。

以来、毎年8月6日に平和記念式典が同所で開催され、午前8時15分には黙とうが捧げられていますが、同所は元々は普通に広島市民が暮らしていた場所であり、もともと公園であった場所ではありません。たまたま原爆投下目標に選ばれ、原子爆弾の炸裂で一瞬にしてすべてが奪われた人々の無念さを忘れてはいけないと思います。

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2026年10月13日 (火)

速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 原爆ドーム

広島市を訪れる際に足を向けずにいられないのが原爆ドームと平和公園です。

人類初の核兵器使用に先立ち、8月6日、午前0時37分、3機のB-29気象観測機、ストレートフラッシュ(広島)、ジャビット3世(小倉)、フルハウス(長崎)が日本の投下目標都市の観測に向けテニアン基地を離陸しました。続いて、Mk-1核爆弾リトルボーイ(ガンバレル型ウラン原爆)を搭載したエノラ・ゲイが1時27分に離陸しました。2分後には写真撮影機(#91、ネセサリー・イーブル)も同行しました。

7時間弱で四国上空に到達、広島の視界が良好であったことから投下目標は広島市街に決定、6時30分にはB-29の爆弾倉にてリトルボーイの起爆装置から緑色の安全プラグが抜かれ、赤色の点火プラグを装填されました。

投下に先立ち科学観測機(グレート・アーティスト号)が風圧などの測定用のラジオゾンデを吊るした落下傘を3個投下、エノラ・ゲイはそれに引き続き高度31,600ft (9632m)から相生橋を目標に原子爆弾を投下しました。弾倉を離れたリトルボーイは約43秒間放物線を描いて落下し、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600m上空で核分裂爆発を起こしました。

当日の広島市は気温26.7℃、湿度80%、気圧1018hPa、北北東の風1m/sec、雲量8-9で薄曇りであり、視界は良好でした。当時、広島市中の居住一般市民は約29万人、軍関係約4万人、市外から所用のため市内に入った者は約2万人と推定され、昼間人口は37万人から40万人と推定されました。爆心地から500メートル以内での被爆者は、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを超え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及びました。さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していきました。

260517_202610121355012026/5/17 原爆ドームとして遺されている建物は元々は広島県物産陳列館として開館し、1933年に広島県産業奨励館と改称されました。1915年4月5日に竣工、同年8月15日に開館しました。
1919年3月4日から開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」では第一次世界大戦中に中国の青島で日本軍の捕虜となり、広島湾に浮かぶ似島の似島検疫所内「俘虜収容所」に収容されていたドイツ人の菓子職人カール・ユーハイム による日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われました。広島県産業奨励館に改称された後は盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献しました。戦争が長引くなか、1944年3月31日には奨励館業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所となっていました。
 原爆の炸裂により、0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達し、0.8秒後には、前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風 が襲い、350万パスカルという爆風圧に曝され建物は、原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存しました。

広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まり、ドーム状の鉄枠が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年ごろにはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていました。1953年に、所有権が広島県から広島市に移転されるなかで、原爆ドームこと産業奨励館廃墟の除去はひとまず留保され、1955年には丹下健三の設計による平和記念公園(平和公園)が完成しました。この公園は、原爆ドームを北の起点として原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館が南北方向に一直線上に位置するよう設計されており、原爆ドームをシンボルとして際立たせる意図もありました。1歳のときに被爆した楮山ヒロ子さんの日記やそれを読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎氏や中高生らによる「広島折鶴の会」が中心となって6年以上にわたる保存を求める署名・募金などの運動が続き、メディアにも取り上げられ全国的広がりを見せるようになり、1966年7月11日に広島市議会が原爆ドームの保存要望を決議し、保存されることとなりました。1995年には国の史跡に指定、1996年12月5日にはユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録されました。

260517-5 260517-13単なる戦争遺跡ではなく核兵器による破壊の悲惨さの象徴・人類全体への警鐘というメッセージ性のある遺産、犠牲者の墓標という性格をもっているのが原爆ドームです。保存が決まるまでは  「自分のアバタ面を世界に誇示して同情を引こうとする貧乏根性を広島市民はもはや精算しなければいけない」など℃書き立てた新聞もあったとのことですが、広島への原爆投下という歴史を決して風化させないためにも今後も修復を行いながら保存してゆくことが大切であると感じます。

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2026年10月12日 (月)

速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 天守閣は閉城となったものの威厳と美しさを保つ広島城を見学

岡山、倉敷、尾道を巡り最後は広島です。まずはこれまでの広島訪問で訪れていなかった広島城を訪問しました。


Dsc06202edit2026/5/17 広島城址の案内図

鎌倉時代に安芸の国吉田荘に地頭職を得たことから毛利氏と安芸の国の繋がりが始まりました。その後、相模の国毛利荘、越後と拠点を変えましたが南北朝時代には吉田荘を本拠とし、郡山城を中心に勢力を固めてゆきました。戦国大名毛利元就の時代、当地は山口の大内氏と山陰の尼子氏の二大勢力に挟まれ苦労しましたが、武田氏の滅亡で太田川の下流域、川の内の水軍を手中に収め、デルタ地帯の干拓を積極的に進めました。1555年(弘治元年)の厳島の合戦で陶氏を打ち破り広島湾頭を確保し、中国地方の領有化を進め、毛利輝元の時代には織田信長と対峙するようになりました。1582年の本能寺の変で信長が自害するとその後継者として台頭した秀吉に臣従し、豊臣政権の五大老の一人として政権を補佐しました。
 この時代になると郡山城のような山城は時代遅れとなり、太田川のデルタに広大な城郭、城下町の建設を始め、1591年広島城に輝元は入場しました。1593年に石垣が完成、1599年に落成との記録が残っています。しかし、西軍の総大将として参戦した関ケ原の戦いに敗れたことで輝元は「周防、長門」に転封となりました。
 毛利氏に代わって安芸・備後の国を与えられたのが福島正則でした。もともと正則は幼少のころから秀吉に仕え、1583年(天正11年)の賤ケ岳しずがだけ合戦で一番鑓・一番頚くびの活躍をし、正則ら七名は「賤ケ岳しずがだけの七本鑓やり」 として称賛され、1587年(天正15年)には伊予の国今治城主11万石、1595年(文禄4年)には尾張の国清州城主24万石となりましたが、秀吉の死後、石田三成と対立し、関ヶ原合戦では、豊臣恩顧の大名でありながら東軍に属し、先陣を勤めるなど、東軍勝利の功労者となりました。福島正則は広島城下の整備を進めましたが、広島城普請が幕府への事前の届け出なしに行われたことなどから1619年、長野川中島へ転封となり、紀伊和歌山城主浅野長晟が入場することになりました。幕末まで浅野氏が広島城の主であり、第一次、第二次長州戦争では広島が幕府軍の最前線基地となりました。
 明治になり、明治4年7月、本丸内に県庁が置かれ、10月には鎮西鎮台第一分営が設置され、県庁は三の丸に移りました。明治5年には廃城令により、城内の門や櫓の解体が始まりました。明治6年には本丸内に第五軍管区広島鎮台が設置され、1894年の日清戦争開戦では広島城本丸の第五師団司令部庁舎に大本営が開設されました。1931年、天守閣が国宝に指定、1945年、広島城本丸内に中国軍管区・第五十九軍の各司令部が設置されました。


Dsc06223


1945年8月6日、原子爆弾により、天守閣・各城門・櫓および城内の軍事施設が壊滅しました。1957年10月、広島城天守閣(鉄筋コンクリート)の復元工事が始まり、1958年3月26日、竣工しました。

Dsc06205二の丸表御門

Dsc06213城郭の一角を占める広島護国神社

Dsc06216奥まったところに聳える天守閣

Dsc06217 Dsc06218Dsc06219天守閣に関しては今後、どのように再建されるかは現時点では不明のようですが、復元された暁にこちらが広島を再訪する体力が残っていれば是非訪れたいものです。

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2026年10月 8日 (木)

速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 一度は訪れたかった尾道へ その2 千光寺ロープウェイ、山裾を走る鉄路、港町

千光寺山展望台から尾道水道の眺めを堪能した後は帰りはあの急坂を下るのではなくロープウェイ、に乗ってみようと思いロープウェイ山頂駅へ参りました。

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Dsc06069edit昭和32年の開業ですので、今年で満69年、ゴンドラは開業以来3代目の「かもめ」と「さくら」が運行しています。大阪車輛工業が製造しました。ダークブラウンの車体に「さくら」は山をイメージした緑色のドア、「かもめ」は海をイメージした青色のドアが付いています。初代は1982年12月まで、二代目は2011年1月30日まで運行しました。2011年4月1日より、おのみちバスが運行を受託し、2014年1月27日から3月7日にかけ、2億2740万円かけて開業以来使用された原動機械装置を交換しました。

Dsc06071_20261007113001ゴンドラからの眺め
正面に見える橋は手前が新尾道大橋、すぐ横に尾道大橋 どちらも斜張橋で新尾道大橋は自動車専用道路で1999年5月に供用が開始され、本州四国連絡橋尾道・今治ルートの本州側起点となっています。

山裾の平地部分は極めて狭く、そこに山陽本線がへばりつく様に走っています。

47-70017002-etsetora260516かつては昼行特急・急行、寝台特急・急行などが走っていた山陽本線ですが、今はローカル電車と貨物列車がメインの山陽本線です。この日は偶然にも観光列車etSETOraに遭遇しました。

Dsc06077_20261007132601線路沿いの国道2号から尾道渡船のフェリー乗り場に行く道の途中には尾道書房という古本屋があり、内田康夫の小説「後鳥羽伝説殺人事件」を思い出してしまいました。浅見光彦シリーズの第一作で光彦の妹・浅見祐子と一緒に旅をした友人の正法寺美也子が緑色の表紙の本を購入したのがまさにこの古本屋ではなかったかなどと思ってしまいました。

Dsc06082尾道水道を渡る「にゅうしまなみ」

Dsc06083_20261007134001渡船場の駐車場には大量のバイクが

Dsc06085_20261007134201尾道本通り商店街 非常に活気のある商店街でした。

Dsc06086昔ながらの銭湯

Dsc06087林芙美子記念館

慌ただしくいろいろな古き良き時代を思い出す旅になってしまいましたが、機会があれば、再度訪れ、尾道に宿泊し、ゆっくり寺巡りをしたく思いました。

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2026年10月 7日 (水)

速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 一度は訪れたかった尾道へ その1 千光寺頂上展望台まで

岡山、倉敷を後にして次に向かったのは尾道でした。尾道はこれまで山陽本線の旅で何度か通過し、車窓からの眺めは楽しんでいましたが、下車したことのない街でした。

260516_202610061420012026/5/16 尾道駅ホーム 

尾道は瀬戸内海に面し、向島との間には「尾道水道」と呼ばれる狭隘部が存在し、絶景となっており、最近は山陽本線の列車もこの絶景に差し掛かると徐行運転を行っています。元々、尾道三山(千光寺山、西国寺山、浄土寺山)と向島とは山続きでしたが、約300万年前からの断層運動により、陥没、さらに海水面の上昇(縄文海進など)で水没し、尾道水道が出来たと言われています。こういった地形的特徴から「坂の街」として有名であり、林芙美子、志賀直哉などが居を構え、尾道を舞台とした文学作品を多く発表したことから「文学の街」としても有名であり、映画の世界では小津安二郎監督の「東京物語」や大林宣彦監督の「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」(いわゆる尾道三部作」の舞台としても有名です。

古くから海運による物流の集積地として繁栄していましたが、明治時代に山陽鉄道が開通し、鉄道と海運の接点となり、広島県東部では最大の人口を抱える都市になりました、その後、備後地方の中心都市の座は工業都市化で急速に発展した福山市に奪われましたが、1999年5月の瀬戸内しまなみ海道の開通で四国の今治市と陸路で繋がり、物流面での利便性が高まり、2015年3月の中国横断自動車(尾道松江線)の開通で「瀬戸内の十字路)と呼ばれるようになりました。

260516_20261006142201尾道駅 駅舎 山陽新幹線に「新尾道」という駅もありますが、やはり尾道観光の拠点は在来線の尾道駅でしょう。2019年3月10日から建替えられた新駅舎の使用が始まりました。
Overturismの影響なのか駅のコインロッカーは満杯状態で、私も尾道駅で荷物を預けることが出来ず、千光寺山に登る際にスーツケースを携えての登山となり、往生しました。

Dsc06051駅前から千光寺山方面 千光寺山(大宝山)の標高は136mでそれほど高くはありませんが、いざ登ってみると急な坂道が長く続き結構きついことがよく分かりました。

260516_20261006151301千光寺山案内図
この地図を後から見返して、古寺巡りコース(石畳)から外れ、学校の西側の道を上り、千光寺公園視点場から市立美術館の裏を通り展望谷至ったことが分かりました。

Dsc06053最初はこの看板に従ってゆっくり寺巡りをしながら千光寺山の展望台を目指すつもりでしたが、どこかで道を間違えて寺巡りコースから外れ山道に入ってしまいました。

Dsc06054_20261006144801途中で休み休み尾道水道の風景を見ながら、この坂道はあとどれくらい続くのだろうと思っていました。

Dsc06057長い坂道が終わり、千光寺公園の標識が見えた時はホッとしました。

260516_20261006151501千光寺公園案内図

Dsc06059_20261006152301 Dsc06058_20261006152301尾道市立美術館の裏を通って展望台へDsc06063_20261006145401 Dsc06064_20261006145501 Dsc06065 Dsc06066 Dsc06067 Dsc06068_20261006145801尾道水道 西から東へ 千光寺頂上展望台PEAKからの眺め

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2026年10月 5日 (月)

速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 倉敷美観地区を訪問 その3 本町通りから鶴形山阿智山神社へ

倉敷駅からアーケードが続くえびす通り商店街とえびす商店街、あるいは倉敷中央通りから阿知町東部商店街を抜けると本通り商店街に至り、大原美術館から今橋を渡って来る道と交差する辺りから、商家が軒を連ねる風情の街並みとなります。


Dsc05733_20261004094401左手に倉敷公民館や本町郵便局、右手に児島虎次郎記念館

260515_202610040929012026/5/15 美観地区から市北東部へ鶴形山を抜けるための鶴形山隧道

Dsc05730大原家の庇護のもと洋画家として活躍、さらに大原美術館のコレクションの収集を行った児島虎次郎の記念館が2025年4月に大原美術館の別館として開館しました。

Dsc05735_20261004094801白壁の商家が続きます。


Dsc05743軒先に吊る下げられた杉玉が印象的だった森田酒造場 

Dsc05738 鶴形山阿知神社への参道

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1594年(文禄3年)に近隣の寺内に祭祀された妙見宮を遷座し、1869年(明治2年)に神仏分離で現社名となりました。航海の安全を司る宗像三女神を主祭神としています。

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2026年10月 1日 (木)

速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 倉敷美観地区を訪問 その2 倉敷川に沿って

倉敷美観地区の魅力はかつて運河として利用された倉敷川、川沿いに並び立つ柳の並木、そして川面に浮かぶ川舟だと思います。

260515_202609300647012026/5/15 今橋付近の川面に浮かぶ白鳥

260515_20260930064901中橋の傍に川舟の乗船場があります。午前9:30から17:00まで30分おきに出発し、料金は大人700円です(10月から1000円に値上げとなりました)。定員は6名です。

260515_20260930065801
260515-3中橋と高砂橋の間
倉敷観光案内所、倉敷民藝館、日本郷土玩具館などの建物が川の西岸に建っています。

川の周りを一通り散策した後は大原美術館へ、さらに本町方面に足を伸ばしました。

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2026年9月30日 (水)

速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 倉敷美観地区を訪問 その1 大原家の建物

江戸時代初期の1642年(寛永19年)、倉敷は天領とされ代官所が設けられました。それ以来、備中国南部の物資の集積地として発展し、倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の街並みが保存されてきました。1969年に市の条例で美観地区に定められ、1979年には岡山県内2件目の重要伝統的建造物群保存地区に設定され今日に至っています。私自身、倉敷美観地区は岡山で学会等が開催されるときにはよく足を伸ばしており、今回で数回目ですが訪れるたびに美しい街並みに心を癒されています。今回は大原美術館をはじめとして倉敷川に沿った風景を堪能し、鶴形山の阿知神社も参拝しました。

260515-edit2026/5/15 倉敷の駅から線路と直角に南東に伸びる大通りを10分ほど歩くと美観地区入口の交差点があります。そこを左折し、1ブロックほど進むと倉敷川(運河)その周りに美観地区が広がっています。

260515_20260929155001白壁、なまこ壁の蔵風の商家

260515_20260929155501倉敷川に架かる最北の石橋は今橋

260515-2 260515-5今橋の西側に大原美術館

大原美術館は倉敷の実業家大原孫三郎が洋画家児島虎次郎に託して収集した西洋美術、古代エジプト美術、中近東美術、中国美術などの作品を展示するため1930年に開館した我が国初の西洋美術、近代美術を常設展示する美術館です。ニューヨークの近代美術館が1929年に開館していることを考慮しても日本に当時、美術館が数えるほどしか存在していなかったことを考えると大原孫三郎の先見性は特筆すべきものです。

260515-2_20260929160701今橋の反対側には旧大原家住宅があります。

260515_20260929160901旧大原家住宅の隣には有隣荘

天領倉敷では「古禄」と言われる世襲勢力が元々栄えていましたが、新田、塩田開発、倉敷川の水運の利を生かした「新禄」と呼ばれる商人が新興勢力として台頭、なかでも大原家と大橋家が筆頭格でした。大原家は綿の仲買いで発展し、倉敷川の終点に居を構え、河岸の両側に店舗と蔵を構えました。1889年大原孝四郎は倉敷紡績の設立に参加、孫三郎はそれをさらに発展させ、財閥となり、得た富で倉敷中央病院、大原美術館などを造営しました。有隣荘は1928年に孫三郎が家族で住むために建てた大原家の旧別邸です。
そもそも倉敷はなぜ「繊維のまち」になったのか、それは400年前頃までこの辺一帯は「吉備の穴海」と呼ばれる一面の海でした。江戸時代から干拓が始まり、海は陸地となりましたが、土壌に残る塩分のため稲作には適さず綿花やイグサなどの作物が栽培されました。これらを原料として倉敷の繊維産業が花開き、国内屈指の製品出荷額を誇る「繊維のまち」となりました。

260515-8今橋から中橋方向

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2026年9月29日 (火)

速報版 2026年初夏、岡山、広島方面の旅 岡山城を見学

2026年5月の岡山、広島の旅、最後は観光編です。

最初は岡山城です。岡山城は豊臣政権末期の五大老の一人、宇喜多秀家の父、直家が旭川の河口部の大洲原と呼ばれるデルタ地帯のある3つの丘(岡山(柴岡山)、石山、天神山(天満山))からなる天然の要害にあった石山城に入城、改築し、後に子の秀家が岡山に本丸を設置、石山城を取り囲む形で城郭を建造、今日残る岡山城が出来たとされています。石山城は正平年間(1346~1369年)に名和氏の一族上神高直が石山台に築いたと「備前軍記」には記されています。戦国時代の大永年間(1521~1528年)は金光氏居城し、金川城主の松田氏に仕えていましたが、1570年(元亀元年)、宇喜田直家が金光宗高を謀殺しこの地を支配することで宇喜多家の城となりました。天守閣は1597年に完成しました。

Dsc05474_202609290700012026/5/14 岡山城天守閣

Dsc05475edit2026/5/14 岡山城案内板

関ケ原の戦いで西軍の主力だった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易、代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城、本丸の整備、城下町の拡大が行われましたが、1602年10月、急死、嗣子がなく小早川家は断絶し、以後、池田家が幕末まで城主の地位にありました。明治になり版籍奉還、1873年の廃城令で建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われ、1882年頃には天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなりました。
1931年に天守が旧国宝に指定、1933年には月見櫓・西丸西手櫓・石山門も旧国宝に指定されました。1945年6月29日の岡山大空襲で天守・石山門が焼失、1950年、文化財保護法の施行により、焼け残った月見櫓・西丸西手櫓が国の重要文化財に指定され、1964年から1966年にかけ天守を鉄筋コンクリートにて再建。同時に不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部も再建されました。1987年、岡山城址として史跡に指定されました。

Dsc05483 Dsc054822026/5/14 岡山城廊下門
1966年に再建 城主専用の廊下の下に設けられた門であることからこの名が

Dsc05489 Dsc054922026/5/14 不明門
こちらも1966年に再建 本段に上がる入り口の門で普段は閉まっていました。

Dsc05478廊下門前の石垣

Dsc05486Dsc05485地下から発掘された宇喜多氏築城当時の石垣

石垣の石の切り揃え方、積み方も時代を追って進化しているのが分かります。

Dsc054962026/5/14 本段付近から見た天守閣
外壁は黒塗りの下見板で覆われ、烏城の別名があります。金箔瓦が用いられており豊臣政権下の有力大名である威厳を示していたようです。天守の石垣の1階平面が不等辺五角形となっているのが特徴です。これは土台となった岡山の丘の地形によるものと言われています。

Dsc05503_202609290727012026/5/14 天守台より岡山後楽園方面を望む 旭川にかかる月見橋

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