大川端・佃島周辺を散策する part12 浜離宮恩賜庭園
前回のこのシリーズの記事で紹介した通り、浜離宮は徳川将軍家の別邸でした。8代将軍吉宗の時代、この地を殖産の試験場と位置づけ、200種を超える薬草の栽培、琉球から取り寄せたサトウキビの栽培・砂糖の試作、オランダから輸入した洋種馬の飼育、ベトナムから運ばれた雄の象の飼育などが行われ、鍛冶小屋、火術所、大砲場なども設置されました。11代将軍家斉の時代には庭園が概ね整い、将軍の鷹狩りの場として利用されることが多くなりました。幕末には幕府海軍の施設として石造建物が建造され、1869年の英国エジンバラ公アルフレートの訪日の際の接待所「延遼館」として利用され、明治維新後も迎賓施設として利用されましたが、鹿鳴館が完成すると役割を終え、1889年に取り壊されました。
2022/6/28
1923年9月1日の関東大震災、1945年3月10日の東京大空襲では大手門や複数のお茶屋、樹木が焼失し、庭園自体も大きく損傷しました。1945年11月3日、GHQの要求で東京都に下賜され、1946年4月1日に都立庭園として開園しました。1948年12月に国の名勝及び史跡に、1952年11月には特別名勝及び特別史跡に指定されました。
浜離宮周辺の新橋や晴海は再開発で高層ビルが乱立しており、高層ビルに囲まれた緑の庭園となっています。
庭園内は大手門から入場し、反時計回りに外周を歩きました。
明治初期、鹿鳴館が完成するまで、迎賓館の役割を果たした延遼館ですが、2020年東京オリンピックの開催に合わせ、復元が計画されたこともあったそうですが、舛添知事の辞任で流れたそうです。
離宮時代は官舎だったそうで、それを復元し、現在は集会場となっている芳梅亭
富士見の丘から眺めた潮入りの池と中島のお茶屋 背後には松のお茶屋、燕のお茶屋、鷹のお茶屋などが見えます。
庭園内には三百年の松をはじめとして松、けやき、などの大木が多く残されています。
浜離宮の南東側の堀は水門を介して隅田川河口と繋がっており、潮入りの池などには海水が取り込まれ、汽水状態になっています。自由劇場、JR東日本四季劇場秋などの建物が見えます。
潮入りの池では釣りはできませんが、こういった生物が生息しています。
江戸時代から続く都内の庭園では唯一、海水の池となっています。
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