直方市石炭記念館の蒸気機関車 Koppel 32号機
2017年10月15日の記事でアップしたように、2日目のメインは博多駅でのクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」の撮影と直方の石炭記念館訪問でした。同記念館の詳細は2018年1月13日からの記事としてアップしました。 2017/10/14 直方市石炭記念館とその前庭に展示されているKoppel32号機
今回はKoppel製32号機について触れてみようと思います。
Koppel社は正式には オーレンシュタイン・ウント・コッペル (Orenstein & Koppel OHG) 社(以下O&K)といい、1876年4月1日、ベンノ・オーレンシュタインとアルトール・コッペルにより、ベルリンで設立されました。創業当時は一般的な製造業社でしたが、早い段階で鉄道分野に参入、蒸気機関車、貨車、客車の製造を手がけ、さらには建設用削岩機、貨物船、地ならし機、クレーン車、エスカレータなどの製造にも手を広げました。日本には1910年代、軽便鉄道ブームが起こった際に軽便鉄道用機関車が多く輸出されました。ドイツではドイツ帝国軍へ軍用機関車を納入するために設備が拡張されて行きました。
煙室扉の中心がボイラーの中心と合っていないのもこの機関車の特徴 小回りが効き、後方視界も良く、バック運転も楽なことから重用されました。
Koppel32号機は宮田町(現、宮若市)にあった貝島大之浦炭坑が同炭鉱の専用線用の資材運搬用機関車として1925年に輸入しました。1C1軸配置のタンク機で日本に輸入されたKoppel機の中でも最大級(50t)の機関車です。
同機は1976年8月の閉山まで活躍し、1977年4月に石炭記念館に移設されました。
ドイツにおけるO&Kは第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗戦、崩壊、ベルサイユ条約で軍用軽便鉄道の接収、製造産業と軍隊規模の制約を課されました。1925年の終わりから3ヶ月間の操業停止を課せられたものの、以後取引状況は改善し、1930年代にはタイプ50シリーズの蒸機、狭軌用、標準軌用の蒸機を製造、ディーゼル機関車の製造も開始し、ドイツ国営鉄道にも納入されました。
ナチスドイツ統治化、ヒットラーのアーリア化政策で1935年、O&Kと関連会社の株式の強制売却、1941年には政府の信託理事会の管理下に置かれました。この時代はMBAという呼称でした。ベルリンの空襲が始まると設備はすべてプラハに移転しました。第二次世界大戦後の東ドイツ時代はVEBと改名、蒸機の製造も開始しました。
しかし1981年には鉄道事業から撤退、1996年にはエスカレーター製造部門をフィンランドのコネ社に売却、建設機械部門はFiatグループに売却され、2006年にベルリン工場はその歴史の幕を閉じました。
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