2018年8月16日 (木)

2018年3月の関西旅行 南海電鉄編 その26 加太線 part3

加太線の終点、加太駅から海岸までは直線で1km弱の距離です。

Dsc04598 2018/3/23 加太・友ヶ島観光ガイド
加太を先端部とする半島には北から観音崎、住吉崎、城ケ崎、田倉崎といった岬があり、観音崎は大阪府です。

加太は現在、和歌山市の一部ですが、

1889年4月1日  町村制施行で、海部(あま)郡加太浦、深山村、大川浦が合併して加太村が誕生
1896年3月26日 海部郡と名草郡が統合され、海草郡となる
1899年4月1日 町制施行で加太町に
1958年7月1日 市町村合併で和歌山市に編入 
といった歴史を辿っています。

紀伊半島の最西端は田倉崎で沖合には友ヶ島(地ノ島、神島、沖ノ島、虎島)が浮かびます。これらの島々が紀伊半島と淡路島東岸で囲まれる楕円形の大阪湾を囲み、紀淡海峡を3つ、東側から加太ノ瀬戸、中ノ瀬戸、由良瀬戸に分けています。

Dsc04595 加太港に係留される漁船群

加太は紀淡海峡に面した漁業の盛んな場所で、湾の南半分が漁港、北半分が海水浴場となっています。この辺りは神話の時代からの言い伝えがあり、神武天皇東征の際に紀国造氏の祖である天道根命が神鏡と日矛を奉じて加太浦に上陸、頓宮を造営したのが加太春日神社の始まりとされています。1596(慶長元)年建立の本殿は国指定、重要文化財です。

Dsc04599 淡嶋神社の大鳥居

一方、加太淡嶋神社は日本国内に1000社以上あるとされる淡嶋神社の総本社で、日本を創造した少彦名命と大己貴命の祠が加太の沖合の神島(淡島)に祀られていたのが始まりで、三韓出兵の帰途、海難に遭遇した神功皇后が船中で祈りを捧げ、無事友ヶ島に上陸でき、三韓渡来の宝物を奉納したそうです。

数年後に孫の仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際にそのことを知り,島では何かと不自由であろうということで対岸の加太に社を移したのが加太淡島神社のいわれとされています。現在は人形供養や針供養でも有名だそうです。

Dsc04602 紀淡海峡と友ヶ島

Img_7644 友ヶ島の向こうには淡路島が見えます。

大阪湾の防衛という意味でも重要な場所で大日本帝国陸軍が由良要塞を設置しました。由良要塞は、淡路島の由良に司令部がおかれ生石山砲台、成山砲台、高崎砲台、赤松山堡塁、伊張山堡塁、生石山堡塁からなりました。友ヶ島には沖ノ島と虎島に友ヶ島第一~第五砲台と虎島保塁が置かれました。そして加太・深山地区には深山第一、第二砲台、男良谷(深山第三)砲台、城ヶ崎探照灯台、大川山堡塁、高森山保塁が置かれ、南部の鉢巻山には加太砲台、田倉崎砲台、東部の佐瀬川保塁、西ノ庄保塁が置かれました。1903年5月には鳴門地区に置かれた鳴門要塞が編入されました。

大阪難波から和歌山市で電車を乗り継いで2時間弱で到着できる場所ですが、関東在住の人間としては人生初めての訪問地でありました。

ちょうど昼食の時間帯でしたので、ここでなければというものを食べようと思い

Dsc04606
ちょうど営業中だったゑびす屋さんで、すでにシラス定食は売り切れでしたので

Dsc04605
ハマチとイカの刺身定食を食べました。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村  鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2017年2月14日 (火)

広島・四国西南部旅行 広島編 その4 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)6 戦艦陸奥

2014年12月の旅行で呉市海事歴史科学館を訪問し、これまでに同館に展示されている戦艦大和の1/10スケールの模型呉の歴史呉海軍工廠で製造された艦艇広の第11海軍航空廠で製造された航空機マツダのオート三輪 などについて触れて来ました。

141219_3 2014/12/19 呉市海事歴史科学館 戦艦陸奥の図面

今回は長門型戦艦として八八艦隊計画二番艦として長門より1年遅れて1918年6月1日に横須賀海軍工廠で起工され、1920年5月31日に進水した戦艦陸奥について触れようと思います。

141219_1
141219_9 陸奥の砲身

横須賀で建造されたことから呉とは一見、無縁のように思えますが、説明にあるように戦艦として主要な部材である主砲身、副砲身、装甲版、主舵、スクリュープロペラなどは呉で製造されたそうです。

141219_10 スクリュープロペラ

長門・陸奥は大和・武蔵が建造される以前の世界最大の戦艦で
常備排水量 33,800トン
速力   公表 23ノット 実際は26.5ノット
主砲  16インチ砲 8門  

長門は1917年8月28日に呉海軍工廠で起工、1920年11月25日に竣工してましたが、陸奥は1918年6月1日、横須賀海軍工廠で起工しましたが、折しも軍縮の波で廃艦となるところを艤装を急ぎ、軍縮会議直前の1921年10月24日に完成となりました。

141219_11 主舵

英米は何とかして陸奥を廃艦リストに加えようと画策しましたが、日本海軍は陸奥が廃艦になると長門単独では艦隊が組めなくなるため、陸奥を残す方向で手立てを打ちました。

太平洋戦争の開戦後、陸奥は第一艦隊に属し、長門、陸奥、扶桑、山城の4戦艦でアメリカ艦隊との決戦に備え、ミッドウェー海戦などにも出撃しましたが、主力艦として温存されました。

Photo

しかし、1943年6月8日、柱島泊地で、火薬庫爆発事故が起き、呆気なく沈没してしまいました。爆沈事故は海軍のトップシークレットとして隠蔽され、戦後になって一般国民には知らされました。

吉村昭氏の著作「陸奥爆沈」によると1943年5月末にはアッツ島守備隊の突撃・玉砕があったものの、長門・陸奥等の艦隊は北太平洋のアメリカ海軍兵力を攻撃するための弾薬・燃料・食糧等を満載していたにも関わらず、出撃命令は無く、柱島泊地に待機していました。6月8日は長門が修理のため呉海軍工廠第4ドッグに入渠し、陸奥が柱島の旗艦ブイにつながれていました。

長門が修理を終え9時30分に呉を出港、13:00に柱島泊地に到着投錨とのことで、陸奥は旗艦ブイを離れ、二番ブイに移る準備を始めていました。

当日の乗員は1321名、それに艦務実習のため霞ケ浦海兵団の予科練習生と教官153名が乗っており、合計1474名が在艦していました。正午近く、昼食も始まった頃、大爆発が起き、艦はあっというまに沈没したとのことです。

爆沈当初は敵潜水艦による攻撃の可能性が考えられましたが、魚雷等が走った航跡は目撃されず、火薬庫の爆発の可能性が考えられました。

疑われたのが砲弾の自然発火で、最初に疑われたのは安定性に対する十分な検証がされずに当時搭載されつつあった三式弾(空中に発射された後、散弾のように広がり、航空機にダメージを与える弾)でしたが、この弾の自然発火の可能性はなくなりました。

海軍では潜水調査で沈没した艦体を調べることとなり、その結果、第4番砲塔付近で爆発が起こっていたことが明らかになりました。

日本海軍では陸奥以前にも戦艦などの火薬庫で爆発が起き、艦を喪失した事例がありました。

陸奥爆沈に関しても戦後の引き上げ作業で4番砲塔内から遺骨が発見されており、その際に艦内で起きた窃盗事件の犯人と同じ姓が刻まれた印鑑も見つかっていることから、窃盗犯と疑われた人物(吉村氏はQとした)が砲塔に忍び込んで着火したのではとの説が唱えられています。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村  鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2016年9月18日 (日)

広島・四国西南部旅行 広島編 その5 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)2 呉の歴史

大和ミュージアムの展示のテーマのひとつが「呉の歴史」です。今回の記事ではそこに焦点を当ててみようと思います。

1853年、ペリー率いるアメリカの艦隊が横須賀に来航したのをきっかけに200年以上続いた江戸幕府の鎖国政策は終わりを告げました。西欧列強の造船技術を目の当たりにした日本は危機感を抱き、西洋型の船の建造、運用技術を導入するため海軍を創り、その拠点として横須賀、舞鶴、呉、佐世保に鎮守府が設置されることになり、呉鎮守府は1889年に設置されました。全国各地から技術者、労働者が呉に集められ、呉の人口は1886年には1万7000人前後でしたが、1889年には2万4469人に増えました。呉の地の利は三方を山に囲まれて防御に優れており、艦艇の出入港や生産活動の拠点として適していたこと、また水に恵まれ水質も良いことでした。1890年には宮原浄水場が建設され、呉鎮守府水道による給水が開始されました。1918年には海軍の許可を得て平原浄水場が建設され、市民への給水も開始されました。

141219 戦艦「金剛」のヤーロー式ボイラー (三胴水管ボイラー 断面がAの字型をしており、上が蒸気ドラム、下に水ドラムがあり、蒸気ドラムと水ドラムは水管で結ばれています。

戦艦「金剛」は技術導入のため、イギリスに発注した最後の主力艦で1913年8月16日、ヴィッカース社において竣工しましたが、同艦にはこのタイプの重油、石炭混載式のボイラーが36基搭載されていました。1928年から1931年の横須賀海軍工廠での近代化改装で撤去され、戦前は東京目黒の海軍技術研究所、戦後は科学技術庁の金属材料研究所の建物の暖房用として1993年まで使用されていたそうです。

141219_2
141219_3
戦艦「金剛」1/100模型と説明

1884年、イギリス出身のE.C.キルビーの経営する神戸鉄工所が海軍省に引き継がれ、小野浜造船所となり、初期の鎮守府造船部の役割を担い、やがて1897年、呉海軍造船廠、造兵廠と発展拡大して行きました。この間、国産の兵器では海軍初の12センチ速射砲を初めとして、1901年には日本最初の15センチ甲鈑(呉式装甲鈑)の製造にも成功しています。

1903年、両者が合併し、呉海軍工廠が設立され、翌年勃発した日露戦争では船舶の改装や修理に追われました。

呉海軍造船廠時代に通報艦「宮古」を建造し、能力を高めて行きましたが、一等巡洋艦「筑波」「生駒」が最初の国産装甲艦となりました(1905年12月進水)。さらに1907年にはイギリスより、2隻の完成した潜水艦を購入すると共に、3隻分の材料と部品を調達し、呉海軍工廠で建造し、第10、11、12潜水艇として建造し、潜水艦の開発拠点化を目指しました。

当時の戦艦の動力源は蒸気式ボイラーであり、宮原式ボイラーなどの日本独自の開発を進める一方でイギリス、フランスなどとの技術提携も進め、海軍艦政本部式ボイラーを完成させました。イ号ボイラーからロ号ボイラーに発展し、太平洋戦争終結まで各種艦艇用ボイラーとして使用されました。

141219_4 呉市電の模型

鎮守府を擁する呉の街も1902年宮原村、荘山田村、和庄町、二川町の4か町村が合併し、呉市となり、海軍工廠の設立で人口が増加し、学校、病院などが充実し、1909年には人口が10万人を突破しました。

1910年には岩国市新湊沖で第6潜水艇が潜航訓練中、通風筒から浸水し、16メートルの海底に沈没、佐久間艇長をはじめとする14名の乗組員全員が殉職するという痛ましい事故も起きました。この事故では事故発生時に記された遺書に沈没の状況、事故原因、今後の潜水艦技術への提言、乗組員遺族への救済まで書き遺されており、当時、全世界に深い感銘を与えたそうです。

第一次世界大戦による好景気や大正デモクラシーで呉の街は職工黄金時代といわれました。一方で労働運動も盛んになりました。

その後、軍縮の時代になり、艦艇の製造に制限がかかるようになり、技術の向上が叫ばれました。

続きは次回に

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村  鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2016年8月18日 (木)

広島・四国西南部旅行 広島編 その5 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)1 戦艦「大和」の1/10スケール模型

今回から2014年12月の旅行で訪問した呉市海事歴史科学館の展示について触れて行こうと思います。

やはり、最初に取り上げるべきは同館のシンボルとして有名な戦艦「大和」の1/10スケール模型です。
110141219_141219_132014/12/19  1/10scaleの戦艦大和 模型

110141219_141219_7
翔鶴型航空母艦に次いで採用された球状艦首(バルバス・バウ)
こういった形にすることで、船体が水を押しのける際の波と球状艦首による波が干渉し、造波抵抗を減らします。速力27ノット時で8.2%の抵抗減効果があったそうです。

第一次世界大戦後の列強と言われた国々は海軍戦力を増強することで国際的地位を保とうとしました。しかし、こうした軍備の拡張はそれぞれの国の財政負担を招くことになり、1921年11月から1922年2月にかけてアメリカ合衆国大統領ウオレン・G・ハーディングの提案で戦勝5か国(米英日仏伊)の間で軍縮に関する話し合いが持たれるようになりました。これがワシントン軍縮会議で、その成果としてワシントン軍縮条約が締結されました。

110141219_141219_5 艦橋と特徴的な煙突

大和の艦橋上部には目標までの距離を測る測距儀が設置されており、当時、世界一の性能を有していました。2組の上下像合致式とステレオ式の3連装式で構成されていました。

この条約では加盟国が保有する主力艦の数と排水量の合計が制限され、計画中、もしくは建造中の新艦は廃棄され、戦艦の建造は条約締結後の10年間は凍結されることになりました。一方で、この条約では巡洋艦以下の補助艦艇に関しては制限がなく、各国とも可能な限り高性能な「条約型巡洋艦」を建造しました。

1927年ジュネーブ海軍軍縮会議で補助艦の制限について討議が行われましたが、イギリスの個艦規制主義とアメリカの比率主義が対立し、決裂に終わり、1930年1月から4月にかけてイギリス首相ラムゼイ・マクトナルドの提案で開催されたロンドン海軍軍縮会議で戦艦の建造中止措置の5年延長、既存艦の削減、1万トン以下の航空母艦を規定範囲に含める、巡洋艦(重巡洋艦、軽巡洋艦に分類し、規定する)、駆逐艦、潜水艦、その他(特務艦など)について細かく規定を設けることにしました。

110141219_141219_6 46センチ3連装主砲

主砲は重さ1.5トンの砲弾を約40秒ごとに一弾発射可能でした。砲塔は一基の重量が2779トンあり、これは駆逐艦1隻の重量に匹敵しました。

1935年12月には第二次ロンドン軍縮会議が開催されましたが、1934年の予備交渉の時点で日本(大日本帝国)は同会議の脱退を決意、「もはや軍縮の時代は終わったとして」、同時にそれまでの「陸奥」や「長門」に代わる排水量6万5千トン、速度34ノット、18インチ砲8門以上装備の新型高速戦艦の建造案が出され、1936年12月の帝国議会に新型戦艦「A140-F5」2隻分の予算案(9800万円/隻)が提出されました。

このとき、大和型戦艦の建造に対して、当時海軍航空本部長だった山本五十六や海軍省軍務局長だった豊田副武らは異を唱えたそうですが、帝国海軍は航空兵論を退け、大鑑巨砲主義に拘ったそうです。

主機械の変更から「A140-F6」に計画名は変更され、さらに1937年3月には「第一号艦」「第二号艦」に呼称が変更され、第一号艦「大和」は1937年11月4日、呉海軍工廠で起工、1941年12月16日に就役、第二号艦「武蔵」は1938年3月29日、三菱重工業長崎造船所で起工、1942年8月5日に就役しました。大和型戦艦はその後も第四次海軍軍備拡充計画で新たに2隻建造することとなり、3号艦「第一一○号艦」=「信濃」は1940年5月4日に横須賀海軍工廠で起工。建造途中で航空母艦に改装され、1944年11月19日に就役しましたが、わずか10日後に撃沈されました。4号艦「第一一一一号艦」は1940年11月7日に呉海軍工廠で起工しましたが、1942年に建造中止、解体されました。

110141219_141219_15
主砲発射の爆風で破壊されないように艦尾の航空兵装には格納庫が最初から設けられました。また艦載機発進のためのカタパルトも装備されました。

第一次大戦から第二次大戦にかけて、戦力の中心が戦艦の艦砲射撃による攻撃力と雷撃などに対する防御力から、機動力、汎用性、コストパフォーマンスにおいて優れた航空母艦と艦載機に移り、大和のような巨艦は存在意義を失いました。

それを実戦で示したのが日本海軍の真珠湾攻撃やマレー沖海戦でのイギリス海軍最新鋭艦「プリンス・オブ・ウエールズ」の撃沈でした。

歴史的に見れば、結果論的視点からみれば「大和」や「武蔵」などの超弩級戦艦は時代遅れの産物とみなされるかもしれませんが、戦闘を繰り広げていた当時の軍としてみればアメリカ軍も超大型戦艦を構想しており、如何にそういった戦艦を使い倒すかが勝負の分かれ目になったようです。

続きは次の記事で。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村  鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2016年8月 8日 (月)

長瀞で川下りを楽しむ

8月5日の金曜日、アメリカから帰国中の義妹家族と、日帰りで長瀞渓谷に川下りに行って来ました。

長瀞渓谷は荒川上流部の渓谷で、1924年12月9日に国から名勝・天然記念物に指定されており、埼玉県立長瀞玉淀自然公園になっており、川下りは6kmの長さを下ります。

往路は一橋学園から、西武遊園地、レオライナーで西武球場前、西所沢から飯能、飯能で西武秩父線に乗り換え、西武秩父へ、御花畑までの間の仲見世通りは複合型温泉計画リューアル工事とやらで工事中でしたが、

160805_2 2016/8/5 御花畑

C58363_160805 2016/8/5 御花畑

往路、お花畑に到着したらちょうど熊谷からC58363牽引のパレオエクスプレスの通る時間帯でした。

160805 レトロな雰囲気満載の秩父鉄道お花畑(芝桜)駅構内

160805_3 影森方面
左側の線路は西武秩父駅との連絡線

Adv_160805
2016/8/5 お花畑駅に掲出された秩父鉄道の長瀞ライン下りの広告

160805_11 長瀞駅に隣接するライン下り案内所

100hm_160805 長瀞ライン下りも昨年で創業100周年を迎え、その時にパレオエクスプレスに掲出されたHMは待合所に飾ってありました。

長瀞駅で下車すると、駅のすぐ前に川下りの切符売り場があり、コースは上長瀞・親鼻橋から、岩畳までの区間のAコース(3キロ)、岩畳から高砂橋までの下流区間のBコース(3キロ)、そしてA+Bの全区間(6キロ)の3つがあり、料金はA, Bがそれぞれ1600円/1名、Cは3000円/1名です。

駅裏側の案内所からそれぞれの乗船ポイントまで約20名の乗船客と船頭さん2名がマイクロバスで運ばれるシステムとなっています。

我々は全区間を岩畳で乗り継いで乗船することにしました。

160805_4 乗船ポイントは秩父鉄道名物の見える好撮影地でもあります。下ではキャンプを楽しむ人々の姿も

7500_160805
まずはA区間 鉄橋の手前まで来るとタイミング良く上を秩父鉄道の電車が通過して行きました。

160805_5
ナウマン象の研究・報告で名高いドイツの地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(1854~1927)が1878年にこの地を調査し、日本地質学発祥の地としても有名な場所となりましたが、渓谷の両側には数多くの特徴的な岩肌が見えます。

160805_6
160805_2_2
160805_7
中間地点の岩畳は三波川変成帯と呼ばれるジュラ紀から白亜紀に低温高圧型の変成作用を受けた結晶片岩からなり、プレートの沈み込みで地下15kmから30kmの深さに沈み込んで変成作用を受けた岩石が地上に露出したものだそうです。

160805_2_3 岩畳で一旦船を降り、別の船に

160805_3_2
岩畳の乗船場

160805_3_3
下流のBコースへ
岩肌にオレンジのマークが付けられており、それぞれの岩にはその形態から名前が付いているそうですが、その名前は万が一船が事故を起こした際に救助隊に場所を知らせる際に役立つそうです。

160805_8 この岩などはその形態から蛙岩といわれているそうです。

160805_10 高砂橋の下船ポイント到着後 船の横の透明のビニールは急流箇所を通過する際に水しぶきを防ぐためのものです。

160805_9
乗船客と船頭さんは下流の船着き場で待つマイクロバスで、長瀞駅に、一方、船は川底が浅いためエンジンが付けられないため、3隻ずつこのようにトラックに乗せて、上流の乗船場に運びます。

160805_12 長瀞駅窓口で購入した切符は珍しい硬券でした。

C58363_160805_2 寄居では復路のパレオエクスプレスと遭遇

111207_160805 寄居~高麗川間は八高線DCで

ライン下りの後、駅そばで遅い昼食を摂り、帰りは寄居~八高線~拝島~萩山~一橋学園のルートで帰りました。

朝突然思いついたように出かけた日帰り旅行でしたが、大いに楽しめた一日となりました。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村  鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2016年7月23日 (土)

広島・四国西南部旅行 広島編 その5 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)プロローグ

2014年12月の広島・四国西南部旅行では、12月19日、午前中、可部線を訪問し、さらに天神川駅からイオンモール府中(保存蒸機C11 189号機)を見学し、呉線にて呉市を訪れました。
広島訪問のひとつの目的が「戦艦大和ミュージアム」として有名な呉市海事歴史科学館の訪問でした。

141219_2
日本では明治時代の後半に舞鶴、横須賀、呉、佐世保の4港が軍港に指定され、各港に鎮守府と海軍工廠がおかれ、艦隊や航空隊の母港・所属地となりました。大湊は軍港より格下の要港に指定され、要港部が置かれました。太平洋戦争後はこれら5港が海上自衛隊に引き継がれ、艦船の母港として機能しています。横須賀と佐世保は在日アメリカ軍の拠点として第7艦隊の事実上の母港のひとつとなっています。

呉海事歴史科学館は明治時代以降の呉の軍港、鎮守府としての歴史や、基幹産業となった製鋼、造船などの科学技術史を展示し、後世に伝える目的で、1905年の日本海海戦から100年目、1945年の太平洋戦争終結から60年目の2005年4月23日に開館しました。

141219

呉市は被爆地・広島にも近く、海上自衛隊と在日アメリカ陸軍の施設が現役で稼働している安全保障の現場としての土地柄、修学旅行生の平和学習の場としても活用されています。

平和学習の場として開放し、呉市の歴史的観光資源を再発見することを主目的としており、実物の兵器や当時の映像フィルムを淡々と展示し、意見や注釈は付けず、政治的にはニュートラルな立場を取り、歴史認識については来館者個々に任せるのがこの館の方針とのことです。ここら辺は、靖国神社の遊就館の展示とは大きく異なっています。

110141219_141219_13
この館の展示でもっとも印象的な展示は1/10スケールの戦艦大和の展示かと思われます。旅番組などでこの博物館を訪問した際に必ず紹介される展示物であり、象徴的であります。

実はこの旅行では海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」も訪問し、翌月2015年1月にはサンジエゴで空母ミッドウエイの博物館を訪問、そして、2015年10月には横須賀港の戦艦三笠記念館を訪問しており、2015年12月には青森と函館で青函連絡船の記念館を訪問と船関係の博物館を多く訪問した頃でもありました。

先の参議院選挙で憲法改正の発議に必要な2/3の議席を衆参両院で改憲を主張する集団が確保する時代にはなりましたが、再び軍国主義の時代になって行くのかどうかは分かりませんが、まずは呉を中心にかつて帝国海軍はどういった歴史を辿ったのかをきちんと勉強しておくのも重要かと思います。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村  鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2016年1月25日 (月)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 青函連絡船八甲田丸5

青森岸壁に係留されている青函連絡船八甲田丸の話題、今回は車両甲板に保存されている車両の紹介です。

151225
ちょっと見にくいかも知れませんが、車両甲板には
スユニ50 509, 510   キハ82 101
DD16 31 ヒ600 4両 ヨ6000形6798 が保存されています。

50_509_15122550_509_151225_2

50_510_151225 最初は我が国の鉄道郵便・荷物車の最終型となったスユニ50 509, 510です。

国鉄が最後に1977年から設計・製造した50系客車の一形式で、スユニ60形などの置き換え用に計画されました。車体、台枠は新製されましたが、台車はTR47形台車、自動連結器一式は廃車となったスハ43形スハネ16形から流用されたため、名義上は新製ではなく改造扱いとなりました。1978年から1981年にかけて国鉄工場で80両が改造施工されました。

0番台が本州以南用、500番台は北海道用に区分されました。0番台は電気暖房搭載で現番号に2000が付加されました。外部塗色は青15号です。

82_101_151225

82_101_151225_2
続いて本州側では「白鳥」、北海道側では「おおぞら」、「北斗」、「北海」「おおとり」などで青森、函館駅の常連だったキハ82形特急車両です。

キハ82 1011965年7月9日、富士重工で製造、1987年2月18日廃車になるまで終生、函ハコで活躍した車両です。

Dd16_31_151225
DD16 31

DD16形1971年登場した小型液体式ディーゼル機関車で、軸重が12tに制限されている簡易線向けに製造された形式です。1971年から1975年にかけて国鉄長野工場、日本車輌製造・川崎重工業で65両が製造されました。

Dd16_31_151225_2
前後非対称のセミセンターキャブ方式となっているのは長い方にエンジン(DML61S)を出力を1000psから800psに落としたものを搭載し、キャブ下に燃料タンクを配置し、短い方に機関予熱器、蓄電池箱などを納めて軸重不均衡を調整しているからです。

0番台 65両 
300番台 飯山線、大糸線用に2,5,4,13を単線用ラッセル式除雪ヘッドを取り付け可能に改造したタイプ

DD1631     川崎重工大阪工場=3826           1974-04-00 D48.0tBB(1067)
   車歴;1974-04-00 製造→ 納入;国鉄;DD1631→ 配属;青函局→1974-04-25 配置;長万部→
      1980-10-01 五稜郭→1986-03-31 廃車;五稜郭→
      保存;青森県青森市青森港「メモリアルシップ八甲田丸」;DD1631

沖田祐作氏の機関車表データによる31号機の履歴です。

600_151225 ヒ600形貨車

1954年から1977年までに構内入れ換え用、航走車両の積み下ろし作業用の控車として、トム16000形、ワ12000形、ワ22000形、ワム3500形、ワム20000形、ワム21000形、ワム23000形、ワム50000形、ワム90000形、スム1形、テム300形、テラ1形から総数253両が改造されました。走行装置は種車の違いにより、シュー式、一段リンク式、二段リンク式があり、最高速度は65km/hでした。

600_151225_2
1968年10月1日
のダイヤ改正で高速化不適車の指定を受け、識別のためヒの左肩にロが付け加えられました。

600_151225_3
6798_151225
最後は緩急車ヨ6000形6798です。

1950年代から60年代にかけてローカル線の緩急車はワフ(有蓋緩急車)が使用されていました。居住性が悪く不評だったため、その改善と慢性的な緩急車不足を解消させるため、1962年から1969年にかけて製造されたのがヨ6000形式でした。東急車輛製造・協三工業・汽車製造・鉄道車輌工業・日立製作所・若松車輌で905両(ヨ6000 - ヨ6870、ヨ6900 - ヨ6915、ヨ7900 - ヨ7917)が製造されました。

窓4枚の車掌車スタイルを基本としていますが、ヨ5000形に比べると車体が630mm、軸距が300mm短縮され、それに伴い窓数も3個となり、室内の執務用机や椅子、長椅子も3人分から2人分に減らされています。屋根も深いRのカンバス張り屋根を持ったヨ5000形に対し、ヨ6000形はゆるやかなRをもつ浅めの鋼板屋根となり、換気用ベンチレータも1個に減りました。

暖房用ストーブは当初石炭使用のダルマストーブでしたが後に石油ストーブに改装された車両も多数存在し、識別のため妻面左右に白線が標記されました。塗色は黒、常備駅が定められ日本全国で活躍しました。

走り装置はヨ5000形と同様の重ね板ばねを用いた二段リンク式軸箱支持となっており、軸距は短くなったものの、長く軟らかいばねを使用していることもあって、85km/hで走行可能でした。全長は7,200mm、全幅は2,640mm、全高は3,621mm、自重は8.8tで、換算両数は0.8でした。

6000番台 871両
6900番台 16両 北海道向け 二重窓、塩化ビニル床などの耐寒対策
7900番台 18両 耐寒構造で緩衝性能を向上させるため連結器緩衝装置が油圧式に

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村  鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2016年1月18日 (月)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その3 外国人墓地

2015年12月24日、ベイエリアを観光した後は、市電に乗車し、函館どつく前電停周辺と外国人墓地の散策を行いました。

151224_10 2015/12/24 函館どつく前電停

151224_2 函館どつく前から外国人墓地をカバーした地図

151224_3

函館どつく前電停のそばには、弁天台場跡と新撰組最後の地の碑がありました。

弁天(岬)台場は江戸幕府が1856年から1863年にかけて外国船襲来に備えて箱館湾沖に建設した砲台です。周囲390間(約710m)、不等辺6角形で総面積11,611坪(約383,000平方m)高さ37尺(約11.2m)の石垣を持つ土塁2350尺(約780m)に囲まれたものでした。土石は函館山より切り出し、大手門などは大坂から運んだ備前御影石を用いたといわれています。設計者は五稜郭と同じ武田斐三郎で工事は松川弁之助が請け負い、井上喜三郎が引き継ぎました。

151224_4 皮肉なことに台場が実際に使われたのは内戦となった箱館戦争であり、台場は旧幕府脱走軍によって占拠され、新政府軍と砲撃戦が展開されました。しかし、新政府軍によって圧倒され、1869年5月15日、籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか約240名全員、新撰組百余名も含まれており、ここが最後の地となりました。

台場は1896年の港湾改良で取り壊され、周囲が埋め立てられ、消失しました。

このあたりの海岸は函館山の北西の山麓で、対岸には久根別、上磯から茂辺地、葛登支岬まで見えます。

151224_5
151224_2_2
151224_3_2
波静かな湾に停泊する各種の船
3枚目の写真の対岸に見える高架橋が北海道新幹線です。

1512224渡島半島のランドマークでもある駒ヶ岳は噴火前は富士山のような山容で標高1700mありましたが、1640年の大噴火で山頂が崩壊し、 現在のような山容(標高1131m)になったそうです。

151224_2_3 外国人墓地へ行く道路の途中に国華山高龍寺があります。

高龍寺は函館市内では最古の寺院で
1633年 松前法源寺(曹洞宗永平寺派)の僧・盤室芳龍が、亀田(現在の万代町付近)に創建。
1706年 幸坂下に移転。
1869年 箱館戦争において、旧幕府軍が箱館病院分院として使用。しかし5月11日の箱館総攻撃の際、乱入した官軍兵により負傷者を殺害・放火され焼失。
1879年 現在地に移転。
1899年 現本堂が完成。
1911年 東北以北最大といわれる山門が完成。
2012年 本堂・山門など計10の建造物が登録有形文化財となる。 といった歴史がある寺院で、蠣崎波響(松前藩の家老で江戸時代後期の画家)の最高傑作といわれる釈迦涅槃図を所蔵しています。

1512224_2
墓地一帯に入ると最初にあるのが中国人墓地です。

ペリー来航、函館開港で居住外国人が増え、死去する者も増えたので1870年、開拓使と在函5カ国領事の間で協定が結ばれ、外国人墓地設置が決まりました。

151224_7 中国人墓地には中華山荘とも呼ばれ、23基の墓があります。

1512224_3 プロテスタント墓地

函館港を一望する高台にあり、ペリー艦隊ヴァンダリア号の水兵2名の他、イギリス、ドイツ、アメリカ人等41基の墓があります。

151224_8
中国人墓地の道を挟んで反対側、高台側にはロシア人墓地があります。初代ロシア領事の夫人を含む43基の墓があります。墓の形状もロシアの文化を反映しています。

151224_2_4
151224_2_5 墓地群の先にあるピンクの建物は函館検疫所台町措置所

1877年、中国に始まったコレラの流行が日本にも波及する勢いをみせたので内務省からの指示で開拓使函館支庁内に検疫取り扱い事務所が設けられました。しかし、流行は防げず、1885年、防疫体制の強化のため、函館、新潟、横浜、神戸、下関、長崎に常設消毒所が設置されることになりました。函館では同年11月に消毒施設が建てられ、1886年5月には隔離室も併設され、検疫業務が開始されました。

151224_9
1896年3月、函館消毒後は検疫所に改称され、1945年には太平洋戦争終結により、樺太方面からの引揚者の検疫にあたり、多くの患者を措置所に収容し、医療、援護に活躍しました。1968年、検疫所は市内海岸町に落成した港湾内合同庁舎内に移転し、1997年小樽検疫所函館出張所と改称されました。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村  鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2016年1月17日 (日)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その2 ベイエリア散策4

函館ベイエリアの散策、今回は函館港に関する話題に触れてみようと思います。

151224_5 函館港遊覧船の発着場

151224_6 函館港と倉庫群 さらに日本初の気象観測に関する説明

以前の記事に書いたように函館湾一帯は「宇須岸(うすけし)」と呼ばれ、波の穏やかな港として知られていました。1454年に豪族河野政通が館を築き、形が箱に似ていたことから箱館と呼ばれるようになりました。

江戸時代には箱館は廻船の寄港地として繁盛し、箱館は北国における俵物(対中国(清)貿易向けに輸出された煎海鼠(いりなまこ/いりこ)・乾鮑(干鮑(ほしあわび))・鱶鰭(ふかひれ)の海産物(乾物)のこと)の集荷拠点になりました。

151224_8 北前船の碇

151224_10 造船所跡地の碑

19世紀に入ると市街地化するための堀割が設けられ、遠浅の海の埋め立ても進められました。造船所も設けられ人工港湾の整備が進められました。この頃、高田屋嘉兵衛(1769-1827 廻船業者、海商)は蝦夷地御用定雇船頭に任命され、択捉航路を開きました。

151224_9 高田屋嘉兵衛の説明板

1854年3月31日日米和親条約の締結で同年5月17日にはペリーが軍艦5隻を率いて箱館湊に入港し、測量を行いました。1859年には安政五カ国条約で貿易が開始されます。この頃イングランド、ハンプシャー・リミントン生まれのトーマス・ブレーキストン(プラギストンとも標記:1832-1891)は1860年軍務で中国へ派遣され、揚子江上流の探検を行った後、1861年箱館により、その成果をまとめ発表しました。一旦、本国に戻った後、1863年再び来箱します。製材業に従事しながら日本初の蒸気機関による製材所を設立しますが、蝦夷地では輸送手段がなかったため挫折しました。1867年、プラギストン・マル商会を設立し、貿易商として働き、20年以上滞在し、市の発展に貢献しました。
ブレーキストンは上水道や函館港第一桟橋の設計なども手がけ、気象観測の開始に寄与しました。ブレーキストンの名はその後、プラギストン線(動植物の分布境界線)として後世に残ることになりました。

151224_7 倉庫群の一角には前夜、函館山から見えた巨大なクリスマスツリーがありました。カナダのハリファックスから贈られたものとのことです。

函館での気象観測は1838年船大工・続豊治の子として生を受け、5歳の時に回船業を営む福士長松の養子になり、船大工、通訳、測量技師の福士成豊(1838-1922)に受け継がれます。成豊は開拓使の官吏となり、新島襄の海外密航を支援し、ブレーキストンの気象観測所を引き継ぎ、1872年8月26日、函館船場町(現、末広町)の自宅に気候測量所を設け、本格的な気象観測を始めました。1876年ロシアのペトロハブロフスクに出張し、翌年には千島列島を調査・測量し、「クリル諸島海線見取図」を作成しました。

2_151224 正体不明でしたが、ベイエリアの一角にはロンドンの2階建てバスもありました。

話をプラギストン線に戻しますが、ブレーキストンは野鳥の研究から津軽海峡で動植物の境界線があると提唱し、

ツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンザル、ライチョウ、ヤマドリ、アオゲラ は津軽海峡以南
ヒグマ、エゾシカ、エゾシマリス、ミユビゲラ、ヤマゲラ、シマフクロウ、ギンザンマシコは以北に分布

タヌキ、キツネ、ニホンリスは南北で亜種が異なるとされています。

津軽海峡は最終氷河期(約7万年前~1万年前)に140mの水深がある水路部が残ったため北海道と本州で生物相が異なったと考えられています。
近年のゲノム解析技術の発展で北と南で異なる生物種がゲノム配列レベルでどのくらい異なっているのかも興味深いテーマかと思います。

151224_11 ワイン樽を利用したモニュメント 夜はライトアップされて綺麗かと思います。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村  鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

2016年1月14日 (木)

速報版 2015冬の旅行 青森・函館の旅 4日目 函館市内観光 その2 ベイエリア散策1

函館の旅、市内観光2日目、元町の坂の上の教会群を観て歩いた後は、八幡坂を下り、ベイエリアを散策することにしました。

151224_2

151224_2_2
函館は海と山の挟まれた地形で道路も碁盤の目のようになっており、比較的わかりやすいですが、このような地図が至る所にあり、良く整備された観光地であると感じます。

151224_3
ちょっと見えにくいかと思いますが、八幡坂の麓辺りが、昔 会所町といったことを示している標識です。
1854年3月31日、日米和親条約締結で幕府は箱館と下田の開港を決定しました。1859年7月1日には、安政五カ国条約により、長崎、横浜とともに対外貿易港となりました。1869年、旧幕府軍が新政府軍に降伏し、箱館戦争が終結すると、蝦夷地は北海道と改称され、箱館も函館になりました。それまでの箱館府を廃止して、開拓使出張所が設置されました。1882年、開拓使を廃止して、北海道には札幌県、函館県、根室県と農商務省の北海道事業管理局の3県1局で北海道全体を管理する時代となりました。
函館県の県庁が八幡坂の2本北の御役所坂(基坂)に設置され、八幡坂、基坂周辺の一帯は官庁、金融街となりました(関連情報サイト)。今でもこの周辺には当時の名残の建物が数多く見られます。

151224_11
ちょっと離れた先には青函連絡船摩周丸の姿が見えます。

151224_12
沢山並んだライトからイカつり船でしょうか。

151224_13
緑の島の岸壁には多くのヨットが
カリフォルニア・サンディエゴの風景と似ています。

151224_4
2002年 彫刻家 峯田敏郎によって制作された 「記念撮影 未来への始まり-海原-」というタイトルが付けられている 新島襄のブロンズ像

151224_5
同志社大学の創業者である新島襄は諸術調所入学のため、来箱しました。五稜郭を設計した教授武田斐三郎に師事したかったのですが、武田は既に江戸に戻っていたため、塾頭の長岡藩士・菅沼精一郎の紹介でロシア領事官付司祭ニコライの日本語教師となりました。当時は鎖国の世の中で海外渡航は禁止されていましたが、禁を破ってでも海外を見たいという情熱から1864年6月14日夜、大町の波止場から小舟で沖に出て、湾内に停泊するアメリカ商船ベルリン号に乗り移り、密出国しました。その時の様子を表した像です。

151224_6
日本最古のコンクリート電柱

151224_7
函館はしばしば大火に見舞われており、1871年10月15日の切店火事、1873年3月23日の家根屋火事、1879年12月6日の2326戸焼失の火事、1896年8月26日のテコ婆火事、1899年9月15日の2494戸焼失の火事、1907年8月25日の8977戸焼失の火事、1913年5月4日の1532戸焼失の火事、1916年8月2日の火事、1921年4月14日の火事、1934年3月21日の10176戸焼失、死者2054名の火事と焼失個数が1000戸を超える火事でも10件あります。
こういった火事に対して耐火性を持たせるためコンクリート製の電柱が早くから導入され、今日、日本最古の電柱として残るのがこの四角錐の電柱です。1923年製で下辺は47cm、上辺が19cm四方となっています。

151224_8
西波止場美術館

わたしはあまり興味はありませんが、各国のテディベアーアーティストの作品を展示している美術館とのことでした。

151224_9
151224_10
「赤い靴の女の子」の像と歌詞碑

1922年野口雨情が詞を書き、本居長世が作曲した童謡 赤い靴ですが、この歌詞は哀愁を帯びた歌詞で小さい頃から憶えています。静岡県出身の女性が未婚の母として育てていた3歳の女の子を北海道の農場に入植するにあたり、開拓生活の厳しさから、養育を諦め、アメリカ人宣教師に託すものの、宣教師夫妻の帰国の際に結核に冒されていたため、東京麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けられ、そこで結核で9歳で亡くなるという実話に由来するということですね。

歌詞では異国に連れられて行ったことになっていますが、実は東京の孤児院に預けられていました。

上記の定説とそれに対する異議とでいろいろ論争が起こっているようですね(関連記事)。 
横浜の山下公園や横浜駅にも像がありますが、サンディエゴの海辺にもあるそうで、ここ函館の像は2009年に建てられたそうです。

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村  鉄道コム

最後まで読んで戴きありがとうございます。
上のリンクをクリックされると面白い鉄道記事満載のブログ村。もしくは鉄道コムに飛ぶことができます。

その他のカテゴリー

クルーズトレイン スポーツ ディーゼル機関車 ディーゼル機関車DD13/DD15 ディーゼル機関車DD16 ディーゼル機関車DD50 ディーゼル機関車DD51 ディーゼル機関車DD54 ディーゼル機関車DE10/DE11/DE15 ディーゼル機関車DF200 ディーゼル機関車DF50 ニュース ハイブリッド機関車 ハイブリッド気動車 バス 三セク鉄道 事件・事故 事業用車 催事 地下鉄車両 大相撲 客車 客車12系 客車14系 客車20系 客車24系 客車50系 客車E26系 新交通システム 新幹線0系 新幹線電車 旅客機 旅客機 Airbus A220 旅客機 Airbus A300 旅客機 Airbus A310 旅客機 Airbus A318/A319/A320/A321 旅客機 Airbus A330 旅客機 Airbus A340 旅客機 Airbus A350 旅客機 Airbus A380 旅客機 Boeing 707 旅客機 Boeing 727 旅客機 Boeing 737 旅客機 Boeing 747 旅客機 Boeing 757 旅客機 Boeing 767 旅客機 Boeing 777 旅客機 Boeing 787 旅客機 Douglas DC-10/MD-10 旅客機 Douglas DC-8 旅客機 Douglas DC-9/MD-80 series/MD-90/Boeing 717 旅客機 Lockeed L-1011 Tristar 旅行・地域 日記・コラム・つぶやき 書籍 東京メトロ 東京都営地下鉄 民鉄:京成グループ 民鉄:京浜急行電鉄 民鉄:京王電鉄 民鉄:南海電鉄 民鉄:名古屋鉄道 民鉄:大井川鐵道 民鉄:小田急電鉄 民鉄:東急電鉄 民鉄:東武鉄道 民鉄:江ノ電 民鉄:相模鉄道 民鉄:西日本鉄道 民鉄:西武鉄道グループ 民鉄:近畿日本鉄道 気動車 気動車1000形 気動車2000形 気動車キハ100系 気動車キハ110系 気動車キハ11形 気動車キハ120形 気動車キハ126系 気動車キハ141形 気動車キハ150形 気動車キハ181系 気動車キハ183系 気動車キハ185系 気動車キハ187系 気動車キハ189系 気動車キハ201系 気動車キハ20系 気動車キハ25形 気動車キハ261系 気動車キハ281系 気動車キハ283系 気動車キハ32形 気動車キハ35系 気動車キハ40系 気動車キハ45系 気動車キハ56/57/58系 気動車キハ75形 気動車キハ81形 気動車キハ82形 気動車キハ85系 気動車キハE120系 気動車キハE130系 海外の鉄道 特急電車 私鉄 蒸機8620 蒸機9600 蒸機C10 蒸機C11 蒸機C12 蒸機C50 蒸機C51 蒸機C53 蒸機C55 蒸機C56 蒸機C57 蒸機C58 蒸機C59 蒸機C60 蒸機C61 蒸機C62 蒸機D50 蒸機D51 蒸機D52 蒸機D60 蒸機D62 蒸気機関車 貨物列車 路線について 路面電車 軽便鉄道 近郊形電車 通勤電車 連絡船 鉄道以外の博物館・展示施設 鉄道博物館 鉄道施設 電機ED16 電機ED60/ED61/ED62 電機ED70 電機ED71 電機ED72 電機ED73 電機ED74 電機ED75 電機ED76 電機ED77 電機ED78 電機ED79 電機ED91 電機EF10 電機EF12 電機EF13 電機EF15/EF16 電機EF18 電機EF200 電機EF210 電機EF30 電機EF510 電機EF53/EF56/EF59 電機EF55 電機EF57 電機EF58 電機EF59 電機EF60 電機EF61 電機EF62 電機EF63 電機EF64 電機EF65 電機EF66 電機EF70 電機EF71 電機EF80 電機EF81 電機EH10 電機EH200 電機EH500 電機EH800 電気機関車 電車101系 電車103系 電車105系 電車107系 電車113系 電車115系 電車117系 電車119系 電車121系 電車123系 電車125系 電車143系 電車151/161/181系 電車153系 電車155/159/167系 電車157系 電車165/169系 電車183/189系 電車185系 電車201系 電車203系 電車205系 電車207系 電車209系 電車211系 電車213系 電車215系 電車221系 電車223系 電車225系 電車227系 電車251系 電車253系 電車255系 電車281系 電車285系 電車301系 電車303系 電車305系 電車313系 電車323系 電車371系 電車373系 電車381系 電車401/403/421/423/415系 電車417系 電車419系 電車451/453/455/471/473/475/457系 電車481/483/485/489系 電車581/583系 電車651系 電車681系 電車683系 電車70/72系 電車7000系 電車701系 電車711系 電車713系 電車715系 電車719系 電車721系 電車731系 電車781系 電車783系 電車785系 電車789系 電車80系 電車811系 電車813系 電車817系 電車883系 電車_旧形国電 電車BEC819系 電車E127系 電車E217系 電車E231系 電車E233系 電車E235系 電車E257系 電車E259系 電車E351系 電車E353系 電車E501系 電車E531系 電車E653系 電車E655系 電車E657系 電車E721系 電車E751系 電車EV-E301系 電車EV-E801系 電車クモハ42 電車クモハ52

カテゴリー

2019年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
フォト
無料ブログはココログ

日本ブログ村

  • 日本ブログ村