2018年5月29日 (火)

Omaha in Nebraska に来ています その4

オマハ滞在、4日目は世界的に有名な「ヘンリードーリ-動物園」に行ってきました。
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Dsc06406 1898年から動物の飼育が始まり、絶滅種の保存や繁殖の研究で有名となり、1963年に現在の名前が付き、2014年にはトリップ・アドバイザーで世界一の人気を博する状態となったそうです。
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Lied Jungle内部の様子 
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砂漠の生き物と夜行性生き物のドーム
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最後はゴリラの生態を観察する施設を見学しました。
全体の1/3程度でしたが、非常に興味深い施設でした。

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2018年5月28日 (月)

Omaha in Nebraska に来ています その3

Omaha滞在、3日目は昼から教会で結婚式、夕刻からはパーティでした。
ということで、2日目の後半、Durham Museumの様子を今回はレポートします。WEB site URRL: https://durhammuseum.org/
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Dsc06197 2018/5/25  建物外観
ミズーリ川の西岸、オマハのダウンタウンの側にある、かつてのUnion Stationが博物館の建物となっています。
Union Stationはアールデコスタイルの初期に造られた駅舎で1931年に開設されました。乗降客が最も多かったのは第2次世界大戦期で一日に10000人がここを利用したそうです。Durham Museumという名前はこの駅の復興に貢献した慈善事業者のMargre, Charles Durhamにちなんで付けられたそうです。
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建物内部
天井の高い、San DiegoのSanta Fe駅などとも共通する建物です。
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ベンチには木製の人形が置かれており、出札などの事務スペースはギフトショップとなっていますがこういった出札口と客のやりとりも再現されています。
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エントランスから1つ下に降りたところが展示スペースとなっており、かつてあった路面電車1014号
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蒸気機関車1243号
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カブースと呼ばれる緩急車
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さらにはアメリカの鉄道全盛時代に活躍した寝台客車などが展示されていました。
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車内も見学可能でした。
それら以外にアメリカの産業製品、家庭における電化の歴史などを見ることが出来ました。

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2018年5月27日 (日)

Omaha in Nebraska に来ています その2

アメリカ合衆国、ネブラスカ州、オマハ滞在記、2日目はメインの行事は教会で挙げる結婚式のリハーサルとそれに続く夜の顔合わせパーティです。
まずネブラスカ州は北をサウスダコタ、東をアイオワ、ミズーリ、南をカンザス、西をコロラド、ワイオミングと接する北アメリカ大陸のほぼ中央部に位置する州で、地形的にはグレートプレーンズに属し、州都はリンカーン(人口25.8万)ですが、人口的には40万人が暮らすオマハが最大の都市です。オマハはネブラスカ州の東端に位置しており、ミズーリ川がアイオワ州との境界になっています。
州の特徴としては50州の中で唯一州議会が一院制をとっていることだそうです。
産業的には広大な農牧地を抱える農業州で牛肉、豚肉、トウモロコシ、大豆の生産では国内トップであり、またアメリカ大陸の中央部であることから古くから鉄道が栄えており、オマハにはユニオン・パシフィック鉄道の本社があります。
オマハは北緯41度で日本では函館とほぼ同じ緯度ですが、気候は大陸性気候で、夏は30℃を越え、冬は氷点下4℃くらいまで下がり、雪はそれ程積もりません。元々、ミズーリ川の渡津のために創設された街で、「西部への玄関口」であり、ユニオン・パシフィック鉄道の起点として発展し、19世紀末頃は1883年にユニオン・ストックヤードが完成したため、全米の精肉業の中心となっていたそうです。
Dsc06107 古風な3階建ての建物が博物館
Dsc06106 建物の横にある表札
そういったオマハの歴史を頭に入れつつ、最初に訪問したのが、ミズーリ川の対岸、アイオワ州西部にある「ユニオンパシフィック鉄道博物館」でした。WEB site URL: http://www.uprrmuseum.org/
Dsc06112 客車列車の最後尾に連結された展望車のレプリカ
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1869年5月19日、オマハからのユニオン・パシフィック鉄道とカリフォルニア・サクラメントからのサザン・パシフィック鉄道が繋がり、大陸横断が鉄道で可能となったときのポスター
内容は階ごとに分かれており、1階が鉄道による開拓の歴史、2階が鉄道を維持するシステムの説明と食堂車、寝台車や飛行機が主流になる前のVIP達と鉄道の風景でした。
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リンカーン大統領専用列車の内部の再現
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現代の列車運行システム
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列車による長距離旅行が盛んだった頃の食堂車の再現
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往年の銀幕スターと鉄道
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1950年代の長距離列車の様子
この博物館はスペースの関係もあり、実車を展示することは難しいので、模型や写真等でアメリカの開拓と鉄道の歴史などを上手に説明していました。
続いて、オマハのUnion Stationを利用したDurham Museumを訪れました。

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2018年1月16日 (火)

2017年10月の福岡旅行 4 直方市石炭記念館 その4

筑豊地方における石炭の産出は公式の記録では福岡藩が元禄末期の1700年初頭に遠賀、鞍手、嘉麻、穂波の4郡における石炭の産出状況を調査したもので、当時は農民が農業の片手間として石炭を採掘していました。1736年(元文元年)、福岡藩は石炭の藩外持ち出しを許可しました。

Dsc09994 2017/10/14 川ひらたの展示

鉄道が開通する前の石炭の輸送は。もっぱら遠賀川を利用した川艜(かわひらた)という船によるものでした。これは石炭を積載する底の平たい船で、遠賀川は比較的水深の浅い川のため、石炭を載せた船を川に浮かべそれを両河岸で人間が引っ張って進む方式でした。

Dsc00010 筑豊の炭田は遠賀川に沿って集中しています。

当初は遠賀川の河口の芦屋港まで運んでいましたが、1621年(元和7年)に堀川の掘削工事がが開始され、183年の歳月をかけて1804年(文化元年)、工事の完成で中間付近で分岐し、吉田、折尾を経由し、洞海湾にいたる水上ルートを使った輸送になりました。折尾付近は川たいら従事者の休憩場所となったそうです。

100319 2010/3/19 折尾駅前の堀川
この河は遠賀川と洞海湾を結ぶ人工運河で、川沿いの店は川ひらたとともに発展しました。

1891年8月30日筑豊興業鉄道により、若松~直方間25kmが鉄道で結ばれると、石炭輸送は鉄道による時代となりました。

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やがて炭鉱は筑豊御三家と呼ばれる地方財閥が実権を握るようになりました。それらは「麻生家」「貝島家」「安川家」でした。さらに伊藤伝右衛門、堀三太郎を加えた5名が筑豊の炭鉱王と言われたそうです。それらが定期的に集まり会議を開いたのが、この石炭記念館の建物でした。

直方はそういった意味もあり、筑豊炭鉱の中心的な場所であり、水運時代から彦山川、犬鳴川が合流し、遠賀川となるポイントでもありました。

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鉄道の時代になって直方駅は石炭輸送貨物列車の牽引機関車の機関庫が置かれ、貨物列車を仕立てる多くの線路、3つの転車台などを誇る駅になりました。

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転車台のひとつは現在も筑豊本線に架かる跨線橋として記念館のそばにあります。

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ちょっと見苦しい写真で恐縮ですが、炭鉱全盛期にはそこから石炭を積み出すために多くの支線が存在しました。それがヤマの閉山とともに鉄道も廃線となってしまいました。

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以前、若松駅の記事で触れましたが、若松港が整備され、大型船が入港できるようになってからはこのように貨物列車から船に石炭が積み込まれて行きました。

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石炭輸送に関わった蒸機の形式は結構多いですが、やはり一番長く、多くの両数が活躍したのは9600形式だそうです。

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2018年1月15日 (月)

2017年10月の福岡旅行 4 直方市石炭記念館 その3

人間は石炭をいつ、どういったきっかけから見いだしたか?

さまざまな伝説や古文書に記載が見受けられるものの、確かな文献は少ないようで、口碑伝承として、最も古いとされているものは、三池地方における以下の記述です。

――文明元年(一四六九)一月十五日、三池郡稲荷村(とうかむら。現在の大牟田口にあたる)の百姓伝治左衛門が近くの稲荷山にたきぎをとりにいき、枯葉を集めて火をつけると、突然地上に露出していた黒い岩が燃え出したのである。これが”燃える石”つまり石炭の発見である、と伝えられている。これ以後、この附近の村人たちは、燃料として従来の薪やすみのかわりに用いるようになった。(安政六年・一八五九。橋本屋富五郎発行『石炭由来記』外などから)

また文明十年(一四七八)三月、筑前遠賀郡香月村の畑部落の金剛山で土民が黒い悪臭を出しよく燃える石を掘り出して献納、城主の杉七郎太夫興利はこれをかがり火として利用している。同じ文明十年には、遠賀郡垣生村で五郎太という者が、焼肥(ちりとかほこりなどをむし焼きにした肥料)をしていた時、偶然わきにあった石に火が移り燃えだした。このことは後に石炭を運搬する小舟を彼の名をとって“五郎太夫”というようになったといわれる。

麻生百年史から、原文のまま)

地中に埋蔵される固体の石炭をどうやって掘るが、採掘方法は大きく分けてふたつあります。

ひとつは露天採掘法で地表近くの炭層までの表土を除去し、ショベルで掘り、トラックで運ぶという比較的単純な方法で、経費がかからないこと、大規模な展開が可能なことメリットですが、デメリットとして森林破壊が進み、生産が天候に左右されること、深い場所に存在する炭層に対して表土の剝土に経費が懸かることなどがあります。
アメリカのBlack Thunder炭鉱や中国の神華集団補連塔鉱などがこの方法で採掘されています。
Dsc00006 炭鉱の模型 炭層に合わせて坑道が掘られています。

もう一つは坑内採掘法で炭層まで坑道を掘り、そこから炭層に対して一定の面積で掘る方法ですが、ロングウォール採炭法のように100~300mの幅で採炭する方法とルームアンドピラー採炭法のように坑道を格子状に掘り採炭する方法です。前者が掘り残しが少ないのに対して、後者は掘り残しが多いのが特徴です。ただ、断層などで炭層が上下などに変化する場合、後者の法が有利になります(これらの工法に関してはこちらのページを参考にしました)。

Dsc00008 人力で採掘、搬出していた時代
坑道に一家で入り、仕事していたケースも多くありました。

採掘法が機械化される前の(明治時代)は一日中坑道で「とうちゃん」が掘り(先山)、「かあちゃん」が運び出し(後山)、子どもがそれを手伝うという炭鉱一家も多く存在したそうです。とうちゃんは褌一丁、かあちゃんも腰巻きだけが多かったようです。

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カナリアは人間よりも先に有毒ガスを検知して囀りをやめることから、炭鉱労働者は必ずカナリアの鳥かごを携行してヤマに入ったそうです。そのために炭鉱にはカナリヤに感謝の意を込めて「鳥塚」がありました。
現代では「炭鉱のカナリア」の話は金融市場で残っているそうですが、1995年、オウム真理教の上九一色村のサティアン捜査の際などにも捜査員がカナリア籠を携行しました。

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カナリア以外にも安全灯の炎の様子など有毒ガスの発生を検知する方法が経験的にありましたが、ドイツで光の屈折を利用したガス検知器が開発され、日本の炭鉱でも利用されたそうです。

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酸素ボンベを備えた有毒マスクで炭鉱内での爆発事故などで威力を発揮しました。
糸田町の豊国炭鉱で1907年(明治40年)に大規模なガス爆発事故が発生し、炭鉱事故の恐ろしさを知った筑豊石炭鉱業組合がドイツから3台購入したときの1台だそうです。
ドレーガー式とは吐き出された呼気から二酸化炭素を吸収し、残りの窒素、酸素を混ぜて装着者の口元に送る仕組みで一酸化炭素が充満した坑内でも1~2時間の作業を可能にしました。

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それでもこの表のように死者10名以上の重大災害が多く発生しています。

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館内には模擬採炭切羽もあります。

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ジブ・カッター(チェーン式コールカッター)といった坑内採掘機械の展示

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水力採炭機

など坑道で活躍した機械の展示でした。

次回は、筑豊地方における石炭の輸送について触れます。

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2018年1月14日 (日)

2017年10月の福岡旅行 4 直方市石炭記念館 その2

直方石炭記念館の話題、今回からは建物内部の展示です。まずは石炭とは何か。

1
2 2017/10/14 入場すると配られるパンフレット

今でも製鉄などで使われており、北海道釧路沖に炭鉱はありますが、石炭が日本人の日常生活から消えて久しいです。
私が小学校の頃(1968年に卒業)は毎年12月頃から翌年3月頃にかけて教室に石炭ストーブが設置され、4年生以上でのクラスでは毎朝、日直が石炭ストーブの点火、そして午後3時過ぎから灰の清掃をしていました。ストーブの周りには弁当箱を温めるためのブリキ製の棚が置かれ、午前中の教室には独特の臭いがしたものでした。石炭ストーブの点火は紙を入れ、火を点け、続いて薪を加え、ある程度、釜が暖まってから石炭を徐々に加えて行くもので、蒸気機関車のボイラー点火~蒸気圧上昇の過程と似ているのではと思います。タイミングを誤って、石炭を早めにくべると悲惨なことになるのは言うまでもありません。

私たちの学年の数学年下からは石油ストーブに転換され、ボタンひとつで点火の時代になりました。

石炭は上のパンフレットにもあるようにメタセコイアのような植物が枯れて倒れ、堆積し、地層で圧縮されて生成するといわれていますが、その条件として植物の死骸が微生物などにより分解されずに、石炭化が進むことが重要といわれています。そういった場所として、湿原や湿地帯などの、水中に死骸が没し、酸素が少ない条件で微生物などによる分解が進まないこと挙げられます。

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こうして石炭化が開始され、堆積年代を経て、泥炭~褐炭~瀝青炭~無煙炭と植物に含まれていたセルロース、リグニンなどから酸素や水素が減り、炭素濃度が上がって行くとのことです。因みに日本列島は環太平洋造山帯に位置し、地殻変動が盛んなため、諸外国に較べ石炭化が進みやすいといわれています。

地球上の地域によって石炭の産出する地層が違っており、ヨーロッパや北米では石炭紀(2億8千万年前頃)の地層から石炭が産出されるのに対して、日本では7~2千万年前の新世紀第三紀の地層から石炭が産出されています。そしてこの地層から出る石炭のヨーロッパ、北米では石炭化初期の褐炭が主体なのに対して、日本では瀝青炭が産出するそうです。

近年の分子生物学研究から地球上で唯一、植物繊維リグニンを分解できる白色腐朽菌が登場したのが古生代石炭紀末期(2億9千万円前)とされており、石炭紀以降に急激に有機炭素貯蔵量が減少するのはこの菌の登場によるものと考えられています。

今でも炭鉱があり、石炭が採掘されているのは製鉄における還元反応(コークスと塊状鉄鉱石を高炉に積み上げ、下から空気を吹き込み、発生するCOで銑鉄を生成させる)に不可欠であること、燃料として安価であること、輸送・貯蔵のにおいて固体であるため安全性が高いこと、貯蔵量が豊富で地球上、多くの場所に埋蔵されていることなどが挙げられます。

一方で、エネルギー量の少なさ、固体のための採掘、運搬、貯蔵コストの問題、熱効率の低さ、中国などでPM2.5が社会問題となったようにその燃焼によって発生する大気汚染物質の問題などから、工業用利用は別として一般社会から石炭は過去のものになって行きました。

次回は炭鉱における石炭の採掘の様子について触れます。

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2018年1月13日 (土)

2017年10月の福岡旅行 4 直方市石炭記念館 その1

直方駅から筑豊本線に沿って南下し、多賀神社の南側にかつてこの地方の炭鉱主達が集まって会議を開いた建物が遺されており、現在は「直方市石炭記念館」となっています。

171014 2017/10/14 筑豊本線の線路越しに見える石炭記念館の建物と野外展示物

たまたま筑豊地方の公園保存蒸気機関車を調べていたところ、記念館にも蒸気機関車等が保存されているので訪問しようということがきっかけだったのですが、筑豊地方の採炭、輸送の歴史に加えて、炭鉱における安全対策から労働環境などあらゆることが的確に纏められている記念館だと感じました。今回から数回に分けてその内容を紹介しようと思います。

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アクセスにはいろいろな方法があり、往路は駅の南側で線路を越える道で西から行きました。

同館のWEBサイトの記述によると筑豊炭田は明治の初めから昭和51年までの約100年間に8億トンの石炭を産出し、日本の産業発展、近代化に貢献してきました。筑豊の炭鉱が閉山により少なくなった昭和46年7月、「炭鉱の歴史」を後世に伝えるため、同記念館は誕生したそうです。

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上の写真の道を先で左に曲がると記念館に通じる坂道に出ます。

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坂道を登り切ると展示されている機関車などが見えて来ます。

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表札

Dsc09968 WEBサイトに書かれているこの場所の歴史などが記されています。

まずは外部展示物から、

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C11131号機
こちらはちょうど補修作業の最中でした。補修作業を行っておられたのは直方汽車倶楽部の皆さんとのことでした。同倶楽部の公式サイトにも記念館のC11131の修復作業の記事が載っています。

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説明板

Dsc09972 C11の後方には石炭車セム1が

Dsc09973 説明板

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コッペル32号機 貝島炭鉱専用線用に1925年ドイツから輸入した機関車で1976年の閉山まで52年間走り続けました。

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後部には石炭車 ロト22号

さらに炭鉱における落盤事故などを想定して、万が一事故が起きたときのための救護訓練用の施設も展示されています。

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救護訓練坑道とそこに入ろうとする圧搾空気式機関車

以上が外部に展示されていました。

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2017年10月15日 (日)

速報版 福岡県を旅行中 2日目

昨年の同じ時期、幡生の下関センターの公開に参加したときは一泊もせず、往復とも夜行高速バスの超ハードスケジュールの旅でしたが、今回は2泊するので、2日目は

1 クルーズトレイン「ななつ星in九州」を撮影する。
2 筑豊本線に導入されたデンチヤを記録する。
3 九州北部に保存されている車両に会いにゆく
をテーマにしました。

まず、クルーズトレイン「ななつ星in九州」ですが、JR九州のWEBサイトを調べるとその紹介のページに運行日、運行時刻が載っています。8月26日から、12月23日まで、そして来年1月6日から2月24日まで土日は1泊2日コースで長崎方面に向かい、9:58に博多を出発のスケジュールです。

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出発の約30分前に博多駅に到着すると既に発車予定の5番線ホームには光沢マルーン塗装に包まれたDF200-700077系7000番台客車7両、さらには黒色塗装のDE10 1753号機が待っていました。

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配置は機関車・客車とも大分車両センターですが、博多出発の際は竹下から牽引されてくるために先頭には黒塗りのDE10 1753号機が牽引役を務め、既に切り離されていました。
各車両の写真も収めました。

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Img_5886 2017/10/14 博多

定刻に汽笛一声を発してマルーンの列車が静々と出発して行きました。

Dsc09789 黒崎の桃園公園のD51244号機

Dsc09826 2017/10/14 黒崎 3009

黒崎では直方に至る筑豊電気鉄道が経営する路線でかつて西鉄北九州線との相互乗り入れも行っていたため、今でも路面電車スタイルの車両が走っています。

Dsc00093 筑前垣生のC11260号機

まるで全検を終えて出場してきた機関車のようにピカピカだったC11260号機
蒸機ドームは丸く、砂箱は角型の変形機、デフレクターは門鉄タイプ。

Dsc00165 遠賀川総合運動公園の78626号機
前照灯の欠落とナンバープレートがレプリカなのが残念

Dsc00116 遠賀川が日本海に注ぐ河口の街 芦屋高浜公園に保存されているD60 61号機
こちらも門鉄デフレクターが似合っています。

Dsc00046 直方市石炭記念館

直方駅から南方へ線路に沿って小高い丘の上に建つかつての石炭産業関係者が会議を持った建物を利用しており、筑豊の石炭採掘、若松までの輸送、八幡官営製鉄の歴史の勉強ができます。保存機は見えているコッペル32号機、そしてC11131号機が保存されており、石炭輸送用貨物車も保存されています。

Dsc00045 2017/10/14 直方 400形 404

手前の線路には筑豊本線、福北ゆたか線、平成筑豊鉄道が走っています。

そして「デンチャ」の話題です

Dsc00061 2017/10/14 直方 充電中?

正式にはBEC819系で近郊形交流用蓄電池駆動電車。「"D"UAL "EN"ERGY "CHA"RGE TRAIN」の頭文字をとった「DENCHA」の愛称が与えられています。烏山線のEV-E301系(DC版)に続き、交流版で初めて蓄電池走行を可能にした車両で、男鹿線のEV-E801系はこの車両で得られた技術をベースにしています。折尾から先の筑豊本線若松までは無架線区間をパンタを下げて走行します。

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折尾駅に停車中のBEC819系と817系、上方の架線はここで終わっています。
BEC819系は若松まで直通可能です。

最後は遠賀川駅です、ここはかつて日本陸軍芦屋飛行場を接収した進駐軍が建築資材、燃料、ジープ、トラックなどを輸送するために専用線を建設し、芦屋線と呼ばれました。米軍基地の返還とともに1961年に廃止されました。また石炭全盛時代、沿線の中小炭鉱から掘り出される石炭輸送のために室木線がありましたが、1985年バスに置き換えられ廃止されました。

Dsc00157 2017/10/14 改札口等はすべて閉鎖された遠賀川駅舎

そういった歴史のある遠賀川駅ですが今年8月30日、駅構内のたい焼き店付近から出火し、駅舎が全焼しました。

Dsc00183 海老津よりに設置された臨時改札口

(10月15日にアップしたものに10月16日に写真を添え、アップデイトしました。)

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2017年2月14日 (火)

広島・四国西南部旅行 広島編 その4 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)6 戦艦陸奥

2014年12月の旅行で呉市海事歴史科学館を訪問し、これまでに同館に展示されている戦艦大和の1/10スケールの模型呉の歴史呉海軍工廠で製造された艦艇広の第11海軍航空廠で製造された航空機マツダのオート三輪 などについて触れて来ました。

141219_3 2014/12/19 呉市海事歴史科学館 戦艦陸奥の図面

今回は長門型戦艦として八八艦隊計画二番艦として長門より1年遅れて1918年6月1日に横須賀海軍工廠で起工され、1920年5月31日に進水した戦艦陸奥について触れようと思います。

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141219_9 陸奥の砲身

横須賀で建造されたことから呉とは一見、無縁のように思えますが、説明にあるように戦艦として主要な部材である主砲身、副砲身、装甲版、主舵、スクリュープロペラなどは呉で製造されたそうです。

141219_10 スクリュープロペラ

長門・陸奥は大和・武蔵が建造される以前の世界最大の戦艦で
常備排水量 33,800トン
速力   公表 23ノット 実際は26.5ノット
主砲  16インチ砲 8門  

長門は1917年8月28日に呉海軍工廠で起工、1920年11月25日に竣工してましたが、陸奥は1918年6月1日、横須賀海軍工廠で起工しましたが、折しも軍縮の波で廃艦となるところを艤装を急ぎ、軍縮会議直前の1921年10月24日に完成となりました。

141219_11 主舵

英米は何とかして陸奥を廃艦リストに加えようと画策しましたが、日本海軍は陸奥が廃艦になると長門単独では艦隊が組めなくなるため、陸奥を残す方向で手立てを打ちました。

太平洋戦争の開戦後、陸奥は第一艦隊に属し、長門、陸奥、扶桑、山城の4戦艦でアメリカ艦隊との決戦に備え、ミッドウェー海戦などにも出撃しましたが、主力艦として温存されました。

Photo

しかし、1943年6月8日、柱島泊地で、火薬庫爆発事故が起き、呆気なく沈没してしまいました。爆沈事故は海軍のトップシークレットとして隠蔽され、戦後になって一般国民には知らされました。

吉村昭氏の著作「陸奥爆沈」によると1943年5月末にはアッツ島守備隊の突撃・玉砕があったものの、長門・陸奥等の艦隊は北太平洋のアメリカ海軍兵力を攻撃するための弾薬・燃料・食糧等を満載していたにも関わらず、出撃命令は無く、柱島泊地に待機していました。6月8日は長門が修理のため呉海軍工廠第4ドッグに入渠し、陸奥が柱島の旗艦ブイにつながれていました。

長門が修理を終え9時30分に呉を出港、13:00に柱島泊地に到着投錨とのことで、陸奥は旗艦ブイを離れ、二番ブイに移る準備を始めていました。

当日の乗員は1321名、それに艦務実習のため霞ケ浦海兵団の予科練習生と教官153名が乗っており、合計1474名が在艦していました。正午近く、昼食も始まった頃、大爆発が起き、艦はあっというまに沈没したとのことです。

爆沈当初は敵潜水艦による攻撃の可能性が考えられましたが、魚雷等が走った航跡は目撃されず、火薬庫の爆発の可能性が考えられました。

疑われたのが砲弾の自然発火で、最初に疑われたのは安定性に対する十分な検証がされずに当時搭載されつつあった三式弾(空中に発射された後、散弾のように広がり、航空機にダメージを与える弾)でしたが、この弾の自然発火の可能性はなくなりました。

海軍では潜水調査で沈没した艦体を調べることとなり、その結果、第4番砲塔付近で爆発が起こっていたことが明らかになりました。

日本海軍では陸奥以前にも戦艦などの火薬庫で爆発が起き、艦を喪失した事例がありました。

陸奥爆沈に関しても戦後の引き上げ作業で4番砲塔内から遺骨が発見されており、その際に艦内で起きた窃盗事件の犯人と同じ姓が刻まれた印鑑も見つかっていることから、窃盗犯と疑われた人物(吉村氏はQとした)が砲塔に忍び込んで着火したのではとの説が唱えられています。

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2017年1月 5日 (木)

広島・四国西南部旅行 広島編 その4 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)5 マツダのオート三輪

マツダ株式会社(MAZDA Motor Corporation)といえば誰もが知る自動車メーカーで、本社は広島県安芸郡府中町にあります。

同社は1920年にコルクを生産する東洋コルク工業株式会社として創業し、1927年から1984年までは東洋工業株式会社でした。

MAZDAの社名は事実上の創業者である松田重次郎氏の姓と、叡智・理性・調和の神を意味するゾロアスター教の最高神アフラ・マズター(Ahura Mazda)にちなみ、自動車産業の光明となるよう願って付けられたそうです。

マツダの歴史を語るうえで忘れてならないのがオート三輪の生産です。

160902 2016/9/2 京都鉄道博物館 ダイハツ製のオート三輪

今では「オート三輪」という言葉でさえ、死語のように感じますが、私が中学生のl頃までは普通に街で見かけました。

1917年ごろ、大阪で前2輪、後1輪で前方に荷台を持つ自転車式貨物車(フロントカー)にアメリカ製のエンジンキットを装備した車が登場したのがオート三輪の始まりとされています。しかし、このスタイルは安定性や積載力を欠いたため、程なく前1輪後2輪のレイアウトに移行しました。当初は中小零細メーカーが自動二輪の延長のようなスタイルの車体を造っていましたが、1930年代になると有力エンジンメーカーがオート三輪生産に乗り出し、「ダイハツ」「マツダ」「くろがね」の3大ブランド体制となって行きました。

3_141219 2014/12/19 呉市海事歴史科学館

3_141219_2
マツダがこの頃、1931年10月から生産を開始したのが、3輪トラックマツダ号でした。

太平洋戦争で車両の生産は軍需一辺倒となりましたが、戦後は貨物需要の増大や規制の緩さ(三輪車運転免許の存在)から車両の大型化が進み、一大興隆期を迎えました。

特に原爆投下で壊滅的被害を受けた広島市の復興に大きく貢献したのが東洋工業の存在でした。本社や工場は郊外にあったため、直接の被害を免れたからでした。

1957年 T1500
1959年 K360 T600
1962年 T2000
東洋工業製のオート三輪形式

しかし、居住性の悪さやカーブで横転しやすいこと、高速走行に不向きなことなどが災いして、1969年には東洋工業が撤退し、1972年にはダイハツが撤退し、日本のオート三輪生産は終焉を迎えました。

その後、東洋工業は1960年にR360クーペの発売、さらに1967年ロータリーエンジン車コスモスポーツの発売、フォード社との提携等の道を歩むことになりました。

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