昨年5月23日に「京急ファミリーフェスタ」に参加して以来、このシリーズでは京浜急行、都営地下鉄浅草線、北総鉄道、千葉ニュータウン鉄道の車両を、さらに10月24日の「新京成サンクスフェスタ」以来、新京成の車両も形式別に見てきました。
ということで、私のこれまでの鉄道沿線生活としては全くと言って良いほど縁がなかった京成電鉄ですが、これらの流れから乗車し、写真を撮ることを始めましたので、今回からは京成電鉄の車両についてみてゆこうと思います。
京成グループのネットワークの図 2015/10/24 新京成サンクスフェスタの展示にて
京成の名が示すように東京と成田(成田山新勝寺参拝)を結ぶ電気鉄道として1909年6月30日、京成電気軌道株式会社として設立したのが始まりでした。
1911年11月9日 第一期工事として押上 - 市川(仮・現江戸川駅西方)・曲金(現・京成高砂) - 柴又間を着工し、1912年11月3日に開業しました。
1912年4月27日には金町線の前身である帝釈人車軌道(柴又 - 金町間)を買収しました。
1913年10月21日に柴又 - 金町間が開業し、1914年9月1日に江戸川 - 市川新田(現・市川真間)間、1915年11月3日に市川新田 - 中山間、1916年12月28日には中山 - 船橋間と延伸を繰り返しました。
1921年7月17日船橋 - 千葉間が開業。京成千葉駅(現・千葉中央駅)は現在の千葉中央公園の位置にあり、千葉市の中心部には省線の千葉駅よりも近く、1935年7月1日に省線が電化されるまでは利用客数で圧倒的優位に立っていました。
1925年9月、成宗電気軌道を買収し、10月には本来の目的地・成田への延伸に着手し、1926年12月9日に津田沼 - 酒々井間、24日には酒々井 - 成田花咲町(仮駅)間を開業し、東京と成田までが結ばれました。1930年4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置しました。
東京側のターミナルは長らく押上でしたが都心へは市電の乗り換えを必要とし、押上 - 浅草間の路線延長を計画しました。東武鉄道が隅田川を越えて浅草花川戸地区への路線延長を計画すると京成側でも、これを計画して東武との競願になり、1928年9月に京成は自社に有利になるよう東京市議に働きかけ、不正資金供与発展した京成電車疑獄事件が発覚して、社長・専務ら会社幹部が逮捕される事態となり、結果的に浅草延伸は断念に追い込まれました。
その後、日暮里 - 筑波に鉄道敷設免許を有していた筑波高速度電気鉄道を東武鉄道との競合の末に1930年10月21日に吸収合併、その免許を利用する形で1931年12月19日に青砥 - 日暮里間、1933年12月10日に日暮里 - 上野(当時・上野公園)間を開業し、念願であった都心延伸を果たしました。
1927年8月21日に谷津支線開業。1928年4月7日には白鬚線(向島 - 白鬚間)を開業しました。白鬚橋を渡って三ノ輪橋で王子電気軌道(現在の都電荒川線)と結ぶ計画もありましたが、上野延伸と引き換えの形で1936年2月28日に廃止されました。
1927年8月21日には谷津支線(京成花輪 - 谷津遊園地間)を開業しましたが、後に谷津海岸駅(現・谷津駅)からの道路が開通したために1931年10月27日に休止、1934年6月22日に廃止されました。
1945年2月20日、全線を軌道法に基づく軌道から地方鉄道法に基づく鉄道に変更しました。
沿線の下総台地にあった陸軍施設が軍隊解散とともに民間施設に転用され、千葉・津田沼には鉄道連隊が設置され、演習線が津田沼を起点に千葉・松戸に延びていました。この演習線跡地に目を付けた京成電鉄は仮称・下総電鉄を設立して、連合軍総司令部 (GHQ)・運輸省への払い下げ交渉を開始しました。西武鉄道との激しい競合の末に1946年3月に転用許可を、8月には路線免許を獲得。10月には正式に新京成電鉄を創立して新線開業を押し進めることとなりました。
交通統制が緩んだこの時期に東京の電鉄各社は都心延伸の免許申請を行いました。しかし、電鉄各社や営団、東京都との利害が輻輳し、京成も1950年8月に押上 - 有楽町間の免許申請を行ったものの、1957年6月に運輸省の行政指導で「地下鉄網の建設・運営は『営団』『東京都』が担当」「各電鉄は地下鉄に相互乗り入れ運転」の方針が決定される。京成電鉄は京浜急行電鉄とともに東京都が担任する1号線(現・浅草線)に相互乗り入れすることとなり、京成 - 京急では軌間の違い(京成1372mm/京急1435mm)が最大の問題となりました。
京成・京急・都の3者での協議の結果、軌間は1435mmに決定。そのため、京成電鉄では全線を11工程13工区に分けて改軌工事を実施、運転を継続したまま1959年10月9日夜から12月1日朝までの50日間にわたって工事を行いました。同年2月には押上駅の地下移設工事に着工し、1960年11月30日に現在の新駅が営業開始、予定の12月1日より3日遅れの4日午後より1号線押上 - 浅草橋の開業によって初の郊外電車 - 地下鉄の相互乗り入れが行われることとなりました。
戦災にあった千葉市は、戦後都市復興計画により抜本的な区画整理が行われたが、この時に国鉄・京成電鉄の路線変更および両者の千葉駅の移転も行われることとなり、京成千葉駅(現・千葉中央駅)が現在地に移転(仮)開業したのは1958年2月10日でした。
1982/2/14 日暮里付近で国鉄線を撮影した際に偶然映り込んだ当時の京成電車
1970年代に入ると、1969年の営団(現:東京メトロ)東西線西船橋延伸や1972年の総武本線東京 - 津田沼間複々線(総武快速線)開業といった競合路線の新設や輸送力の増強によって旅客を奪われるようになり、交通事業での収益を上げることが難しくなり、収益源を兼業部門に求める傾向がますます強くなり、特に沿線を離れた東北・北海道での土地買収・開発を押し進めていきました。
ニュータウンの交通機関として新線建設を目的とした会社、北総開発鉄道(1972年。現:北総鉄道)、千葉急行電鉄(1973年。1998年解散、現京成千原線を経営)、遅れて東葉高速鉄道(1981年)が相次いで設立されました。さらに、成田空港へのアクセスを目指して1968年12月に新線免許を申請しました。しかし、運輸省と新東京国際空港公団が空港ターミナルビル地下への乗り入れを拒否し(当時予定されていた成田新幹線との兼ね合いもあった)。結局、第1・第2ターミナルビルの中間に駅を設置(空港通勤者の交通機関という位置付けとされた)することとなり、1970年11月に着工、突貫工事により1972年11月には建設工事を終了し、1973年2月には習熟運転も始まった。しかし、反対運動による開港の延期(さらには初代AE車への放火)で6年あまり営業できない期間が続いた。都心側でも、京成上野駅の改良工事が1973年6月から1976年7月まで行われ、さらにオイルショックに見舞われ、1977年度決算ではついに無配に転落。空港新線が開業できなかったことも一因としてあるが、とりわけ積極的な土地投資が裏目に出て、土地評価額の下落と金利負担が経営を圧迫、ついには累積赤字が1980年度上半期で133億円、1983年度下半期で281億円に達した。この時、京成線の廃止を検討されるに至りました。
初代スカイライナー 日暮里
1980年10月に経営再建計画を策定、25%に上る人員削減といった徹底した合理化と系列百貨店閉鎖などの兼業整理、谷津遊園跡地や津田沼の車両工場などの資産処分を次々と行い、同年3月には日本民営鉄道協会からも脱退(再建後の1990年4月に復帰)し、春闘の賃上げ交渉も独自に行うなど、なりふり構わぬ経営再建を図りました。このため、1980年代前半までは労働組合による単独のストライキが頻発することもありましたが、傘下のオリエンタルランドが東京ディズニーランドの招致に成功したことや、リストラ策が功を奏して経営が好転し、1988年度には単年度の経常利益を計上、1989年度上半期には累積赤字を解消。下半期には株式配当も復活し、ようやく経営危機からの復活を果たすこととなりました。
2010/2/7 AE100 成田空港
AE100 先日、引退した2代目 スカイライナー 2015/10/3 公津の杜
1980年代後半以降、成田空港のアクセスを巡っては開港後も駅の立地の悪さから離れた場所で苦戦を強いられ、投資が回収できない状態が続きました。しかし、高速道路の渋滞によりリムジンバスの遅延が慢性化するようになったため、1988年になって空港アクセス鉄道建設に対して真剣に検討が行われた。この結果、東日本旅客鉄道(JR東日本)と共同でのより空港に近い成田空港駅(旧来の成田空港駅は東成田駅に名称変更)への乗り入れ(1991年3月19日)が実現し、利便性が向上しました。
2002年10月27日には 芝山鉄道東成田 - 芝山千代田間が開業。東成田線との直通運転が開始されました。
2010年7月17日には成田スカイアクセス(成田空港線)が開業し、日暮里 - 空港第2ビル間を北総線経由で最速36分で結ぶことになり、成田空港へのアクセスの利便性がさらに向上しました。
2015/10/31 三代目 スカイライナー
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